はじめに 宮沢賢治が大正十二年 (一 九二三) 八月、 樺太を訪問したこと

澄
樺太仏教遺跡研修
’六老僧日持の足跡を訪ねてI
はじめに
真
想いを馳せながら、樺太とはどういう場所なのか、実際に行って自らの目で確認してみたい、という衝動にかられた。
を知っていたが、宮沢賢治にゆかりのある島ということについては最近聞き及んだ次第である。よって、法華信仰に
樺太という島について、筆者は、以前から日蓮の弟子日持開山の寺院がかつてあり、日持伝説が伝わっていること
物採集をしたといわれている。
﹁か
あかつめくさ﹂は樺太の野草であり、賢治は樺太内︵豊原︶の樺太神社や旭が丘周辺で植
る植物の﹁﹁
やや
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ぎぎ
らら
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と壺
修羅﹄があり、ここには﹁樺太鉄道﹂﹁鈴谷平原﹂などが収められている。ここに登場す
すものとし︺
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詩詩
集集
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春春
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廻が
が大
大正
正十
十二
二年
年︵
︵玉
一九二三︶八月、樺太を訪問したことはあまり知られていない。賢治と樺太との関係を示
宮沢賢治
月
そんな昨今、平成二十一年八月二十七日から六日間、ロシア国サハリン州に渡航し、六老僧日持の霊跡を辿り、関係
寺院の存在状況や日持関係資料の所在に関する確認調査を行った。
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
−1−
望
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
何しろ初めてのサハリン︵樺太︶行きであり、地域情勢にも詳しくないので、現地通訳ガイドを依頼して実地調査
を行った。ロシア語が堪能であれば、調査も自らの手によって行うが、ロシア語がまったく話せない筆者であり、ま
ず島内を歩き回って日持の足跡を確かめてみるということにした。よって、今回の研修は、あくまで樺太における日
持に関する資料発掘の下見調査ということで位置づけたいと思う。
研修には、日本から五人が参加し、その内の三人はAコース八月二十五日∼二十九日︵四泊五日︶、二人はBコー
ス八月二十七日∼九月一日︵五泊六日︶で、二十七日に現地ユジノサハリンスクで合流した。筆者は、後者のBコー
●apB、P。︲ロー・︲0,口︲・︲ロ
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4線我溌
−2−
スで樺太に渡ることとなった。なお、参加者五人はすべて日蓮宗の教師である。
虫や延虹や灯げむが邸いい睡昨
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一口や心’叩日叩D皿’旧日叩日叩日叱’叩日皿日皿︲唖日叩︲﹄.﹄守り・﹄︲﹄・﹄。﹄,﹄,”日叫。叩。即日叩““。
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樺太全図
図1
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”
※本誌に掲載した写真は樺太地図を除き、筆者が撮影したものである。︵図l樺太全図参照︶
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#
篝
篝
鱗
一樺太の環境
まず、樺太 の概況を知るため、日持と樺太、樺太と日蓮宗寺院、について概観してみたい。
●樺太の概況
〃、いえとう
日本と樺太との時差は約二時間︵サマータームあり︶で、ロシアの通貨は、ルーブル︵L︶で、一Lは約四・六円
であった︵平成二十一年八月二十七日時点︶。
樺太は、樺太島ともいい、ロシア語でサハリン、中国語で、庫頁島という。位置は、ユーラシア大陸の東方、オホー
ツク海の南西部、北海道の北にあり、南北に細長い島である。樺太という名称は、日本領有下において南樺太及びそ
の付属島を指す行政区画名として使用された。
