湿原生態系の窒素汚染

湿原生態系の窒素汚染
Nitrogen pollution in the wetland ecosystem
野原 精一
*
Seiichi NOHARA
*
国立環境研究所アジア自然共生研究グループ
Asian Environment Research Group, National Institute for Environmental Studies
摘 要
日本最大の釧路湿原での窒素等の汚染状況を把握するため水質モニタリングを行っ
た。釧路川支流の河川水を周年に渡って採取し懸濁物、栄養塩、溶存有機物(DOC)
を分析した。その結果、温根内川では湿原を経由するうちに硝酸などの窒素は半分程
度除去されていた。一方、下流の DOC は増加し湿原が溶存有機物の供給源となって
いるものと考えられた。植物体の窒素安定同位体比の分析から河川に近いほど植物
の窒素安定同位体比が上昇し、河川周辺の上流域からの窒素汚染の影響があると考え
られた。釧路湿原周辺の井戸水の硝酸態窒素及びリン酸態リンの平均濃度(ppm)はそ
れぞれ
(0.10、0.07)
、湿原端
(キラコタン岬)の湧水では
(0.19、0.04)、一方酪農の盛ん
な下雪裡の湧水では硝酸が高く(2.97、0.04)であり、地下水の集水域の窒素利用環境
を反映していた。6~8 月の気温は 16.5±5.0℃で日変化が大きいのに対して、湿原端
のある湧水では 7.4±0.2℃、別の湧水では 8.6±0.6℃でほぼ一定であった。渓流水は
13.9±2.2℃、河川水である下流では 12.2±1.7℃となり、渓流水に湧水や牧場排水が
合わさったため水温の低下の変動幅が小さくなっていた。流量観測地の上下間に湧水
の流入(543 l/sec)が加わり、この区間で湧水が流入している割合は 62%と推定され
た。牧場排水や集水域起源の湧水からの窒素負荷が大きいことが明らかになった。
キーワード:栄養塩、河川水、釧路湿原、窒素汚染、窒素同位体比、湧水
Key words:nutrient, river water, Kushiro mire, nitrogen pollution,
nitrogen stable isotope, spring water
1.はじめに
植物によって獲得された太陽エネルギーは地球上
のすべての生命の基礎である。そのため人類の生存
の可能性を測るため、世界の生態系の一次生産の比
較が 1960 年代から研究された(IBP:International
Biological Program)。その結果、沼沢池や低湿地
2
(2,000 g/m /y)は最も生産力の高い生態系の一つ
2
2
で、熱帯雨林(2,200 g/m /y)や農耕地(650 g/m /y)
1)
に匹敵することがわかってきた 。世界の湿地面積
6
2
は約 6.8 ~ 8.6×10 km で、陸地の 6.4%が湿地で
2)
あると推定されている 。その湿地には様々な栄養
3)
状態が見いだされ 、生産力の順位は一般に低湿地
>沼沢地>高層湿原・低層湿原となっており、栄養
素の供給の増加は一次生産量を増加させている。さ
らに、冠水期間の長さ、栄養素の酸化的リサイクル
を可能にする乾期の存在は生産力の高い生態系を生
み出し、季節的湿地の生産力は恒久的湿地の生産力
4)
を上回るとされている 。一方、泥炭湿地では定常
的な高水位と酸性物質のため分解が進まず、結果的
5), 6)
に泥炭が蓄積する
。このように、湿地の重要な
機能である一次生産機能と、泥炭の蓄積機能の関係
のバランスを分解者が左右している。
2.湿地の窒素循環と変貌
湿地生態系を構成する主要要因は、まず地形的要
因を含めた水理環境、そして栄養塩環境であると考
7)
えている 。また、これらの環境要因が植物に影響
8)
, 9)
を及ぼし、湿地を特徴づけていると考えている 。
また湿地は、他の生態系と比較して酸化と還元の広
い範囲を維持し、窒素化合物や金属元素の化学的な
10)
, 11)
転換の機能を果たしている
。周囲の環境にある
窒素の可給性を反映して、個々の動植物に蓄積して
