52 命題に関する二通りの理論 —— トマス・アクィナスにおける「S は P である」という命題 片上 茂樹 序 トマスにおいて「S は P である」という命題1) は何を表示するのか。命題に関するトマス の理論を明らかにするために極めて重要なこの問題に関して研究者の間で解釈が分かれて いる。 すなわち、P. T. Geach はこの問題に対する自らの解釈を提示する際、述語付けに関する 「二名称理論 two-name theory」を次のように規定して批判する。すなわち、二名称理論と は「真なる述語付けは、同じ事象ないし諸事象の異なった(二つの)名称を結合すること によって結果するのであり、繋辞はこの実在的同一性の徴であるという理論」2) である。P. T. Geach によれば、この理論の不毛さは L. Carroll の次のような議論に現われている。すな わち、“a pig is pink” という命題は、或る実体(a pig)と(“pink” によって表示される)或 1) トマスにとって「命題」とは、名詞と動詞、または主語と述語と繋辞(copula)の複合体 (complexum)のことであり、現代しばしば考えられているような客観的な何かではなく、心内 の懐念から合成される陳述、あるいは、その心的な陳述を表示する音声や文字から合成される 陳述のことを言う―正確には音声言葉としての命題はその心的な陳述を表示する徴(signum) であり、書記言葉としての命題はその音声言葉としての命題の徴である。トマスによれば、心 的な陳述は判断(judicium)によって形成され、事象(res)を表示するのであり、事象について の知性の知解内容である。 2) Geach (1969), p. 43. 命題に関する二通りの理論/53 る属性との同一性という、実体と属性という存在論的に別のものの不可能な同一性を主張 しているように見える。L. Carroll はこのような問題を克服するため、この命題は “a pig is a pink pig” を意味しており、“is” は “a pig” の指す実体と “a pink pig” の指す実体という存 在論的に同じものの実在的同一性を表示していると解するべきであると主張する3) 。この L. Carroll の二名称理論に対して P. T. Geach は次のように批判する。“a pink pig” は “a pig that is pink” を意味するのであり、“a pig is pink” という L. Carroll が躓いた述語付けと同じ困難 な問題を抱えているので、L. Carroll の解釈は問題を解決していない。それゆえ、P. T. Geach によれば、このような問題を孕む二名称理論をトマスは採っておらず4) 、上記の述語付け “is pink” に関してトマスは次のように考えていると解釈される。われわれは或る個体、たとえ ば一匹の豚においてピンク色という形相が見出されることを表現するためにその形相に言及 するとき、その個体の名称を主語にして “is pink” という述語付けによって命題を形成する。 つまり、“is pink” という述語付けはピンク色という形相が主語 “a pig” の指す個的豚におい て見出されることを指すのであり、二名称理論のように “is a pink pig” と換言されるのでは ない5) 。 他方、上記のような P. T. Geach の示すトマスの命題理解に関する解釈に対して、H. Veatch は次のトマスのテキストに依拠して反論する。 いかなる真なる肯定命題においても述語と主語は実在的には(secundum rem)或る意 味で同じものを表示し、概念的には(secundum rationem)別なものを表示している のでなければならない。このことは付帯的述語に関わる命題においても、実体的述語 に関わる命題においても明らかである。すなわち、 「人間」と「色白いもの」は、明ら かに、基体的には同じ(idem subjecto)であり、概念的には異なっている。というの も、 「人間」の概念と「色白いもの」の概念は別なものだからである。同様に、「人間 は動物である」と私が述べるとき、人間であるものそのものが真に動物なのである。 3) Carroll (1887), pp. 2-3. 4) 以上の P. T. Geach の議論は Geach (1969), p. 43 に拠る。 5) Geach (1969), pp. 48-51 に拠る。 Cf. Geach (1961), p. 78. 54 すなわち、同じ基存体 (suppositum) において、それに依拠してその基存体が「動物」 と呼ばれるところの感覚的な本性と、それに依拠してその基存体が「人間」と呼ばれ るところの理性的な本性がある。それゆえこの場合も述語と主語は基体的には同じで あるが、概念的には別である6) 。 H. Veatch はこのテキスト7) の「述語と主語は実在的には」(或る意味で)「同じものを表示」 するという一文に依拠して、“a pig is pink” という命題をトマスは L. Carroll と同様に二名称 理論によって解していると主張する。すなわち、この命題は “a pig is a pink pig” を意味して おり、“is” は “a pig” の指す実体と “a pink pig” の指す実体との実在的同一性を表示してい る8) 。これに対して、P. T. Geach は “a pink pig” は “a pig that is pink” を意味するのであり、 “a pig is pink” という述語付けと同じ困難な問題を抱えていると批判したのであった。しか し、この批判は当を得ていないと H. Veatch は主張する。