旧グラバー住宅 小菅修船場跡 第三船渠 占勝閣

①
きゅう
じゅう たく
旧グラバー住宅
日本に西洋技術を伝えたグラバーのビジネス拠点
スコットランド出身の商人グラバーは、小菅修船場や高島炭坑の建設、事業
化に協力し、後に三菱の経営にもアドバイスを与え、石炭・造船など、当時の
日本の主要産業の近代化に貢献した。1863年に建設された旧グラバー住宅は、
国内に現存する最古の木造洋風建築で、居住やビジネスの拠点としてだけでな
く、文化交流の場として活動拠点となった。棟梁は大浦天主堂などを請け負っ
た天草出身の小山秀之進(後に秀)と思われる。対岸に三菱重工業㈱長崎造船
所を眺望できる高台に位置している。
【所 在 地】 長崎市南山手町8-1
【入 場 料】 大人610円、高校生300円、小・中学生180円
【開園時間】 8:00∼18:00 ※季節によって変動あり
(無休、最終入園は20分前まで)
【アクセス】 JR長崎駅前電停より路面電車
「正覚寺下(1系統)」
乗車、
「築町電停」
下車
「石橋
(5系統)」
に乗り継ぎ、
「大浦天主堂下電停」
もしくは
「石橋電停」
下車、徒歩
(約8分)
②
三
菱
長崎造船所
こ
すげ しゅう せん
ば
あと
小菅修船場跡
日本で初めて蒸気動力を用いたスリップドック
1869年、薩摩藩とスコットランド出身の商人グラバーによって建設された船舶修理施
設で、
のちに明治政府が買収し、1887年に三菱の所有となった。
日本最古の蒸気機関
を動力とする曳揚げ装置を装備した洋式スリップドックである。曵揚げ装置一式は、
グラ
バーがスコットランドから購入した。
装置を格納する小屋(内部は非公開)
は、現存する日本最古の本格的な煉瓦造建
築である。扁平な煉瓦は、
その形状から
「こんにゃく煉瓦」
とも呼ばれている。
多数の船の修理や建造に使用されたが、船の大型化や他の造船工場の本格稼働
などにより、
その役割を終え、1953年に閉鎖された。現在は国の史跡に指定されている。
【所 在 地】 長崎市小菅町5
【入 場 料】 なし
(曳揚げ小屋内には入場できません)
【アクセス】 JR長崎駅前から長崎バス
(野母半島方面
(戸町経由)
乗車)
15分、
小菅町バス停下車、徒歩5分 ③
三
菱
長崎造船所
だい
さん
せん
きょ
第三船渠(非公開)
※駐車場は
ありません
日本の造船を支えた、当時東洋最大のドライドック
1905年、造船業形成期の三菱合資会社時代に建設された大型乾船渠(ドライ
ドック)。入り江の地形を利用し、背後の崖を切り崩し、前面の海を埋め立て
て建設された。明治期、第一船渠(1879年)、第二船渠(1896年)、第三船渠
(1905年)と続けて開渠したが現役は第三船渠のみ。船舶の大型化に伴い、第
三船渠は三度拡張された(1943年、1957年、1960年)。ドック建設時に設置さ
れた英国製の電動機で駆動される排水ポンプは100年後の今も稼働し、ドライ
ドックの機能を維持している。
【所 在 地】 長崎市飽の浦町
※施設は、長崎造船所内にあるため公開していません。
④
三
菱
長崎造船所
せん しょう
かく
占勝閣(非公開)
長崎港を眺望する由緒ある迎賓館
造船業形成期の三菱合資会社時代に、第三船渠を見下ろす丘の上に建設され
た木造二階建洋館。長崎造船所長の荘田平五郎の邸宅として1904年に完成した
が、所長宅としては使用されず、迎賓館となった。1905年、軍艦「千代田」艦
長の東伏見宮依仁親王殿下が宿泊された後に「風光景勝を占める」という意味
で占勝閣と命名された。設計者の曾禰達蔵は鹿鳴館などを設計した英国人建築
家ジヨサイア・コンドルの弟子。占勝閣は現在もほぼ創建当時の姿で迎賓館と
して、進水式・引渡式の祝賀会、貴賓の接待等に使用されている。
しょう だ
ひがしふし みの みや より ひと しん のう
そ
ね
【所 在 地】 長崎市飽の浦町
三菱重工業㈱
