1960~1970年代韓国における産業政策の形成

The 4th East Asian Economic Historical Symposium 2008
EHCJ 203
第8論文
1960~1970年代韓国における産業政策の形成
―化学繊維工業と鉄鋼工業の事例を中心に―
李相哲
(聖公会大学校)
1. 序論
ピョンヒョンユン
「国家主導の産業化」( 辺 衡 尹 1996、p.112)という言い方から推測できるように、1960
~70 年代の韓国における工業化は政府の強力な介入のもとに進められた。したがってこの
時期の韓国の工業化の過程を当時の政府が実施した選別的な産業育成政策、すなわち産業
政策と分離して説明することは困難である。
イジェミン
そのことに関連して、李済民(2000)はガーシェンクロンのキャッチアップ型工業化論を
援用してこの時期の韓国の産業政策について説明している。特にウォン建て資金、外貨資
金の配分過程に対する統制は、この時期に政府が産業政策を遂行するに当たって重要な手
段として利用された(李相哲 1998)。金融資金の配分過程における政府の介入は必然的にレ
ントを発生させる。韓国もまた例外ではなく、この時期に金融部門で発生したレントの規
キムナンニョン
模は国民総生産の 25%に達した(金 洛 年 1999)。問題はこうして発生したレントがはたし
て民間部門の効率性を向上させる方式として配分されたのかという点である。
アムスデンら(Amsden &曳野 1993、Amsden 1997)は、輸出義務を課すことによる海外
市場からの競争圧力が、そのような措置がなければ内需市場に安住して非効率的な運営に
陥っていたかもしれない企業への規律(discipline)として作用した点を強調している。すな
わち、海外市場からの競争圧力に直面した企業が現場レベルでの技術力を蓄積するために
一連の投資を行い、それにより漸進的な学習が進み工業化が成しとげられたというのだ。
だが、クーデター直後の軍部および経済官僚がこうした完成品としての政策手段を手に
産業政策を推進したわけではなかった。1960 年代初めの工業化政策は「現実という名の実
イビョンチョン
験台と制約条件とを経て修正され変形」(李 炳 天 1999、p.14)されざるをえず、初期の政策
は予想外の結果を招くこともあったため、試行錯誤の過程を経ないわけにはいかなかった
のだ。
本論文は、1960~70 年代当時の韓国政府が完成品としての各種政策手段を手に産業育成
政策を実施したと見るのではなく、幾多の学習と試行錯誤の過程を経て産業政策の枠組み
チャンハウォン
を構築していく動態的過程に注目している。そのことに関連して張 夏 元 (1999)および李炳
天(1999)は 1960 年代初めの政策が試行錯誤を経たという点について指摘したが、試行錯
誤の具体的な内容や過程についての詳細な分析は行っていない。
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EHCJ 204
また、本論文は 1960 年代韓国の産業政策の「形成過程」に論点を絞っているが、それは東
アジアの工業化過程における政府の役割をめぐって提示されていた「発展国家論的」アプロ
ーチ(Amsden 1989、Johnson 1982、Cummings 1987)に対して批判的立場に立つもので
ある。既存の発展国家論では歴史的遺産や地域的外部性により形成された経済官僚による
産業政策の執行能力を論点に据え(Johnson 1982、Cummings 1987)、または 20 世紀の後
発工業国では技術的条件によって制約を受けながらも工業化を推進する政府の出現と効率
的な運用を中心に(Amsden 1989)論じている。カミングス(1987)は日本による植民地支配
の遺産と第二次世界大戦後の日米中心の東アジア国際秩序の再編過程における日本の積極
的な役割に焦点を絞り、東アジアにおける地域的外部性が韓国および台湾の産業化過程に
いかなる影響を及ぼしたのかについて論じており、アムスデン(1989)は韓国のような 20 世
紀の後発国が先進国から導入した中位レベルの技術を基盤に経済発展を遂げていく過程で
現れた、19 世紀ヨーロッパの後発国の産業化過程とは異なる新たな技術政策の内容とは何
かについて論じている。結局、既存の「発展国家論的アプローチ」とは、韓国では歴史的遺
産、地域的外部性、あるいは技術的条件などにより発展国家がおのずと形成されたととら
えるアプローチであり、発展国家形成の内的ダイナミズムにはさしたる関心を示していな
い。1960 年代韓国の産業政策を日本による植民地支配と関連づけて解釈する通俗的な見解
もまたこうしたアプローチと無関係ではないように思われる。本論文は、1960 年代韓国の
産業政策の形成過程における試行錯誤に焦点を合わせることにより、韓国の産業政策が他
の東アジア諸国における産業政策とは異なる韓国ならではの固有の特徴を見出すことをも
うひとつの課題として設定している。
さらにこの時期の産業育成政策は、政府による市場介入と民間の経済活動に対する規制
をその主要内容としているばかりでなく、時間の経過に伴いその規制がいっそう強化され
ていった。本論文では、1960 年代~1970 年代初めの資源配分において市場に取って代わ
る位階構造の形成される過程について検討することとする。
一方伝統的な立場では、自然独占、外部性、公共財、情報の非対称性、不完全な市場と
いった市場の失敗が存在するとき、政府の規制による資源配分の効率性が向上しうると考
える。そのような立場に立つなら、不完全な市場を補完する政府の諸政策が後発国の産業
政策を分析する視野に入ってくることになり、産業発展を目指す政府の積極的機能が強調
される。だが捕獲理論(capture theory, Stigler 1971, Peltzman 1978)が強調しているよう
に、規制の新設と執行の過程において、強力な利害を持つ小規模集団が資源配分において
