近代における天神信仰

-秋号-
天神さまの御縁
48
神々の風景33
天神信仰の教学⑱
木戸孝允(桂小五郎)
謎の大行事
近代における天神信仰
飛梅 秋号 第176号 平成27年9月25日 太宰府天満宮社務所発行
アジアの太宰府
とお
み か ど
皇の遠の朝廷」である大宰府政
ここ太宰府は「天
庁が置かれた古代、外交の最前線にあって九州を統
括する役割をも担っていたことから東アジアの政治
経済また文化の中心でありました。大陸から様々な
文化が入るアジアと日本との文明のクロスロードと
もいえますし、文化の神様である菅原道真公が永遠
にお鎮まりになる聖地でもあります。そのような場
所に国立博物館の設置をという願いは、歴史を振り
返りますと明治六年から八年にかけて三度にわたり
境内で開催された「太宰府博覧会」に遡ります。私
の曾祖父で三代前の西高辻信厳宮司をはじめとした
神官らと地元の町長たちが中心となり文明開化と地
域振興のために開催された博覧会でしたが、神社の
宝物が特別な場合にしか拝観を許されなかった時代
にそれらを公開したことは当時としても大変先進的
な取り組みとして注目を集めました。その後も信厳
宮司は太宰府に「鎮西博物館」設置を提唱し、よう
やく明治二十六年に博物館建設の許可がおりたので
すが、その夢は残念ながら日清戦争の勃発で頓挫し
ま す。 し か し、 太 宰 府 に 国 立 博 物 館 を と い う 夢 は、
その後も幾度となく挫折を繰り返しながらも継承さ
れていき、誘致への人々の思いの火は消えることは
す め ら ぎ
初めて文化財の修理を可能にし、さらには一般の方々
にもバックヤードツアーとして公開したり、例年元
日から開館するなど他にはない取り組みにも次々と
挑戦し注目を集めています。これも、館長以下、研
究員や事務職スタッフ、ボランティアスタッフなど
皆様の日夜の努力の賜物と存じます。
九 州 国 立 博 物 館 開 館 十 周 年にあ た り
まずもって、台風十八号による東日本豪雨をはじ
め、今夏、日本各地で様々な自然災害に遭われた皆
様に、心よりお見舞い申し上げますとともに、一日
も早い復旧と平穏な日常が戻られますことを祈念申
し上げます。
当宮にとりましても百年越しの夢であった九州国
立博物館が、平成十七年十月に開館して今年で十年
の節目を迎えます。
「教科書よりもわかりやすく、学
校より面白い博物館」をモットーに、開館以来四十
一回にわたり開催されてきた大規模な特別展や、日
本とアジア諸国との文化交流史をテーマとした文化
交流展示は多くの人々を魅了してきました。東京(一
八七二年開館)
、奈良(一八九五年)
、京都(一八九
七年)につづく四番目の国立博物館として誕生した
九州国立博物館は二十一世紀の博物館として次々に
新たなことにチャレンジしています。たとえば、
「文
化交流展示」では、常設展としては異例の年三百回
にも及ぶ展示替えが行われたり、西日本においては
太宰府天満宮 宮司
西高辻 信良
ありませんでした。昭和四十六年、父である先代の
西高辻信貞宮司が「有史以来、アジアとの接点であっ
た太宰府に文化の核としての博物館が必要」との熱
い思いから博物館建設用地として境内地の三分の一
にあたる五万坪の土地を福岡県に寄付し誘致に拍車
がかかりました。九州の文化を醸成したいという父
の夢やその背中をずっと見て来た私も、あらゆる局
面で多くの方々のご理解ご協力、まごころをいただ
きながら百四十年越しの夢を叶えることができまし
た。設置に向けては熱心な市民の方々の思いも大変
大きく、そこに政財界や関係諸団体も共に「国立ア
ジア文明博物館」という性格をもった博物館を設置
しようというひとつの大きな目標に向かい、まさに
官民一体となって誘致運動が展開されました。多く
の人の思いと長い年月をかけてできた九州国立博物
館。その旗振り役を西高辻家の代々宮司のライフワー
クとしてさせていただけることに感謝すると共にこ
の夢をこれからもしっかりと次の世代へとつないで
いきたいと思っています。
神社はときに、その時代の最先端の情報、技術、人、
モノが集まってきたカルチャーセンターと例えられ
ますが、その中で日本の伝統や文化が育まれてきま
した。しかし今を生きる私たちがそれを過去の歴史
や遺産として守るだけでは、次の百年、千年につな
がって行きません。皆さんのこころの中に生き続け
る神社であるためにも伝統を守りながら革新を続け
たいと思います。また、博物館が「まちの誇り」と
なるよう、共に力を合わせ地域を盛り上げ、未来を
夢見て、九州の精神的核としてアジアや世界に開か
れた場所となっていきたいと思います。
02
とびうめ 秋号 No.176
九月、小五郎は藩命によって姓を木
戸と改めることを命じられます。
勢は都を追われるはめになってしまい
うのです。
、長州に戻っ
慶 応 元 年( 一 八 六 五 )
た小五郎は、藩主の下で八面六臂に活
動します。このころから特に小五郎が
本領を発揮したのは、各方面への周旋
でした。
五月、藩主の命をうけて小田村素太
郎(楫取素彦)が三条実美に会いに太
宰府天満宮にやってきます。
この時、時を同じくして当宮にやっ
てきていたのが坂本龍馬でした。
小田村は、長州と薩摩の連合を説く
龍馬に頼まれ小五郎を紹介します。
閏五月一日、下関で龍馬に会った小
五郎は、龍馬の言を入れ、意を決して
薩 長 連 合 を 模 索 し ま す。
『松菊木戸公
傳』によれば、閏五月三日、小五郎は、
この下関出張の際、機を察して太宰府
に赴いたとされています。
こうして薩長連合に舵を切った小五
郎でしたが、薩摩の西郷隆盛が約束に反
し下関に来なかったことによって、この
目論みは不成立に終わってしまいます。
対して幕府は、長州藩への態度を硬
化し、あろうことか第一回長州征討に
出たのです。
木 戸 孝 允( 桂 小 五 郎 )
明
明治維新の三傑の一人、桂小
五郎こと木戸孝允。
木戸準一と名のり維新を目
前に暗躍していた慶応年間、将に時代の
扉を開くべく活動していた木戸は、太宰
府天満宮に西下していた五卿の元に幾度
か訪れ、その密儀をこらしていました。
( 八三三 、)長州の藩医の
天保四年 一
家に生まれた小五郎は、少年時代に桂
家の養子となり、武士となります。吉
田松陰の松下村塾に学び、剣術にも長
けた小五郎は、小さいころ病弱だった
ことが嘘のように、めきめきと頭角を
現していったのでした。
幕府を揺るがす未曾有の出来事、ペ
リーが来航したとき、小五郎は二十歳
でした。海防への関心が高かった小五
郎は、久坂玄瑞や高杉晋作と、尊王攘
夷派の中心的存在となっていきます。
しかし、勝海舟や坂本龍馬など、先進
的考えを持った他藩の人々との出会い
と交流は、しだいに小五郎を、薩摩・
土佐・会津藩など雄藩連合による維新
へといざなっていきました。
長州藩内でも頭角を現してきた小五
郎は、特に京都での政治活動に奔走し
ます。ところが京都では、反長州派に
よって八月十八日の政変、禁門の変と
時局が目まぐるしく変貌し、遂に長州
この後も幕府は長州への圧力を緩め
ず、厳しい状況のなか、木戸は各藩と
の周旋に奔走し、終に慶応二年(一八
六六)
、京都の薩摩藩邸において小松
帯刀や西郷隆盛らと会して薩長連合の
締結にいたったのです。ここに討幕へ
の序曲が開始されたのでした。
新時代への扉を開かんと昼夜なく走
り回る木戸が、太宰府に姿を現したの
は、慶応三年(一八六七)三月十七日
のことでした。
その少し前、京都からの帰途、長州
に 立 ち 寄 っ た 薩 摩 の 大 山 格 之 助 か ら、
このころかなり力を失くした幕府が太
宰府に幽閉している五卿を帰京させる
らしいと報告を受けた長州藩主は、三
月七日、木戸に書簡を預け太宰府の五
卿の下に行くことを命じたのでした。
途 中、 伊 藤 博 文 ら 幾 人 か の 志 士 と
会って時事を談義し太宰府に入った木
戸について、五卿の一人、東久世通禧
は、自身の日記『西溟日録』三月十七
日 の 項 に、
「 長 藩 木 戸 準 一 郎 桂 小 五
郎 也 今 日 着 宰、 一 昨 年 来 宰 旧 議 也 」
と記しています。この一昨年とは、前
述 の 龍 馬 の 一 件 の 時 の こ と と 思 わ れ、
その時にも、五卿のもとに木戸は訪れ、
会談に及んでいたことが判ります。
翌日十八日、土方楠左衛門、久留米
藩士水野渓雲とともに当宮を訪れた木
戸は、まず四卿を訪れ、続いて当宮満
盛 院 で 静 養 し て い た 三 条 実 美 に 謁 し、
干海鼠 な
( まこ と
) 羽 二 重 を 土 産 に、
長州藩主父子が帰京を歓んでいること
を告げます。夜には招かれて、五卿か
ら遠路はるばるの労をねぎらわれ酒を
賜っています。
木 戸 の 太 宰 府 滞 在 は 七 日 に お よ び、
その間、太宰府に集う各藩の志士と交
流し政治外交にも手を尽くしています。
ま た た び た び 五 卿 の 酒 宴 に よ ば れ、
『松菊木戸公傳』には、
「酒間慨然として
癸丑以来王事に勤め、外人の掃攘、賀茂
石清水両社の行幸、下関の防戦等より今
日に至れる形情を縷述して将軍慶喜の
瞻略軽侮しがたきを説き、若し機を失し
て幕府先を制することあらば朝政挽回
の困難なるを痛論」し、徳川慶嘉が弟を
フランスに留学させたことや、アメリカ
に甲鉄艦を注文しようとしていること
なども憂慮し、その語らいは、長州藩の
勤王の誠、これまでのことから未来まで
話が尽きなかったと記されています。
新時代への熱い思いが、その未来予
想 図 が、 そ の 担 い 手 に よ っ て 語 ら れ、
渦巻く歴史の一ページが、確かに当宮
で刻まれていたのです。
五月二十三日、使命を果たした木戸
は、長州へ帰っていったのでした。
帰郷に際して五卿は、木戸に長州藩主
父子への親書を託し、扇子十握を送って
います。
は た し て 大 政 奉 還 が な さ れ た の は、
半年余り後、十一月のことでした。武
