五十嵐浚明の作品に関する一考察

大森慎子「五十嵐浚明の作品に関する一考察」
五十嵐浚明の作品に関する一考察
︺
。
五 十 嵐 浚 明 君 還 越 後 ﹂ を 贈 ら れ た の を は じ め、 多 く の 友 人 か ら 詩 書 画︹ 註
う と し た 研 究 者 や 郷 土 史 家 ら に よ っ て 行 わ れ て き て お り、 そ の 研 究 成 果 は 多 く
︺。これは、五十嵐浚明の作品の多くが
は展覧会や講演会という形で発表されている。しかし、まとまった形での図録
延 享 元 年 春 、 お そ ら く 帰 郷 に 際 し て 、 そ の 前 に 法 眼 位︹ 註
われる。
︺
︺を得ていると思
︺が生まれる。その後年代は不明であるが、三
︺ が 生 ま れ、 ま た 後 に 女 の 子 が 生 ま れ て い る。 三 人 の 息 子 た ち は、
個人所有のものであり、作品の所在をたどり、長期間にわたる根気のいる調査
新 潟 で は、 宝 暦 四 ∼ 六 年 と 飢 饉 が 続 き、 宝 暦 七︵ 一 七 五 七 ︶ 年 の 四 月 下 旬 ∼
ちが出ると、浚明は私財を売り払い多くの人々を救ったと言われている。
15
れる。
宝暦九︵一七五九︶年、浚明六十歳の時、藤原大納言︵柴山納言︶︹註
︺よ
五 月 上 旬 に 信 濃 川 及 び 阿 賀 野 川 各 地 で 破 堤 す る な ど し て、 多 く の 困 窮 す る 者 た
皆絵の才能に恵まれていた。
男元敬︹註
︵一七四六︶年に次男元誠︹註
帰 郷 し て か ら は、 一 度 も 新 潟 を 出 る こ と が な か っ た と 伝 え ら れ る。 延 享 三
12
り﹁呉﹂姓を賜る。以後、明和六︵一七六九︶年に呉姓を返上するまで﹁呉浚明﹂
︹註 ︺を名乗る。
︺ が、 末 子 の 安 庸 を 伴 っ て 訪 ね て 来 る。 翌 日 に は 夜 更 け ま で 父 子 三 人︵ 浚 明、
宝暦一二︵一七六二︶年七月五日、在京時代に知己を得ていた三浦迂斎︹註
16
こ こ で は、 五 十 嵐 浚 明 作 品 の 制 作 に つ い て、 一 考 察 を 記 す こ と で、 今 後 の 浚
明研究の一助になればと思う。
二、五十嵐浚明の経歴
名 は 安 信、 後 に 浚 明、 字 は 方 篤︵ 方 徳 ︶
、 後 に 孤 峰、 号 は 穆 翁、 竹 軒。 元 禄
一 三︵ 一 七 〇 〇 ︶ 年 新 潟 町 の 商 家 佐 野 家 に 生 ま れ る。 父 は 佐 野 義 直。 し か し、
︺。浚明はこれに恩義を感じ、佐野ではなく自ら五十嵐姓を名
顧行、元誠︶の絵を見せ、﹃逆旅勧盃一大冊子﹄を贈っている。迂斎らは十日に
は別れを告げて新潟を発つが、十二∼十八日に岩室温泉で逗留する間、絵を習
わせるために息子を新潟の浚明の家へ遣わしている︹註 ︺。
明和二︵一七六五︶年、浚明六十六歳の時、松前候の注文を受け、三国志を
︺。
家督を継ぐ。しかし、家督はほどなく、元敬に譲られる。
︺が生まれる。この二
安永三︵一七七四︶年、次男元誠の子、主善︵竹沙︶︹註
永四︵一七七五︶年、三男元敬の子、其正︵北汀︶︹註
︺が生まれ、翌安
明 和 七︵ 一 七 七 〇 ︶ 年、 長 男 顧 行 が 二 十 八 歳 で 死 去。 次 男 元 誠 が 二 十 五 歳 で
入れ始める。
明和三︵一七六六︶年、浚明六十七歳。この頃より、浚明落款に自分の年を
題材にした作品制作を行う︹註
19
幼くして両親を亡くし、家が絶えるのを憐れんだ五十嵐五郎兵衛に引き取られ、
育てられる︹註
乗ったという。絵は幼少の頃からすでに趣をそなえていたと言われている。成
︺に学ぶ。しかし、狩野派の教えに飽き足らず、一年ほどで帰郷する。
き っ か け は 不 明 で あ る が、 浚 明 三 十 歳 の 時、 絵 師 を 志 し、 江 戸 へ 出 て 狩 野 良
長してからは家業を継ぎ、働いていた。
信︹註
︺。ついには、狩野派
す ぐ に 京 へ 行 き、 同 郷 の 竹 内 式 部 に つ い て 経 学 を 修 め、 宇 野 明 霞 の 門 に 入 る。
梁楷、張平山に私淑し、
﹁その格を変じ﹂たという︹註
17
55
│二│
︺が生
で も な く、 土 佐 派 で も な く、 南 宋 画 で も 北 宋 画 で も な い 独 自 の 画 境 を 開 き、 そ
の名声は世に広まったという︹註
寛 保 三︵ 一 七 四 三 ︶ 年 伊 藤 家 か ら 嫁 い だ 妻 と の 間 に 長 男 の 顧 行 ︹ 註
︵一七四四︶年には十四年間の京都での生活に区切りを付け、越後新潟町へ帰郷
ま れ る。 こ の 頃、 浚 明 は 新 潟 へ 帰 る こ と を 決 意 す る。 そ し て、 延 享 元
一、はじめに
い 池 大 雅 か ら 詩 画﹁ 渭 城 柳 色 図 ﹂
︵ 敦 井 美 術 館 所 蔵 ︶ を、 竹 内 式 部 か ら 詩﹁ 送
五十嵐浚明である。越後絵画史に欠かせない重要な人物であるにもかかわらず、
を受け取っている。
︺
、
宇 野 明 霞 の 詩 が 贈 ら れ た の は 浚 明 が 旅 立 つ 前 年、 寛 保 三︵ 一 七 四 三 ︶ 年 十 月
︺、片山北海︹註
全 国 レ ベ ル の 近 世 画 人 を 記 し た 古 い 文 献 に も 必 ず 名 前 が 記 載 さ れ て い る の で、
11
で あ る。 詩 の 題 か ら、 こ の 時 す で に 法 橋 位 を 得 て い る こ と が 分 か る。 そ し て、
あ ま り 研 究 が 進 ん で い な い。 新 潟・ 越 後 関 係 の 人 物 を 記 し た 書 物 だ け で な く、
する。この時、餞別として、宇野明霞から詩﹁送法橋嵐君還越後﹂を、まだ若
越後絵画史を紐解く時、新潟の画人として一番最初に名前を上げられるのが、
大森
慎子
10
9
当 時 は 全 国 に 名 が 通 っ た 画 人 で あ っ た と 思 わ れ る。 文 献 に 見 ら れ る 交 流 の あ っ
︺、宇野明霞︵士新︶
︹註
︺
、などがあげられ、幅広い人間関係も伺われる。
3
五十嵐浚明の研究については、これまで新潟の美術史について明らかにしよ
池大雅︹註
た主な人物には、竹内式部︹註
1
や 論 文、 そ の 他 著 作 物 は 数 少 な い︹ 註
13
4
が 必 要 で あ る こ と か ら、 著 作 物 等 に は 残 し に く い こ と も 要 因 の ひ と つ と 考 え ら
5
14
2
8
20
6
18
21
7
新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要 第 3 号(2015年 3 月)
五十嵐浚明関係年譜 岩田多佳子氏作成年表(2007年 3 月10日新潟市歴史博物館「新潟・文人去来」展関連講座「五十嵐浚明について」資料)を基に改編。 ※は竹内式部関係。
元禄一三
和暦
庚辰
干支
年齢
関連記事
︵
︶内数字は年齢を表す
新潟の商家佐野家に生まれる。
幼い頃両親を亡くし五十嵐五郎兵衛に育
てられる。
江 戸 に 出 て 狩 野 良 信 に 学 ぶ も、 一 年 ほ ど
で帰郷する。
※ 竹 内 式 部︵ ︶ 京 へ 上 り 大 徳 寺 家 に 仕
える。
人は若い頃、合作をいく
明の突然の帰郷、帰郷後は新潟を出なかったこと、そして呉姓を賜ったことや
の 念 が 特 に 強 か っ た 浚 明 が、 十 四 年 も の 間、 京 都 に と ど ま っ て い た こ と や、 浚
浚明が始めに画の手ほどきを受けたのが僧可存と伝えられているが、この人
ことは、浚明像を明らかにする上で今後必要であろう。
名乗らなくなったことなど、竹内式部との関わりとの中で浚明の生涯を見直す
つか残している。
︺の勅命
安永六︵一七七七︶年、
後桃園帝︹註
を 受 け て、 絹 三 枚 に 松
物については明らかでない。また、息子たちのほかに浚明に絵を学んだと言わ
︺などが
れているのは、廣嶋維明︹註
︺
、芳明︹註
鶴、寿老人等をそれぞれ
︺
、森蘭斎︵登明︶︹註
描いたものと、唐紙に祝
︺
浚明の孫の世代では、元誠の長子の江戸で活躍した主善︵竹沙︶、地元で医師
も京都で浚明に画を学んだと言われている。
となった二男の主䉇、元敬の長子其正︵北汀︶、二男の其遠︵榕堂︶、巌田家へ
い る。 松 尾 芭 蕉 の 弟 子 各 務 支 考 に 俳 句 の 才 を 認 め ら れ た 加 賀 の 千 代 女︹ 註
に対し歌所の山科中納言
画五枚を描いたものを軸
に五色の歌を作らせ、浚
嫁いだ浚明の娘の子怒卿︵洲尾︶
︹註
︺ も ま た、 詩 書 画 と も 優 れ た 才 能 を 発 揮
明に賜った。またこの事
した。浚明の子や孫に学んだ者も少なくない。
文 も 残 さ れ て お り、 文 政 五︵ 一 八 二 二 ︶ 年 の 雲 洞 編﹃ 北 越 古 今 詩 選 ﹄
、文化九
絵 画 で 有 名 な 浚 明 で あ る が、 書 も 風 格 の あ る 良 い 作 品 を 残 し た。 さ ら に、 詩
︵一八一二︶の巌田洲尾著﹃萍踪録﹄、文化一一︵一八一四︶年の同じく洲尾の﹃謳
