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JARI Research Journal
20150701
【研究速報】
緑内障による視野障害と運転行動に関する分析
Analysis of driving behavior and visual field disorders due to glaucoma
佐藤
健治
*1
Kenji SATO
安部
原也 *2
Genya ABE
信行 *3
内田
Nobuyuki UCHIDA
植田 俊彦 *4
鈴村 弘隆 *5
Toshihiko UEDA
Hirotaka SUZUMURA
Abstract
This experiment was carried out to grasp the effect of glaucoma on car driving. Nine patients
with glaucoma took part in this study. Critical situations inducing particular traffic accidents were
presented by using a driving simulator. It was found that for glaucoma patients, if a pedestrian
appeared from the area where their visual field is impaired, their response time to the pedestrian
was delayed. In addition, a negative correlation between driver reaction time and visual field test
results (MD value) was found. Therefore, there is a possibility that impact of the glaucoma on car
driving in a particular traffic scene might be variable in response to the MD value.
1. はじめに
ドライバは自動車を運転するとき,
認知,
判断,
操作というタスクを繰り返し実施している.認知
はある対象を知覚し,判断する為の重要な過程で
ある.視覚的な知覚とは,眼が捉えた光の情報が
脳へ伝送され情報処理されることである.眼疾患
によって視覚に何らかの不全が生じると,認知へ
悪影響を及ぼすばかりではなく,判断,操作へも
影響を及ぼすことにより交通事故へ至る危険性が
懸念される.眼疾患のなかで緑内障は視神経に異
変が起き,視野が狭くなったり(視野狭窄)
,部分
的に見えない範囲(視野欠損)が生じるなどの視
野障害が現れる.緑内障は,左右眼で症状に差が
あり,進行が緩徐であること,周辺視から障害が
進行され視力の低下が症状初期では現れないとい
う特徴があるため自覚症状が分かりにくい.その
ため,潜在的な緑内障患者の存在が懸念されてい
る.近年の緑内障に関する疫学調査によると,40
歳以上の20人に1人(約500万人)が罹患し,加齢
とともに罹患率が上昇していると報告がされてお
り1),高齢化が進む国内においてはさらに患者の
増加が想定される.先行研究では視野障害が高度
であるほど交通事故に至る可能性が高いと報告さ
れており,視野障害が交通事故要因の一つではな
*1 一般財団法人日本自動車研究所
安全研究部
*2
*3
*4
*5
安全研究部 Ph.D
安全研究部 博士(工学)
一般財団法人日本自動車研究所
一般財団法人日本自動車研究所
二本松眼科病院 博士(医学)
すずむら眼科 博士(医学)
JARI Research Journal
いかと考えられている2) .視野障害による交通事
故要因への影響を把握するために,視野検査結果
とドライビングシミュレータ(以下,DS)の事故
件数との関係性が検討されている3).そこでは,
ある特定の視野範囲における視野検査結果と事故
件数には相関がある可能性が指摘された.また,
運転中の視線行動を分析した研究では,実写映像
を用いたハザード知覚テストを行い,緑内障患者
は健常者よりも注視やサッケード運動を多くして
いることが確認された4) .このように近年,緑内
障に関する運転への影響を把握する研究が多方面
で進められているものの,典型的な交通事故場面
での運転行動を分析した例は少ないため,本研究
で検討を行った.具体的には,典型的な交通事故
場面(歩行者飛出し)をDSで再現し,視野障害程
度と運転行動の関係について検討した.
2. 実験方法
2. 1 実験参加者
実験は日常的に車を運転している緑内障患者9
名(Table 1)の協力を得た.実施前にはインフォ
ームドコンセントを得た.本稿で扱う実験は,実
験内容及び安全性について,事前に(一財)日本
自動車研究所の定める倫理審査委員会にて審議し,
承認を得た.緑内障患者に際しては常に体調の変
化を担当医がモニターできる環境を整え実施した.
