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軍用通信の歴史の教訓
軍用通信の果たした役割とその教訓
2015年 3月 10日(火)
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歴史に見る通信についての教訓
(1) 日本海海戦における無線機・海底ケーブルの役割
(2) ミッドウェー海戦における通信戦
(3) レイテ沖海戦にみる通信の重要性
(3) NCW(ネットワークセントリックウォーフェアー)の紹介
(4) 教訓まとめ
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(1) 日露戦争における無線機の役割
(明治11年)沖牙太郎 国産初の電話機を製作に成功
(明治27年) 日清戦争
Guglielmo Marconi
マルコーニ、無線電信の実用化実験に成功
グリエルモ・マルコーニ
東京湾にて海上1里の無線電信に成功
1874~1937(イタリア)
物理学者、発明家
マルコーニ、英仏間の無電に成功
電磁波による無線通信機を発明
船舶の無線電信の道を開いた
マルコーニ、大西洋横断の無電に成功
(明治34年) 10月 海軍省、無線電信機を兵器として採用(到達距離130Km)
海軍艦艇に無電装備(海軍36式火花送信機)、日露戦争に間に合う
(明治37年) 日露開戦
日本海海戦
暗号「タタタタ (モ456)YRセ」(=敵艦隊見ユ、456地点、信濃丸)
の発信により日本は勝機をつかむ。
1906年 三極管の出現 電気による信号の増幅・発振が容易可能になる
1912年(明治45年)
タイタニック号遭難 救助信号CQD送信
当時の救助信号はCQDとかSOSが混在した。
一説によるとタイタニック号がSOSを使用した最初の船とか。
1878年
1894年
1895年
1897年
1898年
1901年
同年
1903年
1904年
1905年
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三六式無線電信機の開発
1894年、イタリアのグリエルモ・マルコーニが無線電信機の研究開発に着手し、1901年
大西洋横断通達試験に成功日本にマルコーニ式無線電信機の情報が明治30(1897)年
頃日本にマルコーニ式無線電信機の情報もたらされた
明治32(1899)年 外波内蔵吉(となみ・くらきち)少佐
「無線電信の調査研究を早急に行うべし」との意見書
明治33(1900)年2月 海軍大臣山本権兵衛「無線電信調査委員会」を発足
委員長には外波中佐(過日昇任)
委員には海軍側9人、逓信省電気試験所3人(木村駿吉)
明治34(1901)年10月 通達距離、陸上・艦船間70マイル、艦船間40マイルの
無線電信機を完成した。
「三四式無線電信機」として制式化
通達距離、受信機の調整等に問題があり
余談
明治38 年1 月、海軍は、スエズ運河を通航するバルチック艦隊を観察するため、外波中佐をエジプト・ポートサイドに出張させた。身分は日本郵船社員と偽っ
ていた。バルチック艦隊の内、戦艦を中心とする「第二艦隊本隊」は、喫水の関係でスエズ運河の通航はできなかったが、他の部隊はスエズ運河を通航してい
る。彼は、「後発隊」及び「第三艦隊」を観察している。ロシア艦船が展張しているアンテナの装備位置、高さ、形状などから、無線電信機の搭載の有無、電信機
の種類、また電信室の位置などの情報を海軍次官に報告している。
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三六式無線電信機の開発
明治35(1902)年5月
英国で催されるエドワード7世の戴冠式に向かう遣英艦隊(伊集院五郎司令官率いる
巡洋艦「浅間」および巡洋艦「高砂」)がマルタの英国地中海艦隊司令部を表敬した
際、締結されたばかりの日英同盟の誼(よしみ)で、英国の国家機密に属する「新型
無線電信機」を閲覧することができたのである。
技術情報を得ることができ、さらには要の部品であるコヒーラ(受信用検波器)を英国
到着まで特別に借り受けることができた。
「高砂」の山本英輔(えいすけ)中尉を中心としたグループは、これを使って航海中
に実験を繰り返し、その成果を帰国するまでに70ページに及ぶ報告書としてまとめた。
明治36(1903)年1月、海軍は無線工場を横須賀の海軍兵器廠に設置
