日本の工業化に対する一考察 -新しい研究動向をふまえて-

【研究論文】
日本の工業化に対する一考察 -新しい研究動向をふまえて-
A Study on Japanese Industrialization
-New Developments in the Research-
吉
田
一
郎
Ichiro YOSHIDA
幕末から明治初年の経済発展は、論者によっては、悲観的に捉えるものも多い。かつての学説は
マルクス主義に影響を受けて日本の後進性を強調するものが主流であった。また、厳マニュ論争に
代表されるように膨大な研究史が存在し、そのため実証研究も多い。これらもマルクス主義の理論
に依拠している。しかし、この時期は工業化の成功と考える方が妥当であると思われる。それ故、
古典的ではあるが、経済発展の理論を体系的にまとめ「イノベーション」という造語を生み出し今
日でも経済学に影響を与えているジョセフ・シュンペーターの学説1を参考にしてみていくことにし
たい。
1.シュンペーターの経済発展理論は日本の工業化に適用できるか?
ジョセフ・シュンペーターは、生産するということは物や力を結合することであるとしたうえで、
生産物および生産方法の変更とは、これらの物や力の結合を変更することであるとし「新結合」の
概念を考え出した。そして「発展の形態と内容は新結合の遂行という定義によって与えられる」と
述べている。
シュンペーターは、周知の5つの場合を新結合による発展の形態に含まれるとしている。
1 新しい財化、すなわち消費者の間でまだ知られていない財化、あるいは新しい品質の財貨の生産。
2 新しい生産方法、すなわち当該産業分門において実際上未知な生産方法の導入。これはけっし
て科学的に新しい発見に基づく必要はなく、また商品の商業的取扱いに関する新しい方法も含ん
でいる。
3 新しい販路の開拓、すなわち当該国の当該産業部門が従来参加していなかった市場の開拓。た
だしこの市場が既存のものであるかどうかは問わない。
4 原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得。この場合においても、この供給源が既存のもので
あるか―単に見逃されていたのか、その獲得が不可能とみなされていたのかを問わず―あるいは
始めて作りださねばならないかを問わない。
5 新しい組織の出現、すなわち独占的地位(たとえばトラスト化による)の形成あるいは独占の
打破。2
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これらがイノベーション(新機軸)の例として挙げられている。ここでは、新機軸による「好況」
とそれが追随者によって新製品や新生産方式が普及することにより、商品価格が低下し、革新的企
業が得ていた超過利潤が消滅していくことによって「不況」が起きるとする経済循環論を展開した
ことが知られているが、ここでは、発展の局面にのみ注目していことにしよう。
幕末から明治前期にかけては、このようにシュンペーターが述べた、新機軸が現れた事が近年の
研究3でも明らかになってきたが、簡単ではあるが、こうした研究を手掛かりにしてシュンペーター
が述べるようなイノベーションが現れているかに注目していきたい。
①「新しい財貨」すなわち新商品は、毛織物や絹綿交織物といった多様な製品の出現をここでは、
挙げることができる。毛織物は、この時期はまだ日本で生産できないので輸入製品である。また、
絹綿交織に用いられている綿糸もまた、輸入綿糸である。これらは、既存の製品に輸入品を取り入
れることによって生産された。つまり、輸入した原料を用いることによって生産された新製品であり、
幕末の開港がなければこうした製品は生み出されなかったのである。また、田村均氏は以下のよう
に指摘している「輸入毛織物の流行下で、女物を中心とする新製品を市場投入する生産戦略に着手
した産地は、西陣および桐生・足利にくわえ、入間・北足立であった。絹物で有名な八王子や米沢、
そして筑前博多などの各産地は男物中心のため製品多様化がすすまず、また綿織物産地として有力
な尾西も類似製品が多く絹綿交織化への対応も緩慢であった。なかでも西陣および桐生・足利の三
