連続と不連続の思想 - 日本ムーブメント教育・療法協会

慈誠会病院名誉院長・仁泉会セイントクリニック医学顧問
NPO 法人日本ムーブメント教育・療法協会名誉顧問
仁司田 博司
第 11 章:生命倫理の背景にある「連続と不連続の思想」
はじめに
既にこれまで倫理の「倫」は仲間という意味であることを述べたが、我々人間が共に
生きている仲間内で生命に関する考え方で齟齬が生じた時、それを擦る合わせる考え方
が生命倫理である。その擦り合わせの過程において、より良好な治療成績やより高い経
済効率といった EBM(evidence based medicine)だけでなく、相手のことを自分のこと
のように考える「あたたかい心」がその背景に無ければ、人間味を失った冷たい判断に
陥る。
「あたたかい心」とは、単に同情や憐れみ(sympathy)と言ったレベルを超え、相手
の苦しみ・痛みを自分の苦しみ・痛みと感じること(empathy)の出来る心である。そ
の「あたたかい心」とは、弱い生き物である人類が生き抜くために、進化の過程で勝ち
得た最も大切な宝であり、その「あたたかい心」を育むのが「連続と不連続の思想」で
あるところから、この周産期を巡る生命倫理の連載の最後に「連続と不連続の思想」を
取り上げる。
Ⅰ:一冊の本との出会い
この連載で何度も述べてきた如く、私は周産期新生児医療の現場で、これ以上の治療
を続けることがその子と家族にとって本当に幸せや安寧をもたらすのか、と何度も呻吟
してきた。その倫理的判断の理由付けに、「零と無限大の論理」なる屁理屈を考えて自
分を納得させていたが、心落ち着かない日々であった。
「零と無限大の論理」とは、俗に地球より重いと例えられる人間の命の価値が無限大
であるなら、その生存の可能性が例え一万分の一であっても、無限大かける1/10,000
は無限大であり、あらゆる救命の医療を行うべきである。しかしその生存の可能性が零
であったら、無限大かける零は零であり、治療を止めることが許されるであろう、とい
うものであった。
しかしそれは、「切り捨て」となる理論をオブラートに包むような
ものであることに変わりは無かった。
その日私は、長期間人工換気を行っていた染色体異常の児の治療中止をみんなに告げ、
重い気持ちで病院を出た。夕食に招待してくれたシカゴ留学中に親しくなった中国系ア
メリカ人宅へ向かう途中、家内との待ち合わせの短い時間に手土産に日本の写真集を求
めて入った書店で何気なく手にした本が、謎のような名前の「Powers of Ten:宇宙・人
間・素粒子をめぐる大きさの旅」であった。ページをめくり間に、自分が昂奮してくる
のが分かった。具体的に何がどのように、私の心の葛藤を解決してくれるかはまだわか
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らないながら、「これだ!」とその本との運命的な出会いを感じたのである。その思い
は、本の力紙に書かれた、
「1986 年10月 1 日、渋田道玄坂にて、私が求めていた本」
の言葉にうかがえる。
「Powers of Ten」とは日本語に訳せば「10 の力」であるが、正確には「10の自乗
の持つ力」の意味であり、10 を正数で自乗(10n)すればあっというまに大きくなり、
負の数で自乗(10-n)すればどんどん小さくなることである。この本は子どもに大
きさを教える本であり、見開きの左側に例えば100(1)メートルの大きさの写真を示
し、右のページにその大きさの具体例と説明が書かれている。後にワシントンのスミソ
ニアン博物館の子どものセクションでその原本と、宇宙の果てから素粒子の世界まで一
瞬でつながるビデオを見つけた。
その1025メートル(約10億光年の距離)から10-16メートル(1フェルミ)ま
での 42 枚の写真に示された、極大と極小の連続した世界の中に我々はいる。それは全
てが連続した世界であり、自分たちがこの宇宙の一員であることを天啓のように直感し
