念してしまったことを痛切に反省いたしております。 すべてのマスコミが私が総理の座を「投げ出した」と報じ ました。結果的に所信表明直後という最悪のタイミングで辞 任したわけですから、むしろ当然の批判なのかもしれません。 しかし実際の私の胸中は「投げ出した」とは対極にあります。 政治家にとって、総理大臣は理念と政策を実現するための究 極の目標であり、厳しい選挙を重ね、苦労の末に辿り着いた その地位をそんなに簡単に投げ出すはずもありません。 では、なぜ私は辞任を決断するに至ったのか-。 九月十二日の会見で私は、辞任の理由として、「テロとの 戦いを進めていくには局面を転換しなければならない」と申 し上げました。その後、入院中の憂慮大学病院で行った会見 選の敗北が原因で職を辞したケースはありました。ただし、 この時点では辞職するつもりはまったくありませんでした。 政権選択選挙はあくまで衆院選であり、衆院選と三年ごとの 参院選でその都度政権が代わる可能性があるというのでは、 外交政策はもちろんのこと、安定した政権運営も難しくなり ます。そうした信念がありましたから、 「ここで小泉純一郎 総理から引き継いだ改革路線を変えてはいけない」と続投を 決意しておりました。当然ながら、相当苛酷な状況が待ち受 けていることは覚悟の上で、それに対峙していこうという強 い気持があったのです。続投は誰にも相談せずに私自身の判 断で決めました。 投票日の夕方には麻生太郎外相(当時)が公邸に訪ねて来 られ、「総理が続投を決断するなら、私は支持します」と仰 りました。麻生氏と入れ替わるようにやってきた中川秀直幹 事長(当時)は「総理、続投されるんですか? 最後は総理 のご判断ですが、それは茨の道ですよ」と仰りましたが、私 の気持は揺らぎませんでした。 最初に異変が起きたのは、広島に原爆死役者慰霊式に行く 前日でしたから、八月五日のことだったと思います。胃と腸 に痛みを感じました。それが原因で食欲がまったくなくなっ てしまったのです。何を食べても体がなかなか受け付けな い。味もほとんど感じられないし、美味しくない。それでも 無理して食べると、ムカムカと気持ちが悪くなってしまうの です。嫌な予感がしました。 私はもともと「潰瘍性大腸炎」という持病を抱えておりま (114) (115) 私は昨年九月十二日、内閣総理大臣の職を辞すことを表明 し、九月二十五日に安倍内閣は総辞職いたしました。一昨年 九月の首相就任以来、私の目指す国づくりに期待を抱き、支 持して下さった国民の皆さまを裏切る結果となったことは、 誠に塹愧 に堪え ず、深 く お 詫 び 申 し 上 げ ま す 。 昨年七月の参院選で自民党は大敗を喫しました。民主党が 参院において第一党となり、いわゆる衆参のねじれ現象を引 き起こしたため、福田康夫首相の国会運営に非常なご苦労を お掛けしております。また年金記録問題についても福田政権 にさらなる十字架を背負わせることとなってしまいました。 本来ならば、私が総理の座にとどまり、先頭に立って難局に 立ち向かっていかなければならないのですが、その責務を断 昨年七月二十九日に行われた参院選は、自民党にとって、 三十七議席という大変衝撃的な結果となりました。私も相当 難しい戦いになるという覚悟はしておりましたが、選挙応援 で全国を飛び回っていますと、後半は追い上げている手応え もあっただけに国民の審判は想像以上に厳しいものでした。 これまでも橋本龍太郎元総理や宇野宗佑元総理など、参院 初めて明かす「持病」 では、「体調が悪化し、体力の限界を感じるに至り、もはや 首相としての責任を全うし続けられないと決断した」と説明 しました。当初、健康問題について言及しなかったこともあ って、辞任の理由については様々な憶測が飛び交い、国民の 皆さまに理解していただくための努力も十分ではなかったと 今でも大 変申し 訳なく 思 っ て お り ま す 。 昨年十二月、私は官邸の元スタッフと一緒に東京八王子の 高尾山を訪れました。途中、休みながらではありましたが、 標高五九九メートルを踏破することができました。