士の時代から明治の近代国家へと、時
代は移ったのです。
当宮に滞在していた五卿もまた晴れ
て帰京し、木戸も新政府に活躍の場を
移しました。
木戸が亡くなったのは明治十年(一
八七七)五月二十六日、国内最後の内
乱西南戦争の最中、四十五歳でした。
No.176 とびうめ 秋号
03
48
神幸式の事始め
し
め
う
ち す も う
な
33
いりあい
入会の山
まぐさ
ち
高尾山の大行事塔の裏面には、
「文化十一年
甲戌九月」
「 太 宰 府 観 世 村 」 と 刻 さ れ て い る。
この山は、現在は木々が生い茂り眺望はきかな
いが、かつては薪や秣を採る山で、太宰府の町
が広々と見渡せた。ここばかりでなく、現在宅
地開発がなされている太宰府の丘陵地は、ほと
んど「野、野山、草山」といわれる茅山であっ
た。エネルギー革命が起こるまでは、燃料や肥
料、秣などを供給してくれる野・野山・草山は
人々の生活にとって大切な場所であった。その
土地は誰それの所有地ということではなく、共
有地であり、
「入会地」と呼ばれた。そうした
野山が非常に少ない観世音寺村の人が天満宮に
ほど近い高尾山に入会をさせてもらっていた。
その御礼に寄進した大行事石塔ではないかと考
えられる。
この大行事には文化十一年(一八一四)の年
号が刻されている。江戸後期、太宰府近辺では
いり あい
でない他の二町の若者にも加勢するようにと頼
み入れている。そして七月二四日には、鳥居の
前に「角力興行」の高札が掲げられたと見え、
大いに賑わった様が偲ばれる。
古老の話によると、大行事に懸ける注連は、
神幸式の注連打ちよりも先に作り大行事の石塔
に懸け、
「大行事にお参りしないと注連も打っ
てはいけない」といわれた。注連打相撲は氏子
六町の当番制で、力士は事前に「大行事」にお
参りをしないと相撲ができなかった。またその
際に「大行事」の前で注連打相撲の型を演じて
いたともいう。
謎の大 行 事
八月最終日曜日の朝、神職・氏子会役員・当
番区・祭祀係有志が揃って、現在は筑紫女学園
大学の構内になっている高尾山山頂に登る。山
頂にある「大行事」の石塔に、新しく綯った注
連縄を懸け、持参したお供えを供えて祝詞・大
祓詞を奏上した後、太宰府のまちの方角と榎社
の方角を大きく祓う。大行事は「行事を司る神」
ということで、神幸式という年中最大の行事が、
無事、滞りなく行われますようにと、神幸式大
祭の始まりに先立ちこの神に祈るのである。
同日、当宮境内では注連打相撲が行われ、各
地の青年や少年の相撲クラブの熱戦が繰り広げ
られる。また初誕生頃の幼子が化粧まわしを着
け、力士に抱いてもらって土俵入りをする豆相
撲は、人々の笑いと喝采を浴びている。
注連打相撲については、江戸時代、天保四年
(一八三三)の年中行事の記録に、
旧暦七月末日、
注連打ちが終わる七ッ半時(午後五時)頃より
「角力興行」
があったことが見える。力士は馬場・
連歌屋・山條(三条)の若者に申し付け、当番
大行事 安本多美子撮影
べし
とおの こ
森
が
弘子
まつごう
ひえ
庚申塔や恵比須神など石塔を建立することが流
行し、大行事も、現在の太宰府市・筑紫野市・
大野城市・福岡市博多区(旧席田郡)
・春日市・
那珂川町・宇美町・志免町・筑前町・朝倉市・
飯塚市・嘉麻市・小郡市、佐賀県基山町・鳥栖
市に、約七〇基の石塔が現存している。その立
地は多く、村境またはかつての入会山、秣場・
採草地にあり、牛馬の神とも五穀豊穣の神とも
いわれ、祭日には牛馬を連れてお詣りする者も
多かったという。
太宰府市内では高尾山近辺の下高尾、太宰府
ゴルフ倶楽部の四番ホール付近、竈門神社参道
のひあけ地蔵尊の横、北谷字ソイラ、松川字冷
林、三条菅谷、通古賀の薬師山、観世音寺の安
之浦池等にあり、国分辻と坂本の境にある文化
元年に立てられた大行事は、現在も九月十六日
に大行事詣りが行われている。昭和三十年代ま
ではお参りの後、国分天満宮境内で子ども相撲
大会を開いたという。子ども相撲に関しては,
各集落から代表をだし、その勝敗によって入会
地の茅を刈る順番を決めていた村もあった。
彦山四十八箇所大行事
ほうれん
たかみむすびのみこと
な
ら
うん
だん
太宰府近辺に多い「大行事石塔」であるが、
全国的には特異なケースで、他所ではちゃんと
した社に祀られている。彦山では、神領の重要
地点に四八もの大行事社が祀られていた。彦山
中興の祖法蓮はその呪術・医術を賞され弘仁十
年(八一九)嵯峨天皇より寺領方七里・十方檀
那の免許を与えられた。その弟子羅運は、弘仁
十三年(八二二)彦山神領内に神領護持のため
高皇産霊尊を祀る四八ヶ所の大行事社を建てた
かみ
か み む
かみ
す
ひのかみ
み
む
す
ひの
たかぎの
あ め の みなかぬしの かみ
たか
と伝えられている。
高皇産霊尊は『古事記』では、
「 高御 産 巣 日
神」と記され、天地開闢の時、天之御中主神・
神産巣日神とともに高天原に出現した三柱の神
のうちの一神という。常に天照大神を補佐して
諸神を統率する役割を持つ神で、別名を「高木
神」ともいい、天孫降臨の際、降臨の命令を下
す大役も担っている。
『英彦山神社在昔神領内四十八箇所大行事神
社安置所在地由緒』
(明治四十三年)によると、
彦山内の重要地点を守護する社が五ヶ所、彦山
末の主要山岳(彦山六峰)を守護する社が六ヶ
所 、彦山麓の主要地点を守護する社として七
大行事社 、そして彦山領内の村々を守護する
社二二ヶ所が記されている。彦山にとって重要
な大行事社であったが、時代の変遷と共に消長
があり、明治維新以後は福岡県側の大行事社は
「高木神社」と改称された。しかし、
「大行事」
は地名として残ったり、大分県側では「大行事」
の名を留める社もある。
宝満山の大行事
みょうけん
さ ん の う にじゅう い っ し ゃ
だいぎょうじばる
宝満山でも、ご祭神玉依姫命とともに示現し
たという十所王子の第一を「松尾大行事」とし
ており、中宮の神楽堂と東山麓の大石に祀って
いた。また神楽堂には白山大行事をも祀り、西
山麓の大行事原に妙見大行事が祀られていた。
大石の集落の上は現在桔梗ヶ原と呼ばれる
キャンプ場になっているが、かつては大行事原
と呼ばれ、松尾大行事社、松尾寺があった。し
かし野火による火災で焼失したため、文禄元年
(一五九二)に麓の集落に遷し氏神にしたとい
う。その鳥居の額には今も「大行事」であるが、
明治以後はここも高木神社となっている。ただ
し、江戸期の地誌『筑前国続風土記附録』に祭
神はすでに高木神、月弓命と記されている。
宝満山に於いても重要な神であった大行事と
は一体どんな神なのか。
それは「山王 廿 一社の中の七社のひとつと
考えられる」という先学の言葉をたよりに、比
叡山の近江側山麓に日吉大社を訪ねた。日吉大
社は同じ境内に三〇〇メートルほど離れて建つ
大宮(現在の西本宮)と二宮(現在の東本宮)
04
とびうめ 秋号 No.176
かみ
かみ
か ど の
おおぬし がみ
ひ
おおなんじ み ね
しらやま
べっさん
え
も
ひ
はくさんちゅうきょ じ ん じ ゃ
あめのおし ほ
く く りひめのみこと
みみ
な り かぶら
ちかつおうみのくに
おおものいみ じんじゃ
しろ
め
の
つるぎ だ け
ま
やますえ
お お やまぐいの
お お としの
という二つの本社を中心に、山王廿一社と呼ば
れる主要な神社群と山王百八社といわれる多く
の末社から構成されている。広い境内を尋ね歩
き、やっと東本宮本殿の裏に、かつて「大行事」
といわれていたという社を見つけた。その社は
現 在 で は 大 物 忌 神 社 と い い、 ご 祭 神 は「 大 年
神」であった。大年神は東本宮のご祭神大山咋
神の父君で豊作・穀物守護の神だと説明が書か
れている。
大 山 咋 神 は『 古 事 記 』 に「 亦 の 名 は 山 末 之
大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、
亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記
されており、
『釈日本紀』には「松尾と日吉と
は同体なり」とある。宝満山の松尾大行事と関
係あるかもしれないと、松尾大社を訪ねたが、
残念ながら大行事の痕跡は何処にも見出すこと
ができなかった。
ごんげん
と
みどりがいけ
ごぜんがみね
白山大行事
みょう り
おおなむちのみこと
みささぎ
い
たいちょう
かみのざいしょ
白山は御前峰・大汝峰・別山に神を祀ってお
り白山三所権現といわれた。主峰の御前峰には
白山 妙 理権現(菊理姫命・白山比咩・本地十一
面観音)
、北方の大汝峰には越南知権現
(大己貴命・本地阿弥陀如来)そして南の別山
には別山大行事(天忍穂耳尊・本地聖観音)を
祀っている。御前峰の後方(北)に聳える剱岳
は神代御陵の霊地とされ、白山権現(菊理姫命)
はその麓にある翠池で出生したと伝えられる。
三月末のある日、白山大行事を追って別山の
麓の集落石徹白を訪ねた。白山はまだ深い雪に
閉ざされ、標高七〇〇メートルに位置するこの
集落も其処此処に残雪がうずたかく積まれてい
た。上村俊邦先生に様々なご教示を頂きながら、
かつて白山信仰を全国に広めた御師の拠点で
、巨大
あった村を歩いた。その最奥「上在所」
な銅の鳥居の向こうに、二万平方メートルの天
然記念物の森に包まれ白山中居神社は壮大な社
殿を構えていた。
国の特別天然記念物「いとしろの大杉」は中
居神社から二里の白山登山道にあり、
「白山を
開いた泰澄が挿した杖に根が生え大杉になった
と語り伝えられている。石徹白の村人には、回
り番で数年に一度まわってくる「白山道刈り」
たかやま
てんれい
ひきやま
え
こ は く さ ん
まろうど
という奉仕作業があった。標高二三九九メート
ルの別山までの登山道を二泊三日で整備作業す
るのである。この作業によって各地から白山に
登る人は安全に登拝ができるし、村人にとって
は、地域の歴史伝承を次世代へ伝えていく大切