すなわち、“a pink pig” は確かに “a pig that is pink” を意味するが、それ以上のことも意味している。つまり、“a pink pig” は “a pig that is a pink pig” を意味する。それゆえ、P. T. Geach の批判したような説明における 6) S. T., I, q. 13, a. 12. なお、トマスのテキストには、断らない限り、レオ版を用いた。 7) Veatch はこのテキストの平行箇所である次のテキストにも依拠している。S. T., I, q. 85, a. 5, ad 3. 8) P. T. Geach 自身は H. Veatch が読んでいない可能性の高い Geach (1962) のオリジナルな論文 (Geach (1950), p. 478)において H. Veatch の依拠するテキストに関して次のように述べている。 “As regards the truth-conditions of an affirmative predication (composition), he [Aquinas] rejects the view that subject and predicate stand for two different objects, which we assert to be somehow combined; on the contrary, the truth of the predication requires a certain identity of reference. Thus, if the predicate ‘white’ is to be truly attached to the subject ‘man’ or ‘Socrates’, there must be an identity of reference holding between ‘man’, or ‘Socrates’, and ‘thing that has whiteness’ (‘quod est habens albedinem’); the two names must be idem subjecto. Notice that what is here in question is the reference of a descriptive name, not of a predicate; Aquinas does not hold, indeed he expressly denies, that predicates like ‘white’ stand for objects (supponunt). His theory is that if the predicate ‘white’ is truly attached to a subject, then the corresponding descriptive name ‘thing that has whiteness’ must somehow agree in reference with the subject.” 命題に関する二通りの理論/55 循環は起こらない9) 。 以上のように、“a pig is pink” という命題に関して P. T. Geach は、“is pink” という述語 付けはピンク色という形相が主語 “a pig” の指す個的豚において見出されることを指す、と トマスは考えていると解釈し、他方、H. Veatch は、トマスは二名称理論を採っており、“is pink” という述語付けは “is a pink pig” と言い換えられ、主述ともに同一の個的実体を指す と考えていると解釈する。一体、このような両者のどちらの解釈が正しいのであろうか。そ れとも、両者とは異なる第三の解釈が正しいのであろうか。あるいは、二人が示すような二 通りの命題に関する理論をトマスは採っているのであろうか。 小論は、トマスの命題理解に関する上記の問いに解答することを通して、トマスは「S は P である」という命題の基本形が何を表示すると考えていたかを明らかにしたい10) 。 I H. Veatch の解釈についての検討 H. Veatch の解釈によれば、“a pig is pink” という命題は “a pig is a pink pig” と換言される のであり、“is” は “a pig” の指す実体と “a pink pig” の指す実体との実在的同一性を表示して 9) 10) 以上の H. Veatch の議論は Veatch (1974), pp. 405-407, pp. 416-422 に拠る。 P. T. Geach と H. Veatch の議論は “a pig is pink” という特定の命題を巡るものであり、この命題 は主語が個的実体を指し、述語が付帯性に関わる。小論はこのような “a pig is pink” という特定 の命題に関する P. T. Geach の解釈を検討することで、より一般的な「S は P である」という命 題の基本形に関して考察する。ここで言う「『S は P である』という命題の基本形」とは、トマ スが自身の著作の中で「S は P である」という命題について一般的に論じるときに、大多数の 箇所で念頭に置いていたと思われる命題を指す。小論はトマスにおける「S は P である」とい う命題の基本形を最初に提示した上で行論するのではなく、 「S は P である」という命題に関し てトマスが一般的に論じる複数の箇所をピックアップして照らし合わせることで、トマスが「S は P である」という命題について一般的に論じるときに念頭していた命題の主語、述語、繋辞 それぞれの指すことを明らかにする。