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︺なども当時の浚明を知る貴重な資料として今後のさ
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芳明
森蘭斎
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らなる研究が期待されるところである。
明詩稿﹄
︵全四冊︶︹註
盟集﹄などに収録されて今に伝わる。新潟県立図書館に所蔵される﹃五十嵐浚
後長岡藩主の牧野忠精よ
︺。
自らの死期を悟った浚明
天明元︵一七八一︶年、
︹註
り銀子五枚が賞賜された
︵ 一 七 七 八 ︶ 年 に は、 越
に 対 し、 翌 年 安 永 七
装し献上した。帝はこれ
28
西暦
己酉
帰郷後すぐに京へ上る。
竹内式部につき経学を修める。
長子顧行生まれる。
十月
宇野士新より﹁送法橋嵐君還越後﹂
を贈られる。
仲春池大雅︵ ︶より︽渭城柳色図︾
︵敦
井美術館所蔵︶を贈られる。
三月
竹 内 式 部︵ ︶ よ り﹁ 送 五 十 嵐 浚
明君還新潟﹂を贈られる。
法眼位を叙せられる。
五十嵐浚明帰郷する。
飢 饉 や 洪 水 に よ り 困 窮 す る 人 々 を、 書 画
古器を売り払い、家財を傾けて救う。
次子元誠生まれる。
※七月
宝暦事件により竹内式部幕府に
捕えられる。
27
一七〇〇
享保一四
癸亥
甲子
丙寅
丁丑
戊寅
30
一七二九
寛保
三
延享
元
延享
三
宝暦
七
宝暦
八
己卯
※五月
竹内式部京都から追放される。
公卿芝山納言より﹁呉﹂姓を与えられる。
31
一七四三
一七四四
一七四六
一七五七
一七五八
一七五九
七月
三浦迂斎が末子安庸を伴い訪ねて
来る。﹁逆旅勧盃一大冊子﹂を贈る。
は、白山神社に詣で、両
親の墓を参り、親戚を歴
訪して最後の別れを告
げ、 医 師 三 浦 東 里︹ 註
︺
。
︺らに看取られその生
涯を終えた︹註
以 上、 基 礎 的 な 文 献
︺ に 加 え、 諸 先 輩
32
宝暦
九
壬午
元誠の子
主善︵竹沙︶生まれる。
︹註
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このころより、落款に年齢を入れ始める
元敬の子
其正︵北汀︶生まれる。
のこれまでの研究成果も
踏まえた上で、浚明の経
歴を簡単にまとめてみ
⾑⦕㛵ಀ
宝暦一二
丙戌
丁亥
※八月
竹内式部が明和事件で連座して
八丈島への流刑となる。
※十二月
竹 内 式 部、 八 丈 島 へ 向 か う 途
上三宅島にて没︵ ︶
九月
新 潟 湊 騒 動 起 こ る。 新 潟 明 和 事 件
起こる。
﹁呉﹂姓を返上し、五十嵐姓に復する。
長子顧行没︵ ︶
。次子元誠が家を継ぐ。
後 桃 園 帝 の 勅 命 を 受 け 画 幅 を 献 じ、 歌 所
山科中納言の五色の歌を賜る。
この後程なく家督は三子元敬に譲られる。
天皇に画を献じた褒美として長岡藩主牧
野忠精より銀子五枚を賜る。
た。ここではあまり触れ
なかったが、浚明にとっ
て竹内式部の存在が大き
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一七六二
明和
三
明和
四
己丑
庚寅
甲午
乙寅
丁酉
戊戌
八月十日
五 十 嵐 浚 明 没。 十 五 日 善 導 寺
に葬る。法名
孤峰院俊明義大居士
片 山 北 海 が 誌 銘 を 撰 す。 善 導 寺 境 内 に 文
政 十 三︵ 一 八 三 〇 ︶ 年 竹 沙 と 弟 主 䉇、 洲
尾の兄志遠らにより碑が建立される。
な影響を及ぼしたことは
﹃北越詩話﹄でも言及さ
れている。父母への敬愛
(
『平成
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年度新潟市文
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一七六六
一七六七
安永
七
安永
六
安永
四
安永
三
明和
七
明和
六
一七六八 明和 五 戊子
一七六九
一七七〇
一七七四
一七七五
一七七七
一七七八
壬寅
辛丑
天明
二
庚申
天明
元
一七八二
寛政一二
一七八一
一八〇〇
元 誠 に 応 じ 柴 野 邦 彦︵ 栗 山 ︶ 撰 、 巻 菱 湖
書 に よ る 誌 銘 が 作 ら れ る。 碑 は、 明 治
二 二︵ 一 八 八 九 ︶ 年 浚 明 五 世 の 孫 泰 安 に
よ り、 古 山 文 静 の 協 力 を 得 て 新 崎 の 太 古
山日長堂に建立された。
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22
25
56
75
29
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化財調査概要』より)を基に一部加筆。
28
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23
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1
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70
71
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82
大森慎子「五十嵐浚明の作品に関する一考察」
│四│
︺︵方篤
武者絵は、敦井コレクションの︽宇治川先陣図︾︵明和八︹一七七一︺年︶に
もの、肖像画などが挙げられるが、それぞれに少しずつ描き方が異なっている。
左〔図 3 〕
《画稿 張飛図》新潟市歴史博物館所蔵
右〔図 5 〕魯山玄璠賛《天神湧現図》
三、五十嵐浚明の作品
〔図 4 〕
《笑山全悦像》部分 宗賢寺所蔵
代表され、細やかな筆遣いで繊細に人物や馬を描く。︽毘沙門天︾
︹図
〔図 2 〕
《三十六歌仙図》部分 新潟大神宮所蔵
五十嵐浚明の作品について、
﹃画乗要略﹄
︵天保三︹一八三二︺年︶には﹁人
〔図 1 〕
《毘沙門天》新潟市歴史博物館所蔵
立 美 術 館 で 開 催 さ れ た﹁ 蕭 白 シ ョ ッ ク
曾 我 蕭 白 と 京 の 画 家 た ち ﹂ 展 で は、
蕭白前史の唐画の画家の一人として、浚明が紹介されている。また、﹃舟江遺芳
風 の 絵 を 描 い た 画 家 と し て 扱 わ れ て い る。 二 〇 一 二 年 に 千 葉 市 美 術 館 と 三 重 県
を並べて﹁皆所謂唐画にて各一家の風有り。
﹂と書かれ、
﹁唐画﹂つまり、中国
窓瑣談﹄
︵文政一二︹一八二九︺年︶では、大雅、蕪村、蕭白、祇園南海らと名
物に長ず。設色に工なり。書を善くし、名を一時に著す﹂とある。橘南谿﹃北
る表現に近いものではないかと思われる。
野探幽が描いた︽東照宮縁起絵巻︾
︵日光東照宮所蔵︶などの和漢融合が見られ
那 須 与 一 が 扇 の 的 を 射 ぬ く 場 面 や、 し こ ろ 引 き な ど の 場 面 が 細 か く 描 か れ て い
の︽屋島合戦図︾
︵安永元︹一七七二︺年︶がある。小さな画面に、義経と弁慶、
な紋様を施すなどしている。群像を描いたものとしては、BSN 新潟放送所蔵
落款︶においては、衣文には太い輪郭線を使うものの、色鮮やかな衣装に細か
二 宋 の 外 別 に 門 戸 を 開 く、 名 声 四 方 に 籍 甚 た り、 新 浦 情 話 に 曰 ふ﹃ 画 工 五 十 嵐
氏、 世 以 て 其 妙 手 を 唱 へ、 中 古 画 絵 の 冠 と し て 遠 近 珍 宝 す ﹄ と、 山 水 人 物 皆 之
︺では、描く対象が平安貴族や僧侶などの歌人であるため、より大和絵的
彩色のものとでは大きく描き方も違っている。また、唐画としての位置付けは
五 十 嵐 浚 明 の 作 品 は、 人 物 を 描 い た も の が 多 い が、 人 物 で も 墨 画 の も の と、
展 示 さ れ た︽ 孔 明 謀 事 姜 維 を 伏 す 図 屏 風 ︾
︹註
蔵の六曲一双の屏風︽中国武将図屏風︾や、昨年三条市歴史民俗産業資料館で
三 国 志 や 中 国 武 将 を 描 い た 作 品 で は、 新 潟 県 立 近 代 美 術 館・ 万 代 島 美 術 館 所
肖像画に関しては、浚明四十歳の作品、新潟市江南区横越にある宗賢寺の﹁宗
どは、水墨で描くものと似ている。
な ど、 ま た 違 っ た 趣 き で 描 い て い る よ う に も 見 え る。 松 や 土 坡、 波 の 描 き 方 な
こ れ ら に 関 し て は、 色 彩 を 施 し て い る が、 日 本 の 武 将 図 と は 輪 郭 線 の 描 き 方
3
33
行っている。その下絵︽画稿
孔明図︾と︽画稿
張飛図︾︹図
され新潟市歴史博物館に所蔵されている。
︺の二枚が残
︺ な ど が 挙 げ ら れ る。 ま た、 明
特 に 水 墨 作 品 に お い て そ の 特 徴 が み ら れ る が、 大 和 絵 風 の 絵 も わ ず か な が ら 残