12)
, 13)
いる窒素の量は 1%~ 10%の間で変動し
、湿地
では窒素は有機底質に最も多く蓄積されている。
ところで日本には、かつては約 300 万 ha に及ぶ
広大な湿地が存在していたが、多くの湿地は水田化
受付;2009 年 12 月 14 日,受理:2010 年 3 月 1 日
*
〒 305-8506 茨城県つくば市小野川 16-2,e-mail:[email protected]
2010 AIRIES
153
野原:湿原生態系の窒素汚染
され、低湿地のかなりの生物群集や生物相を喪失し
14)
た 。現在では、日本の湿地は非常に希少で、湿地
総面積は、約 65 万 ha で国土のわずか 1.7%しか存
15)
在しない。水田は、1990 年時点で 284 万 ha あり、
国土の約 7.5%に当たり、単純に水田は湿地だった
と仮定すると、自然の湿地から約 81%が水田に開
発されたことになる。北海道では明治以降の開拓で
約 20 万 ha あった湿原の 70%が、1990 年前までに
16)
農地や都市へと変貌した 。
3.釧路湿原の水・物質循環調査
3.1 釧路湿原の環境
北海道東部の釧路湿原は、国立公園やラムサール
登録湿地として残された日本最大の湿原である。釧
路湿原周辺域の地質は、中生代白亜紀の根室層群を
基盤として古第三系の浦幌層群が重なり、その上に
17)
釧路層群が被覆している (図 1)。釧路層群は湿原
周辺台地に広く分布して、地表の釧路層群は最上位
の塘路累層上部が北部の宮島岬とキラコタン岬に露
出して、その境界から湧水が湧いている。沖積層は
広く釧路湿原に分布し地表面を作る地層は内陸では
泥炭からなり、河川沿いには砂泥の氾濫原堆積物が
帯状にみられる。
この湿原で顕在化している問題は、
湿原への土砂や栄養塩の流入、ハンノキ林の拡大が
18)
19)
ある。林ら 、名久井ら は氾濫解析を行い河川氾
濫時の浮遊砂堆積とハンノキの関連性について述べ
20)
ている。また、水垣・中村 は、放射性同位元素を
用いて釧路湿原の土砂堆積厚を推定し、流域の土地
利用変化や河川改修工事が流入土砂量を増加させて
21)
いる事を示している。また、土原ら は釧路湿原に
影響を与える地下水は湿原と台地の境界付近の湧水
から湿原内部へ流れ込む地下水だけでなく、湿原内
にも地下水が 2 つの形態
(陥没穴型、噴砂丘型)
で噴
出していることをラドンや酸素安定同位体比を使っ
て明らかにした。しかし、これまで湧水起源の栄養
塩の寄与について定量的な研究が十分されてこなか
った。
3.2 研究目的
そこで日本最大の釧路湿原をモデル集水域とし
て、集水域からの栄養塩負荷を評価することを目標
とし、湧水・森林渓流・牧草地排水等の多様な水源
13
からの栄養塩流入を考慮し、安定同位体比(d C、
15
18
d N、d O)
等を使って物質循環の解明を目的に調査
に取り組んだ。具体的には、①周辺の集水域からの
河川等を通じた物質流入過程、②湧水モデル小流域
としてツルワシナイ川流域における水位変動、水
温・気温変動特性、③河川の窒素動態の解明の観点
から温根内川中流域と赤沼周辺における植物の役割
について、湧水・渓流・植生という 3 つの面から流
域の物質循環過程を明らかにすることを目的とし
た。これにより、流域環境改変による長期的な釧路
湿原生態系への影響を評価した。
3.3 研究方法
3.3.1 釧 路湿原流入河川及び湧水・井戸水の水質
モニタリング
周辺の集水域からの河川等を通じた物質流入過程
について、水質を測定することで周辺の集水域から
湿原への窒素肥料等の流入の影響を検討した。釧路
湿原に流入する負荷量を把握するため河川における
採水は K1(達古武川)、K4(アレキナイ川)、K5(シ
ラルトロエトロ川)、K6(コッタロ川)、K8(雪裡川)
、
K9(幌呂川)
、K10(温根内川)、K11(幌呂川)、K13(久
著呂川)
の 9 地点(図 2)で冬期を除き調査を行った。
湧水・井戸水の採水はコッタロ川流域の井戸、北斗
