第5回 8月30日

岡山もんげー講座
館長閑話 05
平成 27 年9月 11 日
第5回
明 治 25 年 (1892)7 月 漱 石 の 見 た 岡 山 洪 水
この講座は、今日の一般的な社会通念では推し量れない、少なくともわたくし
には想像を越えた「もんげー」史実や人物を紹介したいと思ってとりかかったの
ですが、単なるびっくりの紹介ではなく、歴史的な意義付けも意識しています。
学問上で重要な内容をお伝えしているところもあります。かといって難しいこと
は述べませんので、気軽に聞きに来て、感じていただけたら幸いです。
しかし、しゃべっただけで終わらせるのはもったいないので、後に論文やら報
告書にしようと考えているものもあります。6月の講座で述べた「農繁託児所」
に関する資料は、今年度末に刊行する『岡山のアーカイブズ
5』に収録する準
備を進めています。
今回の台風、洪水についても調べてみると多くの「もんげー」がありました。
まず、一番に述べたかったことは、「岡山は災害が少なくて住みやすいと思った
ら大間違い」ということで、講座では江戸時代から平成の今日まで災害が続いて
いることを縷々述べました。
ではなぜ災害が多かったのかというと、そもそも災害があるところに人々が住
んでいるからです。川沿いの氾濫地、干潟の埋め立て地が新田となり、そこが今
日 住 宅 地 に な っ て い ま す 。江 戸 時 代 に 広 く 展 開 し た 農 耕 社 会 、す な わ ち 新 田 開 発 、
牛馬飼育、薪採集、用水路開削などは、すべからく災害の被害地拡大と表裏の関
係にあったのです。
こ の 閑 話 で は 明 治 25年 (1892)7月 の 水 害 に 関 す る 資 料 を 2 点 ( A 、 B ) を 紹 介 し
て お き ま す 。A は 、こ の 災 害 を 記 録 す る こ と を「 文 家 」に 望 ん で い る『 山 陽 新 報 』
記事、Bは、若き夏目漱石(筆名「平凹凸」)が岡山滞在中に、この水害に遭遇
した話を友人正岡子規に書き送った手紙です。漱石は別にAを受けて書いたわけ
ではないはずですが、Bには、後に大文豪となる片鱗がうかがえ、読みごたえが
あります。
A
世の文家に望む
今回の水災は実に今古稀に見る所なれば、能々その実況を写して他日に遺すは必要
なづく
の事にして、亦文家の責といふべし。我岡山県下には文を以て家に 名 る人多く、漢
文に長ずるものあり、和文に長ずるものあり。此輩の人々は畢生の力を奮ふて当時
の実況を写されんことを望む。新聞等にてはイカに詳しく記すも、終に散乱するを
つく
免れざるを、漢文にまれ和文にまれ、力を竭して綴りたらんものは、人々相伝へて
必ずやその人の名と共に後に伝はるべければ、切に之れを世の文家に望まざるを得
ざ る な り 。 ( 『 山 陽 新 報 』 明 治 25 年 7 月 30 日 記 事 )
B
夏目漱石書簡
岡山市内山下町一三八番邸
片岡方より
松山市湊町四丁目一六番戸
正岡常規へ
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岡山もんげー講座
館長閑話 05
平成 27 年9月 11 日
だ う ん
朶雲(*あなたの手紙)拝誦仕候、御申越の如く当地の水害は前代未聞の由にて、此
前代未聞の洪水を東京より見物に来たと思へば大いに愉快なる事ながら、退いて勘
考すれば居席を安んぜず、食飽に至らず、随分酸鼻の極に御座候、御地は別段の水
害 も な き 模 様 、 先 々 結 構 の 至 に 存 候 、 津 山 は 余 程 の 損 害 と 承 る 、 是 空 子 (* 大 谷 是 空 )
の処は如何
小生去る二十三日以後の景況御報申し上んと存居候へども、鳥に化して跡をかく
すとありし故、旅行中にもやと案じ別段書状もさし上げず居候、先便にも申し上候
通り、当家は旭水に臨む場所にて水害中々烈しく、床上五尺程に及び、二十三日夜
は 近 傍 へ 立 退 、 終 夜 眠 ら ず に 明 し 、 二 十 五 日 よ り 当 地 の 金 満 家 に て 光 藤 (* 光 藤 亀 吉 )
と云ふ人の離れ座敷に迎へ取られ候処、同家にても老祖母大患にて厄介に相成も気
の毒故、八日目に帰宅仕候、帰寓して観れば、床は落ちて居る、畳は濡れて居る、
壁 は 振 い 落 し て あ る 、い や は や 目 も 当 て ら れ ぬ 次 第 。四 斗 樽 の 上 へ 三 畳 の 畳 を 並 べ 、
之を客間兼寝処となし、戸棚の浮き出したるを次の間の中央に据へ、其前後左右に
腰掛と破れ机を並べ、是を食堂となす、屋中を歩行する事、峡中を行くが如し、一
(たるき)
歩 を 誤 て ば 椽 の 下 に 落 つ 、い や は や 丸 で 古 寺 か 妖 怪 屋 敷 と 云 ふ も 猶 形 容 し 難 か り 、
夫でも五日が一週間となるに従ひ此野蛮の境遇になれて、左のみ苦とも思はれず可
笑しき者なり、実は一時避難の為め、君の所へでも罷り出んと存居 候ひしが、旅行
中で留守にでも遭ったら困ると思ひ今迄差し控え居候 、斯る場合に当方厄介に相成
候も気の毒故、先日より帰京せんと致候処、今少し落付く迄是非逗留の上緩々帰宅
せよと、強て抑留せられ候へども、此方にては先方へ気の毒、先方では此方へ気の
毒、気の毒と気の毒のはち合せ、発矢面目玉をつぶすと云ふ訳、御憫笑可被下候
夫故閑谷黌へも猶参らず、然し近日当主人の案内にて金毘羅へ参る都合 故、其節
一寸都合よくば御立寄可申、帰京は九月上旬と御約束申上置候 へども、右の次第故
少々繰り上、本月中旬か又は下旬頃に致し度と存候、大兄の御見込は如何に御座候
や、若し御不都合無之ば御同伴仕り度と存候、来る六、七日頃太田達人より為替送
付致し呉候筈故、夫より後なら何時でも帰京差支へなし
実に今回の水は、驚いた様な、面白い様な、怖しい様な、苦しい様な、種々な原
素を含み岡山の大洪水又平凹凸一生の大波瀾と云ふべし、然し余波が長くて今に乞
食同様の生活を為すは少し閉口、石関の堤防をせき留めるや否や、小生肛門の土堤
が破れて黄水汎濫には恐れ入る、其に床下は一面の泥で、其上に寝る事故、余程身
体には害があるならんと愚考仕る許りで、目下の処では当分此境界を免がるゝ事能
はざらんとあきらめ居候
猶委細は御面会の節、頓首頓首
(明治二十五年)八月四日
子規
平
凹
凸
さま
尊下
(『漱石全集
第二十七巻
書 簡 一 』 岩 波 書 店 、 1 9 5 7 年 。 42、43 頁
書 簡 番 号 25)
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