産地は、低価格の絹織物や多種類の絹綿織物からなる新製品を積極的に市場投入し、明治初年代に
かけて製品構成の多様化を推しすすめていた4」。
②「新しい生産方法」は、洋糸の導入や化学染料の使用5などを考えるべきである。いわゆる「産
業革命」が始まることで機械による生産力があがることは自明の事実ではあるが、これまでの研究
史はこのことを強調しすぎた感がある。洋糸を用いることは、価格の低廉化を目指したのではなく、
付加価値をつけたことであるとの田村均氏の主張6はこれまでの研究史の誤りを指摘したものである。
また、同様に化学染料の使用もこれまでの通説では安価な染料を用いることで価格の低廉化を目指
したと考えられてきたが、これもまた誤りであると言えよう。
染色家、吉岡幸雄氏7の動物性の繊維︵絹、毛織物︶とは異なり植物性繊維の︵木綿、麻︶は天然染料
では、明るい色に染めにくいため、明るい色に着色するには、化学染料を用いなければならないと
する指摘はこれまでの歴史家が気づいていなかった誤りを訂正したものである。機械で製造された
均一的な洋糸を用いたり、木綿のような植物繊維を鮮やかに染色することができるようになること
にも生産方法の改良があったと見做すことができる。
③「新しい販路の開拓」は、この時期に国内市場が拡大したことが谷本雅之氏8によって実証的な
事例が紹介されている。講座派が説くように地主制度の下で国内市場が狭隘なため海外市場を求め
たとする説に対して、谷本氏の理解は、それを反駁する実証的な研究である。幕末から明治前期に
かけては全国的な統計で推定することは史料の制約上困難である。このため経営史料を駆使しこの
時期の国内市場の拡大を主張した谷本氏の功績は大きい。谷本氏は、埼玉入間の細渕家の経営史料
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日本の工業化に対する一考察 -新しい研究動向をふまえて-
を分析し販路が川越などの近郊の商人から八王子の商人に移りゆく過程を明らかにしている9。また、
洋糸を扱う引取商の実態を明らかにもしている。この時代は、新しい販路の開拓がおこなわれていっ
たみなすことができる。
また、販路とともに、流通・生産構造についての開拓が、谷本氏に産地間の優劣を決定してきた
ことが指摘されている。新川地方は、入間地方に関しては、八王子→新興集散地問屋への流通ルー
トの形成そのものが、有力生産地域の地位を築く要因となっていったことが明らか10にされた。新
川木綿は、輸入綿糸の導入が進まなかったことも指摘されているが、販路に関しては、新川地方の
場合は、松本、富岡への出荷が一貫して中心であり、そこには1880年代に至るまで、ほとんど変化
が見られなかった11。つまり、「新しい販路」の開拓ができなかったのである。それに対して、和泉
木綿は、集散地大坂に堺を超えて直接つながり、京都やその他の地域へも販路を有した12のである。
また、新川地方や和泉地方は、輸入綿糸導入の差異が明暗を分けたとも指摘している13。先に述べた
ように洋糸の導入は新製品の開発にもつながっている。断片的に洋糸を導入した新製品の開発がわかっ
てはきている14が、こうした成功していった産地がどのような製品を製作していったのかも明らかに
していく必要がある。洋糸を利用した産地が生き残り発展していったことは事実であるが、しかし
通説的な理解によると洋糸を利用することによって価格を低廉化させていったことになるが、事実
は反対で3割ほど価格を上げることが可能に15なったのである。製品に付加価値が付いたのである。
洋糸導入は、付加価値を付けたり新製品を開発したりすることに繋がったため洋糸の導入が容易に
行われた産地が生き残っていったのではないかと推測することもできる。
④「原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得」は、これまでの通説では、日本は後進国である
ので原料を供給し完成品を輸入していたと通説では考えられてきた。しかし、内外綿布の国際的な
競合性などに対して品質差を重視した川勝平太氏の見解16が出され内外綿布は競合関係が希薄であっ
たことが明らかになった。幕末の開港は、完成品である毛織物や綿織物(金巾)が輸入されていたと
