天正元年 五八 天正元年 (一五七三) 七月二十八日改元 遊佐勘解由左衛門宛書状写 「寸金雑録 」東大史謄写 河州機物神社宛禁制写 『交野町史』 事候、俄之儀ニ候条如此候、恐々謹言、 四五七 河州 制禁 機物神社 一陣取寄宿矢銭兵粮米之事、 一社木剪採短髪族住社之事、 一成社来参籠之輩戯之事、 (織田信長) (任) 右条々総見院殿仕先判例、堅令停止訖、若違犯之族於有之者、 可処厳科条、下知如件、 長岡兵部大輔他宛起請文 『細川家文書』 〇この文書は検討を要する。 天正十 七月九日 秀吉印 四五八 羽柴藤吉郎 (元 亀 四年 ) 七月廿日 秀吉(花押) (山城国) 大山崎惣中 まいる 五 八一) 天正九年 (一 御宿所 館 名古屋市博物 二九二 某 (前欠 三月迄可 なぎ、旁 兵粮之儀 之仕合ニ 堅固之覚 恐々 出来 候間 今度 二九三 ○ (後 即時ニ平 梵天・帝釈・四大天王、惣日本国中大小神祇、八幡大菩薩・ 天満大自在天神、殊愛宕・白山・氏神御罰深重可罷蒙者也、 仍起請文如件、 〇神文には牛玉宝印を用いる。 羽柴筑前守 天正拾年七月十一日 秀吉(花押)(血判) (細川藤孝) 長岡兵部大輔殿 (細川忠興) 長岡与一郎殿 四五九 (光秀) 長岡与一郎宛書状 『細川家文書』 (康之) 丹後国任 御朱印旨、一円可有御知行処、明智申掠、丹波手 寄ニ二ケ所城をいたし、所々知行雖仕候、今度被対 公儀無 比類御覚悟持候条、彼押領分、同家来当知行并矢野分共、我 等聞分申候条、為新知一職ニ可有御知行候、但松井弥人数持 候様、右之内三分一可被遣事尤候、為其一紙如此候、恐々謹 言、 羽柴筑前守 (天 正 十年 ) 七月十一日 秀吉(花押) (細川忠興) 長岡与一郎殿 御宿所 140 此方弥無異儀候間、可御心易候、 宛自筆切手 原七郎左衛門 杉 〇 古橋郷名主百姓中宛判物 二九〇 六 (保田知宗) (織田) ) ( 兵 粮 安田佐介人質之事、未被出之由、信長承候、如何御由断ニ候 たし可申候、 (羽柴秀長) やうろニわ ひ 、 「 古 橋 村 高 橋 家 文 書 」長浜城歴史博物館 小一郎かたへ 哉、早々被仰付、御進上候様ニ、私ゟ可申上旨候、可有御披 こめ三百石、 吉(花押) 秀 月十一日 次 家 尉 門 衛 各天 、正 早九 々令正 還住尤候、 々 猥 之 族) 一 切令停止候也、 露候、恐々謹言、 左 郎 原七下 杉 ( (元亀四年ヵ) 七郎さへもん 羽柴藤吉郎 五月十七日 秀吉(花押影) (信教) (天 正 元年 ) 八月十一日 秀吉(花押) 遊佐勘解由左衛門殿 (近 江国古橋) 」 東 大 史影写 ふるはし郷 「浄信寺文書 状 書 宛 九一 二 祐坮 判、 名主百姓中 前々寺中有才 如 者 上 然 五九 大山崎惣中宛書状 「離宮八幡宮文書 」東大史影写 可有異儀候、 不 、 事 之 、 当寺上人跡目 候、恐々謹言 造其沙汰肝要 候、并本堂修 返々明日早々奉待候、以上、 諸事可有馳走 藤吉郎 六一 矢野備後守宛書状 『舞鶴地方史研究 』三〇 (織田信長) 天正 態以折紙令啓候、仍 殿様ゟ被仰出ニハあらす候、拙者への 九 秀吉(花押) (景則) (近江日 国) 月十 正 為御合力、縄五十束か又ハ三十束か、明日食以前ニ至、御牧 尚以江五 北小谷 之 儀 者 存 分 ニ 申 付 候条、是又可有御披露 (山城国槇島) 坮 祐 持せ可給候、今日者先至真木島迄罷帰候、明日未明ニ可越候、 候、 (山城国) (長政) 下 床 此表御出張之 儀 ニ付 而、早々御札本望存候、今度江北浅井為 少々淀辺ニ指当入申子細候間、扨々如此候、御六かしき雖申 朝 ( 倉) (織田) 合 力、 義 景 出 馬 候 処、 信 長 懸 付、 悉 追 崩、 数 多 討 取、 直 ニ 天正 9 年 敬白起請文前書之事 (織田) 一今度信長御不慮ニ付 而、無比類御覚悟持頼敷存候条、別 而 入魂申上者、表裏無抜公事、御身上見放申間敷事、 一存寄儀、不残心底、御為能様ニ異見可申事、 一自然中意之族在之者、互以直談可相済事、 右条々若偽於在之者、 21 天正元年 巻数 和暦 西暦 事 項 第 1 巻 永 禄 8 年 1565 将軍足利義輝、三好三人衆と松永久秀によって暗殺される。 