東京緑庭会 会誌 - アカシアの花が咲いている地獄坂を登りきった所に 僕

緑丘回想「こぶし咲く公園から」
絵
平 山 幹 昌 氏 (昭 和 28 年 卒 )
字
松 浦 久 幸 氏 (昭 和 38 年 卒 )
東京緑庭会 会誌
第 9 号 ( 2015 年 号 )
目
次
ページ
巻
頭
言
東京緑庭会 会長 早川 好寛(S44 卒)
連 載
・< おすすめの名画(洋画)9 >
【 ジャッカルの日(The Day of the Jackal)】
田中 隆二(S39 卒)
・< 緑丘会館だより(7)>
~同窓会がきっかけで知った商大の先輩~
緑丘会 事務局長 桶谷 喜三郎(S41 卒)
追 悼
・<-本物の学者-中川良延元庭球部部長を偲んで>
田中 隆二(S39 卒)
1
2
3
7
歓迎! ゲスト寄稿者
・<縁は異なもの>
弘前大テニス部 OB
・<小樽商大の体育会成立について>
小樽商大体育会 初代会長
新山
水越
啓之
邦幸(S40 卒)
- テレビ放送のご紹介-
・<応援合戦 100 回 ~北海道を支えた応援団OBたち~>
・<にっぽん紀行「励ましの坂を上りきれ」小樽>
寄 稿
【映画について】(本号の主テーマ)
・<映画-ウエストサイドストーリー >
・<私的な映画よもやま話 >
・<私の感動した映画>
・<青春の思い出の映画>
・<映画「卒業」と挿入歌>
・<映画>
【 随想・随筆 】
・<年寄りの冷や水>
・<一枚の古い写真>
齊藤 愼二(S40 卒)
長岡 佑吉(S42 卒)
成田 芳生(S49 卒)
吉村 幸真(S50 卒)
原田 博明(S54 卒)
野村 史朗(S56 卒)
8
10
12
13
14
16
18
19
20
大和田 殖夫(S32 卒)
21
秋山 賢一(S37 卒)
22
つづく
・< 徒然に…その 3 >
・<60 代後半の健康管理はどうする?? >
青木 高史(S42 卒)
今井 央 (S45 卒)
24
26
央 (S45 卒)
28
練 習 会
・<神奈川ブロック練習会について >
野村 史朗(S56 卒)
・<千葉・茨城・埼玉ブロック練習会について> 松本 衆(S56 卒)
30
32
表 紙 絵
・緑丘回想『こぶし咲く公園から』
平山
幹昌(S28 卒)
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編集後記
原田
博明(S54 卒)
35
対関東楡庭会戦
東京緑庭会
幹事長
会誌編集長
今井
36
37
「小樽商科大学校歌」
「若人逍遥の歌」
*****
【ジンギスカンパーティー 】
2014 年 9 月 27 日
於
まつじん赤坂店
巻
頭
言
東京緑庭会
会長
早川
好寛(昭和 44 年卒)
東京緑庭会の年間行事で最も大きなイベントである北大関東楡庭会との対抗
戦が、2014 年は雨のため中止になってしまいました。東京緑庭会が発足して 9
年になりますが、楡庭会戦の中止は初めてです。例年、年末近くに開催すること
もあって、何となくやり残し感を抱えながら年の瀬、お正月を過ごしました。
雨が降らない日は毎日練習に励みこの日に備えた梶原啓光さん(S44 年)や前
回の雪辱を期していた水越啓蔵さん(S41 年)もさぞ残念だったと思います。
ただ懇親会は、事務局長の成田芳生さん(S49 年)がお店と交渉し時間を繰
り上げてもらい、昼過ぎから総勢 37 人、しっかりと盛り上がることが出来まし
た。両校最長老の園田保男さん(北大、S33 年)のスピーチが感動的でした。
「世
の中、内も外も対立、諍い、いがみ合いが満ちているのに、楡庭会と緑庭会はど
うしてこんなに仲がいいのか。OB対抗戦はかれこれ 40 年以上も続いている。
末永くこうであって欲しい」、と。出席者みんなの思いでもありました。
園田さんご指摘のように、世の中確かにきな臭い。アジアでは経済大国化した
中国が国境(島嶼)を巡るしつような挑発を続けているし、日韓関係は長期にわ
たり悪化したまま。欧州ではロシアの帝国主義化で周辺国への干渉と臆面もない
“侵略”行為を繰り返し、EU内の南北問題先鋭化と反EU勢力(極左・極右)
の台頭がある。そして終わりの見えない中東紛争に、狂気の”イスラム国”勢力
の拡大などなど。いずれも2度の世界大戦の前夜、あるいは、あたかも中世、近
世の風景のような「おぞましい」事態が起きております。
こんな中、2015 年はどんな年になるのでしょうか。新聞や雑誌は、
「国際政治・
経済・外交を形作ってきたいくつかの重要な出来事にとって節目の年であって、
今後を占う重要な変化を見せる年」と言っております。節目というのは、①戦後
70 年、②自由民主党結党 60 年、③日韓国交正常化 50 年、④主要国サミット開
始 40 年、⑤ドル安を誘導したプラザ合意 30 年、⑥節目ではありませんが、ソ
連崩壊 26 年――。特にこのソ連崩壊で、イデオロギー対立の時代が終わり民主
主義と自由市場経済の原則のもとで世界は一つになる、と信じられていました。
ところが、今見せ付けられているのは分離・分裂の動きばかりです。アメリカの
大統領選挙が来年あります。フランス、韓国の大統領選は再来年で、この年はド
イツの総選挙もあります。各国とも大きな政策変更やまして変革などやりにくい
「狭間の年」、との見方もあるのだそうです。安心してテニスをやっていられる
平穏な年であることを願うばかりです。
東京緑庭会は安泰です。会の基盤はさらに強固なものになってきました。まず
各イベントへの参加者が増えていてどれも盛会です。そして会員が引き続き伸び
ています。増田博美さん(S45 年)が加わり、2015 年 1 月末現在で 60 人にな
りました。潜在会員はまだまだいるようです。大いに期待できると思います。
2015 年 2 月 6 日
1
連
載
< おすすめの名画(洋画)9 >
田中
隆二(昭和 39 年卒)
ジャッカルの日(The Day of the Jackal)
1973 年(米国)、原作 フレデリック・フォーサイス、
脚本 ケネス・ロス、
監督 フレッド・ジンネマン、主演 エドワード・フォックス
暗殺者―assassin 狂信的イスラム教徒で十字軍の騎士を殺した。
(ジーニアス
英和辞典)
ジャッカルのコードネームを持つプロの仕掛人とその暗殺を防ぐフランス警察
の話でその標的はド・ゴールフランス大統領である。
ド・ゴール大統領と言えばフランスの栄光、米ソにも対抗等日本人には国粋主義
者のイメージがあるが現実も踏まえた大政治家と思う。
植民地のアルジェリアの独立を認めた事で、退役軍人等の右翼組織 OAS から狙
われる事になる。大金で雇われたプロは、アイディア、変装等多才でついに大統
領に照準を合わせ、トリガーを引く。
私の学生時代、岸首相の後の池田首相はフランスでド・ゴール大統領に“トラ
ンジスタラジオのセールスマン”とあしらわれた様です。
彼のスケールの大きさは、方向転換あるいは撤退できる勇気がある事で、大戦中
の日本の宰相だったら、太平洋の制海権を失った段階で中国本土やフィリピンか
ら兵を引いてアメリカと交渉したかもしれません。もちろん暗殺されたでしょう。
爆弾を投げつけられた鉄の女―サッチャー英首相、ロナルド・レーガン大統領
共々アルツハイマーと聞く。
ド・ゴールは暗殺されるどころか朝、トランプ占いをしていて眠るが如くの往生
だそうだ。シャルル・ド・ゴール空港と、その名をフランスは大切にしている。
フレデリック・フォーサイスの本を島上絹子さんのご尽力で全て手に入れました。
ゴルゴ13と共に愛読書ですが、1989 年 11 月 9 日(25 年前)、ベルリンの壁が
取り壊されてから、この手の話は迫力がなくなりました。
(筆者追記)
寄稿後、イスラム国の人質事件が起こりました。
大国は皆情報機関があります。日本人は水と空気と安全はタダと
言われてきました。水と空気は改良されましたが安全はどうで
しょう。そして情報は?