※施設は、長崎造船所内にあるため公開していません。
⑤
三
菱
長崎造船所
きゅう
き
がた
ば
旧木型場
三菱の歴史を伝える長崎造船所最古の建造物
造船業形成期の三菱合資会社時代の木型場で、1898年に鋳物製品の需要増大
に対応して建設された。工場建物は木骨煉瓦造二階建で、鋳型製造のための木
型を製作した。1985年、史料館として改装され、日本最古の工作機械(長崎製
鉄所建設時の1857年にオランダから輸入した「竪削盤」を展示するなど、長崎
造船所の歴史を紹介する展示施設として一般公開されている。
たて けずり ばん
【所 在 地】長崎市飽の浦町1-1
【予約TEL】095-828-4134
(三菱重工業
(株)
長崎造船所史料館)
【施設維持管理費】大人
(高校生以上)
800円、小・中学生400円 【休 館 日】毎月第2土曜日、12/29∼1/4、長崎造船所一斉停電日
※史料館の見学は、前日までに予約が必要です(詳しくは左の地図内の案内を参照)。
⑥
三
菱
長崎造船所
ジャイアント・カンチレバークレーン(非公開) 現役で稼働する、日本初の電動クレーン
造船業形成期の三菱合資会社の時代に、造船所の工場設備電化に伴い、同型
としては日本で初めて建設された電動クレーン。英国アップルビー社製。大型
船舶用装備品の吊り上げ荷重に耐え、電気モーターで駆動される当時最新のク
レーンで、1909年に造船所の機械工場付近の飽の浦岸壁に、タービンやボイ
ラーなど大型機械の船舶への搭載と陸揚げのため建設された。長崎造船所はそ
の前年、国産初の船舶用及び陸用の蒸気タービンを製造している。1961年にク
レーンは、設置場所周辺の埋立による工場拡張のため、いったん解体され、水
の浦岸壁の現位置に移設された。現在は機械工場で製造した蒸気タービンや大
型船舶用プロペラの船積み用に使用されている。
【所 在 地】 長崎市飽の浦町
※施設は、長崎造船所内にあるため公開していません。
⑦
たか
しま
たん
こう
高島炭坑(北渓井坑跡)
ほっけいせいこうあと
日本の近代石炭産業の原点
開国に伴い、外国の蒸気船の燃料として高まった石炭需要を受け、1868 年、長
崎沖の洋上の高島において、佐賀藩がスコットランド出身の商人グラバーとともに、海
洋炭鉱を開発した。英国人技師モーリスを招き、1869 年、日本最初の蒸気機関によ
る竪坑である高島炭坑(北渓井坑)が開坑した。1881 年からは三菱が所有し、高島
炭坑の石炭技術は、
日本の炭鉱の近代化の先駆けとなった。
【所 在 地】長崎市高島町99-1
【入 場 料】なし
【アクセス】<高島まで> ・長崎港ターミナルから高島港ターミナルまで、高島行高速船で約35分。
・伊王島港ターミナルから高島港ターミナルまで、高島行高速船で約12分。
※高速船の情報については、長崎汽船
(株)
095-826-6238
<高島にて> ・高島港ターミナルから徒歩25分。
・高島港ターミナルバス停乗車、本町バス停下車徒歩1分。
⑧
は
しま
たん
こう
端島炭坑(軍艦島)
石炭の繁栄と衰退を物語るかつての海底炭坑、端島
端島炭坑は、高島炭坑の技術を引き継ぎ、発展させ、炭鉱の島として開発された。
明治中期以降に採炭事業が本格的に開始され、1890年からは三菱の所有となり、明
治後期の高島炭鉱(高島、端島などの海洋炭坑群)の主力坑となった。高品位炭を
産出し、国内外の石炭需要を賄い、明治末には八幡製鐵所へも原料炭を供給した。
大正以降高層住宅が建設され、最盛期には約5,300人が居住したが、
エネルギー政
策の転換により1974年に閉山、無人島となった。現在は、坑口等の生産施設跡や数
次にわたり拡張された海岸線を示す護岸遺溝が残っている。島内の一部に見学通路
及び見学場所の整備が行われ、2009年4月から軍艦島上陸ツアーがスタートした。
【所 在 地】 長崎市高島町端島 【施設見学料】大人
(12才以上)