するのが通説であったが、毛織物は先に述べたように和装化に利用され17ている。つまり、完成品で
はなく半完成品なのである。また、金巾も襦袢や足袋などに使用されることもあったが、袖口や襟
などに使用されていたことがこれも田村氏よって見つけ出されて18いることから、半完成品である。
我が国は、毛織物や金巾を原料として市場に喜ばれる新しい製品を製造していたのである。
また、洋糸もまた、桐生や足利といった両毛織物地帯で利用され、新製品として東京の市場に出回っ
ている。両毛織物地帯も研究史の積み重ねがあるが、新製品に利用されるため洋糸が使用されたと
する見解19は田村氏が初めてである。これもまた、半完成品であるといえよう。
我が国は、半完成品の供給地である欧米先進国から洋糸や金巾を輸入したと考えることができる。
⑤「新しい組織の出現」は、明治維新そのものが新しい組織を生み出したとみなすこともできる。
しかし、藩によって独占的な権限を与えれた株仲間が明治維新によって藩そのものが消滅したこと
と自由な商いが奨励されたことによって消滅する。それに代わるものとして、化学的知識が必要と
される化学染料の使用が盛んに行われ、まだ知識が未熟であったため粗製濫造が多発20したり、産地
としてブランドなどを守ることの必要性から同業者組合が多く結成されたのも新しい組織であると
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いえよう。これらは、近代的な組織であり、明らかに株仲間とは異なる組織形態である。
また、谷本氏が主張21するように問屋制家内工業を日本特有な家族的経営形態とする捉え方も独占
の打破による新組織の出現を主張するシュンペーターの捉え方とは異なるが、新しい組織形態が出
現したと考えることができる。谷本氏の主張は、膨大な研究史を積み重ねたマニュファクチャア論
争とは、視点を変えた議論であり、実証研究が多い織物業の家内的な発展をよく説明した学説であ
るといえよう。
シュンペーターが唱えたイノベーションは、まさに実現したからこそ日本の織物業は多いに発展
し成長していったのである。概略的に述べてみたがシュンペーターが主張している5つの場合がす
べて上げることができるのである。つまり、経済成長がおこなわれる条件がそろっていたのである。
このことは、日本の工業化について考えていく手掛りになるのではないかと思う。「なぜ、日本がア
ジアにおける最初の工業国家になりえたのか?」を考えた場合、むしろ必然性な要件をそなえてい
たためと考えることができるのではないかと思う。
しかし、日本の織物業の発展は、自動車産業や鉄道業などにみられるようなリーダーシップあるいは、
渋沢栄一や五代友厚のような産業を推進させるような人物も存在しなかった。つまり、特定の企業家(ア
ントレプレナー)の出現は余り見られない。多数の無名の人々の努力の結果、大きな成果が達成され、
市場が求める新製品が供給されたと考えることができる。こうした無名な人々は、企業家でありア
ントレプレナーであり、在来産業の発展に大きく寄与したといえる。
また、シュンペーターは、銀行の信用創造には銀行システムが必要とされるが、この時代はほと
んど外資を導入しないで工業化した時代でもある。日清戦争後までは、我が国は極度に外資の導入
をおこなわなかった。石井寛治氏が近年指摘22しているように江戸時代からの前近代の金融機関であっ
た両替商の役割も見直すべきであり、国内の資本に頼りながら工業化の道を取ったのである。
2.アジア間競争とアジアの中での日本の工業化
アジアの中での工業化を考えていく23ことが日本の工業化を考えていく前提となると考えられる。
先にも述べたようにこの時期の我が国は、欧米先進国から半完成品や原料などを得て完成品を製造
しているのである。アジアの中での工業化について考えて行かなければこの時期の工業化について
は理解できないであろう。杉原薫氏24は19世紀末から20世紀初頭にかけてインドがイギリスに大量の
送金︵資本輸出︶をしていたことに注目した。氏は、どうしてインドがイギリスに対して多額の貿易
赤字を支払い続けることが可能であったのかを検討した。インドが綿業を中心として他のアジア諸