外房のいすみ市岬町に移住しました。映画の話は今回で終了し
来年からは「いすみ通信」(仮)を書こうと思います。
2
<緑丘会館だより(7) >
桶谷
喜三郎(昭和 41 年卒)
~ 同窓会がきっかけで知った商大の先輩 ~
昨年 11 月、私は同じ週に二度、同窓会出席のため大阪に行った。
最初は日曜日で高校の同窓会、二度目は木曜日、小学校の同窓会だった。
高校の同窓会は、79 名参加したが、会場は円卓となっており、座席は受付で抽
選により決められた。私の隣となったのは非常に仲のよかった Y 君だった。
高校は、海側の南海沿線にある“だんじり”で有名な街にある岸和田高校。Y 君
と私は、山側の阪和沿線の駅から通う田舎の中学出身だった。Y 君は、その駅か
らさらに山側に自転車で帰り、私は阪和線に乗って和歌山方面に帰る。
そんな二人は、毎日のように一緒に駅まで、自転車を押して帰った。駅に着くと、
二人はなかなか別れず毎日長く語り合った。今となっては、何をあんなに長いこ
と語り合っていたのか思い出せない。青春の真只中、あんないい頃はもう二度と
ないだろう。
そんな昔を懐かしみながら話していたら、Y 君が突然、
「君は小樽商大だったね、
昔ペルーで人質事件があったろう!日本大使の公邸で。あの時、会社の先輩が人
質になってたんだよ。その人が、確か小樽商大だったよ。」
初耳だった、ペルーの事件は、もちろん知っていた。長く解決できないで、連日
報道されていたので強く記憶に残っている。
Y 君の勤務した松下電器(株) {(現パナソニック(株)}の先輩、私には商大の先
輩の名を聞いて、帰京後早速名簿を当たった。先輩は昭和 36 年卒の瀧 滋さん、
兵庫県在住とあった。緑丘会会員名簿では平成 2 年版まで遡ると、勤務先に松下
電器産業(株)とある。
そのころ、私は 12 月の東京支部講演会の準備をしていた。一年の最後を飾る
講演会の講師には、NHK 東京アナウンス室勤務の福井慎二さん(昭和 55 年卒)
にお願いしていた。
彼は、
『緑丘』114 号(平成 25 年 8 月発行)に「夜型ニュースアナウンサーの
舞台裏」を執筆。プロフィールでは、NHK のチーフアナウンサー。これまで「お
はよう日本」や「ニユース7」など報道系番組を中心に担当。現在ニュースウオ
ッチ9のナレーター。平日夜間の緊急特設ニュースを担当、と紹介されている。
ご存じの方も多いでしょうが、彼のナレーター振りは、事件や事故の経緯や経過
を冷静に伝えて、非常に安定感がある。また、メインニュースが終わって、関東
甲信越のニュースになる 22 時 50 分には、突然顔がクローズアップされ氏名も
表示される。ノーブルな顔が印象的である。
やがて、彼から講演会用に配布するプロフィールがメールされてきた。そこに
は前述のものだけでなく、過去の経歴と担当も書かれてあった。
講演会で配布したものなので再現すると、『札幌市生まれ。札幌東高校から小樽
商科大学を経て、昭和 55 年にアナウンサーとして NHK 入社。東京の他は、札
3
幌、長野、秋田、金沢など、積雪寒冷地に勤務。ニュース「おはよう日本」など
で事件事故や災害の現場からの中継リポートを多く担当。(阪神大震災、函館空
港全日空機ハイジャック事件、ペルー日本大使公邸人質事件など)』
プロフィールにあった、ペルー日本大使公邸人質事件が目に留まって、彼への
返信に同窓会で聞いてきた話を書き、瀧 滋さんの名も紹介し何か知っていたら
教えて欲しいと頼んだ。
やがて回答が来た。
『ペルーで人質になっていた日本人 24 人のうちの一人が、商大の先輩だったの
ですね、知りませんでした。12 月 17 日の事件発生から 4 月 22 日の特殊部隊の
突入による解放まで、生きた心地のしなかった 127 日間を生き抜いた方ですね。
瀧 滋さんは、弊社の「プロジェクト X」でも取り上げられています。当時は「ペ
ルー松下の社長」として、テロに遭遇しました。
私は、2 月から事件解決の 4 月末までペルーに派遣されていました。
NHK が借り切った規制線のすぐ外のマンションの部屋に詰めていて、現地で取
材した内容を毎日短いリポートで伝えていました。
突入の瞬間、ハッキリ憶えています。
夕方、3 時半頃、窓を外した 16 階の部屋から公邸を見降ろしていました。直線
距離で 200 メートルほど、公邸の窓にゲリラの姿がはっきり見えます。
突然、爆発が起き、周囲にいた野鳥が驚いて一斉に飛び立ちました。
パンパンパンと銃を乱射しワーッと声を上げながら特殊部隊が公邸に突入。
あわてて、防弾チョッキを身につけ、屋上から伏せながら取材しました。
銃声と爆破音が収まるまで 1 時間以上かかり・・・その間にゲリラ 14 人全員が
射殺されました。72 人の人質の内 1 名が死亡、特殊部隊員 2 名も亡くなりまし
た。
日本人の人質の方とは結局お会いすることはありませんでしたが、瀧 滋さんと
いうお名前は、記憶にありました。その後、JICA の関係でパラグアイと日本を
行き来しているとネット(2003.7)に書かれていました。
大変な体験をなさった瀧さんは、また別の感慨をお持ちかも知れませんが、私は
事件を懐かしく思い出しました。また機会があれば、お話しいたします。一度、
瀧さんにお会いしたいものです。情報、ありがとうございました。』
再び、福井さんにメールを出して、「プロジェクト X」をどこかで見る事がで
きるか尋ねた、オン・デマンドなら見られるかと思ったが、リストアップされて
いないかも知れないと考えた。
福井さんからの返信に私はとても喜んだ。
『桶谷さんはついています、昨日 YouTube にアップされたばかりで、まるまる
見る事が出来ます。他に公立図書館で見ることも可能です』
早速 YouTube を再生する。とても感動的な物語だ。簡潔に再現する。
4
■平成 15 年 1 月 14 日放送 プロジェクトX
「衝撃のペルー」 男たちは生き抜いた~人質 127 日間のドラマ~
司会進行:国井雅比古、膳場貴子。語り 田口トモロヲ。
主題歌 「地上の星」 歌 中島みゆき。
プロジェクト X 出演の瀧 滋さん
平成 8 年 12 月 17 日 午後 8 時 20 分、MRTA(ツパクアマル革命運動)の武装
集団 14 名が銃を乱射しながらなだれ込んできた。その夜は、天皇誕生日の祝賀
パーティが開かれていて、ペルー政府の閣僚、世界各国の大使ら 600 人あまり
が招待されていた。現地に駐在していた日本人も 35 名招かれていた。
人質は、その後大半が解放されたが、最終的に 74 名が囚われの人となった。日
本人は 24 名いたが、大使館員などを除くいわゆるサラリーマンは 13 名だった。
中南米で働く企業戦士たち、平均年齢は 53 歳。瀧 滋さんは最年長で単身赴任中、
定年まで 1 年、駐在を終え帰国まで 10 日という日の事件勃発だった。
プロジェクトXは、様々なエピソードを紹介しながら展開するが、瀧さんが常に
メインに扱われていて、番組ゲストでの登場も先頭、すべての問いかけも最初に
飛ぶ。
奥様が現地に飛んで赤十字事務所に詰め夫に何度も手紙を差し入れた。
ある日ラジオの前に居て、と書いた、3 月 19 日、滋さん 59 歳の誕生日だった、
現地ラジオ局に CD を持込み流してもらった。二人で唯一デュエットできる加藤
登紀子の「百万本のバラ」。滋さんは泣きながら、その歌を聴き「もう一度だけ
頑張ってみよう」と思った。
娘さんの結婚式が近づいていた、何としても生き抜いて娘をエスコートしたい。
実は結婚式は延期されていたが、解放後念願の花嫁の父を演じることができた時、
「囚われの日々の中、いつも心から支えてくれていたのは、あなたのお母さんで
す」とスピーチ。夫婦は強い絆が大切、と語って印象的だった。
解放仲間の 13 人は、囚われた 12 月 17 日と解放された 4 月 22 日の年 2 回、同
窓会のように集まって、苦難を戦い抜いた日々を振り返っている。(了)
注)プロジェクト X の YouTube は、現在閉じられている。
5
平成 26 年 12 月 6 日、東京支部講演会の後で。
後列真ん中が福井慎二さん。古川哲朗さん(S48 卒)、筆者らと。
平成 27 年 3 月 29 日、NHK「今夜も生でさだまさしスペシャル」に出演。
6
追
悼
<-本物の学者-中川良延元庭球部部長を偲んで>
田中
隆二(昭和 39 年卒)
学生時代、先生は民法Ⅱという授業を持たれていましたが、必須でないので取
らず何がご専門かを恥ずかしながら知らず、100 周年の案内を差し上げた時に知
ったのです。家族法-養子縁組や養育家庭制度等の研究-です。特に机上だけで
なく足を運び足もとのしっかりした研究者で柔和なお人柄でありますが、ご自分
の信念は強く決してひるまず、述べられると、山梨学院大学勤務時代の同学の法
学部法学科長だった小野寺規夫先生(故人)が「中川良延先生に贈る言葉」の中
で言われております。私達夫婦は二十余年、血の繋がらない子ども達を育てる活
動をしてまいりましたので、文通で意見交換をしてまいりました。ここでは書け
ないこと、直接私共に関する事も多く先生にはもっと長生きして欲しかった、残
念でなりません。又、若い頃ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』
に感銘を受け、人間と家族についての研究をテーマにしたとも聞きました。
十勝平野の池田町のさらにその在、電気もない所で育った大地の支えが青年の志
を八十歳を超える年まで続けさせたのではないかと思っております。
今日、表紙だけを飾り、中身はインチキな学者、弁護士、食品等私自身被害を
受けて今でも戦っています。それだけに、「先生は本物だ」と心の底から強く思
います。先生の心を一つでもつなげる事がご供養と思っています。
ご冥福をお祈りします。
【中川良延先生略歴】(山梨学院大学法学論集 49(20030310)参照)
1931 年 4 月 1 日 北海道にて出生
1954 年 3 月
中央大学法学部法律学科卒業
1956 年 3 月
東北大学大学院法学研究科修士課程修了
1956 年 4 月
東北大学法学部助手
1959 年 1 月
小樽商科大学講師
1963 年 10 月
同大学助教授
1970 年 4 月
千葉大学人文学部助教授
1974 年 11 月
同大学人文学部教授
1981 年 4 月
同大学法経学部教授
1991 年 4 月
同大学法経学部長及び評議員(1993.4.13 まで)
1993 年 4 月
同大学評議員(1995.4.13 まで)
1996 年 3 月
同大学を定年により退職
1996 年 4 月
千葉大学名誉教授
1996 年 4 月
山梨学院大学法学部教授
2002 年 3 月
同大学を退職
2015 年 2 月 8 日 死亡(享年 83 歳)
1
歓迎!
ゲスト寄稿者
< 縁は奇なもの >
水越
啓之(弘前大学テニス部OB)
東京緑庭会の編集の方から原稿依頼を受けた時、余りにも色々有り過ぎて何を
書いたら良いやら、断ろうかなと思いましたが、私自身あまり振り返ってみたこ
と無いのでこの際と思い少し振り返ってみました。
すると人の(縁)に人生どれだけ助けられたかを思い出し、これも何かの(縁)かと
書く気になりました。発病後について綴ってみます。
41 歳の時会社がソウルオリンピックのオフィシャルスポンサーになる事になり、
私が担当になり、管理職になりたてで寝る間も惜しんで張り切り過ぎて、協会と
東京での打合せ出張中に脳出血で倒れました。救急車で慈恵医大へ。
なんと担当した医師が私の大学のテニス部の後輩でした。キャプテンを殺す訳に
いかないと徹夜で看病してくれて命は助かりました。
もし学生時代イジメでもしていたら、其処まで献身的にしてくれなかったかも?