樺太という名称は、一説には、アイヌ語に根源があるとし、﹁神が河口に造った島﹂の意味とされている。江戸時
代は北海道を指す﹁蝦夷地﹂に対して、﹁北蝦夷﹂と呼ばれていた。明治政府になると、北海道開拓使を設置するに
あたり、北蝦夷地を樺太と改称し、日本語に樺太の地名が定着した。
島の約七十%を山岳地帯が占め、北部に平地が広がる。樺太は、南北が約九百四十八キロ、東西の幅が最大で約百
六十キロで、南北に細長い島である。面積は七万六千四百平方キロで、北海道よりやや小さい。北海道とは宗谷海峡、
ユーラシア大陸とは間宮海峡で隔てられているが、二万年ほど前には海水面が低下し、今日のユーラシア大陸・樺太・
北海道は地続きだったと考えられている。
江戸幕府は当初北海道・樺太を総称して蝦夷地といったが、文化六年︵一八○九︶からは樺太を北蝦夷と公称した。
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
−3−
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
歴史の上でみると、日露戦争後のポーッマス条約により樺太は北緯五十度線を境界に南北に分割されることになった。
この南樺太地域は、日本統治下においては樺太と呼ばれる行政区画であったため、地方行政官庁として樺太庁が設置
され、太平洋戦争中の一九四二年、外地から内地へと編入された。在島人口は昭和二十年︵一九四五︶当時、約四十
万人であった。主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業であった。南樺太で
は樺太庁の置かれた豊原︵現・ユジノサハリンスク︶が中心都市となっている。
●日持と樺太
今回の研修対象である日持という僧侶について、概観してみたい。
日持︵一二五○I?︶は、日蓮の六人の高弟のひとりで、鎌倉時代中期から後期にかけて活躍した。日持の生涯に
ついては、身延久遠寺三十六世日潮の﹃本化別頭仏祖統紀﹄に記されているが、これによれば駿河国松野︵静岡県富
︵1︶
士市松野︶の出身で、甲斐公・蓮華阿闇梨と称し、駿河国永精寺・蓮永寺の開山となっている。初め駿河国の天台
宗寺院・四十九院で日興に師事して、天台教学を学んだが、後に日蓮に師事した。日蓮入滅後は日興と不和になり、
正応元年︵一二八八︶日浄とともに願主となって武蔵国池上本門寺に祖師像を造立している。その後の消息について
︵2︶
は不明なことが多いが、一説に拠れば永仁三年︵一二九五︶海外布教を志し、樺太の本斗郡本斗町から満洲に渡った
という。よって、青森県や北海道南部地域には、日持にまつわる伝説が残されている。
日持の大陸渡航説については既に諸氏の研究成果があり、高鍋日統は、大正年間に日持が黒龍江河口に近いニコラ
イスクに上陸したと推定している。また、石本恵吉は、樺太の真岡から阿幸付近まで南下し、氷を踏んでアジア大陸
に渡り、ニコライスクのポロンゲ岩に上陸し、黒龍江から吉林、遼陽に進んだと推測しているが、いずれも確証され
−4−
︵3︶
ていない。穂坂孝史氏は、日持の大陸渡航の可能性について、図2のように北海道から樺太を経て大陸に渡り、ァ
︵4︶
ムール川から中国に入っていったことを示している。こうしてみると、日持の樺太渡島について、確固たる史料が
ないというのが現段階の研究状況である。また、日持の北海道へ渡った︵渡道︶行動についてみてみると、函館石崎
︵5︶
で布教、経石を埋める、椴法華で豊漁祈願を行う、黒石岬の岩屋に題目を刻む、松前に法華寺を建立する、樺太に渡
る、大陸にて布教する、といった行動をとったとされている。佐々木馨氏は、日持伝について﹁日持の渡道を史実
とみるか、単なる伝説とするかをめぐって両論が併存し、定かではない。なにせ、両論を決定づけるに十分な客観的
︵6︶
史料がないのである。若干の遺物があっても後世に仮託して作られたものであることが多く、信葱性にいまひとつ欠
︵7︶
−5−
とし
して
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ける﹂と
一方、 中 国 満 州 の 宣 化 に お い て 、 日 持 関 極
係の遺物が発見され、 平 成 元 年 ︵ 一 九 八 九 ︶ に 、 東 京 大 学 と 東 北 大 学 の
研究者により科学測定を行った際、その遺品
の年代は千三百年プラスマイナス三百五十年
前後であると判明された。なお、この出土資
料に関しては、現在も疑義が呈されている。
これらのことから察すると、日持の樺太渡
