1 吉本隆明「ハイ・イメージ論 Ⅰ」<引用> 地図論 <3

吉本隆明「ハイ・イメージ論 Ⅰ」<引用>
(文中の太字は引用者による)
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)
地図論
<3>
ランドサット映像を眺めながら地質学的な過去の時期に、都市大阪をふくむ大阪平野が海底にあり、奈良盆地もま
た現在の大和川沿いに西の生駒山地と金剛山地の切れ目や、北の奈良丘陵、南の紀ノ川沿いから海水が入りこんでい
て、海底あるいは湖底にあった状態を空想できる。この空想がどうしてなるかといえば、ランドサット映像が、都市
と田園の映像は平地としておなじになってしまい、自然の地質と人工的な構築物の映像も、地質層としておなじにな
り、すべてを地質学的な地層と地形の映像に還元してしまうためだ。何よりもはじめに地質とその変貌の仕方が眼に
とびこんできて関心をそそる。これは世界視線が生物(たとえば鳥類)の視線を超えて宇宙に拡大されたことの意味
だ。この映像は高度な技術映像にもかかわらず、人間や他の生物の生活空間をすべて無化して完全に映像の彼方へと
隔ててしまう。地質という概念はランドサット映像では拡張される。自然という概念も拡張される。それと一緒に世
界視線もイデアルなものに近づいてゆく。そしてわたしたちが想定したように時間の自然な方向性という概念も拡張
されて、過去にさかのぼることが地質映像としてできるようになった。像の〈死〉からまた像をつくれるようになっ
たため、すくなくとも映像としての〈死〉をわたしたちは超えることができるようになった。そういいかえてもいい。
いまここで、近畿地方のランドサット映像を眺めながら、
おおざっぱなランドサット地図(第3図参照)
、と専門の考古
学者のくわしい記述によって、わたしたちの空想をいくらか
でもはっきりさせてみる。
第3図は概観図以上のものとして意味づけるつもりはまっ
たくない。
現在までのところランドサット映像で年代をさかのぼった
例は近畿地方について公表されていない。そこでおおざっぱ
に変成モデイフイケーシヨンしてみた。
考古学者樋口清之は、奈良盆地の約一万年以前のころの地
形と地質について、つぎのように述べている。
日本の地帯構造線の動きは第三期末から活溌で、洪積期を
終え沖積期に入っても絶えず隆起・沈降を繰り返し、地形が
変動しております。
それは大体万を単位にして変動しますが、
大和に関する限り次のようなことがわかる。地質学の立場か
ら行なわれた詳細な地下地質の研究でわかったのであります
が、ほぼ長方形をしている現在の大和平野は、今から約一万
年余り前、即ち洪積期の最終末の頃、山城平野に口を開いて
いる海湾であった。海の塩水は大阪湾を満し、山城平野を満
し、現在の奈良市の北にある奈良山の丘陵はなくて、それを
第3図 1万年前ごろの近畿地方の変成ランドサット映像(想像)
越えて大和湾に北から南へ湾入していた。後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れ
て行くことになった。同時に紀伊半島が今の淀川・宇治川・琵琶湖を通り若狭湾に出る地帯構造線(淀川地帯構造線)
に向って傾斜した。そこで大和湾中に孤立した海水は、先ず北に向って排出され、その時に押し流された土砂が堆積
し現在の奈良山丘陵をつくったのです。かくて大和湾の海水は北への出口を防がれて湖となりますが、周囲の山から
流れ込む天水はこの大和湖の水面を一層高め、やがて水は西の方を切って大阪湾に排出し始めます。この頃より、大
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和湖は海水湖より淡水湖に変って行く。この時に運ばれて堆積したものが、現在二上火山の麓を埋めている砂傑層で
す。更にここがつまると、今度はその北側に水路を移すが、これが竜田川の渓谷を通って大阪湾に流れ出る現在の大
和川ということになるわけです。つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面
が次第に低下し、最後には干上って浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。
(樋口清之「日本古典の信憑性」