そして何 より嬉しかったのは、登山中に出会った方々が、突然総理の 座を去っ た私に 対して 、 「お 元気 になって よかっ たですね 」 「心配してたんですよ」と声を掛けて下さったことでした。 辞任から三ヵ月、体調もほぼ回復し、当時の状況を冷静に 振りかえることができるようになった今こそ、改めて国民の 皆さまに、辞任に至る経緯について可能な限り率直に説明し たいと思 います 。 わが告白 総理辞任の真相 す。これまで公にこの病気についてお話ししたことはありま せん。政治家にとって、病気はタブーであり、病名や病状が 公になれば、政治生命を危うくすることさえあります。しか し、今回の辞任の理由をご理解いただくには、この持病につ いても包 み隠さ ず告白 す べ き だ と 考 え る に 至 り ま し た 。 潰瘍性大腸炎は厚生労働省が特定疾患に指定している難病 で、いまだに原因は解明されておりません。初めて発症した のは十七歳の頃でした。その時の衝撃は今も忘れることがで きません。尾能な話をお許しいただきたいのですが、激しい 腹痛に襲われ、トイレに駆け込んだところ、夥しい量の下血 があり、便器が真っ赤に染まったのです。この病気は精神的 に落ち込みやすい病気だといわれています。下血により、多 少貧血にもなりますし、何より、トイレに行くたびに鮮血を 目の当た りにす るわけ で す か ら 、 気 持 が 滅 入 り ま す 。 自己免疫疾患といって自分の免疫が異物と勘違いして自分 の腸の壁を攻撃し、その結果、腸壁が剥落し、潰瘍となり、 爛れて出血するのです。腸壁が刺激されるたび、三十分に一 度くらいの頻度で便意をもよおします。夜もベッドとトイレ の往復で、到底熟睡などできません。内視鏡で大腸内を見た ときも大きなショックを受けました。ボロボロに傷つき、は げ落ちた腸壁の映像の生々しさは、想像を超えていました。 初めての発症以来、年に一度はこの病気に悩まされてきま した。だいたい二週間ほどでおさまるのですが、長い時は一 ヵ月以上続くこともあります。最初の頃は医師も病名さえわ からず、潰瘍性大腸炎であると診断されたのは社会人になっ てからでした。何の前触れもなく発症し、治るときは嘘のよ うにピタリとおさまるのが特徴です。体が冷えたり、ストレ スが高まったときに発症することが多いようです。治療には ステロイドホルモンを使うのですが、これを一度使ってしま うと、量を減らしていくのが難しいのです。減らすスピード が早すぎると、すぐに再発してしまう。ただし、長く使いす ぎると副作用も強い。顔がむくんでムーンフェイスになって しまうこともありますし、さらに骨粗髪症のように骨ももろ くなるといわれています。 今から十年ほど前、自民党国対副委員長を務めていた頃に は、三ヵ月近く入院したこともありました。私の場合、発症 すると腰痛も併発するのですが、入院当初は歩くこともでき ませんでした。しかもニカ月間にわたり口から物を食べるこ とが一切できない。点滴だけです。当時六十五キロほどだっ た体重は五十三キロにまで減り、お尻の肉がそげ落ちて、寝 ていて痛かったことを覚えています。腸に固形物が入ると、 腸壁がすり切れ破れてしまうこともあり、そうなると大腸の 全摘手術をしなければならないケースも出てくるからです。 拡が三ヵ月入院した際にも全摘手術が検討されました。 この病気になると、大腸ガンのリスクが高くなるといわれ ているため、全摘手術にはガンの危機を取り除くメリットは あります。一方で、胃の場合、全摘しても十二指腸が代替す ることがありますが、大腸には代わる臓器がないため、トイ レの回数の問題が出てくるのです。一日に何度もトイレに行 かなくてはならないのでは、選挙運動など政治家としての活 参院選抜には内閣改造をする予定でしたし、九月の臨時国 会開会に向け所信表明演説の準備もしなければなりません。 また、八月十九日から二十五日までは、インドネシア、イン ド、マレーシアヘの外遊も控えておりました。インドネシア ではアジア政策についての大事なスピーチがあり、インドの 国会でも演説の予定がありました。これらの準備もしなけれ ばなりません。結局、お盆休みを返上して仕事をこなしてい きました。今にして思えば、あの時点で二日でも三日でも静 j 養していればよかったのかもしれません。 