な行事だったという。
別山の山頂には別山神社の社殿がある。かつ
ては別山大行事(小白山大行事)と言われ、一
間四方の宝殿に五尺の金銅像が祀られていたと
いう。またこの付近で銅製経筒と朱書きの法華
経断簡が発見されている。別山大行事について
記した文書は多数あるが、それらをまとめると、
「大行事は、元々白山におられた地主神であっ
たが、天嶺(白山の主峰)を天神(妙理大権現)
に譲られ別山に遷られた。そして天神の補佐神
と し て 天 神 を 守 護 す る と 共 に、 天 神 に 代 わ り
高山・短山を治められている。聖観音の垂迹で
あり、金の矢を持ち、肩に銀の弓を懸けた、あ
るいは剣・笏を執り衣冠を正したお姿である」
とされ、また明星天子だともいわれる。
地主神といえば、関東最古の不動霊場で三代
天台座主円仁が開いたと伝える目黒不動尊の本
堂の後に、
「地主神 大行事権現」と朱字で刻
まれた石柱が建っている。別山大行事の天神を
守護し、天神に代わり大事を為すという点では、
古事記の高皇産霊尊に通じるものがあるが、別
山大行事は天忍穂耳尊とされている。椿大社の
ように大行事権現を猿田彦とする社もある。同
じく大行事といいながら、地域によって、祭神
も神の性格も役割も異なる。ますます謎は深ま
るばかり。しかしやはり天台宗と関係ありそう
な。そこで再び日吉大社を調べてみた。
ひ
日吉社の大行事
さんのう
日吉大社の西本宮のエリアには宇佐宮と白山
姫神社がある。江戸期まで、宇佐宮は「聖真子」
として上の七社の第三社、白山姫は「客人」と
して第五社に位置づけられていた。上の七社は
「日吉七社」ともいわれ、中世以後
「山王七社」
日吉社の祭祀の中核であった。ここに白山・宇
佐が組み込まれていることは天台宗に於ける両
社の重要性を物語っている。また宇佐宮と密接
な国東半島六郷満山には、開山のために白山の
ね
ぎ
く でんしょう
ほ く と どうたいせつ
え
ふ そ う めいげつ
てんそん に に ぎ の み こ と
またのな
さ ん け さいよう りゃっき
ひ
おおえのまさふさ
神が飛んできたという伝承もある。神々のネッ
トワークは摩訶不思議である。
網野暁氏によれば、山王七社の体制が確立す
るのは、天台の北斗同体説との結びつきを俟た
ねばならず、平安末期以後のこととされている。
それ以前に於いて大行事社は後の上の七社と同
等の位置にあり、一二世紀には宝殿・拝殿を有
する重要な社として成立していたとしておられ
る。
当宮の神幸式大祭をはじめた大江匡房の著作
と記された『扶桑明月集』では「日吉七社降臨
垂迹時代事」の項に、表題にもかかわらず、上
七社に大行事を加えた八社のことを記してい
る。ここでは「この神は天地開闢の時天降った
高皇産霊尊で地主権現の傍らに大行事として
顕現した」と説明がつけられている。地主権現
は天孫瓊々杵尊を祭神とする十禅師で上の七
社の第六として祀られていた。
一方「山王七社本迹二門」には「日吉大行事
又名猿田彦事」とあり、同じく天孫降臨に関
わる神でありながら、方や皇孫を送り出す神、
方や迎える神という異なる解釈がなされてい
る。 ま た な ぜ「 大 行 事 」 と い う か に つ い て は
『山家最要略記』に「吾はこれ、日本一州に限
らず、総じて一大千界の事を行う。故に大行事
と号す」とあり、この理由は、当宮の「神幸式
という大事を司る」事にも通じる。
大行事は猿田彦であるという説から大行事権
現の姿は「衣冠束帯をつけた猿」として描かれ
ることがある。しかし、織田信長の比叡山焼き
討ち以後は、大行事を猿に結びつけることはほ
とんどなくなった。そして近世末期に成立した
と考えられる『日吉禰宜口伝抄』では大行事を
二宮(東本宮)の祭神大山咋神の父「大年神」
とする説が登場する。日吉社に於いて東本宮は
西本宮よりも古くから鎮座しており、その父君
の神とする所にも「地主神」としての性格を見
出すのである。
謎となった大行事
明治維新を迎え、神仏が共存していた日吉大
社でも徹底的に神仏分離・廃仏毀釈が行われた。
大行事と言われた社は大年神を祭神とする大物
さんのういち じつ しん とう
忌神社に衣替えした。本家本元の大行事の消滅
は各地に遺る大行事の性格を一層わかりにくい
ものとした。加えて山王一実神道(日吉神道)
に於ける祭神の様々な解釈も、謎を深める原因
となった。しかし、祭神を当初の高皇産霊尊と
すれば、この神の持っている根源的な性格、働
きは、時代を変え所を変えても生き続けている
と考えられる。
宝満山の松尾大行事、白山大行事、妙見大行
事がどういう経路でこの山にもたらされたのか
は、未だに解明できてない。しかし鎮西の比叡
山とも言われ九州に於ける天台の一大拠点で
あった宝満山、あるいは彦山に、天台との関係
に於いて大行事が持ち込まれたことは否定でき
ないだろう。
そのことと、近世末期太宰府近辺に多数の大
行事石塔が建てられたことは切り離して考える
べきではなかろうか。想像をたくましくすれば、
宝満山に於いて大行事がまつられた場所が「大
行事原」と呼ばれたように、広々とした「原」
、
つ ま り 茅 山 で あ っ た こ と か ら、 類 似 の 場 所 に
次々と村人の発意により建立された。大行事の
前で相撲をとる所が多いのは天満宮の影響かも
しれない。
薪やマグサを採った茅山は高度経済成長期に
役目を終え、その守り神であった大行事も今で
は忘れ去られたように、団地の片隅に、神社の
境内に、村境の山中にひっそりと立ち、いった
い何の石塔だろうと「謎」の存在になってしまっ
た。
ただ一基、高尾山の大行事を除いては…。
ともいき
※本稿は、筑紫女学園大学人間文化研究所共同
研究「太宰府高雄山の歴史的・人間環境学的研
究~共生の視点~」の研究成果を元に作成した。
【参考文献】
上村俊邦『石徹白から別山への道』石徹白郷シ
リーズ①
上村俊邦『白山信仰史料集』石徹白郷シリーズ
⑥
網野 暁「日吉社組織における大行事の位置」
『年報 中世史研究』第二二号
岡田精司『京の社―神と仏の千三百年』塙書房
No.176 とびうめ 秋号
05
かがみ
よ
天神信仰の教学
の ち
⑱
安則
祢宜 味酒
明治初年は、国内での博覧会ブーム
の時代ともいえます。発端は慶応三年
夕揮毫会」として全国の天満宮にその
精神は継承されています。
近代における
天神信仰
み
け い こ う
い ち
れていましたので、後に学校行事とな
り、教師の話も加わり、菅公の学徳を
景仰する道徳教育の場にもなりました。
戦後の一時期を除いて、現代では「七
し ん げ ん
た だ
え が
(一八六七)のパリ万国博覧会です。政
府は、明治四年
(一八七一)東京九段招
魂社で、産業・文化の振興と博物館建
設 を 目 的 と し た 博 覧 会 を 開 催 し ま す。
太 宰 府 で は、 先 駆 的 に も、 明 治 六 年、
七年、八年の三回に渡って「太宰府博
覧会」を西高辻信厳らをはじめとして
催します。太宰府神社所蔵の宝物はも
とより県内近郊の文化財を収集展示し、
当時の社務日誌では、盛会で日延まで
したと記されています。菅公を「文化
の祖神」として崇拝した神賑でもあり、
これが隣地に平成十七年
(二○○五)十月に開館した
九州国立博物館誘致への道
の第一歩だったのです。
絵 画 の 分 野 に お い て は、
印 刷 技 術 の 発 達 と と も に、
肉筆は元より、印刷や複製
など多数の天神画像が作ら
れました。ここでも、この
時代の天神教学を反映して、
衣冠に身を制 した菅公を描
いた束帯天像座像が主流で
した。下村観山は、橋本雅
太宰府博覧会目録表紙
06
とびうめ 秋号 No.176
明
か い ま
かかわ
治 時 代 に 入 る と、 江 戸 初 期 か ら
始まった天神信仰の仏教色の希
薄化、菅公の伝承や説話を排除する気
運はさらに高まりました。それで、神
仏判然令や社憎還俗の太政官布告等に
よ る 社 家 制 度 の 解 体 で、
『天神縁起絵
巻 』を 始 め、 こ れ に 関 る 多 く の 宝 物・
什物が、全国の天満宮から町中へ流れ
出たのです。このような時代背景の中
で、天神信仰の教学は次の三つに大別
されます。まず、和魂漢才の菅公精神
をもって、文化・教育の神として信仰
です。次に、天皇への尊皇の鑑をもっ
て、忠誠の神としての信仰があり、さ
らに、藩校・私塾・寺子屋の守護神と
して継承された、学問の神として信仰
です。近代は、それらの総てが国民に
深く普及した時代といえます。
天神さまへの信仰は、平安の御代に
誕生した時より庶民が、農耕の神と崇
拝して大きく関っていました。同様に、
明治という新時代の人々も、天神さま
へ様々な御神徳を希求したのです。そ
の 中 で、 天 神 信 仰 の 歴 史 は、 つ い に、
御神忌一千年という大節目を迎えます。
その様相を垣間見てみましょう。
⑴ 教育・文化の神
庶民の間では、明治になっても天神
さ ま は、
「 手 習 い 神 」す な わ ち 習 字 と
学問の神であることは変わりませんで
し た。 地 方 で は「 天 神 講 」が 開 か れ、
子供たちは清書を近くの天満宮に奉納
しています。これは、学校単位で行わ
菅公坐像(下村観山)
したがさね
あ い
ま
ふ う あ い
かおり
ゆ え ん
こう
と よ か い
が
かんむり
に じ
う つ し よ
も と お り
と
ほ う ふ つ
な え そ う ぞ く
え が
き
とらえ
い
たけ
のっと
か わ な べ
う つ し よ
な が
け い
ぼ
『鉄道唱歌』
前記した大和田建樹は、
第二集山陽九州篇の全六十八番で、太
宰府を八分の一も割り当ています。彼
の菅原道真公への敬慕の情をひしひし
と感じずにはおれません。
たもと
あ さ ご と
身は沈めども忘れぬは、海より深
さ さ
き君の恩 かたみの御衣を朝毎に
捧げてしぼる袂かな
⑵ 忠誠の神
江戸時代の「尊皇」は、明治には「忠
節」
