(家 隆塚 )

清
(さ
ゃ )地 蔵
天 王寺 区 夕陽丘 町 5-14
陸奥宗光 の最初の妻 蓮子が亡くなつた明治5年 (1872)に 、亮子と再婚をします。
亮子 との間に生まれた長女 清子 (さ やこ)が 翌年に生まれました。
しかし、明治26年 (1893)に 若くして亡くなります。
宗光と亮子 は、その死を悼み、等身大の地蔵尊を陸奥家墓所に設けました。
ト松 帯 刀墓 所 跡
薩摩藩家老 ノ
天王寺 区 夕陽丘 町 5
′ 幕 末 から明治 にか けて活躍 した薩摩 藩 ′ 松 帯 刀の墓 所が 陸奥 家
墓 所跡付近 にありました。
小松帯 刀 は明治 に入 り、外 国事 務 局判事 に任 命され新 政府 に出仕
しましたが 、体調 が 芳 しくなく、大 阪 にて蘭 医ボ ー ドウィンの 治療を
受 けていました。(明 治 2年 7月 )
しか し、治療 の 甲斐もなく明治 3年 7月 20日 大 阪で永 眠 します 。
「小 松 帯 刀伝 」によると即 日大 阪府 天 王寺村 夕 日ケ岡に神葬 された
とあります。
明治 9年 10月 、鹿児 島県 日置郡 の 回林 寺 の 改葬され るまで、6年 間
この 地 に眠 つていました。
『 大 阪府全 志』第 2巻 や『 夕陽丘 の 回顧 』などの本 に、陸奥 宗光墓 所
跡 の前 後 に、小松 帯 刀墓 所 につい て記 載 され ていることか ら、この 付 近
であることがわ か ります。
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藤 原 家 隆 墓 所 (家 隆 塚
)
藤原家隆は藤原定家と並ぶほどの歌人と評され
『新古今和歌集』の撰者 の 一人で従 二位 の位を
授 かりました。
78歳 の高齢 で初 めて京都を離れ、ここに庵を作り
日想観を修めながら住みました。
日想観は、かつて四天王寺より西に難波の海が
広がつていた頃、西門から望む光景が極楽浄土ヘ
続く入り口として信仰されたことに由来する修行の
ことだそうです。
藤原家隆 は翌年この地にて永眠しました。
32
天 王寺 区 夕陽丘町 5
1麻
田 岡1立 墓 所 (浄 春 寺
)
天 王 寺 区 夕陽 丘 町 5-3
豊後 杵築 にて儒 者綾 部綱 斎 の 4男 として生まれ ます。
幼 い頃 か ら天 文・暦 術 に関心を持 ち、独学 で研 究 しました。
藩 に出仕 したため研究 が 出来ないため 脱藩 し来坂 します。
「先事館 」という天 文・暦 術 の宿 を開き、門人 に高橋 至 時 、
間 重富 、山片幡 桃な どが集まりました。
幕府 から改暦 のため 出仕 を命 じられ ましたが 、老齢を理 由
に辞 退 し、門人 の 高橋 至 時 、間 重 富を推挙 しました。
1松
尾 芭 蕉 墓 所 (梅 旧 院
)
天 王寺 区 夕陽丘 町 1-18
生涯 松 尾芭蕉 の顕彰 に尽 力した俳 人 不 二 庵 二 柳 (ふ じあんにりゆう)が 、朽ちていた
松尾 芭蕉 の墓を修 復 しました。そ の 横 には 自身の墓 が並んでいます 。
33
芭 蕉 堂 (梅 旧 院
天 王寺 区 夕陽丘 町 1-18
)
不 二 庵 二 柳 は 、俳諧 の低俗 化や遊 戯 化を憂 い 、芭蕉 の 精 神 に戻 り芸術性を持 たせ よう
と運 動を起 こします。天 明期 、梅 旧院 に芭蕉堂を建てました。大 正期 、朽ちてきたところ
を松瀬青 々が復元をしています。
豊 臣秀 吉 木像 安 置 の地 (珊 瑚 寺 )
戦 国武将 桑 山重 晴墓 所 (珊 瑚 寺 )
天 王寺 区 夕陽丘 町 1-21
賤 ヶ岳 の 戦 (1583)で 軍 功を挙 げた桑 山重 晴 の
書 提寺 です。
桑 山重晴 は慶 長 3年 (1598)に 出家 し、珊瑚 寺 の
