︿研究ノート﹀ 明治前期の﹁貴紳の茶の湯﹂ ﹃幟仁親王日記﹄および﹃東久世通禧日記﹄にみる喫茶文化の状況 ― 田 吉 崇 ― その一方で、明治期の上層階級においては、ひとあし早く茶の 指摘されるところである。近世において、千家等の家元は、経済 化の風潮のなかで茶の湯も衰退を余儀なくされたことはしばしば 近代における﹁貴紳の茶の湯﹂と﹁流儀の茶の湯﹂ 明治維新によって日本の伝統芸能が大きな打撃をうけ、文明開 に従って実践する﹁流儀の茶の湯﹂と趣を異にするものであった。 味によって独自の茶の湯を楽しむという特徴があり、家元の教え の茶の湯を﹁貴紳の茶の湯﹂とよぶならば、それはみずからの趣 財閥関係者らの、﹁近代数寄者﹂とよばれる人々である。かれら 湯の復興がはじまっていた。この茶の湯の復興を先導したのは、 基盤としての富裕町人農民層と、権威基盤および経済基盤として このような﹁貴紳の茶の湯﹂が、その後の茶の湯の世界では優位 Ⅰ 明治期の茶の湯の復興 の武士層との両方に立脚することによって、安定的な地位を確保 を占めていくこととなる。 は、家元が広く庶民層を対象に茶の湯を教え広め、それを経済基 おかれることとなった。技芸の習得を重視する﹁流儀の茶の湯﹂ 士としての格式と俸禄という基盤を失った家元は、深刻な状況に られる傾向にあるが、上層階級中心の﹁貴紳の茶の湯﹂に視野を こととする。茶の湯の歴史は﹁流儀の茶の湯﹂の家元中心に論じ の日記である﹃幟仁親王日記﹄および﹃東久世通禧日記﹄にみる 本稿では、明治前期の﹁貴紳の茶の湯﹂の状況を、当時の貴紳 旧大名、近世からの豪商にくわえて、新たに台頭した維新の功臣、 していた。しかし、明治期になると、茶の湯の衰退にくわえ、武 盤として確立するまでの間、低迷期をむかえることとなる。これ うつすと、やや異なる世界が広がっていたことが明らかとなるの である。 185 1 1 が明らかなかたちで改善するのは大正期以降のことと考えられ る。 2 茶の湯の復興における明治十年の意義 明治末から昭和初期にかけて茶の湯関係の膨大な記録を残した 高橋義雄 ︵箒庵︶は、明治期における茶の湯の復興について﹁明 治十年西南戦争が終局して、人心漸く安定するに及んで、茲に始 て茶事復興の端を開き、所々に茶会を催す者が出現した﹂とのべ、 明治十年 ︵一八七七︶が一つの節目であるとする。 しかし、一方で、 ﹃明治天皇紀﹄の明治十年 ︵一八七七︶八月二 十一日条には、つぎの記事がある。 上野公園内に於ける第一回内国勧業博覧会の経営成り、是 の日を以て開場す、実に本邦未曾有の盛挙にして勧業の基礎 始めて成れりと云ふべし、乃ち臨幸して親しく開場の典を挙 げたまはんとし、午前八時皇后と倶に御出門、宮内卿輔・侍 従長・侍従・女官等扈従す 美術館を御巡覧、東京府の築造せる列品館の便殿に於て少 一連の式典が終わってから、明治天皇は、 の如き、皆此小西氏の勧誘に依つて茶人仲間になつた者であ 時憩はせらる、旧龍野藩主脇坂安斐点茶を献る、軽気球の放 186 惜いかな数年後には其健康を害し、報知新聞社を引退して間 もなく死去されたが併し維新後我か茶事主唱の功は決して没 す可からざる者である。 また、つぎのような人物の名前をあげている。 渡辺驥、小西義敬、益田克徳、安田善次郎、大住清白等、其 此頃復興茶会の先陣を勤めた茶人は、東都に於ては松浦詮、 すなわち﹁天覧茶会﹂が実現した。この行幸において、明治天皇 他数人を数え得る といえる。また、近世以来の茶の湯の伝統とは無縁の存在ともい える井上馨が、新たな茶の湯の担い手として登場したことは、明 治二十年当時の茶の湯の状況が一定の段階に到達していたことを うかがわせるものである。 ところで、高橋義雄は、明治十年以降の茶の湯の復興を主導し た人物について、つぎのとおりのべている。 明治十年西南戦争の終局までは、紳士茶人で公然茶事を催 す者がなかつたのである、 然るに明治九年頃報知新聞社長で、 宗徧流を学び橋場の渡し近くに別荘を持つて居て、茶事を奨 5 ︵略︶兎に角小西氏は当時茶事奨励の陣頭に立つた人で、 る、 励した其人は小西義敬氏である而して益田克徳、安田善次郎 6 られたことは、明治期の茶の湯の復興を象徴するできごとである は喫茶こそしなかったが、茶室と茶の湯のしつらえが天覧に供せ その十年後の明治二十年 ︵一八八七︶には、井上馨邸への行幸、 3 4 2 明治前期の「貴紳の茶の湯」 揚を天覧、午前十一時還幸あらせらる 応四年 ︵一八六八︶神祇事務総督に就任して以降、隠退後も神道 た、文化面では、有栖川流とよばれる書道を伝え、歌道にもすぐ 総裁や皇典講究所総裁などを歴任し、神道の普及に関与した。ま すなわち、内国勧業博覧会の式典終了後の休憩時、明治天皇に れ、明治天皇の書道および歌道の師範をつとめたことでも知られ 高橋義雄が、脇坂安斐の茶の湯について何ら記していないことは ている。明治前期の茶の湯の状況を実際に体験したわけではない じめて茶の湯にふれたのは明治二十八年 ︵一八九五︶と考えられ 高橋義雄 ︵文久元年︵一八六一︶∼昭和十二年︵一九三七︶︶がは 職が記録した﹃一品宮御隠邸雑記﹄一冊が刊行された。 て﹃幟仁親王日記﹄巻上・巻中・巻下の三冊および附録として家 つ い で、 昭 和 十 一 年 ︵ 一 九 三 六 ︶か ら 十 二 年 ︵ 一 九 三 七 ︶に か け 九三三︶に有栖川宮幟仁親王の伝記である﹃幟仁親王行実﹄一冊、 有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王により、昭和八年︵一 ている。 無理もない。本稿で概観する明治十年代半ばまでの茶の湯の世界 記事は、興味深い内容をふくんでいる。 献茶がおこなわれたのである。明治十年というはやい時期のこの 7 で活躍していた人々のことは、今日ではほとんど忘れ去られてい るのである。 Ⅱ 有栖川宮幟仁親王にみる喫茶文化 有栖川宮幟仁親王とその背景 ︵ ︶有栖川宮幟仁親王の人物像 有栖川宮幟仁親王︵文化九年︵一八一二︶∼明治十九年︵一八八六︶︶ は、世襲四親王家のひとつであり、徳川将軍家をはじめ有力大名 、 家とも関係を有する有栖川宮家に生まれた。元治元年︵一八六四︶ 長男の有栖川宮熾仁親王とともに国事御用掛として朝政に参画し 、 たが、 その直後の禁門の変により失脚した。慶応三年︵一八六七︶ 明治天皇の践祚にともない蟄居処分を解かれたが、その後は政治 主要部分を整理したものが表 である。ただし、日記には、茶会 の記事がみられる。喫茶に関係するおもなものをとりあげ、その 後述のとおり、﹃幟仁親王日記﹄には、さまざまな茶について 11 10 記に類する記事はなく、人名を中心とする交際関係、喫茶の種類 方法、若干の道具などにかぎられている。 なお、﹃幟仁親王日記﹄については、秋元信英による詳細な分 析がすでにあり、本稿における検討結果もその成果をふまえたも のである。 187 9 1 8 から距離をおき、明治四年 ︵一八七一︶に隠退した。ただし、慶 12 1 1 月 四月 日 内容 五日余白 茶道具 薄茶 芝邸 江行向、 ︵略︶中食・薄茶・菓子、申半頃 二十七日 その他 十日 七月 十日 その他 徳川従二位慶頼 当春田安 額面頼挨拶 九月 十五日 その他 徳川従二位田安 江返書出ス 西京千宗室 十月 十六日 その他 酒始ル 十月 十月 二十八日 その他 十九日 その他 十八日 他茶会 千宗室昨日之挨拶来ル 十字過 歩行 而徳川田安従二位口切招至ル、壬生従三位 中宗逸所労井上休翁睦宮ヘモ面会、拾翠亭 六字帰ル、 端 千玄室ヘ備前焼屏風押一組遣候挨拶ニ忰宗室来ル 粟津義風薄茶カワ太郎仙叟好棗ニ入送ル 久田宗全・山岡米四郎来ル、面謁之事 府 江著届、宮崎・千宗室来、面謁 三月 道具附先方而モラフ 官務 ・脇坂淡路・酒井魯道・千宗室□別紙記、田 封中来、入手、 ︵略︶千宗室へ内使輝満遣ス 千宗室七月来東上之由、今日三字来面会之事 十月 四月 記 事 の 抜 粋 布袋竹四節茶杓銘被頼筒ニ認ル 世中 すくなるもまかるも竹の世中の心ひとつのふしならなくに大空の雲より上の白雲のふしの姿はまはゆか りけり 表 ﹃幟仁親王日記﹄にみる喫茶関係の記事 ︵明治四年︵一八七一︶∼明治十七年︵一八八四︶ただし、一部を欠く。︶ 年 明治四年 ︵一八七一︶ 明治五年 ︵一八七二︶ 明治七年 ︵一八七四︶ 茶道具 三十日 その他 一日 三月 四月 五日 二十三日 その他 五月 六日 煎 茶 四月 五月 十一日 その他 千宗室来、面会、茶杓三本贈ル、返旁大衝立遣ス 白川昭光院殿博覧ニ 付見物、売茶一煎 他茶会? 山花義風宅ヘ行、会席仕立中食・菓子・濃茶・薄茶、強肴後廻シ、五時頃より広間 五月 188 1 明治前期の「貴紳の茶の湯」 明治九年 ︵一八七六︶ 明治十二年 ︵一八七九︶ 六月 四月 二十四日 薄茶 十四日 煎茶 家従便リ、 ︵略︶其後五時両人来ル、面会、茶菓・莨出ス、庭 霞邸 江拙・穂行向フ、 ︵略︶間之物・干菓子・柏餅・苔鮓・煎茶八重霞 午後常磐井 樋口正俊・輝満両人、四時頃 願意茶杓遣ス、落手返来 十四日 自茶会? 十時樋口正俊来、昨夕呼寄御礼ニ来ル 右者小川一敏 十五日 その他 茶道具 一月 一日 自茶会 十一時徳川篤敬来ル、 ︵略︶六帖敷席 而挽茶所望ニ寄出ス、煎茶モ出ス 二日 一月 薄茶 三時前栄君来ル、入湯中、茶席 而暫時休息、不計茶所望 而俄ニ手前 而茶出ス 七月 二月 五日 薄茶? 茶席案内、薄茶・菓出ス 四帖半ニ 而夕食遣ス事、茶湯形八時ニ相済、定水屋詰ニ用 二月 十日 七月 六月 四月 四月 四月 二月 一日 煎茶 十七日 煎茶 三十日 煎茶 二十日 三日 一日 薄茶 薄茶 薄茶 二十二日 薄茶 ︵略︶所々皆々一見、於二階煎茶・干菓子各々出 午後一時過児梅登宮 姫・随姫来ル、面会、茶菓出ス、 ス 午後三時岩倉具視・徳大寺実則・土方宮内少輔・香川大書記官、 ︵略︶四時二品宮来、 ︵略︶新筑所々見セ、 茶菓・莨盆出ス、二階ニ 而暫時噺、遠望中煎茶・菓子出ス 九時桜井大書記官、且、樋口モ来、藤井希璞モ所々一覧後、於二階干菓子・煎茶出ス 高輪毛利家 江任約束行、 ︵略︶北白川・太政大臣・岩倉・徳大寺・加州・熊本・山ノ内・鍋島・参議伊藤・ 井上︵略︶高輪物見案内、煎茶山田亭主、眺望至 而ヨシ 庭田重胤妻今度上京︵略︶新造居間 而面会、茶菓出シ、所々見物サセ、旧席 而薄茶遣ス 九時香川・桜井・白川・樋口各見分所々相済、 ︵略︶藤井相飯五人共相済後、故茶席 而薄茶出ス 午後樋口来ル、普請場 而面会、其後所々一覧後、茶席 而薄茶遣シ候事 三時過芳樹来ル、︵略︶且、希璞・方義四時前来ル、︵略︶五時前呼寄二人之所、芳樹モ好候旨 付三人待合 入 而時後茶事催ス、十時頃相済、輝満水屋詰申附ル事 二月 十月 七日 煎 茶 午後三時貞芳院宮元上臈玉川︵略︶来ル、則面会、 ︵略︶不斗来席、挽茶手前 而出ス 十月 十三日 煎 茶 本邸二品引続キ伏見二品来ル、面会、所々一覧、二階 而干菓子・煎茶出ス 十月 189 明治十二年 明治十三年 ︵一八八〇︶ 十月 十月 自茶会 二十九日 その他 三十日 輝満出頭 而昨日・明日茶事夫々申遣シ︵略︶ 午後三時兼 而約束高階経徳・邦保・孝顕・武恒・新蔵五人二階新席 而会席食事、十時右相済 十二 月 二日 十日 薄茶 薄茶 茶室整備 同時過加藤新造来ル、 ︵略︶中飯後連日家従 江遣ス節、一緒ニ於二階薄茶・菓遣ス 午後一時過馬屋原良蔵来ル、即面会、直ニ二階 而薄茶任所望遣ス事 二時前霞邸ヨリ栄君年始ニ出ル、 ︵略︶於二階薄茶、新年菓 而出ス、セキ相伴 自今日旧茶席取繕ニ成、廿五日出来之趣也 書中 而礼申越ス 一月 八日 薄茶 礼書輝満出ス、松浦孝顕一昨夜礼ニ来ル、邦保 一月 十五日 薄茶・煎 午後一時頃 宮来ル、 ︵略︶引続キ直憲・マチ姫来ル、跡ヘ直安来ル、各茶菓出ス、所々見物、清滝 於 茶 二階薄茶・煎茶・干菓子出ス 三十一日 その他 三月 一日 薄茶 十月 四月 六日 即三時聊前加州斉泰来ル、 ︵略︶所々一覧候処、尾州慶勝来、面会、茶菓出シ、所々一覧、二階 而薄茶・ 干菓子出シ、噺、不斗高階経徳来ル、側 而出ス 四月 午後寛永寺・青龍院・春性院・顕性院四人、 ︵略︶則面会、挨拶申入、於二階薄茶出ス 二十五日 薄茶 四月 マツラ辰男十二時過来、 ︵略︶則面会、例表方於高楼喫茶之時故、同伴之様暫時噺 六時過肥州阿蘇惟敦来ル︵略︶一寸面謁、直ニ二階案内眺望被致由、薄茶手前 而遣ス 二十七日 薄茶? 六月 二十一日 薄茶 八月 十九日 薄茶・そ 二時過橋本二位来ル、則面会、︵略︶二階ニ誘引、一酌出ス、其後薄茶手前 而出ス、種々噺アリ、来ル七 の他 日同邸 江兼 而約束茶事ニ行、時後四時、野生、正親町実徳・山本邦保・高階経徳客ニ呼事 八時出宅、馬車 而根岸金沢隠宅へ、七十賀宴ニ 付被招趣、︵略︶寂樵濃茶両度、 ︵略︶別段数茶碗一見 而大 樋一楽所望候処、直ニ到来之事 九月 一日 濃茶 十一 月 昨日慰君ヨリ置時計一箱・手焙一箱瀬戸茶入・肩附袋手替リ等二箱︵略︶ 之事、極通リ 而八寸湯済、菓子、中立席入、濃茶、後炭之処、元座敷広間 而後段吸物種々肴、謡曲之手拍子・ 四ツ物・仕舞至極賑々敷、薄茶、十時過暇之事、 ︵略︶輝満モ薄茶頃、鳥渡右席 而酒被出候事 三時出宅 而兼 而約束橋本家へ茶事ニ行、千ノ人力 而、正親町・山本・経徳・ 野生、土産ニ︵略︶庭焼黒茶盌 多福 銘 引 歌、 息 ヘ モ 赤 紫 銘 引 歌 初 ︵略︶其後四時過席入、座敷椽待合、経徳詰、亭主挨拶後炭灰相済、会席 霜 他茶会 茶道具 七日 十二日 十一 月 十二 月 190 明治前期の「貴紳の茶の湯」 十三日 濃茶・薄 仕立三時馬車六軸 而本郷ヘ行、︵略︶従二位始出迎ヒ、︵略︶先亭主供ニ八人 間 而料理二汁・七菜位、中酒・濃茶・菓・薄茶・菓相済 而、 茶 ︵略︶ 者向座挨拶、 ︵略︶奥之広 五人 三人 二十八日 薄茶? 二時頃近藤久敬・芳樹息来、春来之節約束致置候父芳樹歌一葉頼置候処、即持参、右ニ添 而杓二本・茶全 一・茶巾一箱入 而到来之事 午後、早々岡村小膳来、 ︵略︶例時茶表方ヘ遣節故一緒ニ喫ス事 一昨日同様本邸 江二位・四位・大聖寺・宣姫等招 付、︵略︶総 而一昨日之通リ料理、蒸干菓子・煎茶 而休息 四月 二十三日 茶道具 十五日 煎茶 六月 其後御内儀 江行、 ︵略︶莨盆・菓子・煎茶等、五時過退出之事 四日 煎茶 午後藤井来ル示談、来ル十三日藤井希璞・山本邦保・寺島秋介・八木加兵衛四人三時頃 時後茶事催招事、 藤井へ申入ル 十三日 自茶会 十時過山本邦保昨夜茶事礼来 その他 十二 月 十四日 寺島秋介一昨日茶事之礼ニ来ル、過刻入違ニ内願之茶席ハフ下横額一枚可申出之所ヘ来ル、直ニ渡シ遣ス、 持帰ル事 十日 十二 月 十五日 その他 高階経徳来診、午後薄茶遣ス、於二階手前 四時頃寺島・希璞・八木加坪・邦保揃待合入、茶事相催候事、 ︵略︶十時過各帰ル事 十二 月 十一日 薄茶 薄茶 其後精宮・晴雲院・キサ馬車 而関浦御晴附梅等来ル、 ︵略︶於二階三人薄茶所望、茶菓等出ス 三時過蜂須賀二位招 付行、貞芳院宮・璞姫小梅 その他 三月 十二 月 十月 十二 月 明治十三年 十二 月 明治十四年 ︵一八八一︶ 明治十五年 ︵一八八二︶ 二十四日 その他 六日 薄茶 旧冬来約束寺島秋介方ヘ茶事ニ至ル、希璞・邦保・八木・池田輝満詰、正午案内席入、別書附申附置薄 茶広間 而、其後又酒肴出ス、梅出ル、四時過帰ル 午後希璞来ル、 ︵略︶寺島秋介招度旨四日・十日頃迄延引頼置 三月 四月 九日 他茶会 その他 三時橋本実梁来、兼 而約束茶事、来七日催故、三時半より来リ候様申来ル、面会 而承知申入ル事、相客邦保・ 経徳・輝満トノ事也、直ニ被帰候事 九時寺島秋介来ル、昨日茶事招行向礼ニ来ル、直ニ於表面会、挨拶申入、引取跡残者八時過迄ト申事也 来ル、 ︵略︶夜食・菜飯・薄茶、午後九時暇申入帰ル 四月 十日 二日 十一日 その他 四月 四月 五月 191 明治十五年 五月 四日 その他 他茶会 七日橋本実梁宅 而茶事ニ被招、土産ニ先ヘ今日遣シ置候事、輝満内使ニ行 四 方 三時半三十分橋本実梁宅茶席新築出来開被招行事、土産ニ鯉二口・壺屋粕庭羅二ツ入一箱・淡州シホ竹 掛花入一箱持行、三時半、経徳待請ル、実梁案内座敷 而茶・莨盆、暫時咄 而待合後縁 而亭主折戸外迄案内、 橋本実梁 江昨日被招候挨拶使、輝満勤ル事、 ︵略︶三時頃、橋本実梁来ル、昨日御招申入候処御出被下、且、 頂戴物之礼申置被帰候事 七日 その他 五月 八日 二時過高階経徳来診、 ︵略︶橋本茶湯之席中過日之礼 席入前ツクバヘ 而手洗、経徳世話、竹ヤ光長、夏山短尺、先炭 而懐石、中酒・菓子、中立濃茶、祝ノ白木 幡詰、後炭無 而広間ヘ開ク、 ︵略︶大盛会也、十一時馬車 而帰ル事 五月 その他 橋本実梁過日茶記頼候処、書留 而輝満迄持為被越、入手一覧之事 十五日 二十二日 その他 三時出宅、本郷金沢依招行、 ︵略︶暫時茶席 而薄茶雀 手前、二碗、二位之相伴 五月 五月 二十四日 薄茶 井上参議外務卿馨麻布住居被招行、登美宮・徳川昭武・璞姫・蜂須賀夫婦︵略︶ 、所々見物、二階遠望甚 ヨシ、茶席広間六帖敷台子飾附、 ︵略︶夜食会席仕立、 ︵略︶九時過各帰ル事 五月 その他 留主中寺島秋介来ル、先達 而茶湯会席記持来、長正入手 而帰ス 十六日 五月 二十八日 その他 六月 九月 八月 七月 七日 六日 十七日 十一日 他茶会 その他 その他 その他 その他 ︵略︶夜食湯付、菓子・煎茶、八時暇乞、閑院ヘ申入帰ル 閑院宮招 而紅葉館 而留別之開宴催ニ 付行、 其後根岸前田へ行、三時過面会、 ︵略︶台子 而濃茶・薄茶、 撨手前、道具向一覧後、酒肴被出 九時過橋本実梁来ル、昨日者染筆持セ賜畏、不在 而今日入手之御礼不取敢申上ル 九時頃橋本実梁過日内願之座敷額・莞爾願短一葉出来 付持セ輝満遣候処 橋本実梁来ル、過日噂之蚊脚堂座敷額一枚、且又、丸岡莞爾先年頼 而遣ス詠今一枚、料紙短尺染筆内願、 同人持参之事 寺島秋介来、過日内願詠短尺・座敷額相渡ス、入手 而帰 寺島秋介来ル、旧県之人物内願之由、ヌメ地座敷額・短尺一葉、右者近日旧知事茶事ニ来節用度、右詠 内願之事、先承置ク事 九月 五日 煎茶 一時下リ、篤守邸ヘ行、 ︵略︶夜食焼物附・栗菓子・煎茶出ス、九時帰ル事 二十八日 その他 十月 七日 煎茶 六月 十月 九日 ︵マヽ︶ 十月 192 明治前期の「貴紳の茶の湯」 明治十五年 明治十六年 ︵一八八三︶ 十八日 茶道具 二十四日 十月 十月 二十六日 茶道具 銀座二町目寸松堂来ル、春来噂有之支那道具ヤ清学師匠、尾州トコナヘ焼急須一ツ持来ル、面会、茶菓 遣ス、暫噺、二品宮馴染之趣也 妙勝定院宮拾七回祥当 付、東海寺 而法要申附ル、 ︵略︶非時二汁五菜・蒸菓子・薄茶等 寸松堂 江長正行返ス、道具二、求物五種代二十円持行 茶 道 具・ 寸松堂茶道具持来、ミル、於二階薄茶遣ス事、道具七品残シ置事 薄茶 十月 五日 薄茶 十五日 十一 月 十一 月 十一日 茶道具 岡山県下美作国︵略︶神社額面願、芦ヤ霰釜持来ル、共替蓋 橋本実梁年始ニ来リ、申出 而薄茶所望二フク 而被帰候旨聞 茶道具 午後寸松堂後藤太林昨日之掛軸伺来ル、二幅共求ル、十五円五十銭、表方 片桐石州蝶賛紅雪和尚夢一字 寸松堂一休梅墨画軸見セニ来ル、入手置之事 十五日 茶道具 二時出宅、深川三ツ井別荘へ招 付行、 ︵略︶各揃織君挨拶、小松案内茶席へ行、 ︵略︶松田貞造真衣著 而茶催、 三ツ井台持出控、長板立、蒸干菓子出ス、 ︵略︶ 遣シ置事、千宗旦自画賛、 煎茶・薄 三時過栄君・慰君馬車 而来ル、︵略︶引続キ従二位来ル、四位モ来ル、 ︵略︶於二階煎茶・干菓子所望 而、 茶 二位ニ薄茶手前望進ス 十二 月 薄茶 二時高階経徳診ニ来ル、種々噺、於二階薄茶遣ス事 五日 二十四日 薄茶 飯田左馬吹挙議官渡辺驥 一月 二月 二十六日 その他 二月 二十八日 茶道具 染筆一枚物、茶席額内願也 二月 七日 三月 十二日 薄茶? 