代 表 さ れ る の が 武 者 絵 で あ る。 こ の 他 に も 三 十 六 歌 仙 図、 中 国 を 題 材 に し た
この特徴は、鮮やかな色彩と丁寧な筆遣いによる描写である。
︵1︶設色人物画
ここでは、浚明の代表的な作品を中心にいくつか特徴別に見てみたい。
水墨の山水、人物、鳥獣など、画題も描法も様々である。
和二︵一七六五︶年松前候に依頼を受けて﹃三国志﹄を題材にした作品制作を
な描き方となっている。
︹図
ま た、 新 潟 市 の 文 化 財 に 指 定 さ れ て い る 新 潟 大 神 宮 所 蔵 の︽ 三 十 六 歌 仙 図 ︾
る。 松 や 土 坡 の 表 現 が 大 和 絵 的 で、 細 か い 分 析 ま で は こ こ で は で き な い が、 狩
録﹄
︵大正三︹一九一四︺年︶によれば、
﹁終に狩野に非ず、土佐に非ず、南北
1
されている。狩野派風の作品、土佐派風の作品、唐画的作品︵南宗画・北宋画︶、
を善くし、最も設色及水墨に巧なり﹂と記されている。
2
‼
53
新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要 第 3 号(2015年 3 月)
︺ な ど が あ る。 肖 像 画 と い っ て も、 現 存 す る 人
︺
︵ 新 潟 市 指 定 文 化 財 ︶ や、 浚 明 四 十 六 歳、 延 享 二︵ 一 七 四 五 ︶ 年 に 描 か れ た
賢寺歴世住職頂像画十九幅﹂の一点︽笑山全悦像︾
︵元文四︹一七三九︺年︶
︹図
魯 山 玄 璠 賛︽ 天 神 湧 現 図 ︾
︹図
物を描いたものではないが、人物の特徴を捉え、輪郭線をはっきりと描いたも
ので、他を題材にした人物とはまた違った描き方をしていると言えよう。︽天神
︺
︹註
︺などが
湧現図︾の天神・菅原道真公は、あたかも目の前に実在するかのようなリアル
な描き方をしている。
こ の ほ か に 色 彩 を 使 っ た 人 物 図 と い う と 、 神 社 の 境 内 の 絵 馬︹ 註
ある。このうち兵庫県高砂市の高砂神社に奉納された絵馬︽洗馬図︾
︹図
︺ で は、 浚 明 が 水 墨 で 描 く 人 物 表 現 に 近 い、 や や 面 長 な 顔 や、 首 が や や 前 傾
し詰まっているところ、衣文の鮮やかな筆さばきなどの特徴が見られる。
近 年、 い く つ か の 浚 明 の 屏 風 作 品 が 発 見 さ れ て い る が、 彩 色 を 施 し た 花 鳥 図
︵2︶設色花鳥画
を描いた優品が多く見受けられる。浚明が花や鳥を描いた作品は、これまでに
は︽牡丹に小禽図︾、︽白鷹図︾など、掛幅の存在が知られていたが、人物画に
三 年 ほ ど 前 に 新 潟 市 歴 史 博 物 館 に 寄 贈 さ れ た 六 曲 一 双 通 絵 の︽ 群 鶴 図 屏 風 ︾
〔図 8 〕《梅花丹頂鶴図/柳牡丹白鷺図》屏風 安永元(1772)年 正福寺所蔵
比べると圧倒的に数少ない。
︺ は、 浚 明 の 技 巧 の 奥 深 さ と、 力 量 を 感 じ さ せ る 作 品 で あ る。 右 隻 に は、
若 松 が 林 立 す る 中 に 低 い 姿 勢 を 取 る 鶴 の 一 群 が い る。 中 の 一 羽 が 聞 こ え て く る
︹図
声 に 応 え る か の よ う に、 鳴 声 を 上 げ て い る。 左 隻 に は、 竹 が 自 生 す る 岩 場 で 首
を伸ばして鳴き交わす鶴たちが描かれる。この両者の間には、岩場の方向を向
き、一列になって首を縮めて休む一群が描かれる。白い羽毛部分は胡粉を使い
細い筆で毛の表現を描き加え、羽毛や足の輪郭線は点線で描くも、質感の違い
を 点 線 の 密 度 や 大 き さ を 変 え て 描 き 分 け て い る。 左 右 に 奥 行 と 広 が り の あ る 作
品で、一体的な趣ある作品に仕上げられており、浚明の技量が存分に発揮され
た作品といえる。
また、新潟市中央区西堀の正福寺の︽梅花丹頂鶴図/柳牡丹白鷺図︾屏風︹図
︺金砂子を用いて描かれた雲が左隻右隻とも描かれ、
︺は、昨年新潟市の文化財調査が行われ、岩田多佳子氏によって詳細な報告
書が書かれている。︹註
ら飛翔して降りてくる丹頂鶴の一群が描かれ、左隻には雪が積もった柳と牡丹、
柳 の 上 に 二 羽 の 白 鷺 が 描 か れ る。 報 告 書 で は、 こ れ ら は 吉 祥 絵 で あ る が、 春 と
冬 の 組 み 合 わ せ に 不 自 然 さ を 覚 え る た め、 本 来 の 姿 は、 春 と 秋、 夏 と 冬 の 四 季
〔図 7 〕《群鶴図屏風》新潟市歴史博物館所蔵
6
34
静かな華やぎが品よく感じられる作品である。右隻には紅梅の古木と、左上か
36
こ の 他 に、 早 稲 田 大 学 成 澤 勝 嗣 教 授 の ご 教 示 に よ れ ば、 奈 良 県 宇 陀 市 の 真 言
│五│
52
7
の吉祥図屏風であった可能性もあると述べている。
〔図 6 〕《洗馬図》絵馬 高砂市・高砂神社所蔵
5
4
35
8
大森慎子「五十嵐浚明の作品に関する一考察」
宗 室 生 寺 派 大 本 山、 宀 一 山︵ べ ん い ち さ ん ︶ 室 生 寺 に、 浚 明 の 六 曲 一 双︽ 松 竹
梅鶴図屏風︾がある。通絵であるが、二扇ずつ金縁がまわしてある珍しい造り
の 作 品 で あ る。 右 隻 が 沙 羅、 牡 丹 が 見 え る こ と か ら 初 夏 の 景 で あ ろ う、 松 の 下
に は 種 類 の 異 な る 二 羽 の 鶴 が 寄 り 添 っ て い る。 左 隻 は 竹 と 梅 に 積 も っ た 雪 か ら
冬の景に、鶴が三羽描かれる。こちらも吉祥図屏風である。
︵3︶水墨︵淡彩を含む︶ 山水画・鳥獣画・人物画
設 色 の 人 物・ 花 鳥 図 に も 浚 明 の 優 れ た 作 品 を 見 る こ と が で き る が、 浚 明 の 書
にも通じる浚明らしさと、その技量を遺憾なく発揮した作品が、この水墨作品
︺
︹註
︺
山 水 画 は、 さ ほ ど 多 く の 作 品 が 残 さ れ て い な い。 そ の 中 で も、 會 津 八 一 コ レ
中に見られる。
クションの︽山水図巻︾
︵早稲田大学會津八一記念博物館所蔵︶︹図
37
︺ で あ ろ う。 大 き な 筆 を 巧
代 表 的 な 作 品 が、 六 曲 一 双 通 絵︽ 高 士 観 瀑 図 屏 風 ︾
︹図
︺ で あ る。 山 奥 に 隠 棲
浚 明 落 款 で 残 さ れ た 作 品 中、 最 も 多 い の が 水 墨 の 人 物 画 で あ る。 そ の 中 で も
術が最も充実した、浚明六十九歳の作品である。
気の演出と空間に厚みを出すのに金砂子を上手く使いこなしている。気力と技
間の奥行と広がりの大きさは、浚明の屏風作品に共通するもので、荘厳な雰囲
れ る。 威 厳 だ け で な く、 愛 嬌 あ る 表 情 か ら、 親 し み や す さ を も 感 じ さ せ る。 空
みに使い、勢いのある筆遣いに、絶妙なバランスで伸びのびとした龍虎が描か
年に描かれた︽龍虎図屏風︾︵彌彦神社所蔵︶︹図
五 十 嵐 浚 明 の 描 い た 鳥 獣 画 の 最 も 優 れ た 作 品 と い え ば、 明 和 五︵ 一 七 六 八 ︶
身の山水図を見てみたいと思う。
発揮した良い作品に出会えることが少ない。この図巻を見ていると、浚明の渾
に山水図は、軸物や押絵貼屏風中にも時たま見受けられるが、なかなか本領を
い平坦な地域から次第に山奥深くへと旅する情景を描いた図巻である。この他
は、 浚 明 の 力 量 が 発 揮 さ れ た 優 品 の 一 つ で あ る と 言 え よ う。 旅 人 が、 水 辺 の 多
9
う。
れた︽竹林賢人図︾︹図
︺も浚明の筆が冴えた作品の一つと言って良いであろ
こ れ ほ ど 大 き く は な い が、 中 野 邸 美 術 館 所 蔵 の 明 和 五︵ 一 七 六 八 ︶ 年 に 描 か
いが、浚明特有の情感が画面いっぱいに満たされた作品である。
れ、雲の合間に小さく下界が広がっているようにも想像できる。余白部分が多
て い な い。 し か し、 こ れ を 見 る 私 た ち に は、 背 景 に 広 が る 壮 大 な 空 間 が 感 じ ら
れたこちら側から見上げ、岩場の高士と話をしている。背景はほとんど描かれ
詩書画に興じている。両者をつなぐものとして、一人の人物が深い谷間に隔た
する高士らが、右隻では見事な滝を観て談笑し、左隻では高い岩場の上で琴棋
11
〔図 9 〕
《山水図巻》部分 早稲田大学會津八一記念博物館所蔵
〔図12〕《竹林賢人図》1768年 中野邸美術館所蔵
10
ここでは、特徴別に作品の分類を試みる中で浚明の多才な技量を伺うことが
12
〔図10〕
《龍虎図屏風》 1768年 彌彦神社所蔵
│六│
〔図11〕
《高士観瀑図屏風》1770年
51
新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要 第 3 号(2015年 3 月)
できた。これらの代表的な作品を基軸として、今後浚明作品を見てゆく必要が
あるであろう。
︺について
