Title Author(s) Citation Issue Date URL 近代の遊園地に投影された洋館への憧憬近代の遊園地に 投影された洋館への憧憬 : ひろば 安野, 彰 すまいろん 84 (2007-00) pp.45-47 2007 http://hdl.handle.net/10457/994 Rights http://dspace.bunka.ac.jp/dspace お屋敷に遊ぶ 奥に異国の建築を構えるという空間構 相場で、四周を塀などで固まれた敷地 か モ ダ ン ・ デ ザ イ ンと い う の が 当 時 の 設の顔となる建物は、西洋の様式建築 名所的空間をベ l スにする一方、施 いているという形式が少なくなかった。 の周 囲 を 庭 園 や そ の 他 の 設 備 が 取 り 巻 要な施設は中央に州える建築物で、そ 遊園地であったともいえる。圏内の主 地内に再構成されたのが、近代日本の れ親しんだ遊びの場として、ニ疋の敷 すなわち、江戸名所的な行楽地が、慣 策、食事、観劇、入浴などを楽しんだ。 場 や 温泉 場 の 建 物 の 詳 細 は 不 明 で 、 洋 が 、 新 た に 普 請さ れ た か も しれ な い 劇 に、美しい庭園があったためとされる め る こ と が で き た のは、 も と も と こ こ 称が使われたそうだ。多くの遊客を集 ことから、﹁ツノカミ温泉﹂という呼 が 開 設 さ れ た 。 摂 津 の 守 の 屋 敷だ っ た のの、桐長座という劇場や人造温泉場 屋 敷 は 、 そ の 大半 が 町 屋 に 替 わ っ た も もあった。美山高須藩松平氏の四川︿口上 な か に は 、 娯 楽 施設 に 転 用 さ れ るもの 所となったり、農地化されたりしたが、 く。官軍側の要職に就いた人びとの居 めた 武 家 屋 敷 は 、 そ の 用途 を 変 え て い 運動場、競 広間、室外 縦覧室、大 内外諸新聞 館、報告室、 諸機械模固 気機械館、 陳列館、蒸 には、商品 部 ﹂ の圏 内 園商業倶楽 し た ﹁借楽 今宮に開場 年、大阪の ここで着目したいのは、お屋敷の地 られ、物品 茶庖が設け し 屋 でる は洋 ?豊 富 とを えわ .よ前払 . WHtq 内 川 川川剛 山 品 川 ・ 列 合 JM4・ 回 目 1 e. . uw jh h w v ﹂司 . 九 4・ t h-u " . ι u 刊 川唱 時 噌 ・ 可・ m4 d 仙川 ,h 人 町!川 ド 内リ川 ι山tmt 何 r巾 2 4 仏 代 H 山竹 山 山川 門川 , ・ 一 冊, . 一円品 川川町 ・ 円 pi mu 一 円 九 時針山 z .H V E4 町喝 A r -J ・・ ip-t 川い伽仲 川知 . .t ・ m仲 川u 17日 fム -h .小山. m V A 一 川 向 J1m 川 川町九 ・ N 円 、 ,, l・“ tEdEa = ・ ・ ・ ・ 山 口一 一九 川、・ . .. ・.・・ ・ 円4 i川' ト .. u ・円・ H J' CLY附 Z 高ま 批句集園 た敷 のた 遊園地に投影された洋館への憧憶 戦前まで、多くの遊園地は、現代の ようにライド・マシンがひしめく場所 成を見ると、遊園地と明治以降のお屋 風建築であったかはわからない。その 馬場、遊園、 維新を経て後、江戸市中の多くを占 敷としての洋館は相似の関係にあった。 後 は 、 庭 も 温 泉 劇 場 も 取 り壊され、 芸 本州安 1 、浴一宮ヰ、 ではなかった。人びとは、圏内での散 すなわち、当時の遊園地に投影され 妓の巣窟になって、大正初頭には跡形 小亭、割烹、 ら、当時の社会において、洋館のイメ 所が娯楽場に変わっているところであ の陳列、情 な ど に 利 用 さ れ る 予 定だ っ た 。 こ れ ら は、倶楽部という名称の示すとおり、 咽 語、;ι11ぺ-己三ニニι一. . 長京存;w三三n " ' 1・ 日I l I l i i i h i h i l l l ニ. 明治二 二 た も う ひ と つの 原 風 景 と し て 、 洋 館 を も笹山状態であったとされ る 。 ージ や 憧 憶 が 、 住 宅 と い う 枠 を 超 え て る 。 遡 れ ば 、 江 戸期 に は 、 大 名 庭 園 が 報収集、懇 捉え得る。ここでは、そうした視点か 機能し、強い意味を持っていたことを 庶民に解放されることもあった。こう 例示したい。 談会や会合 図-1 {皆楽園商業倶楽部 地以 した経験を下敷きに、自然な成り行き I t 1 ' し t "' が降 出 の 現お f~ てせで くる る遊明 。園 治 早ノ :D:.~ ﹁洋 館 あ り 和 屋 あ り 舞 台 あ り 小 亭 あ 園した﹁宝 塚新温泉﹂においては、社 小林 二 こが主 導 し 、 明 治 四 四 年 に 開 しめく旧温泉の対岸に、ルネサンス風 ていた。