この外遊を契機に、病状は一気に悪化しました。機能性胃 腸障害とは別に、ウィルス性の大腸炎に罹ってしまったので す。それ以後、激しい下痢が止まらなくなりました。晩餐会 ではエスニック料理がしばしばテーブルを飾りましたが、基 本的に残すことは失礼にあたります。無理して食べる努力は したものの、結局かなり残してしまいました。 帰国後もなかなか下痢は止まりませんでした。「辞める」 という考えが初めて具体的に頭に浮かんだのは、そのころの ことです。それでも帰国翌々日の八月二十七日には内閣改造 が控えており、改造だけやって辞めることなど考えられませ ん。すぐに弱気を振り払い、それからは「早く治ってほし い」と祈るような日々が続きました。改造人事については、 出発前に九割方は決まっていたのですが、最後の一割が難航 しました。安倍政権は「お友達内閣」との批判を浴びており ましたから、そうしたレッテルを払拭するような布陣を敷く 必要があると考えておりました。 (117) 動に著し く支障 が生 じ る 。 家 内 か ら は 、 「も う政 治家なん て 辞めてください」と涙ながらに訴えられたこともあります。 当時、地元では、「ガンでこの先長くない」などという怪情 報さえ囁かれました。それでも私は政治の道を諦めることな ど考えら れませ んで し た 。 その後もときに発症することはありましたが、新薬の開発 も進み、次第に症状をコントロールできるようになっていき ました。そして官房副長官時代に発症したのを最後に、幹事 長、幹事長代理、官房長官と充実した多忙な日々を送ってま いりましたが、一度も再発に悩まされることはありませんで した。したがって一昨年九月には、この病気を克服すること ができた と考え 、総 裁 選 立 候 補 を 決 意 い た し ま し た 。 「お友達 」批判 と内閣改 造 潰瘍性大腸炎に罹患したか否かは、血液検査で炎症反応を 見ればわかります。昨年八月、腹痛を覚えたときには、すぐ に主治医である慶塵大学病院の日比紀文先生に診ていただき ました。 診断の 結果 は 、 「機能性胃腸障害」でした。`ひとま ず胸をなでおろし、すぐに潰瘍性大腸炎の発症を抑える薬も 処方していただきました。ところが、この胃腸障害が一向に よくならないのです。食欲不振が改善されず、お粥しか喉を 通りません。それも難しいときには点滴に切り換えました。 会食の予定もキャンセルできるものはお許しいただき、断れ ない場合 は無理 やり 飲 み 込 ん で お り ま し た 。 総理辞任の真相 わが告白 l (116) 腹水副大臣としての遠藤氏の活躍を高く評価していました。 こうした形で辞職に至ったことは残念でなりません。補助金 不正受給そのものは許されるものではありませんが、当時の 「政治とカネ」の問題についての報道は、今とはだいぶ様相 が遠っていたように思います。もちろんそれも総理であった 私の責任であることは言うまでもありません。 それまでも閣僚に疑惑が発覚した際の対応が後手に回って しまっていたことは事実ですが、何よりも深刻な問題だった のは、マスコミとの間に必要以上に緊張関係をつくり、良好 なコミュニケーションを持つことができなかったことです。 もともと挑戦的なスローガンを掲げ、また、マスコミとは対 峙すべきときには対峙してきたということもあり、より反発 を招いたのかもしれません。広報担当補佐官の世耕弘成氏に は大変なご苦労を掛けてしまいました。私自身、実際にお会 いして、自ら政策などについて説明した方には理解していた だけることが多かっただけに、もう少し幅広く、言論人、マ スコミの方とお目に掛かればよかったと悔いております。 「政治とカネ」報道があそこまで燃えひろがっていった裏に は、そうした背景があったのかもしれません。 「職を賭す」発言の真意 九月七日から九日までは、オーストラリアのシドニーでア ジア太平洋経済協力会議(APEC)が予定されておりまし という発言以降、メディアの、そして世の中の関心はテロ特 措法に移りました。 一方で、体調は悪化の一途をたどりました。