報告者: 口明 2015/5/18 武部健一さんの『道のはなし』という本は

報告者:
口明
2015/5/18
武部健一さんの『道のはなし』という本はたいへん興味深く、
道路技術屋の一般教養として、皆さんにもぜひ読んでもらいた
いと思うのですが、みなさんも忙しいでしょうから、私が簡
潔にまとめてみました。面白い本です。ぜひ一読してみてくだ
さい。
技報堂出版株式会社
1992年7月20日 1版2刷
著者武部健一さんについて
武部健一さんは1925(大正14)年東
京生まれ。京都大学の土木工学科卒業で、
のち建設省、日本道路公団で高速道路の計
画、建設に従事されました。現在は、株式
会社片平エンジニアリング取締役社長で工
学博士。土木学会土木史研究委員会委員、
交通工学研究会理事です。
1
以上のように、まるでなにか神の見え
ざる手に導かれるように、高速道路は古代
回帰しているかのようなのです。しかしこ
れは決して偶然ではなく、古代と現代の道
路網には政治的・社会的な理由によるはっ
きりした相似性があるのです。
▪ 日本の幹線道路網と時代区分
① 古代の七道駅路
② 江戸期の五街道時代
③ 明治期の国道時代
④ 昭和後期の高速道路時代
第1章 道の歴史
それぞれの時代の説明
1. よみがえる古代路
ふしぎなことですが、日本の古代にお
ける最初の幹線道路網(七道駅路)と現代
の高速道路網とがいろいろな点でたいへん
よく似ているのです。
① 古代の律令時代に建設された。東海
道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、
南海道、西海道の七本。「七道駅路」
という。中央集権国家の利益が優先さ
れ、朝廷の勢力が衰えた平安時代末期
には衰退してしまった。
路線の長さが同じ
路線の構成が同じ
② 古代の中央集権的律令国家の道路と
違い、各国大名の領国支配に便利な所
領中心地を相互に連絡した道。
路線の通過位置も同じ
現代の高速道路のインターチェンジの位
置と古代路の駅とが同じ所にある
③ 道路自体はすべて徳川幕府からその
まま継承されたが、道路等級の分類(国
道、都道府県道)やそれに応じた中央・
地方の財政負担の決定など、今日に道
路行政の基本。
④ 自動車交通に対応するための改良・
整備が行われ、高速道路こそが自動車
の機能を全面的に発揮させる道路形態
であることや、そのネットワーク構成
が従来の道路網とは別に、新たな理念
と技術によって形成された。
古代路は途中に駅(駅家ともいう)が
設けられて、駅馬、伝馬が置かれ官吏の用
に供されていました。このここの駅とイン
ターチェンジがよく相応しているのです。
▪ 古代路に似る高速道路
それではなぜこのような相似性が生ま
れるのでしょうか?
驚くべきことですが、なんと古代路と
高速道路はいくつかの点で似通っていると
ころがあるのです。
まず第一に、路線総延長(6,500
km)が両方ともほとんど同じだというこ
とです。
第二は、路線構成が同じ。東海道=名
神(東名)高速道路、東山道=中央自動車
道、北陸道=北陸自動車道、山陰道=中国
自動車道、山陽道=山陽自動車道、そして
南海道=近畿自動車道和歌山線(および四
国縦貫自動車道)
▪ 再び元のルートへ
三番目は、路線の位置。
江戸時代の街道は古代路と必ずしも一
致しませんが、高速道路になると古代路と
一致してくるのです。
▪ 重なる駅とインターチェンジ
▪ 古代回帰の歴史的必然性
簡単に言えば古代路と高速道路とがい
ずれも「計画性」と「遠距離直達性」とい
う共通の性格を持っていることが挙げられ
ます。
古代路は一刻も早く地方拠点と連絡す
る必要があり、そのために路線は計画的に
できるだけ直線的に結ばれました。その計
画性と直線性が後代の高速道路の路線と重
なった一つの理由です。
▪ 温故知新
古代路と高速道路との類似は、日本の
国土の地理学的特性と社会的発展の経過と
が融合して招来されたものです。決して後
代の為政者や技術者が意図したものではあ
りません。しかし、もしこうした回帰現象
の意味をあらかじめ承知しており、そこに
教訓を読み取るならば、高速道路やその他
の道路の計画や建設の上に大きなプラスが
もたらされることでありましょう。
2. 日本の道路の夜明け
魏志倭人伝に
土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿
