仏教と福祉

仏教と福祉
一一明治・大正期大阪における慈善事業の信仰的展開一一
西本
村岡
良子
潔
要約
仏教信仰者(以下,仏教者)の社会的実賎は,宗教者毘有の宗教活動と,社会
福祉法人としての社会福祉事業とに分けられる。社会科学的方法からは,社会福
祉事業の担い手が,宗教者であることの意味は関われないが,仏教系社会福祉事
業の
f
仏教j性,つまり仏教系社会福祉事業における「仏教Jのもつ本質は,仏
教者による仏教精神の発露としての事業の実践にある。とくに近代化以前の日本
で,仏教者による慈善事業が盛んであったことからも,仏教者による社会的実践
についての再評価が必要になってくる。本稿の自的は,現在の社会福祉政策に対
する問題提起として,仏教者が社会指祉法人として行なう場合の社会的実践のも
つ「仏教j性の意味について検討することである。特に,明治・大正期に全国に
比して慈善事業が盛んであった大践を取り上げて考察した。
明治維新以来,主に英米を手本に近代化された福祉国家を自指してきた国策に
規制されない慈善事業とは,すなわち封建制と近代化政策に規制されない慈善事
業を意味する。大販の民濁慈善事業は,こうした近代化政策に極力影響されてい
ない。たとえば,大阪養老院は,養老院施設としての全閤的な活躍と並行し大
販養老院あげての太子信仰が隆盛であった。養老院を支える従業員や収容者,さ
らに地域の人々の信仰は,特に内面的な支えとして,大政養老 i
琵の運営上の役割
を担っていた。このような大阪養老院の発展には,信仰という内面的な基盤が不
可欠であった。
このようにこの時期の大販の慈善事業からは,可能な限り自ら近代化しよう
とする姿勢と力を見ることができるが,それを支えたのは大阪の民間の力であり,
4
2
哲i;教大学総合研究所紀姿詩~15号
さらに下部構造としてそれを支えてきたものは仏教(宗教)という「宗教的基
盤jすなわち「信仰的基盤Jであった。仏教は,民間の人々を内面的にひとつに
まとめ導いていく役割を来たしていたのである。社会福祉事業を行う仏教者の役
割は,こうした地域の内面的な支えとしての信仰を打ち出すところにあるのでは
ないか。そこに仏教系社会福祉事業の「仏教」としての意味を見出すことがで
きると言えよう。
はじめに
社会橘祉は,宗教者その他による社会的実践という古代からの長い歴史と,問時に,
近代の国家政策による社会的保護に至る近代化の授史を併せ持つ。その両者の質の違
いから,仏教を含めた宗教と福祉をめぐる様々な議論がある。
現在,仏教信仰者(以下,仏教者)の社会的実践は,宗教者間有の宗教活動仁社
会福祉法人としての社会福祉事業とに分けられる。仏教者が社会福祉法人として行な
う社会福祉事業は,法人であるだけに,被救済者の内面に影響を与えうるような伝
導・布教といった宗教活動は行なっていない。国家政策によって,信仰による内面的
救済活動が社会福祉事業から排徐されているため,その活動は,宗教的意味での「仏
教」性は帯びていない。
こうした社会福祉事業に仏教者の宗教活動を認めない社会福祉政策比例えば荷村
重夫の社会福祉理論によって支持されている。関村のアメリカ主義的社会福祉事業は
社会科学的方法に基づくとされ,社会福祉事業を行う者が宗教者であるかないかを開
うことには何の意味も認めていない。戦後日本の社会福祉政策は,アメリカ主義の理
論の上に立脚しており,日本という土地で培われて成長した社会揺祉よりも,近代化
された社会福祉関家を目標にして構築されてきたのである。
このように社会科学的方法からは,社会福祉事業の担い手が,宗教者であることの
意味は間われないが,仏教系社会福祉事業の「仏教j性には果たしてどのような意味
もないのだろうか。そうではない。仏教学者はその意味を
f
動機Jから考えている。
つまり,現夜の仏教系社会福祉事業における「仏教j のもつ本質は,仏教者による仏
教精神の発露として事業を行なうことにあるからだ。
現代社会では,失業・少子高齢化・精神不安・経済不安なと社会福祉政策に関わ
る社会問題は絶えることはない。私達が抱える問題は,明治(維新)期よりはじまる欧
化主義に基づいて近代化された社会福祉の方法論とは違う,また近代化刀、前とも違う
仏教と福祉
4
3
新たなかたちでも対処可能と思われる。そこから,日本の土着の慈善事業を振り返る
担線が主主まれるのである。とくに近代化以前の日本で\仏教者による慈善事業が盛ん
であったことからも,仏教者による社会的実践についての再評価が必要になってくる。
本稿の目的は,現夜の社会福祉政策に対する問題提起として,仏教者が社会福祉法
人として行なう場合の社会的実践のもつ「仏教j性にはどのような意味があるかとい
う問題について検討しそれに対する解答を提示することである。
第 1館現在の「仏教と福祉」をめぐる開題
1 仏教系社会福祉事業の現状
仏教者による社会的実践は古く,その研究蓄積は膨大である。それは,
f
三経義
疏;に見る聖徳太子の福祉思想、に始まり]),行基,最澄,空海,さらに中世鎌倉にお
ける伝統仏教,新仏教の始祖,室町時代の蓮如や,江戸時代の鉄眼や無能など,枚挙
に遼がない。
f
仏教福祉 J
2)という分野の研究でなくても,各時代の仏教者個人の研究には福祉
思想、が見出されよう。仏教者のこうした実践は,控史的の中で住民の生活に深く浸染
していた。
仏教者による社会福祉的な実践は,現夜まで様々な分野で行われてきている。聖徳
.太子 3)や行基,そして日蓮上人などに代表される,仏教精神による慈善事業が行わ
れた授史をもっ,大阪でも,明治・大正期になって多くの慈善事業が活動を開始され
た
。
現在,仏教者が行う社会指祉事業は,以前と大きく様変わりし事業の運営にあた
日本の仏教福祉思想の発生を?三経義統j に求めている。坂本太郎 e
r
袈徳
太子j)と井上光貞(「三経義疏の菩稜観Jr
日本古代の図家と仏教j)の先行研究を参考に,
その特色を, f
苔i
護的実践怒悲観」としている。さらに,この慈悲観が現実社会と厳しい緊
張を保ちながら,現実務:界と切れないところに仏教福社の大きな特色を見出している。 e
r日
本仏教福祉思想史j
2
) 仏教者が行った社会的な実践を特に研究する分野を「仏教福祉j と呼ぶことに対しては,
様々な批判がある。その代表的な例は,前近代は「仏教福祉j,近代は「仏教社会福祉Jと
,
時代によってその呼び方を区別しなければならないというものである O すなわち仏教学の
「仏教福祉」の研究が,近代以前の仏教者の社会的実践を現代に生かそうという結論に結
びっく傾向があることに対して,現代の社会福祉政策に仏教(宗教)的精神は組み込むこ
となど不可能で、あるという社会福祉学からの批判である。このことを考慮して,本論文で
は主に「仏教と福祉j とする。
3
) 従来一般的に信じられてきた, 5
9
3年(推古天皇元)の四箇|淀(和辻哲郎 7
日本精神史研
究J
)の史実も, l
.