シドニーでは アメリカのブッシュ大統領やロシアのプーチン大統領との会 談もあったのですが、これは何とか緊張感を持って乗り切る ことができました。その合間には所信表明演説の原稿にも手 を入れました。 九月十日早朝五時に帰国したのですが、帰りの政府専用機 の中で辞任について初めて真剣に考えました。疲労はピーク に達しており、その日、午後二時からは所信表明演説が予定 されております。本来なら、少しでも睡眠をとっておきたい ところですが、機内では一睡もできませんでした。 「もう体力的に限界だ。所信表明の前に辞めるべきか」 「いや、きっと最後はよくなる。大丈夫だ」 気持は大きく揺れ動きましたが、結局午後からの所信表明 演説に臨みました。あのとき、羽田空港から病院に直行し、 そのまま入院するべきではなかったか。後からそう仰る方も おりましたが、そうした考えは浮かびもしませんでした。 なにしろ食事がまるでとれず、七十キロあった体重は、一 ヵ月で六十三キロまで落ち込みました。食事がとれないと、 体力ががっくりと衰え、体に鉛を流し込まれたように重く感 じられます。それにともない、気力も萎え、思考能力も鈍っ てきます。まともな判断が徐々に難しい状態になっていたの かもしれません。それでもなんとか病状が回復してくれない (118) (119) 「お友達」といいましても、自ら目指す政策を実現していく ためには、同じ志を持つ人たちで官邸を固めていくこと自体 は当然だと思うのです。従来の派閥の推薦によってバランス をとるという手法こそが、むしろ批判されてきたはずです。 第一次安倍内閣の塩崎恭久官房長官はじめ、副長官、補佐官 ら、官邸スタッフ、関係の皆さまは大変有能であり、至らな い私を最後まで支えていただいたことに感謝してお肛ます。 ただ、私が若いので、同志の顔ぶれも若い人が中心となる 傾向はありました。そこで、内閣改造をする以上、変わった という印象をしっかり持ってもらえるような組閣が必要だと 考えたわけです。いろいろな方がいろいろな意見を具申して きましたが、聞くべき部分は聞きながらも、‘最後は一人で決 めました 。改造 内閣は 納 得 の い く 布 陣 だ っ た と 思 い ま す 。 与謝野馨官房長官、麻生幹事長(いずれも当時)が官邸、 党を仕切り、私が「蚊帳の外」に置かれているとの報道もあ りましたが、そんな事実はまったくありません。必要な報告 はすべて受けておりましたし、最後の判断は私がしていまし た。ある官僚の人事をめぐって与謝野官房長官と対立し、そ れが辞任の引き金となったとの報道までありましだが、一官 僚の人事で総理が辞任するなど百パーセントあり得ません。 九月一日、防災訓練の最中に遠藤武彦腹水相(当時)の補 助金不正受給問題の二報が飛び込んできました。私はすぐに 与謝野官房長官、麻生幹事長と協議し、遠藤腹水相からよく 事情を聞くように指示しました。私はBSE問題発生当時、 た。帰国当日の九月十日には、所信表明演説があるため、出 発前日の六日には、マスコミ各社の論説委員らと所信表明演 説についての懇談が開かれました。そのころには食欲不振、 睡眠不足が極まり、座っているのも辛く、テキパキとしたや りとりが難しい状況でした。このあたりから体調不良が深刻 であると の情報 が一気 に 駆 け め ぐ っ た よ う で す 。 シドニーでの会見では、海上自衛隊のインド洋における給 油活動を 継続す るため の テ ロ 対 策 特 別 措 置 法 に つ い て 、 「職 を賭して取り組み、果たせなかった場合、職責にしがみつく ことはない」と申し上げました。ただし、この時点ではすぐ に辞めることまでは考えておりませんでした。むしろ、遠藤 氏の辞任もあり、「政治とカネ」一色になっていた空気を変 え、本来しっ-かりと議論すべきテロ特措法という日本の安全 保障上、極めて重要な法案に関心を集中させるための戦略と しての決断でした。そしてそのためには、私自身も大きなリ スクを背 負わな ければ な ら な い と 考 え た の で す 。 日米同盟は日本の安全保障を考える上での基軸であり、万 がI、テロ特措法を通すことができなければ、その信頼関係 が大きく損なわれる恐れがあります。