明治36(1903)年10月 「三六式無線電信機」として制式化
80マイルの送受信能力を有する高性能の無線電信機
無線装備率 バルチック艦隊 僅か30% 日本の聯合艦隊では97%
日露戦争開始4カ月前である。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/
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山本大尉の熱意
日露戦争で彼は上村第2艦隊司令長官の幕僚として通信を担当すると共に、
第2艦隊旗艦出雲で、聯合艦隊の通信幕僚的な役割を果たしていました。
出雲は、緒戦の蔚山沖でウラジオストク常駐艦隊を壊滅させた殊勲艦
この時の経験では
空中線が海上の風雨、戦闘中の艦の動揺、振幅による故障が起きやすい
山本大尉は、空中線の装備方法について徹底的に研究
・「横架式空中線」として艦前方の大マスト間に装備
・戦闘時の通信機の配置に工夫を凝らし、受信機は弾薬通路に移して、
横架式空中線と連結することで、砲戦中でも防御区画に於いて無線の受信が可能
出雲は日本海海戦に於いて最も多くの電信分を受信・傍受した艦となりました。
5月27日から30日の4日間で308通
(山本大尉の日記)
日本海軍が如何に無線電信を効果的に用いたかの証左でもあります。
後に1929年に聯合艦隊司令長官となり、1932年に海軍大将に昇進
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三六式無線機の開発
この三六式無線の開発に当ったのは木村俊吉。
東京予備門から東大を出て、ハーヴァード・イエール両大学に学びました。
海軍に奉職し、海軍教授・無線電信調査委員
秋山真之の進言によって開発が決まった新型無線の研究を任されます。
「三年以内に、80海里の通信距離を持つ無線を開発せよ」
木村のチームは、それから間もなく80海里の距離をクリア。
木村俊吉
さらなる限界を求めて、寝食をも犠牲にするほど改良に邁進し、
ついに200海里の通信を可能にしたのでした。
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ポポフ式無線電信機
ロシアは、その当時は電信の先進国であった。
無線電信機の発明者は、ロシアの教科書ではマルコーニで
はなく、アレクサンドル・ポポフになっている。
ポポフは海軍水雷士官学校の教官時代、無線電信機の研究
開発に当たり、1895年には「ポポフ式無線電信機」を開発し
た。
1900年、ロシア海軍は無線電信機の艦船装備を決定し、ポ
ポフの設計した無線電信機はドイツ・シーメンス社のロシア分
工場(後のテレフンケン社)で製造されることになった。
アレクサンドル・ポポフ
(ウイキペディア)
1904年10月、バルチック艦隊リバウ出港時には、運送船、病院船なども含め、各艦船に無線電
信機を急遽搭載している。搭載した無線電信機は、主にテレフンケン社製の「スラビ・アルコ式無
線電信機」である。
「スラビ・アルコ式」は、「マルコーニ式」よりも通達距離は延びるものの、調整が難しく安定性に
欠けた
ロジェストウェンスキー司令官は、最後の碇泊地である仏領ベトナムのヴァン・フォン湾を出航し
た2日後の5月16日以降、艦隊に無線封止を命じている。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4092?page=7
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三六式無線機の構成
「インダクションコイル」
安中電機製作所、現在のアンリツ
「リレー」
ドイツのシーメンス社製
「火花式」
(間隔を開けた電極間に高電圧を印加し火花放
電を起こすと電磁波が発生する事を応用した電
磁波の発生装置)
「コヒーラ検波器」
電源は?島津源蔵が日本初の鉛蓄電池の開発
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三六式無線機の最初の功績
1905年5月27日午前2時45分、
仮装巡洋艦「信濃丸」は、北航する艦船の灯火を発見。
「信濃丸」艦長の成川揆(なるかわ・はかる)大佐は、後方
に接近し追尾を開始します。
丁度追尾を開始して2時間後の4時45分、空が明るくなっ
てきたので、
「信濃丸」は300メートルまで接近して確認すると、
三本のマスト、二本の煙突
の艦艇であることがわかりました。