国より外貨を得ていることを見つけ出し、これがイギリス︵当時は、インドはイギリスの植民地であ
るのでイギリス本国︶に対して送金をすることが可能であったと主張した。アジア間貿易は、同時代
の欧米先進国経済に従属的であるとされるラテンアメリカとは異なり独立性をもっていた。日本は
このインドの地位を奪い、綿業において優位性を持つことになる。
アジアの物産は、江戸時代より輸入され25ていた。1580年代にポルトガルがアジア貿易で一番利益
をあげることができたのが、長崎との貿易であったとされている。インドのゴアからマカオを経て
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日本の工業化に対する一考察 -新しい研究動向をふまえて-
長崎に至る貿易の利益が3万5千クルザード26と膨大であった。日本はこのころは、鉱山の開発が進
み膨大な貴金属が発見されたためである。かつてマルコ・ポーロ(1254~1324)が著した『東方見
聞録』27「黄金の国ジパング」(マルコ・ポーロは実際に日本には来ていないので、伝聞である)は、
時期的にはありえない。それどころか、日本は中国から銅銭を輸入していたのである。周知のよう
に大量の銅銭が宋代、明代の中国から日本に流入していたのである。こうした銭貨を国内で生産す
るようになるのは、統一政権が成立した江戸時代に入ってからである。ポルトガル人は、1543年に
種子島に漂流したことが知られているが、当初は、日本の市場は、さほど魅力的でなかったため、
キリスト教の布教活動の方が重視された。佐渡の金山は、17世紀に入ってから発見されるので、16
世紀の末には日本で産出される銀などの貴金属は大変な魅力があった。
4隻のオランダ船が東アジアに向けて出発するのは、1595年であり、喜望峰を超えてジャワ島に
到達したオランダ船は、3隻(4隻の内1隻は、多くの船員が途中で亡くなったため、1隻を捨て
たため、240人で出発し帰ってきたのは、87名であった)が、2年後の1597年にアムステルダムへ戻っ
た28。これによりオランダは、ポルトガル人の手を借りなくとも自力でアジアへ行くことが可能になっ
た。スペイン王と同君連合となったポルトガルは政治的にも敵であった。オランダ船のアジアへの
進出は加速していった。日本は、佐渡金山が発見されたことによって益々多くの貴金属が算出され
ることになる。
1579年にイエズス会は、年間50ピコの生糸を日本交易に投じる権利を得る契約をマカオ市と結ん
だ29。このためカピタン・モール船にはイエズス会用に50ピコの生糸が積み込まれた30。これ以前か
ら宣教師は個人的には貿易に関与していたが、イエズス会が組織的に貿易に関与してしまった(近
年ポルトガルの史料を積極的利用し研究を進めている岡美穂子氏31によって明らかになってきた)。
禁教令(1612年、全国に布告するのは翌年)とその直後、1614年、宣教師が追放された。高瀬弘一
郎氏の研究で1590年代後半から追放されるまでのイエズス会の貿易収入は、おおよそ12,000~16,000
クルザード32と膨大であったことが知られている。ポルトガルは、幕府によるキリスト教の禁教後も
密航する宣教師との関係を持ち続けた。近郊のマカオに拠点を持ちながらキリスト教徒の布教活動
に精力を傾け宣教師との関係を断ち切ることができなかったポルトガルは、日本の為政者に結局は、
島原の乱(1637~38年)後に追放されることになる。永積洋子氏33によってポルトガルの追放に対し
ても幕閣は、よく考量した上で乱終結の翌年1639年にポルトガルを追放している。オランダ人がポ
ルトガルに代わり中国から生糸を日本にもたらすことができることを確かめてから追放したのであ
る。まさに、ゴールド・ダッシュの最中の日本市場へ参入してきたオランダとは対照的な行動を行っ
たためである。
ポルトガルもオランダも日本との交易は、中国産の生糸と陶器であるが、陶器については早々と
国産化が進んでいったため、江戸時代前期は、ほぼ中国産の生糸と日本の銀との交換がおこなわれ
ていたと考えることができる。ポルトガルもオランダもこの中継ぎ貿易に参加したのである。つまり、
当時のヨーロッパ人は、ヨーロッパの物産ではなく、アジアの物産を日本市場にもたらしたのである。
