学生たちと学ぶ戦争の記憶(PDF:2.1MB)

学生たちと学ぶ
戦争の記憶
2015.11
戦後 70 年
聞き書き・泉大津
桃山学院大学・泉大津市教育委員会
発刊にあたって
本年は第二次世界大戦終結 70 年という節目の年にあたります。70 年の歳月は戦争を体験した
世代の減少を促し、忘れてはならない記憶を否応なく風化させてきました。
この節目の年にあたり、泉大津市・桃山学院大学戦争体験調査委員会では、学生たちとともに
戦争を体験した方々から貴重なお話しをうかがい、記録に残すことができました。過去を記録す
ることができる機会は今をおいてないのではないか、その焦燥が調査の原動力でした。地域の自
治体と大学が共同で実施した本調査が、地域の次代を担う若い世代の方や学生の皆さんの明るい
未来に繋がることを願ってやみません。
泉大津市・桃山学院大学戦争体験調査委員会
◆戦争の悲惨さは体験した人にしかわからない ( 座談会 )
話者:川端 八重子 / 坪野 敏治 / 三宅 一夫 / 黒田 正明 / 是角 久子 / 川端 ちなみ
3
◆戦争と向き合った子どもたち
話者:川端 康彦 / 川端 幸男
9
◆いつ死んでもおかしくなかった
話者:中尾 香代子
12
◆大阪大空襲・そして戦後を生きて
話者:白野 彪
15
◆疎開先で経験した大空襲
話者:井上 周治
20
◆黒い雨~原爆の恐ろしさ~
話者:緒方 操
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■戦争体験の聞き書きに参加して
山崎 真実 / 辻野 大地 / 畝川 大輝
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■解説にかえて
戦争の記憶をいかに残すか~博物館学の視点から~
泉大津市・桃山学院大学戦争体験調査委員長 井上 敏
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凡例
1. 本書は泉大津市と桃山学院大学が地域連携事業として実施した調査の報告である。
2. 調査及び本書の編集は、桃山学院大学准教授 井上 敏 の指導により行った。
3. 調査参加者は次のとおりである。
井上 敏 ( 桃山学院大学准教授・調査委員長 )
丸山理佳 ( 泉大津市教育委員会事務局教育部参事兼生涯学習課長 )
村田文幸 ( 泉大津市教育委員会事務局生涯学習課文化財専門官 )
奥野美和 ( 泉大津市教育委員会事務局生涯学習課文化財係 )
山崎真実 ( 桃山学院大学経営学部経営学科 4 回生 )
辻野大地 ( 桃山学院大学経営学部経営学科 3 回生 )
畝川大輝 ( 桃山学院大学経営学部経営学科 3 回生 )
4. 推定を含め年号は和暦を用い、必要に応じて西暦を併用した。
5. 地名・用語は一般的なものに統一した。
6. 漢字は原則として常用漢字を用いたが、常用漢字に含まれないもの及び固有名詞として定着しているものにつ
いては、適宜旧字を使用した。
7. 調査等にあたっては、信夫千佳子、浅井忠司、浅井惇介、井上周治、白野彪、川端幸男、川端康彦、黒田正明、三宅一夫、
是角久子、川端八重子、川端ちなみ、坪野敏治、西垣恵子、中尾香代子、緒方操 ( 順不同・敬称略 ) 各氏の協力を得た。
座談会
戦争の悲惨さは体験した人にしかわからない
川端 八重子さん 坪野 敏治さん
三宅 一夫さん 黒田 正明さん
是角 久子さん 川端 千奈美さん
=話者=
川端 八重子さん 昭和 3 年 3 月 30 日生まれ。泉大津市出身、在住。
坪野 敏治さん 昭和 4 年 4 月 10 日生まれ。泉大津市出身、在住。
三宅 一夫さん 昭和 7 年 2 月 27 日生まれ。泉大津市出身、在住。
黒田 正明さん 昭和 10 年 12 月 23 日生まれ。泉大津市出身、在住。
是角 久子さん 昭和 16 年 8 月 24 日生まれ。広島県出身。泉大津市在住。
川端 千奈美さん 昭和 17 年 9 月 17 日生まれ。泉大津市出身、在住。
坪野 戦争が始まった昭和 16 年は、私が小学校 6 年生のときでした。私は 15 歳のとき、国に
命を捧げたいと、当時「七つボタン」と称されていた予科練航空隊に志願し、試験を受けました。
友人 3 人も海軍志願で、一緒に試験を受けました。私は一次試験は合格したものの、二次試験が
不合格だったため、入隊はできませんでした。一緒に試験を受けた友人たちは海軍に入隊し、全
員潜水艦に乗船して亡くなりました。
是角 私は広島の出身で、4 歳の時、原爆で被爆しました。泉大津には結婚したときにまいりま
した。私の義父は海軍の教官で、ソロモン諸島で乗っていた船が攻撃されて亡くなりました。海
軍の負傷兵で名古屋在住の方が義父が亡くなった状況を教えてくださいました。
坪野 私の兄はニューギニアで戦死しました。私は戦争にいかなくてよかったと思います。
川端千 私の父は、私が生まれて 4 か月後にルソン島で戦死しました。20 歳でした。
是角 私の父は終戦当時 38 歳でした。終戦直前に海軍に志願したのですが、終戦になって助か
りました。
-3-
座談会
坪野 戦時中は食べるものがありませんでした。あれにはまいりました。今はなんでもおいしい
ですが、当時は大豆を絞った残りの豆かすとコウリャンが入った米のごはんを食べていました。
お粥の中身もほとんどが団子で、米はほとんど入ってませんでした。
是角 広島では昆布に鉄道草を切って混ぜたようなお団子を食べました。食べるものは地下に埋
めて隠しなさいと聞いていたので、干うどんなどを埋めていました。それを掘り起こして食べま
した。
坪野 私の家は米屋をしていましたが、米がありませんでした。戦時中から戦後にかけては配給
制度でした。米の配給を受けるためには米穀通帳が必要でした。終戦になってからはアメリカか
らメリケン粉が入ってきました。
川端八 私は昭和 18 年に女子高を卒業すると同時に、女子挺身隊に入って大阪アルミ ( 日本軽
金属株式会社の前身 ) で仕事をしました。お昼ごはんでは、豆が大半のごはんならまだおいしい
のですが、豆かすの入ったごはんはとても不味かったです。大阪アルミでは、憲兵がいかめしい
恰好で、仕事をさぼらないように見回ってました。学徒動員でやってきた高校 2 年生の人とも一
緒に仕事をしました。
だんぴ
坪野 大阪アルミでは戦闘機の爆弾倉に装着する弾扉をつくっていました。
是角 私はさつまいものツルを刻んで食べたことを思い出します。
坪野 肥えた人はいませんでしたね。
三宅 泉大津市役所のある場所は今池グラウンドでした。
黒田 戦争当時は南海電車の線路より山側には家はあまりなく、村と田んぼばかりでした。
坪野 大阪アルミも海岸沿いにありました。寿重工が今の淀川製鋼所のところにありまして、戦
時中はそこにグラマン戦闘機がとんできて機銃掃射をしたのを見ました。操縦席に乗っている人
の顔も見えました。
三宅 終戦前に、アメリカの艦載機が超低空飛行で機銃掃射してくるのが、怖かったです。艦載
機にはワニなどマンガの絵がかいてあり、派手なもんでした。日本はナメられれているなと思い
ました。
坪野 防空演習などでバケツに水を入れて消火訓練もしましたが、今思うとなんてアホなことを
していたんだと思います。そんなことをしていて戦争に勝てるわけがありません。でもその頃は
真剣に「敵が来たら竹やりで突き刺そう」とか話しをしていました。
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座談会
川端八 私が大阪アルミにいた時、空襲警報が鳴って戦闘機が飛んできました。防空壕に入ろう
とした時、機銃掃射にあいました。もう少しで弾があたるところでした。
三宅 終戦前は軍関係者以外は列車にのせてくれませんでした。人間は貨物以下でした。仕方な
く連結車に乗っていました。
坪野 大阪が空襲で焼け野原になったとき、整理にいったことがあります。
三宅 終戦後、関門海峡を通る鉄道は、戦地からの復員のため超満員でしたので、機関車の連結
台車に乗っていたら、パンタグラフがスパークして怖い思いをしました。
坪野 戦争は二度といりません。戦争をしたら若い人はかわいそうです。
三宅 信太山三十六連隊の射爆場が、かつて汐見町にあった火葬場のところにありました。子ど
ものころ、4 頭だての馬車で大砲を引っ張って射爆場へ向かうのを見ました。ラジオでは「試射
をします」という放送を流していました。
黒田 私は戦争には行ってませんが、あのころは食べ物がなくて困りました。学校に行くと農家
の子やお金のある家の子は、お昼に白米のお弁当を持ってきていましたが、私のところはありま
せん。どうしてだろうと思いました。私は昼食になると家へうどんを食べに帰りました。それが
普通でした。父の実家がある貝塚へ疎開したときも、農家はたくさんありましたが、父の実家は
商売人でなんでも屋さんだったのですが、米はありませんでした。配給制でしたし、米は農家が
押えていましたから、私のところまではまわってきませんでした。
坪野 米の買い出しにも行きました。着物を持って行って交換しました。
三宅 島根県に疎開したときに、都会からモノをもってきて米と交換する農家の人をみかけまし
た。一升枡で米を米櫃から出して「ハイ、なんぼ」と言って交換しているのをみて、農家の人が
うらやましかったです。
坪野 ヤミ米を警察に全部没収されたことがありました。警察に経済課という部署があって、経
済ポリと呼んでいました。
三宅 警察がくるのがわかると、つかまる前にお米を袋ごと列車の窓をあけて捨てました。どの
みち警察に捕まってもお米は没収されてしまいますから、全部捨てました。
是角 警察が来たら「イヌが来たから、はよ隠せ」などといいました。
川端八 ごはんには麦が入っていて、米ばかりのものは食べませんでした。大阪空襲のあとに大
和川をみましたら、川は死体だらけでした。
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座談会
坪野 堺の空襲のあとの竜神川も、水膨れの死体だらけでした。防空壕に逃げた人もみんな水膨
れになって亡くなっていました。死体はガードの下で焼いていました。
川端八 堺空襲のときは怖かったです。泉大津からも見えました。大津川の土手に逃げました。
