魔法の言霊力を生み出す「気」のレッスン

人生が 100 倍楽しくなる
言霊マスターへの道
魔法の言霊力を生み出す「気」のレッスン
ありのまーさ
著
言霊と「気」には、密接な関係があります。
言霊学の本はたくさんありますが、「学」ではなく「力」!
実際に、あなたの仕事に、健康に、人間関係に、恋愛に、人生に、
活かせる「力」でなければ意味がないのです。
そんな力を持った言霊を使いこなす秘密を明かした初めての本!!
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はじめに
~言霊って何だろう~
皆さんも、言霊というワードを、一度は、耳にしたことがあるでしょう。
そういえば、サザンオールスターズの「愛の言霊」という大ヒット曲もありま
した。
いったい、言霊とは何なのでしょうか?
そもそも、言霊の「霊」とは…。
たとえば、
「元気出せよ」という同じ言葉でも、言う人によって、元気がムクム
ク湧き上がってくるときと、そうでもないときがあるでしょう。
「バカ」という言葉も、仕事でヘマして上司に言われる「バカ」はグサッと心
に突き刺さるでしょうが、付き合って間もない恋人同士がじゃれ合って言う
「バカ」は嬉しくなるでしょう(笑)。
つまり、言霊の奥にある何かが大切なのです。
その何かを「霊」と言います。
江戸末期の宗教家で、黒住宗忠という人がいました。
彼は、言霊の力で、数えきれない多くの人の病を治し、死者さえも、三度、
生き返らせたという驚くべき逸話の持ち主です。
「そんなバカな・・・」と思われるかもしれませんが、彼の言行録を読むと、
彼の言霊の力は本物であったと思わざるをえないのです。
といっても、宗忠公を知らない人が多いと思いますから、彼の人柄をよく表わ
すエピソードを、ふたつ紹介したいと思います。
(エピソード1)
三、四才の時、ある雨上がりの日に、外に出ようとした。すると、父の宗繁が
言った。
「まだ雨上がりで道が悪いから、高いゲタをはいていきなさいよ」
「はい、わかりました」
宗忠は素直に答えて、ゲタに履き替えて家を出ようとした。すると今度は、ゲ
タ姿を見た母親が言った。
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「もう、外はかわいていますよ。あぶないから、草履をはいてお行き」
父親と母親が反対のことを言ったものだから、宗忠はいろいろ考えあぐねて、
結局ゲタと草履を片方ずつはいた妙ちくりんな格好で出かけた。
(エピソード2)
ある年の宗忠の家での節分の豆まきの時のことです。
奥様が、初めのうちは「福は内、鬼は外」とやっていたのですが、いつの間に
か「福は外、鬼は内」に変わっていました。
それを自分の居間で聞いていた宗忠は、奥様が無事に豆まきが終わったことを
報告に来た時に言いました。
「これでほんとうに春が来る。めでたいのう。めでたいと言えば、今年の豆ま
きは格別にめでたかった」と。
奥様は
「あのう……いつものとおりにいたしましたので別に変ったこともないと思い
ますが……」
「いや、いや、大いに変わっていた。それで格別にありがたいと思ったのだ。
始めのうちはね、いつものとおり『福は内、鬼は外』とやっていたがね、それ
が後になるといつの間にか反対になって『鬼は内、福は外』としきりにやって
いたよ。ハ、ハ、ハ、いや、そこが面白いところだ。そこがありがたいんだよ」
「まあ、そうでございましたか。全く気がつきませんでした。では、もう一度
やり直しましょう」
「いや、いや、やり直しどころではない。そのまちがったところがありがたい
んだ。まあ、考えてもみなさい。今夜どこの家でも鬼やらいで豆まきをやって
いるが、鬼の身になってみるとたまったものではない。どこからもかしこから
も追い出されて、どこにも居り場がない。一軒ぐらいは『鬼は内』と言って呼
び入れてやる家もあっていいわけだ。それにまた、どこにもどこにも欲張って
『福は内』
『福は内』と福を取り入れようとしているが、それではせっかくの福
も少なくなってしまって、どの家へもホンの少ししか来ぬことになろう。これ
も一軒ぐらいは『福は外』と、福をよその家へゆずるうちもあってもいいでは
ないか。
そこで、お前が、しきりに『福は外、鬼は内』
『福は外、鬼は内』とやったのは、