300円、小学生150円
【アクセス】 島の上陸には上陸ツアーへの参加が必要です。軍艦島上陸ツアーのコース、運航日程、
料金、予約・問合先は各船会社によって異なります。
※左ページをご覧の上、お問い合わせください。
↓
旧木型場(三菱長崎造船所史料館)の見学方法
前日までに予約が必要です
【予約TEL】095-828-4134
(三菱重工業(株)長崎造船所史料館)
旧木型場(三菱長崎造船所史料館)
専用シャトルバス乗り場
【個 人】 JR長崎駅前から史料館専用シャトルバスに乗車
長崎駅前発車時刻表
平日
(5便運行)
8:40 9:30 10:20 14:05 14:55
休日
(6便運行)
8:40 9:30 10:20 13:15 14:05 14:55
26
※移動時間(往復)約40分+見学時間約50分
【団 体】 見学時間(約50分)
総合観光案内所
9:25-10:15 10:15-11:05 14:50-15:40 15:40-16:30
平 日
27
9:25-10:15 10:15-11:05 13:10-14:00 14:00-14:50
休 日
14:50-15:40 15:40-16:30
※15名以上で、自己手配のバスで来館される方は団体扱いとなります
至蛍茶屋
44
↓
28
45
⑤
38
ゆめタウン
(三菱長崎造船所史料館)
37
29
30
④
⑥ ジャイアント・カンチレバークレーン
空港行き
バス
47
③ 第三船渠
48
50
孔子廟・
中国歴代博物館
②
①
31
33
34
バスターミナル
長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館
長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉
ミュージアム
51
36
32
35
⑦ 北渓井坑跡
高島
高島炭坑
(左ページ参照)
市内と
高島・端島の
位置関係地図
⑧ 端島炭坑
※2015年4月現在
9:00
9:40
10:00
10:30
10:30
13:00
13:40
13:50
14:00
15:00
❶マルベージャ / マルベージャⅢ
約40分
❷ブラックダイヤモンド / 竹島丸
約40分
❺アイランド号
約15分
❸さるく号
約40分
❹A.マーキュリー / B.はやて2(チャーターのみ)約40分
❶マルベージャ / マルベージャⅢ
約40分
❹A.マーキュリー / B.はやて2(チャーターのみ)約40分
❸さるく号
約40分
❷ブラックダイヤモンド / 竹島丸
約40分
❺アイランド号
約15分
❶長崎港(大波止ターミナルビル)
❷元船桟橋もしくは伊王島港
❺野母崎 海の健康村前桟橋
❸常盤2号桟橋
❹常盤桟橋もしくは伊王島港
❶長崎港(大波止ターミナルビル)
❹常盤桟橋もしくは伊王島港
❸常盤2号桟橋
❷元船桟橋もしくは伊王島港
❺野母崎 海の健康村前桟橋
❶やまさ海運㈱ 長崎市元船町17-3 長崎港ターミナルビル1F 7番窓口
TEL:095-822-5002 http://www.gunkan-jima.net/
❷軍艦島クルーズ 長崎市元船町11-22
TEL:095-827-2470 http://www.gunkanjima-cruise.jp/
❸㈱シーマン商会 長崎市旭町27-26
TEL:095-818-1105 http://www.gunkanjima-tour.jp/
❹軍艦島コンシェルジュ 長崎市常盤町1-60 常盤ターミナルビル102号
TEL:095-895-9300 http://www.gunkanjima-concierge.com/
❺馬場 広徳 長崎市高浜町高浜3960 野之串港
TEL:090-8225-8107
<注意事項>上陸に際しては諸注意がございますので各船会社に従ってください。
軍艦島クルーズ
日本はなぜ近代化を必要としたか?