幕末の開港後文明国家と羨望された欧米列強とは異なり、これらの国は、江戸時代当初はアジアの
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物産の中継ぎ貿易をおこなっていた。江戸時代の初期と幕末ではヨーロッパ諸国と我が国との関わ
りは全くことなるものであると考えなければならない。
いわゆる「鎖国」時代でも交易は、頻繁におこなわれていたし、田代和生氏34が対馬=朝鮮貿易を
解明したように対馬からも膨大な日本銀が朝鮮に流入していた。しかし、「鎖国」をおこなっていた
ことは、海外への日本人の渡航を禁止し、外国人と日本人との接触に制限をもうけてきた。釜山にあっ
た和館のように1,000人近い日本人が朝鮮に滞在していた35例外もあるが、日本人と外国人との接触
は長崎の一部など以外はほとんど存在しなくなった。これは、技術の伝播を遅らせることになった。
このことについて若干みていくことにしよう。
幕末の開港で輸入品の大宗になるのは、「綿織物」と「砂糖」である。
「綿織物」については、インドからの更紗を模倣することが江戸時代では、不可能であった36。木
綿は先に述べたように天然染料ではあまりよく染まらなかった。我が国では、藍染の技術が進み青
色は、かなりよく出すことができた37が、赤色などは鮮明に出すことができず38、舶来の更紗のよう
な製品を作り出すことはできなかった39。双タ子縞のような製品が明治10年前後に完成する40。これ
は、化学染料と洋糸を用いて製造したものである。日本は漸くアジア間競争に打ち勝つことのでき
る実力をつけたのである。江戸時代には輸入しなければできなかった物産を国産化に成功したのは、
このような製品を国内で生産することができるようになったことは、日本経済にとって大きな局面
を迎えたことと言うことができるのではないかと考えられる。先に述べたように杉原薫氏が主張41す
るアジア間競争でのインディアン・セントリック(Indian Centric)からジャパニーズ・セントリッ
ク(Japanese Centric)への移行もこのように輸入していたアジアの物産を日本国内で製造できる
ようになるほど技術力がついたことにより可能になったのではないかと考えることができると思う。
紡績部門を中心として工業化の成功を重視したこれまでの研究、いわゆる通説とは違った視点で考
えていくことにもなると思う。
また、技術の移転は江戸時代には書物を通さなければならなく、人的交流によって学ぶことがで
きなかったため相対的に遅れてしまった実例がこの更紗のようなものが製造できなかったことも挙
げられるが、
「糖業」においても明らかでありクリスチャン・ダニエル氏42のすぐれた研究が存在する。
以下氏の研究よりみていくことにしたい。
ダニエル氏は、製糖技術を取り上げる理由として以下の理由を挙げている。
①砂糖は17世紀から19世紀の間のアジア域内貿易に於いて主要な農作物商品であった。
②同時期、
アジア域内諸国で開始・発達した砂糖生産の技術が中国から移転される経路が確認し得る。
③中国の先進技術によって開始された製糖業はプランテーション・システムの前身であり、近代
の連続性を有している43。
「糖業」は、
「生糸」のように技術移転の経路があまり確認できない産業と異なり史料的に確認で
きる産業である。中国より琉球を経て道之島へ伝わり日本へ伝播されたのであろうとダニエル氏は
推定している。琉球では、17世紀の前半より福建省などに人を派遣して製糖技術を学ばせている。
1663年には武富重隣を派遣して白糖技術を習得させていることをダニエル氏は述べている44。しかし、
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日本の工業化に対する一考察 -新しい研究動向をふまえて-
日本では、移転から各藩での砂糖技術が本格的に開始するまでに約70年かかったとされ、中国から
他のアジア域内諸国への移転の場合と比較すれば、その遅れの原因は鎖国政策で日本の職人が中国
の職人から直接伝承されることが許可されなかったためであるとダニエル氏は主張している。
また、生糸も中国産の白糸を市場から駆使し、国産の和糸に代替するのにかなりの期間がかかっ
