01 - 水煙会

頭
口
服
部
範駒
水煙会会長
年卒 )
今年 の夏は ことのほか暑 く、私の出身地熊谷 では40.9℃ と云 う記録 を残 し
ましたが、皆様は如何お過 ご しで しょうか。
今年 は地震の 当 り年 で した。 3月 25日 には能登沖地震、 7月 16日 には中
越沖地震 と、いずれ も震源地帯では震度 6強 を示 し、多 くの被害が発生 し
ました。私 も能登 へ 3日 間の調査 に赴 きま したが、在来構法の木造家屋が
かな り倒壊 して い るのに対 し、耐震補強 した RC造 が いず れ も健全で、地
域 の避難拠点 として立 派 に役 立 っているのが 印象的 で した。来 るべ き南関
東地震 に備 えて耐震改修が急務であることを改めて痛感 して居 ります。
6月 20日 か ら改正建 築基準法が施行 されました。 耐震偽装事件が社会に
与 えた不安感、不信感を回復す るため、 国土交通省は構造計算基準及 び計算
プログラムの見直 し、確認検査業務 の厳格化、建築士法 の見直 しの 4項 目を掲げ、多 くの政令、告示等を
発 して周知徹底 を図ってい ます。
構造計算 のビアチェックとして適合性判定 (適 判 )も ス ター トしました。 ところが確認申請が著 しく
滞 る事態が起 っています。
6月 20日 時点 で詳細 な技術基準等が明確でな く、大臣認定プログラム も間に合わない などにより、確
認検査機関が邊巡 してい るのが原因 とされますが、建設活動 の停滞 など社会問題化 しつつ あ ります。設
計者 の大部分は法 を遵 守 して業務 に当ってきただ けに、今回の設計者性悪説に基 づい た改正内容には疑
間を感 じる部分があ ります。来年度 は建築士法 も大 きく変わ り、一級建築士 の 3年 更新制や構造設計一
級建築士 の新設な ど、各方面 に大 きな影響 を与えそ うです。
今年度 の総会は 3月 22日 (木 )、 県民ホールで行 ない ました。
卒業制作展が海岸通 りのバ ンクアー トで 開催 されたのに合せて期 日・会場 を決定 しましたが、 当 日が
横浜建築 スクールY― GSAの 開校記念式典 と重複 したこともあ り、参加人員は昨年 に比較 してやや下回 り
ました。 しか しなが ら、担当された昭和52年 度卒業 の皆様方が ご努力 されたお陰で盛 り上がった総会 と
なった ことを感謝致 します。
また、第 2回 ホーム カミングデー も11月 10日 に開催 されます。 この企画は大学 と卒業生の連繋 を強化
しよう とするもので、多 くの 同窓生 の参加 を期待 します。
今年 も多 くの言卜
報 に接 しました。
3月 7日 田口武一先生が95歳 の天寿 を全 うされ てご逝去。多 くの卒業生がご葬儀 に参列 し、代 表 して
通夜では福 田氏、関口氏、告別式では笹川氏 と私が弔辞 を読み上 げました。 これ らの内容が建築学科 の
歴史の一端 を物語ってお り、会誌に載せ るのが良いのではとの関口名誉教授 のご提案 を受け、ご遺族の
ご了解 を頂 いて原文のまま掲載す ることと致 しました。
8月 21日 には野村東太先生 ご逝去。建築学科か ら学長に就任 されたのは江國先生 に次 いで二人 目であ
り、 ものづ くり大学学長 としてご活躍中であっただけにたいへ ん惜 しまれます。
10月
5日 には横浜工業会 豊倉富太郎理事長が逝去 されました。
ここに謹 んでご冥福 をお祈 り申し上 げます。
-1-
建築学教室 の近況
教室主任
吉
田
2007年 度 と2008年 度 の 2年 間、教室主任 を務めることにな りま した。国
立大 学 の法人化 の後、大学 はつ ぎつ ぎに改革 を追 られてお り、 グ ローバ ル
な競争 を熾烈 に行 っている社会 のただ 中に投 げ込 まれつつ あ ります。 わが
建築学教室 も、今後」ABEE(日 本技術者教育認定機構 )の 認定、 一級建築
士の受験資格 の変更お よびUIAの 国際的な建築家資格 に合 わせ たカリキ ュ
ラムの編成 な ど、様 々 な課題 を抱 えてお りますcさ らに、その背景 には18
歳人日の減少、学生 の工 学部離れな どの現実が控 えて い ます。 この変化 の
激 しい時代 に重責 を無事果た しうるか、心 もとない ものがあ りますが、微
力 を尽 くしたい と思います。皆様 のご協力 をお願いいた します。
さて、2007年 3月 には、73名 の学部卒業生 と62名 の博 士前期課程修了者、それに 3名 の博 士後期課程
修了者
(う
4月 には、
66名 の学部入学生 と3名 の編入生
ち 2名 は6月 修了)が 出ました。その代 わ りに、
専編入 1名 、学士編入 2名 )、 62名 の博士前期課程入学者
(う
(高
ちわけは、後に述べ ますTEDプ ログラム
(9講 座 )が 属する環境情報研究院が10名 )と 、
2名 の博士後期課程入学者があ りました。博士後期課程 は2007年 10月 入学者が 2名 あ りましたので、合
31名 、PEDプ ログラムが21名 、環境管理計画 の研究室
計 4名 とな りましたが、絶対的 に入学者が少な く、やや寂 しい状況です cこ れは建築 のみな らず工学研
究院全体 の傾向で、その趨勢が憂慮 されてお ります。それ以外 は、 まずは順調に推移 している もの と思
い ます。学部入学試験の定員は、前期入試が27名 、後期入試が30名 、AO入 試
形試験 と面接試験 を
`造
課す)が 7名 ですが、実質倍率 は前期入試が4.6倍 、後期入試が66倍 、AO入 試が109倍 と、 いずれ も高
倍率 で、難易度 も高 く、一部 の受験情報誌 では全 国の大学 の建築分野 の トップクラスに位置づ け られて
お ります。
先に少 し触れましたが、2007年 4月 か らは大学院に大 きな改革があ りましたこ工学研究院の各専攻 に
TED(T― type Engineering Degree)プ ログラム とPED(Π type Enginee五 ng Deree)プ ロ グラム と
名 づ け られた二つの教育 プ ログラムが設け られたのです。前者は従来の もの と変わ りませ んが、 後者
は複数の教 員 による実践的なス タジオ教育を核 とするもので、修了要件 に修士論文を課 しません。後者
は実 質的 には専 門職大学院に近 い ものですが、あ くまで も工学府 のなかの組織です ので、 文字通 りの
専 門職大学院ではあ りません。 この二つのプログラム方式 は横浜国立大学大学院工学府独 自の もので
す。 この改革は工学部二部 の廃止 とセ ッ トになってなされた ものですが、PEDプ ログラムのコンセプ ト
は建築学 コースが先導 した面 もあ り、実際 にも建築学 コー スが最 もよくこの制度を活用 して、Y― GSA
(Yokohama Graduate School of Architecture 横浜国立大学大学院/建 築都市 スクール)と い う大学
院教育関連 のみならず社会的にも大 きな注 目を集めてい る建築 スクールを新設 しました。 スタジオは中
区北仲通 りに設け られ、 この4月 か ら第一期生が学 んでお りますcそ のスクールの定員 は16名 、従来型
のTEDプ ログラムの定員が28名 ですが、TEDプ ログラムの入学競争率が一 部 の研究室 を除 いて それは
ど高 くないの に対 して、Y― GSAは お よそ 5倍 とい う高倍率 で、設計の優秀な受験 生 を各地か ら多数集 め
てお ります。
-2-
このス クー ルの新設 に伴 って、 従 来 の設計担 当 の北 山恒教授 と西 澤 立衛 准教授 (こ れ までの助教授 は