秀吉の名が信長の添え状に見える初見。 永禄 10 年 1567 織田信長、美濃斎藤氏を滅ぼし、本拠を岐阜に移す。 永禄 11 年 1568 信長、足利義昭を奉じて入京。 義昭、征夷大将軍になる。 秀吉、在京。 永禄 12 年 1569 秀吉、生野銀山城を攻める。 元 亀 元 年 1570 信長、越前へ攻め込むが浅井氏の裏切りにあい退却。 秀吉が殿を務める。(金ヶ崎の退き口) 姉川の合戦で信長勢、浅井・朝倉軍を破る。 元 亀 2 年 1571 信長、延暦寺を焼き討ち。 天 正 元 年 1573 室町幕府滅亡。 信長、朝倉義景・浅井長政を滅ぼす。 信長、浅井氏分国を秀吉に与える。 天 正 2 年 1574 石山本願寺挙兵。 信長、伊勢長島一向一揆を殲滅。 天 正 3 年 1575 長篠の戦い。 天 正 5 年 1577 秀吉、中国攻めのため、京都を出発し播磨へ向かう。 天 正 6 年 1578 毛利勢と上月城下で戦い、秀吉軍が敗れる。 天 正 8 年 1580 本願寺顕如、石山退去。 秀吉、三木城の別所長治を破る。 天 正 9 年 1581 秀吉、鳥取城の吉川経家を破る。 天正 10 年 1582 信長勢、武田氏を滅ぼす。 秀吉、高松城を攻撃。 本能寺の変。 秀吉、中国大返し。山崎の戦いで明智光秀を破る。 清洲会議。 天正 11 年 1583 秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。 大坂城築城に着手。 第 2 巻 天正 12 年 1584 秀吉勢、小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康軍に敗れる。 秀吉、信雄と単独講和。 天正 13 年 1585 秀吉、関白。 長宗我部氏、秀吉に降伏。 秀吉、豊臣姓勅許。 第 3 巻 天正 14 年 1586 秀吉、家康と和睦。 聚楽第着工。秀吉、太政大臣。 天正 15 年 1587 島津氏、秀吉に降伏。 伴天連追放令。北野の大茶会を開催。 天正 16 年 1588 後陽成天皇、聚楽第へ行幸。 秀吉、刀狩令。 第 4 巻 天正 17 年 1589 秀吉、北条氏に宣戦布告。 天正 18 年 1590 小田原攻め。北条氏が秀吉に降伏。 秀吉、家康を江戸に転封。 第 5 巻 天正 19 年 1591 千利休、自刃。 秀吉、関白職と聚楽第を甥の秀次に譲り、太閤となる。 文 禄 元 年 1592 秀吉、諸大名に朝鮮渡海を命じる。(文禄の役) 第 6 巻 文 禄 2 年 1593 小西行長、沈惟敬と講和交渉。 秀吉に秀頼が誕生。 文 禄 3 年 1594 伏見城、大規模普請を開始。 第 7 巻 文 禄 4 年 1595 秀次、高野山にて自刃。聚楽第を破却。 慶 長 元 年 1596 朝鮮への第2次侵攻を決定。 26 聖人の殉教。 慶 長 2 年 1597 慶長の役始まる。 慶 長 3 年 1598 醍醐の花見。秀吉、没。 朝鮮より日本軍の撤退完了。 第8巻 年 未 詳 年代比定できない文書を月日順に収載する。 第9巻 補遺・索引 本書刊行後の新出文書と、全巻を通覧できる索引を収録。
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