'
1
i橋党f
l
h氏が指摘するように「疑わしい j ものとされているげ日本慈善
救済史之研究幻。しかし四天王寺四 0
0院の約に代表される大阪と E
聖徳太子のつながりは
今もそのなごりをみせる。
1
) 官邸久ーは,
4
4
?指数大学総合研究所紀要第1
5
号
つては
f
仏教」色を表面に出さないようにしている。それは特に社会福祉施設で顕著
で,施設紹介のパンフレットやホームページを見ても「仏教Jという言葉が出てくる
ことはない。
例えば,養護老人ホームや保育園などの福祉施設の事業を中心に活動している四天
王寺福祉事業屈を見てみよう。当施設は,四天王寺の僧1
8達によって聖徳太子の遺志
を継ぐ趣意のもとに開設された仏教系社会福祉施設である。施設の中心には大きな仏
像が安置されている。施設の歌は仏教にちなんだ歌詞であるし利用者と職員は必ず
しも仏教者ではないが,役員は皆住職である。そのため,一見 f
仏教」を前面に出し
でもよさそうだが,施設紹介のパンフレットから仏教色は排除されている。ここの活
動が目指すものは,仏教の布教や教えの伝導ではなく
f
社会福祉活動の実説j 自体に
あるからだ。この仏教系社会福祉施設では,仏教精神の発露自体をその動機としてい
るが,それがここの「仏教」性なのである。それでも事業者側には,宗教的施設を利
用者がどう思うかについて懸念があり,宗教的な動機だけでは運営が難しいのが現状
だ。また,明治後半仏教者によって設立された「社会福祉施設まつばら Jも閉じく仏
教色を表面に出してはいない。
熱心な聖徳太子信仰者である岩田氏次郎によって設立された仏教修養団体 f
聖徳
会j は社会福祉法人「聖徳会」として今に続いている。しかし以前のような信仰的
活動ではなく,社会福祉法人を母体として,さまざまな分野での社会稿祉事業を行う
ようになった。設立当初はその仏教修養道場である「聖徳、館Jを設け一般に開放して
いたが,現在は信仰のための修養道場としては機能することはあまりない。
このように現代の仏教系の社会福祉施設は「仏教」の名を出そうとはしていない。
設立の動機であり事業の根本精神である「仏教Jが利用者には関心事ではなくなって
いるからであろう。
2 現代の f
仏教と福祉j研究にみる仏教系譜祉事業のモデル
現代の仏教系社会福祉事業の状況を考えるとき,
f
仏教と福祉」研究の重要な開題
のひとつとして,社会福祉に対する仏教の在り方についての論争がある。
まず,仏教者の立場から水谷幸正は,仏教と福祉の在り方を次のように指摘する。
社会福祉とは救済や慈悲のみをさすのではなく,社会理想の実現を目指すもので
ある。…仏教社会補祉とは,単に仏教と社会福祉の結合を鴎るだけのものではなく,
社会福祉のあり方が仏教的理念にもとづいて明かにされたところに打ち立てられる
仏教と福祉
4
5
ものである 4。
)
水谷は,仏教社会福祉学を実践仏教学の中に位霊づけている。そして,現代社会へ
の実践理論のーっとして,仏教の持つ人間観や価値観から出てくる理論が仏教社会福
祉論であるとし
f
人間存在の根源を凝視し洞察透徹した仏教思想、に基づかない理
論は仏教社会福祉の原理論にはなりえないj としている。水谷にとって,仏教と福祉
の結合は,次のようになる 0 5)
これからの仏教指祉は,仏教の揺祉,さらに言えば,仏教即福祉とならねばなら
ないと思う。…仏教の福祉というのは,仏教を中心とする福祉活動であって,仏教
精神から必然的にでてくる社会的実践である。仏教郎福祉というのは,仏教の福祉
をさらに一歩すすめて,仏教のすべてが福祉活動であるということであって,社会
福祉という内容においてこそ仏教の現代化・社会化があるということである。
仏教は単なる哲学でもなければ思想にとどまるのではなく,宗教である,という
ことは,優れた実賎を自指すものであることを示している。…私は思う。仏教の実
践とは結局のところ,人間教育と社会福祉であり,これが教化であり伝導なのであ
る
, 2
1世紀をめざしての仏教の実践理誌をここに求めるべきであると。
このように,水谷は,仏教社会福祉事業を
f
宗教としての仏教jの立場で持うべき
ことを f
是唱している。
一方,社会福祉学の立場から中垣島美は,このような水谷の論に対し「社会福祉事
業が,病気や賞罰などの社会問題の責任が国家に委ねられていない時期の救済事業か
ら大きく変化している」ということを前提に,次のように批判する。
社会構造的把握を脱落させたままでの「仏教郎福祉」論には,肢史的・社会的・
経験事象としての仏教社会事業の特巽性や罰有性を究明することを毘難たらしめる
という点で,いわば科学以前の認識であると想定せざるを得ない 0 6)
中援は,実践仏教学では社会福祉の対象認識が超麿史的・超社会的概念に抽象化さ
r
r
4
) 水谷幸正「浄土教と社会福祉J 浄土宗学研究j 第 2号
, 1967匁 325頁
5
) 水谷幸l
E 創刊の心を顧みて J 仏教福祉j 第 15号
, 1989年 3月
, 3J
r
6
) 中怒呂美 f
仏教社会福祉の概念と認識対象J 仏教社会福祉論考j 法蔵館, 1998年
, 3頁
r
r
4
6
術教大学総合研究所紀姿第1
5号
れてしまうとし歴史的・社会的に現実に生存する労働大衆や,社会制度の構造的欠
陥から生じる社会的 i
態害の担い手としての人間を規定する必要性を示唆する。それに
ついて上田千秋は次のように指摘している。
それがあらゆる愛他的行為を社会事業に包括する寛容さを示すと同時に,客観
的・歴史的・社会的存在としての社会事業を,資本主義制度を貫徹する構造的論理
にしたがって理解することを不可能ならしめるのである 7。
)
議論の熊点は,社会福祉事業における仏教の位置づけである。これらの研究者たち
は,社会福祉に対する仏教の在り方を「宗教jの側面から見ている。しかし「宗
教」としての在り方は福祉事業をおこなう主体者側からの意味であり,救済対象者に
対する夜り方は詳しく述べられてはいない。その在り方を考えると,仏教者の行う社
会的実践が「仏教j的であるとはどのようなことかという間いが浮上してくる。
3 問題の所主
現在の仏教系社会福祉施設における問題は,仏教を具現する宗教人としての仏教者
が,いかに社会福祉を行っていくかという点である。つまり,仏教者の行う社会的実
践が「仏教性Jをもっとはどのような意味かという聞いに繋がる。こうした向いにつ
いて考察を行うには,先に現在の仏教系社会福祉施設の問題を確認しておく必要があ
る
。
三宅敬誠は,その原因は宗教を排除する近代的社会稿祉にあるとしている 8)。この
近代的社会福祉とは,岡村理論のことである。近代的社会福祉学の祖である関村は,
マルクス主義者の孝橋正ーとともに,日本の第二次世界大戦後から今日に至る社会福
祉理論の援史上の代表的理論家である。三宅によると,術者の理論とも国家政策の中
で機能する社会福祉論であるが,マルクス主義が鹿史上「破綻J
をきたした現在,日本
の社会福祉理論は,アメリカ社会学に近い関村環論によるものとなっているという 9。
)
では,関村理論では臼本の社会福祉政策はどのように解釈されるのか。三宅の説明
に従って,以下岡村理論に現れる現代の仏教系社会福祉事業の問題の原闘を探ること
r
7
) 上因子秋「仏教社会率業論の学照的性質J 日本仏教学会年報j 第3
5号
, 1
9
7
0年
, 3
5
2
:
1
'
[
8
) 三宅敬誠「近代社会福祉理論の思想と問題j ;宗教と社会繍主i
:の思想j 東方出版, 1
9
9
9
年
,
84頁
9
) 前掲書, 19N
仏教と福祉
4
7
にする。
三宅によると,近代社会福祉(岡村理論)は,国の「法律による社会福祉」に眼定
されているため,閣の責任で行う社会福祉である以上,政教分離の原郎によって宗教
の介在する余地はないとされている。社会福祉における仏教性は,政教分離の原則に
よって「宗教Jとしての意味を失ってしまうのである ω。関村の日本国憲法の解釈は
次のようになる。 11)
憲法第8
9条の慈普ー事業などの《公の支配に潟しない〉社会福祉は,近代的社会福
祉の中心的課題ではなく,それは前世紀の遺物に過ぎない否定すべきものであると
理解されている。
つまり岡村にとっては,現在の社会福祉事業の全てが国家主体の社会福祉となる。
岡村理論に部る社会福祉政策によって,仏教系社会福祉は「宗教Jとしての意味を活
動の動機にのみ限定され,被救済者に宗教的影響力を行使する機会は与えられていな
いのである。
このような政策的根拠は,仏教系社会福祉事業の現代的問題の原因としてあげるこ
とができる。しかし現在の社会福祉が確立した裏側には,戦前から続いていた仏教や
キリスト教などの宗教の社会的実践者たちが戦後の日本の社会福祉理論を確立できな
かったという事情があると指摘される場合がある。それについては吉田久ーが次のよ
うに述べている。
商洋社会事業史と日本の社会事業史を比較してただちに気づくことは,西洋社会
事業史には連続性が濃厚であり, 日本社会事業史にそれが稀薄なことである。その
責任の一端を仏教も担わなければならない。渡洋では社会的条件とともに,それを
内面から支えるキリスト教がある。日本では,古代・中世には仏教がその役割を果
たしたが,近世・近代にはそれを欠いた。その大きな理由の一つに,仏教が近世・
1
0
) 臼本国慾法第2
5条
すべての国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
