神戸市演奏協会 第415回公演 2015 年 6 月 6 日(土)14:00 開演 神戸文化ホール 中ホール 助成:平成 27 年度 文化庁文化芸術振興費補助金 (トップレベルの舞台芸術創造事業) 主催:(公財)神戸市演奏協会・神戸市・ (公財)神戸市民文化振興財団 神戸文化ホール <プログラム> <休 憩> I. II. III. IV. Largo - Allegro vivace Andante Menuetto: Allegro vivace Presto vivace プログラム・ノート 中村 孝義 (大阪音楽大学教授・音楽学) ある作曲家の立ち位置(それはその作曲家の音楽の在り方でもある)を認識しようとする場合、作曲家の 生没年を少し慎重に眺めてみると面白いと、私はよく学生にいう。ベートーヴェンが亡くなったのは1827年 だが、その前年の1826年にはドイツ・ロマン派オペラの創始者であるウェーバーが亡くなっており、翌年の 1828年にはシューベルトが亡くなっている。古典派の盟主であったハイドンは1809年に亡くなったが、同 年にはメンデルスゾーンが生まれており、翌年の1810年にはシューマンやショパンが生を受け、さらに次の 年にはリストが生まれ、1813年にはワーグナーやヴェルディが生まれた。だからウェーバーやシューベルト は、実はベートーヴェンと同時代人であったのだし、ベートーヴェンが亡くなった時、メンデルスゾーンや シューマン、ショパン、リストはすでに16∼8歳の血気盛んな若者、ワーグナーやヴェルディでさえすでに 14歳になっていたのだ。このようにみると、彼らが互いに互いの音楽を知っていたり、憧れの目で先輩の音 楽を見ていたりしたことは確実で、しかも1810年から1830年くらいの間に時代が大きく動いていたことも 分かる。ある一人の作曲家の音楽とは、そうした様々な関係の中で初めて形を成してくるものなのである。 今年、岡山潔監督が神戸市室内合奏団のシーズンプログラムの総合コンセプトとして掲げられたのは「音 楽史を織りなす才人たちの軌跡 人に出会い、作品に出会った」である。岡山監督が「いつの時代も、偉大 な才能が、一人忽然と現れたわけではないのです。彼らは先達や同時代人に出会い、作品を識り、それらを 糧に、生まれ持っての才能を縦糸に、出会いという刺激を横糸として、独自の芸術を織り上げていったので す。そのことが幾多の層を成して、音楽史を創りあげていったのです。人が行き交う生き生きとした場とし ての音楽史を実感していただければ、という願いを込めた」と述べられているのは、まさに、私が先に述べ たこととも関連して同感の至りだ。このような考えを持ちプログラムを組むことのできる監督を戴き活動を 続ける合奏団は、当然懐の深い音楽を奏でることが可能となるであろうし、またそれを聴ける聴衆も幸せだ。 聴衆の皆さんも、ぜひ音楽を、ただ単に感覚を喜ばすものとしてのみならず、もっと深みのある人間精神や 時代の表現として、また精神の糧になるものとして享受して頂ければと思う。 さて今回は、「古典派の継承から歌の道へ」と題されたシューベルトの世界。ベートーヴェンが古典的完 成を成し遂げることのできなかった歌曲の世界で、詩と音楽との関連という意味ではロマン的な世界を志向 しながら、作品の構造や普遍的な世界観の構築という面では誰よりも見事な古典性を実現したシューベルト は、しかし器楽の世界では古典的世界から離れ、大きくロマンの世界へと足を踏み出すことになった。その 典型は、交響曲であれば後期の第7番《未完成》や第8番《グレイト》などに、また弦楽四重奏曲であれば第 13番以降の3曲に、またピアノ・ソナタであれば最後の3曲に顕著にみられるが、比較的若い時代に書かれた 器楽作品にも、シューベルトならではの抒情性に満ちたロマンが至る所に顔をのぞかせ、魅力的なことこの 上ない。今日取り上げられる4曲でも、そうしたものがたっぷりと味わえる。 1817年5月にできた作品。この年、シューベルトは3曲の序曲を作曲しているが、他の2曲が、ロッシーニ などの影響を受けたイタリア風のものであったのに対し、これは少し変り種。ティンパニの加わったフル・ オーケストラのために書かれているが、なぜかトランペットは加えられていない。また普通アダージョで始 まることの多い導入部が、アレグロ・マエストーソとアンダンテ・ソステヌートという、ちょっと変わった2 部分構成をとっており、導入部というよりも、聴く者の意表をついて突然主部が始まったような異例の始ま り方をする作品である。しかも続くアレグロ・ヴィヴァーチェによる主部も、クラリネットがいかにも牧歌 的な美しい歌を歌っているかと思えば、それが導入部における楽想によって突然遮られるなど、やや一貫性 を欠く印象がなくもない。