そうすることで、トマスにとって「S は P である」とい う命題に基本形と呼べるものがあることも示したい。 56 いるとトマスは考えているとされる。この H. Veatch の解釈についてまず検討してみよう。 序で引用したテキスト(註 6)によれば、たとえば「人間は色白いものである」という命 題において主語「人間」と述語「色白いもの」は「概念的には別なものを表示している」 。す なわち、別のテキストによれば11) 、主語「人間」は「感覚的本性と知性的本性を持つもの」 (これは、以下、論述の便宜上、序で引用したテキスト(註 6)に依拠して「理性的本性を持 つもの」と等しいとみなす)という普遍的概念を表示し、述語「色白いもの」は「色白さを 持つもの」という普遍的概念を表示する。しかし、「理性的本性を持つもの」という概念と 「色白さを持つもの」という概念は明らかに別の概念である。すなわち、概念的には別のも のである。 他方、この命題において主語「人間」と述語「色白いもの」は「実在的には或る意味で同 じものを表示」している。すなわち、主語「人間」と述語「色白いもの」の表示するものは、 「基体的には同じ」である。すなわち、主語「人間」は、基体において「理性的本性を持つ もの」という個体を表示し、述語「色白いもの」はその同じ基体において「色白さを持つも の」という個体を表示し、それら両者の個体はあらゆる意味で同じではないが、「或る意味 で」、すなわち基体を同じくするという意味で同一の個体である。「人間は色白いものであ る」という命題は、このように、同じ基体において理性的本性と色白さという本性が個体化 されてあるという事態を表示する。この命題における繋辞「である」は主語「人間」と述語 「色白いもの」のそれぞれの表示するものの上記のような基体における同一性を表示すると 思われる。 しかし、上記のように解釈されるトマスの主張に対して、次の疑問が呈されるかもしれな い。すなわち、たとえば同一の主語「人間」が、「理性的本性を持つもの」という普遍的概 念と、基体において「理性的本性を持つもの」という個体という、互いに別の二つのものを 表示することがあるのか―この疑問はたとえば同一の述語「色白いもの」に対しても向け られる。この疑問に対しては次のように答えることができると推測される。主語「人間」と 述語「色白いもの」はそれぞれ単独で解された場合、それぞれ普遍的概念を表示し、その場 11) S. T., I, q. 85, a. 5, ad 3. 命題に関する二通りの理論/57 合、その両普遍的概念は概念的には別なものであるが、他方、主語「人間」と述語「色白い もの」は「人間は色白いものである」という命題を構成しているものとして解された場合、 それぞれは基体において同じ個体を表示する。つまり、主語と述語は単独で解される場合と 命題の構成要素として解される場合では表示するものが異なると思われる。このように、用 語法が確立していないとはいえ、後にも述べるように、トマスは文脈によって表示されるも のを区別する「代示 suppositio」に当たる理論を持っていると思われる12) 。 トマスのテキストに関する以上のわれわれの解釈が正しいとすれば、H. Veatch の解釈は 正しいと言わなければならない。すなわち、トマスによれば、“a pig is pink” という命題にお いて主語 “a pig” は “a thing that has pig-ness” という個体を表示し、述語 “pink” は “a thing (=a pig) that has pink-ness” という個体を表示し、繋辞 “is” はそれら両個体が基体において 同じであることを表示する。したがって、“a pig is pink” という命題は “a pig is a pink pig” を意味しており、“is” は “a pig” の指す実体と “a pink pig” の指す実体との実在的同一性を 表示しているとトマスは考えていると主張する H. Veatch の解釈は正しいと思われる。 II P. T. Geach の解釈についての検討 次に、P. T. Geach の解釈について検討しよう―P. T. Geach の解釈によれば、“is pink” と いう述語付けはピンク色という形相が主語の指す個体において見出されることを指すとトマ スは考えている。その前に次の疑問が生じるかもしれない。その疑問とは、そのような検 討がなされるまでもなく、H. Veatch の解釈が正しいと分かった以上、P. T. Geach の解釈が 誤っていることは明らかではないか、というものである。ところが、事はそのように簡単に は解決されない。以下に示すように、トマスは P. T. Geach が示すような命題理解を確かに 持っているのである。 12) トマスは当時の論理学書を読んでいたと言われており、代示理論の知識を持っている。In Sent., III, d. 6, q. 1, a. 3; S. T., III, q. 16, a. 9, ad 3. なお、In Sent. にはマンドネ・モース版を用いた。 58 II-1 命題において主語は何を「代示する」か われわれは H. Veatch が依拠した上記のテキストとは別のテキストに依拠して考察を進め たい。最初に「S は P である」という命題における主語と述語について検討しよう。トマス が主語と述語に関して述べた二つのテキストをまず引用したい。 知性は、自らが主語の側に措定するものを基存体(suppositum)の側へ帰し(trahere) 、 述語の側に措定するものを基存体に内在する形相という本性へ帰すかぎりで、述語は 形相的に保持され、主語は質料的に保持されると言われるのである13) 。 