強制的権限を持つ政府を虜にすることにより資源を再分配するメカニズムが働く。もちろ
ん、実際の歴史の過程で上記 2 つの理論が想定している事態は必ずしも相互排他的なやり
方で展開しえないこともあるはずだ。現実はより複雑多岐にならざるをえず、実際の政策
の執行過程も公共善の追求と虜の過程が相互交差しつつ展開するだろう。もちろんどのよ
うな力がより優勢に働いたかという問題は分析の結果として当然導き出されるだろう。も
しこうした視点でこの時期の産業政策の形成過程を見るならば、既存の「発展国家論的ア
プローチ」で示されている歴史像―事前にきちんと定義され準備の整った政府による産業
政策の効率的執行―とは異なり、一方では公共善を標榜しつつ、他の一方では民間による
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虜化の試みに直面しつつ、韓国独自の産業政策の枠組みが構築されるという意味における、
新たな歴史像を示すことができるのではなかろうか。
2. 個別工業育成法の制定
一般的に産業政策とは各産業間の資源配分やある産業の企業の経済活動のレベルに影響
を及ぼす政府の政策であり、特定の産業の生産・投資・研究開発・近代化および産業再編
を促す一方で、他の産業に対してはこれを抑制するもの(小宮隆太郎他 1984)、すなわち特
定産業の選別的育成政策を意味する。では韓国における産業政策はいつから始められたの
だろうか。
海外の韓国学研究者の大半は 1960 年代を輸出指向工業化期、そして 1970 年代を重化学
工業化期と区分し、特定産業の選別的育成政策は 1970 年代の重化学工業化政策とともに
始められたと主張する。スターンの次のような言及をその例として挙げることができる。
韓国の第 1 次 5 カ年計画(1962~66)は、第一に輸出の促進に重点が置かれた。…
多くの場合 1960 年代の輸出は軽工業によって担われ、政府は特定の産業を対象と
することはなかった。(Stern et al. 1995、p.18)
もちろん、重化学工業化政策で選別的な産業育成の中心的内容は明確に示されているが、
経済開発計画実施の初期段階から輸入代替産業を育成するための各種政策が実施されてい
た。それらの政策は繊維工業施設に関する臨時措置法をはじめとする一連の個別工業育成
法の制定へと続き、さらに 1973 年 1 月の「重化学工業化宣言」 355を契機に新たな政策転換
が行われることになった。
〈表 1〉に見られるとおり、1967 年以降 1970 年代初めまでに 7 つの個別工業育成法が
制定されたのだが、繊維産業を除く 6 つの産業はすべて重化学工業である。以下では化学
繊維工業および鉄鋼工業の事例を対象に育成法の内容を詳しく見ていくこととする。
〈表 1〉個別工業育成法の制定
法律名
繊維工業施設に関する臨時措置法
造船工業振興法
機械工業振興法
電子工業振興法
鉄鋼工業育成法
法律制定
1967 年 3 月
1967 年 3 月
1967 年 3 月
1969 年 1 月
1970 年 1 月
施行令制定
1968 年 5 月
1967 年 6 月
1967 年 8 月
1969 年 4 月
1970 年 10 月
355
1973 月 1 月 12 日の年頭記者会見における当時の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の次の発言を意味する。
「わが国の工業は今や『重化学工業の時代』に突入しました。したがって政府はこれからは『重化学工業
育成』の施策に重点を置く『重化学工業政策』を宣言するものであります…80 年代にわが国が輸出 100
億ドル、『重化学工業の育成』等々の目標を達成するためには汎国民的な『科学技術の開発』に総力を集
中しなければなりません」。
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石油化学工業育成法
非鉄金属製錬事業法
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1970 年 1 月
1971 年 1 月
1970 年 10 月
1971 年 7 月
1) 繊維工業施設に関する臨時措置法
「繊維工業施設に関する臨時措置法」(以下「臨時措置法」)は 1967 年 3 月 3 日に国会本会議
で可決され公布されたが、法律の実施に必要な施行令は 1 年以上もたった 1968 年 5 月 27
日になってようやく制定された。だが施行令の公布はただちに行われず、そのため韓国繊
維団体連合協議会は 1968 年 9 月 24 日の月例懇談会で同施行令の早期公布を求めることに
した(『ソウル経済新聞』、1968.9.25)。施行令の公布が延期されたのは経済企画院の反対
があったためだった。
〈図 1〉「臨時措置法」施行に伴う借款による繊維製造設備の新設・増設手続きの変化
従来の外資導入法体制
繊維工業施設に関する臨時措置法
1967 年 3 月に国会で可決された。経済企画院はまったくの蚊帳の外だった。ま
チャン
してや外資導入法に優先する法律ができたのだから 張 長官は激怒した。政府立法
では張長官が反対して不可能だったはずだ。そこで議員立法という手を使ったのだ
…だがこの法律は経済企画院の反対で施行令制定が遅れ、1968 年 11 月になってよ
オウォンチョル
うやく日の目を見ることとなった。まれに見る難産だった。(呉 源 哲 1995、p.228)
結局、施行令は閣議での承認を経て 1968 年 11 月 7 日にようやく公布された。全文 8 条
からなる同施行令では「臨時措置法」の適用を受けることになる繊維工業施設の範囲を定め、
商工省長官が施設調整計画を変更しようとする場合には同施行令に規定する繊維工業審議
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会の審議を経るよう定めている。法律の適用対象は精紡機、編織機、縫製機、重合機、紡