寸松堂︵略︶今朝同人唐物布袋香物持来リ、留置之事 三月 四月 七日 茶道具 寸松堂忰来ル、昨日ミセル布袋・五徳求ル 此程出京致ニ 付、 ︵略︶薩摩焼薄茶碗一箱持来ル、直ニ面会 五月 八日 茶道具 十時事比羅宮司讃岐国 五月 九日 薄茶・茶 午後寸松堂来、︵略︶例午後表方ヘ茶遣ス節四人一緒ニ薄茶喫ス事、洞雲玉丹□横物、江月高松色千年半 道具 切持来、一見之候、両日ト申置入手之事 五月 193 明治十六年 五月 二十二日 茶道具 寸松堂 而吉野塗五人前膳椀求ル事 兼 而約束午後三時 茶湯会席催 付、小松夫妻・伏見夫妻始来ル、 ︵略︶待合入手順ニ於二階壺飾会席出ス、 一寸始之内二品宮来、直ニ詰之席ヘ同出ス、中立出迎ヒ、席入濃茶・炭ナク、薄茶出ス、尤黄昏ニ相成、 手燭渡 而二階来ル、後段、吸物・肴等広間 而出ス、相伴室崎・杉側 而出、湯漬等モ出シ、戌時頃被帰ル その他 橋本実梁明後五日茶湯催申遣置候前礼来ル、︵略︶宮内省 事、高階経徳へ五日之事申入 三十一日 自茶会 一日 その他 西四辻明日前礼来申置 五月 六月 三日 その他 四時三十分、北白川・正親町・橋本・西四辻・経徳来ル、直ニ待合迄出迎、二階茶席右 而挨拶申入、拝領 壺飾、会席菓子、中立席入知セ、濃茶・炭・干菓子出シ、薄茶輝満ヘ申附候故各 而席済、広間 而吸物五種・ 肴相済、西四辻ニハ後段無、早出之事、四人ハ四時頃迄 入手置、右者茶器書附御所望 付認候間、入延 六月 四日 自茶会 申被越、返事ハ跡 六月 五日 昨日御招之御挨拶室崎 六月 七日 その他 明日打合ニ経徳行、右故旁来ル 歟 三時、高階経徳来ル、診察、種々噺、兼 而噂有之松浦詮・林泉至 而能場所近日茶ニ被招度旨、経徳へ噂、 午後一時前飯田文彦来ル、当春頃 歟議官兼検事従四位渡辺驥染筆短尺、座敷茶席額内願之礼︵略︶文彦ニ 一寸面会挨拶申入ル 正親町実徳過日茶之礼、三品之悦ニ来ル 置之事 橋本実梁一昨日茶湯ニ招礼ニ来ル、面会 而申合ス、会記所望、 ︵略︶西四辻公業一昨日茶湯之礼来ル、申 引之事 六月 十一日 その他 十時過小松宮 六月 二十三日 その他 西四辻書状来ル、明五日正午茶事畏礼書来ル 六月 その他 同時高階経徳来診、松浦詮招之義過日来約束候得共、 ︵略︶十月頃迄延引頼置事 十八日 二十二日 その他 七月 七月 九時寸松堂一休自画賛・原白隠自画賛軸持来預置之事 正親町実徳卿来、面会望之処、按服中断、松浦詮約束之茶事今日之処、指支延引申入置之所、旧八月月 見頃治定之約諾噺アル由、取次長正ヘ申置候事 茶道具 二十八日 その他 十一日 七月 八月 194 明治前期の「貴紳の茶の湯」 明治十六年 八月 九月 その他 十九日 茶道具 一日 寸松堂香合一ツミセル、且、過日一休自画賛・原白隠之二軸求置、二十五円・五円、束三十円長正 松堂 江出置、入手之事 八時前高階経徳診ニ来ル、則面会、種々噺アリ、松浦詮約諾之噺申合ス事 寸 二時過松浦辰男来、先年故宮御前 而頂戴、三名待霄月詠軸持参サセル、於二階茶菓遣シ、長正手前 而出ス、 白隠三軸ミセ、二三日留置噺申入置之事 煎茶・薄 煎 八時過伏見家穂宮来、 ︵略︶中飯後剪茶・薄茶・菓子・葡萄等 茶 十三日 薄茶? 一日 その他 九月 十月 九日 午後一時過松浦詮始 而来ル、兼正親町・高階経徳迄申入置茶事、来月中旬催度申入置、直ニ被帰候事 十月 十一月 十日 二日 そ の 他・ 九時肥前松浦詮来ル、過日頼候染墨二様認、昨日持セ遣候処、謝礼来ル、 ︵略︶且、約束茶席近日出来候、 薄茶 御招待可申、薄茶歩立 而二ツ・黒川製柿・柚三ツ出ス、持被帰候事 そ の 他・ 七時松浦詮ニ輝満内使、昨日附染墨物持遣ス、主人面会入手、歩立薄茶出ス趣、ガンギ手茶碗之由 薄茶 その他 茶道具 同刻過松浦詮兼 而願之額一行物二枚出来ニ 付乍ミ苦敷持セ遣ス事 寸松堂掛軸箱入持来ル、二・三日留見候様申呉ル 今朝九時頃松浦詮内使ニ菅沼量平来、過日参入之節 而願置候額面・軸物二枚、語モ書附持来ル、承置候事 十一月 十一日 山名茂淳来ル、表茶ノ時節、先於二階輝満 十二日 その他 十一月 十二日 薄茶? 其後渡辺驥来ル、向島茶席出来 付御成之義近日内飯田文彦ヲ以相伺由也 十月 十一 月 十三日 その他 正午寸松堂過日ミセル東海寺之和尚軸物添求ム、仕雪茶杓持来、右者預置候事 十一 月 十五日 そ の 他・ 出宅前飯田文彦来リ、玄関 而逢、内願茶事之義承ル、来年花之頃ニ一寸申入置候事、跡ニ残リ本月廿五・ 薄茶 六日之内杯承由也、馬車 而溝口家 江行、 ︵略︶薄茶越之雪 而出ル 十月 二十五日 茶道具 十一 月 十七日 午前渡辺驥来ル、時候伺、且、過日竹花入切形墨相願、輝満示談 而遣シ所、出来 而礼ニ来ル 寸松堂嗜平釜浄林釜作ハ高麗蹲踞花入求ル事、都合二ツニ十円出ス事、沢庵詠一軸ハ返ス事 寸松堂 □林釜照手噂□掛花立□□入手置之事 茶遣ス事、其後面会噺 十一 月 十九日 茶道具 茶道具 十五日 その他 十日 十一 月 十二 月 十二 月 195 困脚候間、来年暖気迄無余義理申 十二月 二十日 その他 十八日 午前松浦詮来ル、昨日経徳 委曲相伺候兼 而之茶事日限申上候処、御風邪痰気 而無余義当年中者御理、明 年暖気頃申上度、御請、旁、所労見舞来、申置 而被帰候事 十一時高階経徳来診、松浦詮之噺モ申合、先方ヘハ経徳委曲申入ル事 而 十二月 二十九日 その他? 渡辺驥名代ニ飯田文彦来ル、先頃額面願、花生切形願礼ニ真綿三袋︵略︶贈ル事 内使今井来リ、茶事廿四・五・六之内ト申来リ候ヘ共、痰 十二月 三十日 その他 渡辺驥方ヘ正午茶ニ 付池田ニハ橋場 江行居事 松浦詮 入置事 十二月 十二日 他茶会? 同時寸松堂今日庵宗旦、筒軸・炭取・チリトリ右三種持来リ、入手置之事、十円也 十七日 その他 一月 十七日 茶道具 その他 一月 過日渡辺驥茶湯席附道具懐石等書附一覧之事、何レ返事暫時留置事 岐 越 中 守 書 跡 并 午後一時トキ一右衛門忰谷吉、函館昇合セ来ル、一寸面会、麁菓遣ス、暫噺、於二階薄茶遣ス事 土 広沢始面会、茶事何 歟□掛ル 一月 二十一日 その他 十時穂宮来ル、雞卵一箱・薄茶器桐筥入一通リ︵略︶到来 明治十六年 十二月 明治十七年 ︵一八八四︶ 一月 二十四日 茶道具 薄茶 寸松堂花入 十日 一月 二十五日 茶道具 二月 平 寸松堂三郎一休和尚蘭画賛軸一箱見セニ来ル、直ニ返ス事 十三日 茶道具 幅被贈ル 寸松堂 鉦一面求、三郎請取入手、 十二円 十一時頃、加州家扶村井恒来ル、四位之使、右者故正二位斉泰卿遺物書棚・月舟漁魚画・大雅堂横軸一 松 二月 茶道具 午後正親町実徳卿来ル、面会之処、所労 而断、菓子出シ置事、松浦詮伝言モ有之事 九日 二月 二十七日 その他 三月 三月 三十一日 茶道具 校訂者の傍注は一部省略し、原本の明らかな誤字は訂正した。 明治十七年 注 196 明治前期の「貴紳の茶の湯」 ︵ ︶有栖川宮幟仁親王と喫茶 ﹃幟仁親王行実﹄には、 ﹁茶事の趣味﹂および﹁茶室の規模﹂と ことも考えられる。煎茶道の流行については、﹁幕末より維新へ の間における、抹茶にかわる新しい茶としての煎茶の抬頭にはめ ざ ま し い も の が あ っ た ﹂ が、 そ の 後﹁ 明 治 中 期 を 境 に 急 速 に 凋 を茵席の上に望み、 近く品海の濤声を枕頭に聴き給はむため、 口正俊に命じて造営せしめたまひし茶室は、遙に富嶽の秀姿 浦詮の茶室に﹃心月庵﹄の扁額を賜へり。又、内匠寮技師樋 りき。明治十六年十一月、鴨沢守保に茶神像を描かしめ、松 茗筵を設け、同好の士を召して清興を催されたること屢々あ ひ、 銘を﹃花がたみ﹄と称せられ、時に聖上に献ぜらる。又、 茶は薄茶を嗜み給ふ。後庭茶園の新芽を摘みて親ら製し給 ことを示すようにも感じられ、すべてが儀式的煎茶であるとは考 明記されたもののみとりあげたが、これらにしても、抹茶でない れるので表 にはとりあげていない。喫茶の意味での﹁煎茶﹂と 出ス﹂という記事は頻出するが、これは日常的煎茶のことと思わ する必要があるだろう。ちなみに、日記には来客に対して﹁茶菓 る よ う な 儀 式 的 な〝 煎 茶 道 〟︵以下﹁儀式的煎茶﹂︶の 二 つ を 区 別 な喫茶としての煎茶 ︵以下﹁日常的煎茶﹂︶と、茶の湯と対比され このような時代背景があることから、煎茶文化の場合、日常的 落﹂したとされる。 特に階上に設け、結構数奇を凝らされたり。後、熾仁親王之 えにくい。 して、つぎのとおり記されている。 16 を庭上に移して平家建とし、父宮の遺愛を偲ばむがために、 三条実美をして﹃望嶽観濤処﹄の五字を書せしめて扁額とし 給へり。 昼食後に喫茶する、とくに薄茶を飲む習慣があったように思われ み給ふ﹂だけでは意味がわかりにくいが、有栖川宮幟仁親王は、 同様のことが〝抹茶文化〟の場合にも指摘できる。﹁薄茶を嗜 1 18 扱われている。これは日記中の記述にも同様にみられる。 ことである。このように〝抹茶文化〟と〝煎茶文化〟とが並列に であり、第二文の﹁親ら製し給﹂う茶は煎茶であると考えられる ここで興味深い点は、第一文の﹁薄茶を嗜み給ふ﹂の茶は抹茶 ある一方で、 ﹁茶事﹂と表記される儀式的な茶の湯 ︵以下﹁儀式的 常的な楽しみや気楽な接待としての薄茶 ︵以下﹁日常的抹茶﹂︶が 例、さらに点前をしたと記す事例などもみられる。このような日 る記事が日記中にみられる。また、来客に対して薄茶を出した事 19 13 いま、〝抹茶文化〟、〝煎茶文化〟ということばを用いたが、日 に関する記事を分類するならば、抹茶および煎茶にそれぞれ日常 抹 茶 ﹂︶が あ る。 こ れ ら も 区 別 す べ き で あ ろ う。 す な わ ち、 喫 茶 21 常生活における一般的な飲み物は、当時すでに抹茶から煎茶へと 20 的および儀式的の、少なくとも四通りがあると考えられる。 14 変化していたと考えられる。ただし、煎茶といえば〝煎茶道〟の 15 197 17 2 この時点で有栖川宮幟仁親王は、すでに茶の湯の技芸を習得し ﹁明治四年、廃藩置県に際し有栖川宮家の封建主従関係が解体し があらわれる。茶の湯の世界で〝久田〟といえば、表千家脇宗匠 明治維新以前の有栖川宮幟仁親王の茶の湯について、﹃幟仁親 有栖川宮に仕えていた。名前にやや混同がみられるが、有栖川宮 然翁︶という明治十六年 ︵一八八三︶十月十二日に没した人物が 倉橋三位泰聡・石井前中納言行弘・町尻大宰大弐量輔・橋本右中 三年︵一八五六︶二月十六日には﹁午後柳御殿に綾小路按察使有長・ ており、その後の有栖川宮家において茶の湯を担当したのは、池 ただし、有栖川宮家の家職は明治四年 ︵一八七一︶に整理され ずから亭主をつとめた正式の茶会であろう。 田輝満であろう。日記には水屋を命じられた記事もあるほか、﹃幟 32 31 将実麗等を請じて茶会を催され、薄暮退散す﹂とある。後者はみ 26 25 27 仁親王行実﹄には四女利子女王 ︵穂宮、のち伏見宮貞愛親王妃︶が 34 33 198 本稿は、 抹茶文化を論じることが主眼であるが、﹃幟仁親王日記﹄ 茶の可能性がある﹁煎茶﹂と記された記事は、明治十二年 ︵一八 ことを指摘している。 た際の旧臣には五石三斗、久田宗栄がいる﹂ ていたと考えられる。この茶の湯習得に関連して、秋元信英は、 七九︶にもっとも多く五回あるが、全体を通じて多いといえるほ 日記のなかでは﹁久田宗全﹂︵明治七年︵一八七四︶三月三十日条︶ にみられる煎茶文化についても若干の評価をしておく。儀式的煎 どではない。 また、贈答品としての煎茶、抹茶、茶器などに関する記事もた ﹁林宗栄生々斎は御先手物頭林 久 田 宗 栄 ︵ 生 々 斎 ︶に つ い て、 高倉久田家からわかれて〝久田流〟を称した両替町久田家の弟子 製茶﹂ 、 ﹁御苑之製茶﹂なども煎茶であろう。また、急須や煎茶茶 久右衛門 ︵略︶の子なり、宗参の内弟子となり、大に茶道を励む、 た。とりあげなかった記事のうち、一般に抹茶に関するものより 碗の下賜の記事も多くみられる。ただし、これらは儀式的煎茶の 佃耕甫と共に家元の後継者に擬せられしが、︵略︶一家を立て、 有栖川宮家に仕ふ、後ち宮家の命によりて久田を称し、︵略︶嘉 流行を示すものというよりは、日常的煎茶のためのものと考えら れる。 永三年十一月三日卒す、年六十九﹂と伝え、また、久田栄甫、久 王行実﹄ には二つの事例をみることができる。嘉永二年︵一八四九︶ に関係する久田は、久田宗栄 ︵生々斎︶および久田宗栄 ︵歴然翁︶ 田宗全、久田清好の三人の子があるという。一方で、久田宗栄 ︵歴 五月一日に﹁帰途家臣藤木成基の家に御立寄りあり。成基、酒・ ︶明治維新以前の有栖川宮幟仁親王と茶の湯 30 の二代にわたると考えるのが整合的である。 ︵ 29 24 23 久田宗栄 ︵生々斎︶の系統であろう。 1 も、煎茶に関するものの方が多い。宮中から届けられる﹁御園之 いへん多いが、表 である高倉久田家が知られている。しかし、ここでの〝久田〟は、 28 では一部の茶の湯道具の贈答のみをとりあげ 22 重組・薄茶等を献ず。親王御機嫌斜ならず﹂とある。また、安政 3 明治前期の「貴紳の茶の湯」 高階経徳、山本邦保、松浦 孝顕、田中武恒、加藤新造 (新蔵) 明治 14 年 12 月 13 日 (1881) 寺島秋介、藤井希璞、八木 佳平(加坪)、山本邦保 明治 16 年 5 月 31 日 (1883) 小松宮彰仁親王夫妻、伏見 宮貞愛親王夫妻 有栖川宮熾仁親王が詰の席 にはいる。 明治 16 年 6 月 5 日 北白川宮能久親王、正親町 実徳、橋本実梁、西四辻公 業、高階経徳 池田輝満が薄茶を点茶す る。 ﹁生花は、池田輝満に就きて実生流の奥儀を極め、茶道亦輝満の 明治 12 年 10 月 30 日 伝を受け給ふ﹂とあることから明らかとなる。 有栖川宮幟仁親王にみる明治前期の茶の湯 ︵ ︶有栖川宮幟仁親王の自茶会・他茶会にみる交際関係 ﹃幟仁親王日記﹄にはいくつかの自茶会・他茶会の記事がみら れる。ただし、正式の茶会でも後段の酒宴や遊興に主力があるよ うなもの、一方で濃茶・薄茶が出されているが茶会ではない事例 ︵明治十三年︵一八八〇︶十二月十三日条︶もある。ここでは一応茶 会とみなされるものについて、主客を表に整理して、自茶会六事 例 ︵表 ︶および他茶会六事例 ︵表 ︶について検討する。 ここでは、茶会をめぐる有栖川宮幟仁親王の交際関係を中心に 検討する。秋元信英は、﹃幟仁親王日記﹄の記事を分析した結果、 つぎのとおりのべているが、この評価は茶会についてもあてはま る。 本書にみる極め細やかな社交の範囲は親族、使用人それに 気を許した華族、学者、神官が中心であった。東京に定着す 備考 36 ると次第に往来の範囲が拡大したものの、政府の大官とは親 密ではなかった。 表 2 有栖川宮幟仁親王が亭主として催した茶会の招待客 35 もっとも注目に値するのは、有栖川宮家の家職あるいはそれに 池田輝満が水屋詰をする。 近藤芳樹、藤井希璞、大沢 方義 明治 12 年 2 月 1 日 3 「茶湯形」とある。