主語に置かれる項は質料的に、すなわち基存体として(pro)保持される(teneri) 。他 方、述語に置かれる項は形相的に、すなわち表示された本性として(pro)保持され る14) 。 すなわち、トマスによれば、主語は基存体の側へ帰せられて基存体として質料的に保持さ れ、述語は基存体に内在する本性に帰せられて「表示された本性」として形相的に保持され る。たとえば「人間は動物である」という命題において主語「人間」は個的人間という基存 体を代示し、述語「動物」は、その基存体に内在する本性を代示する。そして、「質料的」、 「形相的」と言われていることから容易に予想されるように、この命題は、「形相」にあたる 動物という本性が、 「質料」にあたる基存体である個的人間に内在することを指している15) 。 ところで、ここまで「代示」という言葉を、上記で引用したテキストではトマスが明示的 には使っていないにもかかわらず敢えて用いたが、命題に関するトマスの理論についての解 釈にこの「代示」という用語を用いる正当性は次のテキストが保証すると思われる。 同じものがそのもの自身に述語される命題において、〔中略〕述語は形相的に保持さ 13) S. T., I, q. 13, a. 12. 14) S. T., III, q. 16, a. 7, ad 4. 15) 以上のことに関して次の箇所も参照。S. T., I, q. 16, a. 2; In Met., IX, l. 11, n. 1898. なお、In Met. にはマリエッティ版を用いた。 命題に関する二通りの理論/59 れ、主語は質料的に保持されると言われるかぎりで、知性は主語の側に置くものを基 存体の側へ帰し、述語の側に置くものを基存体において存在する形相という本性へ帰 するのである16) 。 すなわち、たとえば「人間は人間である」という命題において主語の「人間」は個的人間と いう基存体を指し、述語の「人間」はその基存体において存在する人間本性を指す。つまり、 同じ「人間」という項辞は主語に置かれるか、述語に置かれるか、という文脈によって指す ものを変えると言われている。これはその用語こそ使われないものの、実質的には「人間」 という項辞の「代示」について語られているに等しい。 それゆえ、以下、われわれは主語に置かれた項辞は基存体を「代示」し、述語に置かれた 項辞はその基存体において内在する本性を「代示」するという用語法を採用したい。 以上の考察からだけでもトマスは H. Veatch の示す解釈のようにだけではなく、その解釈 の示す仕方と別の仕方でも命題を理解していたことは明らかである。以下、その「別の仕 方」の理解とはいかなるものかに関する考察を継続しよう。 まず改めて、トマスによれば、たとえば「人間は動物である」という命題において主語 「人間」が個的人間という基存体を代示することを次のテキストから確認したい。 普遍が諸個体においてあるかぎりで、或る何らかのものは普遍に帰属される。このこ とは二通りの仕方で起こる17) 。 〔或る何らかのものが普遍に帰属されるのは、〕或る場合、普遍的な本性そのものの ゆえにである。たとえば、普遍に、その普遍の本質に属するもの、あるいは、本質的 な諸原理に随伴するものが帰属される場合である。たとえば、「人間は動物である」、 あるいは、「人間は笑いうる」と言われる場合を思えばよい18) 。 16) S. T., I, q. 13, a. 12. 17) この引用では、煩を避けるため、その二通りの仕方の内、一通りの仕方を引用するに留める。 18) In Periherm., I, l. 10, n. 126. In Periherm. の節番号にはマリエッティ版を用いた。 60 つまり、「人間は動物である」という命題における主語「人間」は「個体においてあるかぎ り」での、すなわち、個体(=基存体)としての人間を代示する。そして、このテキストで は、その個体としての人間における人間本性という普遍には、人間という普遍的な本性ゆえ に、その本性に属するものである動物が帰属されると述べられている。 ここまでで命題における主語に関しては或る程度のことが明らかになったと思われる。す なわち、命題の主語は基存体を代示する。主語がたとえ「人間」のような普通名詞であって も、その「人間」は個体としての人間を代示する。 次に、「S は P である」という命題における述語について考察したい。 II-2 述語付け「P である」は何を表示するか ここまでで「S は P である」という命題における述語は、基存体に内在する本性を代示す ることが分かっている。そして、その命題の主語に対して形相的に関係している。ところ で、 「述語付け praedicare」という言葉があり、この言葉は述語 “P” と繋辞「である」から構 成されるもの「P である」を指す。われわれは、以下、考察の便宜上、 「S は P である」とい う命題における「P である」という述語付けを考察する形を取り、述語だけでなく、繋辞に ついても同時に考察したい。その考察を次の引用から始めよう19) 。 (1)エンスは述語付けの多様な様態(modus)に応じて多様な類へと限定されるので なければならない―というのも、その述語付けの多様な様態は、エッセの多様な様 態に準拠しているからである。というのも、 (2) 「エンスが語られる数だけ」、すなわ ち、或る何かが述語付けられる様態に応じて、 「エッセが表示される」 、すわなち、 (3) その述語付けの様態に応じて、或る何かとしてのエッセ(aliquid esse)が表示される からである。〔中略〕(4)どのような述語付けの様態であれ、その様態と同じものを エッセは表示するのでなければならない。