絵金と 河田小龍 Ⅶ かわだ 幕末土佐の絵師として共に知られる絵金(1812-76) と河田 ま 「芝居が真好きじゃった」と伝えられる絵金。 絵金にかぎらず、近世から近代にかけて、土佐の庶民の 間で芝居が大流行したことは、各地に伝わる芝居絵から もうかがうことができます。しかし、そうした芝居がど こから、どのように伝えられていったのか詳しい事情を 伝える資料は多くありません。今回、長年土佐地歌舞伎 の中心におられ、86歳になられた今も、絵金歌舞伎伝承 会の指導者として活躍されている中村和子さんに、その 歩みをお聞きしました。 しょうりょう 小龍(1824-98)。残された作品を見ると、タイプの異なる ように思える2人ですが、その交流をうかがわせる遺品が各地 に残されています。今回ご紹介する屏風絵もそんな作品の一 つ。2人の作品から、絵師や注文主、民衆たちが両者の画風 同 じ 歌 舞 伎 の 子 別 れの 場 面 を 描 いた 、 赤 岡 町 に 伝 わ る 絵 金 と 小 龍 の 作 品 。 う ね る よ う な 線 を 用 いて 大 胆 に 感 情 を 表 す 絵 金 と 、直 線 が 多 く 表 情 も 抑 制 の きいた 小 龍 、お 互 いの 個 性 が よ く 出 て いま す。 河田小龍筆「東山桜荘子 佐倉宗吾子別れ」 香南市赤岡町本町四区所蔵 きしひめまつくつわかがみ 1.赤岡に生まれる 昭和3年(1928)赤岡で生まれ、小 学校へ上がる頃高知市上町へ引っ越 し、子供芝居の劇団に入りました。 当時は高知に師匠が3人ほどいて、 子供芝居もいくつかグループがあり ました。 昭和17年(1942)14歳の頃、大阪 の松竹が結成した慰問団の一員とし て、所属していた少女歌舞伎が日本 軍の慰問に行くことになりました。 中国の東北地方、大連、奉天、ハル ピンなどを1年間かけて周りました。 香美市土佐山田町・八王子宮夏祭り (平成21年) 手長足長絵馬台 河田小龍 かこ は ぶ 文政7年(1824)高知城下・浦戸片町に水主・土生家 の長男として生まれ、祖父の河田家を継ぐ。幼少より し ま もとら ん け い 絵が巧みで、南宋画の島本蘭渓に入門、 また儒学者 お か もと ね い ほ よし だ とうよう ・岡本寧甫のもとで儒学を学んだ。吉田東洋のすす その後、大阪の吉本興業が高知の子 ばかりで少女歌舞伎を結成すること になり、妹と共にその一座に加わっ て家族で高知と大阪を行き来する生 活が始まりました。四国はもとより 大阪の繁華街や西日本各地で歌舞伎 公演を行い、1ヵ月通しての連続公 演もありました。 土佐歌舞伎最後の役者 実川八百五郎 か の うえ い が く めに従い京へ遊学、狩野永岳に師事し、二条城襖絵 これ た ず の修復にも関わった。本名は維鶴、小龍の他に、小 はざん 梁、松梁、皤山と号した。若い頃に絵金の門を叩き、 その肖像画を残している。 また、蘭学の素養のあった小龍は、 アメリカから帰 ひょうそ ん きりゃく 国したジョン次郎の取り調べを行い、 『漂巽紀略』を 著す。安政年間には、坂本龍馬に海外思想と世界の 大勢を説いた。廃藩置県後は高知県庁に出仕した が、のち画業に専念し、晩年は広島・京都に居住す る。明治31年(1898)没、75才。 香南市・創造広場 アクトランド所蔵 香南市・創造広場 アクトランド所蔵 少女歌舞伎で活動していた頃(右端、中央下は当時の座長) 3.少女歌舞伎へ 元 、香 美 市 の 旧 家 所 蔵 の 襖 絵 。片 面 に 絵 金 、そ の 反 対 側 に 小 龍 が、そ れ ぞ れ 美 人 画 や 人 物 図 を 描 いていま す。 絵 金 が 描 いたのは 、いた ず ら す る 子 供 が か わい くて 堪 ら ないとい う 表 情 の 色 香こ ぼ れる﹁ 浴 衣 姿 の 女 ﹂、一方 、小 龍 が 描 いたのは 、裾 に ま と わ りつく 子 犬 に 目 を や り な が ら 、どこ か 憂 いを 帯 び た 、細 身 で 品 のあ る 佇 まいの﹁ 犬 と 戯 れ 合 う 女 ﹂。 