み な准教授 とな りま した。 つ い で に言 い ます とこれ まで の助 手 は特 別研 究教 員 か助教 にな りますが、建
築学教 室 の助 手 はみ な特 別研 究教 員 となってお ります )に 加 えて、 山本理顕氏
(ス
ク ール の校 長 )と 飯
田善彦氏 が「 プ ロ フェ ッサ ー・アー キテク ト」 (正 式 の 職名 で す )に 就任 され、 この 4人 の建 築家 に よっ
てスタジオが運営 されてお ります。 さらに、寺田真理子氏が新任 の特任教員 (講 師)と してマ ネー ジメ
ン トを担当され、若手 の建築家 の坂下加代子 ・西田司 。日野雅司 。松本悠介 ・三浦丈典 の諸氏が設計助
手 (非 常勤 )と してスクールに関 わってお られます。
Y― GSAの 新設 とい うのが、建築学教室 の最大 のニ ュースですが、そのほかの教員 の異動 はあ りません。
職員 としては、今村 しお り氏が新 たに着任 され、福多佳子氏が退任 されて手塚陽子氏 (非 常勤 )が 交代
「建築生産」担当
で着任 されました。非常勤講師 としては、
「 一般力学」担当の成原弘之氏が退任 され、
の谷垣勝彦氏 に代 わって井上平氏が着任 され、「デザイ ンスタジオⅢ」担当の山口洋一郎氏 に代わって
下吹越武人氏が着任 され、「デザイ ンス タジオ Ⅱ」担当の西森陸雄氏 と「地域連携 と都市再生 A」 担当
の内海宏氏 と「建築構造計画」担当のAlan Burden・ 腰原幹雄・佐藤淳 の 3氏 が新たに着任 されました。
卒業 ・修了生 の行 く先 です が、学部73名 の卒業生の うち進学38名 (横 浜国大35名 、東大 2名 、東京芸
大 1名 )、 その他 は就職ですが、不動産関係や コンサ ル会社 に就職 を希望する学生が増 えて きてい るよ
うに思 い ます。 また卒業時に就職 の決 まってい ない学生 も 8人 ほどいますが、留学や他分野 の学び直 し
など、それぞれ思 うところあっての結果の よ うです。62名 の修士修了者 にも同 じ傾 向が見 られ ますが、
進学者は 2名 、その他、それぞれ希望 の職種 についてい るようです。や は り、修了時に就職先 の決 まっ
てい ない学生が10名 い ますが、彼 らもア トリエ事務所志望な ど、意志 的な選択 の結果 のようです。 3名
の博士後期課程修了者 は、博物館 や企業の研究機関に職 を得てい ます。
大学 も社会 に大 きく開 きつつ あ りますが、2007年 度 も8月 3・ 4日 にオー プ ンキャ ンパ ス を行 い、受
験希望者やそ の父兄など多 くの来場者があ りました。建築 は中で も人気 の高 いコース となっています。
また、 11月 10日 は 2回 目のホー ム カミングデーが実施 されました。工学研究院の催 しとしては山田弘康
名誉教授 の講演会があ りました し、大野敏准教授作成の建築学教室 の活動状況を示すパ ネル展示があ り
ました。昨年 の第 1回 よりも参加者が多 く、 この催 しは次第に定着 してい くのではないか と思 い ます。
最近なん らかの顕彰 を受け られた水煙会に関わる方が何人かい らっしゃると思 い ますが、教室 として
は、南部紘君 (本 学大学院進学 )の 卒業論文 「平鋼 を用 いた格子状耐震壁 の力学的特性 に関す る研究」
が2007年 度 の 日本建築学会優秀卒業論文賞 となったことをお伝 えしてお きたい と思 い ます。
末尾 にな りましたが、お二人の名誉教授が相次 いで亡 くなられました。田口武一先生が2007年 の 3月
7日 に亡 くなられ、野村東大先生が 8月 21日 に亡 くなられました。心 よ りご冥福 をお祈 りす る次第です。
-3-
``Y‐
GSA''
ゴヒ 山
恒
(昭 和 51年 卒 )
ワークシ ョップ
9月 21日 、Y― GSA(横 浜国立大学大学院/建 築都市 スクール)と ETH Zurich(ス イス連邦工科大/建
築学科 )と の協同ワー クショップの最終講評会が 日本郵船の倉庫 を利用 したBankArt NYKギ ャラリー
で 開かれてい た。 9月 H日 、 ワー クシ ョップのプロジェク トサイ トとした横浜湾 を観 るため横浜市港湾
局が用意 して くれた船で、当 日の朝成田に到着 したETHの 学 生達 と始めた ぎこちない会話か らは想像
で きないほ ど自信 を持ったプレゼ ンテー ションが展開された。会場 にはワークショップに参加 した学生
達、両大学 の先生方はもちろん、学部生や卒業生、他大学 の学生 もきていたcさ らに横浜市 の行政 の方 々、
横浜に事務所 を持 つ若手 の建築家達、そ して本学の副学長 も見学に こられていた。この最終講評会 の夜
は、 中華街 で参加者全員が参加する、ETH主 催 の楽 しい大食事会 となった。
9月 15日 に設けていた中間講評会 の前 日と翌 日は、オラ ンダの建 築家 でETHの 教授 で もあるケース・
クリスチ ャ ンス氏 とフェリックス・ クラウス氏 による市民公開講演会が横浜情報文化セ ンターのホール
でお こなわれた。初 日の講演会では小林重敬教授か ら「横浜みな とまち形成史 とこれか らJと い う基調
講演 をいただいた。 中間講評会 は、帝蚕倉庫 の北仲 ブリック1階 のホールで公開でお こなった。中間講
評会終了後、ア レハ ン ドロ・ザエ ラ・ポ ロが設計 した大桟橋 の屋上公 園に缶 ビールを持ち込んで横浜の
夜景を皆 で楽 しんだ。
ETHの 学生達 12人 は、昔 は ドヤであった寿町のYokohama Hostel Viuageに 宿泊 し、期間中借 りている
ハマチ ャリ"で 横浜市内を走 り回 っていた。 ヮー クシ ョップの作業 をする場所 は、期間中森 ビ
自転車 “
ルか ら無償提供 されていた北仲 ブリック3階 と、
Y― GSAの 拠点である馬車道のサテライ トスタジオである。
飯田学長 と中田市長の締結式 (@横 浜市庁舎 )
-4-
都市 の中の学校
今春か らス ター トしたY― GSAは 馬車道にある松 島 ビル 3,4階 をサテライ トス タジオ として使 ってい
る。 この松 島 ビルの オーナ ー はその父上が横浜国大建築学科 の教員養成所で講師をされてい たそ うで、
その縁 で破格 の条件 でY― GSAが 借 り受けてい る。後か ら知 ったのであるが、 この松 島 ビルは大学紛争 の
とき、建築学科 の疎開場所 で もあ ったそ うである。
前述 したワー クショップでは このサテライ トス タジオ以外 に、 日本郵船倉庫のBankArt
NYKギ ャラ
リー、横浜情報文化 セ ンターホール、帝蚕倉庫北仲ブリック、大桟橋屋上公園、寿町の Hostel、 など関
内地区にあ る施設をネ ッ トワー クするよ うに会場 として使 っていた。Y― GSAの 学生の 日常 も常盤台キャ
ンパスで授業 を受ける以外 は、 このサテライ トス タジオで作業 をして いるのだが、 プ レゼ ンテ ー シ ョ
ンルームや レクチャールームがないため北仲ブ リックや、開講記念会館ホール、旧横浜銀行 のBankArt
1929、
東京芸大馬車道校舎 ホールなどを使用 している。Y― GSAは 横浜 とい う都市 の中に融け込み同化 し
た学校 である。横浜市 との共催 で今春か ら始めた市民公開講座「横浜建築都市学」では毎回200名 を超
える聴講生があるため、大 きなホール を借 りて開催 してい る。ちなみに、 この「横浜建築都市学」は建
築講座 と都市講座 の二本立 てになっていて、隔週で開講 してい るのだが、建築講座 の第1回 は伊東豊雄氏、