四、﹁逆旅勧盃﹂画巻と浚明落款作品との比較
︵1︶
﹁逆旅勧盃﹂画巻︹図
︺。人物・鳥獣・山水などが描かれた
ま ず 始 め に、 こ こ で 比 較 し た い の は、 か つ て 新 潟 町 の 人 が 所 蔵 し て い た 五 十
︵2︶画巻の顧行・元誠作品と、浚明落款の作品の比較
嵐 浚 明 の 六 曲 一 双 押 絵 貼 屏 風 で あ る︹ 図
が 浚 明 を 訪 れ た 際 に 贈 ら れ た 画 帳﹁ 逆 旅 勧 盃 一 大 冊 子 ﹂
いずれも年記はない。落款は﹁孤峰
﹁孤峰﹂を使うのは、七
呉浚明﹂である。
∼八十歳代の作品に多い。﹁呉﹂姓は前述のとおり、六十歳代に使用している。
顧行︵子謹︶は二十五∼六歳、元誠︵子勉︶は二十二∼三歳の頃である。
明和四︵一七六七︶∼明和五︵一七六八︶年頃に描かれたものと見て良かろう。
以 上 を 考 え あ わ せ る と、 こ の 屏 風 が 描 か れ た 年 代 は、 浚 明 六 十 八 ∼ 九 歳 頃、
六十七歳以降に使用されているものである。
中 ﹂、 白 文﹁ 越 人 穆 翁 ﹂ や 白 文﹁ 字 曰 方 徳 ﹂ な ど は、 年 記 の 入 っ た 作 品 で は、
曰方徳﹂、そして関防印に﹁衣錦尚絅﹂が押されている。朱文﹁玩天地于掌握之
文﹁越人﹂・白文﹁浚明﹂、白文﹁越人﹂・朱文﹁浚明﹂、朱文﹁浚明﹂・白文﹁字
さらに印章を見てみよう。朱文﹁玩天地于掌握之中﹂
・白文﹁越人穆翁﹂
、朱
このことから、落款からは六十歳代の終わり頃六十八∼九歳の頃の作品と推測
︺や、
﹃高砂市史﹄などで紹介されている。
で、浚明作品に彼らの手が入っているのではないかという推測のもと、次項で
し か し、 こ の 絵 を 見 て い く つ か の 浚 明 落 款 の 作 品 と 近 い 感 じ を 持 っ た。 そ こ
ずれも、父浚明を思わせる見事な腕前である。
ら、 顧 行 と 元 誠 の 絵 は、 宝 暦 一 一︵ 一 七 六 一 ︶ 年 に 描 い た も の と 思 わ れ る。 い
さ れ た と す る と、 顧 行 と 元 誠 の 生 年 が 一 年 文 献 と 合 わ な く な っ て し ま う こ と か
に納められた絵や詩が全てこの年に制作されたものとは限らない。同年に制作
こ の 画 巻 が 三 浦 迂 斎 に 渡 さ れ た の は 宝 暦 一 二︵ 一 七 六 二 ︶ 年 で あ る が、 こ こ
となっている。
老人図﹂をはさんで、次に子謹の題に子勉︵元誠︶の画の組み合わせが十一対
二巻目は、最初浚明の題に子謹︵顧行︶の画の組み合わせが六対、浚明の﹁寿
浚明の詩︵賛︶と画が交互に九対で構成されている。
︵白文方印︶があり、前文に続き、迂斎に宛てた賛も含め
明書﹂
、印章﹁玩天地于掌握之中﹂
︵朱文方印︶
・
﹁越人穆翁﹂
巻頭に題﹁逆旅勧杯﹂と年記﹁宝暦壬午秋﹂、落款﹁呉浚
に仕立て直されたのが、いつかは不明である。一巻目は、
迂 斎 が 持 ち 帰 っ た 際 に 冊 子 だ っ た も の が、 二 本 の 巻 子
ものはめずらしいことから、貴重な作品である。
る こ と が な い。 ま た、 元 誠 の 絵 も 年 記 が し っ か り 分 か る
れ て い る こ と で あ る。 顧 行 の 絵 は、 新 潟 で は ほ と ん ど 見
加 え、 十 九 歳 の 顧 行 の 絵 と 題、 十 六 歳 の 元 誠 の 絵 が 含 ま
こ の 画 巻 が 特 に 重 要 と 考 え る の は、 浚 明 が 描 い た も の に
の特別展︹註
研 究 セ ン タ ー 副 所 長 ︶ に よ り、 加 古 川 総 合 文 化 セ ン タ ー
される。
ま ず 比 較 を 始 め る 前 に、 こ の 屏 風 が い つ 頃 描 か れ た も の な の か を 考 え た い。
して構成されている。
いて描かれた作品という感じがする。右から左へとおそらく四季の流れを意識
も の が 一 扇 ず つ 貼 ら れ た も の で、 落 款 も 印 章 も 悪 く な く、 絵 も 良 い が、 力 を 抜
14
が、 現 在 は 巻 子 の 状 態 で 代 々 三 浦 家 に 伝 え ら れ て き た こ
〔図13〕
《
「逆旅勧盃」画巻》宝暦12(1762)年
と が、 宮 本 佳 典 氏︵ 現 在 加 古 川 市 教 育 委 員 会 文 化 財 調 査
兵 庫 県 高 砂 市 で、 宝 暦 一 二︵ 一 七 六 二 ︶ 年 に 三 浦 迂 斎
13
は、いくつかの作品を比較して、考えてみたいと思う。
│七│
50
〔図14〕
《押絵貼人物山水鳥獣屏風》新潟市歴史博物館所蔵
38
大森慎子「五十嵐浚明の作品に関する一考察」
︺
それでは、﹁逆旅勧盃﹂画巻とこの屏風を比較してみよう。この中で同じ図柄
︺ と、 画 巻 の 子 謹 画︿ 葡 萄 の 図 ﹀︹ 図
を描いている︿葡萄の図﹀
、
︿虎の図﹀
、
︿馬の図﹀に注目したい。
ま ず は、 屏 風 の︿ 葡 萄 の 図 ﹀︹ 図
を比較してみたい。構図は縦と横の違いはあるものの、茂った葉の下にブドウ
の房が下がっており、そこからつるが長く勢いよく出ていて、先端は大きく巻
い て い る 様 子 が 描 か れ て い る。 葉 の 濃 淡 や 葉 脈 を し っ か り と 描 い て い る と こ ろ
や、房の描き方、長く伸びて空間のバランスを取っている蔓の描き方などを見
ると、同一人物が描いたと考えても間違いないように思える。
︺と、画巻の子勉︵元
︺を比べてみよう。この二つの絵は、重ね合わせ
次に虎の絵を比べてみたい。屏風の︿風竹虎図﹀︹図
︹図
誠︶が描いた︿虎の図﹀
︺ が 残 さ れ て い る こ と を 考 え る と、 こ の よ う な 手 本 と す る
るとぴったり合うかと思うくらい同じポーズで描かれている。浚明の弟子芳明
の﹁ 臨 画 図 巻 ﹂
︹註
見本帳のようなものがあり、同じ手本から起こした絵であろうことは、容易に
想 像 で き る。 し か し こ の 二 つ の 絵 は、 よ く 見 る と、 輪 郭 線 の 点 線、 体 の 縞 模 様
│八│
の が 感 じ ら れ る。 さ ら に 顔 の 表 情 も、 屏 風 よ り 画 巻 の 方 が、 猫 か ら 想 像 す る 虎
のリアルな表情を描こうとしているようにも思える。
︺の︿虎﹀部分︹図
︺と比
こ こ で、 明 和 五︵ 一 七 六 八 ︶ 年 浚 明 六 十 九 歳、 つ ま り こ の 押 絵 貼 屏 風 と ほ ぼ
同じ頃に描かれた彌彦神社の︽龍虎図屏風︾︹図
︺。
︽蓬莱山図︾
。
︽風竹虎図︾︹図
︺の左幅
〔図18〕子勉画〈虎の図〉(
《
「逆旅勧盃」画巻》より)
︺の梅の表現と、画巻に子勉が描いた梅︹図
描いた可能性が考えられる。
︺ を 比 較 す る と、 木 の
︺と 画 巻 に 描 か れている 元 誠
節の描き方や曲がりくねった枝ぶり、点苔など共通点も見られるため、元誠が
図︾
︹図
同様にぼかす手法を使用している。さらにこの幅と対をなす右幅の︽紅梅白鷹
屏風の虎にも近いように思えるが、体の縞模様の描き方は、画巻の子勉の虎と
に描かれた虎である。ポーズは押絵貼屏風や画巻と同じである。目の描き方は、
品で、右から︽紅梅白鷹図︾︹図
こ れ は 明 和 三︵ 一 七 六 六 ︶ 年︵ 浚 明 六 十 七 歳、 元 誠 二 十 二 歳 ︶ の 三 幅 対 の 作
もう一点、同様のポーズを取る虎が描かれた作品も比較してみたい。
いる。押絵貼屏風の虎は、浚明が描いたと考えて良いのではないか。
共通点が見られ、体の縞にはぼかしを使わず、墨の濃淡と肥痩により表現して
較 し て み よ う。 ポ ー ズ は 違 う が、 顔 の 表 情 や、 線 の 描 き 方 は 押 絵 貼 屏 風 の 虎 と
19
16
〔図17〕
〈風竹虎図〉(
《押絵貼人物山水鳥獣屏風》より)
もうひとつ、屏風の右隻第一扇の馬の図︹図
25
の墨のぼかし具合、顔の表情などに多少違いが見られる。
20
〔図15〕
〈葡萄の図〉(
《押絵貼人物山水鳥獣屏風》より)
輪 郭 線 は、 屏 風 の 虎 に 比 べ、 画 巻 の 虎 の 方 が 細 か い 点 で 描 か れ て い る。 ま た、
22
17
10
23
15
体 の 縞 模 様 は、 屏 風 の 方 は ぼ か し は 使 わ ず 墨 の 濃 淡 と 肥 痩 を 用 い て 描 い て い る
21
︵子勉︶の馬︹図 ︺を比較してみたい。画巻中に二点の浚明の馬の絵︹図 ︺
・
24
18
のに対し、画巻の方は、ぼかしを使って体毛の感じをも表現しようとしている
21
39
〔図16〕子謹画〈葡萄の図〉(
《
「逆旅勧盃」画巻》より)
49
新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要 第 3 号(2015年 3 月)
︺が見られるので、そちらとも比較してみよう。たてがみや脚、目の描き
方 な ど、 ほ ぼ、 同 じ よ う な 描 き 方 を し て い る。 し か し、 浚 明 の 馬 に は 体 の ボ
〔図20〕
〔図21〕