アレグロ・ヴィヴァーチェの終結部の前に、導入部のアンダンテ・ソステヌート が何の前触れもなしに回帰してくることなども併せ、何か不思議な雰囲気を漂わせた作品ではある。 ただこの作品も、いわゆるソナタ形式などに基づくベートーヴェン的な序曲といったイメージからすると いかにも変則的ではあるが、ポプリ(接続曲)とみなせば、シューベルトならではの抒情的なメロディーや、 思いがけない大胆な冒険性が巧みに配された魅力的な作品ともいえる。 シューベルトにはワルツやメヌエット、さらにはレントラーやエコセーズ、ドイツ舞曲といった、肩の凝らな いピアノのための小さな舞曲が非常に数多く残されている。これらは、いわゆる次代のビーダーマイアーと呼ば れる小市民的芸術に繋がるもので、シューベルトは同時代に生きたベートーヴェンを強く尊敬しながらも、一方 でこうした市民の飾らない楽しみにも共感できる人だったのだ。オットー・エーリッヒ・ドイチュが820という 番号を与えたこの「ドイツ舞曲」は1824年10月に作曲されたが、作曲者の死後1世紀余りもたってからウィー ン楽友協会で発見されたものである。変イ長調の曲が3曲と、変ロ長調の曲が3曲の計6曲からなっている。今回 は、これを新ウィーン楽派のなかでも傑出した才能の持ち主であったアントン・ヴェーベルンが、1931年にオ ーケストラ用に編曲した版で演奏される。 新ウィーン楽派といえば、多くの人はシェーンベルクやベルクの名とともに、無調音楽や12音音楽をすぐに 思い出されるだろうし、その不協和音が耳に厳しい音楽は、未だ難解な音楽として敬遠される向きも少なくない に違いない。しかし実は彼ら3人は、ウィーンに生まれた生粋のウィーン人で、ウィーンに生まれた音楽をこよ なく愛する人たちでもあった。それは彼らがヨハン・シュトラウスなどの音楽を盛んに編曲したことでも分かる。 そしてシュトラウスなどの音楽の出発点がシューベルトの音楽にあることを思えば、彼らが数少ないウィーン出 身の大作曲家であるシューベルトに関心を抱いたのも当然のことなのだ。どのような共感に満ちた響きが聞こえ てくるか楽しみだ。 3曲目はヴァイオリンを能くしたと伝えられる兄フェルディナンドのために1816年頃に作曲されたと考えられ ている小協奏曲ニ長調。シューベルトはコンヴィクト(ウィーン宮廷礼拝堂の合唱団員のための神学校)時代に、ピ アノや通奏低音に加えてヴィオラも学び、神学校のオーケストラではヴァイオリンを担当し、時に指揮者の代理 も務めるなど、弦楽器にもかなり習熟していた。その結果としてヴァイオリンとピアノのための素晴らしい作品 を残しているのだが、協奏的作風を持つ作品はわずかに3曲しか残さなかった。しかも、他人の手によって書き 込まれたものではあるが、「協奏曲」と名付けられた作品はこの曲1曲しか残っていない。 ただこの作品も、序奏としての性格が濃厚なアダージョと、ロンド形式による舞曲的な性格の強いアレグロの 2楽章しか持たず、協奏曲としてはずいぶん変則的な形を取っている。その意味では古典派や後のロマン派の作 曲家たちによって作曲された、いわゆる本格的な協奏曲とは基本的に性格を異にし、むしろサロンのようなとこ ろで気軽に演奏される、社交的な意味を持った音楽として作曲されたとも考えられる。いずれにせよシューベル トならではの抒情的な旋律がふんだんにちりばめられた佳作で、ゲスト・ソリストの玉井菜採さんがどのような 演奏を繰り広げてくれるか楽しみである。 「交響曲第1番」を作曲してからおよそ1年後の1814年12月10日に着手され、翌年3月24日に完成された2 番目の交響曲である。シューベルトはこの頃コンヴィクトをすでに1813年に卒業し、兵役を避けるために進学 した師範学校の予備科も1814年秋に出て、父親の勤める小学校の助教員として生活していた。だから交響曲第2 番は、もちろんまだ作曲家としての地位も全く確立していない時期に書かれたわけで、「第1番」と同じくコン ヴィクトの校長であったフランツ・ラングに献呈された。ただこの交響曲も、交響曲第1番と同様、作曲当時に 初演されたのかどうかについて詳らかなことは知られていない。いわゆる公開の初演は、何とシューベルトの死 後、約50年を経た1877年にロンドンで行なわれている。 楽器編成は、「第1番」と比べフルートが一本多いだけだし、第1楽章序奏部にはモーツァルトの影が、また 主部ではベートーヴェンの影響が見られるが、形式の面でも響きの面でも第1番に比べて充実度は増している。 堂々としたラールゴの序奏部と調の扱いに工夫を凝らした長い提示部を持つソナタ形式による第1楽章、シ ューベルトならではの叙情的なテーマによる美しい変奏が印象的な第2楽章、軽快でリズミカルな主題が、 やはりソナタ形式によってダイナミックに展開される第4楽章などいずれも聴き応えがあり、後期諸作品に 繋がる隠れた名曲といっても良いように思う。