閣は,すべての生活部分について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上および増進
に努めなければならない。
日本国慾法第8
9条 公金その他の公の財産は,宗教上の綾織悲しくは団体の使用,使主主
若しくは維持のため,又は公の支配に属しない慈普i,教育若しくは博愛の司王業に対し,こ
れを支出し又はその利用に供しではならない。(河村重夫 7
社会福祉学(総論は 1
9
5
2
i
f
)
1
1
) 三宅敬誠「近代社会様社理論の思想と問題j :宗教と社会福祉の思想j東方出版. 1
鈎9
年
,
2
3 2
9頁
4
8
偽家主大学総合研究所紀姿
第1
5
号
近代に宗教改革を欠いたことがあげられる 12
。
)
日本に隈らず,福祉国家は,行政の組織と権力によって統治されていることから,
常に国家の干渉を前提しなければならないといえる。一方,ピパリッジは,福祉国家
の基本精神を国家ではなく「相互扶助」に置き,「イギリスの市民がキリスト教の信
仰を持って社会をつくり,利己的な自己中心的な行動をしないことを望み,自覚ある
個々の人々の判断によって政策がなされなければならない j と述べている。 13)現代福
祉国家イギリスの社会福祉政策は,キリスト教という宗教的基盤は欠かせない。その
ことによって,精神の自由を認める,社会を前提とした社会福祉国家が成立するので
ある。ところが日本は今,宗教的基盤を必要とすることのない福祉国家への道を歩ん
でいる。
吉聞が先に述べていた「宗教改革j についての一連の議論は第 2節に譲るが,彼は,
宗教的基盤のない現在の社会福祉事業に対し危機感を持ち,仏教,特に鎌倉仏教に現
代的意味を見い出し 14),現在の社会福祉がこのようになった理由として,慈善事業か
ら社会話祉へと近代化していく歴史的過渡の中で宗教が国益のためとされて田家権力
に従属したことをあげている。
問題は,戦後の国家政策だけではなく,戦前の宗教の在り方にもあったのである。
4 社会福祉学への問題提起
上述のように戦後の日本の社会福祉は,関村の近代的社会福祉理論の中で\宗教を
排除する方向で説明されるのが実情である。では,関村の立場では,社会福祉国家へ
と近代化が推し進められ始める明治以降の救済事業はどのように理解されているのか。
彼は,明治時代から大正時代にかけての宗教家による慈善事業に対し次のような見
1
2
) 古関久一・長谷川区俊 5
日本仏教福祉思想史j 法蔵館, 2
0
0
1年
, 6J
i
1
3
) 柴田義守著防士会福祉の史的発展ーその思想を中心として−J光生館, 1
9
8
6
年
, 8
8
J
i
f
1
4
) f
いつ果てるともない「平成不況j,環境汚染・破壊,阪神大震災に続く災答,地下鉄サ
リン挙件などの社会的事作:が連続した。国民生活には「閉塞!惑jが充満しシニカルな空
気が蔓延している。自殺者が年問 3万人を超え,ホームレスも Z万人前後に透した。加え
てかつての被民地や侵略への蹴罪もまだ済まないうちに年を越えようとしている。
この終末的状況は鎌倉時代の末法感を幼傍とさせる。
このような状況の解決は,本来社会科学の任務であるが,現在のように混迷している社
会では,社会科学も「ゆらぎj の中にさらされる。そしてこのような末期的状況は,本来
の人綴にとっては,「虚構の世界j である。このような時代に,迂遠なそんざいとして斥け
宗教 j は,逆にリアリズムの鍵を握り,「車三綴手J(大塚久雄防士
られてきた「思想」ゃ f
会科学の方法j 岩波新参)の役割を来たす。現在の仏教思想、に期待をかけるのも,その点
本仏教福祉思想史j
からである j前掲設
r
s
4
9
仏教と被右上
解を示している。
宗教的慈善においては,ただ施しをすること( almsgiving)自体が日的であって,
相手が果たしてそれを望んでいるか,あるいは真にそれを必要としているか,また
相手にどんな影響を与ええるかは全く関心の外に置かれる回。
このように宗教者の行う慈善事業が主体者側の必要性にしか基づいていないことを
指摘した上で,河村は,国家主体の社会福祉を次のように肯定的に評価している O
救済を受けるものが何を必要としているかによって彼ら(対象者)を分類し処遇
する。これは大げさに言えば,社会福祉におけるコベルニクス的転換を意味する 16)
つまり国家主体の社会福社は,対象者の要求を把握した上で、その処遇を行っている
のであり,動機により救済事業を行っている宗教者の福祉事業とは逆であるという。
表1
府 県;
g
,
団体数
府県名
間体数
府県名
団体数
東京
2
4
静岡
5
向山
4
京都
1
4
滋賀
1
2
広島
1
2
6
6
大阪
1
1
l
岐阜
4
山口
神奈川
5
長野
4
和歌山
兵庫
2
0
宮城
3
徳島
長崎
6
福島
2
委
新潟
7
青森
1
愛媛
3
埼玉
1
山形
5
格岡
1
0
群潟
2
秋岡
1
8
大分
1
子主芝
4
裕井
5
佐賀
3
茨城
4
石川
6
熊本
4
栃木
2
富山
3
宮崎
1
三重
3
鳥取
2
鹿児島
1
愛知
1
7
富山
6
合計
2
5
3
i
l
l
1
5
9
5
9
年
, 2
3頁
1
5
) 附村議夫『社会福祉学(総論) j 柴問書店, 1
1
6
) 前掲窓 4
4亥
5
0
偽教大学総合研究所紀姿
主~15号
同村の社会福祉理論は,被救済者の立場に立っている点で宗教的慈善より方法論的に
も擾れているとしているのである。
確かに,このように腔史的に脊まれてきた宗教的福祉の立脚点と近代社会福祉のそ
れとが異なることは,なぜ福祉における「宗教性j あるいは「仏教性」の意味が無視
され,その結果,仏教を含めた諸宗教家による福祉事業が国家の管理下に設かれ,脱
宗教色の運営が求められるようになったかを示す有力な視点の一つであろう。
しかし宗教家による長い段史を持つ土着的社会的実践の「宗教j的役割が,なぜ
戦後新たな社会福祉理論に圧倒されてしまったのかという疑問が次に浮かび上がる。
言い換えれば,宗教家による慈善事業が,あるいは,宗教家による社会的実識が宗教
的欲求の充足の役割は対象者(被救済者)にとって実際,意味がなかったのかどうか。
次章では,関村の直義的な批判の対象となった明治・大正期の慈善事業について,仏
教性を中心に:再検討を行なってみよう。
この章の最後に,社会福祉の歴史を振り返って吟味することの意味も確認しておき
たい。菊池正治は社会福祉の歴史を学ぶ重要性を次のように述べている。
世界の社会福祉も, 20世紀末,少子高齢化社会を背景にして社会福祉改革と名を
うって大きく変転してきた。第二次大戦後,社会福祉は大きく変わったが, 1
9
9
0
年
代の「平成の福祉改革」は戦後改革の総括と時代に即した改革を日指しているとい
われる。時代にミスマッチが生じた時,改革が必要であることは確かだが,それが
明確な哲学,人関観,文明間,将来へのビジョンがないとき結采として悲劇を招く
ものである。国際化と由民国家の狭間にたって,まさに新しい「開問jが迫られて
いる状況である。決して拙速であってはならないし今ほど壁、史から学ぶことの重
要な時もないのである的。
日本の社会福祉は,思想的にも技術的にも宗教を含め,あらゆる思想の影響を受け
ながら発展し成立してきたと蓄えよう。今後もなされる福祉改革が,
f
悲劇を招く J
ことがないようにするためにも歴史の見直しは重要だと言うことになる。
第 2節
明治・大正期大阪における慈善事業の先行研究とその批判的検討
1 慈善事業謹盛の状況
1
7
)
菊池jfi台 5 日本社会福祉の E妥当~j
ミネルヴァ書房, 2003年,
4真
5
1
位、教と福祉
表2
名称
都立年月日
1
翠バルナバ病院
1
8
7
3
.
7
施療
2
大阪養育 i
淀
1
8
7
9
孤児収容
3
小林授産所
1
8
8
5
.
1
1
授産・食民収容
4
大阪婦ー人妙、好会
1
お6
.
2
応援団体
備考
5
大 絞 首i
源院
1
8
8
7
6
大j
茨慈悲病院
1
8
8
8
.
6
.
1
2
施療
7
大阪婦人慈善会
1
お8
.
1
1
応援団体
8
袈ヨハネ学関
1
8
8
9
.
1
2
孤児収容
大谷派婦人法話会支部
1
8
8
9
応援団体
1
0
9
1
事愛宇土
1
8
9
0
.
1
.
1
孤児収容
1
1
愛育担:
1
8
9
0
.
1
1
孤児収容
1
2
翠ヨゼフ教育院
1
8
9
0
.
9
.
1
孤児収容
1
3
愛育社大阪事務所
1
8
9
1
.
9
.
1
孤児収容
1
4
大阪孤児院
1
8
9
1
.
7
孤児収容
1
5
愛隣夜学校
1
8
9
3
.
l
貧児教育
1
6
大阪愛育宇土
1
8
9
1
.
7
孤児収容
孤児収容
1
7
大阪慈悲;院
1
8
9
3
.
1
1
1
8
主主義新報社
1
8
9
4
.
8
1
9
大阪愛隣館
1
8
9
8
.
1
孤児収容
2
0
i
J
L愛扶殖会
1
8
9
6
.
5
.
1
3
孤児収務など
食児教脊
2
1
初陽学校
1
8
9
8
.
2
2
2
婦人矯風会支部
1
8
9
9
.
5
.
2
8
2
3
輿5
t
l会
1
9
0
0
.
1
感化教育
2
4
愛関婦人会支部
1
9
0
1
.
3
軍事援護
貧民収容
2
5
大阪救育所
1
9
0
1
.
6
2
6
岡山孤児段大阪事務所
1
9
0
2
.
3
.
1
2
7
大波養老 i
淀
1
9
0
2
.
1
2
.