(きんろく)の径(こみち)の如し
と三世紀当時の対馬の状況についての
記述があります。
▪ 『魏志倭人伝』の道路
九州佐賀県東松浦半島あたりの道路の
状況についても以下のように描写していま
す。
草木茂盛し、行くに前を見ず
草木が盛に繁茂して、その間の道を行
くのに前を進む人の姿が見えないというの
です。九州本土の道路もまた、このような
貧弱なものでした。
邪馬台国でも次第に部族小国の統合や
支配関係が進んで、その支配下にある諸国
を統制するためには、しじゅう巡検を行わ
なければならず、広域の地方が一つに統制
されるようになるにつれ、遠距離の交通手
段としての道路の必要性は次第に高まって
きます。
▪ 「神武東征」の道
皇師(みいくさ)兵(つわもの)を勒
(ととの)えて、歩(かち)より龍田へ趣
く。而して其の路(みち)嶮(さが)しく
て、人並み行くを得ず
軍隊が徒歩で龍田に進軍していくのに、
道が険しくて、二列縦隊では進めなかった、
ということです。ここに示された道路の頼
りない状況は、近畿地方がまだ各地域の豪
族の小国家に分立していた弥生時代後期の
様相を示すものだといえるでしょう。
▪ 四道将軍(よつのみちのいくさのき
下戸(かこ)、大人(たいじん)と相
へば、逡巡して草に入る
身分の低い階層のものが、貴人に道で
出会ったときは、後ずさりして道を譲り、
道端の草むらに入ったのです。身分の隔た
りの大きさもさることながら、道幅は人の
行き違いもできないほど狭かったことが推
察されます。
▪ 伝送の道
み)
『日本書記』の伝承によると、崇神天
皇十年に、四道将軍が各地に差遣されます。
北陸、東海、西道、丹波。これらの地域が
大和政権の支配の及ぶところとなったこと
を示していると同時に、大和地域からそれ
ぞれの地まで交通路が存在していたことを
示しています。三世紀末から四世紀初めの
頃とされています。
3. 日本最初の道路建設
省略
4. 七道駅路
広く、また各所に分散している地方を、
政治的、軍事的に統御してゆくためには、
交通・通信手段の確立と維持が不可欠です。
日本の古代国家がそのために建設した官路
が「七道駅路」です。それがいかに優れた
ものであったかは、最も近代的な高速道路
網が七道駅路を踏襲している事実によって
示されています。
▪ 駅制は大化の改新から
道路は、ただ道の形ができ上がればそ
れで使えるというものではありません。道
路自体もたえず修理をしなければなりませ
んが、それよりも、旅をする人々に水や食
べ物を提供したり、乗る馬を準備したりす
る必要があります。つまり道路が交通する
ためのシステムとして機能していなければ
なりません。その基本は現代でも変わりま
せん。古代のそのシステムを「駅制」と言
います。駅制のもとに運営される道路が「駅
路」です。それを制度の上ではっきり示し
たのが、大化の改新の翌年発令された「改
新の詔」でした。
大化の改新の詔によって始まった駅制
は、その後律令制国家の充実とともに発展
し、またその衰退とともに消滅しました。
まさに律令制の申し子のような存在でした。
駅制が敷かれた道、すなわち国家が管理し
た駅路は、大和、のちには平安の都から放
射状に伸びて各地方の国府を連結した長距
離幹線道路です。
▪ 古代路の築造
七道駅路のうち、都から太宰府までの
山陽道を大路、東海道と東山道の二道を中
路、その他の四道を小路と呼びました。
太宰府は外国使節渡来の門戸であり、
また西国統治の中心地でしたから、それと
京を連絡する山陽道が大路に格付けされた
のは当然のことでしょう。
▪ 駅路は山陽道が最初
六世紀中葉に山陽道が整備され、その
後七世紀にかけて次第に駅制に類似した制
度、設備が山陽道に出現しました。
▪ 全国に伸びた駅路
北方では、主として蝦夷を平定する軍
事上の必要から、大規模な道路建設が行わ
れました。天平九年(七三七)、将軍大野
東人は多賀柵から出羽に至る直通道路を開
通させる必要を奏上し、自ら兵数千人を従
えて全長一六〇里(八五.二キロ)の道路
工事を完成させています。
しかし当時の道路は、民衆の往来の便
宜を図り、商品の輸送を円滑にするために
開かれたのではなく、国の有事の際に速や
かに兵力や食料を輸送し、また人民の貢納
する調・庸など雑物を中央政府に移送する
ためにつくられたものでした。
▪ 直線的だった計画道
こうしてつくられた道の構造や工法は