井戸、キラコタン岬湧水、下雪裡湧水
(自然水)、ア
キアジ沼で行った。
3.3.2 ツルワシナイ川流域での水質変動特性
モデル流域であるツルワシナイ川流域での水位変
動、地温変動及び気温変動を明らかにするため、自
記記録式の温度計(T idbiT TBI32-05+37、StowAway)を湧水・渓流・牧草地排水、池等に設置して
温度変動特性のモニタリングを実施した。
3.3.3 温根内川中流域の赤沼周辺における植物
1993 年 5 月 20 日~ 10 月 14 日に先端に穴を開け
た塩ビパイプ(深さ 1 m、口径 40 mm)
をピエゾメー
タとして圧力センサー(5 m 計、離合社 KK)をデー
タロガー(LS-3000PtV、白山工業 KK)に接続し地下
水位を 10 分間隔で AK1 ~AK4 において観測を行っ
た。1996 年には AK1 ~AK4(図 3)の植生調査をし
図 1 沖積層基底の深度分布
154
.
17)
地球環境 Vol.15 No.2 153-160
(2010)
図 2 釧路湿原と釧路川支流の採水地点(K1~K13).
図 3 釧路川支流の温根内川中流域の調査地点.
○;AK1 ~AK4,水位観測と植物採取地点.
て優占種の種数を調べた。
3.4 現地水質調査
現地での水温、pH、電気伝導度(WM-22EP、東
亜 DKK)を測定しサンプルを GF/F フィルターでろ
過した後研究室に冷蔵搬送し、水質分析を行った。
流量は河川上にラインを引き、10 ~ 50 cm 毎に水
155
野原:湿原生態系の窒素汚染
深と水深中央部の流速を電磁流速計(LP2100 または
VE20、ケネック KK)で測定し、矩形に分けて断面
積と流速から流量を推定した。
3.5 水質分析及び同位体比分析
全炭酸(TIC)、溶存態有機炭素(DOC)の分析は
TOC5000A(島津 KK)で、窒素(NH 4-N、NO 2-N、
N O 3 - N )、 リ ン( P O 4 - P )は オ ー ト ア ナ ラ ー ザ ー
(TRAACS2000、ブラン・ルーベ KK)で行った。酸
素安定同位体比は平衡装置による前処理後に安定同
位体比分析計(Mat-252、Finnigan)によって分析し
た。
赤沼周辺の主な高等植物の採取を行い 80℃で十
分乾燥した後粉砕して窒素安定同位体比測定サンプ
ルとした。植物体の窒素安定同位体比はケルダール
分解を行った後、安定同位体比分析計
(Mat-Delta E、
Finnigan)で分析を行い大気の同位体比を標準にし
15
て d N を求めた。
4.結果および考察
トロエトロ川)、K6(コッタロ川)ではやや低いが、
K8(雪裡川)
、K9(幌呂川)、K10(温根内川)
、K11(幌
呂川)、K13(久著呂川)では 0.20~0.50 ppm の硝酸
態窒素が常時流れていて流域の農業流来の汚染が進
んでいる。K8(雪裡川)
、K9(幌呂川)
、K10(温根内川)
が合流して K11(幌呂川)になるが、下流では明らか
な濃度低下が見られ途中で半分程度の硝酸態窒素が
除去されていると考えられる。
4.2 温 根内川中流域と赤沼周辺における植物の役
割
1993 年 5 月~ 10 月には高層湿原域の中央に位置
している赤沼から温根内川への 400 m のトランセ
クトを設け、水位を観測した
(図 7)
。赤沼付近
(AK1)
の地下水位は温根内川周辺(AK4)の地下水位の変動
に比べ雨量変化に対する水位上昇の程度が小さかっ
た。6 月、8 月や 9 月には明らかに多量な雨で水位
の増加した AK3、AK4 は低層湿原と考えられる。
温根内川周辺域は通常の水位より上昇して冠水した
1.5
0.0
1.5
濃度(ppm)
0.5
0.0
1.5
0.5
0.0
1.5
15
10
K11
1.0
0.5
0.0
1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003
図 5 釧 路 川 支 流 に お け る 栄 養 塩 類 濃 度 の 季 節 変 化
(1997 ~ 2002 年).