三幅対《風竹虎図/蓬莱山図/紅梅白鷹図》
︹図
リューム感が表現されており、馬の息づかいが感じられる。屏風の馬は、表現が
簡略化されており、三頭の馬が寄り添いもつれあう姿態の面白さに表現の着眼
︺
点があるように思われる。細かく比較しよう。尾の描き方、また蹄や後脚、下
を向く馬の顔つきも、簡略化され、漫画的な表現になっている元誠の馬︹図
24
より、浚明画の馬︹図 ︺と似ているように思われる。これらから、この馬の絵
〔図17〕部分
〔図17〕部分
〔図18〕部分
〔図18〕部分
〔図20〕部分
〔図22〕子勉画〈梅の図〉《「逆旅勧盃」画巻》1762年より
25
に関しては浚明が描いた可能性が高いが、元誠の成長の可能性も捨てきれない。
│九│
48
〔図21〕部分
〔図19〕浚明画《龍虎図》屏風 部分
26
大森慎子「五十嵐浚明の作品に関する一考察」
〔図24〕部分
〔図25〕浚明画(《「逆旅動盃」図巻》より)
〔図25〕部分
︺
。 こ の こ と を 踏 ま え て、 似 た 表 現 の も の に 注 目 し た い。 こ の 屏 風 は
い 筆 数 で 表 現 し た も の な ど 様 々 で あ る た め、 単 純 に 比 較 す る に は 注 意 が 必 要 で
ある︹註
画巻の子勉の絵と通じるものがあるように思える。しかし、画巻に見られる点
葉や点苔の多いところは、元誠の特徴であり、そこが屏風の表現とは違う点で
︺と比較してみよう。家
そ こ で も う 一 点、 弟 子 芳 明 の 墨 の 濃 淡 の イ メ ー ジ が こ の 屏 風 に 近 い 作 品︽ 新
ある。屏風の線の肥痩の表現はやはり浚明によるものなのか。
潟町之図屏風︾︵新潟市歴史博物館所蔵︶の部分︹図
図27《押絵貼山水図屏風》新潟市歴史博物館所蔵
に 物 足 り な さ を 感 じ る。 部 分 を 拡 大 し て 見 て み る と、 橋 や 岩、 人 物 の 表 現 に、
いるが、表具の際の処置や保存状態のせいもあるかもしれないが、濃淡の表現
大 き な 筆 を 使 い 岩 を 表 現 し た り、 細 か い 筆 を 用 い て、 木 や 建 物、 人 物 を 描 い て
40
29
47
│ 一〇 │
︺で、山水画のみの六曲一隻の屏風である。この屏風が描かれた年代を絞
次 の 作 品 は、 か つ て 沼 垂 町 の 人 が 所 有 し て い た 浚 明 の︽ 押 絵 貼 山 水 図 屏 風 ︾
︹図
︺ と 部 分 を 比 べ て み た い。 山 水 の 描 き 方
28
としては、細い筆で細密に描き込むものや、対照的に溌墨を生かしたごく少な
それでは、画巻の子勉の山水︹図
に富んでくることなどを考え合わせると、六十歳代前半頃と考えられる。
ないが、六十七歳以降は年齢を書きこむことが多いことや、印章もバラエティ
の組み合わせである。呉姓を名乗っているので六十歳代であることには間違い
り込んでみよう。落款印章を見ると﹁法眼呉浚明﹂。朱文﹁越人﹂。白文﹁浚明﹂
27
屋や人物などの描き方が、よく似ている。芳明が描いた可能性も考えられよう。
〔図26〕浚明画(《「逆旅動盃」図巻》より)
〔図23〕
〈馬の図〉(
《押絵貼人物山水鳥獣屏風》より)
〔図24〕子勉画(《「逆旅動盃」図巻》より)
新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要 第 3 号(2015年 3 月)
以 上、 比 較 に よ り 仮 説 を 検 証 し た が、 比 較 対 象 の 顧 行 や 元 誠、 弟 子 の 残 存 す
る絵が少ないことは、断定を困難にしている。
五、浚明作品の工房制作による可能性
ほ ん の 数 例 で は あ る が、 こ の よ う に 浚 明 落 款 の 作 品 に は、 少 な く と も 息 子 た
ちが手を入れた作品も存在するのではないかという仮説が立てられる。この他
にも、何人かの弟子、維明︵廣嶋鶴皐︶
、登明︵森蘭斎︶
、芳明らが関わってい
親孝行として知られる浚明が子弟を大切に思い、育む場でもある共同の仕事場
︺
で、例えば屏風の一部を子弟の成長のために任せるということがあっても何ら
岩田多佳子氏が﹁正福寺所蔵の五十嵐浚明および孫の作品について﹂︹註
不自然ではなかろう。
で書いている、﹁求める人が多いということで、掛幅には疑問を感じる作品もあ
る﹂と述べている中で、落款や印章は悪くないが、浚明らしい力強さや、繊細さ、
筆運びの鮮やかさに欠ける作品には、息子や弟子たちの手によるものもあると
考えられるのではなかろうか。そう考えて浚明作品を整理すると、真筆には違
いないが、少し疑問が残る作品︵これまでグレーゾーンの作品と仮に呼んでき
ま だ、 単 な る 思 い 付 き の 域 を 出 て い な い が、 今 後 注 意 深 く 作 品 を 見 て ゆ く 必
た︶の中で、説明できるものも出てくるかもしれない。
要 が あ ろ う。 一 方、 五 十 嵐 浚 明 の 絵 に は、 古 く か ら 贋 作 も 多 く 存 在 す る。 浚 明
作 品 が 高 く 評 価 さ れ て い た 時 代 に 制 作 さ れ て い る も の も 多 い の で、 時 が 経 っ て
る 贋 物 も 多 々 見 ら れ る。 今 後、 作 品 に つ い て の 更 な る 研 究 を 深 め る こ と で、 工
近 世 に お い て、 そ れ な り に 弟 子 を 抱 え た 絵 師 が、 多 く の 注 文 を こ な す た め、
高 さ を 考 え れ ば、 こ の よ う な 状 況 で 制 作 を 行 っ て い た と 考 え ら れ な く は な い。
いるだけに、見極めが難しいものもあるように思える。明らかに同一の手によ
た可能性もある。
〔図28〕子勉画(《
「逆旅動盃」図巻》より)
﹁工房﹂での制作を行うことは、珍しいことではなかった。浚明も当時の人気の
│ 一一 │
46
上下とも〔図29〕芳明画《新潟町之図屏風》部分(新潟市歴史博物館所蔵)
41
上・下とも〔図27〕部分
大森慎子「五十嵐浚明の作品に関する一考察」
房製作の可能性の検証も進めてゆきたい。
六、まとめ
五十嵐浚明については、長年その研究に携わってきた岩田多佳子氏も言及す
│ 一二 │
前 に も 述 べ た が、 近 年 は、 旧 家 が 次 々 と 転 居 や 代 替 わ り で 減 っ て い る。 静 か
いたからに違いない。まだ解明されない課題がたくさんある。
に所有者が動いたり、失われている書画の類も多く、今後研究や調査を志す者
は、これまで以上に一層困難になることであろう。浚明のことを明らかにして
︺
。この論考が少しでも
ゆく上で、少しずつでも紙面に留めることは、調査研究を行って来た成果を踏
まえ、研究が前進することにつながることと思う︹註
五 十 嵐 浚 明 は、 新 潟 に と っ て 欠 か せ な い 人 物 で あ り、 ま た 日 本 の 近 世 美 術 の
今後の研究につながって欲しいという願いもこめ、これまで私が分かりうる範
研 究 に も 重 要 な 人 物 の 一 人 で あ ろ う。 ま だ、 作 品 が 残 さ れ て い る う ち に、 今 後
囲で浚明を研究してきた方々の成果の一部も紹介させていただいた。
が、 代 替 わ り や、 そ れ に 伴 う 建 て 替 え な ど に よ り、 家 屋 が 失 わ れ て い る こ と が
浚明研究が少しでも進んでゆくことを願ってやまない。
る よ う に、 ま だ ま だ 分 か ら な い こ と が 多 い。 近 年 に な っ て、 大 作 の 優 れ た 作 品
大きな要因と思われる。これらの作品が、家とともに失われてしまうのではな
が発見されている。これは、こういった書画を大切に代々受け継いできた旧家
44
く、むしろこれを機に新たな作品の発見や、研究の進展に向かってくれればと
五十嵐浚明の解明は、近世越後の絵画史の解明につながる可能性を大きく秘
願う。
め て い る。 こ こ に き て、 高 砂 と い う か な り 離 れ た 瀬 戸 内 海 に 面 し た 港 町 に、 浚
明 の 作 品 が 多 く 残 さ れ て い た こ と は、 新 た な 解 明 に も つ な が る の で は な い か と
期 待 が 持 た れ る。 播 州 高 砂 は、 加 古 川 の 河 口 に 位 置 し、 湊 町 と し て 栄 え た 土 地
で あ る。 新 潟 と 似 て い る と こ ろ も あ り、 当 時 は 街 に 堀 が め ぐ ら さ れ、 多 く の 文
人たちも訪れ栄えた土地であった。高砂神社には、廻船問屋菅野五郎兵衛善郷
が奉納した浚明画︽﹁洗馬図﹂絵馬︾が奉納されている。また、同地にある十輪
︺ が 納 め ら れ る。 さ ら に、 兵 庫 県 指 定 文 化 財 旧 入
寺には、安政六︵一八五九︶年に寄付された双幅に仕立てられた大幅の作品︽商
山四皓図・虎渓三笑図︾︹註
老人図︾︹註
︺ が 存 在 す る。 な ぜ、 遠 く 離 れ た 瀬 戸 内 の 湊 町 高 砂 に、 何 点 も の