どんなものだったのでしょうか。
人馬の通行を阻害する岩石を切削して
取り除き、樹木を切り倒し、ときには谷間
に盛土し、あるいは山を切り通して急勾配
を緩和する。基本的には現今の道路建設と
第1章 道の歴史
同じ方法といってよいでしょう。
栃木県では、両側側溝つきの幅六メー
トルの九世紀ごろの道路跡が発見され、こ
の道は、丘陵地を横断してほぼ三キロメー
ルあまり直線的につくられていました。
また群馬県新田町で、幅十二メートル
の道路遺構が認められ、やはりかなりの直
線道路であったことが判明しましたが、こ
れは八世紀のもののようです。
江戸時代の五街道でも幅二間(三・六
メートル)であったので、古代駅路はせい
ぜい道幅も一∼二メートル程度の曲がりく
ねった道だろうと考えるのは大間違いで、
古代道路ははるかに大きく、しかも直線的
は路線をとって計画的に建設されたのです。
▪ 道路の維持保全
開設された道路には、維持保全の方法
が講じられています。
夏の洪水期の終わった時期に、橋や道
路の修理をするよう命じています。
延暦十四年(七九五)、政府は橘入居
(たちばなのいりい)に命じて近江・若狭
両国の駅路を検分させ、同十九年(八〇〇)
には諸国の駅家に破損が多いので、国や郡
に命じて修理させています。そのときの通
達によると、もし駅路の修理を怠ったなら
ば、蕃客が来朝してそれを見られたとき、
国威を損じるから、常に整備せよというも
のでした。日本では、絶えず外国の客人の
目を気にしています。
▪ 駅家の整備
駅馬の数は、駅路の重要性に応じて、
各駅に置く駅馬の数の基準を変えています。
山陽道は他の駅路にく
らべて重視されていま
した。
鈴
駅路はだれもが自由に
使えるものでなく、あ
くまでも国家権力保持の
必要手段であり、大化の改新の詔で定めら
れた「鈴契(すずしるし)」の管理は、駅
路を統制するための重要な道具であったの
です。
▪ 駅長をなぐさめた菅原道眞
省略
▪ 駅制の起源
日本の駅制の基本は、直接は中国の唐
の制度を取り入れたものです。けれども、
駅鈴は日本独特のものです。
駅制とは、洋の東西を問わず、国家統
治の必要性から、主権者が官用の通信、官
吏の往来を容易にするために、車馬を一定
間隔に配置し、逓送する設備を施す交通制
度であったのです。
5. 歌・旅日記に見る古代・中世の道
▪ 万葉集に見る道路と旅の様子
省略
▪ 『更級日記』に見る平安の旅
平安時代の旅日記として、よく知られ
ているのが『更級日記』です。この時期、
貴族政治が頂点でしたが、中央の政争に
明け暮れて地方の政治などはあまり顧み
られなくなっていました。貴族や地方の豪
族たちは、それぞれに荘園の経営を行い、
その維持のために雇われた武士が力をつ
け、国司の威令もまったく通らない状態
でした。そのため駅使やその他の使いも、
駅の設備がほとんど廃絶されて、自分で宿
を探さねばならない状態となりました。
門出した所は、めぐりなどもなくて、
かりそめの茅屋の、しとみなどもなし。
かけ、幕などひきたり。南ははるか
に野の方見やらる。ひむがし西は海ち
かくて、いとおもしろし。
道路の状況の描写も見てみましょう。
今は武蔵の国になりぬ。ことにをか
しき所も見えず。浜も砂子白くなどもな
く、こひぢ(土)のやうにて、むらさ
き生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひ
て、馬(むま)に乗りて弓もたる末見
えぬまで、高く生ひ茂りて、中をわけ
行くに、竹芝といふ寺あり。
これは、千葉県松戸市から海辺近く、
飾の野を通っていた道路のようすと思わ
れます。乗馬して弓を持つ者の弓の先が見
えないほど、蘆や荻が高く生い茂っていた
のでした。これでは、『魏志倭人伝』の描
写とあまり変わりません。
▪ 『今昔物語集』の説話に見る道と旅
省略
▪ 御坂峠の桟道から転落した信濃守
省略
▪ 道路の悪さに閉口した四天王
省略
▪ 鎌倉時代の駅制
中世にはいると、主として西国に勢力
を持っていた平家が滅亡し、代わって源氏
が天下を取って鎌倉に幕府を築いたために、
道路もそれまで最も重要であった山陽道よ
り、鎌倉・京都間の東海道が陸上交通の大
動脈として浮上しました。
源頼朝は、平家を壇ノ浦に破った文治
元年(一一八五)の十一月、駅路の法を定
めました。駅は新しく宿と呼ばれました。
駅が公的な旅行だけを対象としていたのが、