たことが、一陣の風のように私の心のモヤモヤの霧を払ってくれたのである。
以下に私たちを取り巻くすべての事象が連続であることを解説する。その連続である
事実を感じながら不連続としなければない判断は、冷たく切り捨てるのではなく、同じ
仲間であるがこの社会で生きて行く為には仕方がないと、相手への思いを馳せながら涙
して不連続とするのである。それが私の生命倫理を考える上での基本となる、「あたた
かい心」を支える「連続と不連続の思想」となったのである。
2:私達を取り巻く連続性とは
1) 温もりのある連続した宇宙
私達の世界の基本単位である時間と空間が連続であることは容易に理解出来るであ
ろう。時間が連続で、ミヒャエルエンデの小説「モモ」の時間泥棒のように、時間を切
り取ってためておくことは出来ないこと、また空間も連続でデッサンの図の上ならとも
かく、ある空間を切って取り出すことはできないこと明らかであろう。近代の相対性理
論では時間が伸び縮みすることや空間が曲がったりすることが考えられているが、それ
でもその連続性には変わりがない。さらには物質さえも、分子や原子のレベルを超えて
素粒子の世界までさかのぼれば、重さも大きさもない世界に辿り着き空間と癒合してし
まうことが最新の量子論(最小単位が、ある広がりを持った紐や膜といった理論)から
知られている。
このように我々を取り巻く世界のすべては連続であるが、私達は生きて行く知恵とし
て、時間を一時間は 60 分とか一日は 24 時間であると分けて、一瞬の間にすぎない時を
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「今は 2014 年の 1 月 5 日 11 時 55 分 30 秒である」と人為的に不連続にして扱っている。
同様に空間においても、日本・東京・新宿区・河田町さらに1丁目8番地などと、実は
連続であるものを人為的に不連続に分けている。物質に関しても素粒子のレベルでは空
間と連続性であるが、私たちの生活にレベルでは空間からは不連続と扱われている。
このように考えると、私達の住んでいるこの宇宙は、ビックバン(正確にはその前に
ビッグインフレーションがある)と呼ばれる火の玉で始まって以来約 137 億光年の時間
の歴史と空間の広がりとをもった連続体としてとらえることができる。さらにその全宇
宙には、ビッグバンの残り火である黒体輻射と呼ばれる絶対3℃(絶対温度の摂氏マイ
ナス 273.15 度より3度高い温度)の温もりで満たされていることが証明されている。
このように私達すべては、その宇宙のぬくもりの中の一部であると考えれば、人と人と
の間においても、あたたかい心のつながりを感じるのではないであろうか。
もう一つ、私達と宇宙のつながりを考える上で大切な事実は、私たちの体を作ってい
る自然界にある92の元素の中で、生命維持に不可欠な亜鉛やセレンといった原子番号
が鉄より大きい(重い)部類に入る物質は、太陽系以外の天体で出来た物なのである。
太陽程度の大きさの星は、核融合でエネルギーを出して燃え尽きると、白色惑星と呼ば
れる冷たい星になってその一生を終えるが、太陽の3倍以上の質量のある星は最後に大
爆発を起こして超新星となる。その時に物凄い熱と圧力が加わることによって鉄より重
い質量の元素を作り出し宇宙空間にまき散らすのである。このように宇宙の彼方で生ま
れた太陽系では出来ない元素が、隕石などの形で地球に舞い降り、その中の亜鉛やセレ
ンなどが私たちの体の重要な部分を造っていることを考えると、私達人間もみんな同じ
く宇宙と繋がっていることを感じるであろう。
2)
ガイアという運命共同体の地球
「ガイア」とはもともとギリシャ神話の大地の女神のことで、天地を含めた地球全体
を意味する。私たち生物はそれぞれに勝手に生きているように見えながら、生態系全体
として調和が取れているのは、地球が私たち生物を生存し易いようにサポートしてくれ
ているからだという考えが、地球全体を生命体として捉える「ガイヤ思想」である。宇