江 家 住 宅 の 所 有 者 で あ っ た 入 江 家 の 資 料 に は、 巻 子︽ 逆 旅 勧 盃 ︾ と、 軸 装︽ 寿
42
の 勅 命 で 画 を 献 上 し た の も、 関 西 の 主 だ っ た 人 物 ら と 何 ら か の 関 わ り を 持 っ て
る浚明であるが、関西とのつながりが生涯あったと思われる。七十八歳で天皇
都 を は じ め 関 西 で 多 く 見 つ か る こ と か ら、 帰 郷 後 は 新 潟 を 出 な か っ た と 言 わ れ
の 関 係 が 少 し 見 え て き た よ う で あ る。 さ ら に、 現 代 に お い て も、 浚 明 作 品 が 京
広く営み、大年寄りも務めていたという。玉木家を介した高砂三浦家と浚明と
み、 坊 吏 も 務 め た と い う。 一 方 迂 斎 は、 高 砂 市 史 に よ れ ば、 製 塩 や 廻 船 業 を 手
くから新潟町の名家のひとつである。当時の当主・玉木彦兵衛は回船問屋を営
にわたる関係も見て取れる。三浦迂斎が新潟に来た際に宿泊した玉木家は、古
とは思われる。﹃浚明詩稿﹄には、迂斎の父三浦信成︵三代目人甚兵衛 延宝二
︹一六七四︺∼宝暦四︹一七五四︺
︶の米寿を祝う詩が記されている。親子二代
いる。新潟も高砂も北前船航路の湊であったことは、交流し易い環境であった
れ な い。 唯 一 浚 明 の 元 を 訪 れ て い る 三 浦 迂 斎 と の 関 係 が 高 砂 と 浚 明 を つ な い で
浚 明 の 大 作 が 存 在 す る の で あ ろ う か。 浚 明 が 高 砂 を 訪 れ た こ と は 文 献 で は 見 ら
43
45
新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要 第 3 号(2015年 3 月)
︹註︺
︺竹内式部
︶ 五十嵐浚明に大きな影
正徳二︵一七一二︶∼明和四︵一七六七 響 を 与 え た 人 物 と 考 え ら れ て い る。 浚 明 と 同 じ 新 潟 町 出 身。 医 師 竹 内 宗 詮 の 子 で 名 は
︹註
敬持。十七歳の頃京都へ出て大徳寺家に仕える。松岡仲良に学び、また山崎闇斎の門
︺五十嵐家と佐野家の関係について、一説に岩船︵現村上市︶の五十嵐久右衛門
について﹂を執筆している。
の 三 人 の 息 子︵ 久 之 助・ 久 蔵・ 久 太 ︶ の う ち、 三 男 久 太 が 新 潟 の 佐 野 家 に 養 子 に 入 り、
︹註
︺狩野派の良信を名乗っていた絵師を調べると、数名が挙げられる。藤岡作太郎
その子どもが浚明であるという話が、岩船の五十嵐家に伝わっている。
︹註
和 三︵ 一 七 六 六 ︶ 年 に は 山 県 大 弐 ら の 起 こ し た 明 和 事 件 に 連 座 し て 捕 え ら れ る。 八 丈
ク 曾我蕭白と京の画家たち﹄展図録所収の伊藤紫織氏の論考﹁
﹃唐画﹄としての曾
我蕭白と蕭白前史﹂によれば、
﹁狩野良信は不明。良信とも名乗った駿河台狩野家の洞
の良信仁信︵栄信︶でないかと思われる。﹂としている。さらに、展覧会﹃蕭白ショッ
掲の横山氏の論文内の検証では、
﹁その時代から考えるに、表絵師の根岸御行松狩野家
明が師とせしは、内藤一翁︵松栄の門人︶の孫狩野一渓ならんか。﹂とある。また、前
島に流される途上の三宅島で没した。
春福信は享保八年︵一七二三︶没。若くして江戸へ出ていれば師事出来た可能性はあ
著﹃近世絵画史﹄
︵明治三六︹一九〇三︺年︶においては、
﹁その時代を考えふるに、浚
︹註 ︺宇野明霞︵士新 ︶ 元禄一一︵一六九八︶年∼延享二︵一七四五 ︶ 近世中期の
儒 学 者。 名 は 鼎、 字 は 士 新、 通 称 三 平。 弟 は 儒 学 者 士 朗。 近 江 国 野 洲︵ 現 滋 賀 県 野 洲
下 玉 木 葦 斎 に 師 事 し て 垂 加 神 道 を 修 め る ほ か、 諸 学 に 通 じ る。 公 家 に 大 義 名 分 論 を 説
市︶生まれ父は豪商に仕えた運漕業を行っていたが、一家で京都に移り住む。木下順
る。
﹂としている。
き、尊王を講じたため、宝暦八︵一七五八︶年、所司代により京都から追放され、明
庵門下の向井三省に師事。自らが病弱のため、弟士朗を荻生徂徠に入門させるも、徂
徠学とあわず。独学で独自の学問を樹立。四八歳没。門弟に片山北海がいる。
霞樵︵かしょう︶など。妻玉蘭も画家として知られる。弟子に木村蒹葭堂などがいる。
な︶、字は公敏・貨成。通称池野秋平、号は大雅堂、待賈堂︵たいがどう︶、三岳道者、
︹註 ︺池大雅
︶ 日 本 の 文 人 画︵ 南 画 ︶ の
享保八︵一七二三︶│安永五︵一七七六 大成者。本姓池野を中国風に漢字一文字で名乗る。幼名又次郎、諱は勤・無名︵あり
創立にあたり盟主に推薦される。門下に頼春水、古賀精里、木村蒹葭堂など。
く、優しい人柄は、多くの文人墨客を惹きつけた。明和元︵一七六四︶年、混沌詩社
生 活 の 中、 学 問 を 続 け る。 知 人 の 富 商 の 力 添 え で 大 阪 に 開 塾。 人 を 差 別 せ ず、 野 心 な
明 霞 に 入 門 し 篤 い 信 頼 に 基 づ い た 師 弟 関 係 を 結 ん だ が、 明 霞 の 死 に よ り 家 も 失 い 貧 困
︹註 ︺片山北海
︶ 弥 彦 村 出 身。 日 本 海 に
享保八︵一七二三︶∼寛政二︵一七九〇 面していることから北海と号す。名は猷、字は孝秩、通称忠蔵、別号に孤松館。宇野
んだ後は京都で鶴沢派の祖となっていることから、やはり違うと考えて良かろう。以
入門し、師が亡くなったことをきっかけに郷里に戻ったとも考えられるが、探幽に学
の門人で鶴沢探山︵一六五五∼一七二九︶の名が良信である。ぎりぎり没年に浚明が
浚明より四歳年下の師の教えに、魅力を感じなかったとしても納得がゆく。他に探幽
年 と 浚 明 が 江 戸 に 出 た 年 代 に 六 年 の 開 き が あ る の で、 こ ち ら も 可 能 性 は 低 い と 思 わ れ
と い う と こ ろ で、 可 能 性 は 低 い。 次 に、 駿 河 台 狩 野 家 の 洞 春 福 信 の 場 合 で あ る が、 没
保 一 四︵ 一 七 二 九 ︶ 年 頃 に は 八 十 歳 代 で、 ぎ り ぎ り 教 え る こ と が、 で き た か ど う か、
文二︵一六六二︶年。その子狩野内膳良信も、遅く生まれたとしても浚明が学んだ享
松 家 を 立 ち 上 げ た 一 渓 重 信 の 二 代 目 内 藤 一 翁︵ 一 渓 重 良 ︶ は 慶 長 四︵ 一 五 九 九 ︶ ∼ 寛
浚明とは京都で知り合う。帰郷に際し贈った﹁渭城柳色図﹂は大雅
︺論文としては、横山秀樹著﹁近世越後の絵画│五十嵐浚明の一考察│﹂
︵
﹃新潟
も早い時期の作品としても重要である。
︹註
上のことから、浚明が門戸をたたいたのは、根岸御行松家の狩野良信栄信ではないか
︺
﹃画乗要略﹄の記述による。ここではさらに、浚明が梁楷﹁八仙人図﹂
、李公鱗
と思われる。
の臥軸、張平山の人物、狩野雅楽亮の朱梅と古績など数十幅をもっていたことが書か
︹註
と し て は、 旧 B S N 美 術 館 副 館 長、 中 野 邸 美 術 館 企 画 主 幹 な ど を 歴 任 し た 長 谷 川 四 郎
︺
﹃舟江遺芳録﹄等の記述による。
﹃画乗要略﹄の高田敬甫の項には、四条派の絵
れている。
師柴田義董が、敬甫と浚明は、都にいれば、狩野山楽と海北友松に匹敵したであろう
︹註
後文人の集大成ともなる著作物を、鶴田一雄氏︵当時新潟大学教授、二〇一三年ご逝
︺ 顧 行 の 誕 生 も 新 潟 へ の 帰 郷 の 一 要 因 で あ っ た か も し れ な い。 顧 行 は 字 が 子 謹。
かった。大変残念なことである。旧BSN 美術館時代より長谷川氏の調査に同行して
を 始 め た と こ ろ で 二 〇 〇 〇 年 に 他 界 し て し ま い、 著 作 物 の 刊 行 も 実 現 す る こ と が な
︵ 一 七 七 〇 ︶ 年 二 十 八 歳 で 亡 く な る た め、 作 品 が ほ と ん ど 伝 え ら れ て い な い こ と は 残 念
﹁ 子 謹 其 画 似 乃 翁 又 善 書 ﹂︵ 絵 は 父 譲 り で 書 も 良 く し た ︶ と 書 か れ て い る。 明 和 七
︵一七四六︶年と、三浦迂斎に贈られた﹃逆旅勧盃﹄
︵宝暦一二︹一七六二︺年︶に記
号は北海。浚明が結婚した時期と顧行生年に関する記述はないが、元誠の生年延享三
︹註
き た 岩 田 多 佳 子 氏 が、﹃ 平 成 二 五 年 度 新 潟 市 文 化 財 調 査 報 告 書 ﹄︵ 二 〇 一 四 年 十 二 月
新 潟 市 発 行 ︶ に、 新 潟 市 中 央 区 西 堀 の 正 福 寺 に 納 め ら れ た 屏 風 二 点︵ 五 十 嵐 浚 明 画、
載された子謹十九歳、子勉︵元誠︶十六歳の年齢差から考え合わせた。
﹃画乗要略﹄に
六曲一双屏風︽梅花丹頂鶴図/柳牡丹白鷺図︾及び、浚明の孫、主善と其正の六曲一
10
である。唯一﹃逆旅勧盃﹄に掲載されている十九歳の時の書画から作風を窺うことが
