第七番目のしるし:ラザロの復活

主日 集会 2015.1.4
第七番目のしるし:ラザロの復活
う可能性は全くないからである。彼が死んだということを知らないユダヤ人はいなかった。
ふくい んしよ
こころ
ヨハネ福音書11:38-46
いきどお
おぼ
はか
こ
はか
あな
11:38 そこでイエスは、またも 心 のうちに 憤 りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であっ
いし
た
て、石がそこに立てかけてあった。
い
いし
と
し
ひと
し まい
い
しゆ
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。
「主よ。も
くさ
よつ か
う臭くなっておりましょう。四日になりますから。
」
かのじよ
い
しん
かみ
えいこう
み
い
11:40 イエスは彼女に言われた。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言
ったではありませんか。」
かれ
いし
と
め
あ
い
ちち
ねが
き
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞
かんしや
いてくださったことを感謝いたします。
ねが
き
し
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかし
まわ
ぐんしゆう
ひとびと
つか
しん
わたしは、回りにいる群 衆 のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じ
もう
るようになるために、こう申したのです。
」
い
おおごえ
さけ
で
き
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
し
ひと
て
あし
なが
ぬの
ま
で
き
かれ
かお
ぬの き
つつ
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包
かれ
い
かえ
まれていた。イエスは彼らに言われた。
「ほどいてやって、帰らせなさい。
」
き
み
おお
じん
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエ
しん
スを信じた。
いくにん
ひと
い
つ
11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告
げた。
【はじめに】
どんな人でも死を恐れる。人は死によって限定された人生を送っている。どんなに素晴らしい人生を送っていて
も、死が訪れたら、それでおしまいになる。これはどんな人でも同じである。教育があろうとなかろうと、お金が
あろうとなかろうと、社会的地位があろうとなかろうと、すべて同じである。
それでは、私たちは死の前には全く無力で、どうすることも出来ないであろうか。いいえ、そうではない。いの
ちの主であるお方キリストがおられる限り、死は決して絶望ではない。
【祈りながら考えよう】
(1)マルタは、主がラザロを今よみがえらせることを信じていましたか。そうだとどうして分かりま
すか。
(2)主イエスがラザロをよみがえらせる前に声を出して父なる神に祈られたのはなぜですか。
(3)主が「死人のラザロ」に向かって「ラザロよ。出て来なさい」と大声で叫ばれたのはなぜですか。
【解
説】
(1)そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石
がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マル
タは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」(38-39節)
主は、心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。主が心の中で憤りを覚えておられたのは、人々をこの悲惨
な死に追いやる悪魔に対してである。
イエスは働き人たちに命じて、墓の入口から石を取りのけさせた。もちろん、おことばだけで石を動かすことも
出来ただろう。しかし、主はその働きを人にさせておられる。死んだ人にいのちを与えることは、人には出来ない
が、石を取りのけることは、人に出来る。そして、主の恵みと祝福にあずかるためには、人は自分の手で石を取り
のけなければならなかった。
墓を開くとは何とおぞましい、そう思ったマルタはそれをことばにした。ラザロの遺体がそこに入ってから四日
も経っていることに気づいたマルタは、遺体がすでに腐敗し始めているのではないかと恐れたのである。ラザロの
遺体には防腐処置が施されなかったようである。当時の慣習に従い、死んだ日に埋葬されたのだろう。ラザロが墓
に四日間置かれていた、という事実は重要である。彼が眠っていただけである、とか、気絶しただけである、とい
-1-
(2)イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言っ
たではありませんか。」(40節)
23節で主は、ラザロは再びよみがえる、とマルタに告げておられた。しかし、マルタは「主よ。もう臭くなって
おりましょう」と叫んだ。そこで主は厳かな叱責を発せられた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見
る、とわたしは言ったではありませんか。」
この主のことばの順序に注意したい。「信じるなら……見る」。あたかも主イエスが次のように言っておられたか
のようである。「もしあなたが信じさえするなら、神にしか出来ない奇跡をわたしが行うのを見、『神の栄光』がわ
たしを通して表れるのを『見る』ことだろう。しかし、まずは『信じ』なければならない。そうすれば『見るよう
せいらい
になる』」。大きな祝福を見たいのなら、まず信じなければならない。しかし、人間の生来の考えは全く逆で、まず
見て、それから信じようとする。
敬虔な信仰者であっても、キリストのことばを思い出す必要がある。それを忘れてしまいやすいからである。「わ
たしは言ったではありませんか」。短いが、努めて思い起こすべき一文である。
(3)そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いて
くださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださること
を知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしを
お遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」(41-42節)
石が墓から取り除かれた。主イエスはその入口に立ち、群衆は周りに立って、次に何が起こるかと注視している。
墓からは何の物音も聞こえない。生命を感じさせるものは全くない。だが、みなが凝視し、耳をそばだてている最
中、イエスは目を上げ、群衆の聞いている前で天の父なる神に向かって厳粛に、声を出して祈られたのである。そ
の理由は以下に述べられる。主イエスは、「祈りを聞いてくださった父」に感謝をささげた。この章には、それ以前
の主イエスの祈りは記録されていない。しかし、間違いなく、主はこの間、絶え間なく御父に語り続けられていた
に違いない。そしてラザロの復活を通して神の御名があがめられるように祈っておられたに違いない。ここで主は、
その出来事が起こることを見越して、御父に感謝をささげておられる。
イエスは声を出して祈られた。それは「御父がご自身をお遣わしになったこと」を「この人々が信じるため」、ま
たご自身が何をなし、語るべきかを命じておられるのは御父であること、そしてご自分は常に、父なる神に完全に
依存して行動しておられることを、人々が信じるためであった。ここで再び、父なる神と主イエス・キリストが本
質的に一体であることが強調されている。
(4)そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死ん
でいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエス
は彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(43-44節)
ここでの奇跡の最後の山場が、この節に描かれる。関心は墓と主イエスに集中された。群衆は息を殺して見てい
る。その時、人々が見ているところで、注意を一身に集めた後、イエスはラザロに墓から出て来るようにと命じら
れた。主イエスが「大声で叫ばれた」のは、明らかに、居合わせた者すべてが聞き、注目するようにとの意図があ
ってであった。
ラザロが死んでいたことを示すさらなる証拠として、「彼の顔は布切れで包まれていた」という事実が付記されて
いる。このような布切れに顔をくるまれて四日も生きられる人はいない。主は再び人々の協力を募り、ラザロの布
をほどいてやって、帰らせるように命じられた。死者をよみがえらせることができるのはキリストをおいて他には
いない。しかし、つまずきの石を取り除き、偏見と迷信の「死に装束」を解く仕事は、私たちに託されている。
(5)そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを
信じた。しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったこと
を告げた(45-46節)
多くの見物人にとって、この奇跡は主イエス・キリストの神性を間違いなく宣言するものとなり、彼らはイエス
を信じた。死んで四日も経っていた死体を、神以外のだれが呼び出すことが出来るだろうか。
しかし、奇跡が人生に及ぼす影響は心の状態によって左右される。もし心が邪悪で、反抗的で、不信仰であれば、
死人がよみがえるのを目撃しても信じることはないだろう。まさにこの場合がそうであった。この奇跡を見た幾人
かのユダヤ人は、否定しようのないような証拠があるのに、主イエスをメシヤとして受け入れようとはしなかった。
そしてパリサイ人たちのところへ行って、ベタニヤで起こった出来事を報告したのである。彼らがやって来て、イ
エスを信じるという見込みがあったのだろうか。むしろ、パリサイ人の敵対心を一層あおり、主を亡き者にするた
めだっただろう。
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