宙飛行士は、真っ暗な宇宙の中に青く浮かぶ地球を見た感動を、「地球は生きている」
と述べているが、それは単なる見た目の感想の意味でなく、宇宙飛行士たちは本当に地
球が一つの生物体として機能していることを実感したからである。この地球全体を肉眼
で見るという特殊な体験は、人に神を感じさせるような心境にするようで、多くの宇宙
飛行士が信仰に目覚めることが、立花隆の宇宙からの帰還した人たちへのインタビュー
した「宇宙からの帰還」という本に記録されている。
さらに宇宙物理学者の中には、たとえ宇宙創設以来の137億年という歳月の長さを
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考えても、地球という稀有なる環境を持った星に人間が生まれたことは奇跡的なことで
あり、この宇宙は人間を生み出す為に出来た、と真面目に考えている(宇宙人間原則論)。
そのような宗教的な直感のような考え方とは別に、地球環境学の知識を深く学んだ人
達が「地球が一つ生態系である」ことを証明し、「地球を一つの生き物」にように捕ら
えるガイヤ思想が生まれているのでる。ダライ・ラマは、このような奇跡の星に生まれ
た我々は共にこの地球に生きる幸せを感じよう、というメッセージを残している。これ
は、私たちはこの連続した大宇宙に囲まれた地球号の乗組員の一人であり、みんなつな
がっていることを感じることの大切さを言い表したもので、正に「連続と不連続の思想」
そのものといえるであろう。
3)
私と貴方の連続性
哲学者のマルチン ブーマーはその著書「我と汝(なんじ)」の中で、
「我が汝と語り
かける時、我にとって汝となる人は自己のうちに全体を宿すことのできる者である」と
述べている。すなわち、「あなたから見れば私はあなたであり、私から見ればあなたは
私なのである。貴方が悲しければ私も悲しさを感じ、私が辛ければ貴方も辛さを感じる
であろう」という、我(私)と汝(貴方)の両者は立場をかえただけで同じものになり
うる連続性をもっていることを意味している。それが相手への思いを馳せる「あたたか
い心」の源泉であり、その背景には「私もあなたもすべて繋がっている。」という連続
の認識と、しかしながら「私は私であり貴方は貴方である」という不連続の認識、の調
和が必要であることを言い得ている。
人間は、自分は自分であり他人は他人である、という不連続を認めながら、お互いに
理解し合い助けあう連続した社会の中で生きている。すなわち立場をかえれば、他人は
自分となり自分は他人となり得るという、人間としてのつながりを感じながら生きてい
る。このような他人とのつながりを感ずる連続性が社会を形作っている。
その具体的な一例をあげると、私達は現在たまたま健康な成人であるが、かつては弱
い赤ちゃんであり、いつかは必ず弱い老人となり、また、いつかは障害者となるかも知
れないという人生の連続性を考えた時、病気の新生児は助かっても障害を残すからと助
けないことは、自分がかつて新生児であったことを忘れているからである。同様に、電
車に乗っていた老人がよろめいて若者の足を踏んだ時に、「老人は老人ホームで寝てい
ろ」と怒鳴るとすれば、若者がその老人は自分の未来であることを認識していないから
である。また、多くの人が障害者を異邦人のように見てしまうのは、自分が障害者とは
別な人間と思ってしまうからである。私達がいつ障害者になるかは紙一重であるだけで
なく、多少なりとも障害の無い人などいないのである。このように弱い新生児は自分の
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過去であり、弱い老人は自分の未来であり、弱い障害者は自分の分身である、という連
続性を感じることが、相手を思いやる「あたたかい心」の源泉となる。
子どもは、自我が芽生えことによって自分を知り、さらに自分を知ることによって他
人を認識するようになる。この時に自分と他人の連続性を感覚的に知ることが、他人と