糸機といった繊維工業施設とした。また、「臨時措置法」では繊維工業施設を商工省の管理
する繊維工業施設台帳に登録し(同法律第 3 条)、変更時にはその旨届出るものとし(同法律
第 4 条)、繊維工業審議委員会を設置して関連事項の諮問を受けるよう定めた(同法律第 11
条)。商工省は施設調整計画を公告し、施設ごとに毎年の新設・増設限度を定め(同法律第 6
条)、業者は新設・増設の際には商工省の許可を受けるものとした(同法律第 8 条)。商工省
は審議会の審議を経て施設の耐久年限を定め、老朽施設の改修・建替え、整備を指示する
ことができるものとした。
結局、「臨時措置法」の施行により、既存の繊維製造設備保有者には登録を義務付け、新
規施設導入を望む者には設置許可を受けさせる制度ができあがった。繊維工業施設全般に
対する商工省の統制力は強固なものとなった。
新設・増設に際し先進国からの借入(商業借款)によって製造設備を輸入せざるをえなか
った化学繊維産業を例に取って「臨時措置法」の下でいかなる違いが表れてきたかについて
具体的に見ていくことにする。〈図 1〉のとおり、1967 年までは、新設・増設を望む業者
が海外の施設提供者と契約を締結した後に経済企画院に借款導入認可申請を行い、経済企
画院は商工省および支払保証機関等に導入技術や当該企業の財務状態に関する検討書を要
請し、それらの機関の検討書に基づいて外資導入審議委員会の審議を経て認可の可否を決
定するという方式だった。ところが「臨時措置法」施行後は、新設・増設を望む業者は契約
締結前にまず商工省の施設調整計画公告に基づく設置許可を受けなければならず、設置許
可を受けてからでないと契約や借款導入申請の手続きに入れないようになった。
1967 年までの制度では相対的に弱かった商工省の影響力を強化しようという意図が貫か
れた制度だが、政府の全体的な観点から見るならば、繊維工業施設の新設・増設に関連し
てさらに統制が付加されたことになる。こうした追加的統制手段がなぜ必要だったのか。
また、商工省はそうやって強化、刷新された統制能力を基盤に繊維産業の構造をどのよう
に変化させようとしたのか。その問題については鉄鋼工業育成法の内容を確認した後に検
討することとする。
2) 鉄鋼工業育成法
「鉄鋼工業育成法」は 1970 年 1 月 1 日に法律第 2181 号として公布され、施行令は 1970
年 10 月 20 日に制定された。同法律の主要内容は、年産 10 万トン以上の一貫製鉄所およ
び年産 1 万トン以上の製鋼および圧延施設等を備えて鉄鋼工業を営む者を鉄鋼工業者に指
定し(同法律第 3 条、第 4 条)、それら鉄鋼工業者に対し公共料金を割引き(同法律第 9 条)、
原料および機材・資材購入時に財政的支援を行い(同法律第 8 条)、原料供給者を支援する
ものだった(同法律第 10 条)。だが、鉄鋼工業者の施設規模の変更および原料購入時には商
工省長官の承認を受けるものとし(同法律第 5 条、第 11 条)、原料供給者の支援もまた商工
省長官の指定するか価格で鉄鉱石を供給した場合に限るなど(同法律第 10 条)、施設および
生産に対する統制を強化する内容も含まれていた。
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「鉄鋼工業育成法」で特徴的なことは、長期低利の外資導入、原料仕入、機材・資材供給、
港湾・用水・電力施設、道路、鉄道敷設への支援は条鋼基準で年間 100 万トン以上生産可
能な製銑・製鋼・圧延の一貫工程施設を基準とし、資本金の 2 分の 1 以上を政府または政
府の指定する者が出資した場合に制限している(同法律第 7 条)。当時、条鋼基準で年産
100 万トン以上の一貫工程施設を備えることが予定されている事業者は浦項(ポハン)製鉄
のみだったため、結局、「鉄鋼工業育成法」は浦項製鉄に限定して政府の特恵的支援の根拠
を与える意味を持つものだった。もちろん「鉄鋼工業育成法」付則には施行日から 10 年間
効力を有するとの定めを置くことで時限的な支援とすることを明記していた。
また、「鉄鋼工業育成法」はもう一方では鉄鋼産業全般に対する国家統制をさらに強化し
たという意味を持つ。
ユサンヨン
「鉄鋼工業育成法」制定の直接の背景を日本側からの要求に求める見解もある(柳相栄
1995)。日本の調査団が特別事業法を制定し一貫製鉄所に対する 5~10 年の長期支援ある
いは特恵を与える必要があると答申したためというものだ。もちろん日本側の助言が「鉄
鋼工業育成法」制定に一定の役割を果たした点を否定することはできないが、1960 年代に
韓国政府が鉄鋼工業育成過程で経験した試行錯誤が「鉄鋼工業育成法」の内容に反映されて
いた点を看過してはならない。すなわち、仁川(インチョン)製鉄という半島西岸の製鉄所
建設のプロセスにおける学習と試行錯誤について詳しく見ていく必要があるだろう。
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3. 個別工業育成法制定以前の産業育成政策
1) 外資導入関連法規の整備
朴正煕政権はクーデターの直後から経済開発 5 ヵ年計画を策定し、国民経済の次元にお
ける経済成長率の目標を提示し、それを達成するための産業別発展目標、資金および人材
調達の方策を策定した。第1次経済開発 5 ヵ年計画当時の産業育成政策の中心的内容は輸
入代替産業の育成だった。
〈表 2〉外資導入対象事業(計画事業)
事業名
施設容量
第三肥料工場
総合製鉄工場
苛性ソーダ工場
稲藁パルプ工場
ビスコース人絹糸工場(#1)
ビスコース人絹糸工場(#2)
アセテート人絹糸工場
大中型漁船建造
新聞用紙工場
ディーゼルエンジン・自動車
工場
黒鉛鉱開発
電気器具工場
138,200 トン
250,000 トン
3,000 トン
15,000 トン
6,600,000lbs.
6,600,000lbs.
6,600,000lbs.