都市講座 の第1回 は陣内秀信氏で始 まった。
横浜市 との連携
『
「創造都市・
「横浜国立大学大学院/建 築都市 スクール」 の 開校 に先駆けて、横浜国立大学 と横浜市は、
横浜」形成 の協力 に関する覚書』 を締結す ることに合意 し、2007年 3月 14日 、横浜市庁舎内にお い て飯
田学長 と中田横浜市長 により締結式 を行 った。
横浜市 は1960年 代後半 よ り都市デザイ ンとい う概念 によって都市計画が行われ、現在では日本 の 中で
最 も成功 した都市である。 この横浜市が都市政策 として進めて きた都市デザイ ンの実績 を取 り入れ、都
市デザイ ンの現場 に参画す るよ うな具体的な事業や活動 を行 い、横浜市の 目指す「創造都市 ・横浜」 の
実現 に協力す るとい う提携 である。 ヨーロ ッパ の都市 では都市行政 (コ ムー ネ)と 大学 (ア カデ ミー)
が協同 して都市のあ り方 を検討することが 当た り前 の ように行われるが、 この提携 によってY― GSAは 横
浜 とい う都市 を教育のフイール ドとして持てる ことになったのである。そ して、 この春 のスタジオでは
キックオフミーティング (@Y― GSAス タジオ)
-5-
すでに「黄金町高架下プロジェク ト」 と「東横線高架跡地プロジェク ト」 とい う横浜市の行政 と連携 し
たプロジェク トが始まっている。
以前か ら建築を学ぶ学生に とって、この横浜 とい う都市その ものが教育資源だと考えていたのだが、
2005年 にアーテイス トにむけた実験的なスタジオを低家賃で貸 し出していた帝蚕倉庫の北仲ホワイ トと
い うビルの中に設計意匠研究室
(第 8講 座)の サテライ トスタジオを設けることができた。 この横浜市
の創造界隈形成の重点地区である馬車道地区は、現在はアーティス トや建築家が集積 している。40名 の
学生 とい うスケールの設計スタジオを常盤台キャンパス内に設けることが困難であったこともあるが、
クリエイテイブ コアを形成 しているこの地区にサテライ トスタジオを設けることで、建築家を目指す学
生達には様 々な教育的チャンスが用意されていると考えている。
建築家を養成するプログラム
大学院に建築家 を養成する特別なプログラムを設けるとい う構想 は、文科省 の「平成15年 度21世 紀
COEプ ログラム」 (2003年 )に 応募 したときに固められていた。その時の「横浜建築都市スクール」 と
い う応募 タイ トルは田村明弘教授が付けられたのであるが、その内容は実現 したY― GSAの 内容をほぼ全
て含 んでいる。その時点で現在Y― GSA教 授 として就任 していただいている山本理顕氏 と飯田善彦氏に教
授就任の打診をしていた。この構想の原型は2001年 に、横浜大桟橋の現場監理で横浜に来ていた建築家
アレハ ン ドロ 。
ザエ ラ 。ポロ氏を横浜工業会の招聘研究員助成金によ り大学院のスタジオ教育実践に6ヶ
月間招聘 した ことから始まっている。 当時、AAス クールの教授であった同氏は、横浜関内地区を対象
に精力的なスタジオ教育を行 って くれた。横浜の後、ベルラーヘ・ イ ンスティチ ュー トのデイーンに就
任 していることで もわかるが、おそらくその時は横浜国大で、世界で最 もエキサイティングな設計教育
が行われていたと思う。ポロ氏は今でも世界の建築教育の場面で引 っ張 りだこであるが、今 はY― GSAの
ア ドバイザリーボー ドのメンバーである。
このCOEは 採択にはならなかったが、その後、西沢立衛助教授 と私で都市 をベースとす る独 自の設
計教育を大学院でおこなっていた。このような実績が評価 され文科省の「特色ある大学院教育支援プロ
グラム (特 色GP)」 (2006年 )に 採択 されることになった。この特色GPの 応募 タイ トルは「スタジオ教
育による高度専門建築家養成」 とい うもので、この資金 によってETHの 教授や学生達を招 いた ワーク
ショップなど立体的な建築教育が可能になっている。
建築をつ くることは未来をつ くることである
2Cll16年 度、建築学教室の主任 であった田村明弘教授の構想 のもと、大学院に建築家養成の特別プログ
ケース・ク リステ ィアー ン公開公演 (@横 浜情報 セ ンター)
-6-
中間講評会 (@北 仲BRiCK)
ラムを現実に立ち上げることになった。そ こで、開校 の1年 前、2CX16年 の春か ら山本理顕氏、飯田善彦氏、
西沢立衛氏、私そ して世界の建築教育に詳 しいキ ュレー タの寺田真理子氏 の5人 で設立準備会議 を立ち上
│デ たЭ まずは学校 の名前 か ら始 まったのであるが、COEの 応募 タイ トルに近 い「建築都市スクール」 と
なった。そ して、ポス ドクのような立場で、独立 を目指 してい る30歳 前半 の建築家4名 を設計助手 として
採用す ることにな り、そのための面接 をした り、後で「横浜建築都市学」 となった連続講演会 の人選など
のカリキュラムの内容を検討 していた。その途中「特色GP」 の採択が決 まってホッとした こと覚えてい る。
この特色GP採 択 の影響 なのか、工学部全体 でス タジオ教育を行 うプログラムが検討 される ことになった
PEDプ ログラム)。 そ して、先行 している建築のスタジオ教育がモデルとされたため、修士論文の提出で
はなく半期 のスタジオを 4つ 修了す ることで修士の資格 を与える ことや、スタジオのひとつ をイ ンターン
シップに代える ことができることなど、Y― GSAで 構想 していた特殊な教育 システムがすべ て承認され るこ
ととなった。
この学校 のス ター トを世界 に告知するパ ンフレ ッ トがバ イリンガルで製作 され、そのなかで山本理顕
さんが「建築 をつ くる ことは未来 をつ くることである」 とい うマニ フェス トを提示 した。そ して、横浜
国人 は山本理顕氏 と飯田善彦氏 を教授 として招聘する際に、建築家 としての職業 を持ちなが ら教授 を兼
業 で きるプ ロ フェッサ ー・ アーキテク トとい う職名 を用意 して くれ ることになった。 日本の国立系大学
では初めての ことである。
追記
Y―
GSAは まだスター トしたばか りだか ら、 い まの ところ空間はとて も貧弱である。都市 の 中の施設 を
利用す るとして も、 自前 のプレゼ ンテー シ ョンルーム とレクチ ャールームは必要だ と感 じてい る。 さら
に小 さな図書室 と模型工作室 は早急 に必要だ。で も、 このボロい校舎 で学生達は軒昂 だ。始 まったばか
りのイ ンター ンシップ・プログラムです でに数名 の学生が ヨーロ ッパ の著名建築事務所 に旅立ってい る。
そ して、Y― GSAの パ ンフレッ トを抱えて海外 の建築教育拠点 と交渉 して きた、特任講師 としてス タジ
オ・マ ネー ジャー に就任 していただいた寺田真理子 さんの頑張 りで、初年度のワークショップを成功 さ
せ ることがで きた。ETHは ヨーロ ッパ では建築教育 において最 も権威 をもつ教育機関 のグルー プに属
す る大学のひとつ である。今年4月 に開校 したばか りのY― GSAが 、 このETHと 対等 にこのワー クシ ョッ
プを運営で きた ことは大 きな自信 を得 ることになった。
開校記念式典 には水煙会か ら大 きな援助 をいただ きました。今後、 さらに大 い なる援助 を賜 りた く、
お願 い 申し上げます。
Y―
GSAと はYokohama Graduate School of Architectureの
略称 です。
http://www.y― gsajp/