共に生きることの大切さを学ぶ最初の大切なキーワードとなる。子どもは、もともと自
分と他人を区別する能力が十分でなく、他人の物も自分の物もその区別がわからず、極
く当たり前に相手の物を取ってしまう。また、自分と他人が分からない間は、相手の痛
みを理解することは出来ないので、手加減無く相手を噛んだり打ったりするのである。
それ故、自分と他人の区別が出来るようになった頃に、相手が痛いことは自分が痛いこ
とと同じであるという、自分と他人の連続性を教えなければならない。
私達大人は、他人が怪我をして血が流れているのを見ただけで、自分が怪我をしたよ
うなゾッとする様な感覚が体を走るのを経験するが、それは無意識に相手の痛みが自分
に投影される現象だからである。近年の脳科学で、ミラー細胞(mirror neuron)とい
う、見聞きしたことで自分においてと同じ反応を引き起こす細胞が発見されている。そ
れによって相手の痛いことを自分の痛みとして無意識に感じてしまうように、自分と他
人の連続性を学習することは、人間が共に生きて行く上でとても大切な脳機能なのであ
る。子どもの時に、そのような感覚を学ばないまま生長してしまった人が、相手の痛み
に無頓着に傷つけてしまうことになる。昨今の少年達が起こしている信じ難い残酷な犯
罪には、そのような背景があると考えられている。
4)
人間の一生の縦糸と横糸の連続性
「人」は歩いている姿の象形文字と言われ、homo sapience とよばれる生物学的存在
を表している。それに対して「人間」という言葉は、人と人の間がある社会的な存在と
いう意味がある。実は、人間という言葉は大和言葉である、と私に教えてくれたのはイ
タリア人のピタオ大司教(バチカン教育長官)であった。彼が、「仁志田さん、人間と
いう日本語は素晴らしい言葉ですね」と言われた時、「中国語でないのですか」と驚い
て聞き返すと、中国語では「じんかん」と呼んで世間一般のような意味です、と答えら
れた。私たちは単なる生物学的存在の「人」から、共に生きることの重要性を学んで社
会的存在の「人間」に進化したのである。
「綾」という言葉は、経糸と横糸が織りなす様子を表すという。正に私たち人間の一
生は、多くの人々との「綾なす繋がり」によって成り立っている。一人の人間の親から
祖先へと綿々と繋がる家系(遺伝子)の縦糸と、社会の中で多くの仲間とつながりあう
横糸の連続性を考えてみよう。
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若者の中に、
「私を産んでくれと頼んだ覚えは無い。ほっといてくれ。」と親に暴言を
吐く者がいる。それを、独立心がある、などとおだててはいけない。私達は誰もが赤ち
ゃんで生まれ、親に育てられて大きくなったのである。それ以上に第 9 章「生と死を巡
る生命倫理」で述べた如く、すべての命は37億年に渡る系統発生の歴史の結果である
ことを思い知らなければならない。人がこの世に生を受けたということは、その父母が
居たからであり、されにその父母が生まれたのは祖父母が居たからであると、どんどん
考えていけば、私達は親や祖父母を超えた人類の命の流れに思い至るのである。
私の子供達は実家に帰ると、最初に自然に仏壇の前に行って手を合わせる。私たちが
今ここに居るのは、私たちの先人のお蔭であることを知れば、親や先祖を敬うのは当た
り前のことであり、子供の時から親がすることを見ていれば、それは理屈抜きに身に付
くのである。何も言われなくとも自分から仏壇やお墓に手を合わせることの出きる子ど
もが、昨今のニュースで目にするような親を殺すなどという事件を起こすはずはない。
私たちが今ここに存在していることに関わっている繋がりには、祖先からの縦の命の
流れだけでなく、共に支え助け合っている横の繋がりがある。私たちの身の回りの生き
てゆく為に必要なすべての物が、なんと多くの人のお蔭をもって存在していることかと、