それは、第二太平洋艦隊、つまりバルチック艦隊の病因
船、「アリヨール」だったのです。
4時45分「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、
続けて4時50分「敵ノ第二艦隊見ユ」という歴史的な暗号
電報を送信します。
この無線は戦艦「厳島」に中継され聯合艦隊司令部の旗
艦「三笠」に届きました。
その後、やはり無線を受信した巡洋艦「和泉」が6時45分
にバルチック艦隊を発見。
蝕接を保って刻々とその動向を聯合艦隊司令部に打電し
続けます。
海上は靄が立ち込め、視界は5海里という悪条件のもと、
「和泉」の石田一郎大佐は敵弾の届く至近距離まで近づ
き、その範囲から出入りしつつ、危険を冒して監視を続け
たのでした。
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信濃丸と海軍36式火花送信機
信濃丸 1900年4月進水 総トン数 6,388t 速力12ノット
日露戦争後は蟹工船となる。太平洋戦争も生き残り、戦後は
復員船として活躍する。昭和26年解体廃棄。
36式無線電信機のレプリカ
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日本海海戦の開始の電報
司令長官東郷平八郎大将が艦隊の出動を下命、
同艦より大本営あてに
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯
合艦隊ハ直チニ出動、
コレヲ撃滅セントス
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
と打電し報告した事で、日本海海戦が開始されたのでした。
「(アテヨイカヌ)ミユトノケイホウニ
セツシ
(ノレツヲハイ)タダチニ(ヨシス)コレ
ヲ(ワケフウメル)セントス
テンキセイロウナレドナミタカシ」
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有線ネットワークの整備
1854年
黒船での来航時、徳川将軍家に電信機を献上するとともに横浜で通信実験を公開している。
明治元(1868)年
政府は、神奈川府判事兼外国官判事(対外国交渉担当)の寺島宗則の建議により、「電信
線を国内で敷設し国で運営する」ことに決定
明治2(1869)年
我が国における最初の電信線の開通 (東京~横浜間)
以降、政府の方針もあり、国内陸上電信線(陸線)の整備推進
明治3(1870)年
国際電信回線(海底電信ケーブル)の開通
デンマークの大北電信会社に長崎への海底電信ケーブル(海底ケーブル)陸揚権を与えた。
明治4(1871)年6月 長崎~上海間(日本・欧米主要都市間の英国が管制する通信回線が開通)
(英国は、「世界制覇の第一歩は海底ケーブルの制覇にあり」との国家方針)
10月 長崎~ウラジオストク間に海底ケーブルを敷設
(ロシア国内の陸線を経由した日本と欧州主要都市間の通信回線も開通)
明治29(1896)年
我が国初めての海底ケーブル敷設船「沖縄丸」(逓信省所属)が竣工、
同船により九州から台湾までの海底ケーブルを敷設
この計画を強力に指導・推進したのが、
児玉源太郎(陸軍次官兼臨時臺湾燈臺電信建設部長)
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日露開戦時海底ケーブル敷設状況
日露開戦時における、軍用を除
く極東周辺海域の海底ケーブル
敷設状況である。
上海~芝罘(チーフ)~太沽
(タークー)間の海底ケーブルは
清国
旅順~芝罘間はロシア
上海~青島(チンタオ)間および
青島~芝罘間の海底ケーブル
はドイツの管理下にあった。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4092?page=3
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海底ケーブルの日本独自敷設へのこだわり
「海底ケーブル」とは、1851年に世界で初めてドーバー海峡に敷かれた
電力用または通信用の伝送路一般を言います。
20年後の1871年には大北電信会社によって日本も海底ケーブルを
長崎~上海および長崎~ウラジオストク間に敷設しました。
その後1883年には呼子~釜山間にも海底電信線が敷かれます 。
児玉の抱いた危惧とは。