同時に、国連に加盟す るアメリカ以外の国々からも法案継続への期待が数多く寄せ られており、これはすでに国際公約となっているのです。私 が目指してきた「主張する外交」を実現していくためには、 国際貢献を果していくことは当然の責務であると、今でも確 信いたしております。結果的に、シドニーでの「職を賭す」 わが告白 総理辞任の真相 回復してから復帰すればよかった、とのご指摘もあります が、そもそも総理が臨時代理を置くことができるのは、総理 が欠けたときだけです。 「欠けた」とは、死亡した場合か、 人事不省に陥ったときを意味します。それが内閣法制局の見 解であり、職務を続けるか、辞めるか、しかないのです。 その後、自民党の役員会で読み飛ばしについて謝罪し、役 員会の後で麻生幹事長を呼び止めて、部屋に残るように伝え ました。そこで麻生氏に「体力、気力が衰え、職務を遂行す るのが困難な状況です」と率直に申し上げました。麻生氏は 驚いておりましたが、「テロ特措法なら、何とか乗り切れま す。今は辞めるタイミングではありません」と必死に慰留さ れました。総裁選の際に「麻生クーデター説」なるものが流 布されましたが、まったくの事実無根です。私は入院中に秘 書官からそれを聞かされて、愕然としました。麻生氏には感 謝していることは多々ありますが、裏切られたなどと思った ことは、ただの一度もありません。本当に申し訳ないことを したと思っております。 潰瘍性大腸炎再発の危機 その日の夜、日比先生の診察後、公邸で家内にも「体調が 全然よくならないので、このまま総理を続けるのは難しい」 と告げました。家内は「もう十分に我慢してきたんだから、 仕方ないと思います」と答えました。 ならば、少なくとも予算委員会が始まる前に辞めた方が、 時間的なロスも少なく、大難を小難にとどめることができる と考えたのです。九月二十五日にはニューヨークで国運総会 が開かれる予定で、日本の総理は一昨年も総裁選のため出席 しておりません。二年連続で欠席となれば、国連軽視との批 判を受けかねません。結果的には、総裁選日程の関係で、新 総裁の出席は叶いませんでしたが、その時点では一刻も早く 総裁選を行う必要があると考えたわけです。 九月十二日。辞意はすでに掻るぎないものとなっておりま したが、テロ特措法可決に自ら道筋をつけることについては、 まだI徘の望みを抱いておりました。民主党の小沢代表の返 答次第では、「今日だけは代表質問を受けよう」という気持 もあったのです。だから午前十時から十二時過ぎまで、秘書 官による代表質問へのレクチャーを受けました。もし党首会 談が実現するならば、代表質問は予算委員会に比べ時間も短 いし、なんとか耐えられるのではないかと思ったのです。 しかし、そのほのかな期待は、秘書官のレクチャー終了直 後に掛かってきた大島国対委員長からの電話で打ち砕かれま した。私は大島氏をすぐに官邸に呼び、詳しい報告を求めま した。大島氏は民主党の山岡賢次国対委員長を通じて会談を 申し入れたのですが、とりつくシマがまるでないとのことで した。私は大島氏に「このまま私が総理にとどまっていたの では、局面を打開するのは難しいLと辞意を表明しました。 念の為にお断りしておきますが、この党首会談はその後、 020) 021) かとの期 待は捨 て切れ ま せ ん で し た 。 入院について付言すれば、病院に逃げ込むことは、都合の 悪くなった政治家の常套手段のようでもあり、私はそうした 「敵前逃亡」だけはしたくないという気持もありました。結 局はその不器用さが裏目に出てしまったのかもしれません。 無理して強行した所信表明演説は私にとって最悪の結果と なってしまいました。最初に衆院で演説したときには、まだ 張りのある声で読み上げることができたのですが、参院で演 説する段階では、体力的にも相当しんどいと痛感しました。 集中力も読かず、ついには演説の草稿の文書を三行読み飛ば してしま いまし た。そ れ は 「 来 年 の 洞 爺 湖 サ ミ ッ ト に 向 け て、リーダーシップを発揮してまいりますLという箇所だっ たのですが、非常に大きな衝撃を受けました。二十分足らず の所信表明演説でこうした無様な姿をさらしたのでは、その 後読く、代表質問、予算委員会には到底耐えられないのでは ないか。