希望を配る 阪神大震災での新聞配達 ■新編集講座 ウェブ版 第21号 2015/2/1 毎日新聞大阪本社 代表室長(元編集制作センター室長) 三宅 直人 1995 年 1 月 17 日の阪神大震災。自らも被災した整理部員が悩みながら紙面編集した姿を、前回ご紹介しました。 作った紙面は読者に届けないといけません。今回は、地震の直撃を受けた販売店の様子です。当時、阪神地区の 担当員だった石川均氏(現・大阪本社販売局総務) は、惨状におびえながら、販売店を訪ね歩きました。がれきの中で 会った所長たちは、異口同音に「被災した人に一刻も早く毎日新聞を届けたい」と訴え、黙々と配り続けたそうです。 ■ たった 1 回通じた電話 地震発生の瞬間、石川氏は神戸にほど近い三木市の自宅で就寝中でした。 家族の無事を確かめた後、担当する販売店に安否を尋ねる電話をしました。 「はい、毎日新聞」 。電話の相手は小坂康豊(西宮市、苦楽園販売所長)だ。 その声は荒々しくそして心なしか震えていた。私はわざと平静を装い、口を 開いた。 「すごい地震があったんですが、そちらも揺れましたか」。 「そんなもん、すごいいうもんちゃうで。家はつぶれとうし、隣の兄ちゃ 本 編 は 同 書 か ら の 抜 粋 引 用 で す 。 んが閉じこめられて出られへんのや」 。小坂は阪神西部支部(宝塚市、西宮市、 冊 子 「 希 望 を 配 る 」 を 発 刊 し ま し た 。 石 川 氏 は 被 災 直 後 の メ モ を 基 に 、 芦屋市、神戸市東灘区)の支部長を務める。人望は厚い。ただ、物事をやや誇張する癖もあった。だからこの とき「ああ、また例の調子や」と思ってしまった。「何かあればまた電話をください」。向こうもあわてている 様子なのでそのまま電話を切ってしまった。しかし、それから再び回線がつながることはなかった。 ■ 配達途中、救出に飛び込む 石川氏は車で家を出て、神戸・阪神方面へ向かいます。 町は戦場のようでした。悪戦苦闘し販売店を目指します が、大渋滞で進めません。この時、氏が担当する神戸、 阪神間は炎とがれきの世界と化していたのでした。 黒木守(東灘区魚崎、セールス)は朝刊配達を終え、 帰宅途中地震に見舞われた。轟音(ごうおん)とともに 周りの家がグシャッとつぶれた。土埃(つちぼこり)が 95 年 1 月 23 日 ( 「 希 望 を 配 る 」 か ら ) 倒 壊 し た 新 聞 販 売 店 = 神 戸 市 東 灘 区 で 舞い上がる中、自分の家が倒壊するのが遠くに見えた。 「あかん」 。どこをどうすり抜け、自宅にたどり着いたのか分からない。倒壊した家屋から家族を引きずり出し た。木造アパートがひしめく周囲はほとんどの建物が原形をとどめない姿に変貌(へんぼう)していた。 爆発音が響いた。「臨港のコンビナートが爆発したんとちゃうか」。井上素利子(西宮市、西宮南販売所長夫 人)は一瞬そう思ったという。一筋南側の国道 43 号線の上を走る阪神高速の橋げたが地震で落下し、車が炎上 したと分かったのは夜が明けてからだった。「助けて」 。2階から2人の声が聞こえた。母と娘の声だ。娘の無 事を確かめる。母は倒れた家具の隙間(すきま)から自力ではい出していた。 土井達嗣(東灘区、魚崎販売所長)は配達途中に悲鳴を聞き、救出しようとアパートに飛び込んだが、倒れ てきた壁に挟まれ動けなくなった。結局、周囲の住人に逆に救出される羽目になる。診断は全治六ヶ月の重症。 骨が砕けてしまったため、左右の足の長さがいくぶん違う。それを「歩きにくい」と本人は笑って言う。 ■ ようここまで来れましたねえ 車に見切りを付け、石川氏は阪急六甲のあたりで歩き出しました。 担当区の西の端、御影店に到着したのは自宅を出てから4時間半を経 過した正午であった。小川一治(東灘区、御影販売所長)は私を見て驚 いたような表情を見せる。かけるべき言葉がとっさに見つからない。 「大丈夫でしたか」。台所には夫人がしゃがみこんでいた。部屋中に 割れた食器や電化製品が散乱していた。「ガラスで危ないから土足のま ま上がって下さいな」 「担当さん、ようここまで来れましたねえ」 。夫人 があきれたように尋ねた。最初にこの2人に会えてよかったと思う。も っと悲劇的な状況の人であったら、慰める言葉もなかっただろう。2人 の姿を見て、逆に勇気付けられた。 阪 神 電 車 は 横 転 し 、 線 路 脇 の 住 宅 か ら は 火 の 手 が ここで会社と連絡がつき、石川氏は「夕刊は出す。販売店に弁当とお茶 を運ぶ」という本社側の言葉を聞きます。 電話を切った後、小川に切り出す。「夕刊は来ますから。一刻も早く従業員さんの無事を確認して下さ い」 。配れないことは分かっていた。だから、配って下さいとは言えなかった。 ■ 新聞を配る家が無い 神戸から芦屋に回り、西宮に石川氏が着いたのは午後7時過ぎでした。 小坂昌行(西宮市、西宮東口販売所長)の自宅マンションは、1 階に スーパーが入った複合ビルだが、途中の階が完全に押しつぶされていた。 その上階に夫人と母がいた。どうやって助け出したのか、無我夢中で全 く覚えていない。 待てど暮らせど夕刊は来なかった。正直ほっとした。もうこの周辺は 新聞を配る家が無いのである。家は残っていても、みんなとっくに避難 焼 け 跡 の 中 、 台 車 で 自 宅 に 水 を 運 ぶ 少 年 所に移ってしまったのだ。誰も新聞の話なんかしなかった。新聞が店着 したらそれはその時考えればいい。 「弁当よ、早く来い」 。夕刊よりも何 よりも、一刻も早く弁当を抱えて、寒さに震える販売店を訪ねたい。 ■ 戦争の時だって新聞はあったんや 一夜明けた 18 日、石川氏は朝から再び西宮や芦屋の販売店を回ります。 西幸治(芦屋市、シーサイド店所長)は「遅なったけど、朝刊配って きたで。全部配ったん、うちだけとちゃうか」と笑った。普段よりずっ と元気そうに見える。販売店は読者に届けられない分を自主的に避難所 に運んでいた。読者が避難しているのだから当然の成り行きである。避 難者の間で奪い合うように新聞がさばけたという。 倒 壊 し た 阪 急 電 車 の 線 路 際 を 歩 く 人 た ち 朝刊が所長の勇気と使命感あふれる従業員の手によって配られたこ とはありがたかった。避難所から配達に駆けつけた多くの従業員は家を 失った人たちであった。後になって、このときの心境を何人かに尋ねる。「新聞が店に届く以上は配るし かない」 「戦争の時だって新聞はあったんや。雨が降ろうが槍(やり)が降ろうが新聞は配らなあかん」 「よ そに比べ毎日の所長は普段からよく働く。所長夫婦のよく働く姿を見ていたから、みんながついていった」。 大部分の店がすぐさま復旧に立ち上がったのは、「本能的な意思」が働いたというほかない。店に出勤で きない従業員も大勢いた。しかし残された所長や家族、専業員たちがその分をカバーしたのだった。
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