その多くの人たちとの横の繋がりとそのありがたさを感じなければならない。私は「連
続と不連続の思想;あたたかい心の根源」の講演をする際の冒頭に、今私がここに立っ
ているのは奇跡的なほど多くの人とのつながりの結果なのです、と云うことにしている。
それは言葉の遊びでなく、本当にそう思うからなのである。
人と人の繋がりが、私たちの想像を超えてどのくらい密であるかを示す「複雑な世
界:単純な法則」という本によれば、なんと約6人の紹介者に間を取り持ってもらえれ
ば、地球上のすべての人と知り合いになることができるという。同様に、インターネッ
トで約6回クリックしてリンクのまたリンクを繰り返すと、世界中の個人レベルのマイ
コンにまで繋がるという。このように私たちの世界は、網の目のような人間関係で成り
立っている。その程度の差はあれ世界中の誰もが重要であり、一瞬一瞬のその人の役割
が世界中の人の存在に関与しているのである。その逆を考えれば、私は世界中の人との
繋がりのお蔭で今ここに存在しているのであり、その「人間同士の連続性」を感じるこ
とが出来れば、それが「あたたかい心」の源泉となるのである。
5)
物質と生命体の連続性
生命体とは、「生殖をおこなう・恒常性を保つ・環境の変化に適応する」という能力
を持っているもの、と定義されよう。しかし、生命体の発生は、原始の海においてアン
モニアやメタンなどの分子から長い年月の間に出来たと考えられており、事実実験室レ
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ベルでそのような物質に高圧電流などを流すことでアミノ酸や核酸に近い物資が作り
出されている(分子進化)
。さらに、分子生物学の進歩により同定された生命体の基本
設計図であるDNAは核酸とよばれる物質であり、物質と生命体の境界を不透明にした
のである。例えばタバコモザイクウイルスそのものは DNA であり、そのままでは単なる
物質であるが、たばこの葉の細胞内に入る生命体としての機能を発揮する。
このように生命体と物質は連続したものであることは、第 8 章の生と死を巡る生命倫
理(死生学)で述べた如くでる。
6 人間とすべての生物との命の連続性
人間と他の動物の間においても、同様な連続と不連続の考え方が出来る。例えば人と
チンパンジーの遺伝子の DNA 配列は、その 98%までが同じであることが知られている。
さらに最も原始的な生き物のひとつであるゾウリムシをとりあげてみても、その DNA の
基本的な構造は我々人間と同様であり、その DNA という設計図から蛋白をつくり出す約
束事である暗号のような核酸の配列までも同じなのである。ということは、すべての生
き物は系統発生と呼ばれる、38 億年余りに渡る一個の原始細胞から数十兆の人類至る
までの、進化の道筋で結ばれていることに気付くことであろう。
しかし、私達も含めて生き物はすべて連続した繋がりがあることを知りながらも、や
はり人間は特別である、と他の生物とは一線を画した不連続な存在であることを認めな
ければ、生きてゆく為の活動を一歩も進めることが出来なくなる。それは神が人間を作
られたという宗教的な考えや、人間は宇宙の果てまで思いをはせることの出来るほどの
能力を持っているからという理由ではなく、私たちを取り巻く世界との連続を認識しな
がらも、私たちが生きて行くためには、人間と他の生き物の間に不連続の線を引く必要
があるのである。
7 生と死の連続性
このテーマも第 8 章の生と死を巡る生命倫理(死生学)で触れている。繰り返すと、
人と言う生命体がいわゆる死の3徴(心拍停止・呼吸停止・瞳孔散大)を示した後も、
死後もわずかであるが髪の毛が伸びるように臓器は生きている。さらに臓器の機能が止
まった後もそれを構成している細胞はある時間生き続けており、死亡時間を何時何分と
決めるのは医療上の約束事であり、人間社会の営みに齟齬をきたさない為である。
さらに日本人にとっては、医学的・生物学的死亡の後も、故人の思い出が残された人々