□;硝酸態窒素,△;アンモニア態窒素,●;リン酸態
リン.
0.6
20
K10
1.0
0.7
25
K9
1.0
35
0.5
0.4
0.3
0.2
0.1
5
0.0
0
K1
K4
K5
K6
K8
K9
K10
K11
K13
採水地点
図 4 釧 路 川 支 流 に お け る 懸 濁 物 濃 度 の 平 均 値
(1997 ~ 2002 年)
.
縦棒は標準偏差を示す.
156
0.5
40
30
K8
1.0
栄養塩濃度(ppm)
懸濁物濃度(mg l−1)
4.1 釧路湿原流入河川の物質流入過程
1997 ~ 2002 年の K1(達古武川)、K4(アレキナイ
川)から釧路川へ流入する河川水の懸濁物濃度は高
く(図 4)、途中の達古武沼や塘路湖で発達した藻類
によるものと考えられる。K5~K10 では平水時の
ため懸濁物は少なく、K11 の下流で増えていた。
K13 の久著呂川では平水時も懸濁物が多く湿原への
負荷が高かった。
1997 ~ 2002 年の亜硝酸、アンモニア、リン酸は
通常低い濃度で推移した(図 5)。一方硝酸濃度は比
較的高い状態で、明瞭な季節変化はなかった。同じ
データをこの期間での K1( 達古武川)、K4( アレキ
ナイ川)、K5(シラルトロエトロ川)、K6(コッタロ
川)、K8(雪裡川)、K9(幌呂川)、K10(温根内川)、
K11(幌呂川)、K13(久著呂川)の 9 地点での平均値
と標準偏差を図 6 に示した。アレキナイ川水系の
塘路湖から流出する水はアンモニア態窒素濃度が他
と比べて高かった。硝酸態窒素濃度は、K5(シラル
K1
K4
K5
K6
K8
K9
K10
K11
K13
サイト(Site)
図 6 釧 路川支流における栄養塩類濃度の平均値
(1997 ~ 2002 年).
□;硝酸態窒素,■;アンモニア態窒素,■;リン
酸態リン.
地球環境 Vol.15 No.2 153-160
(2010)
AK1
AK2
AK3
AK4
高等植物の種数
図 7 温 根内川周辺における雨量と地下水位の季節
変化
(1993 年)
.
20
18
16
14
12
10
8
6
4
2
0
5400m
1
ツルワシナイ川
2
43
2
ドサンコ牧場
5
0
δ15N(‰)
図 9 釧路川と支流の接合関係.
6
10,
11,
12
-2
-4
キラ
コタン岬
-6
89
-8
-10
0
AK1
AK2
AK3
AK4
13
14
調査地点
図 8 温 根内川周辺における種数と植物体の窒素安定
同位体比
(1993 年)
.