フェ リックス・クラウスのエスキース (@Y GSAス タジオ)
-7-
最終講評会 (@BankART NYK)
建築学教室 ハ ン ドブ ック
「横浜国立 大学で建 築 を学 ぶ とい うこと」
本 ハ ン ドブックは建築 学 を構成す る学問領域 を正 しく理解 し、講義科 目や演習科 目等の科 目修得 とあわせ て建築設計 を効果的に修得
してい くために作成 されたものである。常に携行 し各年次各学期の 始めに確認 され ることを強 く推奨す る。
吉 田鋼市 /横 浜国立大学大学院工学研 究院教授 、
横浜 国立大学建築学教室主任
1 4つ の系 と 3つ のス テ ップ
横浜国立大学建築学教室 における学部教育は 4つ の系 と 3つ のステ ップで構成 展開 され る。4つ の系はそれぞれ AT(建 築理論
Arch tectural Theory).UE(都 市環境・ Urban Env ronment).SE(構 造技術 ・Structura Eng neer ng)AD(建 築設計 ・
Arch tectural Design)で あ り、AD系 は AT・ UE・ SEの 各系の共通領域 と して位置づ け られ る。3つ のステ ップは次頁図に示 し
た「建築 へ の道筋」期 (1年 前学期∼ 1年 後学期 ),「 建築 へ の素養」期 (2年 前学期∼ 3年 前学期 )
「建築専門分野 へ の萌芽
と探求」期 (3年 後学期∼ 4年 後学期 )で あ り、基礎的な知識修得か らその応用及び専 門領域における修学の深化 へ と展開す る。
体 的 な学習
2立
AT
学部設計教育 (AD系 教育 )は 先に述 べ た 4つ の系および 3つ のステ ップに対応
しつつ展開 され る。また、基礎的な表現力や構成力 を高める教育 も並行 して展
裁
開 され る (表 現 力教育 )。 建築設計 は社会 とのインター フェース技術 と して、あ
らゆ る分野にまたがる総合的・ 統合的な学 問領域であることを十分 に理解 し、
UE
各年次 における講義科 目や演習科 目な どの科 目修得 とあわせ て立体的な学習 に
S琶
よる レベ ルア ップを図 つて もらいたい。
選 択 必 修 (専 門
=褒
■ 甍
図学 1ネ
解析学 I十
線形代 数学
物理学 IA
物理 実験 *
:
解析学 壼キ
線形代数学 Πネ
鑢歎論 *
物理学 IB
物理学ll
■
=■
微 分方程 式 n*
物理学 V
澪をニキ
材料の実験
統計学 Ц―C=
i― C■
安全工学露論
=釜
二■基礎実 験
I
流体 力学
イ
ヒ学実験
=護
●菫簿
│││││ ■
デ■●″■オ =
「
近代建築史
建築計画の基礎
日本建 築史
公 共菫設の計置
│■
│す
│'1,11=議
│││││■
口,,建 築,│‐ ■
居住空間0計 画
■
■│l151Nρ
亀
│1森 [鑽
-8-
建築史表習
卒業設計
都市 と人工環境
建築材
=
(ATtt UEtt SEネ
鵠 難
1鉤
讐
E実暑蟻==■
鐵 ま奎
築 集
建 建
l■ │■
建キ r‐ t,ォ 」
重弩
==量
)
難 難
霧讐 自 灘 円
躙國謳
AD系 教育
建築学教室では本年、学生 向けに教育内容 を紹介 す るハ ン ドブ ック「横浜国立大学で建築 を学ぶ とい
うこと」 (28頁 )を 作成 しました。その 中か ら、学部教育 と大 学院教育についての概要 をまとめたもの
を抜 き出 して再録 します。
本ハ ン ドブックの内容 は、順次更新 し、 またホームペー ジ等 に掲載 してい く予定です。
本年度作成担当 藤岡泰寛
戌攀晰 貯彗や デ 凸ゲ彦骰
太攣鶉 竃や プ隕ゲ彦骰
-9-
追悼
田 口武 一 先 生 を偲 ぶ
目
土
博
文
昭和 38年 卒 )
横浜 国立大学名誉教授 田口武 一先 生 は、平成19年 3月 7日 膵臓癌 のため
永眠されました。謹 んで心 よ りお悔 み申し上げます。
先生 は、明治44(1911)年 5月 3日 のお生 まれですので、享年95歳 で した。
昭和 10(1935)年 に東京工業大学 をご卒業の後、直ちに横須賀海軍建築部 に
奉職 されました。 ここで、 い きな り長 スバ ン (∞ ∼ m)の 鉄骨構造 を設
“
のご指導 によ り、
計す る立場 に立たされたそ うです。大学 では二見秀雄先生
「変断面部材 をもつ ラー メ ンの解法」 と題 した事業論文 をお書 きにな りまし
たが、海軍時代 の設計 の経験が、田口先生 の生 涯 にわたる研究分野 を鉄骨
構造 へ 傾斜 させ る大 きな契機 となった ようですcと ころが、お身体 を悪 く
されて海軍 をお辞めにな ります。そ の後養生 に専念 されて完治 し、昭和 16
(1941)年 に横浜高等工業学校 に招かれ ます。昭和24(1949)年 、新制大学の発足 と同時に横浜国立大
学助教授、昭和 30(1955)年 には、「鋼構造におけ る合成骨組 の応力 とそれに及 ぼす柱脚 の 固定度 に関
す る研究」で東京工業大学 か ら工学博士の学位 を取得 されてい ます。この学位論文は、卒業論文で培 わ
れた骨組解析のセ ンス と海軍で扱 った実際 の鉄骨 の設計 での問題点 を合体させた もので した。
昭和32(1957)年 に同教授 にな られ、 この 頃が先生 の研究における絶頂期ではなか ったで しょうか。
筆者 は、昭和34(1959)年 4月 に入学 し、3年 生になって田口先生の「構造 力学 Ⅱ :不 静定」 を受講 しま
した。実は、 この前年、 2年 生の ときに「構造力学 I:静 定」 を習ったのですが、あまり要領 を得 ませ
んで した。 しか し、田口先生の講義になると、内容は高度になってい くのに、 なにか氷が溶けて大 きな
青海原が見 えてい くようなすがすが しい気持ちでお話 を聞 くことがで きましたc4年 生になって、田口
研究室に入 り、
「鉄骨構造柱脚部 の 固定度 に関す る研究」 とい う題 目で事業論文 を書かせてい ただ きま
した。新 しい研究 を始めようとした ときは、先ず関連 の文献 を徹底的に調べ なければな らない。 もし、
誰かが既 に行 っているのにこれを知 らないで研究結果 を発表すると大変恥ずか しいこ とになる。そ して、
発表す る文章 は、主語や述語があることは当然 として も、何 しろ短 い文章で簡潔に主題 を表現する こと。
この2点 は、今 で も忘れ られないお言葉 として心 に残ってい ます。事業論文 も書 き終わ り、卒業 も決 まっ
たある日、先生は我 々卒論生 をご 自宅にお招 きにな り、 これは特別だよと言 われなが らサ ン トリーの新
しい角 ビンを開けて下 さい ました。お酒 の飲み方について も蓋蓄 (う んち く)が お有 りで した。
田口先生 のお力添えで筆者が教員 として横浜国立大学 に戻ったのは昭和44(1969)年 6月 で したが、当
時学園紛争 で弘明寺 の工学部 は封鎖 されてい ました。田回先生は工学部長 として奮闘 してお られました。
敵 は封鎖 してい る全共 闘の学生達 だ けでな く、文系の学部長 も味方には付 きませんで した。 自分 の言 っ
たこと、相手が言 ったこと、 これ らを綿密に記録 した田回メモは、相手の日か ら出任せの議論 を封 じた
ことで有名 です。我 々の力が足 りず、惜 しくも学長の座 は得 られませんで したが、最後は附属図書館長
として大学の運営 に寄与 されました。 日本建築学会では、学術理事・副会長・名誉会員、 日本鋼構造協会・
日本建築構造技術者協会各名誉会員 として、学業界 に対 して指導的立場で ご活躍になられました。