一年間入院結果重度の片麻痺になり京都のリハビリへ。そこでのリハビリで卓球
を始めました。おかげで翌年の障害者国体で銀メダル取り、そこからテニスもも
しかしたらもう一度と思ったが 47 歳の時妻が癌で死去、学生時代からテニスを
一緒にやってきたので、ラケットを持つ気になれなくなりました。
それで陸上競技(砲丸・円盤・槍投げ)をやってみたら片麻痺でもなんとかできた。
全日本に出たらメダルを取れるようになったのでパラリンピックの出場を狙っ
て 10 年間やったがどうしてもパラリンピックの 標準記録を超える事が出来ず
諦めました。
そんな時ある航空機博士と知り合い、車椅子で鳥人間コンテストに挑戦してみ
ようという事になり、京都の車椅子メンバーに募ったらぜひやってみたい者が現
れ出る事になった。会社の社長も学生時代グライダークラブに所属していたので
全面的に応援してくれて奇跡的に優勝できました。その後、車椅子の女性もやっ
てみたいとの希望者が出て翌年も出場、今度は羽が折れ撃沈、幸い無事でしたが。
やりすぎは私の事も有りほどほどにしました。
京都車椅子駅伝大会も放送されるようになり車椅子の人達からどうしたら色々
挑戦出来るのかと問い合わせが殺到して、京都 TFC(トラック&フィールド)とい
う障害者陸上クラブを設立して初代会長やり、そこに申し込めばわかるようにし
ました。今はパラリンピック出場選手も出るようになり毎年京都車椅子駅伝全国
大会が開催されております。54 歳の時卓球で国際フェスピックに出場し団体戦
は一回戦で中国に負けましたが、国際メデカルチェツクで水越さんは C7 ではな
く C6 へとランク変更されました。すると同一ランクに 3 人揃い個人戦に急きょ
出る事ができました。なんと金メダルを取る事が出来ました。片麻痺の選手は日
本で初めてだそうです。その後、障害者スポーツの為に日本身体障害者陸上競技
2
連盟の理事を 13 年間勤め、今は国体のたびに全国を渡り歩くのがしんどくなり
昨年で引退しました。今は、ボケ防止とリハビリを兼ねて市の生涯(兼障害)ス
ポーツのボランティアに時々参加してうるさいご意見番です。
例をあげると、障害者スポーツ大会は新聞では市民娯楽欄に掲載スポーツでは
無いとの姿勢でした。そこで障害者の私が健常者大会出て勝っても娯楽欄か?
勝つなんてありえないと馬鹿にされたが、なんと健常者大会で優勝したらスポー
ツ欄に載せるようになりやっと市民権を得たみたいです。
第 28 回全京都障害者総合
スポーツ大会卓球大会(2008 年)
水越氏は片麻痺障害部門で優勝
最近では車いすテニスの国枝選手の活躍もあり、障害者スポーツへの関心が高
まっております。
来る 2020 年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて益々障害者スポーツ
への関心と理解が深まっていくことを期待する次第です。
(編集人注)
筆者は水越啓蔵氏(S41 卒)の実弟で早川会長とは高校時代のライバルでも
あります。
3
< 小樽商大の体育会成立について >
新山
邦幸(昭和 40 年卒)
私は昨年 5 月 29 日に札幌から上京し、緑丘会館で田中隆二さんにお会いしま
した。その日は小樽潮陵高校卒 53 期の同期会が緑丘会館で開かれたのです。
その時に「たかがテニスされどテニス」に初代体育会長としての苦労話を寄稿
して欲しいと依頼されました。
今になって彼が私に寄稿を依頼したのは何故かと考えてみました。
人一倍愛校心が強い彼は小樽商大の現況、前途について期待と不安を抱いている
のではと思います。後輩に頑張って欲しいと願っているのだと思います。
彼とは 50 年ぶりの再会でしたが、小中高大学と同じ学校で学んだのは彼だけ
でした。彼は小学生の時から秀才で、かつ抜群のリーダーシップを発揮し、良い
事悪い事とも先頭に立って行動し、級友からは隆二さんと呼ばれ、教師からも一
目置かれておりました。
さて、体育会成立についてですが彼と私が在学中に北海道地区国立大学の体育
大会が開催され、小樽商大が当番校となりました。体育会のない商大は体育担当
教官の杉山登助教授が一人で多忙を極めて学生に指示をしておりました。
私も何故か杉山先生から依頼され、先生に同行して札幌まで出向き、会議に出
席したことを記憶しております。この体育大会は 8 月に行われたと思いますが、
秋になって商大にも体育会を創ろうということになりました。
体育会の創設は組織の必要性が一番大きな理由でしたが、私には他の理由があ
りました。それは私が主将をしていたスキー部に配分される自治会からの予算が
少ないと不満を持っていたことです。スキー部は部員数 4 名でしたがインカレ
(但し 3 部)を初め道学生大会では得た賞状の数は、運動部の中では上位であっ
たと思います。因みに私が 4 年の時にはインカレ、道大会ともリレー及び総合で
北大に勝利しております。スキー部は用具、遠征費と負担が多く、私は家教のア
ルバイトを 3 件やって月 6 千円の収入がありましたが全てつぎ込んでおりました。
毎年 5 月になると応援団を初め各部の主将が集まり、自治会委員を議長として
予算の審議(ぶんどり合戦)が行われます。
各部の主将が各々予算書を提出して、その合理性、必要性を侃諤の議論をして、
最終的には自治会で決定するのですが、自治会の委員は運動部の活動に精通して
いたかは疑問であり、決定の基準は部の活動よりは前年の予算額、部員数、主将
の声の大きさ等が優先した様に思っていました。
商大に体育会を創ろうと熱心にやっていたのは、私の記憶では硬式庭球部の田
中隆二さん、硬式野球部の斉藤喜久男さんです。
団体競技では学生数が多い北大に勝利するのは至難ですが、二つの部は“打倒
北大”を目指して良く練習しておりました。また大先輩の方は毎日の様にコート
を走り玉を追っておりました。その方は顔も手足も赤銅色に陽焼けし、ラケット
を打つ気迫は学生を凌ぐものでした。
ある日テニス部の学生に「あの方は誰ですか?」と尋ねたところ「先輩の斉藤
4
さんです。」と言う。いつも練習しているので、
「何の仕事をしているのですか?」
と重ねて尋ねると「小樽市役所の現役の職員で肩書きは判らないけれどテニスが
人生の方です。」と教えてくれました。
硬式庭球部、硬式野球部とも学業と部活動に頑張っていたから、私とは異なる
理由で体育会の必要性を考えていたものと思います。
体育会を創設するに当たっては、各部の主将が集まり北大の体育会を参考にし
て、また規約も北大のものを入手して商大に適合するように協議して完成させま
した。
最後に体育会長を選出する段になりましたが、4 年生は卒業することになりま
すので 3 年生の中からとの流れになりました。
立候補する者もなく、誰が適当なのか暫し沈黙が続く中、突然私の後方から「新
山、お前がやれ、お前が一所懸命やってきたんだからお前がやれ」と大声が出て、
正に鶴の一声で私が選出されてしまいました。
その大声を出して私を会長にしてしまったのが田中隆二さんであったことが
商大を卒業して 35 年もして、私の同期の田辺君から聞きました。
緑丘会館でお会いした時にその事を話しましたら、彼も「えー、知らなかった
の」と驚いておりました。
私の後ろに座っている人の顔は見えませんでしたし、何よりも隆二さんが私に
託した重責を愚かにも理解していなかったのです。
さて、体育会の会長にはなりましたが、自治会から予算の配分権限をとること
は出来ませんでした。何故ならば文科系、体育会とも予算は全て学生から徴収す
る自治会費から賄うことになっていたからです。
自治会の委員は智明寮の寮生がほとんどであり、また各部の主将も寮生であっ
たので、ラグビー部の主将をしていた同期の上林昭夫君に「後は、お前がやって
くれ」と責任を押しつけてしまいました。
隆二さんから寄稿の依頼を受け、昨年 10 月に七飯町に住む上林昭夫君を訪ね
30 年ぶりに再会し、その後の経過を尋ねましたが、彼も何もできなかったと話
しました。念の為在学生にも尋ねましたが、体育会は存在するが活動はイマイチ
とのことです。
私は最近よく学生と接触しますが、部活動、大学との関り、緑丘会への関心は
少し足りない様に感じます。ゼミのコンパや部の合宿よりもアルバイトが優先す
ることもある様です。私の年代になりますと卒業生にも同様の傾向が見られます。
ただ、例外は硬式庭球部です。
今年 2 月 11 日に緑丘会札幌支部の新年交礼会が開催されましたが、出席され
た齊藤理事長、舟本副理事長、桶谷常務理事、講演された吉田理宏氏は全員硬式
庭球部員であったことに感心しました。
田中隆二さんが健康を損なわれたのは残念ですが、大学卒業後 50 年経って隆
二さんから託された責務を果たしていきたいと思います。
(編集人注)新山氏は 2014 年 7 月 25 日小樽商科大学より“名誉校友称号”を
授与されました。
5
-テレビ放送のご紹介-
< 応援合戦 100 回 ~北海道を支えた応援団OBたち~>
NHK総合 2014 年 7 月 4 日放送、全国放送は 7 月 11 日
2014 年 100 年目を迎えた北大・小樽商大による応援合戦に迫る。この伝統を
代々受け継いできた応援団 OB は、両校合わせて 500 人以上。その 4 割が卒
業後も道内に残り、時代時代の中、あらゆる分野で北海道を支え続けている。
<にっぽん紀行「励ましの坂を上りきれ」小樽>
NHK総合 2014 年 9 月 23 日放送
北海道小樽市にある“励ましの坂”と呼ばれる急坂。夏、この坂を自転車で上り
きろうと全国から旅人がやってくる。なぜ人々は坂を上るのか。坂に集う人間模
様を見つめる。ナビゲーターはキムラ緑子。
<対
戦>
6
寄
稿
【 映画について 】(本号の主テーマ)
<映画-ウエストサイドストーリー >
齊藤
愼二(昭和 40 年卒)
昭和 30 年代の小樽では、TV も普及途上、映画が最大の娯楽で、映画館は大
混雑。冬になると、足は寒さで感覚が失せる中、長靴を蒸気配管にのせ、暖をと