あれはよかった。全くよかった。ほんとうに今夜の豆まきは、格別にありがた
かったよ。
ついてはね、あれを聞きながら一首浮かんだが、どうであろう。
鬼追わず福を求めず我はただ
追われし鬼を福にみちびく
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心配はない。もし鬼が家に入ってくるならその鬼を福にしてやるわい。ハッハ
ッハァ……」
(黒住宗忠に学ぶ生き方 山田敏雄)
まるで良寛さんを彷彿とさせる人柄で、春の陽射しのように、身も心もポカポ
カと暖かくなってきませんか…。
宗教家くさいところが全くなく、善も悪も包み込んでしまう大地のような大ら
かさと、太陽のような陽気さが、宗忠公にはありました。
奥さんもまた、天然の癒し系ですね…(笑)。
僕は、そんな宗忠公が大好きです。
ある日、京都の吉田神社(映画『鴨川ホルモー』の撮影にも使われた神社です。
山田孝之、栗山千明、濱田岳が、いい味出してます。すごく笑えます)近くの、
宗忠神社に(孝明天皇の勅願所ともなった神社です)、お参りした時のことです。
その帰り道、突然、インスピレーションを得て、一瞬ですべてを悟りました。
言葉を言霊とする秘密を……。
その鍵こそ、宗忠公の言う「まるい心」だったのです。
~「まるい心」と「まるい体」~
前著「幸せ体質になる!『気』のプライベートレッスン」に登場する太極拳の
老師は、それを「まるい体」と表現しました。
実は、宗忠公も体をとても重視していました。
なぜなら、心と体はひとつだからです。
以前、僕は仕事上の悩みを抱え、顎関節症になってしまったことがあります。
その原因について、老師は次のように言いました。
「歯を食いしばって頑張っているうちに、知らず知らず、顎の筋肉を緊張させ
てしまったのだよ。『借金で首がまわらない』というのも、お金のストレスが、
首の筋肉を緊張させてしまうからだ。
『悲しみで胸が張り裂けそう』となるのも、
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ゆるんだ胸の筋肉は、呼吸に合わせて柔軟にふくらんだり縮んだりするが、悲
しみのあまり、胸の柔軟性が失われたがために、張り裂けそうな感じがするの
だよ」
このように、心と体には、切っても切れない関係があるのです。
つまり、まるい心と体になったとき、言葉は言霊となります。
言霊の「霊」とは、「玉」「珠」「球」のことでもあったのです。
まるい心と体と言っても、なかなか理解しづらいと思います。
だから、まるい心と体のお手本として、七福神の布袋和尚をイメージしてもら
うといいかもしれません。にこやかなお顔で心がまるい感じがするでしょう。
体もふくよかで、まるまるしています。
しかし、まるい体と言っても、メタボというわけではありません(笑)。
ゆるんだ柔らかい体と心を、私たちはまるいと感じるのです。
そこに、生命エネルギーが満ち満ちて、円満となり、まるい感じがしてくるの
です。
赤ちゃんの心と体もゆるんで柔らかく、生命エネルギーにあふれています。
そのことを的確に表現した文章が、高史明さんと田口ランディさんの本にあり
ますので、紹介します。
「無心な赤ん坊の笑顔の前では、何人も思わず微笑んでしまわざるを得ない
のは、なぜであろうか。その天真爛漫な笑顔は、人が近親者の死という悲しみ
のどん底にあるときでさえ、悲しみは悲しみのままに、その人の全身に優しい
安らぎを押し広げずにはおかないのである。無心のみどり児のもつその優しさ
とは、いったい何であろうか」(『いのちの優しさ』高史明 ちくま文庫)
「赤ちゃんはとにかく生きようとする。その力はすごい。赤ちゃんはぎゃあ
ぎゃあ泣いて、お乳をほしがって、うぱうぱ飲んで、寝て、うんこして、命綱
のお母さんの顔を懸命に覚えて、とにかく必死で生きようとしている。その
生きようとする力に大人は呆然とさせられる。感動してしまう。だからそれを
見せつけられたとき、大人はもう赤ちゃんの奴隷になって、育てている。
だから、どれくらい生きたがって泣き叫んだか、掌に乗るくらいの大きさ
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なのにただ生きるためだけにこんなにも必死だったこと、そういうことが