昭和52(1977)年 に定年 ご退官 で名誉教授 になられましたが、その後、 ゴル フで言えばシ ングル級 の
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年間100日 を超す海釣 りと、建築構造 の専門書か ら離れた一般向けの著書 の執筆 に専念 されてい ました。
「建物 とス トレスの話」、
「人 のか らだ と建 築構造」、
「刃物 はなぜ切れるか」等 々、綿密 な資料集め と短
く簡潔な文章で易 しく書かれた本 を多 く出版 されました。
先生は大変義理堅 く、同窓会やクラス会に招待 されると必ず出席 され、「おお、○○君か、元気で活躍
してい る じゃないか」 とお声 を掛 けられました。立食パーティーでは最後 まで椅子には座 らず、背筋 を
ビンと伸 ばした う しろ姿をいつ も拝見 してい ました。 さすがに明治生 まれの先生だ と尊敬 してい ました。
襟を正 し、息を整えてか ら先生の研究室の ドアー をノックする。私にとっては厳 しく畏 い先生 で した│が 、
また、
優 しく後 ろ盾 になっていただける先生で した。寂 しくな りましたが、どうか安 らかにお眠 り下 さい。
合掌
田口先生 のお通夜 は平成 19年 3月 10日 (土 )1&00か ら、 また、告別式 は3月 11日 (日 )1000か ら執 り
ここで、卒業生 として 4名 の方 々が弔辞 を述べ られ ました。 ご遺族様 のご了承 を得 て、
われました。
行
以下に掲載 させて戴 きました。
田 口武 一 先 生 を偲んで
本学 の名誉教授 、元工学 部長 田口武 一 先生 が本 年 3月 7日 逝去 され ま した。
享年94歳 10ヶ 月、葬儀 は辻 堂和 田斎 場 にて 3月 10日 通夜 、 3月 11日 告 別式 と行 なわれ、 卒 業 生 を代
表 して下記 の 4名 が弔辞 を読 み上 げ ま した。
福 田守宏
昭和 28年 卒
大学 第 1期 、 田口研 第 1期 生 と して
関口欣 也
昭和31年 卒
名誉教授 として
服 部範 二
昭和24年 卒
水 煙会会長 と して
笹川
昭和 39年 卒
長年 に亘 る田口研 卒業 生 代 表 として
明
ご 自分 を含 め 4名 の 弔辞 を聞かれ た 関 口氏 よ り、期せ ず して 田口先生 を軸 と しての建 築学科 の歴 史が
語 られて い るので水煙 会誌 に記録 と して残 せ な い か、 との ご提 案が あ りま した。
ご長女 の清水 久 美子
さん、次女 の 中原紀代 子 さん に ご相談 し、 ご了解 を頂 きま したので、 ここに原文 の まま掲載致 します。
(服 部範 二 記 )
田 口武 一 先 生
弔辞
田
守
宏 ∋
福
日
召禾日28 年
田口先生 、長 い 間大変 お世話 にな りま した。先生 と初 めてお会 い して60年 にな ります。 あ の 頃 は、 日
本 は未 だ貧 し くて、 私 も軍隊帰 りの 軍服 に下駄 履 き、弁 当持参 で熱 海 か ら列車 で大学 に通 って居 りま し
た。 そ の貧 しい我 々学生 を学校 で は大変 厳 しい 田口先生 が、度 々逗子 のお 宅 に呼 んで下 さ りお優 しい奥
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様、お嬢様 に歓 待 して戴 き、大変 ご馳走になった事 を思 い出 します。そ して酒に酔 って暴れる我 々をよ
く面倒 を見て下 さい ました。本当に ご迷惑 をお掛 け致 しました。社会に出てか らも、逗子 には何 回 もお
邪魔致 しました し、クラス会 にも度 々ご出席下 さい ました。又、会社での悩みを色 々 と聞いて戴 いた り
後輩 の会社 へ の受け入れ等にも色 々 とご指導下 さい ました。又、私 の卒業論文を先生 のご指導 の もとに
連名で 日本建築学会で発表 させて頂 いた事 も思 い出 します。学園紛争の際、横浜国立大学の工学部長 と
して大変 ご苦労なされたそ の思い出 も数 々お伺 い致 しましたが、名誉教授 になられてか らは、お元気で
ご本 も多数出版 され、 ご趣味 の魚釣 りにも精 を出されて居 られた と伺 って居 ります。田口研究室 の会に
はお元気 に毎回 ご夫婦 でお いで下 さって頂 きましたが、平成16年 10月 17日 の奥様 の米寿 を兼ねての会で
お会 い したのが最後で したね。その頃は熱海に居 られて、メール も頂戴 してお元気で したが、今年の 1
月中頃平塚 の老人介護施設 レス トヴイラ湘南に移 られた との事 で、お伺 い してお 目に掛かろうと思 い ま
したが、その後病院の方に変 えられて しまい、お 目に掛 るチャ ンス を失 い ました。 一 日お 目に掛か り
たかったです。努力が足 りず 申し訳 も有 りませんで した。田口先生、残念ですが い よい よお別れ です。
本当に永 い 間大変お世話にな り、又 ご薫陶 を賜 り有難 うござい ました。 どうか安 らかにお眠 り下 さい。
/Jヽ
さようなら。
也 莉
欣印
口
1年
平成19年 1月 14日 、青木博文名誉教授 とご一緒 して先生 をお見舞 い に訪れた時、握手 を握 り返 して記
念撮影に応ず るなど、 まだまだ大文夫 と思ってい ましたのに 3月 7日 無に帰 され、深 い悲 しみに沈んで
居 ります。そ こで往時を簡単 に振 り返 り、先生の徳 に思 い を致 したい と存 じます。田口武 一先生は明治
44年 5月 横須賀 に生 まれ、やがて昭和 7年 3月 に横浜高等工業建築科卒業、昭和 10年 3月 東京 工大建築
学科 を卒業 して横須賀海軍建築部技生 になって翌年海軍技手 とな りましたが、昭和15年 8月 か ら肺結核
で休職 し、その療養 に時候 により毎 日ステーキを嫌 になるほど食べ て、 また栄養 を替 えるなどして結核
か ら脱却 し、昭和 16年 に母校横浜高等工業学校講師、翌年に横浜高等工業学校教授 とな られ、研究 を鉄
骨構造 の柱脚 の 固定度に絞 られましたが、昭和24年 学制変更、横浜国立大学設置によりその助教授 とな
り、教授 に江国正義博士 (二 代 目工学部長、二代 目学長)を 迎え、一方、田口先生は昭和30年 12月 に東
工大か ら柱脚の固定度で工学博士の学位 を取 られ、建築の各先生が皆で中華街に学位取得祝賀に行かれ
たのを覚 えてい ます。そ して昭和32年 7月 には横浜国立大学教授 に昇任 しました。先生は長身痩躯で直
立 され、入学式に君達建築 の学問 を本気 にや らない なら直 ぐ退校 しなさい と、大 岡 賓教授・佐藤 鑑教
授 ともども学生 を糸Lさ れ、今で もその雰囲気 を覚 えてい ます。 また田口武一先生 は既 に横浜高等工業学
生時代か らデザイ ンにも意 を用 い られ、中村順平先生の建築図画 も参考図が保存 されるほ どで、後 に弘
明寺か ら常盤台にキャ ンパス を移す時、当時の山田弘康助教授 の人 階建建築棟 の設計に目を細 めてご覧
にな り、 いろいろ質問されました。なお当時の学生 は正月など手分 して先生のお宅に年賀に行 く習慣が
あ り、洋館 で座敷 に緑の庭の逗子のお宅で奥様 の手作料理 をご馳走にな り、二 人のお嬢様 も交えて皆で
トラ ンプな どもや り、和気調調 たるもので した。そ して先生 の構造実験 も進み、昭和41年 か ら 4ヶ 月、
鋼構造に関する研究等 のためアメリカ・西 ドイツ・ フランス・ カナダ等に出張 し、翌42年 に横浜国立大
学評議員、44年 2月 に横浜国立大学工学部長に併任 され ました。当時は造反有理 を唱えた学生騒動 の時