「忠義」へと移行しました。配所太
宰府にあって「恩賜の御衣今ここにあ
乙五円札紙幣(明治 43 年)
ぎょうさい
よ
さき
邦について狩野派の画風を修め、日本
美術院の創立に尽し、東京美術学校の
教授を務めています。菅公一千年忌大
祭を奉祝して、絵筆を執ったのが「菅
公坐像」です。綿密な時代考証に則っ
た 容 姿 は、 平 安 前 期 の 萎 装 束 で 袍 や
下 襲、 そ し て 冠 ま で も が や わ ら か く、
服装の輪郭がなだらかに描かれていま
す。知性と教養が滲み出る温和なお顔
と 相 俟 っ て、 現 世 の 菅 公 を 彷 彿 さ せ、
この時代の天神教学を捉えた作品とい
えるでしょう。
一 方 で、 明 治 前 期 に 活 躍 し た 河 鍋
暁斎も有名で、狩野派の画風に浮世絵
の風合を加え、筆墨を活かし文明開花
の薫のする作品が刷られています。ま
た、 幼 童 菅 公 像 の 出 現 も こ の 時 代 で、
菅公が五歳の頃に和歌を詠まれた故事
が由縁のひとつになっています。
さらに、書籍の分野においても、菅
公が薨じられてより一千年の御神忌の
年あたる明治三十五年を頂点に数多く
が出版されています。明治三十年、国
文学者で詩人の大和田建樹の『菅公』(博
文館)
は先駆けともいえる論考でした。
(音楽)の分野においても、現世
歌曲
の菅公その純忠を絶讃したもので、明
治三十五年の『菅公唱歌』などがあり、
邦楽でも、本居宣長の曾孫にあたる本
居 豊 穎 ら に よ っ て『 菅 公 』の 詩 が 作 ら
れています。さらに、その孫にあたる
『 國 學 院 大 學 校 歌 』を 作 曲 し た 本 居 長
世 は、
『十五夜お月さん 』
『七つの子』
とともに『通りゃんせ 』のメロディー
を編曲して童謡としました。
と な
ほしいまま
だ い ご
う
だ
かがみ
まことごころ
くわんぺい
り……」と詠まれた菅公の純忠な誠心
に、学者をはじめ誰もが、
「忠臣の鑑」
と称え、天神信仰の教学としても国民
に普及していきます。
戦前の紙幣の肖像、その候補に選ば
れた人物は、我が国の古代史の中で皇
室をお護りするために忠節で貢献され
た 方 々 で し た。 日 本 武 尊、 武 内 宿 祢、
藤原鎌足、聖徳太子、和気清麻呂、坂
上田村麻呂、菅原道真の七人です。菅
公は、明治二十一年発行の「改造五円
券
( 通 称「 分 銅 札 」)を 皮 切 り に、 終 戦
時までに合計六回、主に五円札に登場
して、
「道真札」や「御縁札」と呼ばれ
人々に愛されました。
そして、戦前の社格制度の中で、臣
下にあって、北野と太宰府は官幣中社
に列せられたのも、学問の神とともに、
忠誠の神としての朝野の信仰が定着し
たことと無縁ではないと思います。
学校教育の中でも、菅公は、明治五
年より終戦まで小学校の教科書の題材
となり、その御事蹟が、児童の人格形
成にも少なからず影響を及ぼしました。
ここで、明治三十一年の学海指針社編
に よ る「 新 撰 帝 国 史 談 」前 編 巻 一、 第
十二菅原道真の記述を見てみましょう。
第五十九代、宇多天皇の寛平年中、
衟眞得業生より出身して、遂に權大
納言に進み、右近衞の大將を兼ねた
りき。藤原氏は、その祖、鎌足の功
により、代々大臣となり、次第に威
權を恣にせしかば、宇多天皇、早く
御位を、醍醐天皇に讓らせ給ひ、衟
眞 を、 天 皇 に 勸 め て、 右 大 臣 と し、
せ き
ごんのそつ
ゐ
の ち
し ん
ね た
と き ひ ら
ま み
く
け い こ う
い ち で う
ぎょう
か え
左大臣藤原の時平と共に、政を執ら
し め て、 藤 原 氏 の 權 勢 を 分 ち 給 ふ。
衟眞は忠義の心厚く、政を決するこ
と、 水 の 流 る る が 如 く な り し か ば、
君の御おぼえ、殊にめでたかりけれ
ば、時平嫉むこと甚しく、様々に讒
言せしかば、天皇遂に衟眞を、大宰
權 師 に 下 し て、 筑 紫 に 移 さ れ た り。
されど、衟眞は、露程も、其無實の
罪を怨み奉らず、遠く君を慕ひ奉る
心、なかなかにやまず、詩を作りて、
いたく、今の見え奉りがたきをなげ
き、かねて賜はりし御衣を、朝夕う
や う や し く 拜 し て、 身 を は な さ ず、
君を思ふ心、ますます深かりきとぞ、
かくて太宰府に在ること、三年にし
て薨じぬ、年五十九。
天皇後に、衟眞の忠義なるを、却
りて左遷したるを悔いて、本宮に復
し、正二位を贈り給ひしに、一條天
皇、更に正一位太政大臣を贈り給ひ
ぬ、維新の後、朝廷にても、筑前の
太宰府に祀れる神社と、京都の北野
にあるものとを、官幤中社に列し給
ふ、是れ衟眞の學德、共に高くして、
忠誠の心、厚かりしに、よらずはあ
らざるなり。
この時代、学校行事でも、偉人の行
跡 を 偲 び そ の 人 格 を 景 仰 す る 偉 人 祭、
その中のひとつに菅公祭が行なわれて
いました。菅公祭は、二月二十五日の
祥月命日に終日をもって斎行されてい
ます。講堂の正面演台に菅公の御画像
を掲げ、祭典、唱歌、講話と続きます。
父兄母姉も同席するなど、学校の重要
No.176 とびうめ 秋号
07
45
な が し げ
こ う
八百年忌大祭
元禄 15 年 壬牛(1702)
八百二十五年忌大祭
享保 12 年 丁未(1727)
八百五十年忌大祭
宝暦 2 年 壬申(1752)
八百七十五年忌大祭
安永 6 年 丁酉(1777)
九百年忌大祭
享和 2 年 壬戌(1802)
九百五十年忌大祭
嘉永 5 年 壬子(1852)
一千年忌大祭
明治 35 年 壬寅(1902)
一千二十五年忌大祭
昭和 3 年 戌辰(1928)
一千五十年忌大祭
昭和 27 年 壬辰(1952)
一千七十五年忌大祭
昭和 52 年 丁巳(1977)
一千九十年忌大祭
平成 4 年 壬申(1992)
一千百年忌大祭
平成 14 年 壬午(2002)
あらわ
慶安 5 年 壬辰(1652)
ち ん
こ う ぐ う
み ち と み
と し つ ぐ
七百五十年忌大祭
し ん い
しょうだい
ひがし く
ぜ
の
ま え だ
そ え じ ま た ね お み
お
じ
あ ま た
じ に ん
い ず み
わ た
そ ほ う
そ え
菅公の末裔と称される家系は、朝野
に渉り数多あります。この時代、子孫
として活躍した人には、大隈重信、副
島種臣、徳富蘇峰らが上げられ、菅公
を厚く尊崇するとともに世に顕彰して
います。
大隈重信は、佐賀藩士で外相や首相
を務め、維新政府の要職を歴任した政
治家であり、早稲田大学の創立者で初
代総長という教育者でした。自著『菅
公談』
(明治三十三年発行)の中で出自
き わ
大隈重信
が菅家で、その子孫であると系図を示
して明言しています。そして、同書の
中で次のように述べています。
私も幼少の際より數回太宰府の廟
へも參拜致しましたが、其等の關係
からして、私も自から菅公の德の感
化を享けた事が餘程多い様に存じま
する。先ず家庭に母などより敎訓を
受くるに、平素に菅公の事蹟を話さ
れた。卽ち菅公といふ御方は第一に
運命の神として大切である。一體武
士といふものは、武運と云って運が
强くなくてはいけない。それから文
學の神として大切である。所謂學問
をする上に就いて最も大切な御方で
ある。故に平素に其德を仰いで、菅
公の如き人にならなくてはならぬと
云 ふ こ と を 云 聞 せ ら れ て 居 ま し た。
其感化力といふものは餘程强いもの
である。
副島種臣も佐賀藩士で、幕末には志
士として活動、維新後参議となり、外
務卿在任中にマリア・ルーズ号事件の
解決にあたります。その時、中国人労
働者を解放したことで、正義と人道の
08
とびうめ 秋号 No.176
行事の一環だったともいえます。
だ
慶長 7 年 壬寅(1602)
りゅうすけ
め い
と ら
ところで、事務長の
小野隆助は、天満宮社
じ ま
家の小野加賀家に生まれ、菅公一千年
太宰府天満宮の歴史の中で、藩祖黒
田如水は、嫡子長政とともに、最大恩
大祭では、東奔西走の活躍をした近代
人といえるほど、天満宮を信仰しそし
の「 神 人 」で し た。 父 氏 伸 の 実 兄 が 真
て厚遇しました。さらに、
木和泉です。福岡藩士であり尊皇の志
が高く、新政府軍として参戦し無事凱
菅公の盛徳は、明治の昭代となって
旋しています。わが国最初の衆議院議
益々現れ、その神威は長く皇国日本
の鎮
(基盤)
となるでしょう。
員に選ばれ、香川県知事に任じられた
後に退官しました。明治二十九年には、
とも述べ、菅公への如水以来変らぬ
黒田家の崇敬の念を表明しています。
日清戦争で撃沈した戦艦定遠を許可を
得て引揚げ、その艦材で境内に「定遠
さらに、評議員に五卿の一人東久世
館」を建てました。一方、
この大祭では、
通禧、旧加賀藩主で菅家宗族会の前田
利嗣、参議外務卿を務めた副島種臣ら
その記念に徳川慶喜、西郷從道、下村
が い ま し た。 そ し て、 事 務 長 に 小 野
観山、上村松園など、全国五百人を超
隆助、副事務長に田中種光、委員とし
える知名士、文化人に依頼して書画帳
て高原謙次郎が就任しています。この
『餘香帖』を制作奉納しています。また、
菅 公 会 を 基 盤 と し て 太 宰 府 神 社 で は、
明治三十五年には、大祭の参拝者の利
御本殿の修理をはじめ、文書館の建設、 便のため、太宰府と二日市を結ぶ軌道、
梅 林 及 び 境 内 の 整 備 を 行 っ て い ま す。 「 馬 車 鉄 道 」を 田 中 種 光 ら と 開 設 し ま
これより前に太宰府神社は、その由緒
した。この鉄道が現在の西鉄太宰府線
の原点で、九州初の私鉄の参宮線でし
と歴史を中央に明示し
た。
たことなどで、神社の
社格が明治二十八年に
官幣中社に昇格してい
⑷ 菅公末裔の活躍
ま し た。 こ の 気 運 に
乗って、菅公一千年大
祭 を「 神 社 を 全 国 に 知
らしめす好機」と捉え
ていたのです。そこで、
