39号(2014年8月発行)

絵金と 河田小龍
Ⅶ
かわだ
幕末土佐の絵師として共に知られる絵金(1812-76)
と河田
ま
「芝居が真好きじゃった」と伝えられる絵金。
絵金にかぎらず、近世から近代にかけて、土佐の庶民の
間で芝居が大流行したことは、各地に伝わる芝居絵から
もうかがうことができます。しかし、そうした芝居がど
こから、どのように伝えられていったのか詳しい事情を
伝える資料は多くありません。今回、長年土佐地歌舞伎
の中心におられ、86歳になられた今も、絵金歌舞伎伝承
会の指導者として活躍されている中村和子さんに、その
歩みをお聞きしました。
しょうりょう
小龍(1824-98)。残された作品を見ると、タイプの異なる
ように思える2人ですが、その交流をうかがわせる遺品が各地
に残されています。今回ご紹介する屏風絵もそんな作品の一
つ。2人の作品から、絵師や注文主、民衆たちが両者の画風
同 じ 歌 舞 伎 の 子 別 れの 場 面 を 描 いた 、
赤 岡 町 に 伝 わ る 絵 金 と 小 龍 の 作 品 。 う ね る よ う な 線 を 用 いて 大 胆 に 感 情 を
表 す 絵 金 と 、直 線 が 多 く 表 情 も 抑 制 の
きいた 小 龍 、お 互 いの 個 性 が よ く 出 て
いま す。
河田小龍筆「東山桜荘子 佐倉宗吾子別れ」
香南市赤岡町本町四区所蔵
きしひめまつくつわかがみ
1.赤岡に生まれる
昭和3年(1928)赤岡で生まれ、小
学校へ上がる頃高知市上町へ引っ越
し、子供芝居の劇団に入りました。
当時は高知に師匠が3人ほどいて、
子供芝居もいくつかグループがあり
ました。
昭和17年(1942)14歳の頃、大阪
の松竹が結成した慰問団の一員とし
て、所属していた少女歌舞伎が日本
軍の慰問に行くことになりました。
中国の東北地方、大連、奉天、ハル
ピンなどを1年間かけて周りました。
香美市土佐山田町・八王子宮夏祭り
(平成21年) 手長足長絵馬台
河田小龍
かこ は ぶ
文政7年(1824)高知城下・浦戸片町に水主・土生家
の長男として生まれ、祖父の河田家を継ぐ。幼少より
し ま もとら ん け い
絵が巧みで、南宋画の島本蘭渓に入門、
また儒学者
お か もと ね い ほ
よし だ とうよう
・岡本寧甫のもとで儒学を学んだ。吉田東洋のすす
その後、大阪の吉本興業が高知の子
ばかりで少女歌舞伎を結成すること
になり、妹と共にその一座に加わっ
て家族で高知と大阪を行き来する生
活が始まりました。四国はもとより
大阪の繁華街や西日本各地で歌舞伎
公演を行い、1ヵ月通しての連続公
演もありました。
土佐歌舞伎最後の役者
実川八百五郎 か の うえ い が く
めに従い京へ遊学、狩野永岳に師事し、二条城襖絵
これ た ず
の修復にも関わった。本名は維鶴、小龍の他に、小
はざん
梁、松梁、皤山と号した。若い頃に絵金の門を叩き、
その肖像画を残している。
また、蘭学の素養のあった小龍は、
アメリカから帰
ひょうそ ん きりゃく
国したジョン次郎の取り調べを行い、
『漂巽紀略』を
著す。安政年間には、坂本龍馬に海外思想と世界の
大勢を説いた。廃藩置県後は高知県庁に出仕した
が、のち画業に専念し、晩年は広島・京都に居住す
る。明治31年(1898)没、75才。
香南市・創造広場 アクトランド所蔵 香南市・創造広場 アクトランド所蔵 少女歌舞伎で活動していた頃(右端、中央下は当時の座長)
3.少女歌舞伎へ
元 、香 美 市 の 旧 家 所 蔵 の 襖 絵 。片 面 に 絵 金 、そ
の 反 対 側 に 小 龍 が、そ れ ぞ れ 美 人 画 や 人 物 図
を 描 いていま す。
絵 金 が 描 いたのは 、いた ず ら す る 子 供 が か わい
くて 堪 ら ないとい う 表 情 の 色 香こ ぼ れる﹁ 浴 衣
姿 の 女 ﹂、一方 、小 龍 が 描 いたのは 、裾 に ま と わ