の心の中に生き続けることから、即物的に死を受け入れるのではなく、生と死の連続性
を不連続とするまでのステップとして、死者を生きている者の如く遇する幾つもの通過
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儀礼がおこなわれている。
8 異常と正常の連続性
私の身の回りに、IQ が 150 以上で有名大学を卒業したが他人とのコミュニケ^ション
が上手く取れず引きこもりとなっている者がいる一方、IQ が 80 そこそこでようやく中
学を卒業し、親元で働きながら結婚して幸せな家庭を作っている者もいる。IQ という
物差しで 100 以上なら正常で 80 以下なら異常(知能障害)と分けることは、集団の評
価法として存在するが、100 と 99 及び 80 と 79 の間にギャップがあるわけではなく連
続しており、さらに個人個人では大きなばらつきがあるところから簡単に異常・正常を
選別することは出来ない。
また障害者の施設には、サバン症候群と呼ばれる一人で社会生活が出来ない程の知能
の遅れがありながら、驚異的な記憶力(一目見た景色を覚えていてビルの窓の数まで正
確に描く、等)や計算能力(計算機でも 1 時間以上かかる計算を暗算で答えを出す、等)
を持っている子どもたちが知られている。個人的には、数百もの曲を暗譜しており曲名
を言うと直ちにピアノ演奏できる未熟児網膜症で盲となった知能障害を伴った児を知
っている。これらの児は、天才的な才能を持って生まれたのではなく、発育成長の過程
で社会に適応するためにマスクされてしまう、本来人間が持っている能力が温存された
結果と考えられている。
このように正常と異常は連続であるばかりでなく、正常に異常が、また異常に正常が
含まれており、両者を安易に分けることは出来ない。しかし、異常とされる人たちと正
常の範疇に含まれる自分の連続性を知りながらも、医療上からまた共同社会運営から、
特別な対応や配慮を必要とする人々がいることを認めなければならない。それは、全体
の功利主義による選別や切捨てではなく、異常と呼ばれる人々と我々の連続性を感じな
がら、その範疇に入る人たちの福祉を考慮した結果としての、不連続とする判別でなら
なければならない。
3: 「連続と不連続の思想」と「あたたかい心」が支える生命倫理
くどいほど私たちを取り巻く世界が連続であることを述べてきた。その理由は相手と
の連続を知り、相手に思いを馳せる{あたたかい心}こそが、様々な環境の中で様々な
人々と共に生きる生命倫理を支える根幹と考えるからである。既にその多くを述べてい
るが、改めて三代話のような「連続と不連続」
・
「あたたかい心」
・
「生命倫理」を解説す
る。
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仁司田 博司
1) 「連続と不連続の思想」から生まれる「あたたかい心」
元々この宇宙が一つの点から始またことを思い起こせば、森羅万象すべて連続であり
私たちはその一部であることは理解したであろう。より具体的には、親が居て先祖がい
たからこそ私がここにおり、周囲の人々がいるからこそ自分が生きていることに気付け
ば人と人の連続を知り、私たちが共に生きていることを知るのである。
しかし生き行く上では、私の家族と貴方の家族は別であり私と貴方は別である、とお
互いに認め合わなければならない。災害などの命に係わる事態が生じた時、自分と家族
を守る努力をするのは当然であるが、同時に知人とその家族を心配するであろう。さら
に知人どころか見ず知らずの人が山や海で遭難した場合、私たちは身を危険に晒しても、
多額の費用と労力を費やしても、遭難者を救出する努力をするのは、なぜであろうか。
それは遭難した人が可哀そうであるとか、そうするのが任務であるとか思うだけでなく、
共に生きる仲間としての連続を感じるからである。
我々人間とは、生物学的な人と人の間に水(humor)のような繋がりを感じて、共に