宿は次第に民間の営業的機能を持つものも
増え、私的な旅もだんだん増えてきました。
京都・鎌倉間の行程は、普通の旅では、
十五日から十二日ぐらいを要していたよう
です。ただし駅制による早馬の緊急通信は、
その工程は時に応じて、七日または三日と
定められていました。場合によっては、馬
によらず、脚力による緊急通信もありまし
た。
▪ 東海道の道筋の移り変り
省略
▪ 道中日記に見る中世の東海道
省略
火急の用でなければ、十二日ないし十
五日が標準の行程でした。これは平安時代
と変わりがありません。
▪ 鎌倉の道路と鎌倉街道
街道の途中の道路の状態はあまりよく
なかったようですが、いったん鎌倉の町に
入ると、そこには立派な道がありました。
頼朝は、治承四年(一一八〇)、鎌倉
に入ると、二年後の寿永元年(一一八二)、
由比ヶ浜から鶴岡八幡の社前までの道路の
改修に着手しました。
この道は延長一・七キロメートルに及
ぶ直線道路でした。その幅は二十四メート
ルもあります。(図2)
▪ 旅宿と街道筋のようす
省略
▪ 箱根越えと東海道の日程
この時期には、まだ路面の工事は施さ
れず、行き交う人に踏み固められたままの
道路だったのです。
箱根の難路を過ぎて、旅人たちはよう
やく鎌倉に入ったのですが、京都からどの
くらいの日時を費やしたのでしょうか。
頼朝はその後も、鎌倉府内の道路開設
や改修に力を注ぎました。頼朝の部下たち
は、何か怠慢や不正行為があると、その罪
をあがなうために私費で道路工事を命じら
れました。
文治元年(一一八五)、頼朝は駅路の
法を定め、東海道の整備が始まりました。
それとともに、東国の各地から鎌倉へ向か
う「鎌倉街道」が、続々とつくられました。
これは東国武士の在住地と鎌倉とをむすぶ
ために開発されたもので、「いざ鎌倉」と
いう危急の場合に、武士や兵糧を迅速に鎌
倉に集めるためのものでした。
6. 江戸期五街道̶その道筋と路面̶
田中丘隅(きゅうぐ)という江戸中期
の農政家は、交通路の重要性として「国土
における道路は、あたかも人体の血管のよ
うに大切なもので、一瞬もやむことなく運
行されている。国を治める働きとして、こ
れに過ぎるものがあるだろうか。国を安ん
じ、万民の交易のための、第一の国家の重
要な施設である」として道路の意義を的確
に表現しています。
▪ 幹線道路網の移り変り
日本の幹線道路網が、律令制時代に整
備された七道駅路からはっきりと姿を変え
たのは、戦国の世をへて、徳川幕府の時代
に入ってからです。
徳川の江戸幕府によって、はっきり戦国
大名の分国中心の交通系統から、江戸を中
心とする五街道を幹線とするシステムに改
変されていったのです。
五街道とは、東海道・中山道・日光道
中・奥州道中・甲州道中のことです。
▪ 江戸期街道網の特徴と長さ
これら街道の道筋は、七道駅路のよう
に新しく開発された直通ルートではなく、
一部を除けば、戦国の領国中心の道筋が踏
襲されていました。
それでは、江戸時代の街道網は全体と
してどれだけの距離があったのでしょうか。
土木学会編『明治以前日本土木史』による
と、五街道の宿駅と全体距離は一五七五キ
ロメートルになります。
▪ 街道の道幅
東海道筋は道幅三間半、その他の大道
は三間として、道の屈曲をなおし、石を除
いて両側に松や柳を植えさせました。信長・
秀吉時代の一間は六尺五寸であったので、
当時の東海道の道幅は、ほぼ七メートル近
くあったことになります。
江戸市中の街路では、明暦三年(一六
五七)三月の大火のあと、その復興計画の
「普請作事の定」によると、道幅は京間五
間(約一〇メートル)または六間(約一ニ
メートル)、日本橋通りが田舎間十間(約
一八メートル)、本町通りは京間七間(約
一四メートル)と規定されました。
▪ 江戸期街道の整備
江戸期のはじめ、徳川家康が関東に入っ
たころは、道路の道幅も狭く、曲折してい
て、ひとたび雨にあえば通行が困難になり
ました。
それより以前、天正三年に織田信長が
道奉行に命じて道路改修したとき、道の曲
折を直し、牛馬が疲労しないように路面の
石抜き作業を行わせています。
▪ 進歩した路面の造成と補修
三代将軍家光の時代となり、慶安元年
(一六四八)二月には、幕府は江戸市街の
道路築方竝下水浚方に対して布令を出して
います。
一、道路の悪いところには、浅草砂に
海砂を混ぜて敷き、高低のないように中高
に築くようにすること。ごみや泥を使用し