りつく 子 犬 に 目 を や り な が ら 、どこ か 憂 いを 帯
び た 、細 身 で 品 のあ る 佇 まいの﹁ 犬 と 戯 れ 合 う
女 ﹂。
小龍
4.土佐の地歌舞伎を支える
ハルピンにて
(右から2人目)
2.慰問団の一員として中国へ
現 存 す る 絵 馬 台 の う ち 、県 下
最 大 の 作 品 。神 社 の 拝 殿 風 の
台 に、手 長 足 長 のユニ ー クな
彫 刻 が 施 さ れていま す。
は めこ ま れ た 五 点 の 芝 居 絵 屏
風 の う ち 、今 回 ご 紹 介 す る 左
たまものまえあさひのたもと
端 の﹁ 岸 姫 松 轡 鑑 ﹂と 右 端 の
﹁ 玉 藻 前曦 袂 ﹂の 二 点 が 小
龍 作 、その 両 端 か ら 二つ目 の
作 品 は 、そ れ ぞ れ 絵 金 作 と み
ら れ ま す。
語る﹄平成十年四月、亜細亜書房︶
絵金
小龍
絵金筆「東山桜荘子 佐倉宗吾子別れ」
香南市赤岡町本町二区所蔵
少年時代からその才能を知られていた
小龍が、絵金に教えを乞いに来た際、 絵金が弟子である久保安吾にもらした
と伝わる言葉 。︵若尾瀾水﹃海南先哲画人を
〝え
ら
い
も
のが
入 門
し
て
き
た
が
の
う
し〟
の違い、競い合いを共に楽しんだ風景が浮かび上がってきます。
絵金
芝 居に生きる ―其 の 一 ―
かわだ・しょうりょう
高知市堺町、堀詰電停の南側に建つ銅像
この辺りに芝居小屋「堀詰座」があった
やがて18歳を過ぎる頃、少女歌舞伎が解散となり、
高知にて地芝居や踊りなどの芸能に関わるようにな
ります。
当時は地歌舞伎の団体がたくさんあって、高知市周
辺では現在の京町・片桐書店のご主人が主宰する劇
団はじめ、五台山、針木、南国市十市などにもあり
ました。今の県庁付近にあった公民館ではよく公演
をしていて、何かの記念の折には、当時の溝渕知事
や市長も役者となって芝居を盛り上げていました。
五台山の護国神社境内でも春と秋に野外芝居があっ
たことを覚えています。
プロの歌舞伎役者もいました。覚えているのは野市
あらししかく
じつかわやおごろう
の嵐市鶴さん、香宗の実川八百五郎※さん、義太夫
まるたつ
と さ の た ゆ う
の丸達さん、物部の土佐之太夫さんなど、特に香美
・香南の地域に芸事をする人が多かった気がします。
習い事といえば、踊りや浄瑠璃などが主だった時代
地域の青年団に呼ばれて祭りのために化粧をしにい
ったり、野市に嫁入りした後、息子が2歳の頃には
香我美町岸本の網元の家に子供芝居を教えにも行き
ました。
中国、戦地での公演の様子
じつかわ・やおごろう
慶応2年(1866)‐昭和37年(1962)
高知県香美郡香宗村土居(現、香南市
野市町)に生まれ、
6才で野市村に興
行中の播州の役者・実川琴三郎の
舞台にて初舞台を踏む。12才で当
時土佐の名優といわれた嵐寛丸(の
ちの市川左門治)に弟子入りし嵐丸若
を名乗る。その寛枝、友四郎となり、
上方に出て、実川八百五郎と改名し
た。土佐の歌舞伎集団・共正会に所
属し、県外の座にも加入、西国一円
を興行、95歳で亡くなるまで現役で
活躍した。
参考:
『高知県百科事典』高知新聞社、昭和51年7月
絵金歌舞伎メンバーとの練習(右端)
~絵金歌舞伎との出会い~
絵金歌舞伎伝承会との関わりは、立ち上げの時
から、もう21年になります。それまでにも、赤岡
おいらんどうちゅう
のどろめ祭りで行われた「花魁道中」の手伝いな
どで関わりはありましたが、ある時、赤岡のʻおばばʼ
よ こ や と し
こと、故・横矢登志さんに絵金が描いた歌舞伎をやりたい、教えて
欲しい、と頼まれたのがきっかけです。以来、赤岡の屏風絵に描か
れた芝居のうち私が覚えている演目は全て教えました。来年の絵金
ち ゅ う し ん に ど め の き よ が き てらおかせっぷく
祭りでは、初めて「忠臣二度目清書 寺岡切腹」に挑戦します。