kaiho01.

南 南 東 の 風
品 川 区の 南南 東 の方 向に ある 浜 川鮫 洲地 区は 、 立
会川 か ら東 京湾 に 繋が る水 辺の 街 とし て昔 から 栄 え
てき た 。そ の歴 史 的遺 産や 街の 元 気を 爽や かな 潮 風
にの せ てお 届けします。
しな がわ花 海道
上 げた り 花火 を した り 、
た まり 場 にな っ てい て 、
子 供た ち には 近 づく な と
注 意し て いた 。 景観 を 変
え たの は 「地 域 の底 力 」
地域 の底 力
4年 に プロ ジ ェ クト が ス
タートした。早速、町会、
地域 団 体、 行 政 関係 者 に
呼び 掛 け、 理 解 と賛 同 を
取り 付 けた 。 当 初は 土 壌
が固 く て耕 す の に相 当 な
苦労 が あっ た 。 お花 の 選
定も 難 しく さ ま ざま な 種
をま き 適合 し た 花を 植 え
るこ と にな っ た 。現 在 は
春は 菜 の花 、 秋 はコ ス モ
スの 花 が一 面 を 彩り 散 策
が楽 し い素 敵 な 憩い の 場
所に な り、 品 川 の観 光 名
所と し て認 知 さ れて き て
いる 。 ここ 勝 島 運河 の 土
手は 勝 島側 と 東 大井 側 の
周囲 約 2キ ロ あ る。 花 を
植える土手には1・5メー
トル 四 方の 大 き さで 1 2
00 枚 、2 枚 一 口で 会 員
を 募 り、 春 と 秋に
一 斉 種ま き を して
水 や りや 雑 草 取り
な ど の管 理 を して
い る 。近 隣 の 鮫浜
小 学 校の 全 校 児童
に よ る郊 外 授 業に
も 取 り入 れ ら れて
い る 。品 川 区 も種
や 肥 料等 の 提 供も
あ り 、官 民 学 の連
携 事 業と し て しっ
か り と地 域 に 根付
い て きて い る 。ま
た、 お 花畑 を 活用 し た 蜂
蜜の 養 蜂事 業 も始 ま り 品
川の 名 物商 品 とし て 売 り
出し も計 画 され てい る。
しな が わ花 海 道プ ロ ジ ェ
クト 会 員 随時 募集 !
一緒に復元を実現しましょう。
大 井競 馬 場を 最 寄り 駅 と
し て賑 わ って い た街 も 交
通 事情 の 変化 に 伴い 、 時
代 とと も に衰 退 して い っ
た 。ま た この 地 区は 何 に
も ない ね が口 癖 だっ た 。
商 店街 の おや じ 連中 が 集
ま って 、 何に も ない な ら
何 か造 っ て元 気 を取 り 戻
そ うと 思 い、 目 を付 け た
の が勝 島 運河 の 土手 、 周
囲 約2 キ ロに お 花畑 を 造
ろ うを 合 言葉 に 、平 成 1
事務局 03-3778-2492まで。
元委員会
以前 は 人が 寄 り 付か な
か った 運 河沿 い の エリ ア
を 、今 は 季節 ご と に花 が
彩 って い る。 土 手 の遊 歩
道 は、 ジ ョギ ン グ や散 歩
を 楽し む 人で 賑 わ って い
る 。1 0 数年 前 ま では 危
険 地帯 と 呼ば れ 、 心無 い
若 者が 夜 にな る と 奇声 を
ご連絡ください。詳しくは浜川砲台復
例 行事 に な れ ば と 街 の み ん な が 思 っ
た が、 一 連 の 騒 動 は 一 年 だ け の 珍 事
に 終わ っ た 。 原 因 は 東 京 駅 周 辺 の 地
下 水の 導 水 で 立 会 川 の 水 が き れ い に
な った と い わ れ た が 、 導 水 は 現 在 も
行 わ れ て い る の で 不 明 の ま ま で あ る。