島津定 が水屋詰をする。 樋口正俊、池田輝満 明治 12 年 1 月 14 日 (1879) 2 類するような人々である。家職にも身分の上下があるが、藤井希 199 37 客 年月日 2 1 表 3 有栖川宮幟仁親王が招待をうけた茶会の亭主と連客 井忠毘、千宗室 (玄々斎) (1872) 壬生輔世、脇坂安斐、酒 京都一時滞在中 (記載なし) 茶室新築披露 粟津義風カ 明治 13 年 11 月 7 日 (1880) 橋本実麗 正親町実徳、山本邦保、 高階経徳、野生 明治 15 年 4 月 10 日 (1882) 寺島秋介 藤井希璞、山本邦保、八 木佳平、池田輝満詰 明治 15 年 5 月 7 日 橋本実梁 高階経徳 池田輝満は薄茶のこ ろに入席する。 明治 7 年 5 月 5 日 (1874) 満は有栖川宮幟仁 田中武恒、池田輝 家令、家扶であり、 栖川宮熾仁親王の 璞、山本邦保は有 い。 人々ということができるだろう。これらの人々の占める割合が高 くは、あまり身分が高くはないが、日々接している気の置けない ︵新蔵、新三トモ︶ 、野生も日記中にしばしばあらわれる。その多 史館七等掌記である。そのほか、大沢方義、松浦孝顕、加藤新造 あり、有栖川宮幟 は、宮中省侍医で 問ではたびたび関係をもっていることが示すように、千宗室︵玄々 ろう。ただし、明治七年 ︵一八七四︶三月から五月までの京都訪 このなかで異質な存在をあげるならば、千宗室 ︵玄々斎︶であ それ以外は、おもに皇族 ︵小松宮彰仁親王夫妻、伏見宮貞愛親王 仁親王を日常的に 斎︶とは旧知の関係にある。この関係は、 幕末期に千家の家元が、 親王の下級家職で たずねて診察して 天皇へ茶を献上したり、皇族の御成をあおいだりした時期があっ 夫妻、北白川宮能久親王︶ 、旧公家 ︵壬生輔世、橋本実麗、正親町実徳、 いる。樋口正俊は、 たことを思い起こさせる。しかしながら、東京では明治五年 ︵一 ある。粟津義風は 宮内省出仕の建築 八七二︶にしか関係をもっていないことは、家元と皇族との社会 、 旧 大 名 ︵ 徳 川 慶 頼、 脇 坂 安 斐、 酒 井 忠 毘、 橋本実梁、西四辻公業︶ 技師であり、有栖 的地位のへだたりが明治期に拡大したことを示すものと考えられ 京都時代の旧臣に 川宮幟仁親王邸の る。 前田慶寧︶などの明治維新以前から身分的に近い人々である。 造作に関係してい あたる。高階経徳 39 38 木佳平は太政官修 て関係が深い。八 人で、和歌を通じ 宮内省御用掛の歌 る。近藤芳樹は、 際には消極的であり、とくに政府の要職にある人物との交際をさ やや不思議に感じられるが、有栖川宮幟仁親王は一般に新たな交 ﹃幟仁親王日記﹄ には茶の湯を介した関係はまったくみられない。 世通禧は、旧公家であり、政府の要職を歴任したにもかかわらず、 秋元信英も指摘するとおり、Ⅲにおいてくわしく紹介する東久 41 徳川慶頼(田安家) 口切の茶会 連客 明治 5 年 10 月 18 日 40 備考 亭主 年月日 200 明治前期の「貴紳の茶の湯」 ︶有栖川宮幟仁親王をめぐる新たな交際関係 秋元信英は、つぎのとおりのべ、当時の貴紳の間に﹁皇族の数 だし、染筆の依頼には応じている ︵明治十六年十月十二日条、同年 十一月十日条、同月十一日条︶ 。 一方の渡辺驥は、直接あるいは飯田文彦を通じて、茶室開きに むかえたい旨を申し出た︵同年十一月十五日条、同月十七日条︶が、 これに対しても積極的でないと考えられる。 の希望があった。後年に和敬会とよばれる茶の湯の団体の会 明治十六年になると、さして懇意とは思われない方面より 思えない。おそらく、近代数寄者たちとは肌が合わないことを感 具の購入は続けており、茶の湯に対する意欲が減退しているとは すぐれないことがあったのかも知れない。しかし、この間も茶道 寄屋御成﹂というべき着想があったことを指摘する。 員 ︵事例、松浦詮・渡辺驥︶が、官界の現役の立場から記主 ︵有 じていて、交際を避けた可能性も考えうるのではないか。 この背景に、有栖川宮幟仁親王が明治十六年夏ころから体調が 栖川宮幟仁親 王 引 ―用者注︶に連結する希望をもった。少ない ︵略︶ 事例ではあるものの、茶道文化史上の新しい兆候と思う。 端的に仮説を言えば、王政復古の思潮が反映した近代﹁御成﹂ である。 45 明治の政官界で活躍した松浦詮、渡辺驥ともに、まさに近代数 44 寄者にふさわしい人物である。この二人は、ほぼ同時期に茶室開 て茶会を催している。有栖川宮幟仁親王については断念したもの 同月二十四日に北白川宮能久親王および伏見宮貞愛親王をむかえ なお、松浦詮は、明治十七年四月十三日に小松宮彰仁親王を、 49 48 ︵ ︶茶道具への関心の深まり の、希望どおりの﹁皇族の数寄屋御成﹂を実現したものであろう。 50 ︵ ける傾向があるといえる。 42 を申し出る ︵同年十一月十二日条︶ 。それに対して有栖川宮幟仁親 、茶室開きにむかえたい旨 松浦詮自身が訪問し ︵同年十月九日条︶ 八八三︶七月十八日条、同月二十二日条、同年九月一日条︶ 。ついで 松浦詮は、 まず高階経徳を通じて茶会の話をした︵明治十六年︵一 使用人それに気を許した華族﹂という有栖川宮幟仁親王の茶の湯 た正式の茶会であったことを考えると、交際関係において ﹁親族、 とのかかわりが、﹁家臣藤木成基の家﹂であり、公家たちを招い い。ただし、﹃幟仁親王行実﹄に記された明治維新以前の茶の湯 記されていないため、どのような内容であったのか明らかではな 有栖川宮幟仁親王の茶の湯は、使用した茶道具などが日記には 王はあまり積極的でないように感じられる︵同年七月二十八日条、 のあり方は、明治維新の前後でその性格が変化したとは考えにく きに有栖川宮幟仁親王をむかえるべく働きかけをおこなう。 3 43 。た 同 年 十 二 月 十 七 日 条、 明 治 十 七 年︵ 一 八 八 四 ︶ 二 月 二 十 七 日 条 ︶ 201 47 2 51 46 における大きな変化と考えられることは、明治十五年 ︵一 Ⅲ 東久世通禧にみる喫茶文化 幅を購入しているが、値段は﹁十五円五十銭﹂ 、内容は﹁千宗旦 して、明治十六年 ︵一八八三︶三月七日条では寸松堂から掛軸二 三年︵一八八〇︶九月十九日条︶がみられる程度である。それに対 治 七 年︵ 一 八 七 四 ︶ 四 月 一 日 条 ︶ 、﹁数茶碗一見 而大樋一楽﹂︵明治十 において、茶道具独特の観点での表現は、﹁カワ太郎仙叟好棗﹂︵明 総督 ︵のちに神奈川府知事︶などに就任、明治二年 ︵一八六九︶に る。王政復古によって復権し、慶応四年 ︵一八六八︶に外国事務 八日の政変により京都を追われて長州に下った七卿の一人であ には尊王攘夷派公卿として知られ、文久三年 ︵一八六三︶八月十 村上源氏久我家の支流にあたる公家の東久世家に生まれた。幕末 東久世通禧︵天保四年︵一八三三︶∼明治四十五年︵一九一二︶︶は、 湯の号が﹁正学﹂であることを考えあわせると、脇坂安斐と関係 出入りしていた。また、﹁清学師匠﹂ともあり、脇坂安斐の茶の 寸松堂は﹁二品宮馴染之趣也﹂とあり、有栖川宮熾仁親王邸にも とどまらない印象もうける。明治十五年十月十八日条によると、 この変化は寸松堂の影響によるものと評価もできるが、それに 賜され、明治十七年 ︵一八八四︶には、家格から本来は子爵相当 また、明治二年には王政復古の功績に対して永世賞典禄千石を下 枢密院副議長など、明治政府の要職を歴任した。 十五年︵一八九二︶ 元老院副議長、明治二十三年 ︵一八九〇︶貴族院副議長、明治二 長となり、岩倉使節団に同行して外遊、明治十五年 ︵一八八二︶ 開拓長官として北海道に赴任し、明治四年 ︵一八七一︶には侍従 男東久世秀雄は、分家に際して特旨をもって男爵を授けられた。 のある可能性が推測できるだろう。ちなみに、Ⅲにみる﹃東久世 このように考えると、寸松堂が当時の上層階級の茶の湯の世界 このように公家出身者としては明治政府に厚遇された人物といえ のところ、維新の勲功により伯爵を授けられた。さらに、その四 で活躍していたことは、この時代の﹁貴紳の茶の湯﹂の要求に対 一方で、文化面では、茶の湯、詩歌、書画、雅楽などに活躍し る。 の茶道具への関心の深まりは、一道具商の影響というよりは、明 た。とくに茶の湯では、明治三十一年 ︵一八九八︶にはじまる明 治期の上層階級の茶の湯の集まりであり、十六羅漢として知られ 治前期の茶の湯の雰囲気に影響されたものであると考えられる。 応するものといえるだろう。日記にあらわれる有栖川宮幟仁親王 通禧日記﹄にも、寸松堂は頻出する。 53 202 い。 表 八八二︶ 十月十八日条に道具商寸松堂後藤太林があらわれてから、 東久世通禧とその背景 ︵ ︶東久世通禧の人物像 自画賛、片桐石州蝶賛紅雪和尚夢一字﹂と具体的になる。 茶道具に関する詳細な記述が増えることである。それ以前の記事 1 1 1 52 明治前期の「貴紳の茶の湯」 る﹁和敬会﹂の一員であった。高橋義雄は、その人となりを追憶 ︵ ︶明治維新以前の東久世通禧と茶の湯 公家の家に生まれた東久世通禧は、公家としての教養を身につ 技能を有せられたるが、茶人としての伯爵は誠に真率洒脱に 史を照し、余技の詩歌、管弦、書道等に於ても亦特筆す可き 十六羅漢中の白眉東久世伯は勤王尽国の事蹟炳焉として青 る。 八六一︶五月三十日条には鞠道入門など、くわしい記事がみられ 安政三年︵一八五六︶三月八日条には衣紋方入門、文久元年︵一 門、 う か が え る。 安 政 二 年 ︵ 一 八 五 五 ︶六 月 二 十 八 日 条 に は 和 歌 入 けることが当然もとめられた。二十歳代の日記には、その経緯が して器具を品騭するにも非ず。其組合せを批評するにも非ず。 して、つぎのとおりのべている。 2 及び庵室が如何にも質樸古雅にして身は京都に居るやうの心 至て平民的にして談笑中時に諧謔を交へ給ひ、寸松庵の露地 爵及び伯夫人を我が寸松庵に請じたることあり。其客振りや 殆んど十数種に及びたりと云ふ。明治四十一年頃と覚ゆ。伯 には心を用ゆること深く、自邸に各種の花卉を植ゑ椿の如き 澹泊湯を呑むが如く物に拘はらざる風体なりしかども、生花 いう記事もみられない。 湯を学んでいないことはもちろん、みずから茶の湯に関係したと 於錦雞間賜之﹂とある。ただし、この時期の東久世通禧は、茶の 昼夜参仕、新茶御口切也、当番輩御通・吸物・重肴・鉢肴等一宛 由也﹂とあり、文久元年 ︵一八六一︶十月二十七日条には﹁当番 政四年 ︵一八五七︶十一月二十七日条には﹁今日進献御茶口切之 また、当時の宮廷では、口切の茶の湯がおこなわれていた。安 ひける折の物語に及び、所謂一見旧の如く雲井に近き御方と 相 対 座 す る の 感 を 生 ぜ ざ り し は、 却 つ て 奥 床 し き 限 り な り である。ただし、有栖川宮幟仁親王と同 4 58 様に、日記には、茶会記に類する記事はなく、人名を中心とする 分を整理したものが表 状況をうかがわせて興味深い。明治十五年 ︵一八八二︶末までの 明治期に入ってからの﹃東久世通禧日記﹄は、当時の茶の湯の 1 なお、 刊行されている﹃東久世通禧日記﹄上巻および下巻には、 し。 東久世通禧にみる明治前期の茶の湯 ︵ ︶明治前期における茶の湯の復興 地すなど述べられ、又七卿西下の後暫く太宰府にさすらへ給 57 記事について、喫茶に関係するものを広くとりあげ、その主要部 ないし明治十五年 ︵一八八二︶のものが収録されている。 56 明治五年 ︵一八七二︶をのぞき、嘉永七年 ︵安政元年・一八五四︶ 55 2 交際関係、喫茶の種類方法、若干の道具などにかぎられている。 203 54 まず、 あげられるのは 〝煎茶文化〟 に関するものである。﹁煎茶﹂ 七時出省、八時聖上・皇后博覧会開場ニ付上野へ行幸、外 楠本正隆、美術館計御覧後園便殿御休息、軽気毬御覧、脇坂 国公使侍席、開業式勅書御読上、内務卿奉答辞及東京府知事 るものと考えられる。これに関する記事は、明治九年 ︵一八七六︶ 安斐献点茶、十一時還幸、予大礼服乗侍ス と﹁啜茶﹂と二通りの表記があるが、いずれも儀式的煎茶に関す に 二 回、 明 治 十 年 ︵ 一 八 七 七 ︶に 二 回、 明 治 十 二 年 ︵ 一 八 七 九 ︶ であるのか定かではないが、煎茶に関する記事が広く散見される の個人的嗜好を示すものか、近代数寄者の茶の湯志向のあらわれ 波教忠、万里小路博房、堀田正倫らともに脇坂安斐邸における茶 その後同年十一月十六日条で、東久世通禧は、西四辻公業、藤 招請 岩倉邸ニ到ル、新茶亭新築落成ニ付、三条・柳原・大将宮 十六日条には、 ら、茶の湯の再評価がはじまったものと考えられる。同年十二月 この明治天皇への献茶があった明治十年 ︵一八七七︶のころか る。 会に招かれる。そして、こののち茶の湯に傾倒していくこととな 煎茶の家元を訪問した際の記事である。つぎのとおり、東久世通 禧はあまりよい印象をうけなかったようである。 小川久敬宅啜茶ニ行、小川佳進ナル水味ノ説ヲ発明シ、天 保年間ヨリ嘉永・安政ニ到リ茶道ノ宗匠タリ、息久敬学其遺 流、水中陽気ノ説ヲ弁明ス、理或ハ然ラン、唯黙而聞之、啜 と記事があり、岩倉具視は、三条実美、柳原前光、有栖川宮熾 仁親王および東久世通禧を招待して、新築茶室を披露している。 62 茶三杯、料理酒飯ノ饗ニ逢帰家、徹宵不寝、可哭彼翁ノ茶説 ニ酔、流飲ヲ起スコトヲ その半年後に、明治になってはじめての〝抹茶文化〟の記事が 61 これは同年八月二十一日の明治天皇への献茶以前から着工してい たものであろう。 、東久世通禧も茶室建築にとりかかることとなる 年三月二十日条︶ 明治十一年 ︵一八七八︶には茶の湯に関係する記事はないが、 されている。 茶である。このとき、東久世通禧は侍従長として明治天皇に随行 において紹介した脇坂安斐による明治天皇への献 64 60 明治十二年 ︵一八七九︶になると、南部信民が茶室を披露し ︵同 登場する。Ⅰ 63 注目すべきは、明治十年二月二十八日条、京都において小川流 ﹃幟仁親王日記﹄と比較すると大きな相違点であるといえる。 に一回あるが、それ以降にはみられない。このことが東久世通禧 59 している。日記の明治十年八月二十一日条には、つぎのとおり記 2 204 明治前期の「貴紳の茶の湯」 月 日 内容 記 事 の 抜 粋 黄昏西四辻邸ニ行、三条西・冨小路・綾小路其他伶人三名集会、煎茶、酌酒西京ノ妓︵略︶ 秋月邸へ行、柳原前光・鍋島直彬同席、煎茶雑話ス 煎茶 二十八日 煎茶 十八日 二月 在梅堂小憩啜茶 小川久敬宅啜茶ニ行、 ︵略︶啜茶三杯、料理酒飯ノ饗ニ逢帰家 煎茶 二十八日 煎茶 六日 十一 月 十六日 十六日 他茶会? 他茶会? 他茶会 南部信民邸茶亭落成ニ付部長局輩招請 五時辞席岩倉邸ニ到ル、新茶亭新築落成ニ付、三条・柳原・大将宮招請、九時帰宅 四時脇坂安斐邸茶湯ニ招請、西四辻・藤波・万里小路・堀田等同席清楽ノ興アリ 八時聖上・皇后博覧会開場ニ付上野へ行幸、︵略︶美術館計御覧後園便殿御休息、軽気毬御覧、脇坂安斐 献点茶 十二 月 二十日 福羽議官同伴広岡吉二郎 二十一日 その他 三月 点茶ほか 四時杉孫七郎宅へ招請、佐野・福羽・佐々木・河田同席、古硯草堂落成煎茶会也 八月 三月 二月 一月 表 ﹃東久世通禧日記﹄下巻にみる喫茶関係の記事 ︵明治二年︵一八六九︶∼明治十五年︵一八八二︶ ︶ 年 明治九年 ︵一八七六︶ 明治十年 ︵一八七七︶ 明治十二年 ︵一八七九︶ 七日 煎茶 今日茶席造作着手職人入込 午後西四辻邸行、脇坂安斐同席、抹茶会 鹿島屋 霊岩島 宅牡丹見物ニ行、午餐饗応点茶 五月 九日 茶室整備 三十一日 茶室整備 脇坂安斐入来、茶席普請検分 十三日 二十九日 他茶会 五月 六月 八月 八月 脇坂安斐・西四辻公業入来、同伴到堀津買茶器、去到本所石屋買庭石・手水鉢石︵略︶ 十二日 茶道具 十月 四時脇坂安斐邸茶会ニ行相客六人、十時帰宅 十九日 茶室整備 植木屋寅松入込作庭、茶寮前庭鋪設 二十二日 他茶会 十月 十月 205 4 明治十二年 明治十三年 ︵一八八〇︶ 十月 九日 三十日 十六日 十一 月 十一 月 茶室整備 両国常盤屋ニ到糴市ヲ見、茶器両品ヲ購求ス 茶寮造作落成 脇坂安斐入来、茶寮皆出来茶器取入之為也 茶道具 茶室整備 十二 月 十二 月 十二 月 十一日 八日 四日 二日 稽古 他茶会? 点茶ほか 点茶ほか 稽古 午後試画抹茶 脇坂安斐入来、抹香稽古、大給恒入来同席勧酒飯 西四辻公業邸へ行抹茶・書画遊、大河内正質・赤沢宗凹同席、十時帰宅 午後月曜画会相催、河田・高崎︵略︶等集会、骨董肆寸松堂来、抹茶ヲ点ス 午後上杉茂憲・板倉勝達・四条隆平・南部信民等入来、抹茶・囲棊 脇坂安斐入来、抹茶稽古 脇坂安斐入来、数寄屋道具相揃始而点茶 十二 月 十二日 点茶ほか 午抹茶招請、脇坂安斐邸へ行 二十一日 点茶 十二 月 十四日 他茶会 十一 月 十二 月 二十日 茶 十二 月 点茶ほか 夕景吉益・小寺等入来点茶 三時後橋本実麗・西四辻公業・堀河康隆・冨小路敬直・吉田半十郎等入来、点茶・囲棋 尾崎三良・藤波教忠等入来、点茶・囲棋 十三日 点茶 三日 点茶ほか 一月 十四日 一月 一月 橋本実梁・宝林寺専護入来、点茶・囲棋 秋月・伊丹・山口三議官入来点茶、饗午餐 点茶ほか 二十三日 点茶ほか 午後脇坂安斐入来、点茶稽古 十七日 一月 二十五日 稽古 一月 一月 吉益正雄来点茶 午後脇坂安斐・伏見屋来点茶 二十八日 点茶 点茶 橋本実梁入来茶室新造ニ付示談 一月 一日 その他 二月 八日 二月 三時脇坂安斐・本多正憲入来、点茶稽古 十一日 稽古 二月 206 明治前期の「貴紳の茶の湯」 明治十三年 二月 二月 二十日 十四日 稽古 点茶 脇坂安斐入来、点茶稽古 夜吉益来点茶 三月 三月 六日 三日 二日 稽古 茶道具 稽古 点茶? 