- 1 -
(2015.7)
Information of glaucoma patient
Driving
Eyesight
MD value[dB]
Age
No
Sex
[year]
record
Left
Right
Left
Right
[year]
G1
M
75
50
0.9
1.2
-8.89
-17.44
G2
M
59
39
1.2
0.9
-18.64
-25.48
G3
M
63
43
1.2
0.5
-8.19
-1.58
G4
M
67
51
1.2
0.6
-16.96
1.59
G5
M
64
44
1.2
1.2
-3.55
-14.43
G6
M
57
39
0.9
0.8
-14.01
-10.19
G7
M
55
35
1.2
0.9
-25.86
0.46
G8
M
36
16
1.2
1.2
-10.52
-11.06
G9
M
67
49
0.8
0.3
-8.58
-6.58
Table 2
Grouped by degree of progress of symptoms
Symptoms
Participants
early
0
Patient number
intermedeate
3
G3,G8,G9
advanced
6
G1,G2,G4,G5,G6,G7
緑内障の視野障害は個人の重症度によって様々
で あ る こ と か ら , そ の 重 症 度 を MD ( Mean
Deviation)値[dB]で数量化される(Table 1)
.
MD 値は Humphrey 静的視野検査 30-2 プログラ
ム検査結果であり,視野の欠損の程度を表す.MD
値は値が小さくなるほど視野の欠損の程度が大き
いことを意味しており,一般的に次のように分類
される.緑内障の分類は 3 段階に分かれており,
MD 値が 0 から-6dB を初期,-6 から-12dB
を中期,-12dB 以下を後期と分類されている.
本実験に参加した緑内障患者は中期 3 名,後期 6
名に分類される(Table 2)
.
2. 2 実験条件
本実験では,交通死亡事故の人対車両事故の死
亡件数の割合が高い 5),歩行者横断中の事故類型
に着目し,道路を横断する歩行者への対応行動を
確認した.本実験に参加した緑内障患者の視野検
査結果から,左右眼の視野検査結果を合わせて両
眼視野とすると,中心視に対して水平方向 15°付
近(両側又は片側)に視野感度低下の症状が全て
の視野検査結果において見られた.Fig. 1 は症例
G03 の片眼の視野検査結果と両眼視野を示して
2. 3 実験装置
実験装置は(一財)日本自動車研究所の全方位
視野ドライビングシミュレータを使用した.この
シミュレータは,360°のスクリーンに6軸動揺装
置機構と実車ボディを搭載している.また,本シ
ミュレータは,回転テーブル機構を有しており,
交差点の右左折に応じて,実車ボディが左右に回
転する仕組みになっている.運転者への視覚情報
は全方位から提供されるため,実験環境への没入
感が高く,より実車に近い運転感覚となるよう工
夫されている.
Field of view of the central 30 °
L
Binocular visual field
Lowering of visual field
sensitivity
Fig. 1
Estimation of binocular visual field(G03)
Own vehicle
α
α
L1
Leading vehicle
L2
Time to collision ( Own vehicle 40km/h )
Left pedestrian:1.7[s]
Right pedestrian:2.5[s]
Fig. 2
JARI Research Journal
R
P2
Table 1
おり,両眼視野の右側の水平 15°付近に視野感度
の低下が見られた.
緑内障の運転への影響を把握するために,両眼
視野で視野の感度が低下している角度と車両進行
方向に対して同等の角度から歩行者が出現した場
合に運転への影響を確認することとした.本検討
では突発的に物陰から歩行者が車道に飛出す場面
を設定した.歩行者の出現位置は,本実験に参加
した緑内障患者の両眼視野から,車両進行方向に
対して左右各 15°条件(Fig. 2)と 7.5°条件(Fig.
3)を設定し,これらの条件に対して運転行動の
影響を分析した.また,7.5°条件は本実験で参加
し た 患 者 の中 に 両 眼視野 に お い て中 心 視 付近
(10°以内)の視野感度低下が見られなかったた
め,正常視野における運転行動を確認する条件と
した.