『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)
<引用者:上記の紀要は 1965 年 11 月発行。下記の概念図は引用者が記載>
<第3図と樋口氏の説に基づく「約1万年前の畿内地方の概念図」⇒ http://pdffile.cocolog-nifty.com/blog/files/j02.gif(クリックして下さい)>
~この概念図は、HP「折節の記」
(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kaguyama.html)より引用させていただきました。~
これによると一万年くらいまえの洪積期の末期に第3図のように海湾としてあった大和盆地は、紀伊半島の地盤の
隆起でもちあがり淀川、宇治川、琵琶湖をむすぶ線が若狭湾にまできれこんだ個所に傾斜し、大和盆地の水は北の琵
琶湖の方に排出され、そこが土砂の堆積で奈良山丘陵をつくると、出口がふさがれて湖になり、盆地周囲の山から天
然の水がたまって淡水湖にかわりはじめる。それといっしょに、北側の山地のきれめから竜田川沿いに大阪湾に排水
しはじめ、そこが砂喋層で塞がれると現在の大和川沿いに大阪湾に排水口が移勤しはしめた。大和盆地はそのあとも
地盤の隆起によって排水がすすみ、最後には干あがって、現在みられる盆地になった。そういうことになる’
。
樋口清之はおなじ論文で『万葉集』
(巻第一雑歌二)の舒明天皇が香具山にのぼって国見をしたときの歌に言及して
いる。
二 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海
原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は
この「海原」が香具山の麓にあった埴安池だという国文学者たちの説はおかしい。香具山の頂上に登るとこの池は
見えない。何十回と登ったが遂に見ることはできなかったとのべ、
「寧ろここから見える海原は、国原に対して海原と
表現したもので、かつての盆地湖の名残りとして、丁度今の郡山の東の方が奈良朝まで湿潤の地であり、香具山から
はこれが見え、また鴎の立つ姿も見えたと思う。
」と言っている。
樋口清之のいうことは『古事記』
(中巻)
『日本書紀』
(巻第三)で、神武が宇陀の地の首長、兄宇迦斯を討ったあと
弟宇迦斯が大宴会を設けたとき、神武がうたったとされている歌についてもいえるとおもう。
宇陀の 高城に 鴫しぎ 羂わな張る
我が待つや 鴫は 障さやらず
いすくはし 鯨くじら障る
前妻こなみが 菜乞はさば
立柧棱たちそばの 実の無けくを
こきしひゑね
後妻うはなりが 菜乞はさば
衿実いちさかきみの大けくを
こきだひゑね
(
『記』歌謡一〇)
宇陀地方の山地で、鯨がとれるはずがないから「鷹」
(朝鮮語でクジ)のことだという研究者もいれば、鯨でも不都
合はないので、鴫にたいして思いもかけぬ唐突なものをもってきて、誇張と滑稽感をだす俗謡の転調法としてありう
ることだという研究者もいる。いずれも当てにならないようにみえる。くじらと読めるものを、ことさら朝鮮語音に
むすびつけて鷹にして、複数の「鷹クジら」とみなすべき必然もないし、また俗謡の転調法として「鴫」にたいして唐
突な「鯨」をもってくることはありうることだというだけでは、何故「鯨」を連想したか説明できなければ、必要十
分な解釈にはならない。これらの見解は、無作為のうちに自然の地質映像が不動で不変なものだという前提にたって
いる。宇陀地方の山地から想定される神武東征伝説の時期に、湾入した大阪湾の海が見え、あるいは大和盆地湖では
2
鯨が附近まで回遊することがあったとまではいえないまでも、
「鴫」と対句に「鯨」という言葉をもってきたところに
は、宇陀山麓の住人(山人)たちが、狩猟といっしょに眼のまえにひらけた湖岸で魚を採っていた時代があったから
だとおもえる。そうかんがえると「鯨」が宇陀人にとってやや大げさな感じを出すばあいの山の幸「鴫」に対する海
の幸としての対句たりうることもそれほどおかしいことではない。
この歌謡はべつに神武がつくった歌でもなければ、
戦いの歌でもなく、宇陀地方のエロチックで滑稽な古俗謡とかんがえるのがいちばん自然だとおもう。若々しい後妻
になる女性を待っていたら、思いもかけず前妻がきてしまった、ええいしまったことだ、前妻には実のないたちそば