どれほど『世界を明るくしたか』を、あとで子どもにちゃんと伝えておくんだ」
(『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』田口ランディ 晶文社)
どんなに私たちは赤ちゃんに癒されていることでしょうか・・・。
この世に赤ちゃんという存在がなければ、どんなに世の中は冷たく、悲しく、
乾ききったものになっていたことでしょうか・・・。
みどり児を見て本能的に私たちが慈しんでしまうのも、みどり児の持ついのち
の力強さ、優しさ、みずみずしさこそ、どんなことがあっても私たちが大切に
したいものだからに違いありません。
出会いを求めている老若男女も、何人も思わず微笑んでしまわざるを得ない、
みどり児のような優しい安らぎにあふれていれば、周囲の異性は放って
おかないでしょう。
人間関係に悩むOLやサラリーマンも、大人を奴隷にしてしまうほどの、
赤ちゃんのようなバイタリティがあれば、逆に、相手が振り回されてしまう
でしょう(振り回されながら、相手は感動してしまう 笑)。
どんなに年をとっても、少女のようなかわいらしさ、少年のような目の輝きを
失わないことでしょう。
そんな生命エネルギーあふれる人の話す言葉が言霊なのです。
赤ちゃんのオギャー、オギャーの泣き声で、奴隷のように親を子育てさせてし
まう言霊の実現力。
赤ちゃんのキャッ、キャッという笑い声で、そんな子育ての疲れも一瞬で吹き
飛ばし、幸せな気分にしてしまう魔法の言霊力。
そんな赤ちゃんには、生命エネルギーがあふれています。
言霊の「霊」とは、生命エネルギーのこと、それを「気」とも言います。
赤ちゃんのようなまるい心と体から、生命エネルギーはあふれ出すのです。
その生命エネルギーが魔法の言霊力をもたらします。
老子の言葉にも「気を専らにし、柔を致し、よく嬰児たらんか(赤ちゃんのよ
うに心身を柔らかくし、赤ちゃんのように生命エネルギーを高めなさい)」とあ
るのは、このことです。
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それでは、さっそく、まるい心と体となって、魔法の言霊力を手に入れる秘訣
を、宗忠公の足跡に触れながら、お話ししていきましょう。
言霊の幸わう国・日本の復活を願って…。
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第一章
あら嬉し かかる嬉しき
世を知らず
今まで惜しき 世を送りける
~まるい心はお日さまの心~
宗忠公は、
「まるい心はお日さまの心だ」と言いました(太陽と言うと、どこか
物質的な感じがします。でも、お日さま、お天道さまと言うと、太陽の心につ
ながります)。
宗忠公 33 歳のとき、一週間のうちに、続けて両親を亡くすという不幸に襲われ
ました。
その悲しみは筆舌に尽くしがたく、とうとう悲しみのあまり病気を患い、
「余命
わずか」と、医者にも断言されてしまいました。
そのとき、突如として、宗忠公は思い改めたのです。
「このように不甲斐ない、今の自分の姿を両親が見たら、どんなに悲しむこと
だろう。自分はとんでもない親不孝をしていたものだ。悲しみのあまり陰気と
なり、病気になったなら、今度は、その逆をすればよいはずだ。日々、面白く
生きて、心に陽気を養えば、病気は自然と治るに違いない」と。
それから、宗忠公の病気は、回復の兆しを見せ始めました。
その年の冬至の朝のこと…。
昇る朝日を見つめていると、突然、お日さまから光の玉が、宗忠公に飛び込ん
できて、お日さまと一体となる不思議な体験をしたのです。
その瞬間、不思議なことに、宗忠公の病気も消え去っていました(奇しくも、
冬至の日の出の時刻が、宗忠公の誕生日です。冬至は一年で最も日の短い日で
す。その陰極まった日に昇るお日さまの光は、一年の中で最もパワーあるもの
だと言い伝えられています。だから、冬至には、ゆずを冬至の朝日に見立てた
ゆず湯に入り、一年の無病息災を願うのです)。
そして、彼の全身(全心)は、ありがたさと嬉しさと悦びに満たされました。
そのときの心境を、宗忠公は次のように語っています。
「笛を吹いたり、琴や三味線を弾いたり、金や太鼓を打ち鳴らして歌い、踊っ