P1
なお,眼科医による緑内障診断を実施し,視野
検査結果をもとに次項の実験条件設定に使用した.
- 2 -
α:15[deg]
L1:18.7[m]
L2:27.9[m]
P1:5.0[m]
P2:8.0[m]
Experimental conditions diagram (15 ° conditions)
(2015.7)
L1
Table 3
Leading vehicle
L2
Pattern classification of visual field defect
Left side 15 °
Right side15 °
Both side 15 °
G05
G03,G04,G07
G01,G02,G06,G08,G09
P2
α
α
P1
Own vehicle
Time to collision ( Own vehicle 40km/h )
Left pedestrian:2.7[s]
Right pedestrian:3.4[s]
Fig. 3
α:7.5[deg]
L1:38.0[m]
L2:60.8[m]
P1:5.0[m]
P2:8.0[m]
Experimental conditions diagram
(7.5 ° conditions)
3
Left 15 ° conditions
2. 4 計測指標
2. 4. 1 発見反応時間
運転への影響を把握する指標として,ドライバ
の視線行動を取得した.視線行動はアイマークレ
コーダを用いて計測し,歩行者が出現してから視
線を向け終わるまでの時間を発見反応時間として
評価した.
2. 4. 2 運転操作反応時間
運転への影響を把握する指標として,ドライバ
のアクセルペダル操作量とブレーキペダル操作量
に着目した.歩行者が出現してからアクセルペダ
ルをリリースするまでに要した時間をアクセルオ
フ時間と定義し,歩行者が出現してからブレーキ
ペダルを踏むまでに要した時間をブレーキオン時
間と定義した.これらアクセルオフ時間とブレー
キオン時間を評価指標とし,歩行者飛び出し場面
での緑内障の影響について検討を行った.
3. 実験結果
3. 1 視野欠損箇所と運転行動の関係
本実験で参加した緑内障患者から視野欠損箇所
のパターンを3つに分類し,運転行動を確認した.
具体的には,両眼視野で左15°付近に視野欠損が
ある症例,両眼視野で右15°付近に視野欠損があ
る症例,両眼視野で両側15°付近に視野欠損があ
る症例の3種類に分けた(Table 3)
.視野欠損箇所
のパターン別に歩行者飛出し角度15°条件にお
ける発見反応時間の平均値をFig. 4に示す.
左15°付近に視野欠損がある症例は,1名の個
人データを示しており,左出現の歩行者飛出し条
件に対して,右出現の条件より発見反応時間が遅
れる傾向となった.
JARI Research Journal
Right 15 ° conditions
Eye movement reaction time[s]
2.5
2
1.80
1.5
1.11
1.08
0.86
1
0.56
0.5
0.41
0
Lef t 15 °visual f ield def ect
(N=1)
Fig. 4
Right 15 °visual f ield def ect Both side 15 °visual f ield def ect
(N=5)
(N=3)
Patterns of visual field disorder and eye
movement reaction time
右15°付近に視野欠損がある症例は,3名のデ
ータを示しており,左出現の歩行者飛出し条件は
右出現の条件より発見反応時間が早い結果となっ
た.視野障害側の右出現の歩行者飛出し条件は,
発見反応時間が遅れるとともにばらつきが大きく
なった.
両側15°付近に視野障害がある症例は,5名の
データを示しており,左右両方向の歩行者飛出し
条件に対して,発見反応時間の遅れる傾向が見ら
れた.
また,
発見反応時間のばらつきも見られた.
以上より,視野欠損箇所と同じ方向から歩行者
が出現すると発見反応時間が遅れる傾向が見られ
た.このことから,緑内障による視野欠損が,歩
行者の発見という運転行動に対し,影響を与える
ことが確認できた.