(5)たとえば、「人間は動物である」と言 われるとき、エッセは実体を表示している。他方、「人間は色白いものである」と言 19) 次のテキストの解釈は花井一典(1987a),64-66 頁を参考にした。 命題に関する二通りの理論/61 われるとき、エッセは質を表示しており、他のものについても同様である20) 。 (なお、番号は筆者による。) すなわち、この引用の後半(5)にあるように、 「人間は動物である homo est animal」という 命題におけるエッセ(esse) 、すなわち「である est」は実体を表示している。つまり、 (4)で 述べられるように、「動物である」という動物の述語付けにおける「である」は、「動物」と いう述語付けの様態と同じものとしてのエッセ―このエッセは先の研究21) で論じた「実 在的エッセ esse naturale」22) であると思われる(以下、断らない限り「エッセ」とは実在的 エッセを指す)―、すなわち実体としてのエッセを表示している23) 。このように、「人間 は動物である」という命題にあって「動物である」という動物の述語付けにおける「である」 は直接に主語「人間」にかかるのではなく、述語「動物」にかかっている24) 。 つまり、テキスト前半(3)に述べられるように、「動物である」によって、「述語付けの 様態」 (動物という様態) 「に応じて、或る何かとしてのエッセ(aliquid esse)」 (動物として のエッセ) 「が表示される」のである。テキストにおいて、この一文(3)と置換される文章 (2)―すなわち、「『エンスが語られる数だけ』、すなわち或る何かが述語付けられる様態 に応じて、『エッセが表示される』」―も同じことを述べている。つまり、この文章におい て、エンスとは “quod est”、すなわち本質 P(=quod)とエッセ(=est)の結合体を指す。ゆ えに、 「何らかの本質 P + est」というエンスは “P est” という “P” の述語付けを指すと考え 20) In Met., V, l. 9, n. 890. 21) 片上(2009) .トマスによれば、 「エッセ」には、言うなれば「実在的エッセ esse naturale」を指 す用法と、「命題の真理を表示する」と言われる用法があり、 「エッセ」はこの二通りの用法に 二区分される。この先の研究は、このような「『エンス』ないし『エッセ』の二区分」の意味す るところを明らかにした。 22) 「実在的エッセ」とは、 「実在世界に in rerum natura」に対応する何かを持つものの本質(essentia) を現実化するエッセである。 23) 同様に、「人間は色白いものである」という命題における「である」は「色白いもの」という質 としてのエッセを表示している。 24) Cuadrado (2006), p. 389 は「S は P である」における「である」は第一義的には主語 “S” の表示 する S の現実的完成を指すと解釈しているが、われわれはその解釈に反対である。 62 てよい。であるから、「エンス」(=“P est”)「が語られる数だけ、すなわち或る何か」(=P) 「が述語付けられる様態」(= P という様態)「に応じて、」(P としての)「『エッセが表示さ れる』」と述べられているのである25) 。 しかるに、(1)で言われるように、「述語付けの多様な様態は、エッセの多様な様態に準 拠している」。たとえば、「動物である」という動物の述語付けの様態は、動物というエッセ の様態に準拠している。実際、既述のように、「動物である」は動物としてのエッセを表示 している26) 。 II-3 繋辞「である」は何を表示するか 前節の考察から “P” の述語付け「P である」は P という本性に規定されたエッセを表示す ることが明らかになった。ところで、その述語付け「P である」において「である」は繋辞 と呼ばれる。しかるに、「S は P である」という命題において P としてのエッセを表示する 「P である」が、いかにして主語 “S” の代示する基存体と述語 “P” の代示する本性を「繋ぐ」 のであろうか。この問いに答えるためには次のテキスト27) が参考になる。 “est” というこの述べ言葉が複合を併せ表示しているのは、複合を第一義的にではな く、付随的に表示しているからである。すなわち、“est” は、絶対的に現実性という仕 方によって知性に入って来るものを第一に表示している。実際、“est” は、端的に語 られる場合、現実態におけるエッセ(in actu esse)を表示しているのである。それゆ え、述べ言葉の仕方で表示しているのである。しかるに、“est” というこの述べ言葉 25) なお、このようなエンスの用法に関しては、In Periherm., I, l. 5, n. 71 参照。 26) ところで、テキストの(1)で、 「エンスは述語付けの多様な様態に応じて多様な類へと限定さ れるのでなければならない」と言われている。この意味は、認識においては、実在の側のエッ セの様態の徴表である述語付けの様態に応じて、知性はエンスをそれぞれの類へと分類すると いう意味であろう。 27) このテキストの解釈は Hoenen (1953), esp. pp. 93-94; Zimmermann (1971), pp. 290-294; 花井 (1987b),110-113 頁を参考にした。 命題に関する二通りの理論/63 が第一義的に表示している現実性は、実体的形相ないし実体的現実態であれ、付帯的 形相ないし付帯的現実態であれ、共通的にすべての形相ないし現実態の現実性である から、それゆえ、どんな形相ないし現実態でも、それが或る基体に現実的に内在して いることをわれわれが表示しようと欲するとき、われわれはそれを “est” というこの 述べ言葉によって表示するのである。