生きる社会的存在に進化した生き物である。ちなみにこの humor という言葉は、ユーモ
ア(共感者を得る人間味あるおかしさ)の意味もあり、human(人間)や humane(思い
やりのある)に通じるものである。人間的((humanity)という言葉が、相手を思いやる
「あたたかい心」を持っているという意味でるごとく、「あたたかい心」こそが、人間
の人間たる由縁であると言える。
近年の研究でボノボ(ピグミーチンパンジー)は、人間に近い心の交流があるらしい
ことが知られているが、本質的には人間以外の動物が仲間と群れているのは、生殖・餌
を得る・外敵から身を守る、という生き残る手段としての功利的理由からである。この
ように私たちの世界の連続性の重要性を感じ取り、進化の過程で脳(前頭前野)の中に
刷り込んだことが、人間の共に生きるあたたかい心の源泉になっていることが理解でき
るであろう。
2 「あたたかい心」とは
「あたたかい心」とは、
「やさしさ(優しさ)」とほぼ同じ意味で、共に相手を思う心を
表現する言葉である。しかし「優しさ」は、その使い方や状況に応じて「優美で風情が
ある、穏やかで素直である、細やかで情け深い」など、色々な意味が含まれるばかりで
なく、使い方によって限られた意味合いになってしまう。それに対して「あたたかい心」
は、仲間のすべての人に対して抱く思い、特に相手の痛み・苦しみ・悲しみを、自分の
痛み・苦しみ・悲しみとして感じることの出来る心と定義されよう。
新聞などで目にする「やさしさ」の言葉を拾ってみると、「人にやさしい車」や「人
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にやさしい町づくり」などの表現がある。「人にやさしい車」の文節に使われる「やさ
しさ」の意味は、車を運転し易い(easy), 安全である(safe),
乗り心地が良い
(comfortable)などの、車を利用する人に対する具体的なメリットが挙げられる。さ
らに「人にやさしい町づくり」の場合は、公害を出さない(ecological)や障害者にも
配慮してある(barrier free)という特定の事柄に対する思いやりの意味である。
「あたたかい心」とはなんだろうと改めて考えてみると、単に使い易いや安全と言った
レベルを超え、真に相手に思いを馳せる心といえよう。車を作ることに例えれば、たと
え運転し難くとも、スタイルが悪くとも、車を作る人がそれを使う人のことを真剣に考
える相手への思いやりが、自づから醸し出される「あたたかい心」に繋がる。すなわち、
具体的なやさしさといった事柄を越えた、相手との心の共鳴が「あたたかい心」なので
ある。
3 生命倫理と「連続と不連続の思想」
第 4 章の予後不良の方針の項で、現代の医療現場において可能な限りの治療を行いな
がら、倫理的議論の末にクラス D として生命維持治療を中止することの是非を述べた如
く、予後の悪い患者の治療を中止する医療行為(看取りの医療)は、正にそれまでの共
に生きる仲間との連続を断ち切らなければならないこと意味する。同様なことは、超早
産児の医療において「どのくらい未熟な児なら治療をすべきか」、においても議論され
た。すなわち医療の中では、全ての子どもをすくうことは出来ないところから、命の連
続を知りながら、人為的な死という不連続を認めなければならないである。
その時に、私たちは「こんな子供を助ける意味が無い」と、紙くずを丸めて捨てるよ
うに治療を止めるのではなく、その児も私達と同じ人間であるが自分たちの知識や経験
では助けることができないと、心の中で手を合わせ涙して行うのである。治療を中止す
るという行為が児に死をもたらすという結果は同じであって、相手への連続性を感じな
がら行う行為と、冷たく切り捨てる行為の違いは明らかであろう。
4 「連続と不連続の思想」が社会を型造る背着剤の役目
我々の社会を形成している接着剤のような役目をしている大切なものが、これまで述