この第2番と言えば、わが国でも多くの人から愛された名指 揮者カール・ベームの演奏が私には深く印象に残っている。彼は晩年にたびたびこの作品を取り上げ、いか にもオーストリア人らしく叙情と劇性を巧みに交えた演奏を展開していたが、ウィーン・アルティス四重奏 団のメンバーとして、ウィーンを本拠に活躍するマイスルさんはどのような解釈を聴かせてくれるか、楽し みである。 指揮 ヨハネス・マイスル ソリスト 玉井 菜採 コンサートマスター 白井 圭 第1ヴァイオリン 前川 友紀 谷口 朋子 幸田 さと子 黒江 郁子 萩原 合歓 第2ヴァイオリン 西尾 恵子 井上 隆平 中山 裕子 二橋 洋子 奥野 敬子 木下 雄介 佐藤 一紀 ヴィオラ 亀井 宏子 横井 和美 中島 悦子 チェロ 伝田 正則 田中 次郎 山本 彩子 コントラバス 長谷川 順子 フルート 三瀬 直子 清木 ナツキ オーボエ 中根 庸介 岡 北斗 クラリネット 四戸 世紀 小野寺 緑 ファゴット 小山 莉絵 滝本 博之 ホルン 永武 靖子 垣本 奈緒子 トランペット 浦田 誠真 金井 晶子 ティンパニ 奥村 隆雄 <プロフィール> ヨハネス・マイスル Johannes Meissl オーストリアを代表するヴァイオリニスト・指揮者。 リンツのブルックナー音楽院を経てウィー ン音楽演劇大学卒業。 アメリカでラサール弦楽四重奏団の薫陶を受け、1982年ウィーン・アルテ ィス弦楽四重奏団を結成し、数々の国際コンクールに入賞。 ウィーンを本拠地に世界的なクァル テットとして多彩な活動を展開している。 ウィーン音楽演劇大学教授およびヨーロッパ室内楽ア カデミーECMA芸術監督としての教育活動に加え、近年は指揮者としての活動も精力的に行い、 ヨーロッパ各地で高い評価を得ている。 玉井 菜採 Natsumi Tamai 京都生まれ。4歳よりヴァイオリンをはじめ、東儀祐二、小国英樹、久保田良作、立田あ づさ、和波孝禧の各氏に師事。桐朋学園大学在学中に、 プラハの春国際コンクール ヴァ イオリン部門に優勝。卒業後、アムステルダム・スヴェーリンク音楽院にてヘルマン・クレ バース氏、ミュンヘン音楽大学マイスタークラスにてアナ・チュマチェンコ氏に師事 する。この間、J.S.バッハ国際コンクール最高位をはじめ、エリザベート王妃国際コン クール、シベリウス国際コンクールなど、数々のコンクールに優勝、入賞。平成14年度、文 化庁芸術祭新人賞、平成20年度には京都府文化賞奨励賞を受賞した。 これまでに、ロシアナショナル管弦楽団、ベルギー放響、ヘルシンキフィル、スロヴァキアフィル、N響、大阪フィル、京響など、国内外 のオーケストラと共演。 ヨーロッパ各地、国内でソリスト、室内楽奏者として活躍している。紀尾井シンフォニエッタ東京コンサートマス ター、東京クライスアンサンブル、アンサンブルofトウキョウメンバー。子供のための室内楽アカデミー、びわこミュージックハーベスト のコーディネーターをつとめる。東京芸術大学准教授。 神戸市室内合奏団 Kobe City Chamber Orchestra 1981年、神戸市によって設立された神戸市室内合奏団は、実力派 の弦楽器奏者たちによって組織され、神戸、大阪、東京などを中心に、 質の高いアンサンブル活動を30数年に亘って展開している。弦楽合 奏を主体としながらも、管楽器群を加えた室内管弦楽団としての活動 も活発で、バロックから近現代までの幅広い演奏レパートリーのほか、 埋もれた興味深い作品も意欲的に取り上げてきた。 また、定期演奏会 以外にもクラシック音楽普及のための様々な公演活動を精力的に行 っている。 1998年、巨匠故ゲルハルト・ボッセを音楽監督に迎えてからの14年 間で演奏能力並びに芸術的水準は飛躍的な発展を遂げ、日本を代表す る室内合奏団へと成長した。毎年のシーズンプログラムは充実した内容の魅力あふれる選曲で各方面からの注目を集め、説得力ある 演奏は高い評価を受けている。 内外の第一線で活躍するソリストたちとの共演も多く、2011年3月の定期演奏会でのボッセ指揮によるJ.S.バッハ「ブランデンブル ク協奏曲全6曲」の名演はCDとしてリリースされている。 また、2011年9月にはドイツのヴェストファーレンクラシックスからの招聘を 受けてドイツ公演を行い、大成功を収めている。2013年度からは、日本のアンサンブル界を牽引する岡山潔が音楽監督に就任し、ボ ッセ前音楽監督の高い理念を引き継ぎ、合奏団のさらなる音楽的発展を目指して、新たな活動を展開している。
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