てはならない。
一、下水や道路の溝が滞らないように
浚い、ここに塵あくたを入れてはならない。
浅草砂とは切り込み砂利のことで、こ
れに細粒の海砂を配合して、細粗の粒度が
適切な切り込み砂利をつくったものです。
また、路面をかまぼこ型に中高に仕上げる
ことは、路面排水に留意した路面固めとし
て、幼稚ではあるが、具体的な技術上の存
在でした。
▪ 歩車分離構造の創始
このほか、交通の頻繁な街道、特に牛
車による運送の盛んであった伏見・京都間
と大津・京都間の道路では、早くから車道
(くるまみち)と人馬道とをはっきり区別
し、歩車分離の考え方が実現していました。
▪ 街道管理の道中奉行
江戸時代、宿駅の取締りや道路・橋梁
の修築など、道中一切のことを総括管理し
たのが道中奉行です。道中奉行の職掌とし
ては、道中宿々の吟味(取締り)、訴訟審
議、道路・橋梁の普請や修復、並木・一里
塚の保全などでした。
7. 明治国道の発展
明治維新は、道路にとっても大きな変
革期でした。道路上の交通機関も、明治元
年(一八六八)には馬車の輸入があり、つ
づいて同三年(一八七〇)には人力車の開
業、同九年(一八七六)には自転車の輸入
など、文明開化の波は道路交通の面にも及
びました。やがて明治三十六年(一九〇三)
四月には、東京に自動車さえ出現していま
す。
けれども明治政府は交通について鉄道
優先策をとったために、幕府から引き継い
だ道路の補修や改良に十分な予算が回され
ず、有数の街道筋ですら維持が行われず、
ただ雑草の生い茂るに任せた所も出てきま
した。こうした道路の立ち遅れは、そのの
ち第二次大戦後まで五十年以上も続くこと
になります。
▪ 最初の道路法制は有料道路制
法制の面からいうと、最初の法制は明
治四年(一八七一)十二月十四日に太政官
布告第六四八号として出された「治水修路
等ノ便利ヲ興ス者ニ税金取立ヲ許ス」であ
るといわれています。税金と書いてありま
すが、つまりは道路や橋梁を有料制にする
ことを許すものです。私人が自費なり会社
組織なりで水路や道路を開き、橋梁を造る
などして、輸送の便をはかるものに、一定
の年限を限って料金の取立てを許したもの
です。
▪ 維持修繕と建設の規則
明治五年(一八七ニ)十月二十八日、
こんどは道路の維持管理に関する規則「道
路掃除条目」が太政官布告として定められ
ました。これは各府県地方官に対して、従
来からの掃除受け持ち区域の道筋はもちろ
ん、分担の決まっていない場所についても
もよりの町村に公平に割り当て、道路の維
持管理をしっかりやりなさいと示達してい
るものです。
建設も含めた管理一般の規則としては、
明治六年(一八七三)八月二日に出された
布達としての「河港道路修築規則」が最初
です。その中の道路についての主要な定め
は、道路の等級を定め、その工事と経費の
分担をきめたことです。
また同じ明治六年十二月二十日に、「道
路里程調査」を命じる達が太政官から各府
県に出されています。国内諸街道の起点と
しての道路元標の位置として、東京は日本
橋、京都は三条橋のそれぞれ中央と定めら
れました。東京日本橋の橋上には、今もそ
の中央に道路元標が置かれています。
▪ 日の目を見なかった明治時代の道路
法
明治二十三年(一八九〇)十二月に道
路法案を起草して第一回帝国議会に提出し
ようとしたものの、閣議を通らずして果た
さず、さらに二十九年(一八九六)には第
十回帝国議会に「公共道路法案」を上程し
ましたが、衆議院で否決され、またこれを
修正した法案を三年後の三十二年(一八九
九)にふたたび上程したのに、これも審議
未了となり、その後も明治年間ではついに
道路法が日の目を見ることがありませんで
した。
ようやく大正八年(一九一九)に成立
し、その後の日本の道路行政の基本となっ
た道路法の基本は、この明治年間の法案に
ありました。
明治九年(一八七六)六月八日の太政
官達第六〇号は、道路の幅員について、国
道の一等は七間(一ニ・七メートル)、二
等は六間(一〇・九メートル)、三等は五
間(九・一メートル)、県道は四間乃至五
間(七・三∼九・一メートル)とし、里道
は特に定めませんでした。この値は、江戸
幕府の街道の幅員を基本的に踏襲している
ものです。
なお、路面構造、横断形状、排水、縦
断勾配、曲線半径、隧道・橋梁の構造など
の規定、つまり現代の道路構造令に当たる