721 隻
12,000 トン
エンジン 5,000 台
自動車 5,000 台
紡織機および加工機工場
セメント工場
セミケミカルパルプ工場
観光事業(#1)
観光事業(#2)
所要外貨
(千ドル)
30,000
32,000
1,500
2,500
10,000
10,000
10,000
7,815
1,800
2,000
所要内資
(百万ファン)
6,000
29,000
1,000
1,000
4,000
4,000
5,000
5,662
1,000
1,800
200
800
581
520
500
5,255
580
304
4,687
550
3,773
300
905
12,907
電気計量器 500,000 個および計
測器
3,000 台
200,000 トン
7,500 トン
資料:経済企画院 「外資導入対象事業建設予定者選定のための公告」、1961.10.30
しかしこれらの輸入代替産業の育成には莫大な資金が必要だった。特に工場建設のため
の外資調達問題がもっとも重要な問題だった。
経済開発計画の成否を分けるカギはなんといっても内資動員と外資獲得にあり、
チョンビョンギュ
両者のうちでも外資獲得についてはかなり心配だった( 千 炳 圭 1988、p.200) 356
356
千炳圭は 1961 年 7 月から 1962 年 6 月まで財務省長官を務めた。
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EHCJ 210
そのうえ、当時は韓国企業はどこも対外信用度が低く、自力で外国から資金を直接調達
することができなかったため、外資導入額の全額を政府が将来取得担保で支払保証をする
ことを求め、さらにウォン建て資金までも政府の支援なしには調達困難な状態に置かれて
いたのだ。
革命の課題において経済問題が解決できるか否かが重要な分野を占めているこ
とは官民ともに知るところですが、外資導入は言うは易く行うはまことに難き問題
と承知しています。今、国内では 1 億ファンも調達することはできません…将来取
得担保で全額の保証を政府が行うべきでしょう。(『ソウル経済新聞』、
1961.10.30) 357
1961 年 8 月 7 日の外貨導入促進法改正により米国以外の国からの外資導入が可能にな
358、外資導入関連業務の主務省庁は復興省から経済企画院に変更された。また、1961
り
年 12 月 31 日の外資管理法改正により外資の概念が援助から借款および外国人の直接投資
を含むものへと拡大された。さらに 1962 年 7 月 18 日に公布された「借款に対する支払保
証に関する法律」では外資導入促進委員会の審議によって導入外資に対する政府の支払保
証が可能になり、経済企画院長官が必要と認める場合、借款により建設される工場を担保
に支払保証を承認できるようにすることにより、将来取得担保による支払保証規定を明示
した
359。結局、外資導入関連法規の整備により、外資導入促進委員会(1966
年 8 月以降は
外資導入審議委員会)から経済企画院の経済性検討(当該産業の需給見通し、国民経済的観
点からの事業の妥当性等を検討)、商工省の技術検討、支払保証機関の財力調査等が行われ
る体制が整えられることになる。
結局、1960 年代初めに外資導入関連法規の整備が行われた結果、対外信用度の低い国内
の民間企業の外資導入を支援する体制が整えられたばかりでなく、先進国からの設備およ
び資材・原料の導入に必要な資金に対する支払保証により政府が外資の配分過程に直接介
入しうる根拠が用意されたのである。
2) 規模の経済と参入規制の問題
だが、外資導入関連法規の整備のみでは選別的産業育成は効果的には行えなかった。ま
ず、商業借款導入過程において金融的特恵が保証され、工場を建設しさえすれば国内市場
における独占または寡占的地位が保証されるかもしれないという期待が広まり、外資導入
をめぐる企業間の熾烈な競争が繰り広げられた。すなわち、新たな経済環境のもとで各企
業のレント追求が激しくなったのだ。
だが、当時借款を導入した企業の大半が輸入代替を目的としていたため、企業の設備導
357
1961 年 10 月 18 日の懇談会における朴興植(パク・フンシク)の発言。
従来の「外資導入促進法」では法律の適用対象を大韓民国と正常な外交関係を維持しつつ友好通商航海
条約を締結している国の国民と定めていたが、当時それに該当する国は米国一国のみだった。
359 もちろんこれらの外資導入関連法規は 1966 年 8 月以降は「外資導入法」単一法体制へと統合される。
358
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EHCJ 211
入競争はどの産業部門でも国内需要を超える供給過剰を招く可能性があった。特に先進国
から最新設備を導入した企業の場合、製品のライフサイクルにおける成熟期以降の段階の
標準化した設備をしたことにより、単一企業の生産能力でさえ規模の経済達成のための最
小効率規模がすでに国内需要を超過することも少なくなかったのである。
化学繊維を例に挙げるなら、当時政府が把握していた化学繊維の最適規模はナイロン、
アクリル、ビスコース人絹糸などすべて日産 30 トン水準に達していたが(韓国貿易研究所
1968、p.160)、外資導入をめぐる企業間の競争により最小効率規模に達していない多数の
業者が乱立する可能性が高かった。〈表 3〉で確認できるように、1966 年まで 2 社に過ぎ
なかった化学繊維製造業者はその後急速に増加し、その結果 1 社の平均生産能力は日産 30
トンに遠く及ばなくなる。
〈表 3〉化学繊維の業種別企業数および平均生産能力の推移
1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970
品名
2
2
2
2
2
2
生産能力(トン
/日)
13.5
38.5
38.5
50.7
73.5
73.5
平均生産能力
6.8
19.3
19.3
25.4
36.8
36.8
企業数
アクリル
スフ
1
2
2
2
2
2
2
2
2
2
生産能力(トン
/日)
2.5
3.8
3.8
3.8
5.5
20.5
30.0
56.7
68.2
65.7
平均生産能力
2.5
1.9
1.9
1.9
2.8
10.3
15.0
28.4
34.1
32.9
企業数
ナイロン
F糸
1971 1972
1
企業数
ナイロン
スフ
4.0
生産能力(トン
/日)
4.0
平均生産能力
2
7
7
7
生産能力(トン
/日)
8.0
27.5
46.0
48.5
平均生産能力
4.0