3. 2 視野障害程度の指標と運転行動の関係
緑内障の視野障害程度の指標(MD値)と運転
行動の関係として,個々の緑内障患者のMD値と
発見反応時間との関係をFig. 5に示す.Fig. 5に示
すとおり,右眼のMD値は歩行者出現角度15°の
左出現で発見反応時間との負の相関関係が示され
た.MD値と発見反応時間の関係について,各条
- 3 -
(2015.7)
件ごとに相関係数をまとめた表をTable 4に示す.
この表から,MD値右眼と出現角度15°の左出現
で発見反応時間と強い負の相関(R=-0.79,n=27)
が見られた.運転行動では,MD値右眼と出現角
度15°の左出現のアクセルオフ時間で比較的強
い負の相関(R=-0.68,n=25)が見られた(Table
4)
.また,ブレーキオフ時間においても強い負の
相関(R=-0.77,n=26)が見られた.以上から,
MD値を用いることで,特定の交通事故再現場面
時の運転への影響を把握できる可能性が示された.
4. まとめ
本研究では緑内障による運転への影響を把握す
ることを目的とし,典型的な交通事故再現場面時
における運転行動を分析した.
視野欠損箇所をパターン別に分類した実験結果
から,視野障害箇所側と同方向から歩行者が出現
すると反応時間が遅れる傾向が示唆された.この
ことから,視野検査結果による視野欠損部位と,
実運転における歩行者のような視対象の発見遅れ
の間には関連性がある可能性が示された.
緑内障の視野検査結果と運転行動の関係を示し
た実験結果から,右眼のMD値と左15°方向から
出現する歩行者に対して,発見反応時間が強い負
の相関関係が見られた.このことから,MD値を
用いることで,特定の交通事故再現場面時の運転
への影響を把握できる可能性が示された.
Table 4
MD value and driver reaction time
(coefficient of correlation)
Driver behavior
Eye movement Accelerator pedal
MD value
(left eye)
MD value
(right eye)
Brake pedal
0.33
0.15
0.29
-0.79
-0.68
-0.77
5. 今後の課題
本研究は,早急な科学的知見の蓄積が求められ
ている緑内障による運転への影響を明らかにして
いくための初段階であると考える.このような運
転影響を把握することで,視野検査結果をもとに
した緑内障患者へ運転支援の構築や社会生活のサ
ポートに繋げていくことが可能と考える.今後は
緑内障患者の運転行動データを蓄積し,さらに詳
細分析するために,本研究で検討できていない歩
行者の横断場面の分析を行う.また,本実験で運
転行動の反応時間が遅れた緑内障患者に対して運
転支援(注意喚起等)の可能性を検討する.また,
今後の課題として,有効データ数が少ない点も,
補強していく.
謝辞
本研究は,平成26年度公益財団法人タカタ財団助成研究
の一部をまとめたものであり,ここに記して感謝申し上げ
ます.
参考文献
1) 日本緑内障学会:日本緑内障学会多治見疫学調査報告
eye movement reaction time[ s]
3
2.5
書,2012
R=-0.79
2) 青木由紀,国松志保ほか:緑内障患者における自動車
2
運転実態調査,あたらしい眼科Vol29,No.7,2012
3) 国松志保,青木由紀ほか:ドライビングシミュレータ
1.5
での運転事故と後期緑内障患者の視野因子との関連,
1
第1回視野学会,No.8,p24,2012
4) David P. Crabb : Exploring Eye Movements in
0.5
Patients with Glaucoma When Viewing a Driving
Scene,PLOS ONE,Volume 5,Issue 3,p.1-9,2010
0
-30
-25
-20
-15
-10
-5
MD value( Right eye) [ dB]
Fig. 5
MD value (right eye) and eye movement
reaction time
JARI Research Journal
0
5) 警視庁交通局:H26年中の交通事故の発生状況,平成27
年3月19日
- 4 -
(2015.7)