代表質問では三時間、予算委員会では七時間も拘束 されるこ とがあ るので す 。 このままの状態で総理大臣としての職責を果たすことがで きるか、正しい判断ができるか、国会に十分に対応すること ができる かI我 が身を 省 み る に 、 誠 に 残 念 な が ら 、 そ れ は 不可能であると認めざるを得なかった。それが辞任を決断し た最大の理由です。あの三行の読み飛ばしは決定的な要因の ひとつだ ったと 思いま す 。 臨時代理を立てて、一週間でも二週間でも入院し、体調を 翌十一日、もう後戻りはできないと腹を決めて公邸を出ま したが、それでもテロ特措法にはなんとか道筋をつけて次に バトンを渡したいとの思いがあり、大島理森国対委員長に、 「民主党の小沢一郎代表に党首会談を中し込んでほしい」と 指示しました。自らの職と引き替えに、テロ特措法可決に向 けて民主党の協力を取り付けたいと私が切望していたのは事 実です。 麻生氏とも再び会い、前日より明確に辞意を伝えました。 続いて連立与党を組む公明党の太田昭宏代表にも、体調が非 常に悪く職務を続けていくことが困難であると伝えました。 麻生氏も太田代表も「いや、ぜひとも続けていただきたい」 と仰りました。この日は五時過ぎには官邸を出て、公邸で日 比先生の診察を受けました。日比先生には、すぐに入院すべ きだと強く勧められましたが、前述したような理由もあり、 それを受 け入れ ること は で き ま せ ん で し た 。 入院は拒んだものの、私は体調を崩して以降、ずっと危惧 していたことがありました。あの忌まわしき潰瘍性大腸炎の 発症です。実は、下血こそなかったものの、八月には発症を 示す血液検査の数値が正常植を超えたこともあったのです。 いつ発症してもおかしくない状況でした。ひとたび潰瘍性大 腸炎が悪化しますと、トイレに一日三十回も行かなければな らないような状態に陥ります。とても総理の重責を果たすこ とは不可能であり、国民の皆さまに多大なるご迷惑をお掛け してしま うこと は明ら か で す 。 総理辞任の真相 わが告白 見が大勢を占めました。そのため与謝野氏に、 「官房長官会 見では体調のことについても説明して下さい」とお願いしま した。 準備不足のまま行った会見では、その他にも信じられない くらい大切なことを言い忘れてしまいました。国民の皆さま への謝罪の言葉が抜け落ちてしまったのです。辞意表明会見 の翌日、慶唐大学病院に入院した後も、そのことがずっと心 残りでした。少しでも体調が回復したら改めて謝罪会見を行 いたいと考え、九月二十四日になって、ようやく自らの言葉 でお詫びをすることができました。 「戦線拡大」に悔いなし 総理を辞任して以降、今日に至るまで、様々な方々から反 省点についてご指摘をいただきました。そうしたご意見の多 くが正鵠を射るものでした。参院選において多くの優秀な同 志を失った責任を、今更ながらに痛感いたしております。 ただ、私は参院選では敗れましたが、政策においては間違 ったことはしていないという自負があります。総理に就任し た際、私ははっきりと自ら目指す国家像を示し、それを実現 するための政策を掲げました。それゆえに反発も大きかった と思いますが、たとえ選挙に勝っても、政治家として胸を張 れる仕事を残せなければ、何の意味もないと考えます。 安倍政権においては、戦後レジームからの脱却を訴え、憲 靖国参拝問題について、参拝するかしないか明言しないと いう方針が曖昧だとの批判を浴びたこともありました。大前 提として、私は日本国内にある神社に祀られている英霊を総 理がお参りすることに対して、外国から指図されることなど 絶対にあってはならないと考えております。内政干渉を許す わけにはいきません。ただし、政治の世界では常に現実に則 して戦略を考える必要がありますから、徒に中国との関係を 悪化させ、無用な刺激を与えるようなことをする必要もあり ません。大切なのは、靖国神社に行く可能性と権利は決して 手放してはならないということなのです。 今、私が何より憂えているのは、私が総理の座を辞したこ とによって、安倍政権が掲げた保守の理念そのものが色掻せ てしまうことです。