1
去を老
2
8
植村救育所
未設
孤児収容
2
9
棄児主主成館
未詳
孤 児i
収容
官j
,教大学総合研究所紀望号 第1
5
号
52
池田敬正は,明治・大正期において大阪の慈善事業が全国に比して盛んであったこ
とを,慈善団体数の詳細な分析によって明らかにしている。池田は,社会福祉調査研
究会編?戦前期 社会事業史料集成j に収められた?会悶慈善大会史j (
第 1回全国
慈善大会の記録)の中にある,「1
9
0
2 (明治3
5)年 4丹調査の全母慈善団体の名簿j
を用い,慈善 i
主体数を府県別に表にしてまとめている(表 1。
)
その数は傾向として大都市をもっ府県に集中している。池田は,大販には 1
1団体あ
り,同じ関西である京都の1
4や兵庫の2
0よりも多いとはいえないが,全国に占める大
阪の慈善事業の比重は大きいと主張する。なぜなら「大眠府が必ずしも多くないよう
に見えるが,大阪婦人会(1
8
8
8年1
1月創立)や大販婦人矯風会(1
8
9
9
年 5丹創立)の
ように施設を持たない応援団体を,この名簿に入れていなかったからである」 18)。例
大阪府は 1
1のうち 1
0ヶ所が施設であったが,隣接する京都府は1
4のうち施設は
えば f
6ヶ所であった j
l
9
。
)
さらにこの時期慈苦ェ事業施設の中心的な役割を果たしていた児童の収容施設数に
ついて,大販府と,東京府・愛知県・京都府ー・兵庫県の 4府県とを比較している。池
田は,大阪府では児叢収容施設数が 7あるのに対し東京府 6 (うち Iは公共施設)・
愛知県 4 ・京都府 2 ・兵庫県 6であることを指摘し大阪の慈善事業の先駆性を主張
する。
さらに他の史料を用いて, 1
9
0
2 (明治3
5)年末現在に所在したと考えられる慈普
A
J
全国慈善大会史l
.(1904年>
. r
大阪慈
善事業の鳴り菜j (
1
9
1
7
年>
.r
弘済院6
0年の歩みj,矢島i
告 f
明治期キリスト数社会事
業施設史研究J
.r
大阪府史j などの史料から, f
全国慈善事業大会史j の慈善団体以
団体の一覧を作成している(表 2)。池田は,
外の慈善事業図体の存在も明らかにした。慈善由体は,創立年や所在地不明まで含め
ると 2
9ヶ所ある。そのうち児叢の収容施設が慈善施設団体の半数を占める 1
3ヶ所ある。
池田は,慈善事業団体数の考察から,大阪の慈善事業の先駆性を位置づけた。一方,
各地域における明治・大正期の慈養事業の隆盛を証明するには,他にも,慈善事業団
体が救済した人数で、も述べることができる。ただし救済された人数の資料が残され
ていない施設・団体があり.大甑全体の人数の把握は困難で、ある。従って,被救済者
の人数は,特定の施設に眼定されている。
平田陸夫は「明治時代における大阪の貧民施療事業jで
, 1
8
9
0年から 1
9
0
5年までの
京都府立大学学術報告j 人文,第
1
8
) 池田敬正「近代日本における怒妻子事業の形成と転形Jr
3
7
号
, 1
9
8
5年
1
9
) 前掲論文, 8J
i
f
仏教と福祉
5
3
大阪慈恵病院の患者数の延べ人数をあげている。大阪慈悲病院は, 1
8
8
8年,主に大阪
の庭師らによって設立されている。民間病院であり.大阪の実業界の中心人物にぞの
財政を支援されている。施療や救済の対象は,大販慈恵、会会員から詔介を受けた大阪
府下の貧関患者および災害のために負傷した者であった。
平田は,大i
授慈恵病院について患者数の比較ではなく,この時期の行政側の政策と
比較している。「(行政側の)症療保護の政策が行旅病者に限定されるきわめて制限主
義的であったのに対し(大販慈恵病院は)会員の紹介だけで医療保護の対象たりえ
たj と述べている。大販慈恵病院の会員とは慈恵会会員のことで,当時2
0
0
0人余りい
たという。大販慈恵、病読が2
0
0
0人の会員の結介者が救済する対象であることに対して,
行政側が行旅病者に限定している。このことが大阪の慈善事業の受け入れの縞広さを
証明しているという。
また,菊池義明は「東北三操凶作における救済施設等の収容活動に関する研究 IJ
において, 1
9
0
5年に起こった東北三県凶作に対する他府県の救済活動の状況を明らか
にしている。氏によると,東北三県凶作は多くの窮民を出し孤児と老人の施設収容
を必要としていたが,この事態に,関山孤克院を初め西日本などの救済施設等が多数
収容しその数は判明しているだけでも 2
0
0
0人(3
5
施設)を超えていたという。その
救済活動を大阪養老院も行っていた。
大l
反養老院は, 1
9
0
2年岩田民次郎によって設立された養老施設である。菊池の東北
三県凶作の一連の研究によると,同協は東北仮収容所に老人と孤児 1
1
7人を収容して
いる。それまでの収容者の約 5倍もの孤克を引き受けているが,財政的にうまく乗り
切ったことも含めて,大阪養老院における慈善事業の多様性が評価されている。
以上のように,明治・大正期大阪における慈善事業は,慈善事業閲体数とその回体
の救済者数から分析した場合,全国に比して経盛であったと推測されているのである。
しかしこれだけでは慈善事業の経盛が証明されたとまでは蓄えない。王子田による
慈善事業団体の救済者数は,病院の患者数であり身体的な救済である O また,菊池に
よる養老院の救済者数も,孤児の引き受けということで,それは身体的救済と経済的
救済を意味している。ここに欠けている精神的救済についての分析については,明治
以前の「仏教と福祉」めぐる研究の中に確認することができる。
三宅敬誠は「仏教と福祉jの研究について次のように指捕する。
残念なことは,仏教社会福祉を論じている者は,ほとんどすべて仏教側に立ち,
仏教精神を尊重しまた仏教を顕正し仏教精神でいかに社会福祉に貢献するかを志
5
4
係数大学総合研究所紀要第1
5
号
向しているにもかかわらず,現代のわが闘の社会福祉それ自身の概念やカテゴリー
に,何の疑問も感じず,そのまま,素蜜に受け入れていることであるお)。
そのため,わが国の仏教が果たしてきた過去の慈善事業の授史的救済の事跡につい
ての研究には歪みがあったという。三宅は,その歴史的研究の事例として,鎌倉期に
おける仏教の慈善についての研究,松野純孝の論考「鎌倉仏教と慈普ー救済j と,それ
に対して焼間を景する池見澄睦の論考をとりあげ,その歪みについて論じている。
松野は.「専修念仏を打ち出した源空や親驚を初め,開じく鎌倉新仏教を唱えた日
蓮,道元等には,このような(行基や空海,叡尊や忍、性などの行った濯瓶施設作りや
架橋工事など)慈善救済は見られぬといってよい2勺と論じた。松野に対して, j
也見
は,「慈悲」の行としての救済が存在したとして反論している。
このように,仏教の救済事業が,架構工事や i
援蹴などの社会事業だけではなく,
「慈悲」の救済といった内的な救済も行っていたことは重要だ。しかしその概念を
明治・大正期に置き換えたとき,日本の近代化と宗教改革に関わる問題が起こる。
マックス・ウェーパー的な問題意識制をもって,日本の資本主義化としての近代
化と諸宗教との内面的な結びつきを明らかにしようとする研究では,日本の近代化に
宗教が関係しているという立場と,ルネサンスや宗教改革を経験していない日本では
宗教を核とした近代化はなされていないという立場がある。こうした視点は,
f
仏教
と福祉j研究において,近代仏教の精神的推進力を知るためには有効となる。次のよ
うに吉田は後者の立場を取るが,それに対して「仏教と福祉j研究の立場からの反論
はない。
例えばヨーロッパの中世カリタスが,宗教改革によって「禁欲Jや「緊張」をて
こに内面改革し新しい
r
t
t
1
俗性j を生み,「博愛jが生まれる如きである。日本
では米騒動後の社会状況や大正デモクラシーに牽引され,「連続性」の条件が整い
ながら,その大正社会事業も{華々 20数年で戦争下に破産したお)
2
0
) 三宅前掲筈:「宗教と社会福祉の思想J1
9
0頁
2
1
) 松野総孝 f
鎌倉仏教と慈善救済J;仏教と福祉jj
奨水社, 1
9
9
4
年
, 1
9
9頁
2
2
) 小笠原呉氏によると,「マックス・ウェーバーは論文[プロテスタンテイズムの倫潔と資
本主義の精神〕において,カルヴィにズム,パプテイズム,およびその他の禁欲的プロテ
スタンテイズム諸派の経済倫理(=エートス)と,近代西洋における資本主義発展のいわ
ば精神的推進力となった資本主義の精神との防に存夜する内面的関連性を究明し禁欲的
ブロテスタンテイズム諸派が資本主義の紛争1の形成に対して決定的な促進的影響を与えた
と主張している J(
f
近代化と宗教j
)
4
J
'
Y
2
3
) 前掲設許士会福祉と日本の宗教思想j4
5
5
仏教とも百社
明治初期,日本はイギリスの救貧法であるエリザベス救貧法を導入する。それは.
キリスト教の中でも特に宗教改革を経過したプロテスタント社会事業の日本への導入
であり,初めから概念的に近代化されていたといえる。吉田は,そのような時代に,
近代仏教は,思想面において救済事業の成立に寄与するような仏教教義の近代的解釈
をほとんど行わなかったとして,仏教による宗教改革の欠如を指摘している。
ただし大正デモクラシーを背景とする「社会事業j に,わずかに日本の福祉思想
の「連続性jがあると述べている。その思想を打ち立てた者として,渡辺海地,矢吹
慶輝,長谷川良信の 3名を挙げている 024)しかしそれも 2
0年もたなかったという。
宗教改革が欠如した理由について吉田は触れていないが,陪じ宗教改革欠如の立場
として,ウェーパー自身の次のような説から理由付けすることができょう。すなわち,
日本人の生活態度の?精神j に臨有の性格は,政治的・社会的構造の封建的性格によ
って形成されているが,その封建制が市民層の発展を租止してしまった,という説で
ある。
吉田とウェーパーの解釈を総合的に判断すると,明治・大正期の仏教者による慈善
事業は,内面的な救済の活動が消極的であったことになる。しかし背景には,「政
治的・社会的構造の封建的性格Jによってその発展が妨げられているといった理由が
あったのだ。従って,近代の仏教慈善事業における
f
仏教性j の位置づけは,人ぴ、と
の内的な救済の面ではなく,仏教精神の発露としての動機にあると,ここで言うこと
カまできる。
2 慈善事業隆盛の背景
大阪の慈善事業の拡がりの背景には何があるのか。池田は,大販の慈善事業の拡が
りは,資本主義の発展がもたらす社会問題への対応、という側面が大きいと指摘してい
るお)。ここでは池田の宮説に基づいて,慈養事業の背景にあった社会問題を考察して
いく。明治 19年から大正 7年の東京と大阪の人口集中を比較すると,ともに明治維新
により人口を一時減少させながらもまもなく増加に転じる。ところがその増加率は大
阪のほうが高かった。この人口の急激な増加が,大阪の商工業都市としての経済的発
展を示すものであろう。紛
f
報,怒行J
,矢吹慶線氏の「述千r
r