たりしても、この喜びはとても表現しきれるものではなく、たとえようのない
ほどのものである。このようなつらい世の中に生きている自分の身に、楽しい
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ことなどは一つとしてないのに、どうしてこんなにも嬉しく、楽しい心になり
変わったのであろうかと、われながらあきれてしまった。それからは、何を見、
何を聞いてもみな面白く思われて、ものごとの道理すじみちがみなよくわかり、
真昼に白と黒を見分けるように、少しも間違うことがない。まるで碁石の白い
のと黒いのを引き分けるようである」と。
(黒住宗忠に学ぶ生き方 山田敏雄)
さて、宗忠公は「まるい心はお日様の心だ」と言いましたが、そのお日さまの
心とはどんなものなのでしょうか?
それは、お日さまの暖かい光に接したとき、誰もが感じるもの…。
そのとき、全身にこみあげてくるものです。
「アンパンマン」の作者の、やなせたかしさんが作詞した「手のひらを太陽に」
は、そんなお日さまの心にあふれています。
「手のひらを太陽に」
作詞やなせたかし
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから うれしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
トンボだって カエルだって
ミツバチだって
みんな みんな生きているんだ
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作曲いずみたく
友だちなんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから おどるんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 愛するんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
スズメだって イナゴだって
カゲロウだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
人間だけじゃない、生きとし生けるもの全てを生かし、育もうとするお日さま
の心。だから、みんな友達…。
この歌には、そんな生命の悦びと楽しさ、嬉しさがあふれています。
感受性豊かな、やなせたかしさんだからこそ、このような歌詞を書けたのだと
思います。
それが、お日さまの心なのです。
~ありがたい心、面白い心、嬉しい心~
そんなお日さまの心を、宗忠公は「ありがたい心」
「面白い心」
「嬉しい心」と、
分かりやすく表現しました。
でも、人生、ありがたい、面白い、嬉しいことばかりではなく、つらいこと、
悲しいこと、苦しいことだって、たくさんあるはずです。
とても、とても、
「ありがたい心」
「面白い心」
「嬉しい心」ばかりで、毎日を過
ごすなんて、私たちには不可能ではないでしょうか?
その疑問について、宗忠公は次のように言っています(まず、宗忠公の気がみ
なぎる、そのままの文章を載せ、次に口語の意訳を載せます)。
「道は満つるなり。天照太神の御分身のみちてかけぬようあそばさるべく候。
人は陽気ゆるむといん気つよるなり。いんきかつ時は穢なり。けがれは気かれ
にて太陽の気をからすなり。そこから種々いろいろの事出来するなり。何事も
有りがたい有りがたいにて日をおくりなされ候えば残らず有りがたいに相成り
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申すべきなり。申し上げるまでもござなく候えどもこれまで有りがたい事ばか
りの御身の上ござ候えば少しもご油断なさるまじく候。
時にご一笑
何事も有りがたいにて世にすめば
むかうものごと有りがたいなり
善悪ともに有りがたいとおもえ時々事々に有がたいなり。元来この世に生まれ
来るをよくよく考え候えば皆かたちは難有が形のもちまえなり。しかし、我が
修行は難をなんとおもわぬが我がしゅぎょうなり。さすれば苦になる事なし。
くにならぬ時はあとは楽しみばかりなり。さようなる心は道より外になし。そ
れゆえ。道に心住む時は大安心なり。いわずして心一つにて楽しみはかって次