3.9
6.6
6.9
1
2
2
2
2
生産能力(トン
/日)
6.0
18.0
20.0
20.0
20.0
平均生産能力
6.0
9.0
10.0
10.0
10.0
8
13
13
14
企業数
PE F 糸
企業数
PE スフ
1
2
2
2
4
5
生産能力(トン
/日)
2.5
3.8
3.8
3.8
19.0
65.0
94.5 154.9 207.7 211.7
平均生産能力
2.5
1.9
1.9
1.9
4.8
13.0
11.8
企業数
化繊全体
11.9
16.0
15.1
資料:韓国化繊協会 『化繊便覧』、各年度版
規模の経済の問題に関連する政府対応の具体的状況を化学繊維の事例から見てみること
にする。企業の自由な参入を許容し、企業間競争によって適正施設規模へと定着してゆく
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EHCJ 212
長期の市場的プロセスに委ねることなく、参入プロセスに直接介入することにより規模の
経済が整うよう誘導するという選択は、政府内ですでに 1967 年初めから下されていた。
1967 年 1 月 12 日に開催された青瓦台(大統領府)会議
360で、すでに国際経済規模へと拡張
育成することを前提に工場建設を推進することを決定していたためである。そのため 1968
年 11 月 28 日に開催された外資導入審議委員会で商工省は、供給過剰が予見される状況で
も韓国ポリエステル(株)が米国Chemtex社の設備および技術を導入してポリエステル繊維
工場(ポリエステルF糸日産 10 トン規模およびポリエステルスフ日産 10 トン規模)を建設
するために必要な商業借款を日本から導入したいという申請に対し、全量輸出することを
条件に承認しようという意見を提示しただけでなく、工場規模を国際水準へと拡張するこ
とを条件に追加しようという意見をも提示した
361。現在の零細な施設規模では製造原価が
高額にならざるをえないため、設備拡張は価格競争力のためにも不可避だったのだ 362。
結局、化学繊維産業の場合は 1967~68 年頃になるとそれまでの輸入代替政策から脱皮
して、当該産業の輸出産業化を誘導する政策へと転換することになった。だが輸出を条件
に設備導入を認可するからといってただちに輸出できるというわけではない。市場に委ね
るなら未成熟産業ゆえに短期的には高原価、低品質が災いして輸出は困難だろう。外資導
入の主務省庁である経済企画院がそのような個々の産業の特性を考慮してそれぞれの産業
に個別に対応するには限界があったのではないか。そういった問題に積極的に対処するた
めには個々の産業の長期的需要見通しに基づいて企業設備の新設・増設過程における積極
的調整を、さらにそれに関連して合理的原則を策定する必要があったはずだ。おそらく化
学繊維産業に限っていうならば、個別工業育成法の制定はそのような輸出産業化を達成す
るための政策の根拠を用意するものだったろう。だが個別工業育成法の制定と執行のみで
それらの政策目標が達成されうるだろうか。次の項ではその問題について検討することと
する。
3) 新産業の技術的特性に関する理解
外資導入の審査を担当した政府官僚だったが、海外から導入した技術の特性、外資導入
企業の経営効率の達成方策、体系的産業政策の策定および執行方法等に関する理解の程度
は低い水準だった。そのうえ彼らは具体的な政策決定過程においてアウタルキー
360
1967 年 1 月 12 日に開催された「石油化学工業実需要者選定に関する青瓦台会議」を指す(商工省「ポリ
エステル繊維工場建設のための資本財導入契約認可申請および現金借款契約認可申請(答申)」)、商一繊
1335-377、1967.7.31、『第 34 次外資導入審議委員会会議録』、1968.11.28
361 商工省、lbid.
362 政府は 1968 年 12 月 30 日に開催された第 35 次外資導入審議委員会で鮮京(ソンギョン)化繊が 2,600
万ドルの商業借款を導入し、日本の帝人(株)と 50 対 50 の比率で合作し鮮京合繊株式会社を設立するとい
う内容の「商業借款導入および合作投資に関する契約」を承認した。鮮京化繊の事業計画書に従えば、既存
の日産 7 トン規模のポリエステル F 糸紡糸施設に加えて 1972 年までに日産 24.5 トン規模の紡糸施設を
追加し、日産 31.5 トン規模の総合施設を設置するようになっていたため、国内のポリエステル繊維の供
給過剰が予見された。外資導入審議委員会は全量輸出を条件に外資導入を承認した(経済企画院「ポリエス
テル繊維工場拡張のための資本財導入契約および外国人投資認可申請に対する経済性の検討」、
1968.12.23、『第 35 次外資導入審議委員会会議録』、1968.12.30)。
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(Autarky)的自立経済、そして民族主義等を標榜したのだった。
特に輸入代替を目的としていた新産業分野の導入設備の技術的特性について、当時の官
僚の理解のレベルはさほど高くなかったが、そのことが仁川製鉄の銑鉄生産設備導入過程
において如実に表れている。
第 1 次経済開発 5 ヵ年計画事業により意欲的に進められていた総合製鉄所建設事業は、
内外の制約により第 1 次経済開発 5 ヵ年計画の補完計画策定過程で除外されたが、1964
年 12 月 4 日に開催された第 102 次経済長官会議で成案が確定した「鉄鋼工業育成総合計
画」(以下「計画」)の中で具体的なかたちとなって登場してきた。西海岸と東海岸に 2 つの総
合製鉄所を建設することにより国内の鉄鋼需要を満たし、複数企業間の競争によって経済
的効率を誘導することを目標とした「計画」の西海岸側の総合製鉄所がこの仁川製鉄だった。
仁川製鉄が西ドイツから導入した設備は年間 23 万トンの鉄鉱石を処理するSL/RN予備
還元炉 (Rotary Kiln)と回転炉床式 26,000kVA開放型電気還元炉を組み合わせて年間
125,000 トンの銑鉄を生産する製銑設備を筆頭に、従来の年産 75,000 トンの生産力を有す
る平炉工場を 140,000 トン規模に拡張するための製鋼設備、従来の 1 時間 15 トン容量の
中型分塊圧延工場の 1 時間 20 トン容量への拡張設備、そして鉄道輸送路の 2km延長、動
力吸水および給油能力の増設用設備だった 363。
このとき大韓金属学会から仁川製鉄の製銑設備導入に対して異議申立てがあった。大韓
金属学会の主張は、総合製鉄工場の生産の出発点になる製銑部門は、その技術と生産性が