四時後蠣殻町青木信寅邸へ行、吉益正雄案内古書画展観、 ︵略︶彼家冨古書画、点茶、饗晩餐、十時帰宅 脇坂安斐点茶稽古入来 茶器七点購求 脇坂安斐入来、点茶稽古 吉益正雄来、対雪煮茶甚有興 貞子同伴吉田水月尼方へ点茶ニ行 三月 十一日 点茶ほか 二十七日 点茶 三月 十二日 二月 三月 点茶 岩倉邸へ行、梅渓同席茶会 脇坂安斐妾須万・吉益正雄・伏見屋等来点茶 二十一日 点茶 二日 他茶会 四時橋本実麗・藤波教忠・梅渓通善入来、吉益正雄点茶、酒間囲棋 三月 四月 十二日 点茶ほか 清岡 ・吉益正雄来、点茶 脇坂安斐邸ニ行、秋月・高崎・池原・久野等同席、点茶揮毫 四月 十七日 二十九日 点茶ほか 四月 午後脇坂安斐邸両大臣招請取持ニ行、点茶有謡囃子等、柴原・股野・徳大寺・前田等同席 三月 四月 二十三日 点茶ほか 五月 五月 五月 十二日 十日 六日 四日 他茶会 稽古 点茶・茶 道具 稽古 稽古 脇坂安斐邸午時茶会、妻同伴、本多・丸岡・吉益・吉田老婆等同席、四時事了 午後脇坂安斐入来点茶稽古、吉益同席 吉益正雄来点茶、買香合・茶碗瀬戸唐津一碗、其価二円廿五銭、香合螺鈿黒漆四円也 午後脇坂安斐入来、点茶稽古 午後貞子同伴脇坂安斐邸点茶稽古ニ行 庭前数奇屋今日ヨリ屋根葺ニ懸ル 五月 十五日 二十七日 茶室整備 五月 午後脇坂安斐入来、点茶稽古 四月 五月 二十一日 稽古 207 明治十三年 五月 二十四日 他茶会 売 午後四時西四辻公業邸へ行、茶会、橋本・三条西同席、十一時帰宅 庭前修築落成 茶道具 午後吉益正雄・西四辻公業入来、点茶 茶室整備 三日 点茶 吉田半十郎・脇坂安斐・吉益正雄等入来、囲棋、点茶稽古 三十日 六月 七日 稽古 小梅鴻池幸右衛門別荘正午茶事招、妻同伴 五月 六月 十一日 他茶会 脇坂安斐入来、点茶稽古 旋謝礼会席膳椀・寒雉釜・若狭盆等到来 六月 二十日 篤 壬生桄夫茶道具・書物等買却代金四百十円受取、吉益周旋為謝礼十五円相遣ス、壬生敦子入来、道具周 六月 二十一日 稽古 今暁有盗茶席ニ侵入、茶道具大略ヲ盗去、明後二日茶湯古帆亭落成招脇坂有約束、然而器械大略散失々 望甚矣 六月 その他 脇坂安斐・吉益正雄来、点茶稽古 夕景吉益正雄同伴脇坂安斐邸へ行、茶会、本多正憲・大坂天王寺屋同席 三十日 稽古 午後脇坂安斐邸へ行、点茶稽古 二十五日 他茶会 六月 二日 稽古 夕五時茶事、脇坂安斐側室須麻・本多正憲・伏見屋忠次入来、亭主方吉益正雄周旋、十時前各退散 六月 七月 九日 自茶会 今日正午茶事従松浦詮案内、依会議相断 脇坂安斐宅行、点茶稽古 七月 十二日 その他 二十九日 稽古 七月 十五日 五時脇坂安斐邸行、本多正憲・予・妻等盆立点茶作法相伝、予学茶不欲為茶博士、只愛風情耳、然而安 斐欲吾門葉栄盛勧思不止、依而及此挙非本意也、吉益正雄・吉田老婆同席 六月 七月 その他 吉益正雄・片桐譲之来、点茶 十七日 二十三日 点茶 七月 七月 夕五時伊丹重賢・青木信寅・加藤嘉庸・古筆了仲・吉益正雄来、茶事、九時過各帰去 夕景橋本実麗・同実梁・西四辻公業・脇坂安斐・吉益正雄等入来、点茶・囲棋 二十九日 自茶会 二日 点茶ほか 七月 八月 四時橋本実梁邸へ行、点茶・囲棋、久我・伏原等同席 午後四時本多正憲邸茶事、脇坂・丸岡・吉田婆等同席 四日 点茶ほか 十一日 他茶会 八月 八月 208 明治前期の「貴紳の茶の湯」 明治十三年 八月 八月 十七日 十二日 他茶会 稽古 夕景吉益正雄来、同伴銀座布袋屋へ茶事ニ行 午後脇坂点茶稽古入来 脇坂安斐宅行、点茶稽古 吉益正雄同伴午前四時脇坂安斐邸朝茶ニ行、古筆了仲・吉田婆・伏見や忠次同席、八時事了 二十四日 稽古 吉益正雄来、炉灰検査 他茶会 八月 二十五日 その他 十八日 八月 午後吉益正雄来同伴川上宗順宅・田沢房次宅行、忠度卿色紙ヲ見ル 八月 八月 二十八日 茶道具 二日 茶室整備 稽古 吉益正雄宅行、名物文琳茶入・玉霰 今日ヨリ茶席前庭再築植木屋来 午後脇坂安斐・本多正憲・吉益正雄入来、点茶稽古 脇坂安斐邸行、点茶稽古 九月 八日 茶道具 吉益正雄鞍馬石手水鉢周旋、其価廿一円、今日繕付、昨日賊西洋館・茶室等へ忍入、品物五点計盗取 二十九日 稽古 九月 十二日 茶室整備 ・その他 八月 九月 十三日 四時西四辻邸ニ行、胡枝満開、橋本父子・赤川同席点茶 みなの川 茶入 ・山井茶碗等ヲ見 九月 点茶 脇坂安斐入来点茶 十四日 二十一日 点茶 茶席前庭修築落成 九月 九月 二十二日 茶室整備 園庭造築今日落成 九月 茶室整備 夕四時茶事、脇坂安斐・橋本実麗・同実梁・西四辻公業・吉田水月尼入来、点茶 脇坂安斐邸へ行、点茶 一日 自茶会 二十九日 点茶 十月 三日 十時三浦安宅行、大給・岩邨同席茶事 九月 十月 他茶会 夕景吉益正雄・長四郎三来点茶、脇坂有約而不快之由不来 十日 十二日 点茶 十月 十月 今夕脇坂家茶会有約所労ニ付断申遣、吉益為代出頭之処入夜有使者、今夕茶会延引旨告来 脇坂安斐・吉益正雄来点茶 十五日 その他 二十五日 点茶 十月 十月 209 明治十三年 明治十四年 ︵一八八一︶ 十一 月 十一 月 十一 月 十三日 十一日 四日 二日 他 茶 会・ 正午茶事、松浦詮邸へ行、夕景福羽議官邸へ行、囲棋・点茶、徳大寺・藤波・吉井・松田等同席 点茶ほか 稽古 点茶 他茶会 点茶 午後早々脇坂安斐入来点茶稽古 脇坂安斐入来点茶 橋本実麗邸行喫茶、近衛・丸岡・西四辻同席 脇坂安斐・吉益正雄来点茶 明日茶会赤沢宗凹ヨリ招状来 十一 月 十四日 四時茶事、本多正憲・脇坂側室須摩・吉田水月尼入来、脇坂安斐有約束臨期依不快断也 二十八日 他茶会 十一 月 十七日 自茶会 来廿八日茶会松浦詮へ案内状指出ス、古筆了仲亦同シ 十月 十一 月 十九日 その他 午後二時西四辻邸へ行、同伴橋本父子同伴山伏町十八番地赤沢宗凹宅茶会ニ行、十時帰宅 十一 月 二十八日 自茶会 脇坂安斐入来点茶 二十九日 他茶会 十一 月 二日 点茶 正午茶事、脇坂安斐・古筆了仲・加藤嘉庸・長四郎三・伏見屋忠次、五時各帰ル 十月 十二 月 四日 自茶会 正午茶事、福羽議官夫婦・河田議官夫婦・子雲、四時前各帰ル 相良 午茶事、松浦詮・西四辻公業・渡辺驥・松浦信寔・赤沢宗凹等入来、大名物九鬼文琳茶入・盆立茶碗柿 のへた相用 十二 月 五日 十二 月 十二 月 十九日 他茶会 十七日 十二日 他茶会 正午茶事、貞子同伴福羽議官宅へ行、藤波・河田夫婦同席、茶事了後段吹弾歌舞之興アリ、十時帰宅 正午茶事加藤嘉庸宅へ行 堀田正倫邸ニ行、柿のへた茶碗返却、不昧茶杓・ふり〳〵香合借用 自茶会 十二 月 十二 月 二十五日 他茶会 正午茶事本多正憲邸へ行、脇坂・吉益・吉田尼等同席 貞子正午茶事、脇坂安斐邸へ行、河田景与入来、同伴夕五時工商会社若井兼次郎宅茶事ニ行、吉益・平 山同席、十時過帰宅 十二 月 二十六日 他茶会 茶道具 十二 月 八日 自茶会 正午茶事、脇坂安斐・渡辺驥・遠藤謹助・相模屋彦兵衛・寸松堂等来 一月 210 明治前期の「貴紳の茶の湯」 明治十四年 二月 二月 二月 二月 二月 二月 一月 一月 一月 一月 十九日 十一日 七日 六日 三日 二日 二十日 十六日 十五日 十三日 他茶会 稽古 点茶ほか 他茶会 点茶ほか 稽古 その他 自茶会 他茶会 他茶会 四時長四郎三茶事ニ行、脇坂・古筆・吉益・福井等同席、十時帰宅 脇坂安斐入来点茶稽古 夕景北畠道竜・三浦安・西園寺公望・吉益正雄等入来点茶、談仏法 正午茶事妻同伴河田景与宅へ行、福羽夫婦・渡辺驥同席、秉燭帰宅 新小川町北畠道竜宅へ行、吉益正雄同席点茶・囲棋 脇坂安斐入来点茶稽古 脇坂安斐夕四時茶事有案内、依所労相断 正午茶事相催、竹腰正美・古筆了仲・条野伝平・野村、吉益正雄水屋詰、点薄茶 夕景寸松堂へ行、夕餐饗応兼茶事、網綱忰同席 三時西四辻公業邸へ茶事招請、脇坂安斐・古筆了仲・赤沢宗凹・吉益正雄同席、 ︵略︶勧酒数巡、十時帰 宅 脇坂安斐入来点茶稽古 十時出門到嵐山、西山風光歴覧到桂宮別荘、兼而御招也、赤松少将・山口一同同伴、於松琴亭御茶高階 経徳手前也、於広間酒肴頂戴、 ︵略︶八時走車帰宅 二十一日 稽古 他茶会 植木屋来、庭前敷松葉ヲ撤ス 二月 十六日 茶室整備 午後脇坂安斐入来点茶稽古及囲棋 古筆了仲古筆鑑定稽古へ行、脇坂・久野定煕・吉益正雄同伴有茶事 三月 一日 稽古 二十五日 他茶会 四月 二日 正午茶事今戸町渡辺驥宅招請、河田・脇坂・条野・安田同席、︵略︶秉燭帰宅 二月 四月 他茶会 十八日 点茶 十日 四月 二十一日 他茶会 正午茶事脇坂安斐邸行、渡辺驥・河田景与同席、四時河田同車帰宅 四月 四月 二十三日 他茶会 午後二時橋場三条殿別荘対鷗荘へ行、有栖川宮・岩倉・四条・久我・壬生・南部等同席古筆了仲点茶 四月 午後久我建通妾菅浦等入来点茶、饗晩餐 過帰宅 三時脇坂安斐邸へ行、同伴竜泉寺村岩村高俊邸茶事ニ行、脇坂・渡辺驥・岩村通俊・予同席、 ︵略︶十時 四月 二十四日 点茶ほか 211 明治十四年 五月 二十一日 稽古 五月 五月 五月 五月 四月 十八日 十五日 九日 二日 三十日 その他 他茶会 点茶ほか 点茶 煎茶? 脇坂入来点茶稽古 杉浦誠宅・吉田かね宅へ行、小川某皆伝後茶事、脇坂・本多等同席 正午松浦詮邸行茶事、四時前帰宅 午後橋本実梁・南部信民・寺島秋介等入来点茶、晩食饗応 脇坂安斐・長馬太郎・吉益正雄等来点茶 午後早々内藤新宿福羽美静別業ニ行、 ︵略︶新筍野薇勝八珎煮茶囲棋 六月 六月 六月 五月 二十日 十六日 十一日 二日 三十日 他茶会 他茶会 点茶ほか 点茶 稽古 点茶ほか 四時後西四辻公業邸茶事ニ行、松浦詮・橋本実梁・千宗守等同席 橋本実梁邸茶会ニ行、西四辻・丸岡・松田等同席囲棋 十時大河内輝声宅へ行見物、午餐点茶等饗応、四時帰宅 脇坂安斐・代田羽白軒・吉益正雄・渡辺徹等入来点茶 脇坂安斐点茶稽古入来 午後岩村通俊・柴原和・吉田半十郎等来囲棋、橋本実梁又入来、点茶及夜十時各退散 正午茶事松浦・渡辺・岩村・大河内・古筆等入来、四時後各退散 六月 一日 他茶会 二十二日 自茶会 七月 五日 他 茶 会・ 音羽三丁目山田参議別荘ニ而赤沢宗凹追福茶事、千宗守手前、︵略︶四時松平乗承邸行、大給同席伝来茶 茶道具 器展観、有書画之興 五月 七月 十日 今日新造席開茶事頗有趣、十時帰宅 四時三浦安宅へ行茶事、古筆了仲・主人代理紀州家令斎藤某・千宗佐同席、彼亭六窓庵金森宗和好ノ席、 七月 五時新町頭山科白翁宅へ行、同伴千宗左宅見物、茶寮庭園見物 西四辻・橋本等へ行点茶・囲棋 茶室見学 山科白雲宅へ行、誘引千玄室茶寮庭園見物 二十六日 点茶ほか 三日 茶室見学 七月 十月 五日 正午茶事松浦詮邸へ行 十月 十一 月 夕四時寺島秋介宅茶会ニ行 十九日 他茶会 十一月 二十一日 他茶会 212 明治前期の「貴紳の茶の湯」 西京出雲路定信ヨリ与次郎作風炉到着、其価十五円奇代名品也 点茶 正午茶事条野伝平宅へ行 午後岩倉邸・丸岡莞爾・西四辻宅等へ行、於西四辻点茶、十時帰宅 正午茶事古筆了仲宅行、脇坂安斐・三浦安・伏見屋忠次同席 三日 他茶会 正午貞子同伴河田景与邸行、同伴神谷宅茶会ニ行 二十六日 他茶会 十二 月 十日 他茶会 四時後野村茶会ニ行 十一 月 十二 月 十一日 他茶会 夕四時脇坂安斐邸茶会ニ行、十時前帰宅 壱番町遠藤謹助宅正午茶事 十二 月 十三日 他茶会 二十七日 他茶会 十二 月 二十日 一日 点茶ほか 点茶ほか 午後古筆了仲宅行、古筆鑑定発会、点茶饗応、夜八時帰宅 午後橋本実梁・西四辻公業・東儀季煕・脇坂安斐・吉益正雄等入来点茶、奏楽々目六、 ︵略︶ 午後略服久我殿・橋本・西四辻邸年礼回勤、於西四辻家点茶、弾琵琶、夜九時帰宅 仁清作 ・ 銀 瓶 一 箇・ 白 縮 緬 一 疋 被 下、 宇 田 淵 よ り 消 息、 桂 別 荘 付 御 道 具 小 堀 遠 州 所持落葉釜拝借被仰付、右 者香川大書記官西京行之節相願ニ付取計有之也 従桂宮故宮為御遺物水指 一月 三日 点茶ほか 十二月 二十五日 茶道具 十二 月 十一 月 明治十四年 十一月 二十四日 茶道具 明治十五年 ︵一八八二︶ 一月 八日 三時後佐々木参議・東伏見宮・代田醜麿宅等行、代田月中一ケ度生花・点茶稽古入来之事依頼置 二十三日 稽古 午後鑑定会、松浦詮・脇坂安斐・渡辺驥・吉益正雄・河田景与・岡倉・古筆了仲等入来、炷香・点茶、 到十時散会 代田醜麿点茶・生花指南入来 一月 稽古 一月 二十五日 点茶ほか 加藤嘉庸宅夕茶会ニ行、渡辺・古筆・吉益等同席、点香 十八日 一月 二十九日 他茶会 一月 一月 稽古 代田醜麿来、生花・点茶稽古 十七日 二月 古筆鑑定会古筆了仲・渡辺驥・松浦詮・竹腰正美・片倉竜・吉益正雄・板倉勝達等入来、依例点茶・炷 香 帰懸伊丹重賢宅へ立寄、新築屋敷点茶 二十五日 点茶ほか 二月 二十四日 点茶 二月 213 明治十五年 四月 四月 二日 他茶会 二十日 稽古 十一時貞子同伴渡辺驥宅正午茶事、竹腰・吉益・鈴木同席 代田醜麿・吉益正雄来点茶稽古 稽古 正午茶事、津田・楠本・野村・渡辺・寸松堂入来 夕景代田醜麿・吉益正雄等入来、点茶・挿花稽古如例 午時茶湯寺島秋介・加藤嘉庸・条野伝平・長四良三・若井兼三郎、水屋詰吉益正雄等来、四時半茶事了 六日 自茶会 二十三日 自茶会 五月 二十日 退去懸橋本実梁亭へ行、脇坂・寺島・吉益・福井同席茶事、後段謡曲・琵琶ヲ弾ス 四月 五月 他茶会 六月 十九日 十七日 点茶ほか 三条邸へ行、前田・藤堂等同席、古筆了仲点茶会席料理、三宅庄市狂言アリ 茶 道 具・ 午後早々佐竹義堯邸行、茶器買却ニ付見物、三時松浦詮邸行夕茶饗応、橋本・前田・吉益同席、九時帰 他茶会 宅 売 五月 二十三日 六月 八月 七月 七月 六日 二日 十四日 九日 八日 他茶会 他茶会 茶道具 自茶会 茶道具 夕三時茶事順回催、松浦・渡辺・西四辻・脇坂・古筆等入来 四時東松下町加藤嘉庸宅茶事、松浦・渡辺・古筆・杉林等同席 三時松浦詮宅へ行順回茶事初席、脇坂・橋本・渡辺・古筆等同席 佐竹家払物懸物十一幀買入代価六十四円半 正午杉孫七郎・宍戸璣・国重貞文・児玉少介・井関等茶事入来、頗略式 佐竹ヨリ茶器松風印十八点買入、価五十円南部信民へ相払 代田醜麿入来点茶稽古 九月 七日 自茶会 午後三時茶事、加藤・杉林・長・野村・金房等入来 六 月 二十二日 稽古 十月 自茶会 三時脇坂安斐邸行、本多・田代等数人同席点茶 午後佐竹義堯亭へ懸物払出ニ付見物ニ行 十月 九日 点茶 六月 二十四日 茶道具 十月 十四日 午後四時野村子仙宅茶事ニ行 正午茶事、脇坂安斐・松浦詮・渡辺驥・竹腰正美・古筆了仲入来、午後茶事了後鑑定会、炷香二坐、十 時過退散 十月 十八日 他茶会 六月 二十五日 自茶会 十月 平松時厚・西四辻公業入来、対酌・点茶 二十日 点茶ほか 十月 214 明治前期の「貴紳の茶の湯」 明治十五年 十一 月 十一 月 十一 月 十六日 十二日 十日 四日 自茶会 他茶会 稽古 点茶ほか 他茶会 午後岩倉右府・徳大寺宮内卿・万里小路皇后大夫入来囲棋、四時久我正二位・松浦正四位入来、五時よ り茶席入料理貞子薄茶点茶、八時半各被帰 午時茶事寺島・条野・鈴木晋・大善等入来、吉益入来点薄茶 四時早出走車山谷八百善茶会ニ行、脇坂・渡辺・加藤・吉益同席、九時前帰宅、三浦安所持六窓庵引移 今般開席也 代田醜麿・吉益正雄入来、今日開炉々手前稽古 午後小林鉄次郎宅行、渡辺清招飲、佐野・児玉・画工両三名同席、席上揮毫書画陳列、細君点茶 正午順回茶事古筆了仲宅行、脇坂指支ニ付臨期断、松浦・渡辺同席、五時帰宅 午後大給恒入来、今般廃局興館事件ニ付取調、香川敬三入来同席取調、点茶、十時退散 十一 月 十八日 点茶ほか 二十七日 点茶ほか 十一 月 十九日 十月 十一 月 正午三囲晋永機茶事ニ行、吉益乾也・加藤松民等同席、︵略︶夕五時走車本郷二丁日米林俵作茶事ニ行、 松浦・吉益・古筆・鈴木等同席、 ︵略︶九時帰宅 午後元老院奏任官森山茂已下十五人入来、城多・勘ケ由両人有故障不入来、吉田菊来囲棋相手、寸松堂 満点茶、謡曲数曲、九時退散 十一月 二十六日 他茶会 点茶ほか 堀田正倫より柿のへた茶碗借用、明春可相用之為也 三日 二十一日 茶道具 鈴木や散歩、猫鼻宗徧作茶杓代金十六円・仁清茶碗代金廿八両・光広懸物代金十弐円・唐物宝珠炭取金 八円等買入、寸松堂ニ而桑千家形台南京水指等買入 十二 月 明治十五年 十二 月 三十一日 茶道具 校訂者の傍注は一部省略し、原本の明らかな誤字は訂正した。 年︵一八三九︶∼明治四十一年︵一九〇八︶ ︶であるとわかる。播磨 このことから、東久世通禧の茶の湯の師は、脇坂安斐 ︵天保十 不止、依而及此挙非本意也、吉益正雄・吉田老婆同席 学茶不欲為茶博士、只愛風情耳、然而安斐欲吾門葉栄盛勧思 脇坂安斐邸行、本多正憲・予・妻等盆立点茶作法相伝、予 十二 月 注 ︵同年八月十三日条︶ 。 こ れ 以 降、 日 記 に は 茶 の 湯 に 関 す る 記 事 が ︶東久世通禧の茶の湯の師 急に増加する。 ︵ 東久世通禧は、だれから茶の湯の指導をうけたのであろうか。 