をやればいい、若い後妻には実の大きいいちさかきをやろうというのを「鴫」と「鯨」で寓喩したものととれる。
樋口清之がこの論文で指摘したことのうちたいせつなことは、つぎのいくつかに要約される。
(1)奈良朝時代までは、奈良盆地の標高四十五米線以下には住居趾や遺物は発見されていない。つまり、人間の
住んだ痕跡は認められないから、それ以下の低地は大和盆地湖の名残りで湖水や湿地であった。そして大化条理制に
よって四十五米線の東岸に「下つ道」がつくられて、後の平城京の朱雀大路に通ずるものとして、中心街路をなした。
<引用者:
「下つ道」については、この地図ご参照⇒ http://pdffile.cocolog-nifty.com/blog/files/j01.jpg(クリックして下さい)>
(2)神武紀にでてくる地名のうち神武に抵抗する土着の異族の居住地名は、たとえば鳥見の長髄彦、菟田の兄猾
えうかし・弟猾おとうとかし、吉野の井光いびか等十四ほどあるが、いずれも標高七十米線以上にあり、そういう地点から発
掘されるのは縄文土器末期のものであり、二千六百年プーフスーマイナス二百年が放射性炭素の半衰期からの推定年
代である。
<引用者:居住地が標高 70m以上にあることから海面が標高 60mにあったと仮定すれば、当時の畿内の地図は次のようになるでしょう。>
(URL をクリックしてください。
)
http://pdffile.cocolog-nifty.com/blog/files/j03.jpg
上図は、
「古代の地形から『記紀』の謎を解く」
(http://pdffile.cocolog-nifty.com/blog/files/26.pdf)より
http://pdffile.cocolog-nifty.com/blog/files/27.pdf
(3)橿原遺跡は縄文末期のもので、そのころ大和盆地湖につきでた岬みたいに三方が水に囲まれた半水上生活の
場所であった。
(4)これらを総合して神武の実在を無条件に認めるわけではないが、神武説話には歴史的な信憑性があり、歴史
の投影が含まれていて、後世、架空につくられた何の根拠もない物語ではない。
<引用者:これらの指摘については、樋口清之「逆・日本史 3」
(http://pdffile.cocolog-nifty.com/blog/files/28.pdf)にも記載されています。>
これらの指摘は、都市映像論の視点からいい直せば、ふたつのことが大切だ。ひとつは、縄文期(晩期新石器)
、弥
生期(稲作農耕開始期)
、古墳期(古代国家成立期)などの歴史的な時代区分が、地図映像のうえでは標高差に還元さ
れると指摘できることだ。世界視線からは縄文人が狩猟生活をしていたかどうか、弥生人が農耕生活をしていたかど
うか、古墳時代の初期王権が、集落の共同体とは別の次元で、着々と国家の共同幻想を形成しはじめていたかどうか
は、まったく視圏の外におかれ、想像としての像の問題に転化される。映像ではすべては集落の標高差に還元されて
しまう。
これが縄文と弥生の歴史区分の映像上の差異である。おなじ平野の低地に、湖岸か海岸に沿って住居や集落や耕作
地をつくっていた弥生人と古墳時代人との差異は、世界視線からはどうなるだろうか。それは湖岸や海岸線に近い平
地で、人工的な地質層としての構築物(住居、集会所その他)を形成しはじめたかどうか、また拡大しはじめたかど
うかの差異になる。また規画された地質層としておなじだといってもいい。
もうひとつたいせつなことは、生活人としての縄文人、弥生人、古墳時代人は、住居跡、食糧として採取した動物、
魚類、植物の実などの骨や化石(または遺骨)に生活行動の痕跡をのこすことで、地質層の異和物に還元されている
ことだ。イデアルに微分化された世界視線を仮定すれば、すこしばかり異和物を地質層にのこしていることになる。
これがなぜたいせつかといえば、現在の文明社会の都市や農村が、ひとつの地質層に還元されたばあいを未来に想定
してみると、
食糧が骨や化石として遺されることなどまったくかんがえられない。
現在の文明人の生活行動のあとは、
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ただ巨大な高層ビルの人工的な瓦礫層に還元されるにちがいない。わたしたちの世界視線が高さを増すことと、生活