ことが推察される。一方、高等植物の種数は温根内
川周辺域より赤沼周辺の高層湿原域の方が豊富であ
る(図 8)。植物体の窒素安定同位体比は AK2 から
AK4 にかけて上昇していた。
畜産由来の窒素流入による汚染は釧路湿原の大き
22)
な問題の一つである。田渕ら は硝酸態窒素と土地
利用が密接な関係にあり、流域の土地利用変化によ
る窒素負荷の問題が懸念されていることを指摘して
23)
いる。さらに駒田ら は植物体の窒素同位体比を用
いて窒素流入の評価を行い、厩肥、尿汚水、放牧地
糞尿による窒素負荷量が無視できないことを明らか
にした。通常降水の栄養に依存している高層湿原は
窒素安定同位体比が軽いと考えられ、牧畜の盛んな
図 10 ツルワシナイ川の観測,採水地点(st.1~14)
.
地域では畜産排水による窒素安定同位体比の上昇が
24), 25)
報告されている
。従って、温根内川の増水時に
冠水する地点は窒素安定同位体比が上昇したものと
解釈された。赤沼では少し同位体比が高いことから
ここでは測定していない地下水経由の流入も予想さ
れた。
4.3 ツルワシナイ川の流量と栄養塩濃度調査
図 9 には釧路川とその支流や流量を観測した小
河川のツルワシナイ川の接合関係を示した。調査地
(図 10)はツルワシナイ川の渓流河川(St.1)、森林、
鶴居村牧草地(ドサンコ牧場)の河川水を集めた
St.2、3、さらに同様の河川(St.4)が合流した St.5、
さらに下って St.6 で湿原地域に入り、途中湧水と
池とうの水を加えてキラコタン岬近傍で蛇行するツ
ルワシナイ川の St.9 である。2004 年 8 月の流量調
157
野原:湿原生態系の窒素汚染
2004年8月
ツルワシナイ川の
流量分布
2004年8月
ツルワシナイ川の
(NO3+NO2)
濃度
26 l/sec
4
2 0.09
ppm
154 l/sec
0.12
ppm 4
210 l/sec
337 l/sec
6
0.11 5
ppm
3 0.04
ppm
5
15
6
10
10
11
6 0.254
ppm
12
5
543 l/sec
8
880 l/sec 9
10
13
14
0.14
ppm
0.14
ppm
8
10
0.25
9
ppm
13
14
図 11 ツルワシナイ川の流量と硝酸と亜硝酸態窒素
濃度の分布
(2004 年 8 月)
.
横矢印;湧水による寄与を示す.
査の結果(図 11)、森林域の St.1 では 26 l/sec の河
川流量がある。途中の支流から河川に流入がありド
サンコ牧場あたりでは 210 l/sec になり、牧場排水
が加わる。最終的に St.6 では 337 l/sec の流量で湿
原域になる。St.9 まで目立った流入河川が見られな
いが、St.9 では 880 l/sec の河川になっていた。St.6
~9 の間で 543 l/sec の流入が加わったことから、
62%は湧水が流入していると推定される。
4.4 釧路湿原における湧水の栄養塩類
2004 年 8 月及び 2004 年 12 月に流量調査を実施
したところ、St.3 で 210 及び 215 l/sec で測定誤差
の範囲にあり、無降水期には流量の季節的な違いは
見られないものと推察された。硝酸・亜硝酸態窒素
として河川上流から 0.04 ppm の濃度があり、牧草
地を通過すると 0.26 ppm に増加していた。湧水は
0.14~0.25 ppm、湧水の貯まった池では 0.00~
0.10 ppm、湿原の中の河川である St.9 では 0.14 ppm
となっていた
(図 11)
。
2005 年 5 月 14 日に採取された釧路湿原周辺の井
戸水の硝酸態窒素及びリン酸態リンの平均濃度
(ppm)はそれぞれ(0.10、0.07)、キラコタン岬の湧
水では
(0.19、
0.04)、
一方酪農の多い下雪裡の湧水
(自
然水)
では硝酸が高く
(2.97、0.04)
であり、地下水の
集水域の環境を反映していた。河川がいったん池沼
に入ると硝酸は低下して(0.05、0.04)であった。久
著呂川、温根内川、コッタロ川、ツルワシナイ川、
ヌマオロ川、雪裡川、幌呂川、シラルトロ川の河川
上流では(0.11、0.01)と湧水並みに低いが、河川中
流では(0.29、0.02)と高くなり周囲の土地利用を反
映し、河川下流では途中の湧水の流入や流下に伴う
消費で(0.13、0.02)と低い。最終的には釧路川で平
均(0.38、0.02)となっていた。
158
3
20
温度
(℃)
56 l/sec
2
59 l/sec
1
0.02
1 ppm
1
3
25 l/sec 4
278 l/sec 5
25
6
7
2004年
(月)
8
図 12 気温・水温の連続測定結果平均と標準偏差.