太宰府に関する出版物
が多数刊行されました。
中でも、高原謙次郎ら
が 執 筆 し た 歴 史 書『 太
宰府史鑑』は有名です。
七百年忌大祭
かんびょう
ま い こ つ
く ろ
⑶ 菅公一千年大祭
年号 干支(西暦)
年忌大祭
か ん き ょ
明治三十五年
(一九○二)は菅公の薨
去後一千年神忌にあたり、三月二十五
日より四月二十五日の間に菅公一千年
大祭が斎行されました。大祭に先立ち、
明 治 三 十 二 年 に 奉 賛 組 織 の「 菅 公 会 」
が結成されます。会長は旧福岡藩主黒
田家当主黒田長成が務めています。四
月一日に行われた記念式典の挨拶の中
で次のようなことを述べています。
菅公の埋骨の御墓所でもある太宰府
神社は、私ども黒田家の旧領の中に
あり、祖先黒田如水は、実にこの神
社の境内に閑居して余生を送り、長
政と共に菅廟
(太宰府神社)復興のた
めに大いに尽力いたしました。
江戸時代からの菅原道真公年忌大祭
かがみ
つ な
人 と し て 国 際 的 評 価 を 受 け て い ま す。
征韓論争では下野しますが、そののち
枢密顧問官や内相を務めています。大
隈に同じく、菅家の系譜と称し、菅公
を鑑に、漢詩や書道を能くしていまし
た。 菅 公 一 千 年 忌 大 祭 の 菅 公 会 で は、
評議員として中央政界への繋がりを生
かして、千年祭の成功のため尽力して
います。
徳富蘇峰は名を猪一郎といい、肥後
藩の郷士の家に生まれました。学識の
豊かな両親のもとで育った蘇峰は、上
京して、民友社を設立し、雑誌『国民
之 友 』の 発 行 や『 国 民 新 聞 』の 創 刊 し
ます。明治・大正・昭和を又に掛けた
当代屈指の言論人であり、評論家、歴
史家でした。石碑に風格のある書体で
刻まれているように、自らを菅公の末
すがわらの せ い け い
裔と称し「菅原正敬」と記しています。
菅公を出自とすることに自負心をもっ
ていたことが伺えます。
徳富蘇峰詩碑
ざ ん
り
みかど
え ん
ざ ん げ ん
し た
あ
ゆ え
一朝 讒罹にかかり寃を呑んで西涯
に謫せらる
時を傷んでは蒼碧を仰ぎ君を愛して
は向日の葵
祠堂 天下にあまねく 純忠 百世
の師たり
び と
の ち
学者の家系に、才能に恵まれて生ま
れ、朝廷に重く任用される。厚き皇恩
に深く感動して、その身の危険をも顧
みなかった。ある朝、讒言に遭い、無
実の罪を受け入れて、西国太宰府で流
され人となる。時勢を思い悩んで、澄
んだ空を仰ぐ時も、帝を慕う心はいつ
も太陽に向かって花を咲かせるという
「 ひまわり 」のようだった。それ故に、
天神さまは民衆の心の中に今もあり参
拝 は 絶 え な い。 菅 公 の 誠 心 の 精 神 は、
百代後まで鑑となるでありましょう。
ま さ
ゆ う こ う
は た
だ い
こ う き ょ
そもそも、近代における天神信仰と
は、私たち日本人にとってどのような
存在だったのでしょうか。幕末から明
治に入り、天神信仰はその教学をさら
に展開していきます。近代日本の教育
の普及や学問の発展のために、天神信
仰や菅公精神が果した役割は大でした。
正しくそれは、日本の近代文明を生み
だす原動力だったと言っても過言では
ありません。菅公が、太宰府で薨去さ
れて、一千百年以上の歳月が経過しま
した。しかし、現在もなお、参拝の列
は 途 切 れ る こ と は あ り ま せ ん。 ま た、
菅公研究も脈々と継承され、菅公精神
の幽光も今に見ることができます。近
代の天神信仰は、その時代の日本人の
要望や志向に見事なまで応答し、学問
や教育、習俗や伝統など日本文化の核
心とともに発展しました。さらに、天
神信仰がこの時代を生きたたくさんの
人々、それも各階層の人たちのそれぞ
れの魂の中に生き続け、生活の奥深く
に根ざして行った時代だったといえる
のです。
〔参考文献〕
天満天神信仰の教育史的研究 遠藤泰助著
講談社
(昭和四十一年)
天神信仰史の研究 真壁俊信著 続群書類
従完成会
(平成六年)
天神信仰と先哲 真壁俊信著 太宰府天満
宮文化研究所
(平成十七年)
「古都太宰府」の展開 太宰府市史編集委
員会編
(平成十六年)
神苑石碑巡り 太宰府顕彰会
(平成十三年)
(次回は、知識人・文化人の天神信仰)
No.176 とびうめ 秋号
09
(漢詩)
儒門出大器 抜擢 台司
感激恩遇厚 不顧身安危
一朝羅讒構 呑寃謫西涯
傷時仰蒼碧 愛君向日葵
祠堂遍天下 純忠百世師
昭和二十九歳 蘇峯菅原正敬頽齢
九十二
(書き下し文)
儒門 大器をいだす抜擢せられて台
司にのぼる
恩遇の厚きに感激しては身の安危を
顧みず
徳富蘇峰碑
副島種臣書(餘香帖)
春日連合会 六月三日(水)
き一名の新会員を獲得する 」
のもと各連合会部会において総会を開
催致しました。総会前には御本殿にお
いて正式参拝を行い、会員の皆様の御
健康、御多幸を祈念し、御参拝をいた
だきました。
総会においては目標達成に向けての
活発なご意見を頂戴し、その後の直会
も会員相互の懇親を大いに深めること
ができました。
会員の皆様におかれましては益々の
御崇敬と御支援、御協力を賜りますよ
うお願い申し上げます。
青年部
梅ちぎり
太宰府連合会 六月五日(金)
太宰府天満宮の境内には約二百種
類、 約 六 千 本 の 梅 の 木 が ご ざ い ま す。
六 月 一 日 の 飛 梅 ち ぎ り 神 事 に 始 ま り、
日佐連合会 六月四日(木)
国際奉仕婦人部
咲 か さ れ、 賑
わっておりま
し た。 こ の 研
修会が会員相
互の交流に繋
がれば幸いで
ご ざ い ま す。
最後になりま
し た が、 御 担
当いただきま
した錦梅委員
会の皆様に篤
く御礼を申し上げます。
平成二十七年度 総会
太宰府天満宮崇敬会は、天神様の信
者組織として昭和四十三年に創立発会
し、 本 年 は お
陰様をもちま
して四十七年
目を迎えてお
ります。
崇敬会活動
目標である
「会員拡大と
会員意識の高
揚に努める 」
「 組 織 の 充 実、
強化を図る 」
「一会員につ
大野城連合会 六月十日(水)
花菖蒲観賞会
六月十一日(木)国際奉仕婦人部花菖
蒲 観 賞 会 を 錦 梅 委 員 会( 梅 居 孝 江 委
員 長 以 下 十 五 名)御 担 当 の も と、
四十三名の御参加をいただき開催致し
ました。これは境内の花菖蒲が見頃を
迎えるこの時期に会員の皆様の研修と
懇親を深める為に企画、開催されてい
るものでございます。
当日は御本殿に於いて正式参拝を行
い、婦人部会員の皆様の御健康を祈念
させていただき、その後社務所二階余
香殿に移動し開会を致しました。
本年は太宰府天満宮創始、味酒安行
公 よ り 四 十 三 代 目 の 社 家 を 継 承 す る、
当宮の味酒安則禰宜より「太宰府の誕
生と竈門神社」についてご講演を行い
ま し た。 太 宰 府 と 大 宰 府 の 違 い か ら、
太宰府政庁の創建、太宰府の鬼門であ
る竈門神社の歴史に
ついてお話をいただ
き、 会 員 の 皆 様 も 興
味深く聴いておられ
ま し た。 特 に 竈 門 神
社が栄えていた時の
様 子 な ど、 興 味 深 々
の御様子でした。
直後の直会では皆
様、 講 演 談 義 に 花 を
青年部
約十日間かけて境
内の梅の実を職員
が 収 穫 致 し ま す。
六月七日(日)の梅
ちぎりには青年部
会員十名が参加し
ました。初めて梅
ちぎりを体験する
方もおり、和気藹
藹とした雰囲気のもと、清々しい汗を
かいておられました。
西日本吟詠会支部
文書館清掃奉仕
六 月 十 二 日( 金)西 日 本 吟 詠 会
支 部 の 三 十 六 名 様 に よ り ま す、
文書館の清掃奉仕が行われまし
た。お陰様で
室内や窓、ま
た暑い中、梅
林の清掃も行
われ、非常に
清々しい状態
に整えていた
だきました。
青年部 日帰り研修旅行
崇敬会青年部 福田健一
平成二十七年七月二十日の海の日に
崇敬会青年部の日帰り研修旅行を十六
名のご参加をいただき、世界遺産の暫
定リストに登録され、また平成の大造
営が行われている宗像大社にて開催致
10
とびうめ 秋号 No.176
しました。
世界遺産の暫定リストに決まり世界
的に注目を集めている宗像大社は、道
主 貴 と し て 信 仰 を 集 め て お り ま す が、
社殿の老朽化に伴い御本殿の改修工事
が行われており、その改修工事も昨年
末に完工し、真新しくなった拝殿にて
正式参拝を執り行っていただきました。
また正式参拝後、長友権禰宜
より御本殿改修工事に伴う説明
と境内の案内をしていただきま
した。
まずは高宮祭場へ向かい、古
からの祭祀、祈りの在り方等々
の説明をしていただきました
が、その際、以前は高宮での巫
女舞は太宰府天満宮の巫女さん
たちに舞っていたとうかがい太
宰府天満宮とのご縁を感じるこ
とも出来ました。
高 宮 祭 場 を 後 に し、 第 二 宮、
第三宮へ向かい、宗像三女神の
説明を受けながら神宝館へ。
神宝館では、まず世界遺産で
注目を集めている沖ノ島の説明
を 中 心 に し て い た だ き ま し た。
その際、沖ノ島から出土したす
べての神宝は国宝指定だという
ことでみな驚嘆の声をあげてお
り ま し た。 沖 ノ 島 で は 昭 和
二十九年からの三次に亘る学術
調査にて出光氏の多大なる貢献
の話に感銘を受け、悠久の歴史
を肌で感じることが出来た研修
となったと思います。神宝館拝
観後、食事時にはゲリラ豪雨に
遭い足止めをくらいましたが、途中道
の駅むなかたに立ち寄り、天然温泉の
やまつばさで休憩しながら無事に帰路
に着くことが出来ました。
今回の研修では、宗像大社の歴史を
通し、改めて日本の古に思いを馳せな
がら、また機会があれば宗像大社へう
かがってみたいと思いました。
最後になりますが、暑い中参加され
た皆様、お疲れさまでございました。
役員委嘱
崇敬会支部並びに皆様のお世話をし
ていただく役員の委嘱が左記の通り行