島を裏付ける史料は現時点ではないといえ、
あくまで伝説の域を出ないと考えられる。し
かしながら、日持伝説にもとづいて建立され
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
日持渡唐図(日蓮宗北海
道教区七百遠忌記念誌よ
り転載)
図2
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
た日蓮宗寺院の痕跡は今回の調査で確認できた。
●樺太と日蓮宗寺院
︵8︶
樺太内には、次
訂記した九ヵ寺の寺院と十二カ所の布教所があったといわれている。
次にに
﹁樺太開教区﹂
樺太開教監督部Ⅱ増田鳳明、武智文碩、北村大成、小山鳳伝。
①法華寺︵豊原市豊原町東一条南一○丁目︶。
②法華寺︵大泊郡大泊町本町西二条北一︶寺沢英海・川上円暁。
③法華寺︵真岡郡真岡村山下町五︶島田泰秀・江崎鳳吟。
④蓮華寺︵泊居町松力枝町二︶寺沢英海︵兼︶・武智文碩。
⑤妙光寺︵本斗都本斗村南浜通︶久津間明宣。
⑥大法寺︵敷香郡敷香村千草通南二丁目︶大島智真。
⑦妙法寺︵栄浜郡落合町東通︶望月是順。
⑧立正寺︵元泊郡知取町幸町四丁目︶桜田順学。
⑨妙法寺︵名好郡恵須取町南一条通︶平野竜享︵日將︶。
⑩楠渓布教所・法華寺︵大泊郡大泊町楠渓町︶中井泰山・野沢玄真。
⑪日蓮宗布教所︵真岡郡清水村二股三二︶石沢寛栄。
⑫内幌布教所︵本斗郡内幌村内幌東三条四ノセ︶鹿内栄舜。
−6−
⑬留多加布教所︵留多加郡留多加町弥生町北七︶望月是順。
⑭野田布教所︵野田郡野田町西一条二︶木村義詮。
⑮久春内布教所・妙光寺︵久春内郡久春内村︶露崎啓静。
⑯日蓮宗布教所︵久春内郡三浜村珍内本町︶杉浦祥運。
⑰日蓮宗布教所︵元泊郡元泊港︶大島智真。
⑱名好布教所︵名好郡名好村名好宇原︶打越啓佑。
⑲西柵丹布教所︵名好郡名好村西柵丹九一︶酒井智亨。
⑳日蓮宗布教所︵敷香郡敷香町上敷香本通︶飯田海静。
⑳小田寒布教所︵栄浜郡小田寒村︶征木繁徳。
これらの寺院や布教所は、その住居表示から主な市街地や日本人が住んでいた港や炭鉱町に建立されていたことが
わかる。
今回の樺太行きの前に樺太関係資料館が設置されている北海道庁旧庁舎〃赤れんが庁舎″を事前学習のため見学し
た。その後、同資料館で得た資料を手がかりに、樺太に渡ることにした。なお、日蓮宗新聞社西条義昌氏に樺太に関
する信仰関係資料を提供して頂いた。これを基に樺太における日蓮宗寺院・教会・結社を調査することができた。そ
の学恩に謝する次第である。
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
−7−
Z・説二・
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
二樺太での研修
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写真1日本人墓地(ユジノサハリンスク市内)
今回の仏教遺跡研修の詳細は、次のようである。なお、字
数等の関係上、ロシア語の都市名は、漢字で表記することに
する。
○八月二十七日成田空港からユジノサハリンスク空港へ
成田空港からチャーター便でユジノサハリンスク空港に到
−8−
着。直ちに市内ホテル﹁ガガーリン﹂へ向かう。日本人がよ
く宿泊するホテルと旅行ガイドブックに記されており、ホテ
ル内には日本人旅行者や商社マンが多く見かけられた。夜遅
く到着したので、食事を取り、直ぐに就寝することにした。
○二十八日ユジノサハリンスク︵豊原︶・ホルムスク︵真
岡︶の日本人墓地調査
午前中に豊原郊外の日本人墓地に向かい、墓碑の前で慰霊
法要を営む。一カ所に合葬された形態であるが、合葬墓所の
近隣には日本人墓地が点在しているようである。︵写真1参
照︶墓地は、宗教を問わず郊外にあり、ロシア正教や他の宗
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樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
蕊灘
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樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
教の墓地が混在していた。
午後に真岡へ向かう。真岡は樺太第二の都市で、海岸沿いにあるため、港は日本と海路で結ばれていた。かつて日