市 安 吾 風 の 館 学 芸 員 ︶ と と も に 企 画 し、 調 査 も あ ら か た 終 了。 よ う や く 具 体 的 に 執 筆
と述べたと書かれている。
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去︶・武田光一氏︵新潟大学教授︶・岩田多佳子氏︵当時中野邸美術館学芸員、現新潟
旧BSN 美術館や、石油の世界館、中野邸美術館などで展覧会も度々行っている。越
氏が越後文人研究の第一人者として、五十嵐浚明の作品も数多く調査しまとめていた。
史 学 ﹄ 一 七 号、 新 潟 郷 土 史 研 究 会、 一 九 八 四 年、 一 三 〇 ∼ 一 四 四 頁 ︶ が 唯 一。 研 究 者
る。 根 岸 御 行 松 家 の 狩 野 良 信 栄 信︵ 一 七 〇 四 ∼ 一 七 八 五 ︶ は 年 代 的 に 最 も 適 合 す る。
歳の作品で、最
て ゆ く と、 上 記 の 三 名 を 含 む 四 名 に 絞 ら れ る。 奥 絵 師 の 狩 野 宗 家 中 橋 家 か ら 根 岸 御 行
狩野派の﹁良信﹂ということで名前が挙がる人物は八人くらいいるが、時代で絞っ
‼
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双 屏 風︽ 山 水 人 物 押 絵 貼 屏 風 ︾ の 調 査 報 告﹁ 正 福 寺 所 蔵 の 五 十 嵐 浚 明 お よ び 孫 の 作 品
│ 一三 │
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大森慎子「五十嵐浚明の作品に関する一考察」
できる。詩については、巌田洲尾の﹃萍踪録﹄に一編の詩が掲載されている。
︺﹃舟江遺芳録﹄によれば、浚明が帰郷するにあたり、宇野士新以下数十人が詩
︵
﹃高砂市史﹄宮本佳典氏著より。︶
題材に描いた詩画が、一本の幅に仕立ててられている。
︽渭城柳色図︾は、大雅が描い
雅が書いた画帳のタイトルと、渭水のほとりで別れを惜しむ王維の詩﹁渭城柳色﹂を
が越後を遊歴する際随行した。
まり多くの文人らと親交を深め、活躍する。文化六∼八︵一八〇九∼一一︶年に鵬斎
︺五十嵐竹沙
諱 は 主 善、 字 は 阿 善・ 巨 寶、 通 称 主 膳、 号 は 竹 沙・ 静 所。 父 元 誠
に絵を学び、のちに江戸で諸家に学ぶ。特に亀田鵬斎には可愛がられた。江戸にとど
︺佐野北汀
諱 は 其 正、 字 は 阿 正・ 必 大・ 必 成
通 称 庄 七 郎、 号 北 汀。 は じ め 浦
上春琴、後に独学で元・明画を学ぶ。詩・書・画とも優れ、江戸・京都を遊歴。柴野
︺後桃園天皇
宝暦八︵一七五八︶年∼安永八︵一七七九︶年
第一一八代天皇。
諱は英仁︵ひでひと︶。在位は明和七︵一七七〇︶年∼安永八年まで。急逝したため、
︹註
︺神明町の肝入を務めた佐藤家文書﹁御用留綴﹂
︵元禄一〇∼安永七︶より。
十月二十九日に崩御しているが、在位は十一月九日までになっている。
︹註
た白井華陽︵後に岸駒門下。
﹃画乗要略﹄の著者︶に画の手ほどきをしたと伝えられる。
︹註
栗山はじめ多くの文人と交わる。他門通り︵現新潟市上大川前通︶の素封家に生まれ
近衛公より絹地を、大徳寺より紋綸子を賜り、帰郷してからこの絹に絵を描き,綸子
に 詩 を 書 い て、 一 双 の 屏 風 に 仕 立 て、 大 正 時 代 に は 藤 井 氏 の 風 流 満 千 楼 に 飾 ら れ て い
︺文献からは、浚明が法眼位を受けた年代は不明であるが、
﹁延享改元春叙法眼
︺ 元 誠 は 字 が 仲 勉、 子 勉 と も。 通 称 竹 次 郎。 号 は 片 原。 片 原 町︵ 東 堀 ︶ に 家 を 構
えていたことからこの号を名乗ったと言われる。
﹃画乗要略﹄によれば、
﹁仲曰く元誠
は、
﹁叔曰く元敬は詩書画とも兼ね美し﹂と記され、わずかに残された作品からその力
︹註
︹註
︺五十嵐浚明調査の基礎資料としては、まず、新潟市内に建てられた墓と、二つ
︺片山北海撰文の﹁孤峰五十嵐先生墓誌銘﹂より。
看取る。
︺三浦東里
新津出身水原に住む。家の布商を妹夫婦に譲り、樋口周南に学ぶ。
周南より医学を修めることを奨められる。京都で修業の後戻り、五十嵐浚明の最後を
︹註
︺元敬は字が季恭、または子明・子恭。浚明の元の姓佐野を名乗る。
﹃画乗要略﹄
量を伺うことができる。元敬は、法眼位を受けている。生没年については不明である
︹註
が何点かあり、その技量を今に伝えている。
は人物に長ず﹂と記されている。残されている作品は少ないが、人物など描いたもの
︹註
位に叙せられたことは間違いないと思われる。
位﹂
︵朱文方印︶が押印された作品が存在することから、延享元︵一七四四︶年に法眼
︹註
たと記されている。
た 作 品 の 中 で も 最 も 早 い 年 代 の 作 品 と し て も 注 目 さ れ る 作 品 で あ る。 こ の ほ か に も、
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が、 顧 行 が 亡 く な っ て 引 継 い だ 元 誠 が、 家 督 を す ぐ に 元 敬 に 譲 っ て い る こ と か ら さ ほ
の 碑 文 が あ る。 墓 は 新 潟 の 善 導 寺 に あ り 天 明 元︵ 一 七 八 一 ︶ 年 八 月 十 日 に 八 十 二 歳 で
この碑は、元誠によって依頼された片山北海が撰文し永根鉉︵伍石、北条氷斎︶の書
がある新潟の善導寺に残る﹁孤峰五十嵐先生墓誌銘﹂
︵天明二︹一七八三︺年︶である。
によるもので、浚明の孫主善︵五十嵐竹沙︶・主䉇︵五十嵐泰庵︶
・巖田志遠︵洲尾の
亡くなり、十五日に葬られたことと法名が刻まれている。碑については、ひとつは、墓
話﹄の﹁呉其正﹂の項の記載によれば、当時坂口五峰が所蔵していた天明八︵一七八八︶
ど元誠との年の差は大きくないと思われる。また,三浦迂斎が訪ねた際、
﹃逆旅勧盃﹄
年冬に制作された﹁嵐門合作寒山拾得﹂に、元敬の長男其正︵北汀︶十四歳が寒山を、
太古山日長堂に残る、﹁呉浚明碑﹂︵寛政一二︹一八〇〇︺︶年で、孫佐野其正の依頼に
兄 與 三右 衛 門 ︶
・沢野専輔により建てられている。もうひとつは、新崎︵現新潟市︶の
より柴野栗山撰文、巻菱湖の書によるものである。この碑文が実際に石に刻まれたの
元誠の長男主善︵竹沙︶十五歳が虎を描いているということから、其正が生まれた安
三∼五歳年下ではないかと推測される。
を得て建立している。さらに近世の資料としては、白井華陽の当時の画家を紹介した
姓が与えられたと考えられる。真相は定かでないが、多くの姓のうちなぜ﹁呉﹂なの
明トス﹂とある。中国風の絵を描いた浚明に、何らかの理由で中国風の姓として﹁呉﹂
四︹一八五一︺年頃︶には、五十嵐浚明の解説と系図が掲載される。さらに後の資料
が 重 要 な 手 掛 か り と な っ て い る。 ま た、 朝 岡 興 禎 編 著﹃ 古 画 備 考 ﹄ の 二 十 七 巻︵ 嘉 永
五十嵐浚明君還越後︾
︵延享元︹一七四四︺年︶などのいくつかの書画に書かれたもの
三︹ 一 七 四 三 ︺ 年 ︶
、 池 大 雅︽ 渭 城 柳 色 図 ︾
︵ 延 享 元︹ 一 七 四 四 ︺ 年 ︶
、 竹 内 式 部︽ 送
は、明治二二︵一八八九︶年のことで、浚明から数え五世の孫泰安が古山文静の協力
︺芝山納言
山城の国︵現在の京都南部︶の公家の一族。勧修寺家︵芝山家はこ
の別称︶の五代重豊︵一七〇三∼一七六六︶のことと思われる。初代より代々歌道を
著書﹃画乗要略﹄
︵天保三︹一八三二︺年︶と、宇野士新︽送法橋嵐君還越後︾
︵寛保
︺
﹃新撰増補和漢書画一覧﹄︵天明六年刊︶には、﹁五十嵐氏省テ五ヲ呉トシ呉俊
か、という疑問に触れていて興味深い。
巻二﹄
︵大正七︹一九一八︺年︶、今泉鐸次郎﹃北越名流遺芳﹄
︵大正七︹一九一八︺年︶
象潟、新潟、京都、大阪と旅した記録を綴った﹃東海濟勝記﹄
︵宝暦一二︹一七六二︺年︶
の中に、新潟では旧知の五十嵐浚明との再会の様子が記されている。
︹註
︺廣嶋維明
生没年不詳。字は士興、号は鶴皐。浚明に学ぶ。その子如雲も絵を
などに詳細な記述を見ることができる。
としては、桜井市作著﹃舟江遺芳録﹄
︵大正三︹一九一四︺年︶
、坂口五峰﹃北越詩話
︹ 註 ︺ 三 浦 迂 斎 播 州 高 砂 の 物 産 家、 旅 行 家、 著 述 家、 収 集 家 と し て 知 ら れ、 木 村 蒹
葭 堂 と も 交 流 が あ っ た。 迂 斎 が 息 子 と と も に 大 阪、 江 戸、 仙 台、 松 島、 鳴 子、 酒 田、
︹註
︹註
業としたという。
永四︵一七七五︶年には一家を構える年であった。以上を考えあわせると、元誠より
に 元 敬 の 画 は 掲 載 が な か っ た こ と か ら 元 服 前 だ っ た と 考 え ら れ る。 さ ら に、﹃ 北 越 詩
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│ 一四 │
︹註 ︺三浦迂斎
﹃東海濟勝記﹄︵宝暦一二︹一七六二︺年︶に記載。この時、絵を学