もし家が燃えてもお米さえあればと、父はお米を持って家を出ました。堺の次に和歌山が燃えて、
その次に神戸が燃えました。三方が燃えている真ん中にいましたので、「もうおわりだ」と思い
ました。
坪野 尼崎に爆弾が落ちたときは、こちらまで地響きがしました。
三宅 何十機もの飛行機が編隊を組んで飛ぶのは、今ではみることもありませんが、すごい迫力
でした。
川端八 B29 が紀伊水道から北上してくると「何機到来」とラジオ放送が流れます。そのとき、
地下にある防空壕に入ろうとすると、水が溜まっています。
坪野 空襲のときに防空壕に入ったらみんな死にます。それでも防空壕を掘ることは国の命令で
したので、畳をあげて家の床下へ掘りました。いつ空襲がくるかわからないので、ゲートルを巻
いたまま就寝しました。
黒田 空襲は夜が多かったです。
川端八 空襲のときは防空頭巾をかぶって家を出ました。敵が来たときのために、竹の棒で敵を
突きさす訓練もしました。
坪野 国防婦人会でもそんな訓練をしていました。終戦になったときは「やれやれ」と思いました。
川端八 終戦の 8 月 15 日、私は大阪にいました。みんな運動場へ出て天皇陛下のお話しを聞き
ました。私は、「明日から B29 がけえへん」と思うとうれしかったです。
坪野 もう少し早く戦争をやめていたら原子爆弾もおちなかったのに。山本五十六が戦死したと
きに終結すべきでした。
是角 原爆が落ちたとき、私は自宅の奥の部屋で人形で遊んでいました。丸いものが落ちてきた
と思ったら、轟音とともに家が潰れました。すぐさま家の前にあった防空壕に逃げました。私の
家は爆心地から 2.1 キロメートルのところにありました。父が私を背負って防空壕を出ると、広
島市内から火の手があがっていました。街中ねずみ色の煙が充満していました。父が「ここにい
たらみんな死ぬ」といって、近所の人と川の堤防の上に行きました。両親が「ここから動いたら
いかん」といって、家から布団 2 枚と箪笥 2 棹を持ち出しました。これ以上は持ち出すことはで
きなかったそうです。太田川の岸にあった釣り船に乗って、中ノ島へ避難し隠れていました。
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座談会
何日間かして水が引いて砂浜が出てきました。兵隊さんが「水をくれ」といってるのを聞いて、
太田川はきれいな水の川なのになぜ水を飲まないのか不思議でした。「ヤケドをした人には水を
飲ませないで」という人もいました。
さらに何日かして飛行機が飛んできてピンク色の紙を撒きました。紙は、「戦争に負けていく
さは終わりました」という内容でした。中ノ島から船で帰ってみると、兵隊さんたちの遺体が山
積みにされていました。それに灯油をかけて燃やしていました。炎の間からは手や足が見えてい
ました。それを見た私が「何で焼くの」と、泣きながら叫んでいたと、母から聞きました。
原爆が投下される前は、家の近くにあった練兵場 ( 現在は高校になっていますが ) から起床ラッ
パが聞こえ、馬のヒヅメの音がしたものですが、原爆で建物も燃えてしまい、起床ラッパもヒヅ
メの音も聞こえなくなりました。それをみていた私は、40 歳になるまで火事の現場がとても怖
かったんです。
兵隊さんが焼かれているのを見ながら家に帰ると、家の基礎だけは焼けずに残っていました。
そこに廃材でバラックを建て、数家族で住みました。
爆心地近くの山陽線あたりに住んでいた知人を探しに行ったときのことですが、8 月 6 日に原
爆が落ちて、15 日に終戦になったんですが、そのときの空気はまだ淀んで曇ったままでした。
私は大阪府原爆被爆者団体協議会が昭和 57 年に発行した「原子雲」という冊子にも体験談を載
せています。遺族会で広島へ行ったとき、私は原爆資料館には行けませんでした。当時の光景を
みるのが辛いのです。話をするのも辛いのですが、若い人にも知っていただき、心を動かしてほ
しいと思います。小学校で体験談を話したら、一生懸命聞いてくれました。
三宅 戦時中、泉大津の海岸には、死体がよく流れ着きました。「ドザエモンがあがった」とい
うので、よく見にいきました。明石や神戸の空襲で被災された方の遺体です。本当に凄まじすぎ
ます。
黒田 終戦直後から 5 ~ 6 年間は一番大変でした。でも経済成長とともに戦争のことはだんだん
薄れてきました。
三宅 シンガポール陥落のとき、戦勝記念で白い野球ボールのようなものを 1 人 1 個づつもらい
ました。後に、そのシンガポール作戦に参加した島根県浜田二十一連隊の人が、三日三晩飲まず
食わずで攻撃したと語っていました。凄まじい攻撃だったということでした。
坪野 ニューギニアあたりの戦場では、ネズミでもなんでも、動くものはなんでも食べたといい
ます。そうでもしなければ体がもたず、栄養失調になったそうです。
黒田 私の父は、戦地で栄養失調で亡くなったと思います。
三宅 「お金をあげるから買いにいっておいで」といわれても、何も売っていない時代でした。
坪野 泉大津は空襲がなかったから、街が残りました。
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座談会
三宅 油脂焼夷弾は泉大津の海岸に向けて落とされましたが、風の流れで出屋敷の海辺へ全部落
ちてしまい、堤防より海側の砂浜に全部ささっていました。リボンがついた六角焼夷弾です。小
学校 5 年生のころのことです。
川端八 今の日本はありがたい。みんなのおかげです。
坪野 体験してはじめてわかることがあります。体験しないと現実ではありません。平和ボケに
ならないようにしないといけません。
黒田 経済大国になって平和について話さなくなりました。謙虚に歴史を教えていかなければい
けません。
坪野 日本は戦争に負けました。勇敢に戦って突っ込んでいった人はみんな戦死しました。
黒田 泉大津は戦時中も戦後もあまりダメージを受けていませんが、近くの都市は焼夷弾が落ち
ています。焼夷弾がおちる様子はすごくキレイでしたが、同時にすごく怖かったです。
三宅 今、オークワがあるところは川西航空機でした。戦前は憲兵と特高警察がいたので、言い
たいことも言えませんでした。
平成 27 年 7 月 10 日収録
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戦争と向き合った子どもたち
川端 康彦さん
川端 幸男さん
=話者=
川端 康彦さん 昭和 9 年 1 月 10 日生まれ。泉大津市出身、在住。
川端 幸男さん 昭和 12 年 4 月 9 日生まれ。泉大津市出身、在住。
◆川端康彦さん
私は昭和 9 年 1 月 10 日生まれです。戦争が終わったとき、泉大津市立穴師国民学校 6 年生で
した。父はガダルカナル島からの帰還兵でした。父は 6 人兄弟の末っ子で、父の母である祖母は、
父が生きて帰るように、戦争に勝つようにと必死の思いでした。父は戦地に千人針を持っていき
ました。当時は、召集令状がくると、4 日間で準備していかなければなりませんでした。父は嫁
と 4 人の子どもを残して、府中駅で見送られて所属部隊へ向かいました。戦後、戦地から帰って
きた日、祖母が、「大事な子どもが帰ってきたから、今夜は私が抱いて寝る」と、大人だった父
と同じ布団で寝ていました。
小学校 5 ~ 6 年生のときに、大阪市立安立国民学校から疎開児童が 30 人ほどやってきました。
疎開児童は浄福寺(豊中町)と穴師の天理教会に寄宿していました。そのころの穴師国民学校は、
兵舎になっていたため教室がつかえませんでした。そのため、穴田の子どもたちは心福寺へ行っ
て勉強しました。勉強とはいっても、ラジオから頻繁に空襲警報が鳴り、警報がでたらすぐに帰
宅するため、勉強らしい勉強はしませんでした。終戦までの 2 年間ほど小学校に兵隊さんがいた
ように覚えています。
小学校の教室の半分は兵隊さんがいて使えませんでしたが、半分の教室と講堂だけは空いてい
たので、そこで勉強した記憶もあります。
疎開児童は浄福寺で勉強をしていました。私は浄福寺で疎開児童とよく一緒に遊びました。ウ
マトビをすると体があたたまるので、冬場はよくウマトビをしました。ウマトビでは、体重の重
い子が弱そうな子の上を狙ってとびました。少し離れた場所から瓦を投げて、立てた屋根瓦にあ
てる「カワラほり」もしました。バイ(ベーゴマ)もしました。
天気のいい日は、穴師のお宮さんへよく行って遊びましたが、終戦間際にはしょっちゅうラジ
オから空襲警報が鳴りましたので、すぐに帰宅しました。 疎開児童は終戦まで泉大津にいました。家族で疎開してきた人もいました。豊中町にある製材
所のところにはかつて 3 軒長屋が 2 棟あり、そこに 2 家族が疎開していました。そのほかにも、
家族で泉大津の親せきの家に来た人もいました。
-9-
座談会
小学校では、軍事訓練のようなものもありました。小学校 5・6 年生の男子は木刀で稽古をし
ました。稽古は山田先生という怖い先生で、よく木刀で頭をたたかれました。女子は木の薙刀で
訓練をしました。中学校に行くと木の銃剣で訓練をしました。
信太山に爆弾が落ちたのを見ました。雪が積もっていた冬のことでした。ドカーンとすごい音
がして、家の防空壕に跳んで逃げました。
終戦間際には、豊中町や北豊中町付近に低空飛行のグラマン艦載機が飛んでくるのを 2 ~ 3 回
みました。信太山を攻撃しにいくのです。グラマンがくると、祖母は田んぼの中にあった石の橋
の下に跳ぶ様に隠れました。この戦闘機は 2 人乗りで、低空飛行のため乗員が見えました。北豊
中町のあたりで低空になり、信太山陸軍基地に向かって「ドドドド」と機銃掃射の音がしました。
米軍機に高射砲を撃っているところを田んぼから見ましたが、全然飛行機に届いていませんで
した。
戦中戦後は紙が不足していたので、父が戦地から送った大切な軍事郵便はがきも全部火にくべ
ないといけませんでした。米わらや麦わらも、わらの上にもみ殻を撒いて火にくべましたが、す
ぐに燃えてしまいました。麦わらは節があるので、燃やすと鉄砲のようなパンパンという音がし
ました。当時は近所のあちらこちらで、麦わらを燃やすパンパンという音が聞こえていました。
金属供出もありました。大事な息子が少しでも戦地で楽になるようにと、祖母は指輪から銅の