た。17世紀の初頭は、豊富な貴金属の存在したため中国からの生糸を大量に買い付けることができた。
18世紀初頭頃から日本の技術は相対的に高くなったと推定されている45。19世紀に入ると日本の養蚕
技術の高さは、かなりのレベルまで達している。上垣守国の『養蚕秘録』46(1802年)のようにフラ
ンス語に翻訳された良書も出現したほどである。また、この書では標準飼育日数が40日と記載され
ており、1世紀前よりも10日ほど標準飼育日数も短縮されて47おり、養蚕技術も進歩していることが
推定できる。19世紀の半ばの開港により、「絹糸」は、日本の輸出品の大宗となり、戦前期日本経済
を支える輸出産業になっている。江戸時代に輸入代替化に成功した格好の事例ではあるが、中国産
の白糸から和糸への代替にかなりの時間がかかっている48鎖国により人的交流がないために技術移転
に時間をかけた事例である。
「茶」は、日本では発酵しない生茶が飲まれていたため移植や栽培を行なわなければならないが、
技術的な問題は、それよりも19世紀末欧米に輸入された時に生じた。外国に輸出するには中国商人
の技術を借りなければならなかったことが知られている。中国商人が取り仕切り49加工することによっ
て輸出が可能になったので欧米では、発酵あるいは半発酵されない生茶のままでは、輸出されなくなっ
た。また、日本では茶は発酵されないものが喫茶されたためであろう。鎖国により交流がなかったので、
緑茶(発酵されない茶)を飲む習慣が日本では根付いたのかも知れない。
人的な交流がなかったために技術移転がおこなわれ難かったことは事実として挙げられるが江戸
時代において初期に膨大に流出した貴金属の代価として得ていたものを自国内で生産することに成
功していったのである。これが成功していったことが近代に入ってからのアジア間競争に勝ち得る
要因となったのではないかと思う。生糸においては18世紀前半ぐらいに技術が上昇していき、19世
紀にはいるころには、すでにアジアでも一流な技術を持つことができた。通説は、欧米との関係の
みで日本の技術を考察するむきがあるが、欧米との関係がきわめて深かった物産は、川勝平太氏が
指摘50したようにもともとはアジアの物産であったものがヨーロッパに伝播されたものである。それ
ゆえ、アジアの物産との競合関係を見なければならないだろう。
江戸時代は、人的交流が制限されたため技術の伝播などは、緩慢におこなわれたこともあったが
貿易は大いに行われていたのであり、我が国からは大量の貴金属が流出してしまったのである。こ
れを輸入代替化に成功したことが我が国をアジア間競争に対して有利にさせた要因であった。先に
述べたように輸入品である高級綿織物である更紗に近い製品を我が国で作れるようになったのは、
いつ頃かというと、田村均氏の研究によるとだいたい明治10年頃と推定51される。つまり、このころ
に我が国はアジアの製品を完全に輸入代替化に成功したといえる。つまり、アジアの先進国の製品
を完全に自国で生産することが可能になったのである。アジアの中での我が国の工業化は、アジア
の製品を輸入代替化に成功することによって次の局面へと進んでいったのである。
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また、金巾の我が国への流入に関しても中国商人も関係している。多く英国製の金巾が上海から
の再輸出品であることが古田和子氏52によって明らかになった。金巾という英国製の綿布をアジア
の商人が運んできていることも指摘されている。籠谷直人氏53の研究でも中国商人によるネットワー
クの存在が古田氏同様に指摘されている。アジア域内での貿易網の存在を抜きにして議論すること
は不可能である。1859年の安政の開港で貿易を再開しアジア間貿易に参入した我が国には中国商人
やインド商人といった強力なライバルが存在していたことが籠谷氏によって明らかになったのである。
明治維新による我が国が、めざした近代化は、こうした中国商人やインド商人に打ち勝つことであっ
たと考えなければならない史観が存在するのである。アジア史的な位置づけで我が国の工業化を捉
えなおす視点を持たなければならない。19世紀に非欧米諸国で唯一の工業化に成功した我が国はか