ん だ 安 庸 は 後 に 三 浦 旭 映 と 名 乗 り 絵 を 描 き、 高 砂 市 周 辺 に 絵 が 残 さ れ て い る と い う。
文書画を贈り、これを浚明は一冊の画帳に仕立てたという。そして、大正三︹一九一四︺
︹註
︺︽画稿
︽画稿
︵新潟市歴史博物館所蔵︶による。
孔明図︾
張飛図︾
年当時には、それは新潟の料亭鍋茶屋にあったと書かれている。現在敦井美術館に所
︹註
︹註
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蔵される︽渭城柳色図︾は、新潟県に文化財の指定を受けているが、二十二歳の池大
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新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要 第 3 号(2015年 3 月)
︺﹃會津八一コレクションの近世書画﹄展覧会図録によれば、これは、會津八一
︺ 森 蘭 斎 元 文 五︵ 一 七 四 〇 ︶ 年 ∼ 享 和 元︵ 一 八 〇 一 ︶ 年、 頚 城 郡 新 井 村︵ 現 在
の 妙 高 市 ︶ に 生 ま れ る。 元 の 姓 は 不 明。 森 田 家 に 養 子 に 入 る。 名 は 文 祥、 字 は 九 江、
となる。龍文堂の名は泰輔。その技は極めて優れ、精巧でその名を広めた。
を 惜 し む 気 持 ち も 綴 ら れ た 珍 し い 作 品 で あ る。 成 澤 勝 嗣 教 授 の 調 査 に よ れ ば、 こ こ に
れ て い る。 ま た 老 眼 の た め、 画 を 描 い た 時 の よ う な 細 か い 描 写 が で き な く な っ た こ と
が 昭 和 二 三 年 に 新 潟 市 内 で 購 入 し た も の と い う。 奥 書 に は 画 は 壮 年 時 に 描 か れ た も の
︹註
通 称 子 禎・ 鳴 鶴。 号 は 蘭 斎。 は じ め 浚 明 に 学 ぶ。 そ の 頃 の 字 は 登 明。 浚 明 の 奨 め も
良くする。如雲の子、鼎介は画を学び機敏で知恵もあり、後に鋳物の龍文堂の入り婿
あったという言い伝えもあるが、長崎で医学を修め、熊代熊斐︵くましろゆうひ︶に
題されている山水詩八首は、
﹃五十嵐浚明詩稿
丁丑﹄に書かれている。つまりこの詩
を題したのは、宝暦七︵一七五七︶年頃ということが推測される。
︺過去に紹介された特別展は﹁近世いなみ野の文化﹂展︵一九九一年︶と、
﹁東
で、 後 に 五 十 嵐 家 の 家 人 が 画 巻 に 詩 を 題 し て ほ し い と 言 っ て き た た め、 題 し た と 書 か
南蘋派の花鳥を学ぶ。三十五歳で帰郷するが、画の需要がなく、高崎、大阪、江戸日
︹註
︹註
本橋へと移り住む。江戸では加賀藩のお抱え絵師として活躍。
︹註 ︺芳明
生 没 年、 姓、 経 歴 な ど 一 切 不 明。 浚 明 を 臨 模 し た 図 巻 が 残 る。 印 章 か ら
姓には山が付き、字は子元と考えられる。
︹註
︺ちなみに、画巻にもう一点納められている子勉の山水図は、ここで取り上げた
︺芳明︽臨画図巻︾享和二︵一八〇二︶年、新潟市歴史博物館所蔵。
播磨の文化財│加古の流れの中で│﹂展︵二〇〇七年︶
。
︹註
う元誠らしさが出た細密な表現の絵として仕上げられている。
之者遇意︾
︵
﹁新潟・文人去来﹂展図録に掲載︶と近い描き方をしている。浚明とは違
︺ 十 輪 寺 所 蔵 の 双 幅︽ 商 山 四 皓 図・ 虎 渓 三 笑 図 ︾ は、 一 幅 が 縦 一 一 四・ 〇 × 幅
︺前掲﹃平成二五年度新潟市文化財調査報告書﹄所収。
山水図とは全く違う表現で、元誠が片原町に独立した後に描いた︽袁氏別業図・尋隠
れる。十八歳で嫁ぐも二十歳で夫と死別。三十歳の時京都で浚明に絵を学んだという。
︹註
︹註 ︺加賀の千代女
元 禄 一 六︵ 一 七 〇 三 ︶ ∼ 安 永 四︵ 一 七 七 五 ︶ 年。 加 賀 の 国、 松
任︵ 現 在 の 石 川 県 白 山 市 ︶ で 表 具 師 福 増 屋 六 兵 衛 の 長 女 と し て 生 ま れ る。 享 保 四
五十二歳で剃髪し素園と号した。七十二歳の時に蕪村の﹃玉藻集﹄の序文を書く。句
︹註
︵一七一九︶年十七歳の時、諸国行脚をしていた各務支考を訪ね、俳句の才能を認めら
集多数。
︹註 ︺巌田洲尾
寛 政 四︵ 一 七 九 二 ︶ ∼ 文 化 一 三︵ 一 八 一 六 ︶ 年。 名 は 恕 卿、 字 は 忠
治、号は洲尾、夙夜堂。新潟町の廻船問屋の家に生まれる。母は浚明の娘。幼い頃か
︹註
かれたものと考えられる。人物をこれほど大きく描いたものは、他にあまり見ない。
︺ ほ ぼ 同 じ 図 柄 の 作 品︽ 寿 老 人 図 ︾ が、 長 岡 市 立 中 央 図 書 館 に 所 蔵 さ れ て い る。
六 六・ 〇 セ ン チ の 大 作 で あ る。 落 款 が﹁ 法 眼 呉 浚 明 ﹂ で あ る こ と か ら、 六 十 歳 代 に 描
ら学問、画工に優れる。十八歳の時信州松本の龍田梅斎に学び、後に江戸で学ぶ。﹃萍
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踪録﹄
﹃謳盟集﹄
﹃徐天池詩集﹄などを刊行。文人らとの交流も多かった。二十五歳の
こ の 二 作 品 の 落 款 の 違 い は、 他 作 品 に も 通 じ る も の が あ る の で、 比 較 研 究 が 必 要 と 考
︺二〇〇七年に新潟市歴史博物館開館三周年記念企画展﹁新潟・文人去来│江戸
時 代 の 絵 画 を 楽 し む │ ﹂ で 五 十 嵐 浚 明 の 代 表 的 な 作 品 を 含 め 十 四 作 品 を 出 品 し、 図 録
︹註
えている。
︺
﹃ 五 十 嵐 浚 明 詩 稿 ﹄ 新 潟 県 立 図 書 館 の 五 峰 文 庫 の ひ と つ。 浚 明 の 手 描 き に よ る
を制作したことがきっかけで、私自身研究者らとつながりを持つことができた。この
︵おおもり・しんこ
新潟市新津美術館
主幹・学芸員︶
白と京の画家たち﹂展で浚明が紹介され、四点の作品が展示された。
展覧会を見た千葉市美術館の伊藤紫織氏が担当した、前掲﹁蕭白ショック 曾我蕭
書 付 帳。 宝 暦 元︵ 一 七 五 一 ︶ 年・ 宝 暦 七︵ 一 七 五 七 ︶ ∼ 九 年︵ 一 七 五 九 ︶
・宝暦一〇
︹註
時、上京の途上に訪ねた松本で亡くなる。
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︵一七六〇︶∼一二︵一七六二︶年・安永九︵一七八〇︶年の四冊が現存している。
︺ 三 条 市 歴 史 民 俗 産 業 資 料 館 平 成 二 五 年 度 企 画 展﹁ 屏 風 絵 の 世 界 │ 描 か れ た 中 国
│﹂︵二〇一三年四月十六日∼六月十六日︶の後期展示五月十四日∼六月十六日に展示
︹註
された。
︺長岡市与板町の津野神社の絵馬は、表現がずいぶん異なるが、浚明の作と伝え
られている。この高砂神社の絵馬と良く似た絵馬が、山口県下関市の住吉神社、周防
︹註
大 島 町 の 鹽 竃 神 社 に も あ る こ と が、 個 人 で﹁ 浚 明 研 究 会 ﹂ と 称 し て 調 査 を し て い る 燕
︺額縁に﹁菅野五郎兵衛善郷手船中納﹂
﹁明和七庚寅年﹂
︵明和七︹一七七〇︺年︶
市の山田城介氏により発見されている。
とある︵兵庫県立歴史博物館﹃兵庫の絵馬﹄一九八六年より︶
。また、画中に記された
︹註
落 款 に は 呉 姓 を 用 い て い る た め、 六 十 歳 代 終 わ り 頃 描 い た も の を、 こ の よ う な 形 に し
︺
︹註 ︺参照。前述の通り、当寺には、浚明の孫、主善︵元誠の長子︶と其正︵元
て、明和七︵一七七〇︶年に奉納したと考えられる。
珍しく、浚明の数少ない花鳥を描いた大作とともに、大変貴重である。
陽 に 教 え た と さ れ る が 作 品 が あ ま り 残 さ れ て い な い 其 正︵ 北 汀 ︶ の 作 品 は、 い ず れ も
主 善・ 其 正 と も ま だ 若 く、 江 戸 へ 出 る 前 の 主 善︵ 竹 沙 ︶ の 作 品 と、 巌 田 洲 尾 や 白 井 華
敬の長子︶が寛政八︵一七九六︶年に描いた︽山水人物押絵貼屏風︾が所蔵されている。
︹註
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新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要 第 3 号(平成26年度)
Bulletin of Niigata City Art Museum & Niitsu Art Museum No.3
発 行 日/2015年3月25日
編集・発行/新潟市美術館
〒951-8556 新潟市中央区西大畑町5191-9
TEL:025-223-1622
FAX:025-228-3051
印 刷/株式会社ウィザップ
ISSN 2187-6770
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