りつつ、ジョン・ウエインの西部劇、ニュース専門の映画などを見ていました。
当時、小樽には映画館もたくさんあり、今もその面影が建物に残っています。
「映画」、「テニス部」
、「昭和 40 年卒」といえば、我々にとってはあの「ウエス
サイドストーリー」です。
昭和 37 年(1962 年)商大 2 年生になりたての春、札幌でテニスの試合があり
(?)出掛けたところ、生憎の雨、そこで同期数名でテニスラケットを抱えなが
らの映画鑑賞、それが「ウエストサイドストーリー」でした。
同期の高木君が映画に詳しく、新しい情報は、さすが東京出身。
この映画は、ご存知の通り、ニューヨークの若者集団の抗争があり、悲恋の結末。
ダンス、音楽など新鮮、そして俳優もかっこいい。
ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ジョージ・チャキリスなどなど。
それから程なくテニス部の新入生歓迎コンパが、おそらく三川屋でありました。
我々2年生はコンパが終わると、心地よい酔いにまかせ、港の埠頭まで行きまし
た。埠頭には確か2隻の貨物船が停泊しており、我々は潮の香りと貨物船をバッ
クに、「ウエストサイドストーリー」のダンスのまねをしたものでした。
あの年は、大勢の1年生が入部し、我々2 年生は改めて自分の今後の学生生活を、
又、テニス部でのこれからの生き方を考えた時でもありました。
それが「ウエストサイドストーリー」と「港の風景」とを結びつけ、少しばかり
感傷的になったのかもしれません。
商大、そしてテニス部での密度の濃い学生時代は、悩んだり、感情的になったり、
若さゆえ、神経が鋭敏になっていたのかもしれません。
そのようなテニス部での学生生活の付き合いが切れ目なく続いています。
また、今もテニスの技術上達を目指したいと、気持ちだけは現役です。
しかし、過去の記憶は、皆が同じ記憶であるはずなのに、ひとそれぞれにばらば
らで、一致しないことが往々にしてあります。
今年、我々は卒業してから 50 年目の年を迎えます。
1
< 私的な映画よもやま話 >
長岡
佑吉(昭和 42 年卒)
・総天然色
もの心ついた頃の映画といえば白黒のモノクロでしたので、ディズニーのア
ニメ映画「白雪姫」を両親と一緒に観た時は、動きの表現、音響の素晴らしさ、
特に色の鮮やかさにはカルチャーショックで圧倒、感動したものです。
その後だんだん一般の映画もカラー化されて、カラーのことを“総天然色”と
表示された看板、ポスターが良く目につきました。
・屋外映画会
小・中学生の頃は映画館が各地にどんどん増えてきました。一方で夏休みシ
ーズン中の夜には学校の校庭にスクリーンを張り、「映画会」なるものが良く
催されていました。その日は早めの夕食を済ませ、必ずウチワとゴザを持って
出掛け蚊に刺されながら星空の下での時代劇とか文部省推薦劇映画を楽しん
だものでした。
・松竹大船撮影所
鎌倉市内で私も住んでいる大船の地にはこの撮影所が昭和 11 年から平成 12
年まで 64 年間にわたり存続していました。その跡地は一時テーマパーク「鎌
倉シネマワールド」が開設されましたが、たった 3 年間で閉鎖となりました。
ここで展示されていた「男はつらいよ」の団子屋セットは現在東京葛飾の「葛
飾柴又寅さん記念館」へ移設されているそうです。
・俳優さん
私は営業職で大船にある三菱電機にもよく出入りしていました。その隣には
まだ松竹大船撮影所が健在の頃です。
撮影所の前にはレストラン、定食屋、ラーメン屋等もあり時々そこで昼食をと
ることもありました。レストランでは高橋英樹が侍姿のまま食べていたり、小
柄なミヤコ蝶々も賑やかに歓談しているのをすぐそばで見掛けたりしました。
又その日は野末陳平が参議院議員に当選した日だったのですが、定食屋でフラ
ンキー堺とバッタリ同席になりました。うれしそうな顔をしているので訳を聞
くと「陳平が当選して良かった良かった」と言ってました。
一緒に他のことも話をしながら昼食を済ませました。
「男はつらいよ」中の柴又帝釈天の「御前さま」は笠智衆ですが、本人の生家
は熊本県玉名郡の来照寺で日露戦争最中の明治 37 年生まれです。大正 14 年
松竹蒲田研究所に入っていた時に父親が急死され、約半年は実家の寺の 16 代
目住職のおつとめをしたとのことですから「御前さま」はまさに適役だったと
言えましょう。趣味はゴロ寝と散歩とのこと。そのお住まいは大船観音の近く
で、当時の私の住まいからものの 200m程の所でした。趣味の散歩も良くされ
ていたらしく、私の家内は何度も道で行き交っていたそうです。
・鎌倉には“市営映画館”がある!
市内には大正 13 年に映画館が 3 軒でき、その後 6 軒まで増えた昭和 31 年
2
から 36 年をピークに少しずつ減り昭和 63 年は 1 軒、その 1 軒も平成 6 年に
は無くなってしまいました。しかし平成 22 年に“市営映画館” といえる「鎌
倉市川喜多映画記念館」が誕生しました。
ことのいきさつは、この地に住んでいた川喜多長政、かしこ夫婦(国際的映
画人、映画製作者、映画輸入を手掛けていた東和商事のオーナー)の死後、そ
の住宅は鎌倉市に寄贈され、その母屋が新装建替えられて記念館に生まれ変わ
ったということです。
今も在る邸内の別邸は元哲学者 和辻哲郎が練馬で居住していた木造家屋で
川喜多夫婦が海外より来日した映画監督や映画スター(アラン・ドロンも来宅
した)を迎えていた家です。
記念館内は情報資料室があり、雑誌「キネマ旬報」、映画監督、俳優たちの
著書、写真集等を自由に手に取って明るい机で読むことが出来ます。
内外の映画ビデオテープも多数置いてあります。
肝心の“映画館”の方ですが、ゆったりしたスペースの部屋で大き目のビッ
プ席シートが 51 席ある試写室といった雰囲気の映像資料室がそれです。ちゃ
んと 35 ミリの映写機で昔のままのアナログで和洋画の名作を楽しめます。
上映映画の案内は鎌倉市報なり、インターネットで予告しています。
入館料は 200 円。上映チケットは入館料込みで 800 円~1,000 円(上映作品に
より異なる)です。
鎌倉駅から小町通りを歩いて 10 分位のところなので興味のある方は一度足
を運んでみてください。
3
< 私の感動した映画 >
成田
芳生(昭和 49 年卒)
引越しを 10 回も経験しますと結構大変なことは、本の始末だとわかりました。
大切な本、なかなか捨てられない本や買ったままで読んでいない本、大百科辞典
や美術全集など相当重い紙の塊、実に運ぶのが大変です。銀行勤務の時代の引越
しは、転勤辞令の前日の内示からほぼ1週間余りで済ませなければなりません。
自らが引越し業者を選定し、打ち合わせを行い、住民票転出届けや子供の転校の
手続きや段ボール詰めなどの準備を行い、慌ただしく、そそくさと家族で移動す
るハードなものでした。何かと苦労したり頑張ったのは、妻のほうで、私は、朝
早くから夜遅くまで取引顧客のあいさつ回りや引継業務、送別会やらで忙しく、
転居手続き、引越し準備はすべて妻任せでした。
本以外に、始末が悪いものは、LP レコードでした。趣味といえるほど収集し
ていたわけではないのですが、結構な枚数を持っていたので、段ボール詰めは大
変でした。現在は、銀行を退職して 15 年、もう転勤もなく、引越しはなしとし
て、練馬に住んでいます。苦労して引越しを繰り返しながらも大切にしている
LP レコード、東京関西 2 往復でレコードプレーヤーが壊れ、音を楽しむことな
く今は本棚に立てたままになっています。近頃は、CD の時代、インターネット
の時代と音源の変化があり、あえて LP を聞くことがなくなっています。クラッ
シックからオリビアニュートンジョン、井上陽水、ハイファイセットなどなど、
レコードプレーヤーを修理しなかったため、とんと LP レコードの音を聞くこと
がなくなりました。
その LP レコードの中で大切にしている1枚の映画サウンドトラック盤があり
ます。それは、昭和 49 年封切り『砂の器』のサウンドトラック盤です。
「人間の
宿命を追って胸に迫る感動」
「一人で生まれることはできない」
「一人で生きてい
くこともできない」と銘打たれたレコードです。もう 40 年も前のことです。
その後何度もテレビドラマとして放映されたり、テレビ映画としても放映されて
いるのでご存じの方も多いと思います。私が見た黒澤映画や山田洋次映画、中村
錦之介の時代劇映画など日本映画の中で、この『砂の器』は、日本の四季の風景
が最も美しく描かれた最高の映画だと思っています。
4
昭和 52 年だと記憶していますが、新婚時代に妻と見に行った映画です。封切
りではなく、横浜伊勢佐木町の松竹劇場で再上映されたものでした。私は、元来
涙もろいほうで、少し危ないと思っていましたが、案の定、映画が終わり外に出
るのが恥ずかしいぐらい涙で顔がくしゃくしゃになってしまった思い出があり
ます。その時、大変感動したのでしょう、その後発売されたサウンドトラック盤
LP レコードを早速購入したのです。その時の感動をもう一度とのことで、LP
レコードをよくかけてラストシーンの丹波哲郎のせりふ、語り口で映画を思い浮
かべていました。
<日本列島の四季をつらぬく親と子の旅><一人として涙しない者はいない物
語>『砂の器』 原作は松本清張、脚本者の一人は橋本忍、黒澤映画の脚本を多
数書いている脚本家、もう一人の脚本者はご存じ山田洋次、監督は黒澤監督の「醜
聞」
「白痴」の助監督を行い「日本一の助監督」と言われた野村芳太郎監督、
「鬼
畜」
「張り込み」
「八つ墓村」などを監督した人物です。音楽監督は、芥川龍之介
の息子の芥川也寸志、音楽は菅野光亮、ジャズピアニスでその後「鬼龍院花子の
生涯」の音楽を担当しています。
物語は、国鉄蒲田駅操車場構内での殺人事件から始まり、東北弁「カメダ」の
解明、最後は西蒲田警察署における大捜査会議で事件の謎解きが行われ、犯人で