火鉢から家の中のあらゆる金属を出しました。
食糧事情も悪く、農家では一反あたりの供出米が決められ、現在の市立病院の山側にあった池
浦の倉庫まで、米をリヤカーにのせて何度も持っていきました。倉庫につくと、「そこに積み上
げといて」といったらおわり。自分のところでつくった米なのに、供出するから自家米が足りま
せんでした。小学生ながら、この供出だけは頭にきました。
私は当時小学生だったし、当時 33 歳だった父親は戦争に行っていたため家にいませんでした。
母親と子ども 4 人を残して召集されていきました。お米は母親と一緒に 7 ~ 8 反をつくりました。
小学生なのに、田んぼもやっていたので、自分は一人前だと思っていました。
百姓の場合、男手がいるのといないのとでは、出来高が違ってきます。出来高がちがうのに、
1 反あたりの供出量は同じです。私の母親も泣いて怒っていました。
戦地に行ってる父親よりも、家にいる方が苦労だと母親は言ってました。戦後、帰還した父親
に「あんたは弾をよけてたらいいが、私は小さい子どもを 4 人抱えて田んぼをして、どれだけ苦
労したか」と言ってました。
戦争が終わってから、「教育なんて」
と反発しました。毎日、教科書にスミ
を塗って、昨日まで習っていたことを、
翌 日 か ら「あ か ん」と い う ん や か ら、
頭にきました。
整列歩行のやり方が変わったことも
気に入りませんでした。戦時中は一糸
乱れないような勇壮な行進を習い、私
もその歩き方が好きでしたが、戦後は
アメリカ式に変えられました。
-10-
座談会
アメリカの進駐軍は、戦後すぐにやってきました。剣道の防具は校庭で燃やし、二宮金次郎像
は台座から外して倉庫の隅になおしてしまいました。昭和 48 年ごろ、私が PTA 会長をしていた
ときに、二宮金次郎像を倉庫から出して、もう一度穴師小学校に建てなおしました。ガラスに書
かれた教育勅語も校長室の隅でほったらかしにされていましたが、私が家に持ち帰って座敷の鴨
居にあげています。
◆川端 幸男さん
私は昭和 19 年に穴師国民学校に入学しました。卒業は終戦後なので、穴師小学校卒業でした。
空襲警報が鳴ると家に掘ってあった防空壕は小さく怖かったので、毛布にくるまって要池の土
手ににげました。「敵機が来て、アカンと思ったら、池に飛び込め」と大人に言われました。そ
の土手で、和泉市の坂本に焼夷弾が落ちるのを見ました。なんでも牛小屋に落ちたため、牛も荷
物も燃えてしまったということでした。
堺の空襲も池の上からよく見えました。穴師の杜の上空あたりが夕焼けみたいに真っ赤に見え
ました。みんなで「堺燃えてら」って言い合っていました。真っ赤な空を黒い飛行機が動くのが
見えました。
泉大津の港にあった寿重工業(現ヨドコウ)の近くにあった台場の砂浜に焼夷弾が落ちたのを
見ました。燃えて落ちてくる様子が花火のようにきれいでした。
艦載機がよく飛んできました。空襲警報が鳴ったので川に逃げたところ、反対側の土手で機銃
掃射を受けた人もいました。
B29 のような大型の飛行機は上空に小さく見えます。キンキラキンのジュラルミンです。飛行
機は和歌山方面から大阪方面へ向かって飛んでいきます。尼崎方面の高射砲陣地から高射砲を
撃っていましたが、全然とどかないのがみえました。
小学校は集団登校でした。戦前の登校では、学校に到着するとまず二宮金次郎像の前に並んで
礼をし、次に奉安殿の前で礼をし、次に校長室へ行って「穴田〇〇人」と報告してから教室へ入
りました。終戦近くのころは兵隊さんが学校の校舎をしていたので、1 年生のころのことだった
と思います。奉安殿は私が 3 年生の時には、まだ私の教室の裏手にありました。
奉安殿は取り壊したあと、材料を分けて、みんなに配りました。屋根は銅葺でしたが、工作の
授業で、カマボコ板に貼って表札にしたりしました。昭和 22 ~ 23 年ごろのことです。大きい
銅板は 3 つくらいに分割して、上手な人が釘で彫り物をしました。
うちの本家の人が、戦後取り壊した奉安殿の石をもらってきて、家の敷地にあったお稲荷さん
の祠の囲いにしました。奉安殿入口の門をもらってきて家の敷地に建てた人もいました。
終戦後、小学校 3 年生のときでしたが、教科書にスミを塗ったのを覚えています。かなりの部
分を塗りつぶしました。6 年生の教科書はとくに塗る箇所が多かったです。
私の父親は召集令状がきてから 3 日で家をでて、大阪の杉本町にあった部隊に入隊しました。
うちは家族が 3 人でした。その部隊は兵士数が多かったようで、父親は戦地へ行かずに 3 日だけ
入隊して、家に帰ってきました。父親によると、「さっさと歩くやつは兵にとられるので、でき
るだけゆっくり体をうごかしたので、帰って来れた」そうでした。
私の家の近所のお宅は、女の子ばかり 5 人だったのに、お父さんが戦争に行きました。男手の
いなくなった家庭は苦労したと思います。
平成 27 年 6 月 29 日収録
-11-
いつ死んでもおかしくなかった
中尾 香代子さん
=話者=
中尾 香代子さん 昭和 13 年 7 月 11 日生まれ。満州出身、元泉大津市在住。現忠岡町在住。
私は、昭和 13 年 7 月 11 日に満州国間島省延吉件朝陽川の鉄道局宅で生まれました。昭和 34
年に結婚して、長らく夫が住んでいた泉大津市高津町で暮らしていましたが、平成 17 年に忠岡
町に引っ越しました。
父は、豊福力といい、満州の鉄道警察に勤務していました。父が満州に渡ったのは昭和 6 年です。
母ゆくゑとは昭和 10 年に結婚して、母も結婚と同時に満州に渡りました。私は長女で、満州に
いたころは弟が 2 人でした。父は仕事柄転勤が多く、満州を何度も転居し、私は通化省で終戦を
迎えました。通化省は満州の真ん中あたりです。
満州での生活は、父が日本の鉄道警察勤務ということもあって、開拓団の方とはちがい、かな
り優遇された裕福なものでした。当時の満州には、開拓団の町など、日本人だけが住む町があち
らこちらにありました。私たち家族もその町の一つに住んでいました。町の中には防空壕もあり
ました。買い物は、中国人の市場へ行きました。今はもう忘れましたが、小さいころは中国語で
買い物もしました。学校は日本人の学校でしたが、市場にいったときは、中国人の子どもたちと
も仲良くしました。
岡山出身だった父は、戦時中に本籍の岡山からの召集令状がきて、戦地へ赴きました。
終戦までは普通に小学校に通ってました。4 月に入学して 8 月に終戦を迎えました。学校には
通っても、運動場を畑にするために石拾いばかりしていました。
終戦後は、それ以前とはうってかわってひどい有様でした。これまで虐げられてきた満州の中
国人が日本人に対して暴動をおこしましたし、ソ連軍がやってきて爆撃などを行いました。
私たちは満州の南部にいましたが、ソ連軍は北方から進軍してきます。北方から避難してくる
人たちをソ連軍が爆撃し、多くの人が亡くなりました。ソ連軍は、線路を破壊し、線路がないの
で動けなくなった列車を爆撃して、乗っていた人たちが全員亡くなったりしました。
終戦直後の日本人たちは、中国人の襲撃をおそれて山へ逃げたり、逃げる途中で殺されたりし
ました。戦場にいた父を除いた家族 3 人は、終戦直後は鉄道警察の社宅にいましたが、全員無事
に過ごせました。それというのも、満州人の鉄道警察職員の方が日ごろの親和に応えて、私たち
家族を守ってくれたのだと、後に父から聞きました。
その後、ソ連軍と八路軍が私たちの住む町へやって来て、大人も子どももかまわずに銃剣を突
き付けられ、全員住居を出されて、収容所のかわりとなった映画館に収容されました。そのとき
ほど怖かったことはありません。子どももみんな裸にされて整列させられました。「今日こそは
殺される」と何度も思いました。怖くても泣くこともできず、ボーっとしていました。いまでも
その感覚を思い出すと「夢だったんだろうか」と思います。
夜になると映画館にソ連兵がやってきて、若い娘が連れ出され強姦されました。私は子どもだっ
たので、強姦されている声を遠くに聞いて、何か怖い目にあってるのだろうと思ってました。強
姦された女性たちはみんな自決しました。母はソ連兵に襲われないよう断髪して男装し、顔には
スミを塗って子どもたちを守っていました。ソ連兵が監視しているので、逃げるに逃げられない
状況で数か月が経ち、その後解放されました。
-12-
座談会
解放されたとはいえ、帰国するためには港へ行かなければいけません。しかし、中国人の暴動
が激しく、かたきである日本人をみれば襲うので、昼間は町中を通ることができませんでした。
中国人の村へ出てしまっても襲われます。鉄道も破壊されていますので、歩いて移動するしかあ
りません。昼間は山中の旧日本軍兵舎に隠れて守ってもらい、夜中に山中や中国人がいないとこ
ろを歩きました。時には川の中を歩いて渡りました。1 万人以上の日本人の集団が移動しました。
その移動の途中で、戦地へ行っていた父を除き、2 歳の弟を背負った母と、5 歳の弟と、私の家
族 4 人はこのときばらばらになりはぐれてしまいました。この日本人集団のどこかにはいたので
すが、移動中はみつけることができませんでした。
このときの移動も悲惨でした。子どもが泣くと敵に見つかる恐れがあるため、
「泣いたらあかん」
といわれ、声を殺しました。泣く子を殺す親もいました。また、病気の子がいるときは、親が子
を捨てたこともありました。捨てられた子は中国残留孤児になりました。私も孤児になる寸前で
した。多くの中国人が日本人の子どもを欲しがっていました。
多くの人が亡くなりました。ねんねこの中で死んだ子どもを背負う親の姿をみたこともありま
す。母親に、見るなともいわれました。子どもの多くは死ぬか、捨てられました。一晩で何十人
もの子どもが栄養失調やはしかなどで亡くなりました。ある朝起きたら、一晩で一面が墓標だら
けになっていたこともありました。冬場は雪の中に墓標が林立していました。弟がはしかにかかっ
たときは、「死んだらあかん」と私も泣きました。
家族とは渤海に面した葫蘆島で、全員無事に合流しました。5 歳の弟は地元の青年に救われて、
馬車に乗って無事、葫蘆島へやってきました。父は終戦時にシベリアで抑留されましたが解放さ