第なり」(文一四三号)
口語の意訳
「(お日さまの心で生きる)道は、満ちるということです。お日さまの陽気が満
ちて、欠けぬようにしてください。人は陽気が弱ると、陰気が強くなるもので
す。陰気が陽気よりも強くなることを、穢れと言います。穢れは、気(生命エ
ネルギー)が枯れるということで、お日さまの気を枯らすということです。そ
こから、種々いろいろの悩み、苦しみ、葛藤が生まれてくるのです。だから、
何事につけても、ありがたい、ありがたいと言って毎日を過ごせば、すべてが、
ありがたいことになるものなのです。これまで、ありがたいことばかりのあな
たであったということは、言うまでもない真実です。今後も、少しも油断なき
よう、日々、ありがたいことばかりであるあなたであることを、忘れぬように
してください。
ここで一首、笑える歌を。
何事につけても、ありがたいと思って生きたならば
あなたの前に現れる出来事すべてが、ありがたいとなるのですよ
善いことも、悪いことも、どんなことも、ありがたいと思えるようになれば、
そのすべてが、ありがたいとなります。元来、この世に生まれてきたことを、
よくよく考えてみれば、肉体という形をもって生まれてきた人間にとって、困
難があるのが当たり前のことなのです(お釈迦さまは、それを、『生老病死苦』
と言いました。この『苦』とは、自分の思い通りにならないことという意味で
す。もっとお金持ちの家に生まれたかった、他の国や時代に生まれたかったと
言っても、生まれてきてしまったものは、どうにもなりません。同じように、
老いること、病気になること、死ぬことも、どうにもならないことです)。しか
し、我が修行は、困難を困難と思わぬ自分となること、その一点につきる修行
なのです。困難さえ、ありがたく思える自分となれば、世の中、苦になること
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はありません。苦になることがなければ、あとは、楽しみばかりになります。
そのような心は、お日さまの心で生きる道より他にありません。ですから、お
日さまの心で生きる道は、大安心なのです。心の用い方ひとつで、自由自在に、
どんなことも楽しみとなるのです」
~補足~
「手のひらを太陽に」の 2 番の歌詞に、
「生きているからかなしいんだ」とあり
ますが、この悲しみは、なぜか美しく、すがすがしい感じがします。
お日さまの心は、人のあらゆる情感を清らかにしてくれるのですね…。
宗忠公の言葉にも、次のようなものがあります。
「親が死に、子が死ぬる―そういう時に悲しみ嘆くは、人情の自然であります。
人情のないものは人間ではありません。
この間も、さる人が、―親が死んでもお道修行(筆者註 お日さまの心で生き
る道)のおかげで、涙一滴もこぼさなかったと、自慢されたということを聞き
まして、さてさて困ったもの!そんな聞き違いがあっては困る。私はそういう
道は説いた覚えがないがと申したことです。
人情のない人、人情の薄い人には、真のありがたさもわかりません。わかろう
はずはありません。草のよくはえるくらいの田地でなけねば、米麦もよくは出
来ません。全くのやせ地には雑草も茂りませんが、肝心な作物も出来ません。
ただ肝要なことは、人情深くして、しかもその人情に迷わぬことです。
ちょっとむずかしいようでもありますが、そこが真のお道の修行です。……」
(教祖様の御逸話 黒住教日新社)
~どうしてこうも人生は思いどおりでないのでしょうか?~
困難を困難と思わぬこと、どんなこともありがたいと思うことが大切と言われ
ても、なかなか実践しづらいことです。
日々、予期せず、自分の望まない大小のことが、起こってしまうのが人生です
から…。
だから、どうしてこうも人生は思い通りでないのかを、まず、考えてみたいの
です。
そのことが、何でもありがたいと素直に思える自分であるために、不可欠な知
識となるはずです。
そこで、みなさんに実験してほしいことがあります!
今から 1 分間、言葉を使わずに、何でもいいから考えてみてください。
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あるいは、思ってみてください。
言葉をいっさい使わずに…です。
どうだったでしょうか(笑)?