●呼子~釜山線は欧米人が使用しているので軍の独占ができず、
またここを切断されたら通信が途絶えて致命的であること。
●大北電信は名前こそ大北であるが、実はデンマークの電信会社。
後ろにロシアが控えていて、情報が筒抜けになる恐れがあること。
●長崎~ウラジオストック線も、当然日露戦争で使えるわけがない。
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海底ケーブルの敷設延長
児玉は、日本の手による海底ケーブルの敷設に乗り出す。
それは、本土と大陸(半島)をケーブルで結び、さらに台湾経由でイギリスの
ケーブル網につなぐ計画でした。
明治29(1896)年
イギリスに海底ケーブル敷設船「沖縄丸」を発注し工事に着工
日露戦争を見据えての事業ゆえ、情報の漏えいを防ぐために
お雇い外人技師もいっさい使いませんでした。
明治30年には
九州~那覇~石垣島~台湾ルートのケーブルを完成
英米以外ではまだ難しい、といわれていた長距離のケーブル網を、
測量に始まって、すべての敷設まで有色人種が助けを借りずにやり遂げた。
日露大戦開戦後
陸軍の前進にともなって朝鮮半島西沿岸を北上し、
あの旅順近くまでこっそりレールをつないでいきました。
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日露戦争当時の軍用水底線敷設図
信濃丸の電文が打電さ
れると、これを「厳島」が
中継して「三笠」に伝え
電文は海底ケーブルと
陸上線で本州の陸上線
を通って、
下関から東京に達しまし
た。
出所:http://janafa.com/book-35/page-13.pdf#search='ncw'
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海戦当初の電信ケーブルの切断
開戦に際し、ロシアの電信ケーブルを切断している。
旅順→大連、奉天→ウラジオ、欧州
×
旅順→芝罘→ロシア
×
×
長崎→ウラジオ
韓国~対馬~内地間の仮設
軍用水底線として再利用
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余談
いきな寄り道ですが、当時の聯合艦隊の皆さんは、
将官はともかく下士官兵は「外来語」というものに不慣れなので、
英語はもとよりロシア語の艦名を覚えるのに大変苦労しました。
そこで、「三笠」の阿保清種少佐が「記憶法」を編み出しました。
その傑作どころを少しご紹介すると・・・、
「クニャージ・スワロフ」→「国オヤジ座ろう」
「アレクサンドル三世」→「呆れ三太」
「ボロジノ」→「襤褸出ろ」
「アリヨール」→「蟻寄る」
「オスラビア」→「押すとピシャ」
「シソイ・ウェーリーキー」→「薄いブリキ」
「ドミトリー・ドンスコイ」→「ゴミ取り権助」
「イズムルード」→「水漏るぞ」
「アブラクシン」→「「油布巾」
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余談
目黒海軍技術研究所の跡地
この文字を揮毫した都築伊七中将とは、横須賀海軍工廠で、
工廠長を務めた機関将校の一人です。
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/dc08502475163cd4d1beba85734a7d71
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日本海海戦の勝利の要件
■ 指揮統率と艦隊としての練度
■ 参謀、各艦艦長の人材の優秀さ
■ 戦術の成功
■ 新技術の活用
戦術の成功とは、
● 徹底した哨戒作戦
● 七段構えの戦法
● 丁字戦法
● 高速近距離射法、速射、斉射(一斉射撃)などの砲術
● 編隊の組み合わせによる適材適所
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日本海海戦で採用された最新技術
日本海海戦で採用された最新技術とは、次のようなものでした。
○ 信管・・・・砲弾に鋭敏に感知する新型「伊集院信管」を採用
○ 爆薬・・・・爆速が早く破壊力のある「下瀬火薬」を採用
○ 汽罐・・・・宮原二郎が開発した汽罐
○ 海底ケーブル・・・日英同盟の賜物。これを敷いたことで敵の動
きを把握できた
○ 三六式無線
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