期で田口先生はそれに直面 し、バ リケー ド封鎖 された工学部 に機動隊を導入 し、 これにより全共闘 も次
第に鎮静化 し、大学本部の常盤台 も同様 にな りました。 これは田口先生 。越村信 三郎学長 の指導に よる
大学復活へ の大 きな功績であ ります。そ して昭和 50年 横浜国立大学付属図書館長 に併任 され、昭和 52年
定年、同年名誉教授 にな りました。 この 図書館長時代 で思い出されるのは、図書館設計者 の佐藤 仁教
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授が図書館 の論文を書 きなが ら、癌で学会発 表が不可能になると専攻の異 なった田口先生が替 わ りに京
都 での発表をし、田口先生の師弟思 いの暖かさが分か ります。なお佐藤教授 は間 もな く没せ られました。
また田口先生の建築門下の構造力学技術者 に私 と同期 の松本 暁君が い ますが、彼が若死 して何回忌か
で鎌倉山に葬 られた時、田口先生 は本当に目頭 を押 えて泣かれていました。定年退官後昭和58年 2月 に
勲二等瑞宝章 を受章 されましたが、 これは横浜国立大学工学部 としては異例 に早 く、勲二等に叙 された
のは大学紛争へ の対応が評価 された もので しょう。次に田口武一先生 の著述等 をみます。主著 は昭和52
年 の「建築構造力学一、二」 ですが、私達 の学生時代 には恩 師二見秀雄先生の「構造力学」 で した。 ま
た「建築構造計画 の原点」 は設計者 。
構造力学者双方へ の賜物です。晩年の著は先生によるとボケ防止、
パ ソコン活用 のため といい「美 しくなれる建築 なれない建築J(平 成 5年 )、 「刃物 はなぜ切れるか」、
「斜
面原理 のはな し」 (平 成 11年 )、 「過積載 の話 …通勤電車 に危険 はないか」 (平 成16年 )な どで、先生 の活
発な頭脳 を示す面白い著作集です。趣味は釣 りで舟 を傭 う本格的なもので、家 の庭 の芝 の美 しさも目を
見張 る所があ りました。 また建築同窓会の水煙会長 を 8年 も続け られ会報 。名簿 の体裁 も先生の指導 に
よる所があ ります。 ところでここ 4・ 5年 年賀状がかけ、熱海居住 を聞い てい ましたが、瑞 々 しい著作
より特 に心配 しませんで したが、最近平塚の介護施設に入 った とのことでお見舞に行 きました。95歳 と
いい 田回先生の一生は天空海闊の大往生 といえ ましょう。
範
月艮
日
召禾日34 年卒)
田口先生 ご逝去 の報 に接 し覚悟 はしてい たものの、遂に この 日を迎 えなければならない との思 いが去
来致 します。先生 は30年 に亘 り横浜国立大学 に奉職 され、 1,200名 にも及 ぶ学生 の育成 と、鋼構造 など
の研究 で非常 に大 きな業績 を残 されました。50年 前 の授業 を想起 します と今で も思わず襟 を正 さずには
居 られない感があ ります し、卒業後は一転 して慈愛 に満ちたご指 導 を戴 き、 この故に田口研究室か らは
産学 を問わず多 くの人材が輩出されました。又、先生は横浜高等工業学校か ら横浜国立大学 に至る歴 史
を大切 にされ、工学部50年 誌や弘明寺 の大学跡地記念碑 など、後世に残す縁 をお作 りにな りました。そ
の一環 として建築学科同窓会 として水煙会 を現在の形 に整備 されたの も先生のお力であ り、それを継承
す る立場 にあるもの として感謝に堪 えません。先生 は多 くの著作 をなさい ましたが、晩年 の82歳 で執筆
された慣習の美学や85歳 での「人のか らだ と建 築構造」は、構造研究者の枠 を超越 した美的感覚 と柔軟
な頭脳 に基 づ く名著であ り、残 された私共の老後にとって大 きな指針 となるべ きもの と改めて感 じ入っ
て居 ります。 このように大 きな業績 と慈父のような ご指導を戴 いた先生 とお別れ しなければならないの
は痛恨 の極みであ りますが、先生 のご遺志 を継 ぎ、後輩のために同窓会 をしっか り守 って行 くことをお
誓 い 申し上げ、お別れの言葉 と致 します。先生、 どうぞ ごゆっ くりお眠 り下 さい。
笹
II
り
明
(昭 和 39年 卒 )
謹 んで 日口武 一 先生 にお別 れの こ とば を申 し上 げ ます。私 は横 浜 国立大学工学部建 築学科 で 先生 か ら
建築構 造 力学 の 講義 を受 け、卒業論 文 を先 生 の研 究室 で作 成 しま した。 そ して大 学 院修士 課程修 了後、
先生は私を助手に採用 して下さい ました。研究テーマは角形鋼管を柱に使おうとするもので産学共同研
究のはしりであ りましたが、当時の 日本鋼管株式会社 との共同研究でした。方向性 のあるH形 鋼柱では
なく2方 向ラーメン構造を可能とする柱梁接合部の強度 ・岡1性 に関す る研究を先生 とご一緒に重ね、私
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は東京工業大学藤本盛久先 生のご指導 も頂 き、学位 を取得す ることがで きました。公聴会終了後田口先
生は「君は 日本鋼管 に足 を向けて寝 ることはで きないよね」 とおっしゃって下 さい ました。そ して学園
紛争 の最中工学部長 になられた先生 は、際立った指導力 を発揮 されて紛争 を終息 させ ました。田口研究
室の伝統の一つ は、毎年先 生のお宅に皆でお しかけることで した。夏は逗子の海で泳 ぎ、お風呂に入れ
て頂 いた後庭先 でのバーベ キ ューパーテイー、冬お正月には奥様手作 りの沢山の料理 をご馳走 にな り時
に酔 いつぶれて しまい、 目が覚めた ら先生 は既 に大学に出勤 されていたこともあ りました。当時の学生
達 を代表 して、 ここに先生 と奥様 か ら賜 りましたご厚情 に心か らお礼 を申し上げます。先生 は昭和52年
3月 をもって大学 をご退官、名誉教授 となられましたがそれに先立って是非建築構造力学の教科書 をご
執筆頂 きたい 旨のお願 い を青木博文先生 とご一緒 に致 しました。そ して昭晃堂か ら出版 された建築構造
力学 I巻 とⅡ巻の特徴 は、骨組の塑性解析 とマ トリクスによる骨組 の解析が盛 り込 まれた ことで した。
近 い将来 の コンピュー タの導入 を意識 された先生は、手計算で出来る範囲の計算例 で コンピュー タとの
橋渡 しをするのだとおっしゃって居 られました。 この著書 は多 くの大学 で教科書に採用 され、版 を重ね
ること20回 近 くに達す る名著 であ りまして、原稿 の校正 のお手伝 い をした私にとりまして も誠に思 い出
深 い ものがあ ります。昭和57年 4月 、私 は藤本盛久先生のご推薦 を頂 き、新設 された信州大学工学部建
築工学科 に赴任することにな りました。家内 と田回先生のお宅にご挨拶 にお伺 い した とき、先生 はこん
な ことをおっ しゃい ました。「君が長野県 に戻 ると教授 としての研究教育 に加 えて、長野県 をは じめ と
す る諸 団体 か ら委員の依頼が沢山来ると思 うよ。 断 る訳 には行かないだろうけれど、委員会 に出席 した
らなるべ く発言 をしない よ う心掛 けたまえ。 とか く学者 の 中には無責任な発言 をす る委員 が い るか ら、
」長野 に参 ります と実際そ のよ うな状況 にな りま
そ してそんな時だけはぴしゃ りと言 ってや りなさい。
して、私 は田口先生のお言葉 を噛み しめて感謝 を致 しました。 さて、退官後の先生の著書執筆 のご意欲
は誠 に旺盛であ りました。昭和58年・建築構造 の原点、昭和60年・建物 とス トレスの話、平成 5年 ・美 し