「そんなことは不可能だよ」と、言葉で考えてしまったでしょう。
「あれっ、おかしいな」と、言葉で思ってしまったでしょう。
それとも、ボーッとしてしまったでしょうか…。
つまり、言葉を使うことなしに、私たちは、考えることも、思うこともできな
いのです。
その理由は簡単です。
言葉を使わないとき、「自分」という意識も消えてしまうからです。
「自分」が無ければ、考えることも、思うこともできないのは、当然でしょう。
そして、「自分」という言葉をモノにしたとき、「自分」という意識は芽生えた
のです。
「自分」という言葉をモノにするということは、
「自分」と「自分以外」を「分
ける」ということ。
「分ける」ことによって、私たちは「分かる」のです。
ヘレン・ケラーは、幼いときの病気が原因で、見えない、聞こえない、しゃべ
れないの三重苦の障害を負っていました。
しかし、そんな彼女に、家庭教師のサリバン先生は、言葉を教えます。
ある日、サリバン先生は、庭にあった水道の蛇口をひねって、勢いよく水を出
し、そこに嫌がるヘレン・ケラーを連れてきて、彼女の体を押しつけました。
そして、彼女の手のひらに「WATER」という文字を繰り返し書いたのです。
その瞬間、彼女はハッと気づきました。
世界が「WATER」と「NOT WATER」に分かれることに…。
つまり、
「分ける」ことで、彼女は「水」と「水でないもの」を理解したのです。
「理解」という言葉は、「理」と「解」から成り立っています。
「解」とは、
「角」と「刀」と「牛」を組み合わせた漢字で、刀で牛の体をバラ
バラに分解することを表しています。
つまり、「理解」の「解」も「分ける」という意味なのです。
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だから、「言葉」も、言の「葉」と書くのです。
「葉」は、芽が出て、双葉となり、そこから、たくさんの葉っぱに分かれてい
きます。
「は」と読む漢字を、思い浮かべてみてください。
「破」はビリビリと破って分ける、「刃」はスパッと切って分ける、「歯」は噛
み砕いて分ける、「派」はひとつの源から分かれ出るという意味です。
どの漢字も、「分ける」という意味を含んでいます。
実は、人生が思いどおりでない、すべての原因も、そこにあるのです。
私たちが、大小、善悪、美醜、好き嫌い、長短…etc と、世界を分けてしまった
から…。
分けることにより、「境界線」が生じるのです。
「境界線」についての詳細は、前著「太極拳老師が教える『気』のプライベー
ト・レッスン」に譲りますが、かいつまんで説明しますと…。
たとえば、国と国の間に国境という境界線を作り出してしまうから、境界線を
めぐって、政治、経済、軍事などの争いが生まれます。
自分と他人という境界線を作り出してしまうから、人間関係の葛藤も生まれま
す。夢や目標の実現を願ったときにも、
「将来の理想的な自分」と「現在の未熟
な自分」という境界線を心に作り出してしまいます。
そのため、いつも満たされない気持ちや焦りに悩まされることにもなるのです。
だから、禅のお坊さんは、「好き嫌いをなくせ」「選り好みをするな」と教えた
りします。
でも、言葉を使うことが、境界線を作り出すことなのです。
すでに、苦楽、好き嫌い、などという言葉を私たちは知り、境界線を作り出し
てしまった以上、苦しいより楽しい方を選び、嫌いより好きの方を選ぶのは、
当たり前のことではないでしょうか?