れ、流れ流れて葫蘆島で合流しました。家族全員が無事だったこと本当に奇跡です。弟は当時 5
歳だったにも関わらず、この時の記憶がうっすらと残っているそうです。葫蘆島にたどりつくま
で 1 年半ほどかかったと思います。
抑留されていた父の話では、シベリアへ行くときは足を鎖で数珠つなぎにされて歩かされたそ
うです。途中、歩行困難になった人がいれば列から外され、その場で射殺されたということでした。
葫蘆島からは貨物船で博多へ引き上げることになりました。客船とは違いますので、大変でし
た。下をのぞくと海が見えるようなトイレを使うときは、私は怖くて泣き叫びました。9 月に乗
船し、10 月、博多に着きました。2 か月もかかったのは、船がなかなか進まなかったからです。
海には魚雷がいっぱい浮いていて、接触すれば沈没します。朝になっても夜になっても船が動き
ません。「もう死ぬか、もう死ぬか」と何度も思いました。とても悲惨でした。
私の母の実家がある兵庫県佐用町のお祭りは、10 月 15 日で、その日に博多に到着しました。
博多には父の兄がいましたので、そこで一泊し、その後関門海峡を通って母方の実家へ帰りまし
た。家族そろって日本に帰り着く人はめったにいなかったので、とてもうれしかったです。
母の実家には帰ってきたものの、母の兄弟たちは私たちを快く受け入れてくれたわけではあり
ませんでした。当時の農家は国の政策で農産物を供出しており、自家用ですら食べ物が不足して
いた時代でした。私たちは親せきの家をたらいまわしで暮らしました。昭和 22 年ごろ、佐用町
内で引揚者の社宅が空いたので、ようやく家族だけでそこに住みはじめました。そこから両親が
頑張って働いて、そのうち掘っ立て小屋のような家を建てました。今もその家は弟 3 人(後に弟
が 1 人生まれました)が別荘みたいにして守っています。
-13-
座談会
そのころの両親は、ヤミ米屋をしていました。佐用町内にあったブローカーから米を買い、そ
れを列車で姫路に運んで売りました。ブローカーに米を買いに行くのは夜中の 2 時ごろです。私
もよく買いにいきました。父は山を越えて、よく岡山まで買いにいきました。私も中学生のとき
にヤミ米屋をしてつかまりかけたことがありました。ブローカーから米 2 斗を買って自転車で運
んでいる途中に警察がきて、田んぼのあぜ道を走って逃げました。警察に見つかりそうになって
田んぼに捨てました。父が警察だったにもかかわらず、このときは本当に警察を恨みました。
母は警察につかまったことがあります。買ってきた米は風呂敷に入れて、母が朝 6 時ごろの一
番電車に乗って、姫路へ売りにいきました。戦後生まれの弟を背負って米を運んでいた母は、一
度にたくさん運べないので、仕入れた米を 1 日 3 回にわけて売りに行きました。何度も姫路へ行
くので、母は定期券を持っていました。警察に捕まったときに定期券を所持していれば罪が重く
なります。私は母がつかまったときに、母のねんねこの中に手を入れて定期券を抜き取りました。
スリのまねまでしました。
地元の警察の方は、ヤミ売買している人たちの状況をよく理解してくださっていたので、警察
の手入れがある日は、「手入れがありますよ」とあからさまにいうことができないので、駅前を
ウロウロして、その日手入れがあることを知らせてくれていました。
ヤミ米は大勢で売りに行きましたので、みんなお互いに助け合いました。例えば、ある駅に列
車が到着するのにあわせて警察がジープでやってきます。それを、一つ手前の駅から、列車の先
頭車両に乗っているヤミ米仲間の一人がみつけて旗を振ります。すると、旗を見たみんなは手前
の駅で下車して逃げました。みんな協力して、そんなことをしていました。
ヤミ米を売りにいく人の半分は疎開者でした。疎開者の母親はみんなヤミ米運びをしていまし
た。引揚者は私たちだけでした。みんなヤミ米運びをしていたので、みんな高校へは行っていま
せん。高校に行ったのは農家の子どもたちだけでした。
引き揚げ後の父は主に行商をして長靴やアイスクリームを売っていました。長靴は左右の号数
が違うものを売っていました。当時はそういう品物しかありませんでした。警察での仕事のつて
もありましたが、父は断っていました。
警察官だった父は人に頭をさげるのが嫌いだったので、行商した品物の集金は私に行かせまし
た。上級生の家に集金に行くのは私も嫌でした。おまけに、百姓の家ではお金がないので集金で
きず、お金のかわりに大豆、小豆、お米、麦などをもらって帰るという、物々交換が多かったんです。
私は中学校を卒業後、昭和 29 年に就職しました。そのころでもまだお金はあまりまわってい
ませんでしたが、会社ではお米のごはんを食べさせてもらえました。ある九州南端の離島出身の
男性社員は、お米のごはんがほとんど食べれない地域から来ていたので、「親にもたべさせてあ
げたい」と泣いていました。
父は 45 歳ごろに姫路の新日鉄に入社しました。父に給料が入るようになりましたので、その
ころから生活がよくなってきました。父は 70 歳で定年退職し、その後佐用町の警察から剣道指
導を依頼され、青少年に剣道を教えていました。父は生真面目な性格だったで、当時のいろいろ
なものや、手記などを残してくれました。
母は、佐用町の小学生に戦争の話をよくしていました。母の話を聞きに行った生徒が夕方になっ
ても帰ってこないので、学校の先生が迎えに行ったところ、今度は先生が熱心に話を聞いて学校
に帰ってこないということもありました。母は、父の手記や自分の手記をまとめて、『苦難を乗
り越えて』という本を平成 17 年に自費出版しました。
平成 27 年 8 月 4 日収録
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大阪大空襲・そして戦後を生きて
白野 彪さん
=話者=
白野 彪さん 昭和 5 年 8 月 11 日生まれ。堺市出身。泉大津市在住。
私は昭和 5 年 8 月 11 日に、堺市上石津町で生まれました。小学校 3 年生のクリスマスに、父
親の転勤で泉大津に引っ越してきました。
父は、明治 40 年生まれです。忠岡町にありました白伊晒工場で働いていました。ここでは、
堺市にある福助足袋の加工をしていました。父は太平洋戦争が始まる前の昭和 16 年 7 月 31 日
に奈良の連隊へ入隊しました。
泉大津の戎国民学校を卒業した私は、中央国民学校(東陽中・誠風中の前身)へ進学しました。
中央国民学校 1 年生のときは普通に勉強しましたが、2 年生の夏休みを境に学校へは行かなくな
りました。だから卒業証書はありません。だから、2 年生の半ばまでしか勉強をしていません。当時、
1 クラス 60 人くらいでしたが、夏休みを境に 30 人くらい学校をやめました。中央国民学校では
なく中学校へ進学した人も、学徒動員などであまり勉強ができなかったようです。
なぜ私が学校をやめたかということですが、今の市民会館の南側にあった三宝伸銅は、かつて
は大阪アルミの工場でした。ここでは 1 日 1 円の給料をもらえるほか、朝に空の弁当箱を持って
守衛のところに行くと、大豆が混じったような弁当を詰めてくれました。学校に通うよりも、手
に職をつけるには工場で働くほうがいいと思いました。
学校をやめたあと、私は大阪市浪速区元町 1 丁目西円手町にあった浪速機械木型製作所に勤め
ました。泉大津から南海電車で通勤しました。ここは日立造船の下請会社でした。かつての湊町
付近は貯木場でした。工場は汐見橋と難波の中間あたりにありました。
浪速機械木型製作所では、潜水艦のスクリューや船のエンジンのシリンダーなどの木型をつ
くっていました。木型を砂の中に入れて鋳型をつくり、そこに溶けた金属を流し込んで部品を鋳
造します。
ここでの給料は月に 40 円~ 50 円だったように思います。今から 70 年も前のことですが、泉
大津~難波間の 6 か月定期券代が 1 か月分の給料ぐらいだったように記憶しています。35 円~
40 円くらいでしょうか。当時のはがきが 1 枚 1 銭くらい、銭湯が 1 銭~ 1 銭 5 厘でした。今で
も家に、母親が買った戦時債権で、日本勧業銀行の証券が 10 枚ほどありますが、それが 1 枚 10
円くらいです。「召集令状一銭五厘」という歌がありますが、お金の価値が今とは随分違います。
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座談会
浪速機械木型製作所で働き始めてしばらくして、泉大津市役所から徴用令の通知書がきました。
通知書には、徴用先が富山となっていました。母親がその通知書を持って会社へ相談にやってき
ました。そこで、会社の社長が日立造船に通知書を持っていき、日立の尽力で徴用命令が無効に
なりました。私は引き続き浪速機械木型製作所で働けることになりました。
今、イジメの問題がありますが、昔もありました。浪速機械木型製作所で働いていたころのこ
とです。朝出勤すると、四角い容器に井戸水を替え、職人がカンナを研ぐ準備をします。夜に水
を替えると朝冷たくなってしまうので必ず朝替えるのですが、意地悪な職人がいて、
「水が冷たい」
と文句をいい、1 メートルざしで両頬をビンタするんです。あまりにひどいので、一度やり返そ
うということになって、仲間 3 人で市電の難波駅で待ち伏せしました。「絶対に後ろにひかずに、
とことんやってやろう」ということで、コテンパンにやったところ、あくる日からすごくおとな
しくなりました。この人は航空兵に志願して戦死しました。
浪速機械木型製作所で働いていたころ、週 1 回は、朝、会社に出勤したあと、青年学校に通い
ました。学校は南海電車の新今宮駅の真下にありました。学校の印をもらうと会社へ出勤したこ
とになります。青年学校がある日はまる 1 日、学校の課程をこなしました。
青年学校では、主に軍事教練をしました。木銃で敵を突く、背嚢(リュック)に砂をつめた飯
盒を入れ、銃を持って大阪市内を歩き回る、などの訓練をしました。背嚢を背負い、銃を持って
大阪市内を歩く訓練では、天王寺まで行ったりと、10 キロメートルくらいは歩きました。銃の
数にはかぎりがあるため、本物の銃を持って歩きたい人は先にそこへ行って銃をとりますが、私
はノロノロ歩いて取りに行くため木銃を持つことになります。本物の銃は重いので、持ち歩くと