一 過性 の 珍 事 が 立 会 川 物 語 の 一 ペ ー
ジ を刻 み 、 語 り 継 が れ て い く こ と で
し ょう 。 坂 本 龍 馬 像 の 見 物 人 も 前 を
流 れる 立 会 川 を 眺 め 当 時 に 思 い を 馳
せ てい る 。 ま た 、 毎 年 行 わ れ て い る
地 域の 盆 踊 り 大 会 で は 当 時 発 売 さ れ
た 「ボ ラ ち ゃ ん 音 頭 」 が 流 れ 、 踊 り
継が れて いる 。
にご賛同いただける方は、事務局まで
そ ん な川 に 異 変 が 起 き た 。 見 た こ と
も な いほ ど の 大 量 の 魚 の 群 れ 、 当 然
そ れ につ ら れ 、 マ ス コ ミ も 連 日 大 き
く 報 道し た 。 一 躍 立 会 川 が ボ ラ の 街
として全国に有
名になり遠方か
らの観光客が押
し寄せた。商店
街も活気づき
「ボラちゃんグッ
ズ」や「ボラちゃ
んセール」まで
始まった。春の
風物詩として恒
地域のシンボルとなる浜川砲台の復元
浜川砲台建立にあたり、品川龍馬会が中心となって浜川砲
台復元委員会準備会を設立した。一回目の会議を浦山嗣雄会
長他、有志が集い2015年1月24日(土)に発会式を行うことを
決議した。2016年11月15日の完成を目指して、念願の浜川砲
台完成記念披露式典が実施できればと考えています。
花海道の菜の花
ロ ジ ェ クト が 始 ま っ た 翌 年 の 春 の 珍
風 景 だ った 。 立 会 川 の 下 流 で 暗 渠 さ
れ て い ない 約 8 0 0 メ ー ト ル の 川 面
に ボ ラ の大 群 が 押 し 寄 せ て き た 。 か
つては汚水の
ような水が潮
の満ち引きに
よって上がっ
たり下がった
り、雨が降る
と強烈な匂い
がして鼻をつ
まんで歩く人
さえもいた。
2010年 11月 京 浜 ロ ー タ リ ー ク ラ ブ の 寄 贈 で
建 て ら れ た 330セ ン チ の 若 き 日 の坂本龍馬
賛同者(スタッフ)募集中
浜川砲台復元委員会設立
種まきイベント
こ の史実に 基づ き、 坂
本龍 馬が いた街 とし て銅
像を 建てたが 、 肝心 の砲
台が なく、 僅 か礎石 の石
のみ で砲 台が築 かれ た事
実を知らせるだけである。
浜川砲台は名称だけになっ
てい る。 ここに 、 砲台を
復元 して、 龍 馬と砲 台を
組み 合わせて 「 龍馬 が世
界を 観た街品 川」 を、 地
域と 賛同者、 品川龍 馬会
が一 体と なり具 現化 して
行き たいと考 えて いる。
一人 でも 多くの 方に ご賛
同い ただ き歴史 的な 顕彰
を行 い品 川区の 歴史 遺産
を広 く世に宣 伝し 、 地域
の活 性化 につな げら れた
らと思うところである。
坂本龍馬像
嘉永 6年6 月、 日 本に
開港 求めて アメ リカの ペ
リー 艦隊 が浦賀 に現 れる
や幕 府は江 戸を 守るた め
各沿 岸の万 石以 上の大 名
に砲 台を造 るこ とを命 じ
た。 土佐 藩も鮫 洲抱 屋敷
に砲 台を造 るこ とを土 佐
藩参 政吉田 東洋 が幕府 に
願い出 た。 坂本 龍馬 もそ
の年 の4月 に千 葉定吉 の
道場 に剣術 の修 行に来 て
いたの で、 砲台 に臨 時御
用と して召 し出 されて い
浜川砲台復元委員会
浦山嗣雄会長
ボラ騒動は、花海道プ
幕末当時に製造されていた30ポンド6貫目ホーイッスル砲
発行責任者:浦山嗣雄
品川区大井1-1-16
電話:03-3778-2492
立会川にボラの大群が遡上(2003年春)
浜川砲台を造ろう
浜川砲台
品川の歴史遺産
発行
浜川砲台復元委員会
事務局 広報部
ボラの大量発生!