人のか らだ と建築構造、平成11年・刃物はなぜ切れるか、平成 16
くなれる建築なれない建築、平成 8年 。
さか ら嬉 しく思 い ました。 これ らの著
年・過積載 のは なし、長野市 の書店 で田口先生の著書が並 ぶのを′
書 はいずれ も綿密 な調査資料 をもとに先生 のお考 えが述べ られてお り、敬服の極みであ ります。田口先
生が名誉教授 となられ ました後 も田口研究室出身者達 の集 いは毎年 一 回行なわれて きました。 1月 15日
葉 山アリーナのお店 を借 り切 っては何十人 もの先輩・後輩が集 ま り田回先生 と奥様 を囲み楽 しい一 時を
過 ごす集 い は一昨年 まで続 きました。最後は私達が奥様か ら招待 される集 い とな りました。奥様 と先生
に教 え子 一 同心か ら感謝申し上げます。一昨年 3月 私 は信州大学 を定年退職 し、神奈川県に戻 って参 り
ました。 ところが家内共 々引越 しで腰 を痛めて寝込んで しまい、退職の挨拶のため田口先生 にお会 いで
きたのは半年 も後になって しまい ました。先生は相変わ らず背筋 をびん と伸 ば し、お姿は全 くお変わ り
あ りませ んで した。そ して私 と家内 ににこにこと笑 い なが らこん なふ うにおっ しゃい ました。「笹川君
ねえ、僕 は自分の人生でや りたいことは全部や り尽 くして しまって、 もう何 も残ってい ないか らいつ死
んで もいい と思っているんだけれ ど、 身体 の どこも具合悪 くならないんだよcま あ、 ミカンで も一緒に
食べ ようか。」そ して二人で甘 い ミカンを食べ 、暫 くの 間お話 を交 したのが田口先生 との最後の出会 い
となって しまい ました。私は子供 の 頃か ら人は亡 くなると空 のお星様になるんだよと言われ、今 で もそ
の気持ちに変わ りはあ りません。 どうぞ田口先生、空のお星様 となって奥様、ご家族の皆様、そ して私
達教 え子達 をあの柔和 な眼差 しで もっていつ まで も見守 って下さい。過 ぎ去 りし日々の 田口先生 を偲び、
謹 んで哀悼 の辞 と致 します。
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追悼
野村東太先 生 を偲 んで
(昭 和56年 卒)
横浜国立大学建築学教室 で長年教鞭 をとられた 野村東太先生 (本 学名誉教授、元学長 で、 ものつ く
り大学学長)は 、平成 19年 8月 21日 胆管癌 のため77歳 で永眠されました。謹んで哀心 よ りお悔やみ申し
上げます。
この悲 しいお知 らせには多 くの人が驚 きました。何 よりも突然のことで した。病巣の発見は今年 の春 の
こと、築地のがんセ ンターで 6月 に手術 され、手術 は順調 であったにもかかわらず、なぜか レスピレー ター
を付けてか ら体調が悪化 されて しまい、ICUか ら 3週 間出られ ることが出来ず、 とうとう帰 らぬ人 となら
れたとお聞きしてお ります。 この予期せぬ展開には先生 ご自身も、 ご家族 の方 々 も、 さぞ無念であ られた
ことと存 じます。 日頃の元気 なお姿 しか拝見 した ことの無かった我 々にはとても信 じがたいことで した。
先生 は、昭和36年 に東京大学大学院数物系研究科博士課程 を修了 され、同年 9月 に横浜国立大学工業
教員養成所助教授 として採用 されて以来、翌年4月 工学部助教授併任、昭和45年 1月 工学部教授 となられ、
昭和63年 4月 よ り2年 間学生部長 。大学会館館長 ・留学生会館館長、平成 2年 4月 よ り7年 間評議員、平
成 4年 4月 よ り2年 間工学部長 ・工学研究科長をつ とめ られ、32年 半 の長 きにわたって建築学教室で教鞭
をとられました。 さらに平成 6年 4月 よ り3年 間は、横浜国立大学長を務め られました。任期満了で退職
された後は、 ものつ くり大学 の設立に尽力され、厳 しい船出の平成13年 の開学以来、初代学長 として活躍
されてい ました。 これらの長年 の功績に対 して死亡叙位叙勲 され、正四位瑞宝重光章を授与 されました。
建築学教室 にお いて は、教育研究では建築計画学 を専門 とされ、一方 で研究成果 を精力的に設計作品
として世 に問 うたことで も特筆すべ き活躍 をされて来 られました。と くに医療施設 の研究成果を活か し、
診療所 を多数設計 されました。 これ まで大病院の研究はさかんになされて きてい るが、それは決 して実
現す る機会が多 くはな く、恵 まれた条件の時にだけ成立するものであって、一般市民にとって身近な存
在 としてはむ しろ診療所が大事 なのだ とい う、研究姿勢 についてのお話 をして くださったことを今 で も
よ く覚えてい ます。 エ リー トのための建築計画学ではな く、一般庶民 のための建築計画学 を志向されて
いたことが、その時素直 に理解で きました。
いつ も快活にお相手 して下 さった先生のあの大 きな声 も、 もはやお聞 きする ことがで きないのか と思
うと寂 しい ばか りですが、先生、 どうぞ安 らかにお眠 りください。そ して、 これか らも我 々の行 き先 を
そっと見守 りつづ けて ください。
先生のご葬儀 は鶴見の線持寺三松 閣で行われ、 8月 27日 にお通夜、28日 に告別式で、折 しも、 日本建
築学会九州大会の開催前 日で した。会場では、野村先生の好 きだった平和 を象徴す る曲としてクワイ河
マーチが献奏 され、無宗教式で儀式は執行 されました。読経は無 く、梅原猛 ものつ くり大学総長や飯 田
嘉宏横浜国立大学学長、同期 の友人 として栗原嘉 一郎筑波大学名誉教授、そ して横浜国立大学での卒業
生 として山本育三関東学院大学教授、建築学教室の研究室か らは小滝一正名誉教授が、最後にスキーで
親交 のあ った三原斉 ものつ くり大学准教授が、次 々 と先 生 との関わ りを偲 ぶ弔辞 を読 まれ、お別れの時
間を過 ご しました。
また この後、現職 の学長 を失 うこととな られた ものつ くり大学では、 9月 29日 「故野村東太学長お
別れの会」が開かれ、大学 の体育館 にて、法人会長や行 田市長、 また学生などか らお別れの言葉が述べ
られ、献奏、献花 などのひとときが過 ごされました。
水煙会報 では、 ご葬儀 の際に述べ られた弔辞か ら、本学に関係するお二方か らの弔辞 を、 ここに掲載
させていただ くこととしました。
-15-
野村東太先 生
弔辞
横 浜 国立大 学名誉教授 /Jヽ
滝
正
野村先生、 この春 に二、三度お会 い した時にはいつ ものよ うにお元気で したのに、 この ような形 でお
会 いす ることになろ う とは夢 にも思わず、気持ちの整理 もつ かない ままに弔辞 を拝読 させていただ くこ
とをどうぞお許 し下 さい。
約二十年、仕事生活時代 の半分 を野村先生 の もとで過 ごさせていただ きましたが、その 間の先生のご
様子を研究活動 と研究室 での 日常か ら思 い返 してみたい と思います。
野村先生は常 々「研究 は十年 を一 区切 りにす るのが いい」 とおっしゃってい ましたが、それを着実に
実行なさい ました。第一期は学位論文 のご研究 だったサ ービス施設 の研究 の時代 ですが、特 に給食施設
における調理プ ロセスや食事サ ービス プ ロセス を精級 に分析 された研究によ り、給食施設計画 の第一人
者 の地位 を得 られてい ました。野村先生 に初めてお会 い したの も大学院生時代に、ある病院の厨房 の設
計 を担当 した時に先生 のご指導 をい ただきに弘明寺キャ ンパ スの研究室にお訪ね した時だったのを思 い