共同 J
,長谷川良信氏の「感恩奉仕 j は
,
仏陀の法に対する「恩Jを近代的に,「世界的視野jで解釈している。その解釈である「衆
生恩Jの考え方は日本資本主義が独占化するころから,資本主義に相対する 1つとなって
社会福祉と日本の宗教思想j 9
9
f
f
f
)
いた。( f
2
5
) 前掲警「近代日本における慈善事業の形成と転形Jr
京都府立大学学術報告;
2
6
) 前掲論文 8頁。具体的な人数をあげると, 1
8
7
0年の大阪府の人口は3
0
万 7千人余りであ
2
4
) 渡辺海旭氏の
5
6
世i;教大学総合研究所紀要書~15号
その発展については,近藤文二が「明治初年の大阪における救貧授産事業jで述べ
ている。近藤によると,大阪の商工業と都市としての急激な発展は,明治維新後の経
済のある変化が影響している。すなわち,「明治維新後大販の経済は,蔵屋敷の廃止
や政府による御用金徴収などもあって江戸時代に見られた商業・金融面での繁栄は次
第に衰退していったが,代わって結綴業・鉄鋼業・造船業などの近代産業が発展し,
新たに経済発展し始めたj といった近代産業への変化で、ある。加えて「 1880年代後半
から日本最大の都市として,工場数と労働者数が最も多い都市となっていく j と述べ,
この勢いは
f
東洋のマンチェスターj と呼ばれるほどであったという。
しかし大阪の経済発展と人口集中による商工業都市化は,大阪に流入してきた者
に深刻な問題を与えることになる。池簡は続けて説明する。
ところがこの成長(商工業)に持表裏して深刻な貧困がもたらす社会開題を惹起
させる。無産の賃金生活者の都市集住は,なにか事故があればただちに独立した生
活が困難になる階層を多数輩出させた。こうした人たちは,これまでの地域や家族
の桔互扶助が残っていた農村部から,それを離れて都市朗辺に移住してきたのであ
るから,社会保療制度がないこの時期にあっては,失業・病気・高齢化は直ちに生
活|翠難をもたらすであろう 27。
)
明治維新によって新政府が誕生するが,この幕藩体制の崩壊で大阪にも新しい行政
組識が形成された。古白久−
f
日本貧闘史j によると明治時代の大阪の生活困窮者は
2割近くに達しているが,明治から昭和初期にかけて,政府は社会問題に対する社会
{呆障を行っていなかったという。
貧困問題に対する政府の対応政策としては,幕藩時代に機能していた貧困救済制度
は組織・機能の崩壊によって機能しなくなり
明治元年に太政宮の高札が出され,そ
の後内務省の設置によって 1
8
7
4 (明治 7)年に近代日本として最初の救賃制度であ
る憧救規則が成立する。しかしこの規則の対象者は「鯨寡孤独j の「無告窮民j で
あり,厳しく限定されていたため,救済される人はわず、かで、あった。大肢には,相互
扶助も社会保障も受けることができない者が多く存在したということになる。
しかしながら I節と向様,大販に住む人々が,白に見えず数字に表れない精神的国
る
が
, 1890年には 136万8061人であった。人口はその後大正末には市のみで200万人台となっ
)
。
ている(?大阪社会労働運動史・戦前編上J4頁
2
7
) 前掲論文 9頁
仏教と福祉
57
窮を抱えていたことを忘れてはならない。そして,その密窮は慈善事業によってどの
ように解消されたのかについて見ていく必要がある。
例えば,江戸時代末期に創唱された黒住教・天理教・金光教は,教祖の教えの独自
性が核となっているが,その背景に庶民信仰との影響に関係をみることもできる。黒
住宗忠の伊勢参り,中山みきの金光大神は,山伏行者やお鎚信仰お)の先達との交流
のなかから自ら啓示を受けるようになっている。弓山達也は,教団側では教祖の独自
性や革新性を強調する場合が多いが,当時の庶民信仰の要素を無視しては教祖の教え
は理解できないと述べている。
事!?宗教,特に「第一次宗教ブーム j と呼ばれた幕末維新期の新宗教は,ある日突
然新たな装いで現れたのではなく,こうしたごく普通の庶民の宗教的世界から生れ,
組様化されたという見方もできる。教強も宗教的なエリートではないし信者もご
く普通の人々が中心であった…むしろ私たちが考えるより,ごく普通の生活感覚で
信仰に関わっていたのではないかと想像するが,これなどは新宗教の「新」とは何
かを向い置すこととともに,新宗教研究の今後の課題といえよう刻。
この時期の新宗教は,新しく成立したのではなく,「民衆の宗教的世界Jから生ま
れたと解釈できるという。ここで,民衆の宗教的世界はその人の中ではぐくまれてい
くものの,それに対してその地域の雰間気というものが影響してくる。そのような意
味で,新宗教とは,その土地に根付いた宗教的世界の現われとして解釈することも可
能である。
さらに,その新宗教は何を行ったのか。例えばこの時期に第二次宗教ブームともい
うべき活発な新宗教の活動が見られる。第二次宗教ブームは,西欧列強の仲間入りを
果した臼本が,太平洋戦争に突入しようとした時期である。弓山達也は,この活動の
特f
設を 3つに分けて説明している。
第ーには,明治後期に生まれて大正期に拡大した大本と太霊道をあげる。このこ
教団は霊の操作による病気治しゃ社会への働きかけで注目を集めた。第二には,大
本と天理教の分派であるほんみちが,強い終末預言を唱えて t
!
t掲の耳呂を集めたが,
2
8
) 石鎚信仰については,個別宣言山信仰史や遊行宗教者に関する多くの研究成条を蓄積して
いる西海賢ニ事~
ヨ鎚山と瀬戸内の宗教文化j に詳しい。
2
9
) 弓山達也 f
1
室
経
柔
!
?
間j 宗教摘で「よくわかるシリーズ j新宗教部門
n
5
8
係数大学総合研究所紀姿第1
5
号
昭和三年と十三年に大規模な取締りを受けていること。第三に昭和初年のひとのみ
ち教団(現 PL教関)と霊友会の大都市で発展したことと,昭和十一年に取締りを
受けていること。この 3つである制。
現人材!として天皇を頂点に置いた日本は極めて神格的国家の忽彩が強いが,旧憲法
では「信教の自由」が挙げられていた。しかし国家の論理に対立し組織化された教
聞は,不敬罪や治安維持法を中心に徹底的に取締まられていた。新宗教の特徴は,弓
山の述べる霊験による救済活動を抜いて説明することはできない。新宗教の隆盛の背
には,その f
霊験Jに救われようとする人,そして救われる人が存在していたので
ある。
しかし仏教の慈、普ー事業は,新宗教とは異なり「霊験j によって救済することでは
ない。仏教者による社会事業理論は,近代化に伴う慈善事業から社会事業への変遷の
中で講築されてきた。そこでは,仏教の役割について宗教活動と救済事業が分けて説
明された。それゆえ,仏教学による「仏教慈善事業j は,宗教活動とは区別された救
済事業となるのである。すると,この時期の仏教者は,精神的救済活動は宗教活動の
中で行い,慈善事業の中では行わなかったということになる。
さて,民衆の宗教的世界の中に仏教的な要素が含まれているとした場合,仏教の概
念は拡がる。特に大販に根付く聖徳太子への信仰は,民衆の宗教的世界が現れている
と解釈できるだろう。仏教者は,慈一普事業の中で,一応,精神的救済は行わなかった
と吉えるものの,宗派に属さない仏教者による慈善事業についてはそうは言いきれま
い。国家との関係を意識する仏教教盟ではなく,仏教によって宗教的世界(仏教性)
を刺激された人々による慈善事業を研究する意義はそこにある。
3 畏閣の力
日本の慈善事業が拡がったのは,明治の後半であるとされている。内務省統計によ
ると, 1
9
1
1 (明治4
5
):
¥
1
2月末現在の全国の救済施設は 550を数える。そして設立年
次が明確な 547の施設のうち, 1897 (明治30)年以前から存在したのは 136 (25%)で
ある。池田敬正は
r
s本社会福祉史iにおいて,「慈善事業が児輩施設を中心に明治
の広範にとりわけ拡がった事はあきらかである j とし内務省統計の結果をもとに,
7索「分派教団における救済の論理E
一天理教系数回の場合…Jr
救済の論理と
9
9
4年
心理j (宗教心瑛思想研究会編)ノンフツレ社, 1
3
0
) 弓I
l
l達也
仏教と福祉
5
9
慈善事業が活発に行われる時期を明治後半としている。
しかしこの統計は全留についてである。地域ごとに分析しなおすことで多少なり
全国との差は明らかになる。現代の社会福祉学は,地域研究に次のような意義を求め
ている。
社会福祉の麿史も様々な分野に分かれているといってよい。例えば外国の社会福
祉の歴史と日本と大きく分かれる。日本においての通史のほか,地域部の歴史,見
童や老人障害者,医療などといった分野加の歴史,あるいは社会福祉の縫製史,
製作史,施設史,理論史,思想史,処遇史,技術史などと分けられるであろう。…
また人物氏という研究分野がある。…近代日本に限定しておくことにする。…今後,
社会福祉が地域として密接に関係を有している以上,教育史などと同様,県別や市
町村別のものが必要であろう 31)
社会福祉事業は,国家の管理下に置かれ,その指導のもと規定に従って行われる。
しかし社会福祉事業は留の管理下に置かれる以前から,慈善事業という形で存在し
ていた。そして,その慈善事業 l
土地域の中で長きにわたる変還を経てはぐくまれ,そ
こに根付いてきたという麿史がある。社会福祉の康史は地域によってその成立過程が
異なる。そのような意味で,議議事業を研究するときその地域性を無視することはで
きない。
近代大阪の慈善事業について詳細な研究を行っている池田敬l
Eは,大阪の慈善事業
の研究を次のように意義付けている。
1
9世紀後半に入つてのロンドンにおける慈善事業の組織化を結実させた 1
8
7
0年の
慈善組織協会の発足がイギリスの社会事業史にとって重要な位霊を占めるように
日本では, 1
9
0
8年の中央議善会とそのきっかけとなった 1
9
0
3年大眠中之島公会堂で
開催された日本最初の慈善事業関係者の全国集会が研究の第一に置かれる鉛。
重要な大会が大政という地で行われていることから大波は慈善事業発足の地という
ことが出来ょう。大阪を研究する際,この点を念頭に研究する必要がある。
3
1
)
前掲誉;日本社会福祉の歴史j
3
2
) 前掲論文「近代日本における慈善事業の形成と転形J1 2
J
芝
ω
偽主主大学総合研究所紀要
第1
5
号
表3
回数
議官3年
目
寺
関f
佳地
受講生数
講師数
(
名
)
(
名
)
1
第 1劉!惑化救済事業講習会
明治4
1
東京市
3
4
0
3
5
2
第 2問
明治4
2
東京市
1
2
8
1
9
3
第 3限
務治4
3
東京市
1
1
4
1
5
4
第 4回
明治4
4
東京市
9
2
1
8
5
第 5剖
大正光
東京市
1
4
5
2
2
6
第 6問
大正 2
東京市
1
6
3
1
7
7
第 7回
大l
E3
東京市
1
3
6
1
4
8
第 1@]感化救済事業地方議潔会
大正 4
大阪市
1
9
6
1
4
9
第 2図
大正 4
1
1
!