〔中略〕したがって、付随的に “est” というこの 述べ言葉は複合を表示するのである28) 。 すなわち、 「である est」は、 「現実態におけるエッセ」を表示しているが29) 、そのエッセとい う現実性は、実体的形相ないし付帯的形相を問わず、すべての形相の現実性を表示する― なお、この場合、形相は本性と言い換えてもよい。つまり、 「P である」とは、実体的本性で あれ、付帯的本性であれ、述語 “P” が指す任意の本性がエッセによって現実化されることを 表示する―それゆえ、 「P である」の否定「P であらぬ non est P」は、その本性がエッセに よって現実化されていないことを表示する。以上のことは前節で述語付け「P である」につ いて明らかになったことの確認と言ってよい。 28) In Periherm., I, l. 5, n. 73. 29) この点、興味深い。現代、われわれは be 動詞に存在と繋辞の二義があることを知っている。す なわち、現代西洋語にあって、“a dog is”,“un chien est” などの形式の表現は、普通、成り立た ないものの―西洋古典語にあっては “kÔwn âstÐn”,“canis est” という形式の表現は普通に成 立する―、“a dog is in a garden”,“un chien est dans un jardin” などの表現からわれわれは be 動詞に確かに存在の意味があると考えている。しかし、繋辞を専ら主語と述語の結合とのみ解 しがちであり、それゆえ、繋辞が存在の意味を持つことには想到し難い。ところが、繋辞が主 述の結合を専業とするならば、繋辞の果たす役割を引き受けるのは be 動詞である必要はなかっ たのであって、別の何らかの言葉でもよかったはずである。にもかかわらず、be 動詞が存在と 繋辞の役割を兼ね備えている点、存在と繋辞のただならぬ関係を予想させる。実際、印欧語と は別系統の言語である日本語にあっても、繋辞の役割は「である」という、少なくとも存在と 密接な関係を持つ語が用いられている―トマスによれば、 「である」は第一義的には存在を表 示する。それゆえ、これから解釈が施されるトマスの理論は繋辞と存在のこの密接な関係を説 明し、繋辞の役割として主述を結合させることのみを念頭する現代人の偏見を打破する視点を 提供する。 64 以上のことを述べた後、テキストでは「それゆえ、どんな形相ないし現実態でも、それが 或る基体に現実的に内在していることをわれわれが表示しようと欲するとき、われわれはそ れを “est” というこの述べ言葉によって表示するのである」と言われている。これはどのよ うな意味であろうか。 先程、 「S は P である」という命題において主語 “S” は基存体を代示し、述語 “P” は、そ の基存体 S に内在する本性を代示するのであり、「S は P である」という命題全体は S とい う基存体にその本性が内在することを指すとされたことを想起されたい。このことを考慮す れば、問題の一節は次のように解釈できる。 すなわち、 「P である」とは、実体的本性であれ、付帯的本性であれ、任意の P という本 性がエッセによって現実化されることを表示する。「それゆえ、どんな形相ないし現実態で も」、その任意の形相(=本性)P が、主語の代示する「或る基体」(=基存体)S「に現実 的に内在していることをわれわれが表示しようと欲するとき、われわれはそれを “est” とい うこの述べ言葉によって」“S est P” という形で「表示するのである」 。つまり、 「S は P であ る」という命題において繋辞「である」は第一義的には述語 “P” の代示する本性 P を現実化 しているエッセを表示するのであるが、主語 “S” によって、その本性 P が繋辞「である」の 表示するエッセによって現実化されて内在する先の基存体 S が特定されることにより、「付 随的に “est” というこの述べ言葉は」、その本性 P の基存体 S への内在、すなわち、本性 P の基存体 S への「複合を表示するのである」30) 。 30) ちなみに、De ente., c. 3 において、絶対的に考察された本性は、 「諸個体においてはそれら諸個 体が種々異なるに応じて多様なエッセを持つ」、すなわち、諸個体に内在すると言われ、また、 諸個体に述語付けられると言われている。しかるに、 「P である」という “P” の述語付けは、本 性 P が基存体(=個体)に内在することを表示するのであった。それゆえ、本性の諸個体への 内在と述語付けは、後者が前者を表示するという関係にある。前者が成立するから、後者が成 立するという関係でもある。この関係を念頭に、普遍(=絶対的に考察された本性)は「本性 的に多くのものに内在し、多くのものに述語付けられるもの」 (In Met., VII, l. 13, n. 1572)であ るというトマスの言葉は読まれるべきである。絶対的に考察された本性については片上(2008) を参照されたい。 命題に関する二通りの理論/65 このような仕方で「“est” というこの述べ言葉」は「複合を併せ表示している」(強調は筆 者による)のである。つまり、「複合を第一義的にではなく、付随的に表示している」ので ある31) 。 以上の考察から、P. T. Geach の解釈は正しいと結論せねばならないだろう。トマスによ れば、“a pig is pink” という命題において主語 “a pig” は個的豚という基存体を代示し、“is pink” という述語付けは “pink” の代示するピンク色という形相が主語 “a pig” の代示する個 的豚という基存体において “is” の表示するエッセによって現実化されていることを表示す る。