なり特別なケースとして考えられてきた。日本の工業化は例外的であり、理論的に説明することが
やや困難であったが、マルクス主義でなく新しい理論で解明していくことによって日本の工業化は、
特殊の例外ではなく、日本の経験は一つの工業化モデルとして提示していくことができるのではな
いかと思う。
注
1 シュムペーター、塩野谷祐一・中山伊知郎・東畑精一郎訳『経済発展の理論』(上)、(下)、岩波書店、1977年などを参照。
なお、本文では、シュンペーター(Joseph A. Schumpeter)と表記した。
2 同前 『経済発展の理論』(上)182-183頁。
3 田村均『ファッションの社会経済史』
、日本経済評論社、2008年を参照。以下、
「新しい商品」については、田村氏のこ
の書を参考にした。
4 同前 48頁。
5 同前 133-134頁。
6 同前 133頁。
7 吉岡幸雄「藍と茜」
、
『別冊太陽 骨董を楽しむ12 木綿と古裂』
、1996年。
8 谷本雅之『日本における在来的経済発展と織物業』
、名古屋大学出版会、1998年に纏められているが、氏は、経営史料を
用いてこの時期に細渕家が発展していることを実証した(
「幕末・明治前期綿織物業の展開」
『
、社会経済史学』52-2、
1986年)
また、国内市場の拡大していることを主張している(
「幕末・明治前期綿織物業の展開」
、
『土地制度史学』115号、1986年)
。
9 谷本 前掲 「幕末・明治前期綿織物業の展開」を参照。
10 谷本 前掲 『日本における在来的経済発展と織物業』247頁
12 同前 247頁。
13 同前 246-7頁。
11 大川一司、篠原三代平、梅村又次監修『長期経済統計』
、東洋経済新報社、1965年~1988年。また、
『長期経済統計』を
用いた初期の研究であるが、中村隆英『戦前期日本経済成長の分析』
、1971年、岩波書店は戦前の日本経済がそれまで考
えられていたよりも高い水準にあることを実証しその後の研究に多大な影響を与えた。
12 橋野、前掲、
「織物業における明治期『粗製濫造』問題の実態」
13 吉岡幸雄「藍と茜」
、
『別冊太陽 骨董を楽しむ12 木綿と古裂』
、1996年。以下、本稿では、吉岡氏の主張に従った。
14 田村 前掲 『ファッションの社会経済史』
、74-131頁を参照。
15 同前 同前 133頁。
16 川勝平太『日本文明と近代西洋』
、日本放送協会、1991年、62-94頁。
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日本の工業化に対する一考察 -新しい研究動向をふまえて-
17 田村 前掲 『ファッションの経済史』213-298頁。
18 同前 256-262頁。
19 同前 74-131頁。
20 こうした粗製濫造の問題とそれへの対応の立場に立った研究として橋野知子氏の研究がある。化学染料の知識を習得さ
せるために工業高校が設立されたと橋野氏は主張している(橋野知子『経済発展と産地・市場・制度』
、ミネルヴァ書房、
2007年)
。また、橋野氏は、開発経済を視野に入れて同書を展開している。
21 谷本、前掲、
『日本における在来的経済発展と織物業』の「第Ⅱ部 生産の組織化と家族経済 -「問屋制家内工業」の
理論と構造-」を参照。
22 石井寛治『経済発展と両替商金融』
、有斐閣、2007年を参照。
23 浜下武志、川勝平太『アジア交易圏と日本工業化1500-1900』(新版)、藤原書店、2001年や川勝平太編『アジア太平洋経
済圏史1500-2000』
、藤原書店、2003年などがこうした考え方に立っている。
24 杉原薫『アジア間貿易の形成と構造』
、ミネルヴァ書房、1996年、1-5頁。なお、杉原薫氏は、やや古典的となったが、
19世紀から20世紀にかけたイギリスの世界貿易を研究したS.B.ソウル氏の研究(ソウル、堀晋作 西村閑静也訳『世界
貿易の構造とイギリス経済』
、1974年、法政大学出版局とS.B.ソウル、久保田英夫訳『イギリス海外貿易の研究』
、文
眞堂、1980年の2訳が存在するが両書ともS.B.Saul, Studies in British Overseas Trade 1870-1914. Liverpool University