本の王子製紙の工場があったこともあり、製紙・パルプ産業が盛んとなり、多くの日本人が居住していたようである。
そこで、市内にあるの日本人慰霊碑︵写真2.3︶に案内され、参加者全員で現地で亡くなった日本人の慰霊法要を
行う。
○二十九日コルサコフ︵大泊︶、ユジノサハリンスク︵豊原︶市街の調査
午前中に大泊へ行き、日本の学校跡を見
-10-
学する。大泊は、稚内から国際フェリー
︵東日本海フェリー︶で約五時間三十分の
距離にある。現在も毎日一日一往復︵冬期
は二日に一往復︶フェリーが出航しており、
日本との玄関口にあたる町である。平成三
年︵一九九一︶に稚内市と大泊市は友好都
市の関係を結んでいる。岬に向かう途中に
天然ガスの基地があったが、ブリーゴロド
ノエ村の丘には、日本海兵上陸記念碑や忠
霊塔があり、現在もこれらは原野の中に横
写 真 4 忠霊塔跡と忠霊碑
たわっている状態である︵写真4︶。忠霊
塔の表面﹁忠霊塔﹂の横側には﹁陸軍中将
鯉登行一謹書﹂と刻まれていた。市街地の
目抜き通りの一角には、日本の中学校の門
柱が民家の近くに横たわっており、たいへ
ん印象的であった。門柱には、﹁樺太庁
大泊中学校同窓会建立之昭和十七年九月
鍾鰯
蕊灘謡
”
−11−
吉日﹂と刻まれていた︵写真5︶。
午後に豊原市街の州立博物館、サハリン
国立総合大学を見学する。同大学は、樺太
にある代表的な大学で、東洋学部が開設さ
れているため、日本の図書資料を多く架蔵した図書館が付設されている︵写真6︶。日本の大学とも交流を行ってお
り、北海学園大学は同大学と学生交換事業︵派遣︶・夏期海外研修を実施している。また、姉妹校として稚内北星学
園大学があり、交換留学による学生の相互交流を行っている。
市内の中心部に位置するサハリン州立博物館は、旧樺太庁博物館で、その名の通りサハリン州を代表する博物館施
設である︵写真7︶。サハリン州の歴史や郷士に関する資料を常設展示しており、その中には日本統治下の資料を展
示するコーナーがあった。日本関係の資料として大日本帝国境界の標石、日本の大砲、剣道の防具、祈願札、統治下
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
写 真 5 小学校の門柱
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齢沖厩陳匙砕撚
2曲⋮
写真6サハリン国立大学図書館の蔵書
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写真7サハリン州立郷士博物館
-12-
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
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の樺太光景、オルガン、火鉢、日本人の衣装等が展示され、興味をひいた。
その中で樺太における日本の仏教信仰や宗教を知る上で印象的な資料を二、三紹介してみたい。
0
葉書があり、昭和二年当時の樺太の状況を知り得ることができる貴重な写真資料といえる。博物館の庭内には、大砲、
奉安殿、墓碑等がモニュメントのように並べられていた︵写真9︶。大砲には、﹁明治三十七八年戦役紀念海軍大
将男爵片岡七郎謹書﹂と刻まれ、日本海軍のものであることがわかる。大正十五年︵一九二六︶五月の石仏、水
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
写 真 8 某寺院歴代位牌
・日本人が建立した寺院安置の位牌一基︵写真8︶
︵表︶開山蓮華阿闇梨日持聖人
當山
壱世龍献院日珠聖人
3
−13−
この位牌は、寺院の歴代位牌であり、樺太の日蓮宗
寺院に奉祀されていたことが窺える。位牌の横に梵鐘
が展示され、銘文を解読することができなかったが、
樺太にあった日本寺院に掛けられていたと思われるものである。祈願札は、旧樺太神社の祈願札である。
図
展示されていた地図を見ると、﹁真宗大谷派樺太別院﹂﹁浄土宗開教院﹂﹁景徳寺﹂﹁法華寺﹂といった各宗派寺院の
存在が確認できた
ー
また、館内
内に
には
は日本統治下の寺院や神社の写真がいくつか展示されていた。この中には、﹃樺太拾六景﹄という絵
へ
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
古・昌暉・日辱和 ・‐.・5
鍵撚 議
写 真 9 博物館内にある墓塔
q一心伊・︲0,。“。︲.。︲。.