その意味では、保守勢力の拠り所として 様々な勉強会ができることは有意義なことです。 幸いにして、私の持病の潰瘍性大腸炎は加齢を重ねるごと に病状が緩和されていきます。また、病状を劇的に改善して くれる新薬の開発も進んでいます。加えて、親しい代議士の ご家族にお医者さんがおり、潰瘍性大腸炎の患者用食品を送 ってくれました。その方も同じ病気で苦しんでいたのが、こ の食品の効果もあって、ほぼ完治したといいます。お蔭で私 も近い将来の完治に向けて、希望を抱くことができるように なりました。 今後は一議員の立場から、日本に本格的な保守政治を根づ かせるための捨て石となって粉骨砕身してまいります。 (122) (123) -- - --- - - - - - - - - - -- - -- 実現した福田・小沢会談とは一切関係ありません。あくまで 私の一存 で、こ ちらの 方 か ら お 願 い し た も の で す 。 その後、与謝野官房長官ら官邸スタッフ、麻生幹事長ら党 役員を次々に官邸に呼び、正式に辞意を告げました。ただ、 そのときには健康問題が理由で辞めるということは一切伝え ませんで した 。 「 テロ特 措 法 を 可 決 さ せ る た め に は 私 が 辞 め ることで局面を転換するしかない」との説明で押し通そうと 考えたのです。それは国防上、自衛隊の最高指揮権者である 総理大臣が、実際に辞めた後であれば別ですが、辞意を表明 ’する段階においては健康状態について詳細に話すべきではな いとの 判断か らでし た 。 さらに言えば、一国の総理大臣が、生命の危機に瀕してい るならともかく、いくら体調面で厳しい状況にあったとして も、病気を理由に職を辞すことは決して潔いことではない、 という私なりの価値観もありました。一方で、体調不良を察 した与党 幹部の 中には 、 「体 調が 悪いんだ ったら 正直に言 っ た方がい い」と 進言す る 人 も お り ま し た 。 結局午後二時から行った会見で、私は体調のことには一切 触れませんでした。あの会見は準備の時間もほとんどなく、 きちんとした草稿を用意する余裕もありませんでした。私自 身の言葉 で、ぶ っつけ 本 番 に 近 い 形 で 行 っ た も の で す 。 「局 面を転換する」という言葉に嘘はないのですが、それだけで はやはり国民の皆さまにご理解を得ることは難しいのではな いか、会見後には官邸スタッフ、与党幹部ともにそうした意 法改正に向けての国民投票法案成立、教育基本法の改正、防 衛庁の省昇格などを次々と成し遂げることができました。一 方で、戦線を拡大し過ぎたとの指摘もあります。小泉元首相 は一点突破的な政治手法で成功しましたが、私の場合も、全 面突破全面展開を欲張るのではなく、戦略的に優先順位をつ けていく老檜さが必要だったかもしれません。だが、悔いは ありませ ん。 私の政治家としての経験不足を指摘する方もおりますが、 国際社会では五十歳代のりIダーは今や常識となりつつあり ます。フランスのサルコジ大統領は五十二歳、ドイツのメル ケル首相は私と同じ五十三歳、ロシアのプーチン大統領の後 任となるメドベーージェフ氏は四十二歳、米大統領選を目指し ている民主党のオバマ候補は四十六歳です。もちろん経験は 大切ですし、安倍政権においてもキャリア不足に起因する問 題があったかもしれません。しかしながら、その豊富な経験 がしがらみとなって思い切った改革の障壁となることもあり ます。私 は議員 歴が十 六 年 あ り ま す し 、 い わ ゆ る 「 雑 巾 掛 け」の経 験も積 んでき た つ も り で す 。 補佐官制度をはじめ、人事への批判についても真摯に受け 止めるべき点は多々あります。けれども官邸主導による新し い政治スタイルを確立するためには、官邸に入る政治家の数 を増やさなければなりません。政権がもう少し長く続けば、 各省庁の大臣や次官との権限の調整など、試行錯誤はあって も必ずや 成果を 挙げて い た は ず だ と 信 じ て お り ま す 。 わが告白 総理辞任の真相
© Copyright 2024 ExpyDoc