それなのに、「好き嫌いをなくせ」「選り好みをするな」なんて…。
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~言葉を言霊にするサトリ~
でも、言霊の「霊」は、「玉」「珠」「球」なのです。
球体の太極マークをイメージしてみてください。
黒と白の二匹の陰陽魚(太極マークの中にある勾玉の形をした部分です)が、
中心に向かって渦巻いて、ひとつの球体を形づくっていて、二つでありながら、
ひとつとなっています。
その二匹の陰陽魚を中心に引きつける力、ひとつに融合させる力が、宗忠公の
言う「ありがたい心」「面白い心」「嬉しい心」なのです。
その力に触れたとき、そのような思いが、私たちにフツフツと湧き出てくると
も言えるでしょう。
このことは、道元禅師の言う「身心脱落」を体験していけば、誰もが全身(心)
で実感することだと思います(身心脱落については、本書の後半で)。
この力を「いのち」とも言います。
「いのち」の中心には、生きとし生けるもの全てを生かし、育もうとするお日
さまの心、大地の心があります。
その「いのち」の中心につながったとき、「ありがたいなぁ」「嬉しいなぁ」
「楽しいなぁ」という思い、そんな「いのち」の輝き、悦び、優しさに、私た
ちの全身(心)は満たされるのです。
よく、禅宗のお坊さんは「生まれる前の自分を見よ」とか言います。
「いったい、生まれる前の自分って…」と思うでしょう。
でも、よく考えてみてください。
「わたし」という意識が芽生える前から、「わたし」は生きてきたのです。
「わたし」という意識がなくても、「わたし」はちゃんと生きていたのです。
「わたし」という意識が芽生える前の、「わたし」を生かし続けていたもの…
それが「いのち」なのです。
その「いのち」が、今も「わたし」を生かし続けているのです。
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それなのに、「いのち」の上に芽生えただけの、小さな「わたし」という意識
は、自分の力だけで生きてるつもりになって、「わたし」を支える「いのち」
の尊さ、ありがたさも忘れて、「自分は何の取り柄もない人間だ」なんて、バ
カなことを考えてしまったりするのです。
つまり、「生まれる前の自分を見よ」とは、「いのち」の発見です。
その真実に気づいたとき、安心立命も得られるのです。
だから、宗忠公は、「我が修行は、何でもありがたいと思える自分となること
だけだ」と言うのです。
なぜかというと、そのとき、私たちはストレートに、「いのち」の中心につな
がることができるからです。
その「何でもありがたい」という思いは、相対的な世界を超えているのです。
善悪、苦楽、悲喜…と、二つに分かれる前の「ありがたい」なのです。
だって、普通はまったくありがたくない困難なことでさえ、「ありがたい」と
思えるのです。「ありがたくない」「ありがたい」の世界を超えてないと、と
てもこうは思えないことでしょう。
分け隔てなく、万物いっさいを育む「いのち」の中心につながるからこそ、す
べてがひとつとなり、相対の世界を超えることもできるのです。
なんと、宗忠公の言う「ありがたい」「面白い」「嬉しい」は、相対の世界が
生まれる前の「ありがたい」「面白い」「嬉しい」だったのです。
「いのち」の中心につながったときの、「ありがたい」「面白い」「嬉しい」
だったのです…。
そして、何でもありがたいと思える自分となり、「いのち」の中心につながる
ためには、三つのアプローチ方法があります。
そのひとつが、実は、悟りと呼ばれるものなのです。
悟りは「差取り」だと、よく言われますが、何の差を取るかと言えば、「わた
し」と「いのち」の中心との差を取るのです。
そして、「いのち」の中心と、直に、つながるということなのです。
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それを、素直とも言います(素直の「素」は、「主」と「糸」を組み合わせた
漢字です。「主」とは「いのち」の中心、ここから糸がまっすぐ垂れ下がった
状態が「素」です)。
悟りとは、どこか遠くにあって追い求めていくもの、悟ることは難しいものだ
と思うでしょう。
でも、悟りとは求めるものではないのです。
今すぐ、日常生活に活かせなければ、意味のないものなのです。
ズバリ、悟りとは、最高に自分に都合よく考えることです(笑)。
その悟りが、真実かどうかは、まったく関係ありません。
たとえば、飽きっぽいということは、逆に言えば、好奇心旺盛でいろんなこと
に興味を持ってしまう素晴らしい性格と言えます。
傷つきやすいということは、実は、感受性が豊かなことだと言えるでしょう。
このように、とにかく自分さえ納得できて、ハッピーになれたら、オッケーな
ものが悟りなのです(笑)。
「ありがたい」「楽しい」「面白い」となるように、自分の考え方、ものごと
の見方を、工夫するのです。
いつも自分がベストコンディションでいられるよう、無理やりにでも、ひねり
だしていくものが、悟りなのです。
とはいっても、なかなかイメージも湧きにくいでしょうから、悟り方の達人、
宗教家の湯川安太郎先生のエピソードを、現代風にアレンジして紹介したいと
思います。
ある年のことです。
ある人が「先生、家主が替わりまして、これまで 10 万円だった家賃を、いっぺ
んに倍にあげて、20 万円にすると言うのです。どうしたらいいのでしょうか?