七月十七日条に、つぎのとおり記している。 明治十三年︵一八八〇︶ 215 2 龍野藩五万一千石の最後の藩主であり、明治天皇に献茶をしたこ 濃茶・薄茶という正式の茶会であろう。 たり招かれたりという記事も多く、これらは茶室における懐石・ 点前については、自宅での茶会に別人が点前をした記事がいく の人物の茶の湯の事蹟は、後世ほとんど伝えられていない。それ は、明治二十年 ︵一八八七︶に龍野に移住し、いわゆる近代数寄 つかみられるが、それ以外は東久世通禧みずから点前をしたもの 醜 麿 ︵ 代 田 宗 真 ︶で あ る。 明 治 十 五 年 ︵ 一 八 八 二 ︶一 月 十 八 日 条 もうひとり、明らかに東久世通禧が指導をうけた人物は、代田 仁親王日記﹄にはみられない。明治維新以前に茶の湯の技芸を習 得にもたいへん熱心であった。ちなみに稽古に関する記事は﹃幟 と考えられる。﹁点茶稽古﹂と記している頻度も高く、技芸の習 者たちの活躍期には東京にいなかったためと考えられる。 にはじめてあらわれ、東久世通禧の依頼をうけて以降、代田醜麿 ︶東久世通禧の茶の湯の実態 69 のとおりとなる。 が注目される。東久世通禧がこの時期に元老院議官として活躍し ており、その関係などで官僚・政治家層との交際がはじまり、そ または﹁抹茶﹂という表現が、どの程度の内容をさすのかよくわ の区別は、 東久世通禧にも存在する。たびたび記載のある﹁点茶﹂ 有栖川宮幟仁親王にみられるような日常的抹茶と儀式的抹茶と に成り立つものであったのである。 などの新たな階層をとりこんだ、上層社会のネットワークのうえ れない特徴といえる。その意味で、近代数寄者とは、維新の功臣 ﹁政府の大官とは親密ではなかった﹂有栖川宮幟仁親王にはみら の一部とは茶の湯を通じての交際に発展したものと考えられる。 からないが、囲碁などがあわせて記されることから、たとえば薄 徴を指摘する。 明治維新の功臣といえる武士階級出身の官僚・政治家層との関係 これらの人物についていえば、明治維新以前から同じ社会に生 ︵ あり、茶道具入手の手伝いもしている。東久世通禧は、吉益正雄 際したおもな人物をあげるならば、表 東久世通禧が、茶会に招く・招かれるなど、茶の湯を通じて交 も、東久世通禧の特徴であると評価できるだろう。 の技芸を学んでいる時期にあったといえるが、このような熱心さ 得していた有栖川宮幟仁親王に対し、東久世通禧は新たに茶の湯 71 はしばしば東久世邸を訪問し、茶の湯と生花を指導している。 また、東久世通禧の茶の湯習得に深く関係し、指導にもあたっ ていると考えられる人物として吉益正雄があげられる。しばしば ん、脇坂安斐や代田醜麿の茶の湯の指導の場にも同席することが 東久世通禧を訪問し、茶会に東久世通禧と同行することはもちろ 67 きた旧公家、公家と近い関係にある旧大名はもちろんであろうが、 72 66 宅において﹁玉霰﹂などの茶道具を実見したことを記している。 68 5 65 ﹃東久世通禧日記﹄の茶の湯関係の記事について、いくつか特 3 茶だけを点てていたものであろう。その一方で、﹁茶事﹂に招い 70 73 216 明治前期の「貴紳の茶の湯」 表 5 東久世通禧が茶の湯を通じて交際したおもな人物 氏 名 天保 4 年(1833)∼明治 33 年(1900) 旧陸奥七戸藩主 脇坂安斐 天保 10 年(1839) ∼明治 41 年(1908) 旧播磨龍野藩主 松浦詮 天保 11 年(1840)∼明治 41 年(1908) 旧肥前平戸藩主 本多正憲 嘉永 2 年(1849)∼昭和 12 年(1937) 旧安房長尾藩主 橋本実麗 文化 6 年(1809)∼明治 15 年(1882) ― 岩倉具視 文政 8 年(1825)∼明治 16 年(1883) 右大臣 橋本実梁 天保 5 年(1834)∼明治 18 年(1885) 宮内省式部権助 西四辻公業 天保 9 年(1838)∼明治 32 年(1899) 宮内省侍従 河田景与 文政 11 年(1828) ∼明治 30 年(1897) 元老院議官 三浦安 文政 12 年(1829)∼明治 43 年(1910) 修史館監事 福羽美静 天保 2 年(1831)∼明治 40 年(1907) 元老院議官 渡辺驥 天保 7 年(1836)∼明治 29 年(1896) 検事兼議官 寺島秋介 天保 11 年(1840) ∼明治 43 年(1910) 警視庁三等警視 野村靖 天保 13 年(1842) ∼明治 42 年(1909) 神奈川県令 古筆了仲 文政 3 年(1820)∼明治 24 年(1891) 古筆鑑定家 長四郎三 文政 5 年(1822)∼明治 29 年(1896) 豪商 吉田水月尼 文政 11 年(1828)∼明治 22 年(1889) 茶人 条野伝平 天保 3 年(1832)∼明治 34 年(1901) 小説家 旧大名 旧公家 官僚・政治家 その他 ︵ ︶﹃東久世通禧日記﹄にみる家元 ﹁流儀の茶の湯﹂の家元との関係について、い くつかの記事にみることができる。 明治十三年 ︵一八八〇︶八月二十八日条では、 東 久 世 通 禧 は、 江 戸 千 家 浜 町 派 ︵ 現 在 の 表 千 家 不 白流︶の川上宗順宅を訪問している。明治十四年 ︵一八八一︶七月一日条および同月十日条には﹁千 宗守﹂、同月五日条には﹁千宗佐﹂がみえる。 ﹁千 宗佐﹂は表千家十一代の千宗左 ︵碌々斎︶︵天保八 年︵一八三七︶∼明治四十三年︵一九一〇︶ ︶であり、 ﹁千宗守﹂はその実弟である武者小路千家第八代 千宗守 ︵一指斎︶︵嘉永元年︵一八四八︶∼明治三十 兄弟そろっ 一年︵一八九八︶︶であろう。この時期、 て東京にいたものらしい。このうちの七月十日条 では、千宗守 ︵一指斎︶は山田顕義の別荘での茶 会において点前をしているが、これはまさに近世 武家社会における〝茶堂〟の役割である。 また、明治十四年十月、東久世通禧は、公務で 京都出張の際に、同月三日条では千宗左︵碌々斎︶ 宅、同月五日条では千玄室 ︵又玅斎︶宅を訪問し 74 類 型 立場・役職等 南部信民 ている。いずれも日記には﹁茶寮庭園見物﹂との み記される。公務のあいまをみて訪問したもので あろうが、家元を訪問しながら喫茶を目的として 217 当時の主たる 生 没 年 4 徧流、そして、茶の湯ではないが、東久世通禧が訪問した小川久 あらかじめ、その概要を示すならば、これらの流派は、千家流 期さえもあった。そして大正期以降に茶の湯に復帰することとな る。その苦境の時期に流派の茶の湯をささえたのは、家元ではな く〝貴紳〟たちである。 幕末・明治期の宗徧流のあり方 ︵ ︶幕末・明治期の宗徧流山田家 茶の湯﹂における貴紳たちと対等の交際が可能であったとはいい ることができるが、これら﹁流儀の茶の湯﹂の家元は、﹁貴紳の 当主や当時東京で知られていた川上宗順などの家元の姿も確認す 永五年︵一七〇八︶︶を流祖とし、千利休直伝のわび茶を標榜する 宗徧流とは、千宗旦の高弟山田宗徧 ︵寛永四年︵一六二七︶∼宝 まず、東久世通禧が学んだ宗徧流についてみることとする。 三河吉田藩主の小笠原忠知に茶堂として出仕した。そののち山田 千家系の茶の湯流派である。山田宗徧は、千宗旦の推挙により、 ところで、この二つの日記にはそれ以外にも、千家などと比較 家の子孫代々も小笠原家の転封にしたがい、小笠原家の茶堂をつ がたい。 すれば、いわば〝中小の流派〟ともいうべき﹁流儀の茶の湯﹂流 とめた。 現在の宗徧流家元である山田家は、宗徧流の系譜を、初代山田 派の存在もうかがえる。具体的にいえば、有栖川宮家に仕えた久 田家の久田流、東久世通禧が学んだ脇坂安斐、代田醜麿などの宗 218 いないと考えることもできるだろう。 来からかぎられた情報しか紹介されていない。しかし、この二つ 敬の小川流煎茶である。これらの流派および人物については、従 に招く・招かれるという関係にはなかったと考えられる。東久世 の日記、その他の資料などをもとに、これらの〝中小の流派〟が 以上のことから、東久世通禧と家元との関係は、お互いに茶会 通 禧 は、 〝家元〟の存在を意識しているものの、交際の相手とは 明治期にどのような状況にあったのか、そして、その後どのよう ︵ あった幕末期の家元を記憶している有栖川宮幟仁親王と、近代に 期の﹁貴紳の茶の湯﹂の状況についてみるならば、さまざまな人 た明治期にはいっそう苦しい状況におかれ、茶の湯から離れる時 などと比較すると組織基盤が脆弱であるだけに、茶の湯の衰退し 明治期の﹁流儀の茶の湯﹂の状況 ﹃幟仁親王日記﹄および﹃東久世通禧日記﹄を通じて、明治前 Ⅳ 〝中小の流派〟の家元たち から生じるものと考えられる。 なってはじめて家元に接するようになった東久世通禧とのちがい な歴史を歩んだのかをみておくこととする。 ︶にみた有栖川宮幟仁親 みなしていない。この関係は、Ⅱ 1 王と裏千家家元との関係よりも距離を感じさせる。これは、力が 2 物が茶の湯にふかく関係していることが明らかとなる。三千家の 2 1 1 明治前期の「貴紳の茶の湯」 ︶宗徧流の指導者としての吉田家と脇坂安斐 、当代山田宗徧 ︵幽々斎︶と説明 十代山田宗囲 ︵のち宗徧を称す︶ 俊、六代山田宗学、七代山田宗寿、八代山田宗有、九代山田宗白、 久世通禧日記﹄に登場する吉田水月尼 ︵吉田婆︶は、吉田宗意の り、吉田宗意が重要な役割をはたしていたことがうかがえる。﹃東 ある時期の宗徧流の中心的な指導者として、︵ ︶でみたとお ︵ している。ただし、そのほかにも山田宗徧の茶を伝える流派とし 娘であり、その夫が吉田宗賀である。 宗徧、二代山田宗引、三代山田宗円、四代山田宗也、五代山田宗 て、時習軒系、四方庵系、正伝庵系などの宗徧流があり、それぞ 2 れに家元が存在している。 娘婿の山田宗弥を養子としたがのち廃して、時習軒系の吉田宗意 その原因は山田家自体にある。男子がない第五代山田宗俊は、 たる指導者とは認識されていなかったと考えるべきであろう。 家であるが、東久世通禧が学んだ当時の感覚では、宗徧流の確固 現在の目でみると〝宗徧流家元〟を世襲してきたといえる山田 77 の子である山田宗学を後嗣とした。しかも山田宗俊が早世したた めに、第六代山田宗学は吉田宗意から伝授をうけたという。 うか。それをうかがわせるものとして、つぎのような﹁力囗斎板 額譲状﹂が伝えられている。 偏翁已来先師伝来之三事利休居士 茶道之奥旨之相伝畢誠意執心得道之 人に無之おゐてはみたりに伝授あるましく此 額は力囗斎をつかせ給ひ此道のなかく絶 時習軒七世吉田宗賀に さらむ事を希ふこそあなかしこ 宗有 ︵寅次郎︶を養子としたが、それからまもなく明治十六年 ︵一 清 蔭 村 松 為 渓 時庸 八八三︶に他界する。山田宗有が宗徧流の第八代家元に就任する のは、大正十二年 ︵一九二三︶のことである。 結局、幕末期以降、山田家の家系も茶の湯の伝承もひじょうに 脆弱であり、明治十六年から大正十二年までの四十年近くの間、 茶の湯の家としての山田家は存在していなかったと考えるべきで ある。 84 80 1 ところで、脇坂安斐はだれから茶の湯の教えをうけたのであろ 82 かわりて 明治九年初秋 水 月 尼 また、山田宗学の死後、その妻である第七代山田宗寿は、山田 79 81 不偏菴正学君 御もとへ 219 78 83 76 75 みずからを宗徧流の家元であるとみなしていたのであろう。 る。東久世通禧に対して﹁欲吾門葉栄盛﹂とのべた脇坂安斐は、 相伝による、吉田水月尼から脇坂安斐への伝授であると考えられ の譲渡の意味は明らかではないが、近世家元システム以前の完全 号は千利休の遺偈に由来する重要なものである。この文面からこ 徧以来の﹁力囗斎﹂の号をその板額とともに譲られている。この これによるならば、脇坂安斐は、吉田水月尼から、流祖山田宗 、﹁代田宗 名乗ったとも、預かったとも言われる﹂︵同書一四〇頁︶ していない。﹁脇坂安斐は山田家の後継者がない時代に不審庵を 野村瑞典は、その著書﹃宗徧流 歴史と系譜﹄において、たび たび脇坂安斐が家元を預かったことにふれるが、その説明は一貫 て、家元代々には数えられない。 家元を預かる人物は、 家元の代行者であっ たという。このように、 養子である後の第九代千宗守︵愈好斎︶が幼少のため家元を預かっ 場から再構成されていく。そして、脇坂安斐をめぐる宗徧流の歴 り方は、のちに家元システムが確立していく過程で、山田家の立 しかし、確固たる家元が存在しなかったこの時期の宗徧流のあ については、一時脇坂家が、その茶道・代田宗真の没後に預かり、 、﹁四方庵 り、一説に脇坂家が四方庵を名乗った﹂︵同書二三八頁︶ 真が脇坂家の茶道であった関係で、脇坂安斐に茶湯を伝授してお 茶の湯の研究者は、脇坂安斐について、ある共通の指摘をして いる。それは〝家元を預かる〟ということである。末宗広は﹁暫 く家元を預かり﹂、高谷隆は﹁暫らく宗徧流家元を預る﹂と説明 脇坂安斐は、 ︵同書二四九頁︶という説明からすれば、 たのである﹂ 山田家の宗徧流または四方庵系の宗徧流、あるいはその両方の家 元を預かったこととなる。 また、野村瑞典は、宗徧流の機関誌﹃知音﹄からの引用として、 などの場合に、一時的に他の者が家元の権能を代行することと定 この〝家元を預かる〟とは、家元の正当な後継者が幼少、病弱 べければ心安かれと慰む、尼安心して同月二十二日歿す、年 ひ幼少の宗有氏は自分が後見して、将来立派な家元に養成す 明治十六年八月家元宗寿尼病篤かりし時安斐氏其病床を訪 家元を預かる経緯をつぎのとおり記している。 義できるだろう。たとえば、武者小路千家における平瀬露香 ︵天 六十三歳爾来安斐氏は宗有氏を手許に招き、斯道教養に勤め している。 保十年︵一八三九︶∼明治四十一年︵一九〇八︶ ︶は、武者小路千家 られしが、後ち郷里播州龍野に閑居せらる 87 第八代千宗守︵一指斎︶が明治三十一年︵一八九八︶に死去した後、 86 脇坂家が山田寅次郎不在中に、 宗徧流茶湯を守り、不審庵を名乗っ 後、本多家があずかったとされ ︵略︶不審庵についても、同様に、 90 89 88 史は忘れ去られてしまうこととなるのである。 85 家元を預かる〟 ― における貴紳の位置付け 〝― ﹁流儀の茶の湯﹂ ︵ ︶ 〝家元を預かる〟貴紳 3 1 91 220 明治前期の「貴紳の茶の湯」 しかし、刊行されている明治十五年︵一八八二︶の末までの﹃東 久世通禧日記﹄によるかぎり、脇坂安斐と山田家との交流はうか ︵ ︵ ︶では、 ﹃東久世通禧日記﹄明治十年 ︵一八七七︶二月 ︶小川流煎茶にみる〝中小家元〟のあゆみ Ⅲ 1 に本多家が預かったとされている﹂とものべている。茶の湯の相 典は、﹁四方庵は代田宗真の没後、最初に東久世家が預かり、後 〝家元を預かる〟とされた人物は脇坂安斐だけでない。野村瑞 〝中小の流派〟に準じてあつかうこととする。 も、宗徧流と並行した現象がみられるので、﹁流儀の茶の湯﹂の の と 考 え る の が 一 般 的 で あ ろ う。 し か し、 近 代 の 小 川 流 煎 茶 に た。幕末・明治期の煎茶道は、茶の湯とは異なる歴史を歩んだも 二十八日条に、当時の小川流煎茶の状況をうかがわせる記事をみ 2 伝に対して﹁不欲為茶博士﹂ 、 ﹁此挙非本意也﹂と記した東久世通 がえないのである。 2 禧も家元代行者に位置付けられている。ちなみに、ここで登場す 東久世通禧が訪ねた小川久敬は、小川流初代小川可進の﹁息﹂ た完全相伝の伝授を 〝預かり〟 と称して位置付けることによって、 ややあいまいな時期に貴紳の名を借りる、あるいは、実際にあっ ち、家系中心の家元代々が整備されていく過程で、家元の系譜が くは﹁流儀の茶の湯﹂の家元システムが整備される過程、すなわ たものかどうかは定かではない。 〝家元を預かる〟とは、おそら このような〝家元を預かる〟ことが実際に意識的におこなわれ 主の本多正憲である。 と記されているが、正確には孫にあたる第三代である。そして、 95 る本多家とは、﹃東久世通禧日記﹄にも散見される旧安房長尾藩 94 93 明治二十七年 ︵一八九四︶に小川久敬が没し、その弟が若くして 小川家を継ぐこととなったが、煎茶の道に入らず、煎茶道の系譜 はいったん途絶えることとなる。 第五代小川後楽である小川塩子は、これ以降の小川流の歴史を つぎのとおり説明している。 三代を継いだ偕楽久敬は煎茶道の盛運を志したが、惜しく 有が大正十二年 ︵一九二三︶に宗徧流第八代家元を継承するまで 宗徧流の場合、近代的な家元システムが確立するのは、山田宗 て頂く事になった。冷泉為系卿は姜なく二十年もの長年月を 遠い生活をしていた。そこで家元の業は一時冷泉伯爵に預っ に移ったのであった。名を治次郎と称し東京に居てお茶とは もその後数年を出でずして病歿。子供がなくて家督は弟の手 待たなければならない。それ以前の宗徧流は、脇坂安斐、代田醜 大正八年二月、機運が熟して再び小川流復興、四代家元と 守り伝えて下さったのである。︵略︶ あったことが﹃東久世通禧日記﹄を通じてうかがえるのである。 麿、または吉田水月尼などのさまざまな指導者が併存する状況に その連続性を維持しようとするものであろう。 96 して私の父は斯の道に精進し始めた。 97 221 92 の家である﹁冷泉伯爵﹂が登場する。小川塩子がのべるとおりに ここで〝家元を預かる〟貴紳として、京都在住の旧公家で和歌 ︵天保四年︵一八三三︶∼大正五年︵一 下村実栗︵しもむら・みつよし︶ て受け継がれる。