本 堂を再建 して秀吉 の木像を安置 しました。
慶 長 11年 (1606)83歳 の 高 齢 で没 します。
珊瑚 寺 には五輪 塔 が建 てられました。
桑 名 藩
黒 沢 翁 満 墓 所
(珊
瑚 寺
)
天王寺 区 夕陽丘 町 1-21
桑 名藩 士として桑 名藩 大坂蔵屋敷 留守 居役 を約 10年 間
務 めました。
その間 、国学を主 とした読書 と著作 に明 け暮れ 、平 均
睡眠 時間 は2時 間だつたといわれ ています。
黒沢翁満墓
織 田作 之助 文学碑
織 田作之助 は、大正 2年 (1913)大 阪市南 区生 玉 前 町
(現 天王寺 区 上 汐町 4丁 目27)に て、仕 出屋「魚春」の
織 田鶴 吉 、たかゑ の 長 男 として生まれました。
昭和 6年 (1931)、 旧制 大 阪府 立高 津 中学校 (現 大 阪府立
高 津高等学校 )を 卒 業 し、第 三 高等 学校 文科 甲類 (現 京都
大学 教養学 部 )に 合格 しました。
「 夫婦善 哉 」を発 表 し著 名 になります 。
作 家活 動を始 め 、
の作
田作
之助
品「木 の都 」は、昭和 19年 (1944)「 新 潮」に
織
で、
た作
大 阪的庶 民気 質や大 阪人情 へ の深い
品
発 表され
共感 が 読 み 取れる作 品 です 。
文学碑 には次の ような記載 があります 。
天 王 寺 区 夕陽丘 町 5
口縄 坂 は寒 々 と木 が枯 れて、自い 風 が走 つていた。私 は石段 を下 りていきながら、もうこの坂 を登 り降 りす る
ことも当分あるまいと思 つた。青春 の回想 の甘さは終わり、新 しい現実 が私 に向き直っているように思われた。
風は木 の梢 にはげしく突 っ掛 かつていた。
作 之助「木 の都 Jよ り
口 縄 坂
天 王寺 区下寺 町 2-2、 夕陽丘 町 5
下寺町2橋 名寺の北側 から東へ のぼる坂です。口縄 とは蛇の ことであり、坂の下から眺める
と、道の起伏 が「蛇 (く ちなわ)」 に似ているところか ら、この名 が付けられたといいます。
口縄坂を登ると前記 の織 田作之助文学碑が右手にあり
『 口縄坂は寒 々と木が枯れて白い風が
走っていた…』と代表作「木の都」の小説 の一節 が刻まれています。
また、司馬遼太郎 の「燃えよ剣」では、新選組副長 の土方歳三が 口縄坂 の場面で登場 します。
下 彗 P192
:う
「へ い 、くちなわ坂 、とこのあたりではよんでいますんで」と駕篭 かきがこたえた。
なんと言う坂だ」
「べ つ におかしくもございません。坂 の上 へ のばりつ めてごらんになれ ばわかります。」
「おかしな名だな」
つ
なるほど登り めてから見おろすと、ほそい蛇 (く ちなわ)が うねるような姿をしている。
「それ でくちなわ坂 かJ歳 三 は、この土地 の 即物 的な名 前 のつ けかたがおかしか つた。
富 永 仲 基 招 魂 侶 (西 照 寺
)
天 王寺 区下寺町 2-2-45
醤 油醸 造 業「道 明寺屋 」に生まれ 、10歳 で「懐 徳 堂」に入塾 。三宅石 庵 か ら学 びます。
多くの書 物を読 破 し、師 の三 宅石庵を批判する「説 蔽」という著作を刊行 しました。
三宅石 庵 の怒 りを買 い 、富永 仲基 は懐 徳堂を破 門され ます。
その 後 は独 学でますます学 問を勉 強 しました。
やがて、人の倫 理 の基範 である仏教・儒 学・神 道を
激 しく批判する「 出定後語 」を出版 します。
後 に本居 宣 長 はこの「 出定後語 」を高 く評価 したといわれ ます。
しか し、35歳 の若さでこの世を去 りました。
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