ある作曲家が新曲の発表会で逮捕されるというものです。なぜ犯人は殺人をしな
ければならなかったのか、犯人の生い立ち境遇、人生はどのようなものであった
のか、日本各地の四季折々のきわめて美しい映像のなかで謎解きが行われるとい
うものでした。
キャストは今西刑事役である丹波哲郎、低音で響き渡るよい声、名演技でした。
事件の謎解きをする大捜査会議での彼の捜査報告は、その語りの重厚さが心に響
き、感動を増幅させるものでした。次に犯人の作曲家和賀英良役演じる加藤剛、
過去の生い立ちを微塵も感じさせない聡明な芸術家として演じられました。和賀
英良の恋人役島田陽子、私ファンです。和賀英良に殺される役緒方拳、お遍路姿
のハンセン病患者を演じる和賀英良の父役加藤嘉、吉村刑事役森田健作、映画館
のおやじ役渥美清、などで名優ばかりです。
その時代不治の病と言われたハンセン病の父とその子が歩んだ人生、切ろうと
しても切れない親子のおもいを美しい日本四季と共に映像に表現されています。
原作 松本清張の小説『砂の器』も読みましたが、ミステリー性はあっても、
映画のような感動は得られませんでした。砂の器とは、何なのかいろいろ考えさ
せられます。機会が有れば、DVD を借りて一見の価値があると思います。
現在、丹波哲郎や渥美清などの役者はいなくても、日本映画が隆盛と言われて
います。テレビの出現で斜陽と言われた時代もありましたが、隔世の感がありま
す。
雨の降った休日には、映画音楽を聴きながら、昔見た映画を思い浮かべること
にしようと思う今日この頃です。
5
<青春の思い出の映画 >
吉村
幸真(昭和 50 年卒)
青春の思い出の映画といえば、やはり“網走番外地“でしょう。
高倉健さんが亡くなったのは寂しいですが、父親の仕事で小学 6 年生から中学 2
年生まで網走で過ごしました。
映画の思い出の前に一つ毎冬来る流氷に乗って遊んでいたら、上級生が自分の
よりでかいのに乗っていると言って、飛び乗ってきたんです。その途端、流氷は
真っ二つ!二人とも海に落ちたが、かろうじて岸に上がれました。
そのあとが問題、ずぶぬれで帰っては母親にばれると思い、近くの民家の屋根に
上って、衣服を乾かした、というより衣服が凍ってしまったのです。
結果は何とかばれずに、風邪もひかなかったのだから今では大したものだと自分
を誉めています。
中3生になって、転勤で私の生まれた滝川へ。滝川の広陵中学での最初の挨拶で、
「網走から来ました、吉村で…」と言いかけたその瞬間、教室は爆笑の渦!!
“網走番外地”が一世を風靡していた時代です。当時は網走が爆発的に受けてい
た時代だから、中三生は“網走”と聞いただけで大爆笑!!笑いはおさまらず、
椅子から転げ落ちる奴もいて、私は挨拶を途中でやめました。
その後の私のあだ名はやはり、網走!あるいは番外地!となり、良いのか悪いの
かすぐに仲間に溶け込んだのが思い出の一つです。
さて、映画の歌詞に『きすひけ、きすひけ、きすぐれて』というのがあります。
『どうやってキスを引くのか?』『吸うんじゃねえのか?』とか迷いましたが、
『きす』とは『酒』のことだとあとで知りました。
わけもわからず歌だけはよく覚えていたのでした。
後、健さんの“幸せの黄色いハンカチ”も良いと思いますが、紙面の都合でま
た機会があったらとさせていただきます。ご清聴 有難うございました。
6
<映画「卒業」と挿入歌>
原田
博明(昭和 54 年卒)
昨年のNHK紅白歌合戦で歌われた「レット・イット・ゴー」は映画「アナと
雪の女王」の主題歌であることはご承知のとおり、映画と切り離せないのが挿入
歌でしょう。
高校生の頃聴いたサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」
がダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」のそれと知ったのは暫くたってから
の事でした。当初は映画のおかげでサイモン&ガーファンクルの知名度があがっ
たと言われたそうですが、現在の評価は反対のようです。
映画「卒業」の日本での公開は 1968(昭和 43)年で、翌年高校に入学した頃、
小樽の電気館では上映中か終了後だったかは定かではありませんが、実際にそれ
を電気館で観たのはリバイバル上映で大学の終わり頃でした。
さて、「卒業」では主題歌よりもスカボロー・フェアがなぜか記憶に残ってお
ります。中国返還前の香港へ行った時に入手した海賊版のサイモン&ガーファン
クルのカセットテープを帰国後に聴いて異国情緒を思い出したせいかもしれま
せん。ところで、歌詞は
Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Remember me to one who lives there,
For she once was a true love of mine.
Fair が“市”であることも全体の意味も
何となくわかるのですが、曲を通して繰り返される句
Parsley, sage, rosemary and thyme,が分からず、つい 2、3 年前まではハーブで
はなく人名だと思っておりました(笑)。ウィキペディアによると、
"parsley, sage, rosemary and thyme" は象徴的意味だそうで、パセリは今日ま
で消化の助けになり、苦味を消すと言われており、そして中世の医者はこれを霊
的な意味としても捉えた。セージは何千年もの耐久力の象徴として知られている。
ローズマリーは貞節、愛、思い出を表す。タイムは度胸の象徴であり、歌が書か
れた時代、騎士達は戦いに赴く際に楯にタイムの像を付けた。歌での話し手は、
4 種のハーブに言及することで、二人の間の苦味を取り除く温和さ、互いの隔た
った時間を辛抱強く待つ強さ、孤独の間彼を待つ貞節、出来ない仕事を果たす矛
盾した度胸を具えた真の恋人、そして彼女がそれらをできた時に彼の元に戻って
くることを望んでいると説明している。
果たして、主人公(ベンジャミン)は結婚式場から彼女(ヘレン)を取り戻し
逃走したが、顔を見合わせた二人には行く手に暗雲が立ち込める予感が...
1
< 映画 >
野村
史朗(昭和 56 年卒)
今回のテーマは映画ということですが、実は私は映画を観るのが結構好きなの
ですが、見るジャンルが偏向しています。最近の CG などを多用した映画よりも、
昔々の活動写真・サイレント・クラシック映画などの方が好みです。
監督名で言うと、日本では小津安二郎・清水宏・成瀬巳喜男・木下恵介・溝口
健二・黒澤明などなど・・・今の若い世代には、聞いたことない名前という方も
多いかもしれませんね。
東京には、こうした古い映画を専門に上映している映画館がいくつかあります。
神田神保町の「神保町シアター」とか、京橋の「東京国立近代美術館フィルムセ
ンター」などですが、時々こうした映画館に出没し、昔の女優さんはキレイだっ
たなあと暗闇のなかで一人うっとりと白黒画面に没入するというのは結構な(変
態チックな)楽しみです。
例えば、小津安二郎の名作と言われる「東京物語」。1953 年(昭和 28 年)の作
品ですが、特に大きな事件・事故が起きるわけでもない日常の生活が一本の映画
に仕上がっています。・・・と書くと何やら退屈そうに聞こえますが、実はそう
でもないんですよ。
主演の老夫婦を演じる笠智衆・東山千栄子(わかりますか?)の演技は、とても
渋い!また、共演している伝説の女優・原節子の、少し日本人離れした美しさ・・・
最近の映画もそれなりには見ていますが、少しがっかりしたのが「永遠のゼロ」
でしょうか。これは小説を読んだ時の印象はかなり強烈でしたが、映画では小説
の内容の半分も描写されておらず、世間の高評価とは反対にイマイチ感が拭えま
せんでした。まあ、2 時間余りという限られた時間での映像表現の限界かもしれ
ませんが。
人間、死ぬまでに絶対見ておくべき名作というのがあるらしいです。それが何本
あるのかは承知していませんが、暇を見つけては部屋にこもって DVD 鑑賞とい
うのは、今後の私の時間の使い方の中でテニスと並んで大きな比重を占めるのは
間違いないと思っています。
2
【 随想・随筆 】
< 年寄りの冷や水 >
大和田
殖夫(昭和 32 年卒)
“虚を致すこと極まれば 静を守りこと篤し” 老子十六章
厳寒の正月、横浜地区の緑庭会テニス練習会が催されました。
打ち上げの最後に、年長者として挨拶を仰せつかりました。今年の楡庭戦では、
絶対に負けないようにしようとの総コールの後でしたので、ふさわしくないとは
思ったのですが、年寄りの冷や水を一発、発することにしました。
人生のなかで、思い切れないのが三つある。
① 女にもてたい。 ②金が欲しい。 ③死にたくない。
女にモテたいと常に頭にあるために、自分を“実態以上によく見せよう”と思
って、気をつかう。
人生の終盤にさしかかって、男の用がなくなると、みんながっくりするが、一
方で気楽になって、それまで美人の前にたつとおどおどしていたのが平気になっ
て話しかけられるようになる。
金が欲しい金が欲しいと、発想の原点が常に”金をどうやってふやそうか”だ
ったものが、人生の終盤では、海外に遊びに行くにも体が言うことをきかず、酒
やうまいものも制限され、ステーキだって 100 グラムも食べると胃がもたれて
くる。病院代ばかりがやけに増えてくる。
傘寿(80 才)を越してみると、それまで健康診断やらサプリメントやらと、
長生きするために一生懸命だったが、最近は病後のリハビリに懸命に苦労してい
る様子や、やたらに認知症のテレビが目につき、これ以上長生きすると心配が増
えるだけという気分になってくる。
従って、最近では、欲もほどほどにとどめれば、なんと急に気楽なものになって
くるものかとつくづく感じてしまう。
無欲になれば、静かな心境になれるという老子の教えも、むべ なるかなである。
色即是空、空即是色の心境になれれば、人生また楽しからずや!