◆;St.1(河川),■;St.3(牧場排水),▲;St.4(河川),
●;St.5(河川),-*-;St.6(河川),-;St.10(湧水),
■;St.11(気温),-;St.12(湧水).
St.13 の間では有意な増加がない。St.13 と St.14 の
間では 331 l/sec の増加が見られ、キラコタン岬の
東側の湧水の寄与は 24%に及ぶことが観測された。
村営牧場下の St.5 のツルワシナイ川では
0.23 ppm の硝酸があり、湧水は 0.16 ~ 0.24 ppm、
湧水の貯まったアキアジ沼では 0.05 ~ 0.07 ppm、
湿原の中の河川である St.9 では 0.09 ppm となって
いた。牧場周辺の湧水からの窒素負荷は大きいが、
流下の過程で消費され湿原に入るところで半分程度
の濃度になっているが、湿原内の河川ではそれ程変
化がなかった。湿原前の河川でかなりの窒素がトラ
ップまたは脱窒されているものと考えられる。
4.5 ツルワシナイ川流域での水質変動特性
水温及び気温の連続測定の結果を図 12 に示す。
6~8 月の気温は 16.5±5.0 で日変化があるのに対し
て、湧水 St.10 は 7.4±0.2℃、湧水 St.12 は 8.6±0.6℃
でほぼ一定であった。St.1 の渓流水は 13.9±2.2℃、
渓流水に湧水や牧場排水の合わさった河川水である
下流の St.6 で 12.2±1.7℃と水温の低下と変動幅が
小さくなっていた。6 月 2 日の調査結果(pH、酸素
安定同位体比)を図 13 に示す。その流下過程で渓
流河川(St.1)の水温 15.7℃の河川水は牧野で湧水起
源の水
(9.3℃)
を集めて水温 12.8℃にまで低下した。
さらに下ると 13.9℃まで暖まって湿原に流入しさら
に池とうの水が加わり 17.9℃に上昇していた。河川
の流下で pH はそれほど変化がないものの、キラコ
タン岬の丘陵地から流れ出てくるアルカリ性の湧水
加入によって pH は上昇している。電気伝導度(EC)
は 49.1 mS/m であった。渓流水は鶴居村牧野の排
水電気伝導度が高いなどのために流下過程で上昇し
てくる。キラコタン岬の丘陵地からの湧水は電気伝
導度が比較的高くない。水の酸素安定同位体比
18
(d O)は流下の過程でそれほど変化がなく、水の起
2006 年 6 月に流量調査を実施したところ、St.6
と St.9 の間で 31 l/sec(約 3%)増加したが、St.9 と
地球環境 Vol.15 No.2 153-160
(2010)
5.環境修復への提言
pH
6
7
8
9
10
-8
10
北斗井戸
12
δ 18 O (‰)
-9
6
1
9
河川
池とう
湧水
- 10
物理化学的測定を行うことにより、釧路湿原の水
環境特性(栄養塩類、水温変化、電気伝導度等)
を明
らかにすることで、湧水地環境の現状を広域に把握
し、特に問題となる農地から湧水への窒素やリンな
どの栄養塩の汚染度を水質環境指標から定量的、継
続的に観測すべきである。その評価により湧水地上
流地域にある農地の施肥や畜産廃棄物管理を見直
し、釧路湿原へ流入する前に人工湿地、池等で栄養
塩を除去する環境修復技術を検討することが必要で
ある。湿原の自然再生には事前に栄養塩を除去する
人工湿地造成事業等に補助金制度等を完備して適切
な実施に資するべきである。
美人の湯
- 11
図 13 ツ ルワシナイ川流域での酸素安定同位体比と
pH の変動特性
(2004 年 6 月)
.