Press,1960を原書とする)に依拠しながらアジア間貿易という概念を構築した。
25 羽田正『東インド会社とアジアの海』
、講談社、2007年、61頁。以下、羽田氏のこの書物を参考にした。
26 同前 61頁。
27 マルコ・ポーロ 月村辰雄、久保田勝一訳『東方見聞録』
、岩波書店、2012年。
28 羽田正『東インド会社とアジアの海』
、講談社、2007年、74-7頁。
29 岡美穂子『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』
、東京大学出版会、2010年、217頁。
30 同前 94頁。
31 岡美穂子氏は、前掲書(
『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』
)で、ポルトガルの史料などを用いて研究を纏めている。帝
国主義的な理解とは反する解釈もしている。労作であると同時に新しい考え方に立った研究である。
32 高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』
、岩波書店、1977年、610頁。
33 永積洋子『近世初期の外交』
、創文社、1990年、173-6頁。
34 田代和生氏の研究は、田代和生『近世日朝通行貿易史の研究』
、創文社、1981年に纏められている。
35 田代和生『倭館』
、文藝春秋、2002年、47-88頁。
36 小笠原小枝「輸入反物が語るインド更紗の盛衰」
、永積洋子編『
「鎖国」を見直す』
、山川出版、1999年147-153頁。
37 吉岡幸雄 前掲 「藍と茜」
、34頁。
38 同前 35頁。
39 同前 34頁。
40 田村均 前掲 『ファッションの社会経済史』
、110-115頁。
41 杉原薫 前掲 『アジア間貿易の形成と構造』
42 クリスチャン・ダニエル「17、8世紀東・東南アジア域内貿易と生産技術移転-製糖技術を例として」
、前掲 『アジア交
易圏と日本の工業化1500-1900』
43 93頁。
44 96,98頁。
45 永原慶二、山口啓二編『講座・日本技術の社会史 3紡織』
、工藤恭吉、根岸秀行、木村晴壽「近世の養蚕・製糸業」
、
日本評論社、1983年、104-6頁。
46 上垣守国(1753-1808)
『養蚕秘録』
(1803年)は、山田、飯沼、岡編『日本農書全集』35巻、農山漁村文化協会、1981年
に収録されている。また、同書の解説は、475-7頁に、井上善治郎「解題『養蚕秘録』
」が掲載されている。
47 工藤、根岸、木村 前掲 「近世の養蚕・製糸業」
、112頁。
48 田代和生「17・18世紀東アジア域内交易における日本銀」
、前掲『アジア交易圏と日本の工業化1500-1900』
、139-146頁。
49 例えば、1886年ころから大谷嘉平衛商店に奉公していた西村栄之助(1874-1956)は「シナ人が現場監督でその勢力はたい
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したものだった」
(石井寛治『近代日本とイギリス資本』
、東京大学出版会、372頁)と当時の茶再製場のようすを回顧し
ている。なお、西村栄之助については、同書、374頁、注14を参照。
50 川勝平太 前掲 62-101頁。
51 田村均、前掲、
『ファッションの社会経済史』
、110-115頁。
52 古田和子『上海ネットワークと近代東アジア』
、東京大学出版会、2000年。
53 籠谷直人『アジア国際通商秩序と近代日本』
、名古屋大学出版会、2000年。
参考文献
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』
、吉川弘文館、1979-1997年。
高橋泰藏、増田四郎編『体系 経済学辞典』第6版、東洋経済新報社、1984年。
金森久雄、荒憲治郎、森口親司編『有斐閣 経済辞典』新版、1986年。
山脇悌二郎『辞典 絹と木綿の江戸時代』
、吉川弘文館、2002年。
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