その中心的人物は、下村西行庵として知られる は考えられないが、冷泉為系 ︵明治十四年︵一八八一︶∼昭和二十 数寄者のひとりといえるだろう。東海地方における久田流の茶の 九一六︶ ︶で あ る。 素 封 家 で あ り 茶 人 で も あ る 下 村 実 栗 は、 近 代 をもたなかったとしても当然であろう。そして、茶の道が広く庶 である。青雲の志をいだいた明治時代の青年たちが茶の道に関心 躍する。宗徧流の家元となるのは大正十二年 ︵一九二三︶のこと 年 ︵一八八三︶に山田家を継いだが、おもに国内外の実業界で活 することとなる。一歳年上の宗徧流第八代山田宗有は、明治十六 あろう。東海地方の久田流の人々に久田宗栄の消息が知られるの と伝えるが、本格的な茶の湯の活動は、もうしばらく後のことで 五七︶︶の代である。大正十五年 ︵一九二六︶に家元の披露をした 十 三 代 久 田 宗 栄 ︵明治二十三年︵一八九〇︶∼昭和三十二年︵一九 し、苦悩の時代を送ることとなる。この状況が変化するのは、第 久田流の本流にあたる両替町久田家は、明治期に各地を転々と たのである。 民層に受け入れられ、それが家元の経済基盤となりうる大正期に は、昭和二十三年 ︵一九四八︶のことである。 この長期にわたる家元不在のために、東海地方の久田流ではさ まざまな動きがあった。そのひとつが昭和二十二年 ︵一九四七︶ がその家元に就任することとなる。下村実栗は、みずからを家元 の尾州久田流の創流であり、下村実栗の長男の娘である下村晃園 さいごに、 ﹃幟仁親王日記﹄明治七年 ︵一八七四︶三月三十日条 とはみなしていなかったであろう。しかし、昭和二十二年 ︵一九 ︶久田流にみる〝中小の流派〟のあゆみ に姿をみせる久田家にふれておく。ここでも茶の湯が衰退した明 元を預かる〟貴紳とはならずに、さかのぼって〝家元〟としてあ 川宮につかえた久田宗栄 ︵生々斎︶がある。その後継者である久 望んでいたが、さきに尾州久田流が誕生することとなった。第十 東海地方の久田流の人々も、ながらく流祖の家系継承者を待ち つかわれる運命となった。 田栄甫らのあと、この系譜の茶の湯は、地域の有力者たちによっ 久田流を称した両替町久田家の第七代久田宗参の弟子に、有栖 られる。 四七︶に尾州久田流が創流されたことにともない、 下村実栗は、〝家 ︵ や〝脇坂子爵〟が家元を預かったと説明されるのである。 なってから茶の道に復帰する。家元が不在の間は、〝冷泉伯爵〟 三七︶ 、号霞汀︶は、大正八年 ︵一九一九︶に煎茶道の家元に復帰 湯は、久田家の存在がなくても、次の世代に着実に伝えられてい 一年︵一九四六︶ ︶は、何らかの役割をはたしたものであろう。 98 その後、小川治次郎 ︵慶応三年︵一八六七︶∼昭和十二年︵一九 99 治期に貴紳といえる人物によって流派が維持されていた歴史がみ 3 222 明治前期の「貴紳の茶の湯」 し、それ以前に、近代数寄者の家系が家元となったのである。 帰していれば、おそらく異なる展開となったことであろう。しか 三代久田宗栄がもう少し早く、存在感をもって茶の湯の世界に復 職業上の交際範囲と重なるものであり、旧大名、旧公家にくわえ や、本格的な茶会をするようになる。その茶の湯の交際範囲は、 に茶の湯に傾倒し、さかんに技芸の稽古をおこない、略式の点茶 て維新の功臣といえる人々にも広がっていたことがうかがえる。 そのような新たな茶の湯の交際関係の広がりが、従来からきわめ て限定的な範囲で茶の湯の交際があった有栖川宮幟仁親王をも巻 Ⅴ まとめ 近世以降の茶の湯の歴史は、家元などの茶匠を中心に論じられ もう一つ興味深いことは、明治前期の﹁貴紳の茶の湯﹂の世界 き込んで、秋元信英が指摘する﹁皇族の数寄屋御成﹂の動きに発 て、家元のあり方に歴史的な変化があることや、茶の湯の受容層 において、家元が積極的に登場しないことである。おそらく、明 てきた。これらに関する情報が多いことから、往々にしてその活 の動向などがみえにくくなるおそれがある。とくに、家元が苦境 治維新により茶の湯が衰退したことに加えて、武士としての身分 展していったものと考えられる。 にあった明治期は、茶の湯の衰退期と考えられてきたが、茶の湯 を失ったことによる家元の存在基盤への打撃を回復していない状 躍が強調される傾向にある。しかし、家元に注目することによっ の受容状況からみるならば、また異なった側面もあるのではない 興しつつある﹁貴紳の茶の湯﹂の世界と、いまだ衰退した状況に 況にあったものであろう。このことから、明治前期にいち早く復 本稿では、 ﹃幟仁親王日記﹄および﹃東久世通禧日記﹄をもと ある家元中心の﹁流儀の茶の湯﹂の世界とが別々に存在し、 ﹁貴 か。 にして、明治前期の上層階級を中心とする﹁貴紳の茶の湯﹂をめ その後の展開をのべるならば、千家などの家元が広く庶民層に 紳の茶の湯﹂の側では、家元はそれほど重要視されていなかった の湯が流行しはじめたと考えられる。それを象徴するできごとは、 技 芸 を 教 え 広 め る こ と に よ っ て 苦 境 を 克 服 す る の は、 大 正 期 に ぐる状況を概観した。この結果、明治十年 ︵一八七七︶を過ぎた 明治十年八月二十一日の脇坂安斐による明治天皇への献茶であ なってからのことと考えられる。そうした状況の変化をみて、 いっ と考えられる。 る。それ以前から茶の湯の素養があった有栖川宮幟仁親王の茶の たんは茶の世界から離れていた〝中小の流派〟の継承者たちは、 ころから、旧大名、旧公家、維新の功臣らの上層階級を中心に茶 湯の交際に大きな変化はみられないとはいえ、明治十五年 ︵一八 茶の世界に家元として復帰する。明治期に茶の文化を維持した貴 紳たちは、のちに家系中心の家元システムが整備されるなかで、 八二︶ころから茶道具への関心が深まったことがうかがえる。 一方、この時期にはじめて茶の湯にふれた東久世通禧は、急速 223 〝家元を預かった〟人物として敬意を払われながらも、家元の系 譜からは排除される運命をたどるのである。 註 引用文中の漢字は原則として通用のものにあらためた。 天皇・皇族へ ― ︶ 熊 倉 功 夫﹃ 茶 の 湯 と い け ば な の 歴 史 ﹄ 左 右 社、 平 成 二 十 一 年 などを参照した。 ︵博公書院、各版︶ 当時の役職については、彦根正三編﹃改正官員録﹄ 昭和五十七年︵一九八二︶ ︶、 和新修華族家系大成﹄上下巻︵霞会館、 家系、生没年、事績等については、霞会館諸家資料調査委員会編﹃昭 ︵ ︶ 高橋義雄、前掲﹃茶道読本﹄五九∼六〇頁。 六八∼六九頁。 、 ︶ 高橋義雄﹃近世道具移動史﹄慶文堂書店、昭和四年︵一九二九︶ 五九頁。 、 ︶ 高 橋 義 雄﹃ 茶 道 読 本 ﹄ 秋 豊 園 出 版 部、 昭 和 十 一 年︵ 一 九 三 六 ︶ 上したのは、大正・昭和初期であることを論じた。 いて﹁皇族への献茶﹂を指標として、家元の社会的地位が明らかに向 日本文化研究センター、平成二十三年︵二〇一一︶、一〇二頁以下にお の献茶にみる家元の社会的地位の向上﹂ ﹃日本研究﹄第四十四集、国際 ︶ 拙論﹁近代における茶の湯家元と天皇との距離 ︵二〇〇九︶、一八八頁参照。 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︶ ﹃ 明 治 天 皇 紀 ﹄ 第 四、 吉 川 弘 文 館、 昭 和 四 十 五 年︵ 一 九 七 〇 ︶、 二三九頁。 ︵ ︶ 高 橋 箒 庵﹃ 東 都 茶 会 記 ﹄ 五、 淡 交 社、 平 成 元 年︵ 一 九 八 九 ︶、 ︶ 前掲﹃明治天皇紀﹄第四、二四三頁。 ︵ ︵ ︵ 三八八頁、熊倉功夫の解説参照。 ︶ 有栖川宮幟仁親王をめぐる姻戚関係について、父親の姉妹はそれ ぞ れ 広 島 藩 主 浅 野 家、 長 州 藩 主 毛 利 家、 徳 川 将 軍 家、 水 戸 藩 主 徳 川 家 に 嫁 し て お り、 妹 の 韶 子 女 王︵ 精 宮 ︶ は 久 留 米 藩 主 有 馬 頼 咸 夫 人、 娘 の幟子女王︵線宮︶は水戸藩主徳川慶篤夫人、同じく宜子女王︵ 宮︶ は彦根藩主井伊直憲夫人、同じく利子女王︵穂宮︶は伏見宮貞愛親王 妃となっている。また、長男有栖川宮熾仁親王の妃は水戸藩主徳川斉 昭十一女貞子、その没後には新発田藩主溝口直溥四女董子︵栄君︶ 、四 男有栖川宮威仁親王の妃は加賀藩主前田慶寧四女慰子である。 ︶ ﹃幟仁親王日記﹄の内容は、巻上が明治四年︵一八七一︶三月十四 日ないし同年八月十四日、明治九年︵一八七六︶一月一日ないし同年 十 二 月 三 十 一 日、 明 治 十 年︵ 一 八 七 七 ︶ 一 月 一 日 な い し 同 年 十 二 月 三十一日、明治十一年︵一八七八︶一月一日ないし同年十二月三十一日、 明 治 十 二 年︵ 一 八 七 九 ︶ 一 月 一 日 な い し 同 年 六 月 三 十 日 、 巻 中 が 同 年 七月一日ないし同年十二月三十一日、明治十三年︵一八八〇︶一月一 日ないし同年十二月三十一日、明治十四年︵一八八一︶一月一日ない し同年十二月三十一日、明治十五年︵一八八二︶一月三日ないし同年 六 月 三 十 日、 巻 下 が 同 年 七 月 一 日 な い し 同 年 十 二 月 三 十 一 日、 明 治 十 六 年︵ 一 八 八 三 ︶ 一 月 一 日 な い し 同 年 十 二 月 三 十 一 日 、 明 治 十 七 年 ︵ 一 八 八 四 ︶ 一 月 一 日 な い し 同 年 四 月 十 五 日、 お よ び 補 遺 と し て 明 治 五 224 6 7 8 9 10 1 2 3 4 5 明治前期の「貴紳の茶の湯」 ︵ ︵ 年︵一八七二︶三月十八日ないし同年十二月二日、明治六年︵一八七三︶ 一 月 一 日 な い し 同 年 十 二 月 三 十 一 日、 明 治 七 年︵ 一 八 七 四 ︶ 一 月 一 日 ないし同年五月十四日である。以上はすべて自筆本が伝えられている。 ︶ この四冊は、昭和五十一年︵一九七六︶に東京大学出版会から続 日本史籍協会叢書として復刻されている。 ︶ 秋元信英﹁﹃有栖川宮幟仁親王日記﹄の茶道文化史的特質﹂﹃國學 院 大 學 伝 統 文 化 リ サ ー チ セ ン タ ー 研 究 紀 要 ﹄ 第 一 号、 平 成 二 十 一 年 ︵ ︶ 熊倉功夫﹃近代茶道史の研究﹄日本放送出版協会、昭和五十五年 、一四三頁。 ︶ 熊倉功夫、前掲﹃近代茶道史の研究﹄ ︵一九八〇︶ 、一三九頁。 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ 記載の﹃幟仁親王日記﹄明治十三年︵一八八〇︶三月十五日条、 ︶ ﹃幟仁親王日記﹄明治四年︵一八七一︶五月十四日条ほか。 ︶ 表 記載の﹃幟仁親王日記﹄明治九年︵一八七六︶六月二十四日 明治十六年︵一八八三︶四月十二日条ほか参照。 ︶ 表 記載の﹃幟仁親王日記﹄明治十二年︵一八七九︶二月二十二 条ほか参照。 ︶ 表 日条ほか参照。 ︶ 煎茶道の側からは、つぎのとおり指摘がある。しかし、本文の内 三三五頁。 た 抹 茶 は、 維 新 と 共 に 急 速 に 凋 落 し て 行 き、 こ れ に か わ っ て、 そ れ ま ようなものが起こっていた。旧幕府の権力階層との結びつきが深かっ 容からすると、やや疑問がある。﹁茶の世界でも、この新旧の交替劇の ﹃幟仁親王日記﹄明治九 ︶ ﹁ 親 ら 製 し 給 ﹂ う 茶 が 煎 茶 で あ る こ と は、 、三三四∼ ︶ ﹃ 幟 仁 親 王 行 実 ﹄ 高 松 宮 蔵 版、 昭 和 八 年︵ 一 九 三 三 ︶ 後者を﹁秋元信英、前掲文化史論文﹂という。 三∼六八頁。なお、以下では前者を﹁秋元信英、前掲茶道文化史論文﹂ 、 の文化史的特質﹂﹃國學院短期大学研究紀要﹄第二十六巻、平成二十一年、 ︵二〇〇九︶ 、三〇一∼三一五頁。秋元信英﹁﹃有栖川宮幟仁親王日記﹄ ︵ ︵ ︵ その可能性は低いと考える。 抹茶の原料となる碾茶は、覆下栽培という特殊な技術が必要であり、 年︵一八七六︶七月十二日条に﹁手製煎茶﹂とあることから判断した。 茶の世界﹄徳間書店、昭和四十六年︵一九七一︶ 、一四一頁︶ 。 運に合致し、爆発的な流行を示すにいたったのである﹂︵楢林忠男﹃煎 で 反 権 力 的・ 在 野 的・ 反 骨 的 な 性 格 が 強 か っ た 煎 茶 が、 こ の 時 代 の 気 ︶ ﹃幟仁親王日記﹄明治九年十二月五日条、明治十年︵一八七七︶十 の表示を省略する。 出頭、煎茶拝領御礼申上﹂とある。 月 二 十 七 日 条 ほ か。 な お、 後 者 に つ き、 同 月 二 十 九 日 条 に は﹁ 宮 内 省 を 境 に、 な ぜ か 急 速 に 衰 退 し て し ま う の で あ る ﹂ ︵長佐古真也﹁考古遺 御便リ、両宛 而思召 而西京凉焼急須・茶碗﹂、明治十三年四月三日条﹁宮 手茶碗五ツ、道八茎 内省女房 封中 而被下俵石焼薫炉一ツ・永楽鍋・ 物からみた江戸の喫茶﹂特別展﹃喫茶の考古学﹄展示図録、埼玉県立 碗﹄は急に少なくなってしまう。一般に抹茶を飲む習慣は、この時期 ︶ ﹃幟仁親王日記﹄明治十三年︵一八八〇︶二月十日条﹁宮内省女房 ﹃茶 ︶ 考古遺物から﹁十八世紀後葉頃、すなわち江戸後期になると、 な お、 以 下 の﹃ 幟 仁 親 王 日 記 ﹄ の 引 用・ 参 照 部 分 は、 巻 お よ び 頁 数 ︵ 1 1 1 手同五ツ・急須二ツ﹂など。 ︵ 23 24 博物館、平成四年︵一九九二︶ 、三四頁︶という指摘がある。 225 16 17 18 19 20 21 22 11 12 13 14 15 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︶ 明治維新以前の事例について、本文で紹介した以外に、有栖川宮 刻翁名字於片石傍記事以希茶道之奥儀之不朽云爾 移居於津島□伴蔀氏隠宅同年十月十二日於同所病死矣因 茶事先奉仕有栖川宮後東漸而来遊尾国明治十有六年 十 月 三 十 日、 弘 化 五 年︵ 一 八 四 八 ︶ 五 月、 嘉 永 二 年︵ 一 八 四 九 ︶ 一 月 前白鳥現有富山僧生吹毛録 お よ び 十 月、 嘉 永 三 年︵ 一 八 五 〇 ︶ 三 月、 嘉 永 四 年︵ 一 八 五 一 ︶ 十 一 幟仁親王は、大徳寺黄梅院大綱宗彦をまねいて、弘化四年︵一八四七︶ 月七日に茶会を催している。最後に紹介した茶会では、懐石の記録も なお、この墓碑の存在をはじめ東海地方の久田流については、中日 新聞社の長谷義隆記者に教示をえたことを記して感謝申し上げる。 ︶ 久 田 家 代 々 の 系 図 は 諸 書 に よ っ て 相 違 が み ら れ る が、 有 栖 川 宮 家 に 仕 え た 二 人 を 示 す た め に 整 理 し て 掲 げ る な ら ば、 た と え ば 下 図 の よ うになる。 七代久田宗也 ― 二 ―代久田宗利 三 ―代久田宗全 四 ―代久田宗也 六代久田宗渓 ― 九代久田宗与 ― 十代久田宗悦 ― 表千家脇宗匠︼ ―代久田宗参 ︻高倉久田家 十二代久田宗也 ― 十三代久田宗正 ― 代久田宗玄 ― ︵ 代久田宗渓︶ 十一代久田宗也 八代久田宗利 五代久田宗悦 初代久田房政 ︵ が後援したという。 貞寿寺は津島の豪商伴家ゆかりの寺であり、この人物に対して伴家 あり、 茶入を用いていることから、 濃茶を含む本格的な茶会であろう︵千 宗 守︵ 愈 好 斎 ︶﹃ 茶 道 風 与 思 記 ﹄ 晃 文 社、 昭 和 十 八 年︵ 一 九 四 三 ︶ 、 五 三 ∼ 六 〇 頁 の﹁ 有 栖 川 宮 賜 茶 ﹂ 参 照。 な お、 秋 元 信 英、 前 掲 茶 道 文 化史論文、三〇二頁参照︶。 ︶ 前掲﹃幟仁親王行実﹄六九頁。 ︶ 前掲﹃幟仁親王行実﹄九九頁。 ︶ 秋元信英、前掲茶道文化史論文、注六、三一四頁。 、 ︶ ﹃ 名 古 屋 市 史 風 俗 編 ﹄ 名 古 屋 市 役 所、 大 正 四 年︵ 一 九 一 五 ︶ 五四五頁。なお、五五四頁以下に資料がある。 昭和五十年︵一九七五︶ 、 ︶ 大野一英﹃芸どころ﹄名古屋タイムズ社、 二 六 一 頁 参 照。 た だ し、 久 田 宗 全 は 岐 阜 地 方、 久 田 清 好 は 名 古 屋 で 活 躍 し た と あ る 点 で は 整 合 が と れ な い。 な お、 末 宗 広 は、 林︵ 久 田 ︶ 宗 栄の弟子に久田宗全、 久田栄甫をあげている︵末宗広﹃茶人系譜﹄新編、 河原書店、昭和五十二年︵一九七七︶ 、一〇七頁︶。 7 代久田耕甫 ―代久田慶三 ―代久田宗員 ―代久田宗有 代久田宗円 豊 ︻両替町久田家 ―代久田宗栄 ―代久田宗栄 ―代久田宗 11 久田流家元︼ 15 10 14 ︶ 愛知県津島市の貞寿寺には、この人物の位牌および墓碑がある。 6 9 13 ︵ ︵ 32 久田宗栄︵生々斎︶ 久田完全 12 位 牌 表 面 に は﹁ 水 明 斎 歴 然 翁 久 田 弘 宗 栄 居 士 ﹂ 、 そ の 裏 面 に は﹁ 明 治 十六年十二月十一日卒 旧十月十二日当ル 伴氏﹂とある。墓碑には﹁歴 然翁久田弘宗栄居士﹂とあり、その横につぎのとおり記されている。 