ヘトヘトになります。木銃は軽いので、本物の銃が先にとりにいった人の手にわたるようにして、
私が行くころには木銃しか残らないよう、わざとゆっくり取りに行ったのです。
青年学校といえば、泉大津では今の誠風中学校横のため池にそばにあり、私も行きました。青
年学校では銃や匍匐前進などの教練をしました。教官は軍からきた人ではなく、青年団の方だっ
たように思います。青年団のことはあまり知りませんが。当時の青年学校は、学校とはいっても
学校に所属している生徒がいるわけではありませんでした。
昭和 19 年 3 月 13 日の夜中から翌 14 日にかけて大阪大空襲が行われました。この日、私は宿
直で、工場で寝ていました。工場の隅に二段ベッドがあり、交代で毎日 2 人づつ宿直するときは
ここで休みました。空襲がはじまると、1 人があわててハシゴを倒して逃げたので、上段で寝て
いた私は下へ降りれなくなってしまい、シーツを使って下りて逃げました。外は火の海でした。
工場の裏には託児所の塀があり、飛び越えられませんでした。煙がすごく立っていられないの
で、這って逃げました。炎がとても熱いため、3 月のまだ寒い時期でしたが用水に入って体を濡
らして電車道を逃げました。逃げているうちに衣服は乾いてしまいました。電車道を走っている
人は女性もみんな素っ裸でした。熱いので、衣服を脱いで逃げていました。
工場から、元の新歌舞伎座があった辺りまで逃げて、さらに大劇(松竹の大阪劇場)を北へ逃
げましました。最終的に大阪市営地下鉄の難波駅に逃げ込みました。難波では、高架下から火が
出ていました。大阪球場があった場所は、専売公社のタバコ工場でしたが、その周辺は焼けたタ
バコの臭いが充満していました。その後しばらく難波の地下で過ごしました。翌日の昼過ぎには
炊き出しがあり、おにぎりを 1 個もらいました。
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座談会
なんとか泉大津の家まで帰ろうと思い、南海電車の線路を歩きました。空襲のため電車が通っ
ていませんでしたので、堺まで歩き、そこから南海電車に乗って家まで帰りました。
数日後、浪速機械木型製作所の様子を見に行きました。工場も工場の機械も燃えて、跡地は焼
け野原になっていました。工場の近くには、タンクロー飴をつくっていたキャラメル工場やアル
ミで飯盒をつくっていた工場もありました。キャラメル工場はすごく甘い匂いがしていました。
焼け跡から飯盒を拾って飴を詰め、それを舐めてしのぎました。
空襲の際、防空壕に逃げた人はみんな蒸し焼きになって亡くなりました。貯水池に飛び込んだ
人もみんな亡くなりました。逃げるならば広いところが安全でした。
私はよくハプニングにあいます。大阪大空襲の前にも、浜寺公園で南海電車の追突事故にあい
ました。このときは 100 人ほど亡くなりました。私も気を失って、気づいたときにはホームで
毛布をきせられて寝ていました。毛布をはねのけて起きたら、「一人生きていた」といわれたの
で周りをみると、死体の中で寝ていたことに気づきました。履物もなくし、体中が痛かったこと
を思い出します。
私は行ったことはありませんが、戦時中の町内には隣組があって、そこで防火訓練をしていま
した。酒樽の底をぬいてヤグラの上に取り付け、それめがけて水をかける練習です。私にいわせ
れば、焼夷弾の火はそんなもので消火できるほどなまやさしいものではありません。竹やりの訓
練などもありましたが、飛行機で来ている敵に対して竹やりで立ち向かっても勝ち目はありませ
ん。何のために竹やりの訓練をするのかわかりませんでした。
ラジオから警戒警報が流れてしばらくすると、空襲警報が流れます。警戒警報時点では学校は
ありますが、空襲警報がでると学校から帰宅しなければなりません。空襲警報が流れたときは、
すでに敵機は来ています。
戦争が激しくなったころ、浪速機械木型製作所の道具や機械の半分を河内長野に疎開させてい
ました。大阪大空襲のあと、疎開させていた機械を空いていた奈良の下田にあった工場へ移して、
仕事を再開しました。
大阪大空襲までは、泉大津から大阪の工場へ通っていましたが、奈良に移転してからは奈良の
社員寮に住み始めました。寮とはいっても役所の中を改造したものでした。そこで 10 人くらい
寝泊まりしました。
奈良の工場はグラインダーをつくる工場だったため、焼成用の釜に接続する大きなエントツが
ありました。そのエントツが米軍の艦載機の標的になって、帰宅途中や仕事中に何度も機銃掃射
に襲われました。地域の人たちからは、
「使っていないエントツなら倒してほしい」といわれた
ので、専門家を呼んでエントツの解体をしました。解体がおわってしばらくして、終戦になりま
した。
奈良では小さな山を借りて、工場のみんなで芋など
を栽培しました。
私が奈良に住んでいたころ、母親はとても苦労して
いたようです。父は戦争に行っており、残った 3 人の
子どもを一人で育てなければいけなかったのです。日
曜日は工場が休みだったので、私は日曜日ごとに泉大
津へ帰り、母親に洗濯をしてもらいました。私は給料
のいくらかを実家に入れていました。
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座談会
4 ~ 5 年前のお盆に坊城のおまつりを写真撮影するため、奈良の下田に行ったのですが、下田
駅はありませんでした。今は香芝駅になっています。周辺も全然かわってしまいました。
終戦直前、私は仕事をしながら海軍飛行予科練習生の試験を受けました。奈良の油坂に連隊が
あり、そこへ試験を受けに行きました。試験に合格して合格通知がきたら入隊するつもりでした。
試験は昭和 20 年 3 月か 4 月ごろでした。試験の内容は鉄棒など、主に運動関係でした。学科試
験もありましたが、学科試験はそれほど難しくありませんでした。航空隊志願の人は多かったで
すが、試験で落ちる人もいました。飛行機は運動神経の発達した人が有利で、鉄棒でも大車輪を
やりましたし、バック転もやりました。
なぜ試験を受けようとおもったのかということですが、予科練はその服装から当時「七つボタ
ン」と呼ばれていました。同窓会へ行ったとき、同窓生が「七つボタン」で出席し、15 歳くらいだっ
た私は憧れました。父に「航空兵になってもいいか」ときいたところ、「兄弟が 4 人いるので、1
人くらい行ってもいいだろう」と許してくれました。小学校のころから「お国のため」と叩き込
まれているので、死ぬことなんて恐いともなんとも思いませんでした。
戦後、奈良の油坂にあった米軍接取地へ勤労奉仕で行ったときに、ブルドーザーをはじめてみ
ました。砂利を運んでいたのですが、
「アメリカにはこんな機械があるのか」とびっくりしました。
これでは戦争に勝てるわけがありません。
戦後は工場が、奈良から大阪の塚本に移転しました。終戦後、日立が鉄道関係もやっていたこ
とから、会社では D-51 の動輪やシャーシも木型でつくりました。
塚本までの定期券は、南海、地下鉄、国鉄の 3 枚でした。泉大津の家を早く出ても通勤がしん
どかったです。このころの電車はいつも満員でした。大阪駅での乗車状況が特に悪かったです。
みんな連結にも乗っていました。私もよく国鉄や地下鉄の連結に乗って帰りました。窓ガラスが
割れてもそのまま電車は走っていましたし、窓から乗車する人もいました。こんな通勤事情だっ
たので、3 か月定期券を買って通勤したあと、定期券の期限が切れたと同時に会社をやめました。
その後、泉大津市の寿工業に入社しました。現在の淀川製鋼です。当時、木型部では人員が足
りていたため、起重機なら入れるということでそこへ配属になりました。起重機では、鋳物のま
わりについた砂をエアでおとすため、すごい埃が舞います。ものすごい埃だし、仕事もつまらな
かったのですが、3 か月後にちょうど木型の人員が足りなくなったということで、木型部に移り
ました。
寿工業に入ったころは、社会も会社も大変な時期でした。モノを手に入れるには配給切符が必
要で、それが 2 年ほどつづきました。会社自体も経営難でした。寿工業は給料の遅配が続き、何
人かが人員整理されることになりました。現場事務所の上層部に、自分が人員整理の対象になっ
ているかどうかきいたところ、私は残留の方に入っているということでした。給料ももらえない
のに残っても仕方がないと思い、無理に頼んで、整理の対象にしてもらいました。整理だと退職
金がでます。退職金も一度に全部もらえず、5 回分割で会社へとりにいきました。当時は預金封
鎖のころで、旧円紙幣に切手のような証紙を貼らなければ新円として通用しませんでした。
寿工業には昭和 21 ~ 22 年勤めて、退職しました。そこから清水町の織屋で原織物工場に就
職しました。そこで初めて織機整備を習いました。いわゆる加減見です。当時は、製品のほとん
どが輸出用の毛布でした。糸は政府が管理する綿糸を使用していました。そのため、工場内には「こ
の工場に保管したものを盗んだら罪になる」という内容を書いたものがありました。統制経済の
時代でした。
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座談会
父は召集で 7 年間戦地に行ってました。昭和 16 年、弟(四男)が生まれた日に、召集令状が
きました。父は最初、満州のチャムス(佳木斯)にいましたが、6 か月後、南方の仏印へ移りました。
南方にいくことは部隊長と船長以外知らなかったそうです。船に乗っていると、だんだん暑くなっ
てくる。台湾沿岸を航行している際に、同乗していた人たちが「あれは台湾だ」といってたそう
です。船はさらにシンガポールまで南下しました。シンガポールでの部隊長は西田さんという人
で、総合商社だった安宅産業の偉いさんで日本に帰ったら父の仕事を世話してくださる約束をし
ていたそうですが、帰国後ピストル自殺されました。
父の担当は入隊以来糧秣担当だったため、食べることに関しては不自由がなかったそうです。
本部付きとして、現地での食糧買付に行くような任務だったため、そんなに苦労していなかった
ようです。むしろ、日本にいた者の方が苦労したようです。
終戦当時、父はシンガポールにいて、昭和 22 年 5 月、無事復員してきました。7 年間の兵役