ものは、明治十九年(一八八六)八月五日、
内務省訓令第十三号の「道路築造標準」と
して初めて出されています。これ以来、各
府県は同一の基準によって工事を施行する
ことになりました。
▪ 最初の国道路線の認定
▪ 少なかった国庫補助金
国と地方公共団体との道路に関する事
務の配分、費用の負担関係がはっきりし、
国道の国庫負担率が高くなったのは大正八
年(一九一九)の道路法制定のときからで
あって、それまでは維持補修や改修の責任
を実際に負った府県や市町村が使用できる
費用は十分でなく、有数の街道筋であって
も雑草の茂るのにまかせていた所もあった
ということです。
▪ 道路の幅員と最初の道路構造令
明治十八年(一八八五)一月六日の太
政官布達によって、国道の等級を廃止され、
それとともに国道は内務 が告示すること
となり、同年二月二十四日、四四路線の「国
道表」が決められました。これが日本の国
道認定の最初です。
平成元年(一九八九)四月現在では、
路線数四〇一総延長四六八〇五キロメート
ルとなっています。
8. 土木県令三島通庸と万世大路
明治期のはじめ、道路を初めとする土
木事業の必要性はきわめて高いものでした。
しかし、財政的には十分に行き届かず、多
くは不十分な整備のまま放置されました。
こうした状況の中で、土木事業推進の
必要性を痛感し、それを推し進める上で強
引な行政手法と政治姿勢をとったために、
鬼県令とまでいわれたのが三島通庸(みち
つね)です。
▪ 土木県令三島通庸をめぐる評価
三島通庸の治績、とくに土木事業の業
績は、今に至るもその評価が定まらず、ど
ちらかといえば否定的な見解に立った評価
が支配的といえるでしょう。
三島の掲げた県政の方針は、内治優先
を図り、富国強兵によって万国と対峙する
ことを重点課題とする大久保政権の方針と
も基本的に一致していました。また道路開
削を施策の第一にあげていることは、それ
が近代的な社会環境と人間を造り上げる基
本だと、三島が考えていたことを端的に示
しています。
▪ 栗子山隧道の開削
山形県と福島県を結ぶ道路は、古くか
ら村山郡 下(ならげ)村(現上山市)か
ら金山峠を越えて福島県の桑折(こおり)
へ出る羽州街道もありましたが、途中に難
所があり、容易ではありませんでした。
けれども三島の成し遂げた仕事の意味
は、道路史上、土木史上で決して無視され
るべきものではありません。
▪ 三島通庸、酒田県令就任の意味
三島通庸は、天保六年(一八三五)、
摩の国鹿児島に藩士の子として生まれま
した。明治七年(一八七四)十二月、内務
大久保利通の勧めによって酒田県令とし
て赴任しました。
▪ 三島の道路行政方針
三島は着任直後の明治九年十月、早く
も県土木課長高木秀明を、先に米沢藩が計
画していた刈安村経由の新道の調査に赴か
せています。高木は三島と同じ鹿児島県の
出身で、土木事業に精通していました。彼
は現地調査の結果、これまで考えられてい
たルートでは馬車路線としては不適当で、
刈安村から栗子山に隧道を掘って福島県中
野村に至るルートしかあり得ないとの結論
に達しました。隧道の長さはおよそ八町(四
八〇間、約八六四メートル)と見積もられ
ていました。
明治になって、鉄道や道路工事でさか
んにトンネルが掘られるようになりますが、
明治十年以前に掘られた道路トンネル数本
のうち、最大の静岡県の宇津ノ谷隧道でも
長さ二〇〇メートル程度のものです。
▪ 大トンネル工事の推進
三島は明治九年(一八七六)十二月十
八日、多くの反対や不安の声を押し切って、
栗子トンネルを含む刈安新道開削工事に着
手しました。
明治十三年(一八八〇)十月十九日午前一
時貫通し、完成しました。
刈安新道の総工事費は当初の見積りの
倍近くの一二万六九〇〇円あまりを要した
ことになりましたが、そのうち四分の三に
あたる九万五〇〇〇円あまりが民費負担で、
残りの三万一九四四円あまりだけが官費負
担でした。
翌明治十四年(一八八一)十月三日、
四年あまりかかった栗小山隧道の開通式が
明治天皇の行幸を迎えて盛大に執り行われ
ました。この日こそ三島の生涯にとって最
良の日といってよいものでした。天皇はあ
とでこの新道に「万世大路」の名を贈って
います。
▪ 万世大路開通の意義
福島県側でも、山形県側が工事に着手
した日の明治九年十二月十八日に福島県側
アプローチを中野新道として政府へ認可申
請し、翌十年六月から工事に着手していま