「外国の脅威から日本を守る」
という
想いが近代化の原動力だった。
イギリスの技術を日本にもたらした
トーマス・ブレーク・グラバー
1840年に起こったアヘン戦争での清の敗戦は、
いち早く
蘭学書といった参考書だけをたよりに産業化へと挑戦し
つづけていた武士たちに、強い味方が現れます。1859
幕末の日本にも伝えられ、
大きな衝撃を与えました。
年の開港と同時に長崎にやってきたスコットランド出身の貿
「海を自由に走る蒸気船と遠くからでも撃てる大砲を持
易商トーマス・ブレーク・グラバーです。まだ 21 歳という
ち、
大国清でも勝てない相手なら日本はひとたまりもない」
と
若さでしたが、商人としての才能に恵まれ、23 歳でグラ
いう強い危機感が生まれます。
バー商会を立ち上げています。今、旧グラバー住宅とし
さらにアヘン戦争後に書かれた中国・魏源の「海国図志
てグラバー園に残る木造洋風住宅は、彼の自宅兼事務
(中国・西洋の地図・歴史・西洋の技術等を解説した書)」
所として 1863 年に建てられました。船舶の往来や、目の
が日本に伝えられると、
日本国内の各藩に強い危機感と、
前の長崎製鐡所が見渡せるこ
改 革の機 運が一 層 広がっていきま
の場所には、多くの外国人が訪
す。
れ、また近代化を目指す武士た
この出来事は幕末に活躍する吉田
ちにおいても、最新の技術情報
松陰、佐久間象山、勝海舟、坂本龍
を得ることができる重要な場所に
馬等志士達にも多大な影響を与えた
なっていきます。
と言われており、
この時代から日本の
若き日のグラバー
(長崎大学附属図書館所蔵)
近代化は急速に加速していきます。
揺れる幕末。
その中でたゆまぬ
技術の導入が進められた。
イギリスの科学技術と
外国人技術者の直接導入
グラバーは、留学から帰ってきた薩摩藩士たちと合弁事業
を立ち上げ、
日本で初めて蒸気船を修理する
「小菅修船場」
を建造しています。
この事業には機械類をイギリスから直接輸
入するという大きな投資をしています。
また、薩摩藩が目指していた近代的な紡績工場の建設に
も、
イギリスから技師を呼び寄せるなど、
技術の直接的な導入
も行っています。
さらに高島炭坑の開発には、佐賀藩と協力、
英国人技師モーリスを雇い、
日本で初めてとなる蒸気を動力
とした捲き揚げ機を使用。効率的で大規模な採炭を成功させ
長崎製鉄所風景図
(長崎歴史文化博物館所蔵)
ました。つまり、試行錯誤の状態から本格的な技術をイギリス
危機感を募らせた諸藩の志士たちは蘭学書を片手に
から直接導入させたグラバーの行動は、
日本の近代化を加速
西洋科学へと挑戦していきます。鹿児島や萩では、
産業に
させた大きな要因となったのです。
欠かせない鉄づくりのための反射炉が作られるなど、各地
で様々な試行錯誤が続けられます。1853年の黒船来航
後、海防の強化のため江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を
決定、1855年には士官を養成する長崎海軍伝習所を設
立し、
のちに活躍する多くの志士を育てます。
1861年には日本初の本格的な洋式工場「長崎製鐡所」
を完成させました。数年前ま
で紙やすりでねじ山を削っ