確認済みで大半の製鉄会社が採用してきた高炉方式によるべきであり、特に数ある特殊製
鉄法の方式のうちでも仁川製鉄が導入しようとしている設備は技術的にはなお大量生産方
式として検証されたものではないというものだった。大韓金属学会のそのような主張は
1964 年 10 月 13 日に商工省長官の依頼した「製鉄工場建設に必要な参考資料」提出に対す
る答申書にすでに収められていた
364。商工省の資料要請に対して
3 回に渡る常任理事会を
経て答申書を作成した大韓金属学会は、1964 年 11 月 21 日の第 3 次常任理事会で最終案
を決定したが、答申書の結論は高炉法、Strategic-Udy法、Elektrokemisk法、DHN法、
そしてR-N法の各製鉄法のうちから技術的に優れた工法は高炉法であるばかりか、もし韓
国が本格的製鉄所の建設を企図しているなら、たとえ燃料費や鉄鉱石の大半を輸入する必
要があるとしても大型高炉を採用すべきだというものだった。
一方仁川製鉄側は、これまで総合製鉄建設計画が実現しなかった理由は燃料のコークス
を輸入する必要があることから経済性に疑問が提起されたためだとし、国産の無煙炭と国
産の鉄鉱石の利用が可能な「SL/RNという回転炉を利用した予備還元炉と開放型の電気製
銑炉を組み合わせた」特殊製鉄法を採用すべきだと主張した。さらに仁川製鉄側は、導入
しようとしている設備は特殊製鉄法に基づいてはいるが、すでに小規模の生産試験に成功
してその確実性は立証済みであり、世界的なメーカーが保証する方式なのだから問題はな
363 経済企画院「資本財導入契約および借款に対する支払保証承認(仁川製鉄工場建設 仁川製鉄株式会社)―
審議資料―」、『第 64 次外資導入促進委員会会議録』、行政自治省政府記録保存所、文書番号#209、
1965.11.16
364 大韓金属学会「各製鉄法に関する資料―商工省長官公簡(商二金 135-617)に対する大韓金属学会の答申
書―」、『金属学会誌』第 2 巻第 3 号、1964
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いと主張したのである 365。
とうとう大韓金属学会は、1965 年 6 月 15 日付朝鮮日報の紙面に「現在政府が推進中の
分散的かつ非合理的な鉄鋼事業計画を一体化してそれらを総合した単一総合製鉄所建設計
画へと転換すべき」とし、「現状では日産 1 千トン以上の大型高炉を採用するなら仁川製鉄
で計画中の予備還元式電気炉の製鉄法は回避するのが妥当」という内容の声明書を掲載す
るに至る 366。
導入工程の技術的妥当性の問題は、仁川製鉄の資本財導入契約、借款契約および支払保
証承認申請を審議するため 1965 年 11 月 20 日に開催された第 65 次外資導入促進委員会で
ふたたび提起された
367。だが電気製鉄法の妥当性が技術的に認められ、性能保証について
も供与者側で責任を負うようにしたため、政府が自信を持って提案するものだという幹事
の補充説明に基づいて仁川製鉄の資本財導入の一件は承認された。
だが、その後の状況は仁川製鉄の主張どおり順調には進まなかった。工場建設工事は
1968 年 12 月 15 日の予備還元炉工場の竣工、12 月 27 日の電気製銑炉工場の竣工でしめ
くくられ、1969 年から試験生産のために稼動を始めたが、相次ぐ故障や事故で設備施設の
性能はまったく保証できなくなり、竣工式は遅れに遅れて製品の生産による経営正常化の
目処はまったく立たなかった 368。
4) 民間の資本蓄積
1960 年代当時、先進国から大規模設備を導入するためには相当の資金が必要だったが、
そのような資金を独自に調達する能力を備えた企業家はほとんどいなかった。前述の外貨
資金の導入問題のみならず、ウォン建ての設備資金の供給もまた円滑に行われずにいた。
李秉喆(イ・ビョンチョル)の次のような回顧から当時の事情を推測することができる。
…財界関係者が右往左往するあいだ、次のような強力な申し入れを行った…借
款事業では外資に対応した内資の調達を支援すること、革命政府は私のこうした申
365
白徳鉉(ペク・トキョン)「韓国鉄鋼産業発展史[11]」、『材料マダン』第 14 巻第 8 号、2001.12、p.65
『朝鮮日報』、1965.6.15
同委員会の席上で李鳳寅(イ・ボンイン)委員は商工省の技術検討結果は妥当だと発言したが、電気製鉄
法はまだ試験段階にある方法であり、日本の例を見ても韓国においては技術的妥当性がきわめて疑わしい
と考えるため、さらに深く研究する必要があるとも主張した(経済企画院『第 65 次外資導入促進委員会会
議録』、行政自治省政府記録保存所、文書番号#210、1965.11.20)。
368 仁川製鉄株式会社(1990)、p.111、同問題に関連して仁川製鉄側は次のとおり記述している。「西ドイ
ツのデマーグ・ルルギ共同企業体も独自には実際の商業的工場操業による技術蓄積や専門技術スタッフを
確実に保有できていない状態だったため、確実な性能保証や工場の正常稼動のための措置、または根本的
な改善対策があるわけではなかったが、会社側も事前の検討が不十分な状態で導入した設備だっただけに、
彼らに全面的に依存せざるをえなかった」(p.131)。結局、竣工式は 1970 年 10 月 16 日に行われたが、10
月 29 日に電気製銑炉炉底の貫通崩壊により 10 人が死亡する事故が発生した。事故発生後の 1971 年 6 月
に韓国科学技術研究所が作成した「健全化方策策定に関する調査研究」によると、仁川製鉄の SL/RN 予
備還元・電気製銑方式は、韓国では短時日のうちに経済的生産施設として営利的な運用に入るのは難しい
とされた。また、1965 年の基本契約書に示された条件により保証された年間生産能力を発揮することも
できず、たとえ保証された生産能力を発揮したとしても製造原価の面で銑鉄 1 トンにつき最低限でも 26
ドルの赤字を免れえないものだった。そのため韓国科学技術研究所は、すでに投資の行われた施設を試験
操業施設として使用することを勧告していた。
366
367
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し入れをほぼすべて聞き入れ、実際の政策もほぼその方向で推進された(李秉喆
1986、p.121)
植民地期のころから有力資本家としての地位を引き続き維持していた朴興植の場
合も、ビスコース人絹糸工場建設に必要なウォン建て資金の規模は 8 億 4,050 万ウ
ォンにのぼったが興韓(フンハン)化繊(株)の調達可能な資金は 6,267 万ウォンに過ぎ