出 します。
私が横浜国立大学にお世話 にな り始めた頃は第二期 の医療施設研究 の時期で したが、特 に新 しい診療
所 の設計作品を次 々 と世に出されて雑誌のペー ジを飾 ってお られましたこ病む人 々の身近 にある診療所
の建築 の質を良 くしたい とい う思 いの表れで した。神奈川県や医師会 と協 同 して地域医療計画 の調査 に
邁進 された時期で もあ りました。その間のお仕事で特筆すべ きは精神病院の設計 で、積善会曽我病院の
設計に何年にもわたって尽力 され、病院の実際 の管理運営 にまで踏み込むとい う入れ込 み様で した。心
を病む人 々の癒 しの環境づ くりと早期 の社会復帰 システムづ くりが時代 の要請 であると強 く感 じられて
のことで した。
第三期 は博物館 の研究 の時期 で、「 これか らは文化の時代、生涯学習 の時代 だ」 とい う時代認識 か ら
始 め られた研究で した。全国の博物館施設 の調査 を精力的に展開され、 これ も精級 な分析 を経て新 しい
博物館 の類型化 の提案 として世 に問われました。
そうした研究 のお仕事 を通 してみる先生は、情熱 の人で、その時 々の研究テーマに集中 していつ も情
熱的 に語 ってお られました。議論 に熱中 している大 きな声が いつ も隣の部屋まで聞 こえて きたものです。
研究面 のみならず、その時 々の課題 に対 して徹底的に極めようとされる態度の現 われが い くつ もあ り
ました。精神病院の実際の管理運営 にまで踏み込まれたこともそ うですが、博物館研究 の面 では日本博
物館学会の会長 を務め られました し、博物館建築協会 を設立 したい と随分打 ち込 んでお られた時期 もあ
りました。仕事 ばか りでな く遊 びで もそ うで、五十代 になって始め られたテニス とスキーヘ の打 ち込み
方 は大変な もので した。七十歳にしてスキーの一級 をとられたのには誰 もが驚 いたことで した。
一方 で、明るさとにぎやかさが とて もお好 きで、研究室 のゼ ミ合宿 の コンパ では先頭 に立ってはしゃ
いでお られ ました。テニスの野村杯 とい うのが あ り、優勝者 はそれになみなみ とワインを注 いで飲み干
す のが習慣 で したが、 まっさきに煽 り立てるのはいつ も先生 で した し、花火 をすれば一番楽 しむのが先
生で した。
研 究生活 に未練 を残 され なが らも、横 浜 国 立大学 での 最後 の 数年 は大 学 の管理運営 に精力 を集 中 され
ま した。学生部長、 工 学部長 を経 て学長 に就任 されたわ けですが、大学改革 とい うテ ーマヘ の集 中 も研
究 の場合 とまった く同 じで した。学長報告 とい う大部 の印刷物 を全教員に毎月配った りして努力 されま
したが、我 々末端 の教職員は笛吹け ど踊 らずの感 もあ り、時に トップに立つ 人の孤独 の影 を垣間見た思
い もあ りました。
横浜国立大学の学長 を退任 されてか らは「 ものつ くり大学」 の大学 づ くりに情熱的に取 り組 まれるわ
けですが、私 どもか らみると、学生部長就任以来 ステ ップアップされて遥かな高みに上 っておいでにな
りま した。今後 はさらなる高 い ところか ら我 々 をお見 守 り下 さい ます よ う切 にお願 い しつつ、拙 い弔辞
に代えさせていただ きます。 ご冥福 をお祈 り申し上 げます。
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〓一莉
0
年
本
育帥
山
野村東太先生
建築計画研究室 を巣立った卒業生「縦糸 の会」を代表 してお悔やみ 申し上 げ、先生 との思 いでの一旦
を申し述べ ます。
発生が横浜国立大学に就任 された当時はまだ三十歳 を過 ぎたばか りで、建築学教室の先生方 の 中で最
年少で した。初めか ら私事で恐縮ですが、私には歳の離れた兄が二人居 ます。先生 は兄たちの年齢 に近
く、初 めてお会 い した時以来、兄の ような存在 で した。恐 らく当時の在校生たちにとって も似 たよ うな
思 いだつたのではないで しょうか。
大学 三年生の夏休みに、卒業論文 で研究室第一期生 になる先輩 の手伝 い に先生の研究室へ伺 ったのが
1963年 で したので、以来先生 とは44年 間の師弟関係 にな ります。翌1964年 の春休みに私が生意気 にも卒
業論文 で「高齢者施設 の研究」 をや りたい と申し入れた時、 また、当時研究室 で病院の設計監理 を手が
iナ ていたことか ら、病院建築が建築計画上流動性 の高 いことを知 り、大学院の修士論文で「建築のダイ
ナ ミック・ プラ ンニ ング・ メソー ド (動 的建築計画 の法則性 )」 とい うテーマ を持 って相談 に行 った時
も、先生 は「重要 な課題だか ら、ぜ ひや りなさい」 と快 く受け入れて下 さり、かつ励 まして下 さい まし
た。研究に際 しては、厳 しく、 しか し親 身 になって指導 して下 さい ました。 時には喫茶店で長時間に亘
り議論 したことも、 またある時は互 い に声 が大 きいために口論をしてい るのではと隣の研究室に誤解 さ
れたこともあ りました。
大学院在学時は元 よ り、関東学院大学 に奉職後 も、先生の設計の手伝 い をする機会 に恵 まれ ました。
特 に先生の名代 で大阪の病院建築 を初め幾つ かの病院や診療所、住宅 の設計 。監理 をすることがで きた
ことは、建築設計事務所 に勤務 した ことの ない私にとって大変幸 い な ことで した。その時の経験が、そ
の後の私 の設計活動や大学での建築設計教育に際 して貴重な体験 にな りました。
大学院生時代 に私 は競技設計 を何度かや りましたが、先生は効率が悪 いせいか、あま り賛成 されませ
んで した。私が今の研究室 を構 えてまもな く、最高裁判所の競技設計 に勤務先 の若 い教職員たちとチー
ム を作 って参加 した時のことで した。何 日も徹夜 を続けた後締め切 りの前夜、競技設計 に批判的だった
先生が陣中見舞 い に大学に来 られ、そのまま一緒 に徹夜 をして設計趣 旨を完成 して下 さった ことがあ り
ました。恩師 自らの助 っ人に仲間たちも戦意高揚 して ゴール イ ンしたのです。あの時 の先生 の思いや り
が四十年近 く経 った今 で も私 の脳裏 に焼 きついています。
先生 ご夫妻に私達夫婦 の媒酌人をお願 い したのが多分先生 にとって も初めてのご経験だった と記憶 し
ています。以来、長女 の一歳 の誕生 日に祝電を下 さった り、子供達が先生 のお子様方に遊んで頂 いた り、
家族 ぐるみ のお付 き合 いで した。
先生 の生 涯作品になった下曽我の病院の設計・ 監理の折 には、私の母が入 院させて頂 い た り、 ものつ
くり大学学長に就任 された後、私の勤務 してい る大 学 の工 学部 で ものつ くり教育 の講演 を依頼 した り、
この間、公私 ともに大変お世話にな りました。
先生は、八十歳 までテニスを、九十歳 までス キー をと言ってお られたことを思えば、 この早 さで逝か
れたことは誰 よ りも先生 ご 自身に とってさぞ無念だ ったことで しょう。
これか ら私たちは、先生の残 された想 い をで きるだけ実現するよう、力 を合わせなければな りません。
野村東太先生、安 らかにお眠 り下 さい。そ して残 された奥様 とお子様方、先生の薫陶を得た私たちを
見守って下 さい。
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