「笛野高之先生を偲ぶ会」ご報告 - 大阪大学大学院基礎工学研究科 物質

「笛野高之先生を偲ぶ会」ご報告 (昭和 43 年卒業アルバムより)
平成 27 年 3 月 5 日に他界されました大阪大学名誉教授笛野高之先生を偲ぶ会が、10 月 3
日ホテルヒルトン大阪 金山の間にて開催されました。
当日は、ご遺族、大阪大学笛野研究室同窓生や旧スタッフ、京都大学古川研究室時代に
縁のあった方々など、総勢 66 名にお集まり頂きました。学界、産業界から著名な門下生の
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方々がご参加され、改めて笛野研究室一門の人脈の幅広さを感じることができました。当
日は、午後1時より受付を開始し、まず、参加者の皆様には笛野先生の御遺影の前にご献
花頂きました。
会は、実行委員会委員の中野雅由大阪大学教授(昭和 61 年笛野研卒、化学工学科 20 期
生)の司会で午後 1 時 30 分に開会しました。まず、本会の実行委員を代表して奥山格兵庫
県立大学名誉教授(昭和 43 年笛野研助手、44 年講師、48 年助教授)から、開会の挨拶が
ありました。その中で、笛野先生のご経歴、ご業績等についての紹介がありました。
「本日は秋晴れの美しい日になりました。この日に偲ぶ会を企画しましたところ、大勢
の方々にお集まり頂きまして誠にありがとうございます。先生は去る 3 月 5 日に 83 歳でご
逝去されました。まだまだお元気で私達を見守って頂きたいと思っていましたのに至極残
念に存じます。
笛野高之先生は昭和 6 年に大阪でお生まれになり、昭和 19 年に旧制住吉中学に入学され、
4 年の短縮修了で旧制の第三高等学校に進学されました。三高は学制改革で新制の京都大
学に移行となり、昭和 28 年に京都大学を卒業されました。引き続き大学院に進学され、昭
和 33 年 3 月に工学研究科博士課程を修了、京都大学工学博士第1号を取得されました。同
年 4 月に京都大学助手に就任、9 月からは 3 年間アメリカ留学(ユタ大 Henry Eyring 先生、
南カリフォルニア大 Sidney Benson 先生)されました。帰国後、助教授を経て、昭和 41 年
に 34 歳の若さで大阪大学基礎工学部化学工学科教授に抜擢され、平成 7 年に定年退官され
ました。研究内容は化学反応に関する幅広い分野、特に有機分子の構造と反応性、不安定
分子の電子構造と物理化学的性質、素反応の動力学機構と反応速度論などに亘り、分子構
造論と化学反応論の融合による新しい基礎化学の分野を開拓されました。その功績が評価
され、平成2年には日本化学会学会賞を受賞されました。研究室では非常に優秀な学生に
恵まれ、充実した研究生活を送られました。今日ここにお集まり頂いた同窓生の皆様の活
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躍を常に誇りに思っておられ、今日も大変喜ばれていることと思います。」
引き続き、参加者全員で黙祷し、笛野先生のご冥福をお祈りいたしました。次に、実行
委員会より、梶本興亜京都大学名誉教授(昭和42年笛野研助手)が、京大古川研から阪
大に移られ研究室を立ち上げられた当時の思い出話などを紹介されました。
「振り返ってみますと、私が大学2年生の時にお目にかかって以来、亡くなられる3ヶ
月前まで、笛野先生には52年の長きに渡って励まして頂きました。私は化学が大好きで京
大の合成化学に入りましたが、京大進学当時の有機化学は物理化学に比べて非常に混沌と
しているように見えました。そんな時、笛野先生がEyring、Bensonの所から戻ってこられ
ました。その成果をご自身で英語の教科書にまとめて成された量子有機化学の講義は、当
時日本で最高の講義であり、私はその虜となりました。古川研究室で笛野グループは物理
化学的実験手法と理論計算を用いる非常に特異な存在でした。修士2年生の時に笛野先生が
阪大基礎工学部にご栄転されたとき、籍を京大に置いて阪大で半年間、研究室立ち上げの
準備に携わることができました。何もない部屋で新しい研究を夢見ながら、実験機器の配
置を決めるために寸法を取ったことが思い出されます。笛野先生は、研究を三本の柱-有
機物理化学(奥山)、反応理論(山口)、反応実験(梶本)-で進めることを目標として、
各構成員が自由な発想で研究を伸ばして行けるように、熱心に励ましサポートして下さい
ました。その結果、笛野研究室は日本の学会をリードする研究室となり、産業界での研究
者、技術者も多く育ち、日本の化学界を支える存在になりました。しかし、最も残念なこ
とは、奥様がご退官前にお亡くなりになられたことです。清和台には2人で過ごすための家
を建てられましたが、今も応接室には奥様の写真と先生が愛されたクラッシクのステレオ
が置いてあります。笛野先生にとって奥様は、研究においても私生活においても大きな支