で父は軍人恩給をもらいました。恩給は、内地勤務だと 1 年なら 1 年分ですが、中国・満州方面
なら 1 年で 2 年分、南方なら 1 年で 3 年分もらえました。
昭和 31 年ごろにフランク永井の歌で大卒男子の初任給をタイトルにした「13,800 円」という
歌が流行りましたが、原織物での給料はそれより少ない 1 万 2000 円くらいだったと思います。
父は復員後、忠岡町の線路近くにあった関西帆布に勤めていましたが、給料は 1 万円ちょっとく
らいだったので、私の方が給料がよかったことを覚えています。父は経験者として入社したにも
かかわらず、当時は毛布の方がよく売れる時代でしたから、給料は私の方がよかったのです。
昭和 28 年に清水町に転居するまでは上之町に住んでいました。清水町にかわってから、織機
を据えて織物業をはじめました。清水町といっても、現住所地ではなく、三和製絨をはさんで反
対側にいました。そこは狭かったため、後に現在地へ移転しました。
皆さんが今の日本に生まれてきたことは、本当によかったと思います。私たちの時代とは違っ
て徴兵検査もありません。満 21 歳になったら男子は必ず徴兵検査があり、フンドシ 1 枚で体重
を測ったり、検査をされました。いやでもいかなければいけません。その検査で、甲種とか乙種
とか決められました。
仕事で難波へ通っているとき、堺の竜神駅に遊郭がありまして、電車がその中心部を走ってい
ました。その電車に乗っているとき、ある兵士が線路に飛び込み自殺するのを見たことがありま
す。兵士は信太山からの脱走兵でした。今の若い人はいい時代に生まれています。昔は 21 歳になっ
たら必ず軍隊に引きずり込まれてしまいます。辛さに耐えかねて脱走して電車に飛び込んだ兵を
思い出すと、今の若い人はうらやましいです。好きなことを何でもできるんやから。しかも、こ
の日本に生まれています。外国では、現在でも国民が餓死している国もあります。ありがたいと
思います。
平成 27 年 7 月 10 日収録
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疎開先で経験した大空襲
井上 周治さん
=話者=
井上 周治さん 昭和 13 年 11 月 15 日生まれ。京都府出身。泉大津市在勤。
私は京都で生まれ育ちました。幼稚園のとき、戦争が激しくなったため、家族で母の実家の大
分へ疎開しました。疎開は、都市に集中している人口を分散させて空襲に備えるために行なわれ
ました。疎開には、生徒による集団疎開や家族での疎開のほかに個人で疎開することもありまし
た。地方に行くと空襲も少ないだろうということで、私たち家族は京都を離れて大分へやってき
たわけです。
小学校に入学してからは、山手にあった家から 3 キロメートル歩いて学校へ通いました。その
通学の途中で、艦載機であるグラマン戦闘機の標的にされました。艦載機というのは航空母艦か
ら発進する戦闘機です。もすごいスピードで飛んできて機銃掃射を撃ってきますので、急いで林
や畑の中に隠れました。現実は映画とは随分違って、恐ろしさを実感します。いつ死ぬかわから
ないのですから。
小学校に入学しても、学校で勉強することがほとんどできませんでしたので、近くのお寺に通っ
て毎日自習しました。5 ~ 6 月頃でしたか、たまに学校へ行くと運動場を畑にして、先生が交代
で耕してサツマイモ、ナンキン、ナスビ、キュウリを植えていました。生徒たちも水やりの手伝
いなどをしました。当時は食糧難でした。できた作物は生徒に配られました。
家から 1 キロメートルほど離れたお寺へ行く途中で機銃掃射にあったこともありました。グラ
マン戦闘機はとても速いので、爆音がしたと思ったらすぐ頭の上を飛んでいました。撃ってきた
のは 20 ミリ砲です。低空で民家の屋根スレスレを飛ぶので、屋根がバリバリ音をたてていました。
すぐに防空壕に入りました。
機銃掃射も怖かったですが、一番怖かったのは夜間に行われた大分大空襲でした。空襲にあわ
ないように京都から疎開してきたわけですが、京都では空襲が行われず、疎開先の大分で大空襲
にあってしまいました。昭和 20 年 7 月 16 日のことです。夜 9 時ごろに警戒警報がでまして、
真夜中に B29 が多数飛来して、すごい数の爆弾を投下しました。夜中に投下される爆弾はまる
で花火みたいでした。焼夷弾によって家は焼かれ、1 トン爆弾や 2 トン爆弾もどんどん落ちてき
ました。私の住んでいた家は山手にありましたので、比較的低い場所にある市街地の様子はよく
見えました。市街地は一面真っ赤な火の海でした。私たち家族は山手に掘ってあった防空壕に避
難しましたが、避難途中でその光景を目にしたとき、恐怖で体が震え、歯がガチガチ鳴りました。
この空襲では、大分市街だけでなく、別府温泉も焼けました。
このころは各家庭でも空襲に備えて様々な対策をとりました。昼ごはんは、ごはんを炊くと煙
が出て人家の場所を敵に知られてしまうからというので、ほとんど代用食でした。夜は灯火管制
のため、電灯を消しました。
昭和 20 年 8 月 15 日に終戦を迎えました。小学校 1 年生のときでした。戦争では実に多くの
人が亡くなりました。戦災孤児もたくさんうまれました。両親を戦争で亡くした身寄りのない子
どもたちが都市の駅に集まり、食べ物をもらって飢えをしのいでいました。力のない子どもは力
のある子どもに食べ物をとられてしまい、多くの子どもが栄養失調でパタパタ死んでいきました。
-20-
座談会
終戦は夏でしたので、炎天下で多くの子どもたちが亡くなりました。GHQ がその現状をみて、
これではいけないと孤児院を立てて、戦災孤児がそこへ収容されました。
戦争当時は食糧難でしたから、食べられるものはなんでも食べました。戦後も、百姓以外は食
べるものはありませんでした。そのため、ヤミ市がはやりました。高価な着物をヤミ市でお米一
升なんかと物々交換をしました。お米もお粥にしてカサを増やして食べました。そんな苦労をし
て、今日の日本は繁栄を築きました。日本人の勤勉さ、一生懸命さが、焦土だった日本を先進国
にしました。
戦争の恐怖や爪痕の悲惨さは体験した者でなければわかりません。私は大分へ疎開したおかげ
で戦争を身近に体験しました。あのとき恐怖にかられたことは、今でも忘れられません。皆さん
は将来に向けて、戦争のない平和な国をつくることに貢献してほしいと思います。戦争は領土問
題や宗教問題、価値観の違いなどでおこりますし、今後も絶えないと思います。でも、日本人は
他国の文化を消化し自分のものとする、本来的に争いがきらいな民族です。思いやりの心を持っ
て社会を生きていってください。お互い話しあうことを大切にして、二度とあのような悲惨な戦
争を起こさないでほしいと思います。
平成 27 年 8 月 6 日収録
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黒い雨~原爆の恐ろしさ~
緒方 操さん
=話者=
緒方 操さん 昭和 5 年 4 月 13 日長崎生まれ。泉大津市在住。
私は長崎市山里町で生まれました。私が原爆にあったのは、鶴鳴高等女学校 3 年生のときでし
こうやぎ
かわなみ
た。このころの私たちは学徒動員のため、長崎湾の香焼島にあった川南造船所へ毎日通っていま
した。私も昭和 20 年 6 月ごろから、終戦となった 8 月まで、山里町の自宅から、香焼島へ通い
ました。香焼島へは、大波止から造船所所有の 3 階建の船に乗って通いました。川南造船所では
手榴弾をつくっていました。
昭和 20 年 8 月 9 日も、私は造船所で作業をしていました。原爆が投下された午前 11 時 2 分、
工場の上の方がピカリ!と光りました。当時はよく電気がショートして光ることがあったので、
またクレーンが故障して光ったのかと思いました。すると同時に、砂混じりの強風(爆風)が吹
いてきました。「伏せろ!伏せろ!」という声が聞こえたので、耳をおさえ目を覆ってその場に
伏せました。
その後、どのくらい経ったのかはよく覚えていません。
「横穴へ避難しなさい」といわれたので、
友人とともに防空壕となっていた横穴に向かいました。移動の途中、空には普通の入道雲とは明
らかに違う、グレーの雲が湧き出て、黒い雨が降ってきました。雨は体にも降り注いだので、ふ
きとろうとしましたが、油のようにぬるっとグレーに光っていてふきとれません。ふきとるどこ
ろか皮膚にひろがってしまいました。防空壕に入った途端寒気をおぼえ、震えがきてとても怖かっ
たです。
黒い雨が止んだ後、学生たちは早く帰宅するよういわれ、友人たちと小型船で長崎市内へ向か
いました。大波止へは原爆で破壊されて行けませんでしたので、もっと南にある大浦の松が枝桟
橋へ向かいました。大浦からは、家が近所の人同士で歩いて帰途につきました。
私は友人と一緒に浦上方面へ向かいました。大波止についたとき、敵機が飛んできたので、大
波止の防空壕に入って、日が暮れるまで待ちました。夜になってから線路づたいに北へ向かって
歩きました。線路の枕木も燃えていたので、枕木を踏んで歩くことができませんでした。枕木の
1 本 1 本は離れているのに、ところどころ燃えているのが不思議でした。浦上方面から来る人た
ちから「浦上へは行かない方がいい」といわれましたが、それでも私たちは黒い煙の中を、炎か
ら顔を守るように防空頭巾をかぶって歩き続けました。燃えている場所は歩けません。長崎駅を
過ぎた八千代町ではガソリンタンクからゴーという音とともに黒い煙と炎がでていました。とに
かく大人たちの後をついていきました。倒壊して燃えた住宅街の跡も歩きました。歩いたのが夜
だったので、熱風で皮膚が爛れた人はみませんでした。
終点の下の川駅から、友人の家の近くで、友人が普段から家族と何かあった場合の避難場所と
きめていた商業学校(油木町にある現長崎県立総合体育館)前の段々畑へ、友人と一緒に向かい
ました。途中、商業学校の校庭から「先生、先生」と息絶え絶えに叫んでいる生徒の声が聞こえ
ました。私たちの足音を先生のものと間違えたのでしょうか。暗くてどこにいるかわからず、助
けてあげることもできず、後ろ髪を引かれる思いで先を急ぎました。
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座談会