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図 3 豊原市街地図
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J命
田子ロ
品も
︵9︶
準点碑、等の日本人が建立した石造物が点在していた。奉安
殿は、﹁天皇の写真﹂﹁教育勅語﹂を保管した建造物であり、
日本国内の小中学校に建設されたが、樺太でも日本統治下の
時代に建設されていた証しとなるものである。日本の奉安殿
は、国家神道禁止の立場から戦後撤去されたので現在遣って
いるものも数少なく、樺太内には外観だけそのまま残されて
いるものが各地にみられ、当時の状況を知る貴重な文化遺産
−15−
といえる。
その後、市内の旧樺太神社跡に向かう。社殿は明治四十二
年︵一九○九︶に創建されたが、現在先勝祈願碑の後ろに古
い石段があり、これが旧樺太神社の石段である。烏居や神殿
は残っていないが、階段部が一部欠けている石段があり、往
時の日本人町の跡を物語っている。ここでは毎年八月二十三
日に大祭を行っていたようである。
○三十日ドリンスク︵落合︶方面の仏教遺跡調査
豊原から北へ百十五キロにあるブズモーリエ︵白浦︶とい
う町は、ドリンスク︵落合︶市から北に位置するオホーツク
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
写真10白浦神社鳥居(ブズモーリエの海岸)
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
海沿いの小さな町である。なお、途中にあるドリンスク
︵落合︶市は、北海道名寄市と友好都市の関係を結んで
いる。日本統治下は、王子製紙系列の富士製紙工場があっ
た。ここには、旧白浦国民小学校の奉安殿があった。白
浦神社の烏居には、﹁奉献皇紀二千六百年記念﹂﹁柳屋
武□﹂と刻まれ、日本人が建立したことがわかる︵写真
的︶。
−16−
○三十一日樺太のロシア正教、宗教事情の調査
豊原より北へ向かい、地方の炭鉱町へ行き、市内にあ
るモルモン教会を訪問する。牧師よりロシア国内におけ
るキリスト教の伝道について話を聞く。
炭鉱内の一角には、奉安殿があり、地方の片田舎にも
日本人が暮らしていた様子を知ることができた。奉安殿
︵写真Ⅱ︶の大きさは、縦二○三センチ、横二○四セン
チであり、その中には何も入っていなかった。というか、
そのまま放置されている状態であった。炭鉱町では、祭
典に参加し、民族ダンス、ロシア正教儀礼を見学し、地
写真11 奉 安 殿
域の行事が宗教と密着していることを肌で感じ取ることができた。
○九月一日ユジノサハリンスク空港から成田空港へ
樺太島から日本に渡り、真っ直ぐ家路についた。
︵岨︶
以上、六日間の日程を過ごし、日本の統治時代の寺院跡や宗教事情について多少なりとも理解を得ることができた。
短期間の視察であるため、北海道日本ロシア協会を通じて通訳を依頼した次第である。現地で同協会事務局オーリ
ア女史と図らずも会うことができ、今後の日露友好と樺太への追跡調査を確認することができたのは幸いなことであっ
た。
おわりに
今回は、初めての樺太行であったため、日蓮宗寺院の所在や宗教事情を表面的に確認するだけで、学術調査には至
らなかった。しかしながら、次の点が確認できたことはたいへん収穫であった。
・樺太内における日本人建立の寺院・神社の足跡
・樺太内小学校の奉安殿の存在からみる天皇崇拝の状況
・日持の位牌等の信仰関係資料から統治下における日蓮宗信仰︵法華信仰︶の展開
・日本統治下における神道・仏教といった宗教の存在
特に、明治三十八年から四十年間日本の統治下にあった、神社の烏居、日本仏教諸宗派の墓標の存在を確認できた
ことは有意義であった。現在も樺太各所に日本様式の建造物やその痕跡が随所に残っていることを知ったが、時間の