1台市
2
0
4
9
1
0
第 3回
大 lE5
福岡市
1
1
1
1
0
1
1
第 4鴎
大正 5
名古屋市
3
4
4
1
0
1
2
第 5潤
大 lE5
札幌区
2
1
4
8
1
3
第 6問
大正 6
広島市
2
1
5
1
1
1
4
第 7回
大正 6
金沢市
2
1
1
1
0
1
5
第 8@]
大l
E7
東京市
1
2
7
1
0
1
6
第 9@]
大正 7
京都市
2
7
8
1
0
1
7
第1
0図
大正 7
新潟市
1
7
4
8
1
8
第1
1回
大正 8
熊本市
1
9
4
7
1
9
第1
2
@
]
大正 8
岡山市
3
7
1
9
2
0
第1
3回
大正 8
津市
3
0
1
8
2
1
第1
4回
大正 8
秋E
H
r
有
1
4
4
1
1
2
2
第 1回社会事業講習会
大l
E9
宇都宮市
3
4
6
1
0
2
3
第 2関
大正 9
}}予防市
2
0
4
1
0
2
4
第 3悶
大正 9
長崎市
2
1
3
1
0
2
5
第 4悶
大正 9
高知市
1
5
7
6
2
6
第 5回
大正 1
0
岐阜市
4
0
5
1
0
2
7
第 6図
大l
E
l
O
和歌山市
4
6
8
1
0
2
8
第 7図
大正 1
0
札幌区
2
6
1
8
2
9
第 8回
大正 1
1
東京市
1
4
0
1
0
仏教と福祉
6
1
このような大阪の特徴を踏まえ,池田は,詳細は述べていないが,明治・大正期の
大阪の慈善事業の睦盛の土台を「江戸時代以来の岡I
入社会の自由な雰屈気がもたらす
慈善心」に置いている。そこで,近代の大阪人の気費に関する永問正己の記述を参考
にしたい。
実践主体の側から見ますと,江戸時代から大阪は商業都市として自由な進取の気
風があり,中央に対して在野的な精神がありました。慈善事業を見ましでも町人の
文化に根ざしたような現実主義的で柔軟な取り組みがありましたお)。
大政人の町人気質とは,現実主義と柔軟性である。続いて永岡は,そのことを具体
的に述べている。
大阪らしさというのは,そういう自由に柔軟に現実的にどんどん取り組んでいく,
制度や理論よりもまず問題にぶつかつて,そこから理論化してゆくというところが
あります。…大阪は「まずとにかくやってみようゃないか」という割合が多かった
と思うのです34)0
大販人は,慈善事業では,行政側の思想に流されず,自らの主義主張を持って議論
を展開していった。そしてその背景には,大販独自の民間性というものがある。大阪
の民閣の力は,自由的と主体的なボランテイア精神によって発揖されていると解釈さ
れている。
大阪の民間の力はこのように説明されてきた。では,大阪人の気質を持った「民
間Jが,いったいどのような事業を行ったのか。それを知るためには,さらに事業の
担い手についての兵体的な調査が求められるだろう。
では,どのような立場に立つべきか。
先の研究では, W入としての気質を大阪の気質としていた。しかし慈善事業に限
定した場合,その気質について町人性を示すだけでは不十分である。この点は,明
治・大正期の大販の社会事業発展の指導的存在である小河滋次郎による,大販の慈善
事業についての次の指摘でより明らかになる。
r
3
3
) 永伺正巳「なにわの福祉とボランタリズム一大阪社会福祉の源流をたどる…J 大阪市社
4,
号 2
0
0
1年,ふ6
頁
会裕社研究j 第2
3
4
) 前掲論文, 6J
r
6
2
{語教大学総合研究所紀要第1
5
号
尚他の一つの特色として挙ぐべきものに救済事業の上に加へられて居る婦人のカ
のことがある。林歌子女子の経営している婦人ホーム,浄土宗に相の経営せ累徳、夜
学校,浄土宗信者である某富豪の夫人が経営せる心叢夜学校の如きがそれである。
又た愛国婦人会も他の地方では活動が鈍いが,大阪で、は授産場杯を作って接んに活
動して居る。林女子は婦人ホームに於いて,婦人の機業紹介,堕落婦人の救済等に
努むる外博愛社といふ脊見践にも力を入れて居る。前記の心華夜学校を経営する女
史の如きは信仰も厚仁慈善狂と云はる、程救済事業に熱心なるをもって聞こえて
居る 35
。
)
小河氏が指摘しているように寺院組織が慈善事業の拐ぃ手として地域に密着しな
がら展開している場合がある。仏教に隈らずキリスト教でも向様だが,宗教者による
慈善卒業が多い背景には,社会福祉史における日本の特殊性が関係している。それは,
慈善事業から社会事業へと「近代化」する一段階のなかに認められる屈家による感化
救済の時期のことである。
感化事業の時期とは,国家権力を背景とする天皇制や共同体性を重視する救済事業
を行った時期のことであるお)。この時期の救済事業は,留から民間へ委託されるかた
ちで、在われている。その民間事業の思家的育成として 1
9
0
9 (明治4
1)年,感化救済事
業講習会が開始されている(表 3)。もちろん講智会の講義は,天皇制イデオロギー
を讃極的に導入した内容となっている。また, 1
9
0
8年から全国の感化救済事業に対し
て,奨励助成金を下附している。講習会開鑑や奨励助成金の交付が意味するものは,
政府ーの救貧行政の手薄さを代替えする民間人の国家的育成にあった。このことについ
て一番ヶ瀬は
f
とりわけ,奨励助成金の内容は,個々の施設にとって決して十分なも
3
5
) 大阪の社会福祉を拓いた人たち編集3
委員会編
5
大阪の社会福祉を拓いた人たち j 大阪の
民間社会福祉事業の先裁に感謝する会, 1
9
9
7年
, 2
2夏参考
3
6
) 路島巡は,院本における社会事業の発展段階は,欧米認淘に比して「慈慈:
j
;
f
i
!;長→社会事
芸誌→福祉事業Jの三段階であるとし 臼本社会徳社発主主の三段階論を提起した。その三段
階論に基づいて,古図久ーは f
日本社会事業の歴史Jにおいて,慈善事業と社会事業の関
に感化救済事業期を付け加えた。吉岡によると,感化救済事業期の特徴は,「鴎家権力を背
景とする天皇制や共戸j
体性を重視する救済事業」を実施したところにある。三吉田のその評
価を受け入れ,一番ヶ瀬康子は,「わが留における社会福祉の歴史は,歌米諸国のそれに比
して,慈善事業・社会事こ業・社会福祉の段階をへて展開したのではない。わが殴に於いては,
慈善事業と社会事業の中間に,“感化救済事業”という特有な段階が存在しそれが媒介と
なって社会事業への移行がなされたところに注白すべき点が見られる」さらに f
行政側の
発怨による政策的なものである。それは国家有機体説にもとづく共間体としての尽家観に
よるもの」であると,日本が特殊的な「近代」に規制されていることを切らかにしている。
このように,日本の特殊性は,感化救済事業の i
時期に見出すことができる。
仏教と裕社
6
3
のではないものの,これをもって,政府の救済事業への積極的姿勢であると国民に対
して宣伝を行い,’蝋救規則経費削減の削減を隠蔽した Jと述べている。吉聞によると,
この講習会には仏教徒が最も多く参加していた。
大阪も例外ではない。国家の感化の影響は;救済研究j にもみられる。先の講習会
の講師を勤め,自らも慈善事業を行う留関幸助は「予の感化事業に就て j
3
7)の中で\
自らの事業体験をもとに宗教家による救済卒業を奨励している。
本事業はその設備との関係上貧民窟内に数合及寺院を有する宗教家の饗起により
その殿堂を開放して教職者自ら其監督者たることを得ば只濁り貧民挙校の幸福なる
のみならずまた以て宗教そのものに生命を附する所以にはあらざるべきか敢て宗教
家諸氏の猛省を望む。
国家の民間人育成は,宗教家だけにとどまらない。例えば,内務省神社局長法学博
士井上友ーは,宗教家によるさらなる民間人育成を促している。
救済事業の趣味寧ごろ興味と云ふても宜しいが成程是は菌白い仕事である,斯憂
い府ことに意力し斯ういふことに金を出すのは家の矯めにも立しまた社舎の矯め
にも結構なことである,新ういふな精神をもう少し宗教方面の側からも御話を矯さ
って裁きたいと思府,詰り,救済事業に封する救脊をやって欲しい…いろいろな方
便で世ー人を一つ数育して欲しい,袈裟を掛けて結構な話をして下さる方には此事を
特に御願ひする,是は我々共が洋服を着て申すよりも非常に効能が多いのですから
特にお願いするのであります刻。
日露戦争から明治末にかけて国家の財政が厳しくなり,大正期,第一次世界大戦に
よってさらに貧留者は増加する。そのような時代背景をもっ感化救済期,政府の呼び
かけを契機に宗教者による救済事業は,より思想、活動・事業活動共に活発になって
ゆく。
大i
哀の民間の慈善事業の担い手もまた,このような機運の中に多く輩出した。最も,
仏教関係者による慈善事業は,感化救済期より前にも確認することができる。しかし
3
7
) 留閥系‘助 f
救済研究j第2巻,第6号
, 5
9
頁
, 1
9
1
4
1
!