、、、
、、てなことに、ならないものかや !
前列中央が筆者
3
<一枚の古い写真>
秋山
賢一(昭和 37 年卒)
ついこの間まで、学生だと思っていたら、いつのまにか半世紀以上が経過して
いる。
後期高齢者にもなると、社会だけでなく家庭内でも一層厳しい目でみられる。
男性の平均寿命は 80 歳になっているが、終活の準備に取り組まざるをえない
段階にきている。一番大切なことは資産の整理。私の場合家屋を除いてはたいし
た資産もないのでせいぜいクレディト・カード数や銀行口座数を整理することだ。
借金は論外。古い背広やネクタイなどは誰も欲しがらない。書籍やアルバム帳
も残された家族は処分に大変苦労するようだ。
といったわけでボチボチ古いアルバムを整理していたら一枚の写真が見つかっ
た。年度や場所も何もメモ書きがない。
写真を見ていると昔のことがボンヤリと思いだされる。
中川先生と斉藤さんが正面。テニス部の先輩も何人かおられる。四年生はキャプ
テンの蚊野さん。ほかに三苫、杉山、金井、武岡さん(名前間違っていればごめ
んなさい)など。
三年生は川口、西尾、井上、柏谷、長南さん。加えて紅一点のミス小樽商大の
幸前さん。二年生は榎本、紀国、和田、末武、杉本君と秋山。写真にはのってい
ないが石坂君もテニス部に属していた。一年生は故村井、内澤君と須加、松浦君。
皆様おなじみの東京での緑丘テニスに尽力された田中隆二君(昭和 39 年卒)、
緑丘会の理事長になった斉藤慎二君(昭和 40 年卒)、東京緑丘会でお世話になっ
ている桶谷喜三郎君(昭和 41 年卒)はこの写真にはのっていない。
榎本君にこの写真はなんの記念の写真か聞いてみたら、中川部長就任のお祝い
をする慣行もなかったし、おそらく四年生の追い出しコンパでしょうとのこと。
私自身は対北大定期戦に参加できず、せいぜい交流戦に若干参加しただけで
テニスで自慢できることはなかった。マネジャーとして部費稼ぎのためダンスパ
ーティを開き、チケットも相当さばいたことは今でも記憶している。冬のあいだ
エスカイアー(現在ないと思うが)にかよい、ダンスの講習をうけ、後日の外国
生活に大いに役だった。
会社も忙しく、外国生活も長く、残念ながらテニス部の方と交流する機会はす
くなかった。それでも須加君の勧めで退職後には緑丘ゴルフコンペに時折参加し
た。後輩のお蔭?小金井、安孫子、狭山、袖ヶ浦といった一流どころでプレイさ
せてもらった。須加、松浦君はテニスだけでなくゴルフも 80 台という相当の腕
前であった。狭山では紀国君と同じ組で回り、その飛行距離のすごさに度肝をぬ
かれた。私自身ゴルフもあまり自慢できることはないが、袖ケ浦のコンペで並み
居る猛者を相手に高ハンディもあり優勝し「緑丘」誌に記録されたことは今でも
覚えている。
同学年の全国交流会は場所も離れているので、滅多にないが 40 周年では小樽
の花園町にある紀国君の馴染みのバーで末武君とともに昔話に花をさかせた。
4
50 周年は朝里でおこなった。数日前に榎本君から電話があり、交流会の前日
でもジックリ飲みませんかとのオッファーがあったが、私の日程の都合で実現し
なかった。
いつか塩別つるつる温泉あたりでテニス同期会でもやりたいと念じている。
(2015 年 2 月 17 日記)
昭和 35 年 3 月頃の写真
各列右から:(敬称略)
最前列 幸前醇子、市江弥太郎、杉江雄太郎、斉藤進、中川良延、武岡嘉樹、
今井恒明?、
2 列目 早田健次、石積章、蚊野悠三、三苫清隆、野々村正美、杉山修一、
金井孝司、井上恵司
3 列目 村井幸雄、柏谷宏男、秋山賢一、和田壽夫、西尾捷三、榎本正克、
長南義昭
4 列目 須加敏夫、末武勉、川口祐二、紀国郁夫、内澤紀彦、松浦久幸、
(その左側前)杉本征和
追伸:川口、西尾両先輩(昭和 36 年卒)のご尽力によりおぼろげだった記憶が
蘇りました。感謝申し上げます。
また、写真前列の中川良延先生が去る 2 月 8 日にお亡くなりになったと
の知らせを聞き、先生の何事にも真剣に取り組む姿勢を思い出し、
哀悼の意を表します。合掌。
5
<徒然に-----その3 >
青木 高史(昭和 42 年卒)
今回のメインテーマは「映画」との事ですが、残念ながら私の一番苦手な分野
ではないかと思っています。
というのも映画館に映画を見に行ったのはここ 20 年近く無いのですから。
そして、今でも映画館に行って映画鑑賞するという事には不感症と言うか全く興
味が湧いてこないのです。
なぜ、こうなってしまったのか振り返ってみますと、やはり幼いころの印象と悪
い記憶が大きく影響しているのではないかと思わざるを得ませんでした。
前橋市に生まれ空襲で疎開し、育った田舎では当然のことながら一軒も映画館な
どはありませんでした。そして映画を見るならば電車に乗って隣の渋川町(現在
の渋川市)に行かざるを得なかったのです。
しかし、そこも映画館は一軒しか無く、そして暗くて狭い館内の空気は悪く全く
健康的で無かったと記憶しています。
また、当時子供たちが見られるのは先生に引率されて行く文部省(当時)推薦の
映画が主でした。それも例えば「原爆の子」や母をテーマにした物語であったと
思います。
いずれにしても、その時の経験は映画が終わって外に出ると何時も頭が割れるほ
ど痛くなり、映画どころでは無かったことでした。
そしてそれからも映画館に行くたびに必ずこの症状が何時も起こり、「映画」鑑
賞と聞くと当時では大変貴重で喜ぶべきことなのに私にとっては憂鬱そのもの
でした。
それが高じてか何時の間にか映画館での映画を見る機会も無くなり、物心ついて
からもほとんど見たという記憶がありません。
ただ、面白い経験として記憶にある映画館での映画は、40 年近く前にアメリカ
で、会話はフランス語で英語の字幕の「エマニエル夫人」、
そして 20 年近く前はソウルでドイツ語にハングル
字幕の「シンドラーのリスト」を見たのですが、
多分これが映画館で見た映画の最後だと思います。
何れも友人に誘われて止む無く行ったという感じ
で、正直なところストーリーは正確に読み取れませ
んでしたが、いずれの場合でも昔のような頭が痛く
なる事は無かったです。しかし、良く判らない外国
語の会話と字幕の映画ほど疲れるものはないと思
いました。もっとも、最近はテレビが発達してきた
お蔭で映画館に行って見なくてもテレビでそれな
りに有名な映画はほとんど見ることが出来るよう
になり助かっています。
6
ただ、一昔前までは有名な映画は封切り後なかなかテレビ化されないのが常で、
テレビ化されるまで相当待たなければならないという不便はありましたが。
幸いにも、今ではどんな有名な映画でも 1 年も待たずにテレビ化され、早い段階
で見られるようになり、つい最近では「永遠の0」をしっかりとテレビで見せて
頂きました。
勿論映画ファンの友人は、映画は映画館で見て
初めてその迫力やシーンが体験できるので、テレビに
は代えがたい魅力があるといつも言っています。
これに対して私は全く同感で反論するつもりは
ありません。
ただ私には過去のトラウマなのか判りませんがどう
しても未だに積極的に映画館へ行く気持ちにはなれ
ないのです。
従って、これからも映画はテレビで鑑賞させて頂くつ
もりです。
さて、話は変わりますが、テニスについて私の近況報告をしたいと思います。
昨秋の川崎グランドシニアの大会では春に続き準優勝となってしまいました。
春に比べ優勝のチャンスが有った筈ですが、3 回戦目の試合で、私の右肘に何時
もの痛みが走り耐え難い程になり、バックハンドが全く打てない状態になってし
まいました。
パートナーには申し訳なかったのですが、ほぼ棄権の状態になったのが原因と思
います。
そのためこれ以上このままではテニスは出来そうもないので、整形外科医に相談
したところ手術しかないという結論となりました。
結果的には昨年 10 月末に実施した次第で、現在リハビリ中の事は皆さんもご周
知の事と思います。
手術の内容については今年の「緑庭」の寄稿文に詳しく書いておりますので機会
があればそれを参考にしてください。(予想外に大変な手術でした)
今は(2 月中旬)天気の良い日はテニスクラブに行って素振りと板打ちをやって
います。
ただ、肘の調子はもう一つで中々上手くいかないのが現状で、会員のお医者さん
達にも聞いて見ましたがどうも今年の春までは掛かりそうです。
やはり思っていた様にはならないようなのでもう少し我慢してリハビリに専念
します。
予定外に復帰が遅れそうですが、また皆さんとテニスコートでお会いできるのを
楽しみにしています。その時はお相手をよろしくお願いします。
1
< 60 代後半の健康管理はどうする?? >
今井
央(昭和 45 年卒)
この頃は、健康や病気に関するテレビ番組を見ることが増えてきました。
毎朝起床したら血圧計で血圧と脈拍を測り、健康状態に目を配るようにして
います。平日は農作業で、土・日曜日はテニスを楽しみながら、できるだけ身
体を動かし、夜は寝床の上で筋力アップのための体操をしてから寝ています。
それから、夜更かしをせずに夜 10 時前には就寝するよう心掛け、朝 5 時過
ぎには気持ち良く目が覚めます。
健康に注意するようになったのは、65 歳になった一昨年から老化に起因する
ような症状が出始めたせいでした。
膝の痛みが始まりでした。階段の上り下りで違和感が出始め、テニスでは