ず、朴興植の所有していた興韓財団と興韓紡績(株)から捻出可能な資金をすべて合算
しても 3 億 6,146 万 6 千ウォンにしかならなかったため、ウォン建て所要総額の
57%に当たる 4 億 7,903 万 4 千ウォンは金融機関からの融資を充てなければならな
かった 369。
前述の仁川製鉄の銑鋼一貫工場建設事業は、少なくとも外資導入額の規模につい
ていえば 1960 年代の韓国の鉄鋼産業においてもっとも重要な事業だった。1962 年
から 1969 年までに仁川製鉄の導入した外資は 20,649,000 ドルに達したが、これは
同時期の鉄鋼部門において鉄鋼会社 9 社の導入した外資総額 50,683,000 ドルの
40.7%に相当する額だった。このことからも同時期の鉄鋼産業において仁川製鉄の
占める位置を推測することができる。
仁川製鉄の年産 12 万 5 千トン規模の銑鉄生産設備の導入に必要な外資 920 万ドル
(ウォン換算 23 億 6 千万ウォン)は、全額西ドイツからの商業借款に依存するものだ
った。また、仁川製鉄が 1965 年に経済企画院に提出した資金計画書によると、工場
建設および運営に必要な内資所要額は 13 億 4 千万ウォンにのぼったが、この内資も
11 億ウォンは資本金払込により、残りの 2 億 4 千万ウォンは融資によって調達する
計画になっていた
370。1965
年までの仁川製鉄の払込済み資本金は 1 億 5 千万ウォ
ンに過ぎなかったため(仁川製鉄 1990)、工場建設および初期操業に必要な 37 億ウォ
ンの 4%に過ぎない資金で工場建設事業が始められたということだ。そればかりか仁
川製鉄は西ドイツ借款導入の過程で 1,559,400 ドルの借款を追加導入するのだが、
それは西ドイツから資本財を導入した際の総額の 15%(1,380,000 ドル)に相当する着
手金をUDIが立替えるのに伴う追加借款(元金 1,380,000 ドルおよび利子 179,400 ド
ル)だった。すなわち、資本財導入に伴う着手金を支払うだけの資金も確保できてい
ない状態だったのだ。
それだけではない。仁川製鉄は当時国営企業だった仁川重工業の払下げを受ける
ために 300 万ドルの追加の現金借款を導入する
371。じゅうぶんな資金を確保してい
ない状態で巨額の借款を導入するばかりか現金借款を利用して仁川重工業を買収し
た仁川製鉄に正常な運営を期待するのは困難な状況だった。
369
韓国産業銀行「借款契約許可申請に対する財力調査(興韓化学繊維株式会社 ビスコース人絹糸工場事
業)」、1963.2.20、(経済企画院『第 28 次外資導入促進委員会会議録』、1963.4.8)
370 経済企画院「資本財導入契約および借款に対する支払保証承認(仁川製鉄工場建設 仁川製鉄株式会社)」、
『第 64 次外資導入促進委員会会議録』、行政自治省政府記録保管所、文書番号#209、1965.11.16
371 経済企画院「仁川製鉄工場の内資調達のための現金借款契約認可(仁川製鉄株式会社)」、『第 3 次外資
導入審議委員会会議録』、行政自治省政府記録保管所、文書番号#290、1966.11.26
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当初、電気還元炉は 1967 年 10 月末に、予備還元炉は 1967 年 12 月末までに竣工
するという計画
372だったが、設備設置は
1968 年 12 月になるまで完了せず、相次ぐ
故障や事故により製品の生産は行われずにいた。1968 年にUDIから借入れた現金借
款の元利金償還要求が始まったため、仁川製鉄はUDIとの交渉により償還期間を変
更し、それに伴う利子増加分の支払保証金額変更を経済企画院に要請する
373。だが
仁川製鉄は継続的な資金圧迫により運営資金の借入が増加する一方で、結局 1968 年
12 月に産業銀行からの 5 億ウォンの借入に対してもはや担保提供が不可能になり、
そのため産業銀行の管理下に入ることになった。
その後、1969 年 3 月に不良企業整理担当特別班が大統領府に設置され、1969 年 6
月に整理方針が整備されたのに伴い、仁川製鉄は 1970 年 4 月に仁川重工業を合併し
て仁川製鉄所有の仁川重工業株が売却され、産業銀行の投資は融資に転換された
374。
その後仁川製鉄は製銑・製鋼・圧延をトータルに行う一貫生産体制を構築するとい
う計画から、製銑部門を放棄する方向に転換する
375。結局、仁川重工業の既存設備
を活用して銑鋼一貫製鉄所を建設するという西海岸の総合製鉄所建設計画は失敗に
終わった。
当時、不良企業整理担当特別班は仁川製鉄の失敗の原因を指摘して、鉄鋼産業に
対する政策方向を提示した。失敗の原因として指摘されたもっとも重要な点は鉄鋼
工業に対する支援施策の欠如であり、提示された鉄鋼工業の育成施策は、総合製鉄
所建設計画で年産 60 万トン規模となっている従来の計画を年産 100 万トン規模に拡
大すること、総合製鉄所建設を早期に推進すること、鉄鋼工業に対する財政、金融、
税制、原料確保等の支援を内容とする鉄鋼工業育成法を制定することなどだった。
4. 国家介入の強化
個別工業育成法はそれ自体が政府の積極的介入を意味するものでもあったが、個
別工業育成法制定後、実際の法執行過程における政府の役割はいっそう強力になっ
た。
1) 繊維産業の「輸出責任制」および「自家補償制」
化学繊維産業の輸出産業化を推進するに際しては多くの困難があった。ただちに
化学繊維の過剰生産分を輸出するということはほとんど不可能だった。もっとも大
きな問題は、技術水準の低さゆえ製造原価が高くなり、国際市場で価格競争力を維
372 経済企画院「仁川製鉄工場の内資調達のための現金借款契約認可(仁川製鉄株式会社)」、『第 3 次外資
導入審議委員会会議録』、行政自治省政府記録保管所、文書番号#290、1966.11.26
373 仁川製鉄株式会社「現金借款契約内容修正承認申請」、仁製鉄 1591-6808094、1968.8.9、『第 32 次外
資導入審議委員会会議録』、行政自治省政府記録保管所、文書番号#372、1968.8.26
374 産業銀行の出資管理を受けてきた仁川製鉄は 1978 年 6 月に現代グループに売却された。
375 仁川製鉄株式会社、前掲書、p.139
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持することが困難だという点だった。そればかりか、当時は化学繊維を輸入して製
造した繊維製品を輸出する業者が所要量証明書に基づく損耗量を市中に流通させて