山の中腹にあった避難先の小屋は爆風でなくなっていました。そこで友人のご両親や弟さんと
会いました。親子は抱き合って無事を喜んで泣いていました。友人のお姉さんは亡くなったそう
でした。友人のお母さんから「山里の人は死んでると思う。あなたのお母さんも死んでしまった
と思うよ」といわれ山里方面を見ると、山里の丘が燃えていました。
9 日の夜、畑にゴザを敷いて友人 3 人で畑で寝ようとしましたが、米軍の小型機が上空を飛ん
でいましたので、「ここにいては危険なので横穴へ行こう」と友人の両親にいわれ、近くの山に
ある防空壕へ避難しました。大きな横穴の中は、暗くてあまりよくわからないものの、火傷をし
た人でいっぱいでした。唸っている人もいました。「死を待つばかりに焼けただれた人々の集団
から発生するあの異様な臭いは肉親でなければ耐えられないのではないか」「私の家族もどこか
の防空壕で苦しんでいるのではないか」などと思うと、寝つけませんでした。
10 日の朝、太陽はギラギラ輝いてましたが、私の家の近くにある山里の丘はまだ燃えていま
した。防空壕の中では、隣にいた真っ黒焦げで裸身の人の体から大きなウジ虫が皮膚の穴から出
てくるのをみました。痛いだろうなと思いましたが、死んでいたのかもしれません。地獄のよう
な惨状でした。朝食は、友人のお父さんがどこかの畑の溝に落ちていた小さなカボチャをとって
きてくださったので、生のままガジガジかじりました。また、友人のお母さんが米を数えるよう
に 10 ~ 20 粒ほどわけてくださり、炊くこともできないので生のまま、口の中でどろどろにな
るまでよく噛んで食べました。知り合いの人が火傷した人の治療をしていました。
その後、別の友人と一緒に家の様子をみにました。友人の家は城山小学校の近くで、学校近く
には避難所がありましたから、まずは遠方になる山里の私の家へ向かいました。地面がとても熱
くて、人がたくさん倒れていました。建物もなにもかも壊れているため、どこが道かもわからな
い中を、道らしいところを通っていきました。
防火用水のところでは、リンが燃えて煙が出ていました。現在松山公園になっている爆心地に
は、大きな穴が開いていました。淵からしばらくその様子をみました。途中、造船所で働いてい
たお兄さんに出会いましたが、「ここら辺は全滅して、みんな死んでると思う」といわれました。
自分の家のあった辺りで家族を探してみましたが、さっぱりわかりませんでした。
来た道を戻る途中、今の平和公園のところにあった刑務所の工場(現在は観光バスの駐車場)
跡で、3 ~ 4 歳くらいの女の子が迷子になって泣いていました。その光景がいまだに頭にこびり
ついています。私は当時 15 歳だったのでなんとか生きていけますが、あの子はまだ幼い。親も
死んだのかしら、これからどうして生きていくのだろうと思うと、かわいそうで仕方ありません
でした。時折「あの子はその後どうしただろう、幸せに暮らしているのだろうか」と思い出しては、
私の生きる支えとなってきました。
松山町を後にして、友人と城山小学校の横穴へ行きました。私はそこで従妹に会うことができ、
友人はお父さんと再開しました。友人のお母さんは亡くなったそうで、二人は抱き合って泣いて
いました。
横穴には市電の女性車掌さんが火傷を負って、奥の方にいました。その人が夜中に「水が欲しい、
水が欲しい」というので、私たちはなかなか眠れませんでした。友人のお父さんが、「水を飲む
と死ぬぞ」といいましたが、あまりに欲しがるのでひしゃくに水を入れて持っていきました。口
に含んだら吐き出すように言ってたのですが、女性は飲んでしまいました。朝起きてみると、あ
れほど苦しがっていた女性は静かに死んでいました。
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座談会
11 日の朝は諫早から救助隊が来て、麦飯のおにぎりをいただきました。それから友人家族に
礼をいって別れ、片淵町にいる姉のところへ行きました。母が生きているかもしれないという期
待もありました。姉とは無事を喜び合いましたが、そこに母はいませんでした。
12 日、姉のご主人と山里町へ家族を探しにいきました。ワラ草履をはいていったのですが、
途中、浜口町の登り坂で右足の親指に、民家の瓦礫の中にあった燃えた木が深く刺さってしまい
ました。その傷は翌年になっても治らず、今でもさわると痛みます。
自宅の近くへきたとき、溝の中にフワフワに膨れ上がった死体を見て、姉ではないかとドキッ
としました。
やっとたどりついた自宅は倒壊し、焼け落ちていました。玄関前の防火用水のあたりはまだ煙
がくすぶっていました。そこを掘り返すと、頭蓋骨とモンペの切れ端が出てきました。その柄は
母が普段着ていたもので、ハンカチ大の大きさだけ焼け残っていました。頭蓋骨が母のものだと
直感し、何度も「母ちゃん母ちゃん」と我を忘れて泣き叫びました。義兄からは「それは骨だよ」
と言われました。姉や弟たちがどこで亡くなったかはわかりませんでした。「あー、私ひとり生
き残ったのかしら」と、いいようのない淋しさと悲しさがこみあげてきました。
母の亡骸を義兄がトタンの上で焼き、骨にしました。母を焼いているとき、防毒マスクをつけ
た人が通りかかったので、「ガス爆弾が落ちたのですか」ときいたところ、新型爆弾とのことで
した。そして、「国の命令で調べている、爆心地付近から早く出なさい」といわれました。確か
に周囲にはほとんど人がいませんでした。焼いた母の骨はヤカンにいれて、お墓へ持っていきま
した。
大学病院の上にあるお墓へ行くと、墓石のほとんどが倒れており、墓石をおこすことができな
かったので、線香立の近くのやわらかい土のところを掘って埋めました。
帰りに岡町のおばさん宅へ立ち寄りました。そこには、全身の骨が崩れることなく座って外を
見たまま亡くなっているおばさんの姿がありました。怖いような不思議なような、なんともいえ
ない光景でした。おばさんに合掌して帰路につきました。
その後、私と義兄は下痢と腹痛に襲われ、大変でした。扁桃腺もよく腫れるようになり、風邪
をひきそうなときは、先に扁桃腺がはれるほどです。原爆投下の日から爆心地周辺を歩き回った
ため、めまいがしたり、40 歳ごろからは手足の関節痛がひどく、働くこともできなくなりました。
私は 11 人兄弟でしたが、母のほかに、姉 1 人と弟 3 人を昭和 20 年 8 月 9 日の原爆で失いました。
戦争や原爆のことは後世に伝えていかなければいけません。私のこの話は、国立長崎原爆死没者
追悼平和祈念館にも収録されています。
原爆で両親が亡くなった後は、叔父の家、姉の家でお世話になり、女学校を卒業してからは、
家つきの仕事を求めて、尾張一宮、鹿児島、東京、小倉などへ移り住みました。その間、最初は
洋裁の仕事をしていましたが、昭和 28 年には苦労して美容師の国家資格をとり、美容の仕事を
はじめました。小倉で結婚した主人の転勤で、泉州へ移り住むことになりました。私は原爆症の
ため疲れやすい体ですが、辛抱強く頑張って生きてきました。
夾竹桃の花を目にすると、あらためて亡くなった方の冥福を祈るとともに、恒久平和のため核
兵器の廃絶と軍縮の達成を願ってやみません。
平成 27 年 8 月 19 日収録
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戦争体験の聞き書きに参加して
“今の日本からは想像し難いものでした”
山崎 真実
( 桃山学院大学経営学部経営学科 4 回生 )
私たちは戦争のない時代に生まれました。戦争は身近にあるものでなく、どんなに見ても聞い
ても実際に体験した人たちの気持ちは分かりません。私が普段利用している地下鉄もかつては防
空壕のような代わりを果たしていたこと。15 歳の子どもが航空隊に志願する時代だったこと。
今の日本からは想像し難いものでした。
最も私が印象に残った話は、「7つボタンに憧れて航空隊に自ら志願した」ということでした。
現代を生きる私からすれば、戦争は死ににいくようなものだから、逃れたいと思うはずなのに、
なぜ自ら志願したのか、ということでした。それは、日本の教育が大きく関わっているとのこと
でした。当時の日本の教育は、「お国のために」という思想が強調されていたそうです。
戦争は人を死に追いやるだけでなく、教育や人の善の気持ちまでも蝕んでいたのです。しかし、
この戦争があったからこそ今の日本が築けたことは忘れてはなりません。「無知は罪なり」辛い
ことから目を背けることは、時に正しいことであり、時に残酷なことでもあります。戦争があっ
たということを日本国民全員が知り考えるべきだと思います。
今年戦後 70 年という節目を迎え、戦争をふまえて作られた憲法を変えようという議論もあり
ますが、戦争で亡くなった人たちの死が無駄にならないように願うばかりです。戦争を語れる人
がますます減っていく中で、実際の経験をした人の話を聞けたことは私にとって有意義で貴重な
時間となりました。
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“現代の生活がどれほど幸せなのかを感じました”
辻野 大地
( 桃山学院大学経営学部経営学科 3 回生 )
泉大津市内の公民館で、戦争時の様子についてお話をお聞きしました。小学校の建物は兵隊が
使用していたそうでした。授業には、軍事教育も取り入れられ、高等小学校から銃剣道の練習が
あったとのことでした。疎開してきた子どもたちはお寺で2年間程勉強と寝泊まりしていたそう
で、冬などは疎開児童と「馬跳び」をして体を温めたものだと教えてもらいました。空襲のお話
しもうかがいました。夕方、キラキラと焼夷弾が砂浜に落ちたのを目撃されたり、堺が空襲にあっ
たのが泉大津から見えたことも話されました。男性が戦争に行ったため、女性や子どもがお米を
作り、つくったお米は供出しなければならないため大変な苦労があった、とうかがいました。
戦争体験をうかがって、戦場で戦っている人だけが苦労しているわけではなくて、残された家
族も大変な思いをしたことを知りました。そして、日々の空襲に怯えることなく平穏な生活を過
ごせている現代の生活が、どれほど幸せなものであるかということを感じました。