行動の痕跡がのこされる度合とは、いわば反比例しているといえる。このことはとてもたいせつなことにおもえる。
<4>
樋口清之の論文が指摘しているのはもちろん地図論などではない。考古学的な事実から推論された神武伝承の信憑
性である。戦時中はファシズムによって伝承の神武を始祖とする初期大和朝廷は、日本列島をおおう規模の虚像とし
て流布された。そしてその理念はひとびとの精神を強圧的に支配した。戦後はスターリニズムが神武説話を架空のも
のとして一笑にふしてかえりみなかった。そしてその歴史理念の風潮が支配してきた。それにたいして苦々しい事実
を提示しようとしている。神武をはじめとする崇神までの天皇群が伝承の人物であるか実在の人物であるかは、現在
までのところ断定できそうもない。ただ大和盆地湖畔の縄文時期の集落に、おもむろに進出してきた水稲耕作と、工
芸技術と、古代化した宗教祭儀をもった弥生人の勢力を象徴するにたりることが、考古学的な観点から結論されてい
る。貧弱な一地方的な規模の勢力をもった豪族が、大和盆地湖畔のちいさな閉域で、氏族的共同体を統御して初期的
な国家を形成してゆく有様を、神話の神武勢力が実在であるか伝承であるかにかかわらず、また武力衝突があったか
どうかにかかわらず、虚飾も粉飾も混えずに像として思い浮かべ、その像が可能性としての極限で、歴史的な事実の
像を再現することにつながることが、ここでは充分な説得力をもって、取り上げられている。ほぼ樋口清之に近いこ
とは、近年歴史学者古田武彦によっても主張されてきた。
古田武彦は、神武実在説の主張をもとにした近年の仕事を本にまとめて最近出版した(
『古代史を疑う』
)
。古田武彦
の主張の根拠をひと口にいえば、ひとつは神武東征説話の地名と地形が、弥生時代の大阪周辺の地形図に一致すると
いうことだ。古田は文献を挙げていないが、この主張は樋口清之の仕事の影響下になされているとおもえる。伝承の
神武と五瀬命が畿内に入ろうとして上陸したとされる「日下の楯津」は、現在では陸地だが弥生時代の地形では、河
内湾の奥にあたっている。もうひとつ古田が挙げているのは、神武の長兄、五瀬命が長髄彦の軍に敗れて退去した「南
方」は、弥生時代の地形では河内湾から大阪湾にでる頭を扼おさえるところに当っている、ということだ。
古田武彦には、
もうひとつ神武実在説を裏づけるおおきな柱がかんがえられている。
それは神武が九州地方の銅矛、
銅戈、剣や銅鏡や玉造りの文化を担った勢力を象徴するもので、弥生後期に大和盆地にすでに存在していた銅鐸文化
をもった東国系の国家と衝突し、これを滅亡させたというものである。それは弥生後期の大和で、突然銅鐸が消滅し、
「こわされた銅鐸」が近畿を中心に発見されており、またより東方の周辺の地域(浜名湖周辺、滋賀県、紀伊水道両
岸等)には後期銅鐸が発見されることからも裏づけられるというものだ。古田武彦のいう地名と弥生時代にさかのば
った地形の一致や、銅矛や銅戈を祭器とする宗教国家と、銅鐸を祭器とする宗教国家との差異は、世界視線からの地
形や標高差としてはおなじになってしまう。ここでは国家の共同幻想が問題とされ、それを象徴する祭器が地質層の
差異ではなく、地質層の同時代的な空間分布の差異を象徴するものとして論議されている。
ここでもうひとつ石野博信の説に言及しておきたい(石野博信『古墳文化出現期の研究』
)
。
石野博信は橿原遺跡の出土土器の分析から縄文時代晩期の中ごろに、土器文化に正常な形を乱す変化が外部からの
「強い影響」としてあったと指摘した。そしてその「強い影響」とは水稲農耕=弥生文化の渡来であり、そのために
縄文土器形式は西日本色の影響のつよいものに変化し、弥生式土器との連続性をもつようになった、とみなしている。
さらに大和盆地では、紀伊、和泉、播磨とおなじように、縄文晩期文化と弥生時代前期文化の併行関係が認められ
るとして「すなわち縄文時代晩期中葉(大洞G2 成期)に弥生時代前期(古)の文化が入り、前期(新)の階段に至
って縄文人が水稲農耕を主体的に採用した結果、弥生時代遺跡の爆発的増大をもたらしたのである。
」と記している。
これが石野博信のたいせつな結論のひとつになっている。
詳細な問題をべつにしてもうひとつたいせつなことが言われている。
大和盆地の弥生時代遺跡の分析は、前期のころから盆地東南部に集まる傾向があり、それが中期以後古墳時代前期