いたため、国内の化学繊維製造業者の国内市場における独・寡占的地位が脅威にさ
らされていた。すなわち、保護された化学繊維の内需市場における価格が輸出用原
材料の価格より高かったため、繊維製品輸出業者は損耗量を内需市場で販売するこ
とにより大きな利益を得ることができたのだ。損耗量の市中流出量は、当時の国内
の化繊生産量の 10.9~17.7%水準に達するとの報告があった(韓国外換銀行調査部
1971、p.86)。そのような状況では化学繊維業者が出血の覚悟で輸出をしたところで
輸出での損失分を国内市場の利潤でじゅうぶんに穴埋めするのは困難だというのが
実情だった。
そうした問題に対処するために考案されたのが「輸出責任制」および「自家補償制」
だった。過剰生産分をすべて直接輸出するのが困難な状態で過剰生産分相当量を輸
出用原材料として繊維製品輸出業者に供給するという方策を考案し、それを民間に
強制することを中心的な内容とするものだった。その場合、強制は化学繊維製造業
者のみならず繊維製品輸出業者にも適用された。具体的には 1971 年から化繊の輸出
用原材料の輸入時に商工省の輸入承認を受けることを義務付け、国産の輸出用原材
料の価格および品質関連事項を審議する調整委員会を設置した。また、政府は 1971
年に損耗率を低く抑えることで化学繊維製造業者の国内市場における独・寡占的地
位の強化を図った。化学繊維製造業者が粘り強く求めていた織物類税の引下げが
1972 年から実施されると、業者は生産原価と輸出用原材料価格との格差を補填する
ための財源を確保し、それを化繊協会の積立基金とした。化繊協会は会員企業ごと
に輸出責任量を割当て(輸出責任制)、積立基金を財源に輸出責任量達成の可否によっ
て補償金を支給することとした(自家補償制)。
結局、政府は行政的規制によって輸出用原材料の配分および価格決定過程に直接
介入する制度を作ることで、それによって過剰生産された化学繊維を輸出用原材料
として供給させたのである。
2) 鉄鋼産業の生産費に対する直接的支援
「鉄鋼工業育成法」が制定されると、浦項製鉄以外の鉄鋼業者は同法律が特定業者
を育成する法律だと主張して全面的な廃止または補完を要求した。実際に浦項製鉄
の建設過程で行われた政府支援がどの程度のものだったのかについて見てみること
にする。
まず 1970~83 年の期間で 1~4 期の工事に政府財政出資 2,246 億ウォン、国内借
入金 2,965 億ウォン、外国借款 11,241 億ウォンが投入され、そのうち浦項製鉄に対
する国内借入金はもっとも低い利子率が適用された。社会間接資本(港湾、用水、鉄
道、道路)造成のための政府支援金額は約 1,315 億ウォン、関税減免額は約 1,709 億
ウォン、国税減免額は約 883 億ウォン、地方税減免額は約 250 億ウォン、そして公
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共料金(電気料、用水料、港湾使用料、鉄道料金等)の割引額は約 70 億ウォンで、そ
れらすべてを合計すると 4,227 億ウォンに達した。この金額は浦項製鉄の建設費用
総額の 20%に相当し、政府財政出資金を含めると建設費用総額の 30%に相当する金
額だった。
鉄鋼産業に対する政府支援の持つ意味とは何だろうか。もっとも中心的なものは
国策事業の不良化を防止するための事前の措置として直接生産費支援方策が採用さ
れた点である。一方、「鉄鋼工業育成法」の制定により、浦項製鉄では人事管理を除
く企業経営のほぼすべての領域で政府の介入が制度化された点である。政府は生産、
販売、品質管理、原料の仕入れと販売、原価計算、施設改良、供給価格、施設の改
修・補修を調査命令できるようになったのである(施行令第 11 条、第 13 条)。
5. 結論
クーデター直後から朴正煕政権は意欲的に輸入代替産業の育成を唱えていたが、
実際にはそれに必要な制度的条件は整っていなかった。当時、莫大な規模の外貨資
金を必要としていた輸入代替産業を育成するうえで必要な制度的枠組みを整える必
要があり、それは外資導入関連法規の整備から始まった。国内のウォン建て資金の
みならず外貨資金の統制権を確保した政府は、それを基盤として選別的な産業育成
政策を実施した。
だが外資導入関連法規の整備だけでは選別的な産業育成は進まなかった。外資導
入をめぐる企業間の熾烈な競争のなか、政府の育成対象になったそれぞれの輸入代
替産業部門では国内需要を超過する供給過剰が懸念されるようになった。特に当時
としては新産業だったそれら輸入代替産業における導入技術についての政府の理解
の程度も相対的に低い水準に留まっていた。
個々の産業の長期的需要見通しに基づいて企業の設備新設・増設過程における積
極的調整が求められ、それに関連して調整の原則を策定する必要があった。その過
程において個別工業育成法の制定が具体化した。だが個別工業育成法の制定だけで
すべての問題が解決するわけではなかった。化学繊維産業の事例で確認できるよう
に、「規模の経済」の問題を解決するために試みられた輸出用原材料の輸入代替のた
めに市場的調整に代わる位階構造が創出され、化学繊維製造業者と繊維製品輸出業
者との価格、品質、納期の問題を調整していくのだが、その過程で国家介入の度合
いはいっそう強化された。
一方、民間の資本蓄積の水準は低いままに留まっていた。興韓化繊の事例からも
わかるように、当時は韓国を代表する屈指の企業家でさえも、国有金融機関の積極
的支援なくしては国際規模においてきわめて遅れていた小規模化学繊維工場の建設
に必要なウォン建て資金さえも調達することができなかった。仁川製鉄の事例のよ
うに、はるかに大規模な重化学分野の基幹産業でも民間独自の力では国際規模の工
場を建設することはほぼ不可能だというのが実情だった。国が建設を主導した浦項
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製鉄の場合、1960 年代にはそのような試行錯誤が政策立案の過程において参照とな
ったはずである。その結果が直接の生産費補助と運営過程への積極的介入として現
れたのだ。
以上に見てきたとおり、資源配分過程における市場の役割を代替する位階構造は、
産業政策が執行される過程において時間の経過に伴っていっそう強固なものとなっ
ていった。経済領域における国家統制の強化は、1970 年代以降に現れた政治的領域
における権威主義(維新体制)とはいかなる関係もないのだろうか。
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