`15 東書藝院人研修会

複 製 本 だ。 羲 之 出 現 以 来、 彼 は 常
で あ る。 研 修 局 の 尽 力 に 心 よ り 感 謝。 以
理事長の閉会の言葉まで中身の濃い内容
理 事 長 司 会 に よ る シ ン ポ ジ ウ ム、 松 浦 副
ら 風 岡 会 長、 豆 子 名 誉 会 長 の 講 話、 木 村
百 三 十 二 名。 久 野 副 会 長 の 開 会 の 言 葉 か
ー ス で 院 人 研 修 会 が 開 催 さ れ た。 参 加 者
、愛
平成二十七年二月十一日(水・祝)
知県芸術文化センター十二階アートスペ
また中国では郭沫若という人物が偽
ら れ て い る と い う 事 に な っ て い る。
て、唐の太宗の墓の中に一緒に埋め
物は何処にというとこの世には無く
る。ただ本物は一つも無い。では本
蘭亭斎」と名付けたという逸話もあ
は二百本も集め、自分の書斎を「二百
百本も存在した。呉雲という収集家
晋朝時代には少しずつ違うものが何
人が写したり臨書したりして広まり、
非常に有名で、色々な時代に色々な
ないであろう。これは唐の太宗以来
も蘭亭序を臨書した事がない人はい
小楷では樂毅論、黄庭経など。中で
神龍本とか沢山ある。またいわゆる
十 七 帖、 行 書 の 蘭 亭 序 に は 定 武 本、
先述の通り羲之の書の本物は一つ
も 無 い わ け だ が、 尺 牘 な ら 草 書 の
のだが、ただ、あれほど好んだ太宗
きちんと形が決まっている]と言う
蟠るように、傾いているかに見えて
てもまた連なり、鳳が羽ばたき龍が
結ぶように、切れかかるように見え
て い た か と い う と、[ 龍 が 飛 び 露 が
という。太宗がどういう処に感銘し
本にするのは羲之唯ひとりである]
ても尽きる事はない。心にしたい手
者はなく、その味わいはいくら眺め
とにかく王羲之ほど(尽善尽美)の
書」の中で、[古今の書をみていると、
の 書 が も て は や さ れ た。 自 ら「 晋
好むという様に初唐の時代は羲之
宗は羲之の崇拝者。上が好めば下も
羲之の名声が不動のものとなった
のは、唐の太宗の功績が大きい。太
生かしたかをみていきたい。
彼の書のどういう所を自分達の書に
人物から代表的な者達を取りあげて、
に書の目標として在り続けるのだ
作説を出して世を驚かせた。これは
東書藝院人研修会
下講話、シンポジウムの要約を記す。
が、五十八年の一生であったらしい
書法上・文章上両面から問題点を指
も堪能したわけだが、王羲之の作品
り、中々観られない貴重な作品に私
京国立博物館で大きな展覧会があ
たかがメインになる。二年程前、東
こをどう把えて自分の書作に生かし
今日はあまり王羲之の事を多く語
るのでなく、書人たちが彼の書のど
である。
句なら俳聖、将棋・碁なら棋聖とか
の道の最高の所まで到達した人。俳
が れ る の だ が、「 聖 」 と い う の は そ
書の世界では常に「書聖」として仰
名門貴族でその出身である。羲之は
名 門 中 の 名 門。「 謝 」 姓 と 共 に 二 大
一族は多いが、東晋時代に活躍した
治 の 中 枢 に い た と い え る。「 王 」 姓
いなかったようだ。しかし東晋の政
がするが、実際将軍らしい事はして
た歴史の中で、羲之の書を能くした
んでいくのである。今日はそういっ
という様に、伝統と革新が交互に進
き詰まってくると又羲之の書に戻る
が生まれ、そして革新的なものも行
き足らなくなって所謂革新的なもの
いう一つの方向性と、段々それに飽
を最高として伝統的な書を学ぼうと
書道の流れを見ていくと常に王羲之
にしても色々問題もあるが、中国の
摘して贋作でないかとしたもの。何
でなく羲之風の形も多くみられる時
孫過庭。孫の生きた時代は骨力だけ
という事だ。それから書譜で有名な
りになりたいとは思っていなかった
ら羲之崇拝の太宗でも、羲之そっく
ば形勢は自然に生まれてくる。だか
で、そこに注目して取組み会得すれ
ないのだ。一番肝心なのは書の骨力
は古典を臨書する時には形勢は真似
羲之の書とは一見似ていない。太宗
で も「 晋 祠 銘 」「 温 泉 銘 」 な ど 実 は
◇風岡会長「書人たちは王羲之をどう把えたか」
た右将軍という官位で勇ましい感じ
(三〇三~三六一・異説もある)。ま
'15 
に実は本物は一つもない。全て所謂
(3)
また外れても構わない。本質を捉え
地で書けば羲之の書法を超え、忘れ、
忘懐楷則。
)と述べ、
[心技一体の境
い様で、
「書譜」の中で(無間心手。
