オルグ執筆の頃(岩崎健一 08年3月30日 PDF)

08・3i30
すぎなみピースウオーク「多喜二ゆかりの宿と春を訪ねて」
︲ノ
「オ
しグ」執筆の頃
岩崎健一
(1∩931(昭和6)年という年
小林多喜二
28歳。
この年1月22日、保釈出獄。杉並町成宗の田口商店の2階
に住む。
2月上旬、「オルグ」を起稿。
3月、田口タキとの結婚を断念する。中旬から4月上旬に
かけて七沢温泉「福元館」に逗留。初旬に「オルグ」完成
し、「改造」5月号に発表。
6月、「独房」を書き「中央公論」7月号に発表。
7月、作家同盟第4回臨時大会、書記長に選出。同月末、
馬橋に一戸を借りてセキ、弟三吾と住む。
10月、日本共産党に入党。
大恐慌と中国侵略の開始
20年代末からの世界大恐慌下、労働者、農民にその犠牲は
転嫁され、国民生活は空前の危機にさらされた。
国民は生活をまもるたたかいに立ち上がり、労働争議、農
民闘争が全国に広がった。
天皇制政府は「山東出兵」につづいて31年9月18日の満州
事変」から中国への全面侵略戦争を開始した。
そのために、日本共産党と国民への弾圧を一層強化した。
(治安維持法による検挙者数はi930年6877人、31年
11250人、32年16075人、33年18397人)
「赤旗」の再刊
日本共産党は激しい弾圧によって困難ななかで、一時期の
誤った指導を克服して、中断していた「赤旗」を31年1月
から再刊する。
反戦平和のたたかい
1928年、国際連盟は「不戦条約」を締結、日本も批准した
が、国際批判をかわすために中国侵略戦争を「事変」と称
した。日本の中国侵略は、20世紀の戦争違法化の流れへの
最初の重大な逆流となった。
これにたいして日中両共産党は1928年5月と31年9月の2
回にわたって中国侵略戦争に反対する共同宣言を発表、反
1
1
戦平和のだたかいに全力をあげた。
28年7月には反戦同盟(準)を結成、29年11月には国際反
帝同盟日本支部に。多喜二は反帝同盟執行委員となる。
28年。「1928年3月15日」、翌年に「蟹工船」を発表。
この意図を蔵原あて書簡で「プロレタリアは、帝国主義的
戦争に、絶対反対しなければならないという。然し、どう
いうワケでそうであるのか、分かっている労働者は、日本
のうちに何人いるのか。然し、今これを知らなければなら
ない。緊急なことだ」と書いている。
日本文芸家総連合も蔵原惟人絹で1928年5月、反戦創作集
「戦争二対スル戦争」を出版する。
(2)七沢温泉と多喜二
自由民権運動ゆかりの地
七沢温泉は大山阿夫利神社のある大山の西、丹沢山麓にあ
る。七沢をふくむ愛甲郡は自由民権運動の盛であった。
明治15年1月27日、近辺の小野村の聞修寺で開いた民権
演説会には300人を越す大衆が集まったといい、「愛甲ノ
一郡二九ケノ結社ヲ数ヘタリ亦盛ナリト云ハザルベカズ」
と報道されている。(「東京横浜毎日新聞」明治15年1月
31日、2月1日)
「福元館」逗留の新事実
2000年3月、地元で活動している蝸崎澄子さんの調査に
よって多喜二が「オルグ」執筆のために滞在した宿が「福
元館」であることが判明した。
当時の館主の長女の回想
当時の館主の長女・古根村初子さん(07年95才で死去)は
多喜二逗留中の思い出を書き残している。
「女学校を出て家に居りました頃、
折らずにおいて来た山かげの小百合
人がみつけたら手を出すだろう
風がなぶったなら露こぼそものを
折ればよかった遠慮がすぎた
こんな唄を風呂場で歌っている人がいました。女中さ
んに聞きますと、離れのお客様ですよ小林様です。そう
言われれば番下駄をからからと音をさせて、丹前をふと
ころ手に、とんびだこのようなかっこうをして風呂に来
られる姿をちょくちょくみかけました。大分過ぎて小説
家の小林多喜二と言う人だと、聞いたのですが、私は文
学少女でもありません。小説には興味もありませんでし
2
!