べてきた「連続と不連続の思想」である。あたたかい心を失った時に人と人との心の繋
がりが失われ、その社会は一瞬にして崩壊する。それはナチスのユダヤ人虐殺の例をあ
げるまでもなく、数多くのフォロコーストと呼ばれる痛ましい大量虐殺のエピソードが
くり返されてきた人類の歴史の中に明らかである。
近年になってアフリカのルワンダでも同様のことがおこった。お互いに信頼し合い愛
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し合い、ある者は家族として共に生きて来たツチ族とフツ族が、政治的な宣伝で「ツチ
族はゴキブリであり人間ではない。」と何千回何万回とくり返しラジオで放送されるう
ちに、多数派のフツ族の人は少数派のツチ族を人間とは思わなくなり、恐ろしい「ジュ
ノサイト(民族抹殺)
」と呼ばれる大量虐殺が一瞬の間に起ったのである。
この事実を書き留めた「ジェノサイドの丘、ルワンダ虐殺の隠された真実」という、
想像を絶する虐殺の物語を読み終えた時に、人はいかに残酷になれるかと、暗澹たる気
持ちに陥った。しかし巻末近くに記載された、「共に生活していた少女達が、自分が射
殺されるのを厭わず、自分と友達がフツ族とツチ族に分けられる事を拒んだ。」という
エピソードは、このような状況に置かれても、友達を捨てる事が出来ない相手の痛みを
感じる心を持った人たちがいた事の証であり、一条の光のようなものを感じた。私達の
祖先がかち得た生きる為の知恵である、「共に生きるあたたかい心」を持ち続けていたの
は子どもたちであった。私は小児科医として、滅びゆく人類を救うのは子どもに「共に
生きるあたたかい心」を育むことである、と確信したのである。
残念なことに民族や国家間だけでなく、我々の身近な家族という小さな共存の単位に
おいてさえも人と人の絆にほころびが生じ、愛しあって生活してきた家族がいがみ合う
ようになり、家庭が崩壊することが起こっている。あらためて、子どもが自分と他人を
認識するようになった頃から、連続と不連続の考えに根ざした「共に生きる知恵」を身
に付けさせる大切を世に広めなければならない。
おわりに
私達の社会は高度かつ複雑になり、原始時代のように自然の流れに中でおたがに助け
合って生きているだけでは済まなくなった。特に医療の世界では、出来るからと救命や
延命の治療を行うことが、その患者と患者家族さらにそれを取り巻く人間社会にとって
「最善の利益」とはならない事態に稀ならず遭遇するようになった。生命倫理的思考が
必要となったのは、まさにそのような現実に必然的に対峙することが避けられなくなっ
たことは、このシリーズの第 1 章「私がなぜ生命倫理を学ぶようになったか」で触れて
いる。
超重症例においては倫理的観点からの医学的治療方針の決定がなされ、あまりにも障
害が強すぎる・あまりにも未熟すぎる・あまりにも重症である、という理由で治療やケ
アが断切られ、共に生きるべき仲間との間に不連続の線を引くことを余儀無くされるこ
とが起こりうる時代となったことを、好むと好まざるのレベルを超えて、私たちは認識
しなければならない。そのような場合には、対象とされる患者も我々の仲間であるとい
う思いを忘れず、心の痛みと悲しみを共有しながらその決定をするのが「連続と不連続
慈誠会病院名誉院長・仁泉会セイントクリニック医学顧問
NPO 法人日本ムーブメント教育・療法協会名誉顧問
仁司田 博司
の思想」である。データやロジックで結論が出される傾向にある生命倫理的判断が冷た
いものに終わらないようにするために、その議論の背景に「やさしさ」を内蔵する生命
を超えた「いのちのほむら」を感ずる「連続と不連続の思想」が果たす役割は大きい。
最後にマタイ伝25章にある、「我が兄弟なるこれらのいと小さき者の一人になした
るは、すなわち我になしたるなり」
、の言葉を添える。
参考文献
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