までつづいている。これは古墳(時代)が大和盆地以外から突如として入って来た人々によってつくりあげられたと
はかんがえられないというものだ。このことは神武東征伝承を、何らかの歴史的事実の反映とみれば、それは大和盆
地に侵入して、そこを平定してただちに初期国家を形成したというようなことはありえず、樋口清之のように縄文晩
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期に弥生文化をもたらした勢力を象徴するほかないということを意味している。だが石野博信は神武東征神話につい
ては言及せずに、
『倭人伝』の卑弥呼伝説の記述と、弥生中期のの高地遺跡から推測された動乱とを結びつけた。
石野博信によれば弥生時代中期に、大和盆地と瀬戸内をむすぶ交通の要地、(1)大和川をさかのぼって大和盆地に入
った地点(斑鳩町)
、(2)河内から竹之内峠をこえて大和に入った地点(キトラ山)
、(3)紀ノ川を経て古瀬を通り、曽我
川を下って大和へ入った地点(新沢千塚山)が、いずれも軍事的性格のつよい高地性集落であることから推測して、
大和盆地の諸部族国家は、西日本との関係で動乱状態にあった。そして弥生中期の高地性遺跡の分布は山口県から神
奈川県にまで及ぶ長大な地域にあるから、この動乱は西日本(瀬戸内西部か北九州)から東へ波及したとかんがえら
れる。このとき大和盆地の主流となった勢力は、弥生時代前期(新)階段に水稲農耕をうけいれた土着勢力(縄文人)
の後裔であった。
「その理由は、弥生時代中期に北九州の文化が大量に入った形跡がないからである。
」というものだ。
軍事的性格のつよい高地性集落は山口県や神奈川県では、中期末には消滅するが、近畿地方では弥生後期に再び高
地性遺跡があらわれる。これは近畿地方とその周辺に限られており、中央政治に関与した圏域だけにあらわれること
から、このときの動乱(第二次)は、中央政権の争奪にかかわる動乱であったとみなされている。
石野博信は、はじめの第一次動乱が卑弥呼の共立によって終結し、そのあと男王の擁立で動乱が起きて壱与を立て
るまでの動乱が第二次の動乱であるとかんがえれば、邪馬台国は近畿地方にあったとして、
『倭人伝』の記述を、こ
の大和盆地の弥生中期の考古学的な異変に対応させてかんがえている。
いまとりあげた三つの説は、わたしには古代史の実像に一歩肉迫した興味深いもののようにおもえる。ここにあら
われた推論で何か問題となるかを要約してみれば、つぎのようになる。
(1)大和盆地周辺の縄文晩期から弥生前期にわたる遺跡の変貌や重なり合いや並存性を神話の神武伝承に対応さ
せるべきか、それとも『倭人伝』の記載に対応させるべきなのかということがひとつである。そしてこのばあい古田
武彦のように神武を実在とみなすべきなのか、あるいは実在か否かを問うよりも、樋口清之のように弥生文化を大和
盆地へ到来させた人々の勢力の象徴とみるべきなのかという問題が派生する。
(2)もうひとつは伝承の神武東征に象徴される(あるいは実在の神武の大和盆地への進入)弥生文化の大和盆地
への進出の時期に、大和盆地にはすでに国家といえるもの(古田武彦のいう銅鐸国家)が存在しており、そこに武力
衝突による国家の交代が行われたかどうかだ。またこれにしたがって銅戈、銅矛、銅鏡を宗教的な祭具とする国家と
銅鐸を祭具とする国家とは縄文、弥生、古墳期の大和盆地とどう関連づけられるべきかということだ。
これらのことに介入するだけの用意も知識ももっていないが、これらのことが、わたしたちがここでやっている地
図論の像からは何を意味しているか、その位置づけをはっきりさせた方がよいようにおもわれる。これらの諸説は、
地質的な過去の層から出土された狩猟や、漁榜や、植物の実や骨などの食糧晶、住居や集落跡、土器、祭祀の用具を
もとにして、それを神話伝承の記述や古代史書の記述と対応させることで成り立っている。そのばあい食糧や住居、
集落あと、土器などは生活行動の用具を、銅矛や銅戈や銅鐸などは、支配共同体の非生活的な宗教用具を意味してい
て、そのちがいは宗教祭儀の型のちがい、したがって宗教を共同体としてもつばあいの種類のちがいとみなされる。
世界視線からみられたときは、これらはすべて標高差の問題と地形差の問題に還元されてしまう。それといっしょ
に食糧の化石や骨や実も祭器具としての銅矛や銅戈や銅鐸なども、地質層から出土したり遺跡としてとり出された実