たし自分の身の振り方に余念がなかったのです。,
プロレタリア文学なんて頓着なく過ごしていた頃の事
|
です。析ればよかったの唄も後で意味が判るようになっ
たのですが小林先生が拷問で亡くなられた話を聞きまし
た。」(「あんなこと こんなこと」昭和60年11月1日
F
(3)
発行)
オルグ」
手塚英孝「小林多喜二」から
「三月三日、多喜二は『オルグ』のノート稿を一応書き
おえたが、田口のことと獄中生活の疲れがかさなって、
心身の重い打撃に彼は苦しみはじめていた。その月の中
旬から、彼は神奈川県の七尾鉱泉(注:七沢温泉の誤
り)にこもった。そして、四月八日、この作品を書きお
えた。
『オルグ』は、『工場細胞』から十三か月後の作品で
あった。弾圧をうけて、沈滞レ反動化していく製缶工
場内の全協分会員の組織活動が、それを指導し、全地域
の再建のために働くオルグの生活とともに描かれ、どの
ような弾圧にも屈しない、『プロレクリアートの逞しい
意志』を描いたものであった。また、彼はこの作品で、
階級闘争の観点から、愛情の問題の正しいありかたを追
求しようとしている。」(新日本新書「小林多喜二」下
(4)いまも生きている「治安維持法」
76年の国会で多喜二虐殺追及
1976年1月の国会で、当時の民社党委員長・春日一幸
による日本共産党攻撃とその政府答弁に関して、日本共
産党・不破哲三書記局長は国会論戦で治安維持法下の弾
圧の実態を明らかにして徹底的にその虚偽と不当性を追
及した。
その中で、「作家・小林多喜二のように、昭和八年二月
二十日につかまって七時間で即日虐殺され」だ事実をあ
げて追及した。稲葉修法務大臣は「警察が虐殺したなん
てことをいわれたが、突然いわれても、虐殺であったか
どうであったのか、答弁しかねる」「答弁いたしたくな
い。警察の権威にかんするもの、国の権威、民主主義の
権威にかんするものだ」といい、「当時の日共が暴力革
命を起こそうとしていた以上、政府が防衛手段を講ずる
J
●
のは当然だ」と開き直って旧治安維持法を擁護した。
過去の過ちに背を向けた
3月14日、最高裁は戦時下の言論弾圧・でっちあげ事件
「横浜事件」再審
である「横浜事件」の再審上告審判決で、元被告側の上
告を棄却。治安維持法の廃止と大赦を理由に「免訴]と
した。最高裁の判決は無罪ではなく、一審、二審と同じ
「免訴」だった。免訴判決では、有罪か無罪かの判断は
示さないで裁判を打ち切るというものだ。
「朝日」社説
この判決にたいして「朝日新聞]は、「横浜事件再審
過去の過ちに背を向けた」と題した3月15日の社説を書
き次のように批判した。
「横浜事件の再審裁判が注目されたのは、戦争を遂行す
るための言論弾圧に加担した過去の司法の責任に対し、
現在の裁判所がどう語るかだった。最高裁がそれを避け
たことは、過去の過ちに目をつぶったと言われても仕方
あるまい」
「過去の過ちを直視しようとしない最高裁の姿勢には不
安を感じる。最高裁は国民の信頼を得る好機をみすみす
|
見逃したといういうほかない。」
|
(5)多喜二の火を継ぐ
政府も、司法も、いまだに当時の「治安維持法」が悪法
であったということを認めようとせず、その犠牲者にた
いして謝罪も、名誉回復も、国家賠償責任も果たそうと
していない。
これを許さぬ国民的な世論と運動の発展が求められて
いる。
多喜二の火を継ぐ活動の今日的な意義はここにある。
以上
(2)の「析らずにおいてきた…]
原曲はブラームス作間「日曜日」/ 高野辰之:訳詩「析ればよかった」
一一
一一
上
什