柴田孝山形大学教授 柴田孝教授の経歴と山形経済の変化 山形大学

柴田孝山形大学教授
柴田孝教授の経歴と山形経済の変化
山形大学産学連携教授である柴田孝教授は、1946(昭和 21)年山形県米沢市の生まれ。
上杉米沢藩藩校の流れをくむ興譲館高校から東北学院大学へと進み、1969(昭和 44)年米
沢製作所(元東北金属工業疎開工場、現 NEC エンベデッドプロダクツ)に入社。NEC の中
核事業であったパーソナルコンピュータの開発・製造に携わり、執行役員、エグゼクティ
ブアドバイザーなどを歴任した後、2008(平成 20)年からは山形大学の産学連携教授も務
めるようになった。それは丁度、山形大学が前文部科学省事務次官の結城章夫新学長を迎
え(2007・平成 19 年 9 月就任、2014・平成 26 年 3 月退官)、大きな変革を進める時期で
あった。
柴田教授の経歴を紐解いてみると、常に変革と向き合ってきたように見える。
大学卒業後に務めた会社は、間もなく NEC に吸収され、そこでは最先端のパーソナルコ
ンピュータをつくることとなった。種々の経営と生産の革新により、この事業は NEC の中
核事業となるが、やがて、その生産は海外に移転することになっていった。柴田教授はこ
うした変革の最中で、優れた経営方法と生産方式を見出し、実施してきた。
同社は、柴田教授の退職後の 2011(平成 23)年から、NEC エンベデッドプロダクツとし
てコンピュータ関連のストレージ事業(記憶装置)、プリンタ事業、組込み機器開発製造
事業を行なうようになっている。
電機産業絶頂期に至るまでのご苦労と、その後の変革期における対応の日々は、社員と
して経営者として、そして地元出身者として、悲喜こもごもの毎日であったろうことは想
像に難くない。産業人としての醍醐味でもあったろう。
こうした時期、地域経済も大きく変化していた。戦後の山形県や県内の市町村は種々の
誘致条例をつくり、積極的に多くの県外企業の事業所を受け入れてきた。特に 1960(昭和
35 )年代末からの県内の電気機械工業の成長は目覚ましく、そこでは多くの雇用も生み出
された。しかし、2000(平成 12)年前後からの相次ぐ工場の閉鎖や生産縮小により、地域
の経済と雇用は大きなダメージを受けることになる。特に、2000(平成 12)年ころの電気
機器出荷額が工業製品出荷額の 8 割近くを占めていた米沢地域は、大きなダメージを受け
た。
ものづくりシニアインストラクター養成スクールと柴田教授の取り組み
柴田教授は NEC 在職中から地域のものづくりの人材育成に尽力し、退職後は地域企業の
経営革新・生産革新による競争力向上、現場のリーダーのスキル向上に貢献してきた。そ
の一例として、山形大学ものづくりシニアインストラクター養成スクールの取り組みを紹
介する。
これは、ものづくり企業の OB 人材やベテラン人材を対象とし、経営視点での「顧客に
向けた価値の流れづくり」を身につけていただき、他企業や他業種の経営革新・生産革新
を指導出来る専門家(ものづくりシニアインストラクター)として養成するものである。
柴田さんの著書(『ものづくり成長戦略――産・金・官・学の地域連携が日本を変える』
2013 年 8 月、藤本隆宏東京大学教授との共編著)では、主力だった公衆電話の部品受注が
ゼロベースになった 13 人の会社が、シニアインストラクターを受け入れて改革を図り、2000
万円の在庫削減、生産リードタイム(発注から納品までの時間)を半分にして、1年足ら
ずで劇的な黒字回復をした例をあげている。
こうした改革には「経営と現場の進化の同時進行」と「産・官・学・金の連携」
、そして、
「会
社全体を見渡して、全体最適を考えて改善活動のできる人材の育成」が必要だと柴田さんは語
る。そして、ものづくり現場を科学的に見て改善すれば、中小企業の利益は確実に伸びる
が、そのためには経営者の「確かな現状認識」と「揺らぐことのない経営理念」、そして、
「将来を見通す力」が必要だと話した。
最後に「リーダーといわれる人は、今であればインダストリー4.0 に対する理解や、『今
年の新入社員の年収を 10 年で最低 500 万円にするにはどうすればよいか』くらいのビジョ
ンは持ち合わせたいものだ」と、結んだ。