新温泉が、この和風建築がひ 漏 れ ず 武 庫 川 右 岸 の温泉 に 花 街 を 擁 し で賑わ いを 増して いた宝塚も、例外に 三O年 の阪鶴鉄 道 (今の J R線 ) 開通 換期に生まれた遊園地であった。明治 ﹁宝塚新温泉﹂は そ う した 時 代 の転 のであろう。 公衆浴場のなかでも極めて先駆的なも りの床や壁、シャワー設備は、当時の を 迎 え 入 れ る よ う に な っ て い た 。 石張 天井も高く、豊かな空間が多くの浴客 ザインされ、二疋の質を保っていた。 テ リ ア も 、 し な や か な 曲 線 を 基 調 にデ 室、休憩室、ビリヤード場などのイン え ば 誰 で も 使 用 が 可能 とされ、また、 明治末頃の娯楽といえば、まだまだ 略のひとつであったと考えられる。同 新しい大衆の存在を見据えた小林の戦 調とした少女歌劇を公演することにな 降、ここで、唱歌などの西洋音楽を基 パ ラ ダ イ ス が 新 設 さ れ る 。 大正三年以 新温泉開設の翌年七月には、娯楽館 三二年発行 の ﹃ 南 海鉄道案内﹄に、 屋にて、諸産物をひきがせ、勧商場 男性中心で、温泉地においても花街を 時に、男性中心の娯楽文化に対峠し、 大正以降の遊園地と洋館 魅力をどこかに意識されて存在したの り 、 山を築き池を掘り樹を植ゑ爆を 会状況が変化した結果、それまでとは の木造洋館として建設されたのは、 西 会員の利用に供するものとされたが、 落とし橋を架け、鳥を放ち、魚を養 少し 違 っ た 意 味 が 加 わ っ て 、 洋 と 和 の 洋文化を理解し享受することができる ではないだ ろ う か ? ひ 、 料 亭 あ り 茶 舗 あ り温 泉 あ り、和 対比が意識的に用いられた。 明 治 二 八 年 の記 述 で は 、 入 場 料 さ え 払 洋折衷の一大別業。始めは圏内の長 の 体 裁 で し た が 、 今 は そ れ を 止 めて、 介した遊びが核を成し、子供や女性が る。建物は、 ゴ シ ッ ク 教 会 の よ う な 全 た だ 遊 園 一 方 となり、 二銭 の入場 賃 新しい時代を担う象徴として、女性と 客として楽しむ場は限られていた。 不特定多数の利用する遊園地として認 と記されているように、この頃には、 大正時代に大衆文化が開花するのもこ 会に浸透しつつあったのもこの頃で、 習う西洋音楽や椅子での生活が広く社 面 有 馬 電 気 軌 道 ( 現 阪 急 電 車 ) の終点 ける装置として、新温泉の洋館は、箕 伴った憧れを受け止め、彼らを魅き付 上流層 の住まう西洋館への親近感を ション,ホ ール と称するパ ー テ ィ 会 場 後 は 、 パ ラ ダ イ ス 新 館 と し て 、レセプ 階の洋風建築が新設されている。その 大 正 二年 の 婦 人 博 覧 会 の 際 に 、 木 造 二 一 を取て、八ム衆の遊び場に供へてあり 体形で、アール・ヌーボー調の意匠が 方で、就学率が九割を超え、小学校で 子 ど も が 持 ち 上 げられた。 ます。﹂ 識されて いた。 冒頭に ある ﹁洋館﹂は 、 のような下地が形成されていたためで に忽然と姿を現した。浴室、婦人化粧 施 されていた。また、これに接続して 、 五層 の洋 風 楼 で 、 周 囲 を 塀 で因 わ れ た ある。 と図書室に充てられた。 敷地 の高 台 に 配 さ れ 、 本 部 と し て 機 能 していた。全体として、明治のお屋敷 主な娯楽で、そうした点では、他の遊 当 初 の 新 温泉は、 入 浴 や 観 劇 な ど が なお、同時代、 神 戸 和 田 岬 に あ っ た 園地に際立つわけではない。新式の娯 型の構成を採っていたことがわかる。 ﹁和楽園﹂も、眺望閣という洋風 三 層 があった。言い換えれば、人びとは、 う場所の杢気を 醸 すという重要な役割 しむ新しい世代を象徴し、遊園地とい 存 の 娯 楽 施 設 と の 差 異 や 洋 風 文化 に 親 た西 洋 館 に は 、 少 女 歌 劇 と と も に 、 既 置 かれていた。それだけに 、建設され 匠面、演劇の質における刷新に力点が 楽を 導 入 す る よ り も 、 浴 場 の 仕 様 や 意 いにせよ、 当 時 の遊 園地は 、 こ う し た して振る舞えたのである。全てではな 迎えられ、お屋敷としての洋館の客と ぐ り 、 庭 園 を 横 目 にやがて 洋 風 建 築 に な い が 、 彼 ら は 、 塀 に 穿 た れ た 門を く 遊 園 地 利 用者 の声を 聞 く こ と は で き 構成であった。 楼を中央に配し、﹁借楽園﹂と同様の 図-2 宝塚新温泉休憩室 る 。 ミ 詩 ことがで モダニズムであ 人 らない。しか いると、どうも、 ム ス ふとつい 気を私自身が感じて あるとい でいる。 ぃ、つ蕗洋 ﹂めているのこれも、キャラクターと -一ブンヒ﹂が多くの人 にしている一東京ディズニー そんな中、 シンデレ c
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