小龍 4.土佐の地歌舞伎を支える ハルピンにて (右から2人目) 2.慰問団の一員として中国へ 現 存 す る 絵 馬 台 の う ち 、県 下 最 大 の 作 品 。神 社 の 拝 殿 風 の 台 に、手 長 足 長 のユニ ー クな 彫 刻 が 施 さ れていま す。 は めこ ま れ た 五 点 の 芝 居 絵 屏 風 の う ち 、今 回 ご 紹 介 す る 左 たまものまえあさひのたもと 端 の﹁ 岸 姫 松 轡 鑑 ﹂と 右 端 の ﹁ 玉 藻 前曦 袂 ﹂の 二 点 が 小 龍 作 、その 両 端 か ら 二つ目 の 作 品 は 、そ れ ぞ れ 絵 金 作 と み ら れ ま す。 語る﹄平成十年四月、亜細亜書房︶ 絵金 小龍 絵金筆「東山桜荘子 佐倉宗吾子別れ」 香南市赤岡町本町二区所蔵 少年時代からその才能を知られていた 小龍が、絵金に教えを乞いに来た際、 絵金が弟子である久保安吾にもらした と伝わる言葉 。︵若尾瀾水﹃海南先哲画人を 〝え ら い も のが 入 門 し て き た が の う し〟 の違い、競い合いを共に楽しんだ風景が浮かび上がってきます。 絵金 芝 居に生きる ―其 の 一 ― かわだ・しょうりょう 高知市堺町、堀詰電停の南側に建つ銅像 この辺りに芝居小屋「堀詰座」があった やがて18歳を過ぎる頃、少女歌舞伎が解散となり、 高知にて地芝居や踊りなどの芸能に関わるようにな ります。 当時は地歌舞伎の団体がたくさんあって、高知市周 辺では現在の京町・片桐書店のご主人が主宰する劇 団はじめ、五台山、針木、南国市十市などにもあり ました。今の県庁付近にあった公民館ではよく公演 をしていて、何かの記念の折には、当時の溝渕知事 や市長も役者となって芝居を盛り上げていました。 五台山の護国神社境内でも春と秋に野外芝居があっ たことを覚えています。 プロの歌舞伎役者もいました。覚えているのは野市 あらししかく じつかわやおごろう の嵐市鶴さん、香宗の実川八百五郎※さん、義太夫 まるたつ と さ の た ゆ う の丸達さん、物部の土佐之太夫さんなど、特に香美 ・香南の地域に芸事をする人が多かった気がします。 習い事といえば、踊りや浄瑠璃などが主だった時代 地域の青年団に呼ばれて祭りのために化粧をしにい ったり、野市に嫁入りした後、息子が2歳の頃には 香我美町岸本の網元の家に子供芝居を教えにも行き ました。 中国、戦地での公演の様子 じつかわ・やおごろう 慶応2年(1866)‐昭和37年(1962) 高知県香美郡香宗村土居(現、香南市 野市町)に生まれ、 6才で野市村に興 行中の播州の役者・実川琴三郎の 舞台にて初舞台を踏む。12才で当 時土佐の名優といわれた嵐寛丸(の ちの市川左門治)に弟子入りし嵐丸若 を名乗る。その寛枝、友四郎となり、 上方に出て、実川八百五郎と改名し た。土佐の歌舞伎集団・共正会に所 属し、県外の座にも加入、西国一円 を興行、95歳で亡くなるまで現役で 活躍した。 参考: 『高知県百科事典』高知新聞社、昭和51年7月 絵金歌舞伎メンバーとの練習(右端) ~絵金歌舞伎との出会い~ 絵金歌舞伎伝承会との関わりは、立ち上げの時 から、もう21年になります。それまでにも、赤岡 おいらんどうちゅう のどろめ祭りで行われた「花魁道中」の手伝いな どで関わりはありましたが、ある時、赤岡のʻおばばʼ よ こ や と し こと、故・横矢登志さんに絵金が描いた歌舞伎をやりたい、教えて 欲しい、と頼まれたのがきっかけです。以来、赤岡の屏風絵に描か れた芝居のうち私が覚えている演目は全て教えました。来年の絵金 ち ゅ う し ん に ど め の き よ が き てらおかせっぷく 祭りでは、初めて「忠臣二度目清書 寺岡切腹」に挑戦します。
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