われました。何卒ご協力の程宜しくお
願い申し上げます。
太宰府連合会
(顧問) 吉 塚 太喜雄
太宰府連合会
(会長) 竹 森 淳
☎ 0 9 2 -9 2 2 -8 4 84
日佐連合会
太宰府天満宮 崇敬会本部
・国際奉仕婦人部 一千円
・青年部 一千円
崇敬会本部までお気軽にご連絡、お問い合せ下さい
ませ。
・正会員(戸主) 三千円
(家族) 二千円
※但し連合会、支部所属の御家族は、一千円
・名誉会員 一万円
・法人会員 三万円(会社、団体での御入会)
・秋の奉納スポーツ大会
崇 敬会の各連合会においてグラウンドゴルフ、
ゲートボール、パークゴルフの奉納大会を開催
致します。
年会費
崇敬会行事の御案内
・奉幣大祭、大会
天神様に感謝の誠を捧げる崇敬会員の大祭、そ
して大会が行われます。
・研修旅行
全国各地の神社へ正式参拝を行い、各地の歴史、
伝統文化に触れる研修を致します。
太宰府天満宮崇敬会(昭和四十三年創立、現会
員数約七 , 000名)は御祭神 菅原道真公の御
神徳「誠心」をいただいて、一家の幸せと繁栄を
願い、日本文化の伝統を守り、より良い社会づく
り、国づくりに努め、広くは世界平和に寄与する
崇敬者の集いでございます。
社報にて活動のご報告を行っておりますが、他
にも沢山の行事がございますので、是非御参加を
いただき、天神様と御縁を結ばれますよう、御入
会を心からお待ち申し上げます。
お問い合わせ、お申し込み先
部会費
太宰府連合会
(副会長) 吉 松 憲 弘
太宰府連合会
(監事) 宮 川 和 子
太宰府連合会 第七支部 (支部長) 吉 原 和 知
春日連合会 昇町支部
(副支部長)森 田 明 美
No.176 とびうめ 秋号
11
春日連合会 泉支部
(副支部長)中 村 昌 俊
春日連合会 須玖北支部
(支部長) 伊 藤 敏 昭
大野城連合会 瓦田支部
(支部長) 高 平 丈 男
(順不同敬称略)
太宰府天満宮崇敬会 入会のすすめ
山鹿灯籠千人踊りに参加して
巫女 渡邊 萌
八月十六日(日)に開催された伝統ある山鹿灯
籠祭りの「千人灯籠踊り」に、太宰府天満宮の一
年目の巫女七名が参加させて頂きました。山鹿は、
熊本や玉名の町から内陸 に向かってバスで一時 間
ほどの福岡との県境、豊前街道沿いにある小さな
温泉町です。
このお祭りの由来は、古事記や日本書紀の時代
にさかのぼり、景行天皇が旅をしている時に、菊
池 川付近で深い霧に包まれ足が止 まり困っている
ところを、山鹿の人たちが松明を掲げて天皇をお
迎えしたそうです。それ以来、天皇をお祀りし毎
年松明を献上 することになったのがはじまりであ
ると言われています。
当日は、山鹿に向かうにつれ、段々と雲行きが
怪しくなり、途中、雨がひどくなれば中止という
情報も入ってきて、無事に行われるのか心配にな
りました。
し か し、そ ん な 心 配 と は 裏 腹 に、山 鹿 の 町 は、
町中がお祭りムード一色で、多くの観光客も見受
けられ、町中の誰もがこのお祭りに参加している
雰囲気でした。
千人灯籠踊りの会場は、山鹿小学校で、グラウ
ンドの中央におかれた舞台を中心に、踊り手たち
が同心円状に幾重にも重なって踊ります。頭上に
金灯籠を乗せた千人もの踊り手たちが同じ浴衣を
着て舞台を囲む様は圧巻です。
踊 り の 本 番 が 近 づ く に つ れ
雨 足 が 強 ま り、無 事 に 行 わ れ
る か 不 安 で し た。し か し 不 思
議なことに踊りが始まる直前
に は、雨 が 急 に 止 み、静 か な
グ ラ ン ド に 響 く 笛 の 音 色 は、
それはそれはとても厳かな雰
囲 気 で、私 た ち の 気 持 ち も 自
然と高まっていきました。
いよいよ民謡の「よへほ節」
に合わせて踊ります。
よ ー へ ー ほ ー 何 と も ゆ っ
た り と し た 節 は、今 で も 耳 に
残っています。
途 中 少 し 雨 が 降 る 時 も あ り
ま し た が、最 後 ま で 無 事 に 踊
ることが出来ほっとしました。
町中の人が毎年楽しみにしている伝統ある山鹿
踊りに参加できたことは、本当にとても貴重な経
験でした。今度は是非観る側でも参加してみたい
です。
最後に、山鹿踊りを通じて関わった全ての方々
に、感謝申し上げます。
ありがとうございました。
12
とびうめ 秋号 No.176
太宰府天満宮に納められた弥生時代の祭器
はじめに
太宰府天満宮には菅原道真公ゆかりのお品をはじめ、さまざまなご宝物がおさめられていま
すが、じつはそのなかには弥生時代の青銅器もあるということをご存知でしょうか。今回は
この太宰府天満宮ご所蔵の、弥生時代の青銅器のひとつをご紹介しましょう。
ここに掲載する写真の青銅器は銅戈といいます。一見すると剣のように
銅戈 みえますが、木の柄を刃の向きと直交するようにつけます。つまり、ま
さかりのようなすがたになるわけです。この銅戈、弥生時代のはじめ頃には各地
の有力者と目される人のお墓に納められました。そのうち弥生社会が成熟してく
ると、銅戈は祭器としての性格が強まり、十数本から数十本をまとめて山や台地
などさまざまな場所に埋められるようになります。今回ご紹介している銅戈は、
祭器として十数本まとめてどこかに埋められたとみられるものの一つです。それ
では、この銅戈はいったいどこに埋められていたのでしょうか。
この銅戈は太宰府の片野山から出土したとの伝えがあ
戈( 弥 生 時 代・1 世 紀
出土地はどこか ります。福岡の儒臣江上源伯華が郡吏津田源次郎に提 銅
伝太宰府市片野山出土
太宰府天満宮蔵)
出した「古銅矛記」という書付によると、天明四年(1784)二月六日に清太と
いう名の牧童が木を切りに片野山に立ち入り若木を刈っていたところ、銅矛(実際は銅戈)十一口を掘り出し、
同年九月に太宰府菅公廟(いまの太宰府天満宮)に納めたというのです。
ところで、清太はなぜ銅戈を太宰府天満宮に納めたのでしょうか。いまでこそ考古学の研究がすすみ、銅戈
が弥生時代の祭器であることはがわかっています。しかし、当時はまったくわからなかったわけで、これを
神様の所業と考えられもしました。あるときは祟りをおそれ、またあるときはめでたい前兆としたのでしょう。
全国の社寺には、こうしておさめられた青銅器などがおさめられているのです。いずれにしてもこの銅戈と
その来歴は、清太が銅戈を発見した 18 世紀後半における太宰府天満宮と地域とのつながりを物語るのです。
国学者としてその名の知れた青柳種信 (1766-1835) は、この片野山の銅戈を太宰
青柳種信も調査 府天満宮にて調査し、スケッチをのこしています。いまそのスケッチは福岡市博物
館に収蔵されていて、年明けに九州国立博物館で開催する「太宰府天満宮の地宝」でもご紹介する予定です。
さて、青柳種信によりますと、この片野山は太宰府村の巽(東南方向)にあり、より具体的な出土地点につ
いては六反田の西、高尾山の南の尾根筋であるとしています。また、
『扶桑略記』や『百練抄』といった古記
録にも青銅器出土の記録があり、さらにその西に鉾浦という地名があるとしています。
「太宰府旧蹟全図北図」
という 1806 年頃に制作されたとみられる地図にも、それと思しき地点に「ドボコ出ル(銅鉾出る。の意か)
」
と書き足しがあります。なお、種信がいうように、
『百練抄』には安元元年(1175)に安楽寺(いまの太宰
府天満宮)の巽(東南方向)の嶺から「銅鋒」が十口出たという記録があります。私は、場所を示す起点が
安楽寺であることに注目しています。12 世紀において、安楽寺が地域の中核的な存在であったことがうかが
えるからです。
ちなみに、いま太宰府天満宮の楼門あたりから巽(東南)の方角を向くと、なにが見えるでしょう。そう、
九州国立博物館へと通じる天満宮アクセスがみえます。かつて青銅器が出土した安楽寺の巽の嶺とは、いま
の天満宮アクセス、あるいは九州国立博物館あたりかもしれないと考えるのもまた一興というものです。
太宰府天満宮が所蔵しておられる弥生時代の青銅器は、ほかにもまだ数点あり、そのいずれもが
おわりに 太宰府天満宮との深い縁によって結ばれています。
年明け 1 月 1 日から九州国立博物館で開催する「太宰府天満宮の地宝」は、展示面積は決して広くありませ
んが、きっと太宰府天満宮をとりまく歴史に深く分け入ることができると思います。ぜひご期待ください。
(九州国立博物館 主任研究員 市元塁)
九州国立博物館開館 10 周年記念新春展示
「太宰府天満宮の地宝」
会 期 平成 28 年
(2016)
1 月 1 日から 2 月 28 日
会 場 九州国立博物館 4 階 文化交流展示室 関連第 1 室
休館日 月曜日
(ただし 1 月 11 日
(月・祝)
は開館、翌 12 日
(火)
休館)
なお、1月4日、1月18日、2月1日の各月曜日および翌火曜日は開館します。
13
No.176 とびうめ 秋号
太宰府市には、私の知る限りで、楷
の木が四本あります。場所は「学校院
跡」に二本、すぐ北側の「太宰府天満
宮 ご 神 田 」 の 東 側 に 一 本。「 国 分 寺 講
堂跡」に一本。計四本が植樹されてい
ま す。 二 十 年 ぐ ら い は 経 っ て い ま す。
樹形が良くて、秋の紅葉は見事です。
楷の木とは
足利学校の楷の木
曲阜への道は、現在でも北京から急
行で十時間、さらにバスで四時間かか
ります。大正や昭和の初期に、孔林を
たずねて楷の種子を持ち帰り、育てた
人 々 は、 こ の 楷 を「 儒 学 の 象 徴 」「 学
問の木」として、我が国にひろめるこ
とによって、孔子への敬慕、儒学思想
の普及、そして中国との友好を願った
にちがいありません。中略=大正四(一
九一五)年、東京林業試験場場長の白
沢保美博士は、曲阜をおとずれ、孔林
の種子を持ち帰って、その苗を各地の
孔子廟や、儒学に関係の深いところに
配布されました。日本渡来の初めです。
大正十一(一九二二)年、そのうちの
貴重な二株が足利学校にも贈られまし