2015年1月1日(木)
台
砲
川
浜
号
刊
創
2015年1月1日(木)
台
砲
浜 川
号
刊
創
東海道と立会川
所 在地
品川 区東 大井 3 丁目
江戸にあった土佐藩の屋敷は七箇所であり
その中で品川下屋敷は最大の面積があった。
幕府へ届け出た「指出」によると一万六千九
百一坪である。来福寺の南、立会川までの広
さである。はじめは材木の集積地として使わ
れていたが、寛文四年(一六六四)に土佐藩
が幕府より拝領した。屋敷内には家屋、蔵が
多くあり、藩主の別荘として使われていた。
幕末に十五代藩主・山内豊信(容堂)が三
年にわたり蟄居していた時、海晏寺の僧・南
溟と交流があったと伝えられている。ペリー
来航の嘉永六年(一八五三)、七年土佐藩は
ここに警備兵を配置した。ペリー上陸を警戒
する幕令によって土佐藩の海岸警備の中心と
なった場所である。その警備陣の中に若き日
の 坂本 龍馬 が いた こと は よく 知ら れて い る。
坂本 龍馬 研 究家
小美 濃 清明 氏記
わ らか い 土 地を 、 石や 土
砂 で埋 め 立 て、 二 三〇 〇
坪 に拡 大 さ せて い る。 砲
門 は八 門 設 置し て いた 。
警 備陣 は 品 川下 屋 敷を 宿
所 とし て こ の砲 台 に配 置
さ れて い た 。浜 川 砲台 と
品 川下 屋 敷 を結 ぶ 、連 絡
路 は現 在 の 立会 川 商店 街
の道路であり、その距離、
約 二百 メー ト ルで ある 。
若き 日 の 坂本 龍 馬も 警
備 陣に 加 わ って お り、 こ
の 道を 毎日 歩 いて いた
土佐藩・品川下屋敷跡
も の です 。
と 思わ れま す。現 在の 橋は 、昭 和九 年(
年) に架 け替 えら れた
1934
立 会川 が海 に注 ぐこ の辺 りの 地名 の浜 川か ら 名付 けら れた こ の橋
は 、 また の名 を 「涙 橋」 とも い いま す。
こ の橋 が架 けら れた のは 、徳 川家 康が 江戸 へ 入府 後の 千六 百 年頃
浜 川橋 の たも と から 立
会 川 が海 に そそ ぐ とこ ろ
ま で が、 土 佐藩 抱 屋敷 で
あった。幕府への「指出」
に よ ると 八 六九 坪 が抱 屋
敷 の 広さ で ある 。 (抱 と
は 拝 領と 異 なり 買 入れ 、
借用していたものである。)
こ こは 土 佐か ら 送ら れ
て 来 る物 資 の荷 揚 げ地 で
あ り 、立 会 川か ら 荷を 陸
上 げし てい た 。
ペ リー 来 航の 嘉 永六 年
( 一 八五 三 )土 佐 藩は 砲
台 築 造の 「 願」 を 幕府 に
提出し許可を得て、翌年、
砲 台 を造 っ た。 浜 川砲 台
と い われ た 。 砂 浜の や
東大井2丁目
慶 安 四 年 ( 1651
年 )品 川に お仕 置き 場 (鈴 ヶ森 刑場 )が 設け られ
ま し た。 ここ で、 処刑 され る罪 人は 、裸 馬に 乗 せら れて 江戸 府 内か
ら 刑 場に 護送 され てき まし た。 この 時、 親族 ら がひ そか に見 送 りに
来 て、この橋で共に涙 を流しながら別れた ということから、 「涙橋」
と 呼 ばれ るよ う にな りま した 。
品川区教育委員会
災害発生時の相互応援協定が平成26年11月15日に高知市
や長崎市、品川区濱野区長などの市長らで結ばれた。
(京都市)
左新聞記事(東京新聞11月16日(日)朝刊抜粋。
…編 集 後 記 …
龍馬ゆかりの8自治体で防災協定!
浜 川砲 台号 は 継 続発 行 を
予 定し てい ま す 。当 面 は
砲 台復 元ま で の 近況 を お
知らせいたします。また、
ご 寄附 等の ご 賛 同を い た
だ いた 方の ご 芳 名も 順 次
掲 載し 報告 を し てい く 所
存 です 。多 く の 方の ご 理
解 とご 協力 を お 願い 申 し
上 げま す
03-3778-2492
お問合せ
江戸中期の浜川付近の絵図
平 成十 三年三 月三 十日
いつも元気な「りょうくん」
高 林 正 敏
会長
菅 野 鴻 三
会長
繁栄会
会 長 浦 山 嗣 雄
事務局 大井1-1-16
電 話 03-3778-2492
会員随時募集中
年会費・3000円
立会川周辺
うるおいプロジェクト
勝島運河の周囲2kmの土手に春
は菜の花、秋はコスモスを地域の
方々が育て管理している。
事務局 03-5763-9566
次号からの広告を
募集中
品川龍馬会
大井第一町会連合会
プロジェクト
浜川砲台跡地から発掘された砲台の礎石
立会川駅前
通り
立会川地区の環境美化を願い活動!
6町会と3商店街で2004年に結成
しながわ花海道
告
広
土佐藩・鮫洲抱屋敷
浜 川 砲 台 跡
土 佐 藩 品 川 下 屋 敷
浜川橋(涙橋)
2015年1月1日(木)
砲 台
川
浜
号
刊
創
2015年1月1日(木)
台
砲
川
浜
号
刊
創