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今でもやっていきにくいのに、このうえ家賃が倍になってしまったら…」と言
って、相談にきました。
「やっていけないと言うのだろうが、やっていけるように神さまにお願いした
らいいじゃないか。何のために信心させて頂いてるのだ」
「ですから、家主が家賃をもう少しまけてくれますように、先生からも神さま
にお願いしてください」
「そんなアホらしいお願いはできん」
「そこのところを、先生、なんとか頼みます」
「いいや。だいたい、今までの家賃が安すぎた。家主が替わって値上げは当然
だ」
「でも、これまで毎月足らん足らんで、借金が 125 万円もできているのです」
「借金は借金、家賃は家賃だ。10 万円の家から、一足飛びに 20 万円の家に住ま
わせてもらう。私だったら、赤飯たいて祝わせてもらう」
「赤飯たいて祝う?」
「そうだ。家賃2万5千円の家に住むのと、家賃5万円の家に住むのとでは、
どれだけ人間の値打ちに上下ができるか。私は、家賃5万円よりは 10 万円、10
万円よりは 20 万円、20 万円よりは 40 万円と、なるべく家賃の高い家に住める
ようになりたい。それは何でかと言うと、高い家賃の家に住めるほど、それだ
けその人に値打ちがあるように思われるからだ。裏長屋の隅だったら、家賃は
安い。が、いつまでもそんな家にくすぶっていてはならん。人間は、時と場合
によっては、そんな家に入らなければならないこともあるが、幸せなことに、
そんな目にあわなくてすんでいるとしたら、それは喜ばなければならないこと
だ。あんたも値打ちが出てきて、20 万円の家に住めるようになったんだ。赤飯
たいて祝いなさい」というと、私の言うことが肚に入ったのか、イソイソと帰
って行きました。
その後、一年過ぎた頃。
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「先生、また家賃を上げてきました」
「いくらほど?」
「7 万 5 千円上げて、27 万 5 千円に」
「それは、けっこうなことだ」
「はい。また赤飯ですねぇ(笑)」
「やっと分かったかい、おかげを頂いたことが」
「はい、あれからズーッとおかげを頂き、毎月 20 万円の家賃も払い、借金の方
もきれいにカタがつき、少々貯金までできまして、本当にありがたいことでご
ざいます。もういくら家賃が上がってもビクともいたしません」
誤解を怖れずに言えば、神さまも自分が元気になるように活用したらいいので
す(笑)。
神さまを信仰することで、いのちの中心につながるなら、素晴らしいことです。
そのとき、言葉は言霊となって実現力を持ち、神さまの働きが出てくるのです
から…。「最初に言葉(霊)があった。言葉(霊)は神であった」のです。
このエピソードは、悟り方の工夫をとても面白く伝えてくれています。
悟り方の工夫で言葉は言霊となり、思いどおりの現実が創造されていくのです。
~追伸~
いのちの中心には、ココロとカラダの両面からのアプローチを、同時に行うこ
とが大切です。ココロとカラダはひとつだからです。
悟り方の工夫により、ココロがゆるんだぶん、カラダもゆるみます。
気功(坐禅や古神道の行法も気功です)などにより、カラダがゆるんだぶん、
ココロもまたゆるみます。
そうして、カラダの中心、ココロの中心は、いのちの中心につながるのです。
カラダの面でいえば、中心軸(正中線)を確立し、肥田春充のいう正中心にま
で高めることです。
カラダに軸ある人は、ココロにも軸があります。
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「あの人は、芯が一本通っている」というのは、ココロの中心軸のことです。
宗忠公のいう「まるいココロ」は、ココロの正中心のことです。ココロに正中
心あるとき、カラダは気の球体となっています。
「言霊セミナー」では、カラダの面からのアプローチの極意を伝授します。
これだけは、言葉で伝えることが難しいものですから…。
ベーシック・インカム実現に向けての活動が、本格的に動き出すまで、「言霊
セミナー」は続けていきたいと思っています。
やっと、「ベーシック・インカム実現の会」ホームページのラフデザインが、
完成しました(笑)。
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