た。
贈られたところは、湯島聖堂(東京
都)多久聖廟(佐賀県)閑谷学校聖廟
(岡山県)以下略。
福岡県地理全誌
観世音寺地区。学校院址
ビ ン
シ
ケ ン
か い
楷の木
前略=里民学業ト云。吉備公始メテ
立テラルト云。吉備公ハ孝謙天皇。天
平勝宝六(七五四)年甲午ニ大宰大貮
ニ任セラル。然レバ此時、創立セラレ
シニヤ。江家次第巻五。釈典條ノ註ニ。
或説曰ク。吉備大臣入唐シテ弘天館之
画像ヲ持チテ彼ノ本ヲ大学寮ニ置クト
アリ=
古、京都ニテ釈典ノ礼アリシ時、大
学寮ニハ孔子及ビ十哲ヲ祭ラル。諸国
ニハ先聖文宜王、先師顔子ヲ祭ル。但、
大宰府ニハ先聖先師閔子騫三座ヲ祭レ
リ。延喜式ニ見ユ。
吉備公将来ノ像、今太宰府神社文庫
ニ蔵ス。
孔子立像八寸五分。顔子同六寸七分。
閔 子 同 六 寸 七 分。 銅 像 ニ テ 古 物 ナ リ。
以下略。
筑前名所図会 奥村玉蘭
マ マ
学校院址
前略=学業院は吉備公の始めて立給
ふといふ。吉備公は天平勝宝六年に大
宰小貮に任ぜらる。然ればこの時創立
し給ひしにや。また吉備公入唐して弘
文館の聖像を持来り、大宰府学業院に
安置し奉らるる銅像なりと云傳ふ。吉
備公また、百済の畫師に命じて、彼本
をうつさしめ、都の大学寮に奉づらる。
古へ本朝に釈典の礼ありし、大学寮に
は 孔 子 及 十 哲 を 祭 ら る。 十 哲 の 顔 渕。
再伯牛、仲弓、宰我、子貢、季白。秀
路、 閔 子 騫、 諸 国 に は、 先 聖 文 宜 王、
顔子、閔子四座を祭りしよし、延喜式
多久聖廟
八尋 千世
14
とびうめ 秋号 No.176
に見えたり。=後略
太宰府を語る会
会誌九号
大学頭林韑書「進徳館」木村明敏
玊
前略=博多の豪商、 蘭は安楽寺天
満宮絵馬堂建立に続いて、湯島の聖堂
にならって、筑前国大宰府観世音寺の
地に聖堂建立の大事業を思い立つ。元、
甘棠館学者、亀井昭陽を總裁として甘
棠館の気風を持った聖堂を、大宰府玊
蘭堂のそば、学校院址に十五間四方の
土壇をつくり、同址から出土する敷瓦
( せ ん ) を な ら べ、 上 棟 中、 心 身 を 労
して胃疾となり博多中島町の自宅に送
還される。中略=病ますます悪化、聖
堂館建立と、甘棠館再興の目的を達せ
ず、文政十一(一八二八)年五月六日
六十八才で死去した。後略
湯島聖堂より太宰府天満宮に
植樹する楷樹を戴く
たと思いました。十年ぐらい前に学校
院跡で樹形の良い紅葉の木を見つけま
した。側まで行きました。よく見ると
楷の木です。驚きました。嬉しかった
です。新芽から紅葉まで足繁く通いつ
めカメラに収めました。
枯れたと思っていたのに何故と不思
議 に 思 い ま し た。 お ま け に 三 本 で す。
文化財課の山村信榮さんにお聞きしま
した。
太宰府天満宮の馬場宜彦祢宜さんが
ライオンズクラブの関係で、足利学校
を通じて、中国本土の孔子の子孫のお
家から、楷の木の種をゆずり受け、天
満宮で種を蒔かれました。最初は植木
鉢で育成されました。平成八年(一九
九六)に太宰府文化ふれあい館が開館
するにあわせて天満宮の馬場宜彦さん
と森弘子さんとの協議の結果三本が学
校院跡に植樹されました。国分寺もこ
の時に植えられたものと考えられます
と、ご返事を頂きました。
毎年、堂々とした樹形の紅葉は、道
行く人の目をたのしませています。
木村明敏先生も満足されていること
と思います。
多久聖廟の楷の木も見事な大木です。
追記
馬場宣彦さんは、わざわざ曲阜まで
行って楷の木の種子を頂いてこられ
て、苗を育てられたのです。その木が
今は立派な木になっております。
無 念、 平 成 二 十 七 年 八 月 二 十 五 日、
台風十五号により倒壊。再生する事を
願うのみ。
No.176 とびうめ 秋号
15
木村明敏
私は平成四(一九九二)年十一月十
三日午後四時、東京都文京区湯島一丁
目四〜一二五〜湯島聖堂を訪ねまし
た。宮田経理主任に来意を告げて、太
宰府天満宮西高辻信良宮司よりの、楷
樹贈呈依頼書を手渡して、その経緯に
ついて説明をしました。中略=
湯 島 聖 堂 よ り 戴 い た 楷 樹 は、 長 年、
聖堂建設の志を持って努力された延寿
王院信全卿が計画されて、上棟式まで
行はれ、天満宮の古図にも描かれた現
在の宝物館横の地に、味酒主事の手で
植樹され、地下の信全卿も聖堂にかか
わりのある楷樹をよくぞ、この地に植
樹してくれたとお喜びのことと思いな
がら楷樹の成長を祈って筆を置きます。
後日、私は神社で楷の木をさがしま
したけれど見当りませんでした。枯れ
メタセコイア 中国四川省産
撮ったピンホール作品、同じく展望舞
台から観光双眼鏡を覗いて鑑賞する屋
外インスタレーションなど、バラエティ
「七日間修行」
「 宝 満 七 窟 」 と い う、 古 来 修 験 者 が
修行してきた宝満山の七つの窟の話が
きっかけとなった作品。修行と七とい
う数にちなんで、ホンマ氏は宝満山に
七日間全ての曜日に登り、十五点の作
品が展示されました。
「蹄鉄とシロちゃん」
御神馬「白梅号」(通称シロちゃん)
の月に一度の蹄鉄替えの様子、そして、
神幸式でご奉仕するシロちゃんの姿が
映像作品になりました。
に富んだ新作の数々に結実しました。
ここでは、展示作品の中から数点を
ご紹介します。
16
とびうめ 秋号 No.176
第九回太宰府天満宮アートプログラム
る」を宝物殿と宝満宮竈門神社の二会
場で開催しました。
今日の写真表現において、世界の第
一線で発表を続けるホンマ氏が、天満
宮そして、太宰府の霊山「宝満山」で
の一連の取材の中で対峙したのは、「見
えないもの」を見ることそれ自体でし
た。それは、プリントはもちろん、天
満宮の神幸式と御神馬「白梅号」に関
連 し た 映 像 作 品、 竈 門 神 社 の 一 間 で
Photo by Takashi Homma
ホンマタカシ
「 Seeing Itself 見えないものを見る」
-
平成十八年から始まった、太宰府天
満宮アートプログラムは、国内外で活
躍中のアーティストを招き、彼らの視
点を通して映し出された、太宰府・太
宰府天満宮の一面を新たな文化として、
世界へ、未来へ向けて発信する活動です。
九回目の今回は、平成二十七年四月
二十六日から八月三十日までの四か月
間、 写 真 家 の ホ ン マ タ カ シ 氏 の 個 展
「 Seeing Itself 見 え な い も の を 見
-
Graphic Design by Rikako Nagashima
「カメラオブスキュラ 襖」
竈門神社参集殿の一間をカメラ(部
屋)オブスキュラ(暗)の装置にして、
小さな穴から左右上下反転して結ばれ
た像が写し取られ、襖の形になりまし
た。
「キノコ絵」
宝満山で撮ったキノコ。地面から見
えている部分だけでなく、普段は見え
ない地中に張りめぐらされた菌糸体も
すべて撮ります。今回は、太宰府天満
宮幼稚園の園児七十一名(平成二十六
Photo by Takashi Homma
年度卒園児)がホンマ氏からキノコの
話を聞いて描いた絵も一緒に展示しま
した。
ホンマタカシ
神幸式の御神輿が発想のもととなっ
た屋外インスタレーション。直径九十
㎝の鏡六枚を竈門神社境内の樟に吊る
ホンマタカシ作品集
「Seeing Itself」
予約受付のお知らせ
展覧会ウェブサイト
http://www.dazaifutenmangu.or.jp/art/
program/vol.9
Photo by Takashi Homma
画像はすべて ©Takashi Homma, Courtesy of TARO NASU
17
No.176 とびうめ 秋号
し、それを、展望舞台に設置した観光
双眼鏡で見るというもので、見ること
それ自体について考察する作品となり
ました。
仕様:図録 32 ページ、写真集 64 ページ
ともに A5 サイズの 2 冊セット
価格:3,000 円
(税別)
文化研究所 アンダーソン依里
出品作品と会場風景を載せた展覧会図
録と写真集「Seeing Itself」の 2 冊セット
の作品集が平成 27 年 10 月に完成します。
現在、宝物殿受付、
もしくは、メール
(art@dazaifuten
mangu.or.jp) に て
予約を受け付けて
おります。メール
でお申込みの方は、
お 名 前、 ご 住 所、
お電話番号を明記
の上、お申込みく
Graphic Design by Rikako Nagashima
ださい。
「 Seeing Itself
」
写真家
1962 年生まれ。
1999 年写真集『東京郊外』で、第 24 回木村
伊兵衛賞を受賞。
2011 年から 2012 年にかけて、自身初の美術
館での個展「ニュー・ドキュメンタリー」を国
内三ヵ所の美術館で開催。
写真集多数、著書に『たのしい写真 よい子の
ための写真教室』がある。
近年、建築をカメラオブスキュラにして都市を
撮るピンホール作品のシリーズや動画作品の発
表を行う。
現在、東京造形大学大学院客員教授。
http//:betweenthebooks.com
講員の皆様のお世話をしていただく新役員の委
嘱が左記の通り行われました。
何卒、宜しく御尽力賜りますようお願い申し
上げます。
〃
〃
〃
〃
〃
支部長
副支部長
〃
支部長
役職
奈須 明
平山 鉄男
大塚 正造
秋山 政孝
佐々木俊邦
梁井 敏彦
伊藤 具視
宇田 俊英
田中 暉博
稲富 直行
氏名
太宰府市
朝倉郡筑前町
朝倉郡筑前町
嘉麻市
古賀市
糸島市
三養基郡基山町
嘉麻市
糸島市
糸島市
久留米市
住所
〃
大森 耕二
熊本県菊池市
世話係
熊本県菊池市
太宰府市
宮崎 芳雄
うきは市
児嶋 義次
西 陽一
広島県福山市
〃
〃
堀江 孝男
広島県福山市
糸島市
世話係
神原 俊治
福津市
〃
神原 紳造
進藤 和義
支部長
糸島市
中村 英明
副支部長
波多江和子
八女市
〃
支部長
田中 麓
支部長
〃
二十五日会定期総会