このトマスの命題理解は、“is pink” という述語付けはピンク色という形相が主語の指す 個体において見出されることを指すと主張する P. T. Geach の解釈に合致している32) 。 結語 以上の考察からわれわれは序で提起した問いに対して答えることができる。すなわち、結 論から述べると、トマスは「S は P である」という命題について H. Veatch と P. T. Geach が それぞれ示すような二通りの命題に関する理論を採用している。つまり、トマスは或るテキ ストでは次のことを述べている(以下、 〈命題理論 A〉と呼ぶ) 。たとえば “a pig is pink” とい う命題において主語 “a pig” は “a thing that has pig-ness” という個体を表示し、述語 “pink” 31) 繋辞「である」が複合を表示するのは、 「併せ」て「付随的に」であるという側面に焦点を合わ せれば、 「S は P である」という命題における中心となる核は、任意の本性 P のエッセによる現 実化にあることが分かる。実際、トマスは真なる肯定命題を「現るもの quod est」(=(現実に ある)本性)「がある est」として偽なる否定命題を「現らぬもの quod non est」 (=(現実にあ らぬ)本性) 「があらぬ non est」としてみなして、 「S は P である」という形ではなく、 「P があ る」という形に焦点を合わせて命題を捉えている(In Periherm., I, l. 9, n. 111-112) 。 32) ただし、P. T. Geach は、註 8 で引用された論文で主張しているように、たとえば “white” のよう な述語は対象を代示しないと解している点はトマスのテキストに即していないと思われる。加 えて、P. T. Geach は繋辞そのものに関する解釈は提示していないことも指摘しておきたい。 66 は “a thing (=a pig) that has pink-ness” という個体を表示し、繋辞 “is” はそれら両個体が基 体において同じであることを表示する。したがって、“a pig is pink” という命題は “a pig is a pink pig” と換言されうるとも言え、“is” は “a pig” の指す実体と “a pink pig” の指す実体と の実在的同一性を表示しているとも言える。以上のトマスの主張に H. Veatch の解釈は合致 していると思われる。 他方、トマスは或るテキストでは次のことを述べている(以下、〈命題理論 B〉と呼ぶ)。 すなわち、たとえば “a pig is pink” という命題において主語 “a pig” は個的豚という基存体 を代示し、“is pink” という述語付けは述語 “pink” の代示するピンク色という形相が主語 “a pig” の代示する個的豚という基存体において繋辞 “is” の表示するエッセによって現実化さ れていることを指す。以上のトマスの主張に P. T. Geach の解釈は適合していると思われる。 したがって、われわれは H. Veatch と P. T. Geach の双方ともに正しい解釈を提示している と結論する。トマスは「S は P である」という命題について上記の二通りの命題理論を採用 している、と言わざるをえないと思われる―この点、管見によれば、従来の研究では指摘 されていないと思われる33) 。 複数のテキストを照らし合わせた以上の考察の結果、トマス哲学において「S は P であ る」という命題の「基本形」と呼べるものがあることが明らかになったと思われる。その基 本形とは(質料的事象の)個体が(質料的事象の)本性―この本性に付帯的本性のみなら ず、実体的本性も含まれる―を持って実在的エッセによってあることを表示する命題であ る34) 。 33) 従来の研究の多くは P. T. Geach が示す〈命題理論 B〉を研究対象としている。 〈命題理論 B〉を 研究対象とした優れた研究として Hoenen (1953); Zimmermann (1971); 花井(1987b)が挙げら れる。 34) この基本形の規定において括弧付きで「質料的事象の」という限定を加えたのは次の理由から である。すなわち、トマスによれば、われわれの自然本性的認識は感覚に端緒を取るゆえ、可 感的なものによって導かれうる範囲のものにしか及ぶことができない(S. T., I, q. 12, a. 12)。わ れわれの認識の本来的対象は可感的なものである質料的事象であり―実際、人間知性の固有 の対象は、質料的事象の本性であるとされる(S. T., I, q. 84, a. 7; q. 87, a. 2, ad 2)―、上記の ように、自然本性的に認識可能な範囲も質料的事象に導かれうる範囲までという形で質料的事 命題に関する二通りの理論/67 ところで、トマスは命題に関する自らの理論において〈命題理論 A〉と〈命題理論 B〉そ れぞれにどのような位置づけを与えていたのであろうか。この点に関する詳しい考察は別稿 を期したい。小論では〈命題理論 A〉と〈命題理論 B〉の次のような関係について触れるに とどめたい。 すなわち、 〈命題理論 A〉と〈命題理論 B〉は次のように同じ事態を表示しえている。