三
3
8
) 井上友一「救済所見談j二,宗教家と趣味の普及 5
救済研究j第 1巻,第 4
1
,
子 1
0
1頁
,
1
9
1
2
年
6
4
係 数 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 第1
5
号
感化救済期,講習会に参加したことにより,仏教者やその時期の教由方針に従う仏教
者に感化された民間人が新たに救済事業を手がけ始めているのである。
仏教者による慈善事業は宗教活動とは区加された救済事業を基としているが,この
時期に限っては教化が許されている。その教化が布教的なものか吾かについては,史
料からは確認できなかったが,仏教者の教化が人々の信仰心を触発し救済事業を開
始させるに至ったと考えることは可能である。その人々がどのような事業を展開して
いたのか,また,民間の力はどうであったかについては,そうした人々による救済事
業の研究から説明することができるだろう。
第 3節
明治・大正期大阪における慈善事業の担い手と宗教
先述のように,仏教社会福祉事ー業の現状は,その中で宗教性,すなわち「宗教とし
ての仏教Jを排除する傾向がある。行政側の政策と,それに対する近世・近代の仏教
者側の在り方にその原因があることが先行研究によってすでに暁らかにされていた。
現在の行政側の政策は,社会福祉事業から宗教色を排除する戦後の岡村のアメリカ
主義に立った理論に支えられている。関村は,宗教排除の理由について,仏教を取り
上げ,仏教者による社会的実践がその目的を自らの動機にしか麓いていないからだと
した。
また,仏教が宗教改箪を行わなかったことは,関家主義に追従した仏教者が,慈善
事業を自由に行わなかったことを意味している。仏教は,曲家主義により仏教的な自
由な思想が弾圧されながらも,慈善事業の活動を促された結果,その活動の百的を自
らの動機にしか置けなくなったということになる。
岡村理論による仏教批判は,国家政策の影響を受けた仏教教自の者逮が行わざるを
得なかった慈善事業に対する批判である。しかし同村氏が対象としたのは,自然に
興った宗教者の慈善事業活動ではなく
操作された慈善事業といえる。すでに明治以
降,宗教性を排除しそれに従った仏教の方の在り方だけを戦後批判していることに
なる。これでは,そうでない仏教者による救済事業そのものを批判したことにはなら
ない。
仏教をこのように批判する近代社会福祉学を乗り越えるためには,近代の仏教慈善
事業の役割の再考が必要となる。そのために,本稿では,大販を中心に明治・大正期
の慈善事業について考察を進めてきた。
まず,明治・大正期大阪の惑善事業の隆盛については,数字による分析からは確か
められたが,その救済が,精神的か物質的かその両方かについては知ることができな
仏数と被告t
6
5
い。中世慈善事業の研究が,「慈悲」の救済か社会事業的な救済かという議論にまで
展開されていることを考えるならば,そこで用いられる「慈善事業j という言葉はあ
いまいである。
また,隆主主の背景として,生活部窮者の増加をおくことへの疑問を提示した。新宗
教が興ったことから理解できるように,病直しゃ社会直しを支持する者は信仰心を有
している。そして,新宗教が,弓山のいう「宗教的世界」の現われであるとき,それ
は民間宗教と呼ぶことができる。その信仰者は,新宗教に宗教的世界を感化された者
であるといえる。生活圏第者の中には,物質的な留窮に伴い精神的な救いを求めてい
たものも存在しているのである。
最後に,隆盛のもうひとつの背景である民間の力について知るために事業を担っ
た民間事業者の事業そのものを調査していく必要があることを訴えた。永間は,大阪
の町人気質が大阪の慈善事業の発援を支えていたという。そして,その気質を支える
背景には,盟家の影響があった。しかし明治・大正期大販の慈善事業は官中心では
なく民間中心で行なわれた。時節で,行政但u
に管理されない民間の慈善事業が,どの
ように展開されたかについて見ていくことによって,大阪の民間力はさらに明らかに
なろう。
1 地域に根付いた慈善事業の担い手たち
大阪の慈善事業は,民間の大きな力によって支えられていた。その民間の力とは大
阪人の町人気質,すなわち自由で主体的なボランテイア精神によって発揮されている。
行政側の思想に流されず,民間の主義主張に従って展開されて行く大i
授の慈善事業は,
行政主体の東京の慈善事業と対様の立場にあった。では,大阪の慈善卒業の代表的な
担い手である民間はどのような者たちであるのか,についてみていくことにする。
①明治初年の慈善事業の先駆者
f
大販府社会事業沿革史.
1
3
9
)によると,明治初期の民部事業として大阪で最初にあ
らわれるのは,予子見事業であった。その取り組みの最初のものは,大野唯四郎による
救育所がある。大野は兵庫県に生まれ, 1
8
7
5 (明治 8)年に私財をなげうち大販島之
内に孤見救済施設(1
8
8
0年に愛育社となる)をつくる。大野氏は 4年後に亡くなり,
協力者の江口高右傷門によって続けられたが経営国難となり解社された。一方で,大
野を支援していた井上三登冶が1
8
8
6 (明治1
9)年大阪愛育社堺支社を設立している。
3
9
) 大波府社会事業会館緩?大阪府社会事業沿革史上 1
9
4
0
年
6
6
官員数大学総合研究所紀要
請~15号
そして,大版愛育社と堺支社は合併し大阪府私立愛育社となっている。愛育社は
1
9
0
2 (明治2
5)年,小学校を付設し事業を拡げてゆく。
1
8
7
9 (明治1
2)年,西区に,イエズス会修道会によるセンタンファンス(大販養育
院)が設けられている。そして,神戸にいたマリー・ジュスティーヌ,スール・ベル
ナンデイヌのこ人のシスターによって孤児1
6
名で養育続が開始されている。この施設
は,現在の大販信愛女学院の母体である。 1
8
8
0 (明治 1
3)年に, I
l
l口居留所に建物を
新たに購入しシスターとともに働く日本入信徒の姿も見受けられたという。その後,
コレラや麻疹により園児が死亡したこともあり,男見は 1
9
0
0 (明治3
3)年に聖ヨゼフ
教育院に移り,女児も 1
9
3
2 (昭和 7) 年の養育院廃止に伴い京都の施設へ移されてい
る
。
1
9
8
9 (明治2
2)年には,東症に当初大阪貧院と呼ばれた日本聖公会ヨハネ教会婦人
会が中心となってつくった施設が設立する。この貧i
完は,宣教師ミス・リーラ・ブー
ルの指導の下に教会に所属する婦人たちの手でバザーの収援金などによって設立され
た。その後,大阪救児院となり大販ヨハネ学園と改称されて現在も事業が続けられて
いる。
また,この時期子供の犯罪を救うための監獄改良が盛んで、あった。 1
8
8
0 (明治1
3
)
年,小i奇弘道により
f
感化説jの名称が用いられ設立運動が進められていた。大阪で
そうしたこどもたちの保護や感化を開始したのは池上雪枝である。池上は高齢のため
経営関難となり数年で閉鎖に追い込まれている。池上雪枝については何冊か缶記が残
っているようで,右回紀久恵・井上和子編「福祉に生きたなにわの女性たち J(編集
ノア
1
9
8
8年)によると,池上は問中道教導職であり,また易学では高島易と並
ぶ易道である占断の大家であった j という。また,梅花女学校とウイルミナ女学校の
名誉教授でもあり,神道でありながらキリスト教にも理解があったようである。
8
7
4 (明治 7)年に米国伝道会社施療所とし
医療機関については,キリスト教系が1
てヘンリーラニングが開設し 1
9
8
3 (明治1
6)年ニ聖パルパナ病院となっている。後
天王寺区に移転して大阪の代表的な民間病院として救療病院をおこなった。
r
このように,明治初期の大阪の慈善事業は主にキリスト教を母体としていた o 大
販府社会事業沿革史j に仏教系の慈普ー事業が見られないが,それはこの時期にはまだ
怯統的な寺院の地域活動として行われていたからではないかと考えられる。
②その後の担い手たち
こうした先駆者達の活動が根付き,次の担い手たちが現れてくる。先の池上の事業
の中の授産事業を引き受けたのが小林佐兵衛である。小林は,大販の効率救貧施設が
仏教と被告!:
6
7
閉鎖になったときに引き受けて小林授産場とし 1
8
8
5 (明治1
7)年設立している。こ
れが, 1
9
1
2年に大阪市立弘済践の前身である財団法人弘済会に吸収合併され今日の弘
済臨に引き継がれている。
こどもたちの施設は, 1
8
9
1 (明治2
4)年の仏教青年会有志の協力による大阪孤児院,
1
8
9
3年の谷頭辰兄が中心となる大阪慈恵、育女院, 1
8
9
4
年の赤穂から大販へ移転してき
た小橋実之助の博愛社, 1
8
9
6年の加島敏雄が中心となる夜学校なども併設する汎愛扶
植会などが設立されている。
高齢者について,行政組j
l
の動きとして, 1
9
1
2 (大正元)年,帝関議会に養老法案が
提案されている。この法案は,資産や収入のない鴎窮した高齢者にだけでも,養老費
を給付しようとするものであったが,結局実現しなかった。それは,日本の家制度や
I
鋒保制度でお年寄りを見るという美風があり,養老費を支拾することは美風を損なう
ことになるという理由からであった。紛そのような理由により,養老法案は通過しな
かったが,実際には沼窮状態にある高齢者が増えていた。そうした高齢者を世話する
専門的な施設の必要性もあり, 1
9
0
2 (明治3
5)年,岩田民次郎設立の大販養老院は注
自を集め,視察書も残されている。
ここに挙げた人々は, 1
9
0
1 (明治3
4)年に始まった大甑慈善懇談会を作ったメンバ
ーである。これら全ては,行政の力を借りず個人の努力によって設立された慈善事業
施設である。前年の 1
9
0
0年に東京で貧民研究会がつくられていて,留問幸助をはじ
め原胤昭や内務省官僚の窪田静太郎などが慈善問題と貧困問題の研究会を持っていた。
この東京と大阪の 2つの会が, 2大慈善事業組織となっていく。東京貧民研究会は,