久田翁宗栄居士者其元山城国西京之産而専以長 5 8 226 25 26 27 28 29 30 31 明治前期の「貴紳の茶の湯」 ︻有栖川宮家茶堂︼ 久田宗栄︵歴然翁・栄甫︶ ︶ 前掲﹃幟仁親王行実﹄三六五頁。 申附ル事﹂とある。 ︶ ﹃幟仁親王日記﹄明治十二年︵一八七九︶二月一日条﹁輝満水屋詰 ︶ 前掲﹃幟仁親王行実﹄二〇六∼二〇七頁参照。 にふくまない。 代 数 で あ る。 な お、 尾 州 久 田 流 で は、 久 田 宗 渓 を 両 替 町 久 田 家 の 代 数 て 作 成 し た。 漢 数 字 が 高 倉 久 田 家 の 代 数、 算 用 数 字 が 両 替 町 久 田 家 の 一 六 〇 ∼ 一 六 一 頁。 末 宗 広、 前 掲 書、 一 〇 四 ∼ 一 〇 九 頁 な ど を 参 照 し 本 図 は、﹃ 茶 湯 手 帳 ﹄ 宮 帯 出 版 社、 平 成 二 十 四 年︵ 二 〇 一 二 ︶ 版、 ︵ ︵ ︵ ︶ 秋元信英、前掲文化史論文、二四頁。 昭和四年︵一九二九︶、二五六頁参照︶ 。 記﹄巻五、昭和十一年、七九頁。﹃熾仁親王行実﹄巻下、高松宮蔵版、 に京都の武者小路千家において茶会を催した記録がある︵﹃熾仁親王日 な お、 有 栖 川 宮 熾 仁 親 王 は、 明 治 二 十 一 年︵ 一 八 八 八 ︶ 七 月 三 十 日 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︶ ﹃ 幟 仁 親 王 日 記 ﹄ に は 新 蔵、 新 三 お よ び 新 造 の 三 通 り の 表 記 が み ら れるが、前掲﹃幟仁親王行実﹄二五八頁には加藤新造とある。 太政官少書記官であり、のちに元老院議官となるので、 ︶ 藤井希璞は、 やや例外的である。なお、有栖川宮幟仁親王御附として神道関係の事 務もあつかっている。 ︶ 前掲拙論、八三頁以下参照。 ︶ 秋元信英、前掲茶道文化史論文、三一三頁参照。 ︶ な お、 も う 一 人 の 異 質 な 存 在 と し て、 寺 島 秋 介︵ 天 保 十 一 年 親王が東征大総督として新政府軍を率いて江戸に進軍した際の副参謀 禁 門 の 変 で 自 刃 し た 長 州 藩 士 寺 島 忠 三 郎 の 兄 に あ た り、 有 栖 川 宮 熾 仁 ︵一八四〇︶∼明治四十三年︵一九一〇︶︶があげられる。寺島秋介は、 京 遷 都 に 際 し て 住 居 を 帝 都 に う つ し、 茶 道 の 普 及 に 精 力 を そ そ い だ。 をつとめた。﹃熾仁親王日記﹄では慶応四年︵一八六八︶三月十七日条 ︶ 有栖川宮家の茶の湯について、玉川遠州流の家元大森宗龍が﹁東 また有栖川宮家の茶頭をつとめ、明治十七年三月、有栖川宮熾仁親王 に﹁大総督府参謀被 ︵﹃熾 仰付在之候長藩寺島秀之助到著、面会之事﹂ ︵ から﹃観古﹄の横物を拝受し﹂ 、明治十九年︵一八八六︶および二十年 仁親王日記﹄巻一、 高松宮蔵版、 昭和十年︵一九三五︶、一七頁︶とあり、 以下﹁寺島秀之助﹂としてあらわれる。 ︵ 一 八 八 七 ︶ に 有 栖 川 宮 熾 仁 親 王 邸 に お い て 点 茶 し た と 伝 え る︵ 大 森 宗 玉川遠州流 ― ﹂﹃日本の茶家﹄河原書店、昭和五十八 ― 晋﹁大森家 り、 の ち に 元 老 院 議 官、 貴 族 院 議 員 を 歴 任 し、 男 爵 を 授 け ら れ た。 有 ﹃幟仁親王日記﹄にみえる当時は、警視庁の陸軍大尉兼三等警視であ 年︵一九八三︶、五五二頁︶。これらの情報について、 ﹃熾仁親王日記﹄ では明治十九年五月八日条﹁於枕流亭薄茶ヲ饗応﹂ ︵﹃熾仁親王日記﹄ で、有栖川宮家とは幕末以来の関係がある寺島秋介であればこそ、例 栖川宮幟仁親王の交際関係には維新の功臣がほとんどみられないなか 巻四、高松宮蔵版、昭和十一年︵一九三六︶、三八四頁︶とのみ確認で きる。 227 37 38 39 40 41 42 33 34 35 36 ︵ ︵ ︵ 外的に茶の湯の交際の場にあらわれているものと考える。 ︶ 秋元信英、前掲茶道文化史論文、三一二頁。 ︶は、 ︶ 松浦詮︵天保十一年︵一八四〇︶∼明治四十一年︵一九〇八︶ ︵ ︵ ︶ 秋元信英、前掲茶道文化史論文、三一四頁参照。 ︶ 熊倉功夫は、近代数寄者を世代的に四つのグループにわけて論じ、 か ら、 鎮 信 流︵ 石 州 流 鎮 信 派 ︶ の 家 元 と し て も 活 躍 し、 明 治 期 の 上 層 和八年︵一六二二︶∼元禄十六年︵一七〇三︶︶が石州流に通じたこと 旧肥前平戸藩主であり、のちに貴族院議員をつとめた。遠祖松浦鎮信︵元 熾 仁 親 王 が 天 保 六 年︵ 一 八 三 五 ︶ 生 ま れ で あ る の で、 ち ょ う ど 近 代 数 プ に 属 す る と い え る。 一 方 の 有 栖 川 宮 幟 仁 親 王 は、 そ の 長 男 有 栖 川 宮 久世通禧は、天保四年︵一八三三︶生まれであるので、この第一グルー 代茶道史の研究﹄一九三頁︶と規定する。この規定によるならば、東 その第一グループを﹁天保年間に生を享けた人びと﹂ ︵熊倉功夫、前掲﹃近 階級の茶の湯の集まりである﹁和敬会﹂の中心人物である。 ︶ ﹃松浦詮伯年譜﹄松浦伯爵家編修所、昭和二年︵一九二七︶、九七 寄者の第一グループの親の世代ということができる。 ︵ ︵ ︶ 渡辺驥︵天保七年︵一八三六︶∼明治二十九年︵一八九六︶︶は、 司法官僚として活躍し、大審院検事長、貴族院議員などを歴任した。﹁和 敬会﹂が発足した明治三十一年︵一八九八︶をまたずに死去している。 茶 の 湯 に 関 し て は、 明 治 十 九 年︵ 一 八 八 六 ︶ に 小 堀 家 伝 来 の 名 器 ︵ 頁参照。 ︶ 秋元信英、前掲文化史論文、二四頁。 ︶ 有栖川宮幟仁親王は明治十二年︵一八七九︶ころに茶室を整備し ている︵秋元信英、前掲茶道文化史論文、三〇四∼三〇五頁参照︶ 。本 一 八 二 点 を 一 括 購 入 し た こ と で 知 ら れ て い る︵ 高 橋 義 雄、 前 掲﹃ 近 世 道具移動史﹄八三頁参照︶。 ︶ これは有栖川宮幟仁親王が粟津義風に発出したものと考える。 の湯の状況を示すものといえるだろう。 文後述の東久世通禧の事例と時期的に一致する。これも明治前期の茶 ︵ ︵ ︶ ﹃幟仁親王日記﹄の記述が簡略なために文意がとりにくい。秋元信 英 は、 明 治 十 六 年︵ 一 八 八 三 ︶ 七 月 十 八 日 条 に つ い て、 当 初 は 松 浦 詮 が﹁招かれる希望であった﹂︵前掲茶道文化史論文、三一三頁︶と解す るが、松浦詮が招くようにも、有栖川宮幟仁親王が関心を示したよう にも読める。 ︶ 高橋箒庵﹃東都茶会記﹄一、淡交社、平成元年︵一九八九︶、三八 頁。 ︶ ﹃東久世通禧日記﹄上巻︵霞会館、平成四年︵一九九二︶︶は明治 方ヘ正午茶ニ 付池田ニハ橋場 江行居事﹂とあるのは、一旦応じた茶会に ︵一八六九︶以降が収録されている。同書別巻︵平成七年︵一九九五︶︶ 元年︵一八六八︶まで、同書下巻︵平成五年︵一九九三︶︶は明治二年 ︵ 池田輝満を代理としていかせたのではないかと考える︵ ﹁橋場﹂は渡辺 には、別に発見された文久三年︵一八六三︶ないし慶応二年︵一八六六︶ ︶ ﹃幟仁親王日記﹄明治十七年︵一八八四︶一月十二日条に﹁渡辺驥 驥の住所今戸町のあやまりか︶ 。 同 書 同 月 二 十 一 日 条﹁ 過 日 渡 辺 驥 茶 湯 の自筆本︵欠落あり︶が収録されている。 な お、 以 下 の﹃ 東 久 世 通 禧 日 記 ﹄ 上 巻 お よ び 下 巻 か ら の 引 用・ 参 照 席附道具懐石等書附一覧之事、何レ返事暫時留置事﹂は、欠席した茶 会の会記を送ってきたものと理解できるだろう。 228 48 49 50 51 52 53 54 55 ︵ ︵ 43 44 45 46 47 明治前期の「貴紳の茶の湯」 ︵ ︶ このうち、万延二年︵一八六一︶ないし慶応三年︵一八六七︶は 部分は、巻および頁数の表示を省略する。 いま身にあふく言のはのみち 神代より出雲八重垣へたてなく 写本によるが、それ以外は自筆本による。 面 会、 狩 衣、 誓 状 落 手、 詠 草 覧 了 被 返、 其 後 有 祝 酒 返 盃 了、 立 用 人 面 会、 詠 草・ 誓 状 等 差 出、 今 日 門 入 挨 拶 申 述、 小 時 後 主 人 還挨拶入門礼、祝酒礼等於式台申暢帰宅、久世殿へ行、留守也、 ︶ ﹃東久世通禧日記﹄明治十四年︵一八八一︶四月三十日条に﹁煮茶﹂ の記事は、茶道具を購入した場合のみ掲載した。 贈 答︵ 下 賜 を ふ く む ︶ に 関 す る 記 事 は す べ て 省 略 し 、 道 具 商 と の 往 来 ︶ こ れ 以 外 に み ら れ る、 北 沢 村 に 所 有 す る 茶 園 に 関 す る 記 事、 茶 の 焼鯛一 赤貝七 以上進入了 二十二年および二十四年を欠く︶の日記の写本が所蔵されている︵前 ︵ 口入礼、彼是配慮礼申置、肴一折 ﹁三 ︶ ﹃東久世通禧日記﹄安政二年︵一八五五︶六月二十八日条には、 、三条西殿へ行、今日入門也、先之、 家来麻上下 三折尋常 という表記がある。実態は煎茶であるのか抹茶であるのかわからない。 ︵ ︶ 佐伯太は、小川可進の煎茶道を小川信庵の流れをくむものとし、 ︵ 掲﹃東久世通禧日記﹄別巻、一三一頁参照︶。 なお、宮内庁書陵部には、明治元年ないし二十五年︵ただし、五年、 ︵ 目六太刀・馬進之 辰半剋出門、狩衣指貫 条西家へ和歌入門之事﹂として、 つぎのとおり、くわしく記されている。 中鷹三ツ折二枚重 馬代入魂 奉書 御太刀 一腰 金二百疋 金加二百疋 東久世侍従 以上 御馬 用六六九頁︶と評価する。東久世通禧も酒飯茶のもてなしをうけ、胸 創元社、昭和十二年︵一九三七︶、六六五∼六六八、六七六頁参照、引 く酒飯店以外の何ものでもあり得ない﹂︵﹁煎茶小史﹂ ﹃茶道﹄巻十三、 小川流煎茶を酒店、飯店、茶店でもてなすことと説明したうえで、﹁全 ︵ ︶ 招待者は姓しか記していないが前後の登場人物と茶の湯との関係 やけ︵溜飲︶がしたものらしい。 漫 誓状中奉書七ッ折 上包同帋 代白銀十両 一疋 進候了 以上 59 60 和 歌 之 道 蒙 御 訓 教 候。 上 者 聊 不 可 存 疎 意 候、 殊。 御 伝 授 条 々 通禧 謾 不 可。 口 外 候。 若 於 相 背 者 可 蒙。 両 神 冥 譴 候、 仍 而 誓 状 如件 三 条 西 季 知 安政二年六月廿八日 竪詠草 中奉書二枚重、上包同帋八ツ折 宰相中将殿 左 あふくかなさかへさかふる敷島の 道のをしへのひろきめくみを の演奏があった。 ﹃東久世通禧日記﹄には、当時流行していた﹁清楽﹂ なお、この茶会では﹁清楽ノ興アリ﹂とあるように後段で中国音楽 堀田正倫は旧下総佐倉藩主である。 養子の言忠がのち侍従、万里小路博房は旧公家で当時皇太后宮大夫、 から推定した。西四辻公業は旧公家で当時侍従、藤波教忠は旧公家で 61 や﹁月琴﹂に関する記事が散見される。 229 58 56 57 ︵ ︵ ︵ ︶ 柳原前光は旧公家で、当時は元老院議官である。 ﹁午後四時五十分発車、岩倉 ︶ 有栖川宮熾仁親王は、自身の日記に、 ︵ ︶ この人物について、前掲﹃角川茶道大事典﹄普及版、一四〇七頁 には、つぎの項目がある。 ︵一八九一︶六月六日。幕末維新期の医者。享年六十四歳。号は鴻焉・ 明治二十四年 ― 巻二、高松宮蔵版、昭和十年︵一九三五︶、六八二頁︶と記している。 沽 焉・ 天 籟 浩 焉・ 稽 古 庵。 盛 岡 由 藩 士。 江 戸 に 出 て 父 の 業 を 継 ぎ 医 師 吉益正雄︻よしますまさお︼文政十年︵一八二七︶ なお、当時は陸軍大将兼元老院議長である。 ﹃茶人図解﹄ ﹃茶の湯 と な っ た。 茶 法 を 石 州 流 門 派 谷 村 可 順 に 学 ん だ。 右大臣茶□□□招請ニ付行向、午後八時帰宅之事﹂ ︵﹃熾仁親王日記﹄ ︶ このことから、岩倉具視が天皇への献茶を推進した可能性が考え 幸の際であるが、それ以前の明治十三年︵一八八〇︶の寺島宗則邸へ ら れ る。 歌 舞 伎 の 天 覧 は、 明 治 二 十 年︵ 一 八 八 七 ︶ の 井 上 馨 邸 へ の 行 霰﹂を所蔵していた。︹末宗広︺ 名器集﹄ ﹃一名目利の話﹄を著した。また、名物破風窯、皆の川手の﹁玉 正名器鑑﹄には﹁元吉益正雄所持なり、吉益は号を鴻焉又は稽古庵と の 行 幸 の 際 に 計 画 さ れ た こ と が あ る。 し か し、 岩 倉 具 視 は﹁ 其 の 技 の の状態にては天覧に供するを不可なり﹂︵ ﹃ 明 治 天 皇 紀 ﹄ 巻 五、 吉 川 弘 号 す、 元 盛 岡 藩 士 に し て、 江 戸 に 来 り 父 の 業 を 継 ぎ て 医 官 た り、 石 州 正十二年︵一九二三︶、六六頁に記された玉霰の項の記述であろう。﹃大 文館、 昭和四十六年︵一九七一︶、 七九頁︶と反対したために実現しなかっ 流清水派の茶人︵略︶ 。明治十八年三月十四日歿す、享年未詳﹂とある。 末 宗 広 の 典 拠 は、 高 橋 義 雄﹃ 大 正 名 器 鑑 ﹄ 第 五 編 上、 審 美 書 院、 大 た。このように影響力のある岩倉具視自身が自邸に茶室を建築したこ しかし、﹃東久世通禧日記﹄によるかぎり、医者であることや、石州流 卑 俗 に し て 風 教 を 害 す る こ と 少 か ら ざ れ ば 、 改 良 の 暁 は 知 ら ず、 現 今 とは興味深い。 の茶人であることは考えにくい。 ︵﹃ 岩 手 県 姓 氏 歴 史 人 物 大 辞 典 ﹄ 角 川 書 店、 平 成 十 年︵ 一 九 九 八 ︶、 の 支 配 帳 に﹁ 平 士 家 禄 三 百 石 吉 益 正 ﹂ な る 人 物 の 存 在 は 確 認 で き る が な お、 盛 岡 藩 士 と い う 出 自 に つ い て、 盛 岡 藩 明 治 元 年︵ 一 八 六 八 ︶ ﹁代田宗真﹂として知られている。﹃角川茶道大事典﹄ ︶ この人物は、 普及版、角川書店、平成十四年︵二〇〇二︶ 、 六 八 二 頁 に は、 つ ぎ の 項 目がある。内容には疑問もあるが、いまはそのまま紹介する。 明治二十三年 ― 一一六五頁︶、同一人物であるのかどうか不明である。 ︶ 吉益正雄は、明治四年︵一八七一︶の岩倉遣外使節団に同行した で 上 京、 宗 徧 流 の 茶 道 の 普 及・ 発 展 に 尽 力 し、 み ず か ら 四 方 庵 五 世 と た。 竜 野 脇 坂 家 の 茶 頭 を 経 て、 維 新 後、 東 久 世 通 禧・ 本 多 正 憲 の 招 き 茶湯を市村宗泉に学び、のち吉田宗意に師事して宗徧流の奥儀を修め 関係にあったものとも推測される。日記に吉益正雄がはじめてあらわ で あ り、 直 前 ま で 東 久 世 通 禧 が そ の 長 官 で あ っ た こ と な ど か ら 旧 知 の 団の一員であることから、あるいは、女子留学生の実施主体が開拓使 女子留学生五人のうちの吉益亮︵子︶の父である。東久世通禧も使節 ︵ 称した。︹横山美紀︺ 真 学・ 重 之 助・ 泰 治、 号 は 習 々 斎・ 習 白 庵・ 陸 沈 斎。 年 少 の こ ろ よ り ︵一八九〇︶十月二十八日。幕末維新期の茶人。播州竜野の人。名は醜麿・ 代田宗真︻しろたそうしん︼文政八年︵一八二五︶ ︵ 66 67 230 62 63 64 65 明治前期の「貴紳の茶の湯」 日 記 ﹄ 巻 三、 高 松 宮 蔵 版、 昭 和 十 年︵ 一 九 三 五 ︶ 、四二九頁︶とのみ記 記載の﹃東久世通禧日記﹄明治十三年︵一八八〇︶四月十七 れ る の は、 明 治 十 三 年︵ 一 八 八 〇 ︶ 一 月 十 四 日 条 で あ る が、 と く に 説 ︶ 表 している。 ︵ 明はされていない。吉益亮︵子︶については、明治十四年︵一八八一︶ 一月六日条および同年四月六日条にあらわれる。 には外務省職員︵大録︶、明治四年︵一八七一︶には東京府役人であっ ま た、 吉 益 正 雄 は、 明 治 二 年︵ 一 八 六 九 ︶ ∼ 明 治 三 年︵ 一 八 七 〇 ︶ 日条、明治十四年︵一八八一︶一月十六日条、明治十五年︵一八八二︶ 十二月三日条など参照。 の採否の判断基準は、東久世通禧が茶会等に複数回招いた人 物、あるいは複数回招かれた人物の、すくなくとも一方の条件を満た ︶ 表 ︵ 二 〇 〇 九 ︶、 七 〇 ∼ 七 一 頁 参 照 ︶。 た だ し、 ﹃ 明 治 初 期 官 員 録・ 職 員 録 し て い る こ と で あ る。 た だ し、 こ の 基 準 に 該 当 す る 赤 沢 宗 凹、 加 藤 嘉 ︵ 集 成 ﹄ 第 三 巻・ 第 四 巻、 柏 書 房、 昭 和 五 十 七 年︵ 一 九 八 二 ︶ で は、 明 庸 は 、 伝 不 詳 の た め 採 用 し な か っ た。 な お 、 類 型 ご と に お お む ね 生 年 た と い う︵ 寺 沢 龍﹃ 明 治 の 女 子 留 学 生 ﹄ 平 凡 社 新 書、 平 成 二 十 一 年 治三年一月から八月まで外務省大録であることは確認できるが、同年 ︶ 秋元信英、前掲文化史論文、二四頁。 順に掲げた。 ︵ ︵ ︵ ︶ 当時は、参議、陸軍中将兼議定官である。 ︶ 山 田 宗 囲﹁ 宗 徧 流 ﹂﹃ 日 本 の 茶 家 ﹄ 河 原 書 店、 昭 和 五 十 八 年 ︶ 前掲﹃新版茶道大辞典﹄六六九頁参照。 