去る五月二十五日会員の皆様は当
日午前十一時からの月次祭・講社祭
に参列され、祭典後崇敬者会館・天
拝の間にて総会が開催されました。
国歌斉唱・敬神生活の綱領唱和の
後物故会員の御霊に黙祷を捧げ、米
寿三名・喜寿五名の会員にご祝儀贈呈。
続いて、昨年度の行事・会計など
が報告、本年度の活動方針・事業計
画が決議され、今後とも更に会を発
展していこうと、決意を新たにした
総会でした。
【 飛 梅 講 社 の 中 に、 二 十 五 日 会 が
あります。
天神様の御神徳
「まこと心」
を宣布高揚
し会員相互
の親睦を図
ることを目
的とする団
体 で す。 毎
月二十五日
に 集 い、 祭
典 に 参 列 し、
直会を行っ
ています】
西 会長よりご祝儀贈呈
最澄が比叡山に延暦寺を建立し
たとき歌を詠んでいます。その歌に
杣
( そ ま)と 言 う 言 葉 が 使 わ れ て い
る。 滑 り 落 ち そ う な 山 の 斜 面 に あ
る、ほんの少し平らになった場所と
いう意味に重ねたのです。
【人生は
長く、平坦ではありません。それこ
そ 山 あ り 谷 あ り で す。 そ の な か で、
やっと、つかのま安心できる小さな
場 所 を 見 つ け た。 そ の こ と に 感 謝
し、神仏のお恵みがありますように
と、いつの時代も、祈る心は変わら
な い 】 と 慈 円 も 歌 に 込 め て い ま す。
人生のなかで、自分が立ちうる立場
は、そうどこにでもあるわけではな
い。それぞれの歩む道で杣にたどり
着 い た と き、 ふ と 幸 せ を 感 じ そ し
て、立ち上がり又歩き続ける。その
杣でつかの間の安堵で、身も心も癒
やされ元気と勇気と希望が身体に
蘇る。しかし、私のような凡夫は毎
日の暮らしや身勝手な憶測でいつ
しか杣を忘れている。おかげで直会
は私の杣となりました、直会で唱和
二十五日会 会員 岩下 誠一
『直会と杣と私』
天満宮を代表して小鳥居権宮司のご挨拶
する
【敬神生活の綱領】は私の胸を
射すものがあります。自分の生き様
に 赤 面、 未 熟 者 と し て の 恥 を 知 る、
そして天神さまの心の深さを知ら
されました。どんなに本を読んでも
どんな人の講話を聞いてもこれほ
ど感慨深い言葉に出会ったことは
な か っ た。 梅 の 花 こ と ば は 高 潔 な
心、澄んだ心、忠義。遠の朝廷「 と
おのみかど 」とうたわれた大宰府道
真公の時代が匂ってくる。私は無宗
教で信仰心の薄い小心者ですが、今
や、二十五日だけ本殿に畏怖と崇敬
の心で参詣させて頂く自分です。あ
る日の事、散歩のついでに近所の神
社に参拝した、神職の関係者の話に
よれば、前神主は当日の行事が無事
終わっても直会の準備が整ってい
なければ納得しない人だったと回
顧されていた。直会でお互いの心が
通い合ってこそ、いざ鎌倉という時
に御輿は動くもの。神と等しく食事
とお神酒を頂くことで三位一体に
なれる。神様は和気あいあいとした
雰囲気がお好きらしい。
中央が筆者・直会風景
18
とびうめ 秋号 No.176
一 冊 吉嗣拝山書・画
版本着色
明治時代
の研鑽を重ねました。たくさんの書画を残
し、
「左手拝山」として、ひろく名を知ら
れています。また、
切断した右腕の骨で作っ
た「骨筆」で画を描いたことでも有名です。
この『太宰府廿四詠』は、冒頭の西高辻
信厳による題字のところに「明治二十七年
一月 正五位男爵西高辻信厳」と記されて
いることから、これ以降の出版と思われま
す。
しかし、面白いことに、奥付には「明治
十七年五月版権免許」と書かれています。
その他、印刷は博多の黒田清右衛門、発行
は太宰府の富田幹三郎・大藪幹太郎・御田
越太郎と書かれています。実は、この本の
初版と考えられる明治十七年(一八八四)
発行の『太宰府廿四詠』が別にあるのです。
そちらは、印刷は博多の藤井孫次郎、販売
は暗香社と書かれています。
「暗香社」は
太宰府天満宮の回廊の一角で、天満宮の境
内図や筆・墨などの土産物を商っていたと
思われるお店です。初版の『太宰府廿四詠』
は太宰府参詣の記念品として発売されたの
かもしれません。
初版本では、画には吉嗣梅仙の落款が押
されていて、もとは梅仙と拝山の共同の作
品だったと思われます。今回紹介した本で
は、画は梅仙の描いたものとそっくりです
が、落款は拝山の印が押されており、輪郭
の線も着色の様子もややラフな印象を受け
ます。
写真で紹介しているのは「三聖銅像」の
場面です。
重んじる
三聖銅像
(
天
平 年 間、 吉 備 真 備
天平年間吉備公 の弘文館から持ち
が唐
自唐土弘文 帰り太宰府の学業院に
安置したといわれる)
館安置于太宰 府学業院云 は一尺ほどの大きさもない
三像不盈尺 三像
鎔出聖人風 聖人の趣がよくでている
た者の深い考えがあり
鋳者有深意 作っ
長留天地中 長くこの世にあって
という文字で表すより
千秋文字外 千秋
又重古青銅 さらに青銅の古びることを
No.176 とびうめ 秋号
19
三聖像は、孔子とその弟子達の像です。
奈良時代の公卿で学者だった吉備真備が唐
より持ち帰り、観世音寺の西側に建てた学
業院に安置したことが、
『江家次第』とい
う本に書かれていま
す。 時 を 経 て、 太 宰
府天満宮に御文庫が
建 て ら れ た と き、 学
業 院 に 倣 い、 三 聖 像
を祭ったのです。
三 体 と も 銅 製 で、
顔や衣などの細かな
部 分 も 鏨 で ほ ら れ、
袖・ 襟 の 縁 に は 銀 象
眼で唐草文が施され
て い ま す。 一 番 大 き
な孔子像には一部に
金象眼もみられます。
(宮崎由季)
孔子および二弟子像
(江戸時代)
太宰府天満宮の文化財
よしつぐはいざん
この本は、太宰府の景勝地十二と古物
十二を画と詩によって紹介する本です。
三聖銅像・飛梅・追儺祭の鬼面・観世音
寺の梵鐘・竈門神社の神鏡・木鷽などの
古物、天拝山・竈門山・染川・苅萱の関・
都府楼址などの名所が描かれています。
そして、それぞれの絵に漢詩がそえられ
ています。
画も詩も吉嗣拝山の作です。
吉嗣拝山は太宰府に住んで活躍した画
家の一人です。弘化三年(一八四六)画
家の吉嗣梅仙の長男として太宰府に生ま
れました。文久四年(一八六四)に日田
の広瀬淡窓に入門して学問を学び、慶応
三年(一八六七)京都の画家中西耕石に
入門して本格的に絵画の修行をつみまし
た。明治二年 一
( 八六九 、)東京に出て
官吏として働いていたとき、大風で倒れ
た家の下敷きと
なり右腕を肩の
付け根から切断
する大けがを負
いました。この
後、
「文墨を以
て江湖漫遊を事
とする」ことを
決意し、中国に
渡って中国人の
画家たちと交わ
り、詩・書・画
太宰府廿四詠 巻頭
太宰府廿四詠
65
③ 相撲を取って力自慢
高司 哲伸(隆雄)
小早川竜伸(田川)
優 勝 九州情報大学B
準優勝 福岡市
成年の部成績表
山﨑 柊(田川)
平田 知之(隆雄)
三 位 九州情報大学A
優 勝 大原 佑介(九州情報大)
準優勝 吉田 光志(福岡市)
三 位 久保田 穣(大濠)
十月
主な行事予定
十七日 神嘗奉祝祭
十八日 特別受験合格祈願大祭
当日祭
二十二日 秋思祭
十一 月
十五日 七五三祭
二十日 更衣祭
十二月
十二日 筑紫地区農業祭
二十五日 納天神祭
古神札焼納祭
三十一日 大祓式・除夜祭
☆『飛梅』定期購読のお知らせ
年分 千五百円
○定期購読料 一
年四回発行(消費税・送料込み)
○ お 申 し 込み・お 問 合せ 先 は 左 記
までご連絡下さい。
飛 梅 第一七六号
発行日 平成二十七年九月二十五日
発行所 太宰府天満宮社務所
福岡県太宰府市宰府四‐七‐一
電話(〇九二)九二二‐八二二五
発行人 西 高 辻 信
良
編集員 八坂 宣匡・松尾 太輔
出光 公朝・石川 史嗣
戸髙 宗德
印刷所 株式会社 四ヶ所
20
とびうめ 秋号 No.176
① 揮毫する子供たち
八 月一日から 三 日にか
けて「 第 六 十 六 回 七 夕 揮
毫 大 会 」を 開 催 致しまし
た 。書の 三 聖の一人 と も
称されるご祭神の菅原道
真 公のご 神 徳 を 頂 き 、書
道 上 達の 成 果 を 発 揮 す
る 大 会 と なって お り ま
す。幼 稚 園 児か ら 中 学 生
の 約一三 〇 〇 名 が 参 加
し 、それ ぞれの 課 題 文 字
を一文 字 ずつ一生 懸 命に
揮毫していました。
写真提供:安本多美子氏
八月三十日(日)、天神広場にて
「 注 連 打 奉 納 相 撲 大 会 」を 開 催い
少年の部成績表
たしました。
この注連打奉納相撲
優 勝 井上道場
は、九月二十一日から斎行されま
準優勝 田川相撲クラブ
す 天 満 宮の 祭 事の 中で 最 も 大 切
三 位 宮地嶽相撲クラブ
な「 神 幸 式 」
に 使 用 する 注 連 縄 を
優 勝 中山 諒太(井上)
氏 子の皆 様が作 り 終わった 後に、
準優勝 折田 秀敦(遠賀)
岩隈 正知(福岡) 相撲を取って力自慢を競ったのが
始ま り とされる 太 宰 府 天 満 宮の
伝統行事でございます。
末 知弘(遠賀)
三 位
三 位
優 勝
準優勝
中山 貴博(井上)
権藤 尊琉(福岡)
三 位
三 位
優 勝
準優勝
三 位 山口 颯斗(宮地嶽)
三 位 江頭 八雲(福岡)
団体
個人の部
② 未来の神職たち
八月二日から八日にかけて
國 學 院 大 學の学 生 六 名 、皇 學
館 大 学の 学 生 五 名 が 夏 期 神
務 実 習の 為 来 社 しまし た。
こ
の神務実習では祭式や社頭実
習 な ど 基 礎 知 識 を 確 認 する
ことを 基 本に組み、挨 拶や 笑
顔についての研 修や 講 演研 修
と社会人としての知識を得る
実 習も 行いまし た。猛 暑 が 続
き 、体 力 的にも 厳 しい実 習で
し たが、学 生 同 士 協 力し なが
ら一生懸命頑張っていました。
団体
個人5年生 個人4年生
個人6年生