す。
この工事が日本のトンネル工事の中で
特筆されることの一つに、アメリカ製のト
ンネル掘削機を日本で初めて購入、使用し
たことがあげられます。
▪ 万世大路の完成
奥羽山脈の下を抜いて東西両側から掘
り進めた全長八四六メートルの栗子隧道は、
こうして完成した万世大路は、確実に
地域に恩恵をもたらしました。ただ同三十
二年(一八九九)に南奥羽線(福島­米沢
間)の鉄道が開通したため、万世大路の交
通量は激減し、トンネルは荒廃したままに
打ち捨てられました。
やがて三十年たった昭和八年(一九三
三)、自動車利用の増大とともにふたたび
見直されることになりました。昭和四十一
年(一九六六)に標高を下げた西栗子トン
ネル経由の新国道一三号線が完成するまで、
万世大路と栗子山隧道は、八五年にわたっ
て東北地方の運輸交通に大きな貢献を成し
遂げたのでした。
▪ 三島の土木行政の功罪
山形県に大きな貢献をした三島の土木
事業も、その方法がたいへん過激であった
ために、地元住民の反対や不平がありまし
たが、彼はこれを無視し、独断専行しまし
た。多くの指弾のかたわら、三島の福島転
出にあたって、最上郡の有志が餞別を贈っ
て感謝の意を示しています。
三島通庸の事跡の評価には、なお歳月
が必要な気がします。
▪ 残したい明治文化の遺産
万世大路は廃道となり、今は一般の人
は通れません。しかしこの道の跡をたどる
だけで、明治の初めにこれだけのものがで
きたのかという感慨に誰しもひたらざるを
えないでしょう。
このような貴重な土木遺産は、後世に
しっかりと伝えなければなりません。こう
した歴史遺産を再現することによって、三
島通庸の土木事業の評価もたま、おのずと
定まってくるのではないでしょうか。
9. 関東大震災をこえて̶東京の道路̶
▪ 東京市道路祭
年(一九一一)から大正二年(一九一三)
にかけての三年間のことで、東京市が内務
省からの補助金を得て、試験工事として施
工したものでした。
省略
▪ 砂漠の東京
東京の道路が本格的に整備されはじめ
たのは、大正九年(一九二〇)のことです。
それまでの東京市の道路は、きわめて
劣悪な状態にありました。
(その一 砂漠の東京)当時風が吹く
たびに未舗装道路から砂ほこりがまいあが
り、わけても烈風の日には散水の不十分に
乗じて砂塵層をなし、為に空は本来の朗ら
かな碧色を失って灰褐色に曇り、戸障子の
微細な 間を通して屋内にまで侵入し、市
民はカサカサした砂埃りの裡に棲息しなけ
ればならなかった。
(その二 泥田の東京、ゴム長の大東
京)雨が降れば降ったで泥田の様になり、
勢いゴム長が幅をきかすといった状態で、
これを風刺して風吹けば砂煙りたち雨降れ
ば泥田なりけり都の大路
▪ 舗装の始まり
東京市で自動車交通を対象としてアス
ファルト舗装が始まったのは、明治四十四
日本橋通りでは、最初に歩道、ついて
車道に試みられたのですが、当時のアスファ
ルトは秋田の天然産を用いて舗設したもの
で、配合や成分も十分研究されていなかっ
たので、数年ならず破損したということで
す。
大正十二年(一九二三)九月一日に関
東大震災が起こったため、その復興事業は
国の予算で行うことになり、幹線道路の舗
装は国の機関として設立された復興局が担
当しました。
東京の舗装は、大正十年(一九二一)
には市内の総道路面積のわずか一〇%に過
ぎなかったのに、大震災を途中にはさんだ
十年目の昭和五年(一九三〇)には、市内
総道路面積四四〇万坪(約一四・五ヘクター
ル)の五五%が舗装道路となったのでした。
▪ 舗装普及の福利
いまでも道路建設を行うときには、そ
の及ぼす影響をあらかじめ調査することが
行われ、これを経済効果の算定と呼んでい
ます。
イ. 路面維持修繕費の節約
ロ. 自動車運転費の節約
ハ. 其の他の利益
▪ 近代的道路の誕生
東京の道路が、街路の計画的配置、そ
の幅員構成、街路景観、設備などにおいて、
諸外国の近代的大都市に比肩しうるように
なったのは、関東大震災以後の帝都復興計
画によったもので、災いを転じて福となし
たといってもよいでしょう。
▪ 復興計画を基盤に
東京市の道路整備は、震災復興計画を
土台として、その後も整備の努力が続けら
れました。
東京の道路は、戦争に突入するまで帝
都復興計画による街路事業で完成したもの
を軸としたまま多くを加えることができず、
戦後もまた、復興計画が十分な実りを見せ