えであったと思います。」
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生前の笛野先生とご親交の深かった蒲池幹治大阪大学名誉教授には、笛野研草創期から
近年までの思い出をご披露頂きました。
「私と笛野先生との最初の出会いは、修士1年の時でした。阪大理学部に行った経緯は
物理に行きたかったからでした。菊池先生、伏見先生、永宮先生を始め阪大理学部物理に
は非常に著名な先生がおられましたが、物理の講義は笛野先生のように明快ではなく、色々
悩み物理化学に進みました。化学の実験に少し嫌気がさしていた時に、笛野先生と諸熊先
生との論文に出会い、これこそが私のやりたい化学だと感じて笛野先生に興味を持ちまし
た。その後東洋レーヨンの基礎研究所に進みましたが、その際の縁で、古川研究室の合同
雑誌会に参加でき、非常に感動しました。その後も、高分子学会などでお会いするように
なりましたが、あるとき、基礎工に移るのでぜひ遊びに来てくださいとお誘いを受け、ほ
ぼ毎回雑誌会に参加しました。雑誌会では先生は非常に厳しかったのですが、この方に指
導してもらう学生さんは非常に羨ましいとも感じました。その縁で先生とは食事など個人
的にもお付き合いをさせて頂きました。笛野先生はよく研究室のスタッフの方々の凄さを
強調されていました。また博士課程の高塚さんの学位論文が非常に素晴らしいとおっしゃ
っておられたことも思い出されます。多くの門下生を輩出され、特に大阪大学を盛り上げ
て頂きました。先生は私の実質的な師であったと感じています。」
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引き続き、献杯の御発声を諸熊奎治京都大学福井謙一記念研究センターリサーチフェロ
ー(平成 24 年文化功労者、京大古川研時代に笛野先生の指導を受けられ、その後京大福井
研に移籍)より頂きました。
「私が古川研究室 4 年生の時、高槻の工場でビニル重合をやっていましたが、そのとき
吉田では博士課程に非常に切れる人がいることを知りました。その際、量子化学の英語の
輪講をしているということでお誘い頂きました。その時初めて量子化学を知ったというこ
とで笛野先生は私の量子化学の先生であったと言えます。修士の時は、様々なビニル化合
物の LUMO のエネルギーをポーラログラフィーの実験と計算で合わせるということをや
っていましたが、修士 1 年の夏頃に笛野先生がアメリカ留学されるということで、理論を
続けたいと思い、福井謙一先生の研究室に移ったという経緯がありました。笛野先生はと
にかく格好が良くて頭が切れて憧れの存在でありました。数年前に日本の理論化学の
Genealogy について講演した際、資料を調べていて、笛野研究室が日本でも非常に特別な存
在であるという認識が深まりました。無機・有機・量子化学の理論のみならず実験など非
常に多くの世界で一流の研究者を輩出されたということは、非常に顕著なご功績であると
言えます。」
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献杯の御発声後、参加者の皆様にご歓談頂きました。ご歓談中は、研究室時代の思い出の
写真などを手に取り当時を懐かしみつつ、あるいは久しぶりにお会いしたご学友の皆様と
の会話を楽しみつつ、生前の笛野先生を偲ばれていました。
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しばらくのご歓談時間の後、笛野研同窓生を代表して3名の方々にスピーチをお願いし
ました。最初に、笛野研究室の第 1 期生である井澤邦輔様(昭和 43 年笛野研卒、化学工学
科 2 期生、味の素株式会社の理事、顧問を歴任、現浜理薬品工業株式会社顧問)より御挨
拶頂きました。井澤様には笛野研草創期の先生や研究室の写真を見事なスライドショーに
まとめて頂き、当時を思い出しながらお話を楽しみました。
「当時最初の学生だった自分たちへの指導は非常に厳しいが優しさに溢れ、非常に情熱
を持って接して頂き、笛野先生に付いて行くのだという思いを強く持ちました。先生は研
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究だけでなく旅行も好きで、研究室旅行も色々なところへ行きました。先生は化学だけで
なく文学にも造詣が深く、議論したこともありました。ソフトボールで先生がヒットを打
つ姿や釣りをされている姿もあります。私が M1 の時には奥山先生が京都大学からこられ
ました。また笛野先生は実験室を綺麗に保つことに気をつかっておられました。学園紛争
があった当時は豊中市民会館などを借りて雑誌会を行いました。大学院を出た後も研究室
旅行に一緒に参加しました。結婚式の媒酌人も勤めて頂きましたが、そのときは珍しく非
常に緊張されていました。それから先生の好きな B の話-好きな街は、ベルリン、ボン、