腰高になりミスショットが増え、それまで拾うことができたドロップショッ
トされたボールが捕れなくなり、膝の痛みもひどくなってきました。気持ち
良くスポーツを楽しめる花見の季節だったにも関わらず、痛みを我慢しなが
らのテニスには耐えられずに病院に行くと、加齢による「変形性膝関節炎」
という診察結果であり、出された薬は痛み止めだけでした。藪医者かな?と
思いながら我慢するも、辛抱も限界に達し、藁にもすがる気持ちで医薬品「コ
ンドロイチン」を呑み始めたところ、あれよあれよと言う間に膝の痛みが和ら
ぎ、テニスも快適になってきました。テレビでの宣伝だけかな~と思ってい
た効果が実は本当だということが判り、今でも毎日呑み続けています。
多分、膝の痛みを庇いながら、腕の力で強打していたせいだと思うのです
が、膝の次は肘の痛み、テニスエルボーになってしまいました。その年の秋
口から痛み始め、昭和の森で開催の「対関東楡庭会戦」のあった 11 月下旬が
最悪の状態でした。肘に湿布を貼りサポーターで腕をぎゅうぎゅうに縛り、
フレームショットに怯えながら、特に痛みのひどいバックハンドでは片手で
打たないように、神経が疲れるテニスを続ける羽目になりました。冬の間は
我慢していましたが、翌春の試合シーズンに入る頃、膝の時とは別の病院で
痛み止め注射を打ってもらい、やっと苦痛を感じないテニスができるように
なりました。その後は腕の筋力アップを続け、今は稀に多少の痛みを感じる
時もありますが、極力無理な打ち方をしないように努めています。
次は老化のせいではないと思うのですが、昨年 7 月後半に「帯状疱疹」が頭
に発症しました。汗で疱疹が拡がって症状が悪化するのを防ぐため、大事を
図って泣く泣くテニスと酒をしばらく中断せざるを得ない羽目になりました。
原因は判りませんが、物の本によればストレスとのこと(毎日、好きな事ば
かりして楽しんでいる爺なのになぜ発病したのでしょうか??)。
帯状疱疹が治ってテニスを楽しみ始めたのも束の間、今度は肩と腰に痛み
が走るようになりました。腰はさほどひどくならず、間もなく痛みは引きま
したが、肩の症状は難題でした。普段の生活にはあまり影響なく、衣服の着
替えもさほど支障なくできましたが、腕を伸ばし切った状態でボールを打つ
2
と、痛みに耐えられずラケットを放り出してしまうほどになりました。当然
サーブはアンダーで、スマッシュはせず、腕を伸ばしてギリギリ届くような
ボールは打たずに見逃すという、何ともつまらないテニススタイルを強いら
れました。病院での診察結果はやはり老化による肩関節の油切れ?(実際は軟
骨のすり減り)でしたが、このつまらなさに終止符を打ってくれたのがヒアル
ロンサンでした。週 1 回、4週間続けてヒアルロンサンを肩に注射した結果、
なんと痛みが消えたではありませんか!昨年末頃からやっと楽しくテニスを
できるようになり、アフターテニスのお酒も美味しく呑めるようになりまし
た。ヒアルロンサンもコンドロイチン同様、老化が進む身体に効き目のある
ことを実感した次第です。
老化が進む 60 代後半真っ盛りですが、今年も週末午前中は中高年の仲間
同士でテニスを楽しみ、渇いた喉をビールで潤し、持ち寄りのお酒や焼酎を
堪能し、健康とテニス行事の談議を楽しみます。毎年2回の楽しい強化合宿?
も相変わらず続けており、昨年の四国に続いて、今年は姫路での開催が決ま
りました。
また、今までの三大趣味である「テニス」と「野菜作り」と「陶芸」に加
え、今年から「燻製作り」を始めようと準備中です。美味しい燻製ができる
のは当分先の事になるでしょうが、それまでは健康に気を配りながらテニス
を楽しみます。
「人生下り坂、最高!!」
3
対関東楡庭会戦
<戦評等>
雨天のためドロー
11 月 29 日(土)どんよりした曇空の下当会がホームコートとする松戸テニス
倶楽部に関東楡庭会の精鋭を迎えました。当会からは初参加の 2 名を含む 21 名、
楡庭会からは最長老の園田氏(昭和 33 年卒)を筆頭に 16 名が参加し、正午に熱
戦の火蓋が切られました。
しかしながら、開始早々から大粒の雨がクレーコートを叩き始め、無残にも降
雨によるドローとなってしまいました。
天候が回復してもコートの使用ができない状態になったため、早速、開始時刻
を早めた交歓会会場(庄や松戸店)での舌戦に切り替えました。
例年のように壁に貼った試合結果を眺めながらの反省や弁解そして自慢話は
できませんでしたが、数分間のプレーで得たポイントを肴にして唾が飛び交った
り、園田氏の幼少時代にエリーさん(NHK の朝ドラ「マッサン」での主役)と親
しく一緒に撮った写真を見せていただいたり、例年にも増して盛り上がった交歓
会を楽しみました。
勝負はつきませんでしたが、対戦組合せを記載しますので、結果を想像してお
楽しみください。
東京緑庭会 幹事長 今井央(昭和 45 年卒)
<対
戦>
NO.1
NO.2
NO.3
NO.4
NO.5
NO.6
NO.7
NO.8
NO.9
NO.10
NO.11
東京緑庭会
-
川口(S36)・西尾(S36)
水越(S41)・早川(S44)
斎藤(S40)・今井(S45)
梶原(S44)・成田(S49)
今井(S44)・古川(S48)
岡村(S44)・濱田(S48)
小浜(S46)・野村(S56)
山本(S52)・松本(S56)
高橋(S56)・吉田(S61)
山田(H11)・陰元(H16)
陰元(H16)・酒井(H22)
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4
関東楡庭会
園田(S33)・青戸(S37)
園田(S33)・久本(S38)
青戸(S37)・福渡(S40)
安川(S42)・武内(S42)
長友(S45)・高屋敷(S46)
高屋敷(S46)・安達(S47)
藤原(S50)・大野(S50)
佐藤(S55)・青木(H15)
土田(S57)・太田(S57)
土田(S57)・青木(H15)
高邑(S52)・太田(S57)
【 対関東楡庭会戦(集合写真)
平成 26 年 11 月 29 日
【 春合宿で上京した現役学生たちと
1
】
平成 27 年 2 月 28 日】
練
習
会
< 神奈川ブロック練習会について >
野村
史朗(昭和 56 年卒)
現在、東京緑庭会は千葉(含む埼玉・茨城)、東京、神奈川の 3 ブロックに分
けて練習会(+懇親会・・・これを忘れてはいけません!)を実施し、テニス技
術の向上と会員の親睦を図っています。
私はこのうちの神奈川ブロックの練習会幹事を務めさせて頂いています。
神奈川は、概してテニスコート確保が難しく単価も高いという状況ですので、基
本的には年 1 回の練習会を継続しています。
神奈川ブロックといいましても県内在住者に限定しているわけではなく、東京・
千葉ほか遠方からも含め毎回 15 名程度の方にご参加頂いています。
今年度(2015 年度)は、当初は 10 月に実施予定でしたが台風接近で延期とな
り、1月に新年会も兼ねて実施しました。以下はその練習会の概要です。
(写真もご覧下さい。)
1.場所 ファーストシティ・テニスクラブ(藤沢市亀井野)
2.2015 年 1 月 12 日(月:成人の日)12:00~16:00 オムニコート 2 面使用
3.参加者 17 名
(敬称略)
S32 大和田
S36 西尾(千葉) S41 水越(千葉) S42 長岡
S44 早川
S44 梶原
S45 増田
S46 蓮尾
S46 小浜(群馬) S46 佐藤
S48 濱田(埼玉) S48 古川(東京)
S49 成田(東京) S52 山本
S56 松本(千葉) S56 野村
S62 鈴木
4.新年会
17:00~20:00 居酒屋「わたみん家」
今後の練習会の取り組みについては、次のように考えています。
(1)練習会の回数増加
会社勤務を引退され、現役庭球部学生も顔負けのテニス練習回数と引き締
まった体型を誇る OB も増えて参りました。そのうち、ウィークエンドだ
けでなく、平日の練習会実施も可能になってくるかもしれません。
(2)参加者の年次の拡大
参加者がやや固定化している傾向があり、いつもご参加頂いている皆様に
は勿論感謝しておりますが、やはり、平成卒業の OB・OG にもっと多く参
加してもらい、パワーをもらいたい・・・と思っています。
2
(3)練習会の運営も工夫して、より楽しく、より刺激的(?)な内容にしたい。
例えば(単なる思い付きですが)、
①他ブロックと連携して、ブロック対抗戦を実施して豪華賞品&ペナルテ
ィを用意するとか・・・
②現役庭球部学生の上京と合わせて、
「現役・OB 懇親試合」の形で練習会
をセットするとか・・・
などと夢想しております。
今後とも、テニスとお酒(?)を通じて、商大庭球部・関東 OB・OG 及び現役
学生も含めた懇親の輪を少しでも広げていければと思っておりますので、宜しく
お願い致します。
1
< 千葉・茨城・埼玉ブロック練習会について >
松本
衆(昭和 56 年卒)
東京、神奈川、千葉・茨城・埼玉(以下略称千葉ブロック)の 3 ブロックに分
けた練習会の内、松本は、千葉ブロックの幹事を担当しております。
千葉はわりとコートの確保がしやすいことと、会員の方からのご要望も頂き、平
成 26 年度は、3 回の練習会を実施致しました。千葉ブロック域外からも含み、