ていた職人は、
オランダから
取り寄せた工場のねじ切り
盤や工 作 機 械の職 工とし
て、西洋技術を習得、
日本
重工業の礎を築きました。
長崎海軍伝習所跡地
〈長州ファイブ〉
後列左から遠藤謹助、井上勝、伊藤博文
前列左から井上馨、山尾庸三
武士の国から産業国家へ。奇跡の転生の道標
藩士たちをロンドンへ
人材育成が近代化を加速させた。
で上りつめています。
日本を守り、新しい日本を建国していっ
生糸やお茶の輸出などを中心にビジネスをしていたグラ
た素晴らしい人材を育成したのは、
まさにグラバー。彼がいた
バーでしたが、
薩摩藩から注文された船の斡旋を機に、
西
からこそ、急速な日本の近代化があったと言えるのかもしれ
南雄藩と艦船や武器の貿易を始めています。
ここから、
グ
ません。
上勝は鉄道庁長官として鉄道事業を発展させました。遠藤
謹助はグラバーが手助けした造幣局に務め、造幣局長にま
ラバーと藩士との強い繋がりが生まれてきます。
また、
世界の産業技術を知りたいと切望していた藩士た
ちのイギリス留学を手助けします。
いのうえかおる
やまお
1863年には、長州藩士である伊藤博文、井上馨、山尾
ようぞう
えんどうきんすけ
いのうえまさる
庸三、
遠藤謹助、
井上勝の五人(長州ファイブ)
を横浜から
ごだい ともあつ
ロンドンへ。
さらに1865年には、
薩摩藩士である五代友厚、
てらしまむねのり
もりありのり
寺島宗則、
森有礼ら19人(薩摩スチューデント)
を渡航させ
ています。彼らは世界をリードしていたイギリスの産業を直
接学び、
その優れた技術を手にして日本に戻ってきます。
そ
して彼らこそが、
日本の近代化を先導する重要な人物と
なっていくのです。
わずか半世紀で世界ランクに
仲間入りを果たした日本の産業
蒸気船の普及により、
石炭の需要が高まる中、
「高島炭坑」
その優れた技術は、端島炭坑(軍艦島)、
そし
が誕生します。
て三池炭鉱へと広まり、近代的な炭坑が次々と造られていきま
す。
鉄鋼業においても、1901年、官営八幡製鐵所において欧
米に匹敵する規模の高炉に火が入り、
操業が開始されます。
造船業では1884年、長崎製鐵所が三菱の経営となり長崎
造船所と改名、
着実に発展していきます。
そして1898年、三菱合資会社三菱造船所は、
日本で初め
ロンドン留学生の活躍
て6,000トンを超える大型貨客船「常陸丸(ひたちまる)」を建
ロンドンに留学した長州ファイブは明治政府の中で活躍し
造。保険の対象になる船舶を検査する英国ロイド船級協会に
ています。伊藤博文は44歳の若さで初代内閣総理大臣にな
よって、
初めて船級を付与されました。
り、産業の発展と新しい国づくりに尽力しました。井上馨は初
日本で初めて蒸気船が建造されてからわずか50年で、
日本
代外務大臣に就任。山尾庸三は明治政府の工部卿に、井
は欧米列強に肩を並べる造船大国となったのです。
日本で初めてロイド船級を付与された常陸丸
倉場写真集 高島炭坑∼オツルさん
(長崎歴史文化博物館所蔵)
端島炭坑
(軍艦島)
官営八幡製鐵所旧本事務所
長崎港を見下ろすグラバー住宅に展示された砲台
(1860年代)
(長崎大学附属図書館所蔵)