ボストン、ブリュッセル、好きな作曲家は、バッハ、ブラームス、ベートーヴェン-、皆、
B ではじまります。交響曲では 7 番が好きでした。心に残る言葉として、Think!(とにか
く考えなさい)、また奥山先生が留学される折に、「君には権限はないが責任はある」と言
われました。笛野先生は自由に学生にテーマを考えさせました。笛野先生の言葉や笛野研
での経験は、会社に入ってからの研究に非常に役立ちました。本当に言葉には尽くせない
ほどの感謝の念でいっぱいです。」
次に、巽和行名古屋大学特任教授(昭和 46 年笛野研卒、化学工学科5期生、IUPAC 前
会長、日本学士院会員)にスピーチをお願いしました。学界、産業界に先生が輩出された
門下生の活躍とともに、オリジナリティ溢れる仕事をすること、その土壌が笛野研にあっ
たことについて述べられました。
「笛野先生にはこれまで色々ご指導頂きましたことを御礼申し上げます。奥様がご退官
前にお亡くなりになられたことが非常に残念でした。奥様は様々な形で笛野先生を支えら
れて、二人で頑張ってこられました。笛野研究室は化学工学科にありましたが、非常に多
岐に渡る分野で活躍する人材を輩出した稀有な存在でした。色々なカラーがあった同窓生
ですが、それなりのプライドを持ってやっていました。笛野先生のもと、非常に優秀なス
タッフの先生方に率いられて、学生が研鑽を積むことができたことも大きかったと思いま
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す。今後ともこの卒業生の繋がりを続けて笛野研究室という存在感を発信できればと思い
ます。」
次に、恒川哲也様(昭和 57 年笛野研卒、化学工学科 16 期生、現株式会社東レ取締役)
より御挨拶頂きました。
「笛野研究室に入ってくる人はみな同じだと思いますが、笛野先生の化学の講義に非常
に感銘を受けて入りました。化学反応の研究をやりたかったのですが、5階の山口先生の
ところでお世話になりました。笛野研からは学会だけでなく様々な分野で活躍する人が出
ました。特に研究室では自由に学ぶことができましたので、逆に自分で自分の道を切り開
かなければならないというパイオニア精神を培うことができたのだと思います。当時は学
生の間の結束が強く、色々なことを議論しました。研究でも仕事でも一人ではできず、人
との繋がりやコミュニケーションが重要であるということを学びました。自由で、ある意
味放任的なところもありましたが、大事な場面では馬車馬のように走ることができるバイ
タリティもありました。研究には、知力、アイディアだけでなく体力、信念と情熱が重要
であると先生や諸先輩方から教わりました。これらは笛野研究室の中で培われたものです。
笛野研究室門下生としての誇りをもってこれからも走り続けたいと思います。」
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また、飛び入りスピーチの時間も設けました。米田忠雄様(昭和 43 年笛野研卒、化学工
学科 1 期生)からは、笛野先生からのお手紙を披露頂き、先生の温かいお人柄について熱
く語って頂きました。
当日は、笛野先生のご遺族より、ご長男であられる京都大学の笛野博之先生、ご長女の
吉田由美子様とそのご夫君であられる京都大学の吉田潤一先生にもご出席頂きました。午
後 3 時半頃に、ご遺族を代表して、笛野博之先生が感謝と労いの言葉とともに、会を締め
くくられました。
「本日はご多用のところ、このような会を開いて頂き、また多数お集まり頂きありがと
うございました。父は 83 歳で 3 月 5 日に逝去しました。がんを患い、回復していたのです
が、4 年前に心筋梗塞を患って以降は少し体力が落ちていました。2 月に 2 週間ほど入院し
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ていました。最初は入院の準備なども自分でやっていましたが、2 日目からは会話できな
くなりそのままこの世を去りました。父は 60 歳の時に母を亡くし、気丈にはしていたが寂
しい思いもしていたのではないかと思います。大学では研究室の学生が様々な場面で活躍
しており、また、研究室の系統も続いており、このような会を催して頂いたことは父にと
っても大学人としての勲章であると思います。これからも父の生前と同様に変わらずお付
き合いさせて頂けましたらと思います。」
閉会後も会場には、笛野研究室同窓生を始め、去りがたい人たちのグループがいくつも
できました。
なお、笛野先生のご業績については、ご遺族をはじめ、多くの方々に資料を提供頂きま
したこと、御礼申し上げます。
心から先生を偲びご冥福をお祈りいたします
平成 27 年 10 月
笛野高之先生を偲ぶ会実行委員会
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