“戦場だけで戦争しているのではないことを知りました”
畝川 大輝
( 桃山学院大学経営学部経営学科 3 回生 )
今回の調査では、戦争当時のさまざまなお話しをうかがうことができました。当時の学校は軍
事教練を取り入れた授業を行っていました。空襲警報が鳴れば、すぐに帰宅しなければならなり
ませんでした。工業が盛んな堺は空襲の被害を受けました。信太山には軍事拠点があったため、
アメリカのグラマン戦闘機が低空飛行で飛んで攻撃しました。農家では、家族で一生懸命つくっ
たお米は、父親が戦地へ行き働き手のない家庭であっても、供出させられました。戦時中に小学
校で行っていた軍隊式の行進は、終戦後アメリカ式に変わりました。
私は、本や報道などから得た戦争の知識はあったものの、これまで戦争当時の話を直接聞いた
ことはありませんでした。そしてその知識は、航空隊での活躍など軍隊に関することがほとんど
でした。今回の聞き取り調査では、戦争は戦場だけが大変なのではなく、戦争をするための食料
確保などのために、地域でもたくさんの人たちが大変な苦労されたという、現実を知ることがで
きました。戦争を学ぶということは、単に戦争の勝敗や軍隊生活のことだけではなく、軍に強い
られてご苦労された地域の方の生活についても、もっと知る必要があると感じました。このよう
なお話しは、もっといろんな人にも知っていただきたいと思いました。
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解説にかえて
戦争の記憶をいかに残すか
~博物館学の視点から~
泉大津市・桃山学院大学戦争体験調査委員長
井上 敏
1 はじめに
今年は戦後 70 年という節目の年でした。テレビを見ていて
も 8 月を中心に終戦の特集番組が多く組まれ、社会的にこの問
題に取り組む姿勢は数多くみられました。しかし、今回の泉大
津市で戦争の記憶を残す、という事業のアイデアは何も今年が
戦後 70 年だから、という理由だけで提案した訳ではありませ
ん。
昨年、私は全国の大学の博物館学芸員課程の教職員の集まりで沖縄に出張していたのですが、
会合の後、ひめゆりの塔の資料館を始めとした、戦争遺構の見学をしました。そのことは私にとっ
て非常に大きな衝撃で、今回の事業を提案した直接のきっかけとなりました。特にこの世の生き
地獄としか思えないような南風原村の陸軍病院壕は今でも鮮明に覚えています。薬など、もはや
何もない状態で、担ぎ込まれてくる負傷兵士に対して麻酔も打てずに手や足を切断したという話。
その切断した手足を女子学生が壕の外に捨てに行った話。そして、そこから撤退する際に足手ま
といになる重体の者の枕元に青酸カリを置いていった話など、今の感覚からはとても考えられな
い話を聞き、さらにその資料館内の洞窟の中の風景を再現した模型を見ながら、当時の状況を想
像してみると何とも言えない気分になりました。でも、これこそ戦争が引き起こしたことなので
あり、今、私たちが生きている今の、平和な時代に生きていられることに感謝すべきであるとそ
れを見て感じました。
2 「戦争」という「記憶」を残すということ
さて、今回の戦争の「記憶」を残す、という泉大津市での事業ですが、今年の 3 月に泉大津市
でのシンポジウム(「地域と 2 人 3 脚で成長する “まなびの輪”」)でもお話したように若い人た
ちにどれだけその「記憶」が伝えられているのでしょうか。テレビのニュースでも広島と長崎の
原爆投下の日を正確に覚えている人が減ってきている、と報道されていました。これまでの日本
が何も手を打ってこなかった訳ではありませんが、戦後 70 年にもなれば、それを直に経験した
人たちは相当減ってきます。もちろん、語りたくない事柄も当事者には数多くあり、「記憶」と
して話したくないことが多くあったに違いありませんが。
しかし、一方で最近多く発生する犯罪の数々…。特に「人を殺してみたかった」といった動機
の犯罪も起き、あまりに「生」と「死」に関して我々は感じる機会が減ってきているのではない
でしょうか。だからこそ、私たちは過去の反省も踏まえ、
「生」と「死」を感じる「戦争」という「記憶」
を残していくべきではないだろうか、と思ったわけです。
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そこで、戦争という記憶を残していく、ということに着手するにはまず私たちは戦争という出
来事と共に戦争の「記憶」と向き合うことを覚悟しなければなりません。第二次世界大戦は人類
の歴史の中で最大の死亡者を出した戦争であり、これを記憶するということ自体、陰惨な話が多
い訳であり、そのために私も含め、このことを記憶していくということを避けて生きてきたよう
な気がするのです。もちろん、それに向き合った人々も多くいると思います。でも、このような
記憶を残すということは、それなりの覚悟が要るということなのではないか、と思いました。日
本人全体でそれを確認する必要があるのではないか、と私は思っています。
しかし、今回の泉大津市の聞き取り調査で、「やはり」と思ったのは報道などでも指摘されて
いましたが、兵士として行った直接経験者があまりいなかった、ということです。ご家族が行か
れた、という伝聞型の話は聞きましたが、実際に戦地に赴いた軍隊での話はあまりなく、お話の
多くは日本国内で様々な物資の窮乏をどうしのいだのか、あるいは空襲の際の大変な状況をお話
でした。こう書くと誤解されるかもしれないのですが、聞き取り調査をして、がっかりしたとい
うことではないのです。このような話も貴重な「記憶」であり、これも残していくべきことだと
思います。ただ、もはや戦争の生々しい記憶を語ってくださる方がいなくなってきている、とい
うことを改めて実感しました。私はやはり「記憶」はまずそれを体験した方から直接語っていた
だくことが一番受け手に感じるものが伝えられる、と感じています。だから、こうやって直接語
れる方が減っている今、この事業をやっているのは少し遅きに失しているのかもしれません。し
かし、やらないでいたら、益々「記憶」が残りません。だからこそ少しでも早くやらなければな
らないのです。
3 「記憶」を後世に残していくために博物館を通して考えられること
では「記憶」をどう後世に残していくのか、それを私が教えている博物館学という学問から考
えていくことにしましょう。
聞き取り調査のようす
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博物館学の世界では新しい博物館の一つとして、エコミュージアムという考え方が出てきてい
ます。もともとフランス発祥の考え方なので、エコミュゼという方が正しいのでしょうが、日本
では英語の呼び方で定着しているので、このままエコミュージアムと書きます。エコミュージア
ムの大きな特徴の一つとして「記憶の収集」という考え方があります。「記憶」を収集する?と
はどういうことなのでしょうか。もちろん、ミュージアムが色々資料を収集し、コレクションと
して残すということを仕事としている、ということは想像できるかと思いますが、「記憶」を収
集し、残す。これはその地域に眠っている「記憶」を掘り起こし、残す、という作業なのですが、
他のミュージアムと違って、ある場所に他の土地から貴重なものを集めて保管する、展示すると
いうのではなく、その資料がある場所にエコミュージアムの地域を設定し、その地域で「記憶」
を掘りおこし、残す。そういう考え方なのです。だから地域に眠っている「記憶」を地域でつな
いで残すのです。
では「記憶」を残す、とはどういうことなのでしょうか。もちろん、「記憶」とは形のあるも
のではありませんし、形のないものをどうやって残すのか、と思われるかもしれません。でも形
ある物を通して「記憶」を残す、ということはできるのではないか、と思っています。その物質
としてのものを残し、それにまつわる証言を聞き、記録する。記録は文字起こしをした文章もあ
るでしょうし、あるいは録音・録画媒体(テープやディスク)といったものもあるでしょう。そして、
それにまつわる「記憶」をものと一緒に残し、それをその地域に住んでいる人たちが地域の宝と
して共有して残す、ということなのです。もちろん、それをただ残す、ということだけでなく、
記憶を後世の人々にどうつないでいくのか、ということも非常に重要で、地域で残していこうと
する継続の心がとても大事になります。
エコミュージアムという考え方を通して、泉大津市の中の「戦争」の「記憶」を残す、という
今回の事業だけで終わらせるのではなく、様々な形で地域に残し、それを地域住民の記憶として
伝えていくことに繋げていかなければなりません。今回の事業はその一歩なのです。
泉大津市役所ロビーでの展示 ( 平成 27 年 9 月 1 日~ 9 月 18 日 )
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調査委員長紹介
井上 敏 ( いのうえ さとし )
1968 年生まれ
桃山学院大学准教授
日本ミュージアム・マネージメント学会 理事・近畿支部長
・コレクションマネージメント部会長
全日本博物館学会役員
日本エコミュージアム研究会理事
泉大津市社会教育委員
和泉市生涯学習推進委員会副委員長
愛知県陶芸美術館 子ども文化芸術体験事業検討委員会座長 ほか
主な著書
「南大阪における地場産業の展開-泉州繊維産業を中心にして」/ 共著
「博物館を支える制度の改革と今後の学芸員養成課程のあり方について」
「新井重三の博物館論と『博物館の自由』の検討」 ほか
平成 27 年度泉大津市・桃山学院大学連携事業
学生たちと学ぶ
戦争の記憶
戦後 70 年 聞き書き・泉大津
発行日 /2015 年 11 月 13 日
編集 / 泉大津市・桃山学院大学戦争体験調査委員会
発行 / 泉大津市教育委員会・桃山学院大学
印刷 / 株式会社明新社
■泉大津市教育委員会
〒595-8686 大阪府泉大津市東雲町 9 番 12 号
TEL 0725-33-1131( 代 )
FAX 0725-33-0670
■桃山学院大学
〒594-1198 大阪府和泉市まなび野 1-1
TEL 0725-54-3131( 代 )
FAX 0725-54-3200
表紙装丁 / SEIDENSHA