毎回 15 名程度の方にご参加頂いています。3 回の実施状況は、以下の通りです。
月日
練習会
懇親会
第 1 回 5 月 17 日
南市川テニスガーデン
わたみん家西船橋南口店
第 2 回 9 月 7日
南市川テニスガーデン
百花亭
第 3 回 2 月 14 日
南市川テニスガーデン
百花亭
インドアコートの為、実際に雨天の時も、問題なく実施することができました。
この中で、第 3 回目の練習会の様子は、以下の通りです。
◆参加者 16 名(敬称略)
S36 川口、S36 西尾、S41 水越、S44 岡村、S44 梶原、S45 今井(央)
S46 小浜、S48 濱田,S49 成田、S50 山本、S56 横山、S56 野村、
S56 高橋、S56 松本、S62 鈴木、H11 山田
◆練習会
1) 組合せについて
・楡庭会戦想定の組合せ
平成 26 年度楡庭会戦が雨天のため、始まりとほぼ同時に中止となりまし
たが、参加される方の中で、5 組もの方が組合せ予定であったことから、
その組合せを軸に、第 1・2 ラウンドの試合をいました。
対抗戦のイメージを膨らませて頂ければと思った次第です。
2)表彰イベントについて
全員の記名投票によるプレーの表彰イベントを行いました。
①奮闘賞:自分より上手なプレーヤー相手にして互角以上の戦いができた人
②ベストプレー賞:誰もが「あっ」と驚くような素晴らしいプレーをした人
③ハリキリ賞:コートを走り回り捕れないようなボールを多く返球できた人
結果は、以下の通りです。
① 奮闘賞: S50 山本
②ベストプレー賞:H11 山田
③ハリキリ賞:S44 岡村
受賞された方は、参加者全員が納得されるプレーをしっかりされていました。
懇親会での表彰のおり、特に岡村先輩の受賞の弁が際立って面白く、笑いの
渦に包まれておりました。
このようなイベントを通じ、より楽しく会を行うことができたと思います。
2
今後の練習会につきましては、松本は、東京緑庭会のホームページの作製も
担当していることから、平成 27 年度の幹事を S56 で千葉県在住の高橋君に
引き継ぐ予定にしております。
これまでの経験を伝え、より充実した練習会になると思っております。
1
表
紙
絵
緑丘回想『こぶし咲く公園から』平山 幹昌(昭和 28 年卒)
平山画伯は今年度も表紙絵に使うことを快く許してくださいました。
小樽公園をこの絵の左側を下るとミルクプラント(旧 保障牛乳)があり、
今でもソフトクリームを売っている。
『緑丘』117 号の巻頭随筆「ごめんねスミルニッキーさん」(苫米地和夫氏
(昭和 29 年卒))で苫米地氏が高一年生の夏の暑い日にスミルニッキー氏と
最後に出会った場所でもある。
また、6月には市の花の“つつじ”の名所
として知られるこの公園で、例年開かれて
いる「おたるつつじまつり」が 10 年前から
休止されているようなのは残念です。
小樽公園にまつわる思い出は、ソフトクリ
ームのように甘くもあればそうでないも
の、人それぞれです。
もっとも、小生にはゼミでの花見&ジンギ
スカンという経験しかないが(笑)
(会誌編集長)
1
編集後記
会誌編集長
原田
博明(昭和 54 年卒)
まず初めに会員の皆様及び会員の関係者である水越啓之氏、新山邦幸氏からご
寄稿頂き会誌 2015 年度号の発行に至ったことに感謝申し上げます。
さて、2014 年から 2015 年にかけ大きな出来事が起こりました。芸能面では
高倉健に続き菅原文太という大物俳優が亡くなりました。本号のメイン・テーマ
を「映画」とした所以でもあります。科学面では、青色 LED 開発などで知られる
中村修二氏がノーベル物理学賞を受賞しました。映像事業に従事された方々には
感慨深いものがあるでしょう。田中隆二編集アドバイザーの感想をご紹介します
と、「ノーベル賞の青色 LED 実用化は、ビルの壁面の大型映像が仕事の一つで
したので特に中村さんの研究成果を待ちに待っていたのです。テレビの後ろに
RGB とありますが、光の三要素-レッド、グリーンそしてブルーの略です。全
部混ぜると白になり美しい絵又強い光、省エネ、まさに人類にズバリ貢献するも
のです。」
また、元庭球部部長の中川良延先生が 2 月 8 日に逝去されました。人望が厚く、
学生運動全盛期に逮捕された学生の身元引受人になったそうです。折しも、秋山
賢一氏(S37 年卒)の「1 枚の古い写真」の前列中央に鎮座している若き先生の
お姿が映っていたのも不思議な縁を感じます。
身近ではNHKの連続テレビ小説「マッサン」では
余市が全国的に脚光を浴び、小樽も少なからず名が知ら
れました。今年 2 月には伊勢丹新宿店の北海道展にて、
商大生と小樽の洋菓子店「ル・キャトリエム」で再現し
た、ドラマに出てくるプディングケーキの販売の様子を
学生たちが見学・実演販売に携わったとのことです。
私事ですが、エマのモデルとなった養女の竹鶴房子様が
小生の母親と同級生であった事は半信半疑でしたが、古い
アルバムから出てきた写真を竹鶴家と懇意でエリーのモデル
リタさんとも写真に写った北大の園田保男氏(S33 年卒)
から房子様ご本人と証明していただいたことは思いも掛け
ぬ事でした。
最近、自分史の作成や朝日新聞に連載された林真理子さん
の小説『マイストーリー』のテーマとなった自費出版がブー
ムのようですが、いざ実行しようとするとお金も掛るなど、
いろいろと弊害も多いようです。毎年「たかがテニス されどテニス」に寄稿され
ると自然と自分史が出来上がり、しかも費用は年会費で収まるという計算です。
来年度も多くの皆様からのご寄稿をお待ちしております。
2015 年 4 月 28 日
1
小樽商科大学校歌
作詞
作曲
時雨
杉山
たと
一、金鱗をどる渺々の
あけぼの称ふ波の唄
エルムの花に若人の
涯なきのぞみ数々秘めて
夢うるはしの
緑ヶ丘よ
二、夕陽映ゆる白樺の
梢を渡る風の唄
慈愛の山のふところに
銀翼みがき俊足秘めて
唄ほがらかの
緑ヶ丘よ
そうきゅう
三、 蒼 穹 はてず道つきず
はるかに仰ぐ北斗星
栄冠迎ふこの腕に
飛躍の力ひととき秘めて
花咲き匂ふ
緑ヶ丘よ
四、健腕拓く五大州
凱歌はあがる我母校
感激みてる若人の
血潮に清き教へを秘めて
春永遠の
緑ヶ丘よ
2
音羽
長谷夫
若人逍遥の歌
作詞
作曲
高島
宮内
< 口上 >
さつさつ
春風颯々として山河をめぐり
百花繚乱の盛夏となりぬ
ひゃくさんこう
霧水来たりて百 山 紅を呈し
さく ほく
龍田の朔北(と)なれば暗雲天空を覆い嵐を呼び
こうざんはくさん
紅山白山と化しその白雪の中に身を埋める
その厳しき天地のすべ我等が俗世と何の関わりが有ろうか
ころ
連山残雪に覆われし頃
こ
比の朔北の地に移りし我等なれば
何を悩み何をば求めん
俗世の安楽冥利とは大海に漂う塵の如し
我等その塵に何ぞ命を託さんや
さ
め
今こそ悪夢より覚醒出でて
打ち寄する荒波の如き熱き血潮を持って杯をかかげん
春宵の暁にいざいざいざ歌わんかな我等が命を
3
茂
泰
ろうかん と
さまよ
一、琅 玕 融くる緑丘の
浪漫の靄に街沈み
春曙を逍遥えば
風悠久の言葉あり
らんだ
瀾朶の桜吹雪きつつ
慌しくも逝く春の
ひら
伝統ふるき学舎に
展 ける海の涯しなき
くちづ
二、夏白樺に囁きて
ハイネの詩を口誦さむ
眉目美はしき眼差の
又なき時のいとおしき
きりきし
断 崖 落ちて波砕け
ね
オタモイ遠く帆走れば
うそぶ
ね
小樽の嶺々の夕あかね
冴ゆる北斗に 嘯 きぬ
しょうじょう
三、秋 䔥 条 の思い濃き
ゆき じ
ポプラに懸かる雲消えぬ
流転の行旅夢に似て
悩みの思惟を誰か知る
感傷嗤うことなかれ
桜ケ丘にたゝずみて
ぼうだ
泪滂沱と憂愁の
さと
落葉の行方哲 ふかな
ひもと
四、氷雪海に傾きて
月寒ければ 繙 かむ
海冥航路遠けれど
我に港の乙女あり
流星落ちて影もなし
ゆく青春の足音に
生命を惜しむ若人は
永劫の坏 酌まんとす
つき く
4
東京緑庭会 会誌
「たかがテニス
さ れ ど テ ニ ス 」 第 9 号 ( 2015 年 号 )
2015 年 5 月 印 刷 発 行
発行者:東京緑庭会
編集者:東京緑庭会 事務局
編集長 :原田 博明
〒 166‐ 0003
東 京 都 杉 並 区 高 円 寺 南 5 ‐ 31‐ 10
Tel/Fax: (03)6454‐ 6565
Mail Address: [email protected]
編集委員:山﨑 敬明
〒 177‐ 0042
東 京 都 練 馬 区 下 石 神 井 3 ‐ 26‐ 7
Tel: (03)3995‐ 6216
Mail Address: [email protected]
アドバイザー:田中 隆二
〒 299-4501
千 葉 県 い す み 市 岬 町 椎 木 村 岡 2134-6
Tel/Fax: (0470)62‐ 5895
=事務局=
住 所 : 〒 101‐ 0051
東 京 都 千 代 田 区 神 田 神 保 町 1‐ 52‐ 12 神 田 耀 ビ ル 5F
スタジオパラム内 東京緑庭会事務局
TEL: 03 ‐ 3518‐ 238 5
FAX: 03‐ 351 8 ‐ 2386
会 費 等 振 込 先 口 座 : 三 菱 東 京 UFJ 銀 行 神 保 町 支 店
普 通 22817 93
東京緑庭会 早川好寛
*****
印刷所:ヤマノ印刷株式会社
【 東京緑庭会総会 】
201 4 年 5 月 24 日
於 いづみや