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
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樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
制約もあってあまり確認することができなかったのは残念である。また、豊原公園近くのスキーケ丘の中腹の日持ヶ
丘に日持の銅像があるということであったが、今回は諸般の事情で確認することができなかった。
以上のことから、今後の研究課題として、次の点があげられる。
・日持関係遺跡・遺物の追跡調査
・日蓮宗寺院に関わる聞き込み調査
・日本人墓地・日蓮宗寺院の発掘調査
・日持伝説・法華信仰の民俗学的調査
これらを総合的に考えると、今後民俗学、考古学の方法論を駆使した資料調査・発掘調査を行い、日持関係遺跡の
顕彰と日持伝に関する資料の蒐集を行っていく必要があると考える。これらの調査研究を実施することにより、日本
統治下の政治・経済・社会状況を知ることができ、今後の樺太史、日蓮教団史、海外布教史等が明らかになるである
︾﹃ノ○
※本研修に関して、身延山大学仏教学部から仏教文化遺産研修の研修費交付を得たことを付記しておきたい。
註
英修﹁日蓮聖人のお弟子たち’六老僧略伝l﹄日蓮宗新聞社、一九九○年、影山堯雄﹃仏教海外伝道の始祖日持上人伝﹂、
︵1︶﹁貞松蓮永寺開山日持尊者世家﹂︵﹁本化別頭仏祖統紀﹂所収、本満寺、昭和四十八年︶。一般的な日持伝記に関しては、宮崎
佐藤光春﹃北天開教日持上人伝上・下﹄日蓮宗新聞社、二○○四年、等がある。
︵2︶佐々木馨﹁北方伝説の誕生﹄吉川弘文館、二○○七年、同著、﹁日持伝の史的考察﹂︵日本海域史研究会編﹃日本海域史研究﹄
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第七、文献出版、一九八五年。
新光社、一九七一年、所収︶。
︵3︶大澤一雄﹁日持上人の大陸渡航に思う﹂︵前嶋信次﹃日持上人の大陸渡航についてI宣化出土遺物を中心としてl﹂誠文堂
︵4︶日蓮宗北海道教区編﹃日持上人七百遠忌報恩大会記念時空を越えて﹄一九八一年。ここで穂坂孝史氏は、日蓮宗北海道大
石を写真で紹介している︵現在は埋没︶。
鑑﹁樺太における日持上人の霊場l中島玄要師l﹂を取り上げ、樺太西海岸の本斗郡阿幸村における日持霊蹟として、題目
︵5︶高橋智遍﹃日持上人研究﹄獅子王学会出版部、一九七五年。
︵6︶佐々木馨﹃北海道仏教史の研究﹄北海道大学図書刊行会、二○○四年、九五∼九八頁。
︵8︶﹃日蓮宗事典﹂海外布教の項目。
︵7︶前嶋信次﹃日持上人の大陸渡航について﹂は、日持の海外渡航と中国宣下出土資料について論述している。
場所に大切に保管するようにとの訓令が出された。天皇御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の明治四
︵9︶明治二十四年︵一八九一︶文部省から全国各学校へ下付された天皇・皇后両陛下の御真影と教育勅語の謄本を校内の一定の
十三年︵一九一○︶頃であり、奉安殿の成立もその時期と比定されている。また、小学校の奉安殿建築は昭和十年︵一九三
たびに最敬礼をし、火事や水害などの緊急の場合に職員は命がけで御真影を守るのが義務とされていた。
五︶頃に活発化している。当時の学校長は、校内に奉安殿を奉祀することが使命であった。児童生徒は、奉安殿の前を通る
︵岨︶北海道日本ロシア協会は、北海道札幌市にあり、日本とロシアとの友好を図る目的で設置されたNPO法人である。毎年、
に勧めている。
サハリン慰霊の旅を企画し、現在日本に住んでおり、過去にロシアで暮らした人々の帰郷や慰霊といった国際交流を積極的
樺太仏教遺跡研修︵望月真澄︶
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