安心していたかというとそうでもな
われても仕方ないが、本人はそれで
かにいかにも似ていてそっくりと言
認めている。そして孫自身の字も確
ながらよく調和している]と価値を
羲之の書は正にそれで、色々変化し
な調和の世界を造っているわけだが、
然は千変万化しながらも一つの大き
れ て お り、 孫 は そ の 書 を 観 て、
[自
之は楷・行・草各体何を書いても優
子の王献之であるとする。中でも羲
ると漢の張芝、魏の鍾繇、羲之と息
客観的で、当時の古今の名人を挙げ
代であった。彼は太宗よりも観方が
技巧的には本当に上手い。人気がな
がないが、その書は職人的というか
ない。趙孟頫の書は最近あまり人気
まま受け入れたかというとそうでも
で定評があるが、自身もそれをその
ある。彼も羲之の書を能くしたこと
次に元の趙孟頫。趙という姓は宋
末期・元に活躍、名家秦室の末裔で
精神とも言えるかもしれない。
え方。つまりそれが米芾自身の書の
いう視点が最も大事であるという考
り気迫のこもった姿のものが良いと
ばでなく自然に出来上がり、ゆった
書の精神とは難しいが、こう書かね
の裡に古人の精神的なものを見出す。
るのみでなく、それを乗り越えてそ
い換えると古人の書の影を追い求め
てそこに俗が無い処が良い]と。言
為的でなく、変化の妙を尽くしてい
ている。要するに[さっぱりして作
に は「 平 淡 天 成 」「 天 真 自 然 」 と し
た。そして羲之の何処に惹かれるか
凄く後に段々独自の書が出来ていっ
ていた。しかし書に対する執着力は
して作り上げたので集古字と評され
彼の書は古今の名書のいい処を総合
少しとんで宋の時代。米芾はテク
ニシャンで書の技術を究めた人だが、
がみえるのである。
るが王羲之を乗り越えようとの意識
なくても良い]とし、消極的ではあ
は共通で定評があるのだが。
論二人とも王羲之の書を能くした事
る点でも趙より優れる]という。勿
分は生で、また奇を以て正としてい
点で趙はすばらしいが生がない。自
熟( 練 習・ 推 敲 を 重 ね た )。 熟 す る
また[自身の書は生(卒意)で趙は
ま に せ ず 全 体 を ま と め て い る ] と。
之は奇を以て正となし変化をそのま
奇(変わっている)がない。だが羲
は正(きちっとしている)ばかりで
彼 は 趙 孟 頫 の 書 を 評 し て、[ 趙 の 書
そ の 論 の 要 点 は、 正・ 奇・ 生・ 熟。
董其昌は明末第一級の文人。書に
も論にも卓越したものを残している。
ったのであろう。
こに自身の美意識を込めて書いてい
したかった。羲之を認めながらもそ
さを認めながらも更に整えて整斉に
孟頫は、王羲之蘭亭の不安定の美し
の品格も大切と説いている。ただ趙
故に書は神品にいる]として、人物
る]と。加えて[右軍は人品甚だ高し。
で変わり得るが用筆は千古不易であ
即ち用筆が第一で形は次。形は時代
であり、書法は用筆を以て上となす。
論だが用筆の心を知る事がまず大事
は古人の法帖をよく玩味し、形も勿
彼 は「 蘭 亭 十 三 跋 」 の 中 で、[ 学 書
的で、作品的なにおいが薄いからか。
いのはあまり綺麗に整い過ぎて習字
んでいくのが良いと思うのである。
自らに当てはめて考え、深く取り組
法と言えないが、先人たちの足跡を
様な手立てが良いかは一概にこの方
我々も古典を学ぶ上について、どの
之 に 迫 ろ う と 悪 戦 苦 闘 し た ら し い。
頫・ 董 其 昌 ら を 学 ぶ 事 を 通 し て 羲
ので、比較的時代の近い米芾・趙孟
時代も離れ過ぎていてよく解らない
書家達は、王羲之の書は肉筆も無く
学ぶ気運が高まったが、その時代の
動力となるであろう。江戸時代、日
ら自分のものをつくり上げていく原
方を心掛けている事が、古典の中か
きなりは解らぬが、常にそういう見
性を高めていく一つの核になる。い
と考えるか。それが自身の書の独自
に一番感銘を受け、何が最も大事だ
は着眼点が肝心である。自分がどこ
れたということだ。古典を学ぶ時に
じ軸としながらも独自の書がつくら
ずつ違っていて、だから王羲之を同
どこかについて、眼の付け所が少し
ない。それぞれ羲之の書の良い処は
っくり真似ようとした者は殆んどい
まとめてみると、どの書人達も王
羲之の書を最高と認めているが、そ
要
約
者
・
加
藤
松
亭
(ホームページ掲載予定)
本では和様から再び中国様式の書を
れば必ずしもそのままの姿を再現し
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