在の物ではなくて、いわば像としての遺物に転化される。わたしたちは化石や遺物そのものをみているのではなく、
像としてのそれらをみている。そのばあいわたしたちは坐高や眼の高さにある普遍視線であることにかわりないが、
、
普遍視線そのものは、地質層が過去にさかのぼるにつれて、想像された過去にさかのぼらなくてはならない。そして
過去の特定の時期の地図の映像は世界視線の地層溶透性と普遍視線の想像力の両方から像をつくりあげられるといっ
ていい。わたしたちが過去の地質層のうえに住居や集落や食糧などの遺物や遺跡を、映像として自由におもいえがけ
るようになるのはそのためなのだ。わたしたちは、過去の地質層のうえに標高線と地形の像を、ランドサット映像か
ら知ろうとしたが、現在までのところ及ばなかった。そこで近似的にランドサット映像を変成モデイフイケーシヨンした図
面が、第4の奈良盆地の映像にあたっている。
この変成・フンドサット映像図面は、樋口清之「日本古典の信憑性」
(
『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)
、
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伊達宗泰『大和考古学散歩』
(学生社)
、丸川義広「弥生時代遺跡の展開と生活空間の拡大」
(
『奈良県史』所収)など
の記載を参照しながらランドサット映像のうえでつくった。標高五〇メートル線以下を浅い湖水のように変成したが、
これは弥生時代全期にあてはまるおおざっぱなもので、印象図をそれほど出ないものとみてもらいたい。精密を誇る
つもりはまったくない。ランドサット映像の山地部と平地部との境界は、略々標高一〇〇メートル線に当っている。
その内側に引いた線は標高七〇メートルの縄文期線である。
この変成されたフンドサット映像は、弥生時代の住居や集落が、標高五〇メートル線の大和盆地湖の湖岸に沿って
展開されたことを示しているとおもう。縄文住居や集落は、標高七〇メートル線に沿って展開されている。このこと
は標高七〇メートル以下の地域が縄文時代には、湿地帯または湖水であり、その湖岸に沿って住居や集落が営まれた
ことを示唆しているようにみえる。
ところでこの変成・フンドサット図面で、特異
な地域が二ケ所表示してある。それは縄文遺跡と
弥生遺跡が同一の地区に重なってあつまっている
地域だ。ひとつは初瀬川から大和川へそそぐ流れ
の源泉にちかい三輪、箸中、金屋、脇本など三輪
山麓遺跡の地域だ。もうひとつは飛鳥川上流と曽
我川上流とのあいだにはさまれた橿原、鳥屋、櫛
羅くじらなどのある橿原地域である。
この二つの地
域は縄文時代に住居や集落が存在し、しかも弥生
時代にも住居や集落が存在しつづけたことを示し
ている。
そしてこの二つの地域は伝承の神武にはじま
る初期王朝の住居や集落や制度のうえの宮殿や
政庁の所在地に擬定されている地域で、そこには
対応があるとかんがえられる。わたしがこのラン
ドサット映像の変成図を作りながら、ひとりでに
浮かべた像イメージでは、伝承の神武に象徴される
初期の王朝が、奈良時代に入植した弥生文化の伝
播者を象徴するとすれば、この勢力が標高五〇メ
ートル線の湖岸におもむろに展開された弥生集落
の共同体を制度的に連合して、国家の形成にまで
たどりついたというよりも、宗教的な威力によっ
てのみ統合をはたしたにちがいないという像イメージ
が優先的にやってくる。そしてこの像イメージが正当
であるかどうかを、うまく決定できないが、湖水、
低湿地をひかえたこの閉地域の映像は、そこに形成
された集落共同体の連合体が政治的な次元で九州か
ら東日本までの巨大な範囲にわたり、影響を与える
第4図 奈良時代の奈良盆地の変成ランドサット映像図
ほど強力になりえたという像イメージはつくりにくい。む
しろ宗教的な次元で、統合がすみやかに拡がってゆく像イメージのほうが自然におもわれてくる。
<この文書は、
「生駒の神話」
(下記 URL をクリック)に掲載されているものです。>
http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/ikomanoshinwa/
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