平成二十二年︵二〇一〇︶、六六九頁を参照した。 ︵一九八三︶ 、 二 〇 〇 ∼ 二 二 三 頁、 お よ び﹃ 新 版 茶 道 大 辞 典 ﹄ 淡 交 社、 ︵ ︵ 九月以降にはみえない。東京府役人について、どのような役職であっ た の か は 官 員 録 な ど に み え な い。 そ の 後、 明 治 五 年︵ 一 八 七 二 ︶ 二 月 一日に東京において秋田県権典事に任じられ、秋田県に赴任している 記載の﹃東久世通禧日記﹄明治十三年︵一八八〇︶六月三日 記載の﹃東久世通禧日記﹄明治十三年九月十二日条参照。た ︶ これらの流派の系譜を示すと、つぎのとおりである︵野村瑞典﹃宗 菅沼定賢 ― 菅沼游鷗 ― ― 代 ― 柳沢閑清 ― 誉田宗義 ― 細 ―田宗栄 水谷義閑 ― 徧流 歴史と系譜﹄光村推古書院、昭和六十二年︵一九八七︶、二二九 神谷松見 ― だし、東久世通禧は﹁名物文琳茶入﹂とするが、 ﹁玉霰﹂は肩衝に分類 ︿時習軒系﹀ ︵山田宗徧 菅沼定易 ― 細 ―田宗衛 細 ―田宗玉 細 ―田宗永 岡村宗恕 ― ∼二四九頁参照︶ 。 ﹃ 東 久 世 通 禧 日 記 ﹄ 明 治 十 四 年︵ 一 八 八 一 ︶ 四 月 十 八 日 ︶ た と え ば、 条で、東久世通禧は﹁午後二時橋場三条殿別荘対鷗荘へ行、有栖川宮・ ︿四方庵系﹀ 吉田宗意 吉 ―田宗賀 このとき同席した有栖川宮熾仁親王は自身の日記に﹁午後二時半発車、 菅沼定実 ― 山田宗徧 岩倉・四条・久我・壬生・南部等同席古筆了仲点茶﹂と記しているが、 ︶ ―岡村宗伯 すべきであろう。 ︶ 表 条参照。 ︶ 表 二一四頁参照︶ 。それ以降の職業については不明である。 ︵ 橋 本 宗 彦﹃ 秋 田 沿 革 史 大 成 ﹄ 第 二 冊、 明 治 三 十 一 年︵ 一 八 九 八 ︶ 、 ︵ ︵ ︵ 4 5 ︵﹃熾仁親王 橋場町三条家別荘 江招請行向、午後九時二十五分帰館之事﹂ 231 71 72 73 74 75 76 77 4 4 68 69 70 二九〇頁を参照して作成する。︶。 八代山田宗有 芸術サロン社、昭和二十三年︵一九四八︶、一七六∼一八九頁を参照し 高 谷 隆 は、 下 図 の と お り 考 え て い る︵ 高 谷 隆﹃ 古 今 茶 人 系 譜 大 全 ﹄ て 作 成 す る。 な お、 同 書 は 芳 賀 登 ほ か 編﹃ 日 本 人 物 情 報 大 系 ﹄ 第 蛍 雪 庵・ 時 習 軒・ 囲 斎・ 灯 外。 奥 州 一 ノ 関 田 村 左 京 太 夫 の 家 臣、 村松源六│││吉田水月尼 五代山田宗俊│││吉田宗意│││吉田宗賀 八十五巻、皓星社、平成十三年︵二〇〇一︶に収録されている。︶。 納 戸 頭 を 務 め て い た。 茶 を 山 田 宗 徧 の 門 下 板 橋 閑 清 に 学 ん だ。 致 232 田醜麿 吉 斎藤風香 石 ―邨千艸 ― ―原恵香 ︿正伝庵系﹀ 脇 ― 五代山田宗俊│││吉田宗意│││吉田宗賀│││東久世通禧 脇坂安斐 岩田 ― 山田宗弥 ― 岩田宗龍 ― 山田宗俊 ― 岩田宗栄 ― 山田宗也 ― 中村宗知 ― 山田宗円 ― 関口宗理 ― 山田宗引 ― 関口宗貞 ― 岩 ―田宗玖 には、つぎの項目がある。 吉 田 宗 意︻ よ し だ そ う い ︼ 天 明 六 年︵ 一 七 八 六 ︶ 仕 後 日 本 橋 村 松 町 に 居 住 し、 茶 事 指 導 を 業 と な し、 門 下 に 学 ぶ 者 八代山田宗有 代田醜麿│││東久世通禧 野 村 瑞 典 は、 下 図 の と お り 考 え て い る︵ 野 村 瑞 典、 前 掲﹃ 宗 偏 流 脇坂安斐 本多正憲 を付した。 の見解を示すこととする。﹃東久世通禧日記﹄に登場する人物には傍線 ︶ 脇坂安斐をめぐる師弟関係の系譜について、三人の茶の湯研究者 ︶ 野村瑞典、前掲﹃宗徧流 歴史と系譜﹄二三二頁。 多かった。 ︹末宗広︺ 七代山田宗寿 山田宗弥 六代山田宗学 ― ︵一八四八︶正月二十五日。江戸後期の茶人。通称要人、号は随好庵・ 代田醜麿│││本多正憲 ︶ 野村瑞典、前掲﹃宗徧流 歴史と系譜﹄二三一頁参照。 吉田水月尼 ︶ 山田宗有は、明治二十三年︵一八九〇︶のトルコ軍艦紀州沖難破 山田宗弥││六代山田宗学││七代山田宗寿 ︶ 野村瑞典、前掲﹃宗徧流 歴史と系譜﹄一〇二頁参照。 宗仙 坂宗斐 山田宗徧 ︵ ︵ ︵ ︵ 嘉永元年 ― ︶ この人物について、前掲﹃角川茶道大事典﹄普及版、一四〇四頁 まで長らくトルコに滞在することとなる。 に そ れ を 携 え て ト ル コ に お も む い た。 そ の 後 、 第 一 次 世 界 大 戦 勃 発 時 事 件 に 際 し、 日 本 国 内 で 義 援 金 を つ の り、 明 治 二 十 五 年︵ 一 八 九 二 ︶ 78 ︵ 79 82 末 宗 広 は、 下 図 の と お り 考 え て い る︵ 末 宗 広、 前 掲 書、 二 八 五 ∼ ︵ 80 81 83 明治前期の「貴紳の茶の湯」 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︶ ﹃東久世通禧日記﹄明治十三年︵一八八〇︶七月十七日条。 ︶ 末宗広、前掲書、二八八頁。 ︶ 高谷隆、前掲書、一八八頁。 ︶ 前掲﹃角川茶道大事典﹄普及版、一一五九頁参照。 ︶ この例外として、古石州流における八、十、十一及び十二代家元が あ る︵ 野 村 瑞 典﹃ 石 州 流 歴 史 と 系 譜 ﹄ 光 村 推 古 書 院、 昭 和 五 十 九 年 ││東久世通禧 八代山田宗有 ― 歴 史 と 系 譜 ﹄ 一 一 九、 一 二 〇、 一 四 〇、 二 四 五、 二 四 六 頁 を 参 照 し て 作成する︶。 │ 七代山田宗寿 吉田宗意│││六代山田宗学 ― ︵一九八四︶、二一四∼二一六頁参照︶ 。古石州流家元は、第六代以降を ︵ ︵ ︵ ︵ ︶ 野村瑞典、前掲﹃宗徧流 歴史と系譜﹄。 る以前に、この代数の数え方が定着したものであろう。 本庄家が世襲するが、おそらく本庄家が世襲するという認識がうまれ 吉田水月尼 本多正憲 こ の 三 つ の 系 譜 に は、 相 互 に 矛 盾 が 生 じ て い る。 東 久 世 通 禧 は、 す で に み た と お り、 明 ら か に 脇 坂 安 斐 か ら 伝 授 を う け て お り、 そ の 後、 代田醜麿から教えをうけている。いずれの系譜も、この三者の関係を 適切に説明するものではない。 て い く 過 程 で、 後 世 に こ の よ う な 師 弟 の 系 譜 が 整 備 さ れ た た め と 考 え この三つの系譜にみられる矛盾は、おそらく家元システムが確立し る。確固たる家元が存在しなかったこの時期の宗徧流のあり方を、の ち に 家 元 の 立 場 か ら 再 構 成 し た も の が、 今 日 お こ な わ れ て い る 説 明 で ︶ 野村瑞典、前掲﹃宗徧流 歴史と系譜﹄二五六頁。 ︶ この引用にかかる記事は、明治十年の第一回内国博覧会を﹁明治 十二・三年頃﹂ ︵野村瑞典、前掲﹃宗徧流 歴史と系譜﹄二五六頁︶と しており、古い情報については不正確であることがうかがえる。 記載の﹃東久世通禧日記﹄明治十三年︵一八八〇︶七月十七 ︶ 野村瑞典、前掲﹃宗徧流 歴史と系譜﹄二三九頁。 ︶ 表 日条。 ︶ 現在第六代が活躍する小川流煎茶家元の家系を示すと下図のとお りとなる。 六代小川忠男 五代小川塩子 四代小川治次郎 ― 二代小川為美││三代小川久敬 初代小川可進 ― ︵ 4 ︵ 山田宗弥 脇坂安斐 吉田宗賀│││代田醜麿 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 あろう。 た。しかも、時習軒系、四方庵系、正伝庵系などの宗徧流も現存する。 時 習 軒 系 は 吉 田 水 月 尼 の 系 譜、 四 方 庵 系 は 代 田 醜 麿 の 系 譜、 そ し て、 正伝庵系は脇坂安斐の家系と関係がある。これらの系譜を整合性ある ものに整理するには、どうしても無理が生じるのであろう。 ︶ たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵、龍野文庫︵を︶趣味︵茶︶ 233 現在では宗徧流家元である山田家は、当時きわめて脆弱な状況にあっ ︵ 二六番。 84 ︵ 略 ︶ 十 六 歳 に て 茶 礼 を 松 尾 宗 古 に 学 び、 宗 古 歿 後 久 田 栄 甫 の 門 人 と 為 り、 安 政 五 年 和 宮 東 海 道 御 通 行 の 際、 尾 州 家 よ り 鳴 海 陣 屋 の 和三十二年︵一九五七︶三月。 昭和四十九年︵一九七四︶、二〇五頁。なお、当該引用文の初出は、昭 〳〵 と 砕 け て 序 破 急 の 変 化 無 我 無 心 に 出 で、 故 梅 若 実 翁 の 仕 舞 を 姿 勢 は、 実 に 頭 の 下 る 程 の 威 厳 な れ ど も、 夫 れ よ り 手 前 は サ ラ に 鍛 ひ し 老 人 が、 小 さ き 柳 蔭 の 茶 入 を 取 り て 泰 然 と 構 へ た る 時 の ので、以前から関係があったものと考えられる。 矍 鑠 た る こ と 彼 れ が 如 く、 名 器 名 碗 兼 ね 備 ふ る こ と 彼 れ が 如 き 茶 見 る が 如 く 一 種 言 ふ 可 か ら ざ る 妙 味 あ り た り。 八 十 の 老 翁 に し て なるべし。︵高橋箒庵、前掲﹃東都茶会記﹄一、二六二∼二六三頁︶ 人 は、 啻 に 海 道 一 と 云 ふ の み な ら ず、 日 本 国 中 殆 ん ど 比 類 な き 者 ︶ 明治二十七年︵一八九四︶当時、冷泉為系が家元を預かったとす るには、年齢的にかなり無理がある。 ︶ 冷泉布美子は、父親である冷泉為系について﹁毎月、月釜をかけ 部分は歴史的事実ではない。 ﹁安政五年和宮東海道御通行﹂は中山道を通行しており、この なお、 ︵ ︶ 両替町久田家は、第十代久田宗員のとき、元治元年︵一八六四︶ の禁門の変によって京都両替町の家を焼失する。第十一代久田宗有は、 東京へ転居する。第十二代久田宗円は、先代の没後、京都、大阪、伊勢、 明 治 二 年 ︵ 一 八 六 九 ︶ に 大 阪 へ、 さ ら に 明 治 十 六 年 ︵ 一 八 八 三 ︶ に は は全く絶え果てたのか聞く処が無い﹂とのべている︵前掲﹁煎茶小史﹂ 播磨を転々とし、明治三十七年︵一九〇四︶に伊勢四日市で客死する よび久田宗円のすがたがみえるが、三会ともすべて詰の席を占めてい 234 庵主は天保四年の生れにて本年八十歳なるが、通称は下村実栗、 ∼明治二十五年︵一八九二︶、通称左守、号其楽︶である。明治維新後 茶 道 方 を 命 ぜ ら れ、 其 御 声 掛 り を 以 て 真 の 台 子 手 前 を 許 さ れ た る ︶ 小川流第二代は、小川可進の長子小川為美︵文政三年︵一八二〇︶ に﹁煎茶指南の額をはずし、︵略︶その没するまで後楽堂の門を閉じた﹂ 次 第 な れ ば、 庵 主 は 六 十 余 年 間 茶 道 に 悠 遊 せ る の み な ら ず、 資 産 ︵ ︵小川後楽︵忠男︶﹃茶の文化史﹄文一総合出版、昭和五十五年︵一九八〇︶、 ︶ 第二代小川為美は、墓碑銘によると冷泉家に和歌を学んだとある た る 佗 び と 違 ひ、 所 謂 綺 麗 な る 佗 び 茶 人 な り。 此 六 十 余 年 間 鍛 ひ あ り、 又 中 々 娑 婆 気 あ り て 名 器 を 所 蔵 す る が 故 に、 世 間 に 有 ふ れ ︵ ︵ 京の雅 ― 冷 泉 家 の 年 中 行 事 ﹄ 集 英 社、 平 成 て は、 羊 羹 と 薄 茶 や 煎 茶 を い た だ き な が ら 和 歌 を 詠 ん で お り ま し た ﹂ ︵﹃ 冷 泉 布 美 子 が 語 る 十一年︵一九九九︶、二〇二頁︶とのべている。冷泉為系は、茶の湯も 煎茶道もたしなんでいたらしい。 ︶ 佐伯太は、昭和十二年︵一九三七︶に小川流煎茶が﹁現在に於て ﹃茶道﹄巻十三、引用六六九頁、六七六頁同趣旨︶。小川流煎茶の復興 ︶ 明 治 十 八 年︵ 一 八 八 五 ︶ の 東 京 に お け る 茶 会 の 記 録 に 久 田 宗 有 お ︵﹃茶道せゝらぎ﹄第二巻第八号、昭和十一年︵一九三六︶、三頁参照︶。 ︵ にはいましばらく時間を要したものかと考えられる。 ︵ ︶ 大正元年︵一九一二︶十一月十三日に下村実栗をたずねた高橋義 雄は、つぎのとおりのべている。 104 ︵ 103 ︵ ︵ ︶ 小川塩子﹃煎茶つれづれ 五世後楽小川塩子遺稿集﹄小川後楽堂、 三二四頁︶という。 96 97 98 99 100 101 102 明治前期の「貴紳の茶の湯」 る︵ 戸 田 勝 久﹃ 茶 道 霧 海 抄 ﹄ 講 談 社、 昭 和 五 十 五 年︵ 一 九 八 〇 ︶ 、 二一一∼二一二頁参照︶ 。 ︶ 昭和十一年︵一九三六︶当時、第十三代久田宗栄について、つぎ ことを指摘している︵熊倉、 前掲﹃近代茶道史の研究﹄三一一頁参照︶。 ︵ ︶ 大野一英は、つぎのとおりのべている。 は明治十二年生まれで二十三歳から久田流を学んだがすでに明治 名 古 屋 の 最 長 老、 関 山 宗 保 さ ん︵ 守 山 区 ︶ は、 か つ て﹁ わ た し の 初 め か ら 家 元 は 行 く え 不 明 だ っ た ら し い。 大 正 七 年 に は 京 都 ま で家元を捜しに行ったし、その後もずっと家元捜しをつづけたが、 昭 和 二 十 三 年 ま で わ か ら な か っ た。 わ た し た ち が 革 新 派 久 田 流 を 作 っ た り、 あ ち こ ち に 分 派 が 出 来 た の は す べ て 家 元 が い な い こ と か ら の 止 む を え な い 措 置 だ っ た わ け で あ り、 流 勢 も 衰 え る 結 果 に な っ た ﹂ と そ の 間 の 事 情 を 語 っ て い る。︵ 大 野 一 英、 前 掲 書、 二六二頁︶ ﹃長良宗全﹄ 5 ︵ のとおり伝えている。 父 宗 円 と 共 に 伊 勢 四 日 市 に て 生 長 し、 父 歿 後 再 び 東 上、 大 正 十五年五月六日山脇氏の宅に於いて宗全忌を催され知名の士を招 き 久 田 家 十 三 世 相 続 の 披 露 を さ る、 氏 は 小 笠 原 島 司 荏 原 郡 長、 東 京 職 業 学 校 長 等 の 公 職 に 在 り、 現 今 は 茶 道 師 範 と し て 門 弟 を 育 て つゝあるよし。︵前掲﹃茶道せゝらぎ﹄第二巻第八号、三頁︶ 脇 氏 ﹂ は 同 書 同 頁 に﹁ 山 脇 善 五 郎 ﹂ と あ る。 山 脇 善 五 郎 は、 東 京 築 地 この情報は、かならずしも正確とはいえないだろう。引用文中の﹁山 点前のちがいから離脱したグループは、昭和四十四年︵一九六九︶に ︶ 東海地方の久田流のうち、再興した両替町久田家に合流したが、 ハ ウ ス と 茶 の 湯 ﹄ 新 潮 社、 平 成 七 年︵ 一 九 九 五 ︶、 九 ∼ 一 二 頁 参 照 ︶ 。 大徳寺高桐院上田義山を家元にむかえ、久田流有栖川系︵宗全会︶を ︵ また、﹃茶道せゝらぎ﹄以外に第十三代久田宗栄が﹁小笠原島司荏原郡 唱えた ︵長谷義隆﹁茶どころ探訪﹂一〇 ﹃中日新聞﹄平成十五年︵二〇〇三︶ の ち 駒 込 在 住 の 地 主 で、 裏 千 家 老 分 格 の 茶 人 で あ る︵ 山 脇 道 子﹃ バ ウ 長、東京職業学校長等の公職﹂にあったことを示す資料は、いまだ見 ︶ 維新の功臣といえる人々は、中下級の武士階級の出身者が多く、 への系譜とされる︵前掲﹃茶湯手帳﹄一六一頁参照︶ 。 八 月 五 日、 第 十 二 面 参 照 ︶ 。これは、下村実栗から、その三男下村実軌 ︵ 出せない。 なお、久田宗円の弟子とされる川越守男は﹁東京久田流復興に寄与 明治維新以前に茶の湯の趣味をもっていたとは考えにくい。表 で指 広、前掲書、一〇八頁︶たとされる。この人物は大正十年︵一九二一︶ 摘した人物や、のちの和敬会の会員にみられる維新の功臣の存在は、 ﹁貴 家元宗栄に自己所有の家を提供し 毎年五月六日宗全忌を催し﹂︵末宗 に荏原郡長であったことから︵東京都公文書館ホームページ、東京府 ︹追記︺ │ 紳の茶の湯﹂の広がりをあらわすものと考える。 と考えられる。 ﹁山脇氏﹂も川越守男のことであろう。 106 本稿脱稿後、稲川由利子 六「合庵久田宗全について 組織一覧を参照︶ 、﹃茶道せゝらぎ﹄の記述はこの人物との混同がある 110 ︶ 熊倉功夫は、昭和初期に東京久田流の雑誌﹃茶﹄の刊行があった ︵ ︶ 前注参照。 ︵ 235 108 109 105 107 │ と呼ばれた茶人 ﹃」博物館だより﹄第七十九号、 岐阜市歴史博物館、 平 成 二 十 三 年 ︵ 二 〇 一 一 ︶ に 接 し た。 そ の な か で 新 出 資 料 を も と に 有 栖川宮家に仕えた久田宗栄︵生々斎︶および久田宗全︵六合庵︶の存 在が紹介されている。本稿で論じた有栖川宮家と久田家との関係は、 さらに検討する必要があろう。 236
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