官僚や学者にウエイトがかかっていたといわれている−ll)。それに対し大阪の慈善間
体懇談会は,実質的に民間国体であり,民間主体の事業として活発であったことをう
かがし、知ることができる。
民間の代表的な慈善事業の担い手には,宗教者が多く見出される。時期的には,キ
リスト教よりも遅れたが,仏教関係者による慈善事業も登場している。そして,池上
雪校や岩田民次郎のように宗派に属さず,自らの信仰心から活動を行う犯}信仰者達
4
0
) 百瀬孝?日本老人福祉史Jr
i
J央法規, 1
9
9
6
年
, 2
3頁
4
1
) 前掲書?大阪のお:会福殺を拓いた人たち J42~
4
2
) 仏教系慈議事業がキリスト教より遅れて行われた理由には,明治初期には寺院で伝統的
舌鼓jを拡げて行
な放浪を含めた宗教活動を行っていたからだといわれている。後に皇室んに i
く理由には f
キリスト教への対抗Jと f
国益Jがあげられている(木場明志 f
近代仏教j
日本近代仏教史研究会1
9
9
8)。明治時代の仏教のあり方について,玄関氏によって f
明治初
年の廃仏主主釈は,近現代仏教を基礎的に揺るがすできごとであった。明治初年はむろんの
こと,それ以後の仏教は,いかにそこから復興するかが議玄要課慾であった Jc
r
日本仏教
福祉思想史J147m と総括されているように,仏教慈蕃卒業の急な治加は関家とキリスト
主主との関係をま友きに述べることはできない。
備事土大学総合研究所紀姿 第1
5
号
6
8
も活躍している。感化事業講習会を開催したように,国家の狙いは経費削減であり,
大阪の民間に慈善事業の運営指揮を持たせることではない。しかし大阪の民間慈善
事業家は,自らの力で組識を立ち上げ,東京の慈善事業の雑誌 1
慈悲iと並ぶ 2大雑
誌である f
救済研究j を創刊するにいたる。このような力を発揮したのは民間であり,
その畏聞の代表的な人々に宗教者が多かったのである。
近代社会福祉学は,このような「国家」もしくは「国益に伏したとされる仏教教
団Jの影響を受けずに民間のなかで‘育っていく慈善事業の世界も視野に入れる必要が
ある。
2 民間の仏教信停者の慈善事業
本節では,宗教者の自由な救済活動について
行政側に管理されない民間の活動に
自を向ける。その兵体的活動について明治・大正期大紋の慈善事業を支えた一人で、あ
り,民間の仏教信仰者である岩部民次郎の大阪養老院での活動を考察する。そして,
仏教による現在の社会福祉の可能性についての追究を試みることにする。
①仏教信仰者としての岩田の位置
岩田民次郎が大阪養老読を設立した動機は,貧窮者の多さといった社会晴勢のほか
にも 2つあった。 1つめは, 1
9
0
3 (明治3
5)年,内務省留 j
南幸助が大阪商業会議所で
行った社会事業の講演である。講演の締めくくりの「大阪に第 2の大塩平八郎出で
よ」と結んだ、言葉によって,かねてから考えていた養老院開設を決意したという。 2
つめは,聖徳太子への信仰心からである。設立趣意書には「頃日感アリ地ヲ往昔慈悲
ノ御心二長け玉フ聖徳皇太子ノ建立マシマセシ大伽藍四天王寺ノ辺トシ大政養老院ナ
ルモノヲ設ケ… j とあり信仰厚さを知ることができる。
1つ自の理由からは,感化救済事業期の影響を岩間も受けていることがわかる。し
かし後に慈善事業に宗教事業を取り入れていることから,その頃には運営自体は影
響を受けていなかったといえる。
②大阪養老視の慈善事業活動の特徴
教団に属さない,民間の仏教信仰者であった岩田は,様々な方法で慈善事業活動を
行っている。例えば設立の際,府の養老院設立の認可が下りないため養老新報出版社
として,養老事業を開始している。また,大阪養老院の現状を知らせるためにスラ
イドを使って説明して歩いたり,明治3
7
年には京都河原町で大限養老院慈善音楽会を
関f
産したりしている。
その中でも注目に値するのは1
9
1
3 (大正 2)年の「大阪聖徳会Jの設立である。そ
仏教と福祉
6
9
の縁起は, 1911 (明治44)年太子諜を養老院に迎え入れ,!日秋野坊の太子殻を手に入
れたl
l
寺まで遡る。太子像と太子殻を得た後,太子の遺徳を伝えるために,養老院の敷
地内に精神修養の場として「太子殿(後「聖諒殿」)」を設立している。一般に開放さ
れ,信者が増えていった。そして,その信者の寄隙金などを得て聖徳会をたちあげた
のである。その後, 1917 (大正 6)年には聖徳礼拝堂が落成している。
養老院の史料によると,聖徳会堂には毎日 500∼ 600人,多いときには 2千入者参拝
者があったという。信者達との参拝写真を見ると,非常に信者が多かったと考えるこ
とができる。その後, 1920 (大正 9)年宗教関係者の訴えで\明治 9年12丹1
5日教部
省達書第三十八号「私邸内自祭の神祇仏堂へ庶民参拝停止及建物等処分方Jによって
門が関ざされ門前に警官が立って参拝者を追い返していたという。
このように岩聞は,養老院での事業と同時に,多くの信者のいる聖徳会の活動を手
がけていた。彼が養老事業と譲徳会の活動を区別したかどうかは定かではない。ただ,
修養道場である「太子舘」で 養老院の収容者と多くの信者が交流していたことを考
えるならば,それは信仰の場での交流である。そして収容者にとっては,同じ信仰心
を持つ者がいることを確認する場でもある。
大阪養老院の活動は,収容者の信仰と,「大限聖徳、会J会員の信仰心と,「太子殿」
の参拝者の信仰心などにより支えられていたといえる。
岩田民次郎設立の大坂養老践での活動には,聖徳太子信仰という宗教的碁盤によっ
て成り立っていたといえる。参拝者や信仰者の人数が多かったのは,信仰の場を求め
ていた人々が多かったことの裏返しである。また,妥の岩田きぬが霊験によって病直
しをするという話が残されていることから,新宗教または民間信仰と類似した性格を
官官えているといえる。
大坂養老院の岩田の聖徳太子への信仰心が「太子館j を設立させる。そして,まず
太子館jが一般開放されたことから地域の人々が信
収容者が信仰することになる。 f
仰心をそこで解き,いつからか養老院の事業者への信仰へとその信仰の i
隔を拡げてい
く。大阪養老院の活動のなかには,このような信仰的展開が認められるのである。
明治・大正期の民跨の慈善事業は,地域に根付きつつ成長していく。教団に属さな
い仏教信仰者である岩田による慈善事業の場合,養老院事業と信仰活動を同じ場で同
時に行っていた。そして,事業の中には信仰者による信仰の展開が認められることか
ら,その事業は信仰心抜きには成立しないといえる。大坂養老院が大販の慈善事業を
引っ張る力を持ち得た理由も信仰者逮に求めることができるであろう。
民間が中心である明治・大正期大阪の慈善事業の活動を考察することは,簡に抑圧
偽字文大学総合研究所紀望号
7
0
第1
5
7
子
されない慈善事業の成長を知ることにもつながる。岩田の大阪養老院においては,国
家に抑圧されることなく自らの力で来たそうとした慈善事業の「近代化Jが存してい
る
。
地域に根付いた民間慈善事業の中の宗教は,地域の人々の信仰心の中で一連の展開
を見せる。そして,その信仰心が慈善事業を発展させるカとなっていたのである。
現代の社会福祉事業の中心的原理である近代社会福祉学にとっては,社会福祉事業
における「仏教性Jには意味がなく,明治から戦前にかけての仏教者による慈善事業
に特別
f
仏教j としての役割は見出せないだろう。確かに,国家に随従した近代の仏
教者は慈善事−業活動を仏教精神の発露とし,仏教の役割を動機にのみ求めようとして
いる。一方,自由や利益を保持しながら行われた近代大阪の氏関主体の仏教慈養事業
は,民衆の宗教的世界を保ちながら発展してきたのである。
おわりに
第 3節では,民間の宗教者として特に明治・大正期大販の仏教信仰者岩田民次郎を
とりあげ,その慈善事業活動を考察した。それは,ウェーパーの指摘にある「政治
的・社会的構造の封建的性格」の影響を受けた仏教教関ではなく,その影響から離れ
たところに位置する,仏教教団に属していない大波の民間の仏教信仰者の慈善事業に
ついて明らかにしたかったからである。
日本は明治維新以来,近代化された福祉国家を目指して,主に英米を手本に政策を
打ち出してきた。行政側に規制されない慈善事業とは,すなわち封建制と近代化政策
に規制されない慈善事業を意味する。明治・大I
E期の大販は,民間の慈善事業活動が
発展し東京と張り合う慈善事業都市に成長している。この時期の大販の慈善事業か
ら,可能な限り自ら近代化しようとする姿勢と力を機認することができる。それを支
えたのは大販の民間の力であり,さらにそれを支えてきたものは宗教であった。
大阪養老院は,養老院施設としての会問的な活躍と並行し大坂養老院あげての太
子信仰が睦盛であった。養老院を支える従業員や収容者,さらに地域の人々の信仰は,
特に内面的な支えとして,大阪養老院の運営上の役割を担っていた。大販養老院の発
展には,信仰という内面的な基毅が不可欠であったのである。
その後大眠養老院は財団法人を経,現在社会福祉法人「聖徳会Jとして社会福祉事
業の活動を続けている。しかしその運営には,かつてのような施設全体を統括する
信仰の力を確認することはできなくなった。
大販の民開慈善事業は,政府ーによる近代化政策に極力影響されていない。その支柱
f
ム数と福祉
7
1
は,民間の力であった。そして,その内面を支える宗教性があった。仏教は,民間の
人々を内面的にひとつにまとめ導いていく役割を果たしていたのである。その土地に
根ざした福祉社会は,その地域の人々の内面的なつながりの深さに強い影響を受けて
いる。そのような意味で,「宗教的基盤」すなわち
f
信仰的基盤」は,内面的なつな
がりを生む。社会福祉事業を行う仏教者の役割は,こうした地域の内面的な支えとし
ての信仰を打ち出すところにあるのではないか。そこに,仏教系社会福祉事業の「仏
教」としての意味を見出すことができるのである。
きi
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