▲;河川水,■;湧水,●;池とう.
源としては湧水の寄与は少ないと推察される。一方
池とうでは停滞して水温が暖められ、蒸発のため同
位体分別が起こり場所によって重い酸素安定同位体
比となっている可能性がある。
4.6 湧水および井戸水の栄養塩濃度
2006 年 6 月に採取された釧路湿原周辺の井戸水
の硝酸及びリン酸態リンの濃度(ppm)はそれぞれ
(0.06~0.13、0.04~0.09)、キラコタン岬の湧水では
(0.16~0.30、0.03~0.08)、一方酪農の多い下雪裡の
湧水(自然水)では硝酸が高い(3.39~5.23)がリン酸
(0.03)はそれほどでもなく、地下水の集水域の環境
を反映していたと考えられる。キラコタン岬での湧
水が同じ高度でも地下水の流れている地層が異なる
ため、ごく近くの湧水でも水質に違いがある事実と
関連が深い。
このことを明らかにするためにコッタロ川の集水
域における個人の井戸を利用して水質を分析し、コ
ッタロ川流域における井戸の深さと井戸水の電気伝
導度、pH と全炭酸の関係を見た。井戸が深くなる
ほど全炭酸は多くなり、pH はアルカリになり、電
気伝導度(EC)は低くなった。井戸水の温度は明瞭
な傾向は見られなかった。これらのことは、キラコ
タン岬での湧水が同じ高度でも地下水の流れている
地層が異なるため、ごく近くの湧水でも水質に違い
がある事実と関連が深いと考えられよう。同じ湧水
でも周囲の土地利用や地下の経路が異なり釧路湿原
に多様な水を供給していることになる。
謝
辞
本稿は環境省の地球環境保全等試験研究費として
2003 ~ 2007 年度にかけて実施された「自然と人の
共存のための湿原生態系保全および湿原から農用地
までの総合的管理手法の確立に関する研究」の研究
成果の一部である。環境省東北海道地区自然保護事
務所の各位および鳥類保護連盟の温根内ビジターセ
ンターの方々には現地調査並びに河川水の採取に当
たってお世話になった。また、元国立環境研究所岩
熊敏夫博士には地下水位計の設置や釧路川支流のモ
ニタリングで大変お世話になった。井戸の水質測定
で標茶町の中本民三・アキ子氏、自然水、北斗井戸
の所有者の方々には採水に便宜を図って頂いた。ま
た 2001 ~ 2003 年に実施された科学研究費補助金
(一般 C(2))
「安定同位体比測定技術を用いた湿地生
態系の栄養塩負荷の履歴判読に関する研究
13680636」の研究費の一部を利用して実施した。こ
こに感謝致します。
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野原 精一
Seiichi NOHARA
専門は湿地生態学、植物生態学、安定
同位体分析、環境アセスメント。主に釧
路湿原、赤井谷地、尾瀬ヶ原、三面川、
霞ヶ浦、涸沼、盤州干潟等、伊勢湾、石
垣島など日本全国のあらゆる水辺に出没
する。特に尾瀬沼では初春の赤雪調査や、夏のコカナダモ調
査をライフワークにしている。趣味は映画鑑賞、ホームセン
ター探索、書籍収集。主な著書は『地球環境調査辞典、陸上
編』
(共著)、
『尾瀬ヶ原総合研究』
(尾瀬総合学術調査団編)、
『陸
水の辞典』
(編集委員、共著、講談社)など。独立行政法人 国
立環境研究所アジア自然共生研究グループ流域生態系研究
室・室長、理学博士。日本陸水学会評議委員。