たと えば個的人間に色白さが付帯しているという同一の事態を「人間は色白いものである」とい う命題によって〈命題理論 A〉は主語「人間」が表示する個的人間というエンスと述語「色 白いもの」が表示する色白さを持つものという個的エンスが基体において同じ個的エンスで あることを示す形で表示し、他方、〈命題理論 B〉は主語「人間」の代示する個的人間とい う基存体において述語「色白いもの」の代示する色白さという本性が繋辞「である」の表示 するエッセによって現実化されていることを示す形で表示する。ただし、表示の仕方は異な る。すなわち、〈命題理論 A〉は主語も述語も基体において同じ個的エンスを表示するのに 対して、〈命題理論 B〉は主語も述語も繋辞もそれぞれ異なる存在論的構成要素を指す。 以上の考察はトマスにおける「S は P である」という命題のあくまで基本形についての意 味論的研究であった。しかし、「S は P である」という命題には、当然、基本形以外の形も ある35) 。その「S は P である」という命題の基本形以外の形についての解明は向後の課題と したい。 [参考文献] Carroll, L. (1887). The Game of Logic, London, Macmillan. Cuadrado, A. J. A. G. (2006). “Existence et vérité : nom et verbe dans l’Expositio libri Peri hermeneias 象に制約されている。それゆえ、トマスにとって、われわれ人間においては質料的事象に関す る命題が一つの基本形となると思われるので、われわれは上記の基本形の規定に「質料的事象 の」という限定を書き加えたのである。 35) たとえば、主語が個体ではなく普遍的本性を指す命題や、述語が概念のような非実在的なもの を指す命題、あるいは、繋辞が実在的エッセではなく、命題の真理を表示するエッセを指す命 題など。 68 de Thomas d’Aquin”, Revue Thomiste, 64, pp. 355-392. Geach, P. (1950). “Subject and Predicate”, Mind, 59, pp. 461-482. ——— (1961). Three philosophers, Oxford, B. Blackwell. ——— (1962). “Subject and Predicate” in Reference and Generality: An Examination of Some Medieval and Modern Theories, New York, Cornell University Press, pp. 22-46. ——— (1969). “Form and Existence” in God and the Soul, London, Routledge & Kegan Paul, pp. 42-64. Hoenen, P. (1953). La Théorie du jugement d’après St. Thomas d’Aquin, Roma, Apud aedes Universitatis Gregorianae. Veatch, H. (1974). “St. Thomas’ Doctrine of Subject and Predicate” in St. Thomas Aquinas 12741974: Commemorative Studies, Toronto, Pontifical Institute of Mediaeval Studies, pp. 401422. ——— (1986). “Being and Predication” in Being and Predication: Thomistic Interpretations, Washington, D. C., The Catholic University of America Press, pp. 173-228. Weidemann, H. (1986). “The Logic of Being in Thomas Aquinas” in The Logic of Being: Historical Studies (ed. Kununtila, S., Hintikka, J.), Dortdrecht / Boston / Lancaster / Tokyo, D. Reicel, pp. 181-200. Zimmermann, A. (1971). “„Ipsum enim <,est‘> nihil est“ (Aristoteles, Periherm., I, c. 3). Thomas von Aquin über die Bedeutung der Kopula”, Miscellanea mediaevalia, 8, pp. 282-295. 片上茂樹(2008). 「絶対的に考察された本性とは何か―トマス・アクィナスにおける普遍と知 性」 『中世思想研究』,第 50 号,76-90 頁. ———(2009).「エンス(ens)の二区分の意味―存在命題への一考察」『アルケ―』,第 17 号, 70-79 頁. 長倉久子(1990).「トマスにおける実在と言葉―言葉の分析より ESSE の意味へ―」 『中世思 想研究』 ,第 32 号,21-41 頁. 花井一典(1987a).「エッセと判断―トマスの判断論への一考察―」『中世思想研究』,第 29 号,61-69 頁. ———(1987b).「トマスのエッセ把握と存在述語」 『哲学』日本哲学会編,第 38 号,107-117 頁. ———(1995).「Be 動詞と無時間的場所―トマス・アクィナス研究序説―」『北海道哲学会 会報』 ,第 42 号,1-13 頁. [筆者:京都大学非常勤講師]
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