ないまま自動車時代を迎え、山手地域では
今もなお、貧弱の道路網の中で多くの自動
車がそろそろと走る光景が続いています。
10. 日本高速道路の系譜
▪ 戦時中に始まった弾丸道路計画
昭和十五年(一九四〇)、日中戦争た
けなわのころ、「紀元二千六百年」の国を
あげてのお祭りもあって、国民の士気が高
揚したその年に、日本の高速道路の歴史が
スタートしました。
ドイツでは、一九三三年(昭和八年)
一月、ヒトラーは政権を獲得するや否やた
だちにアウトバーン建設を宣言し、道路総
監にトット博士を任命し、同年秋には早く
も建設が始まっています。
▪ アジア・ハイウェイの先駆
この全国自動車国道計画は、日本にと
どまらず中国、タイ、インド、ビルマなど
当時「大東亜共栄圏」といわれたアジア各
国の地図の上にも描かれて、なおヨーロッ
パにまで至る構想を持ち、今日のアジア・
ハイウェイ計画の先駆となる壮大なビジョ
ンでした。
▪ 戦後の高速道路建設の二大潮流
省略
▪ 縦貫自動車道構想の提唱
▪ アウトバーンがお手本
内務省の自動車国道の規模はアウトバー
ンをまったく模したもので、総幅員二〇メー
トル(ドイツ二四メートル)、設計速度も
平坦部時速一五〇キロメール(ドイツ一六
〇、以下同じ)丘陵部一二五(一四〇)、
山岳部一〇〇(一二〇)と現今のものから
見ても随分と理想主義的なものでした。
省略
▪ 「自動車道」と「高速道路」
省略
▪ 縦貫自動車道建設法の問題点
省略
▪ 中央道か東海道か
省略
▪ 高速国道ネットワークの成立
昭和四一年(一九六六)に「国土開発
幹線自動車道建設法」が制定されました。
これはさきの縦貫自動車道建設法による既
定の高速道路網を骨子として、中央道のア
ルプス縦貫ルートを諏訪回りに変更するな
ど、幾つかの路線で技術的な修正を施し、
さらに新しい路線を加えて、三二路線七六
〇〇〇キロメートルとしたものです。こう
して、高速自動車国道の全国ネットワーク
の基本が確定しました。図3の黒い太線で
示したものがそれです。
▪ 四全総と高規格幹線道路網計画
昭和六十二年(一九八七)六月、第四
次全国総合開発計画、いわゆる四全総が閣
議決定されました。紀元二千年を目標とす
る、この新しい総合開発計画の一つの目玉
として、総延長一万四〇〇〇キロメートル
に達する高規格幹線道路網計画がありまし
た。
こうして形成される新たなネットワー
クは、高速交通サービスの全国的な普及、
主要拠点間の連絡強化を目的として、全国
の中枢・中核都市、地域の発展の核となる
地方都市やその周辺地域から、およそ一時
間程度で利用できるように配置されている
ものです(図3)。
これらの高規格幹線道路ネットワーク
は、その他の一般国道や地方道とさらに重
層的な道路網を組んで、日本の道路交通を
支えていくこととなるでしょう。
11. 外国人のみた日本の道路
昭和三十一年当時の日本の道路の状況
はひどいものでした。もっとも重要な幹線
道路網の一級国道でさえ、その七七%が舗
装されておらず、東京・大阪間の国道一号
線も舗装されているのは三分の二に過ぎな
かったのです。明治以来の鉄道優先主義が
招いた結果でした。
▪ 徳川初期に外国人が見た日本の道路
千七百年ほど昔のこと、中国から来着
した使者も、日本の道はけものの道のよう
だとその貧弱さに驚いたのでした。
『ドン・ロドリゴ日本見聞録』(一六
〇九)から
市街は互いに優劣なく、みな一様に
幅広く、また長くして、直なること西
班 (スペイン)の市街に勝れり。ま
た街路は清潔にして、何人もこれを踏
まずと思わるる程なり。
道の両側には松の並木あり。愉快な
る蔭を作り、通行者の太陽に苦しめら
れること甚だ希なり。道は平坦にして
愉快なり。
この如く広大にして交通盛んに、ま
た街路及び家屋の清潔なる町々は世界
のいずれの国に於いても見ることなき
は確実なり。
▪ 整備されていた東海道
イギリス人ジョン・セーリスの『セー
リス日本渡航記』(一六一三)より
道は驚くほど平坦で、それが山に出
会うところは、通路が切り開いてある。
この道は全国の主要道路で、大部分は
砂か砂利の道である。
それがリーグ(日本の里?)に区分
され、各リーグの終わりごとに道の両
側に一つずつ丘があって、その丘には
一本のみごとな松の木が、あずま屋の
形に丸く手入れをしてある。こんな目
標が終わりまで道中に設けてある。そ
れは貸し馬車屋とか、貸し馬をする者
が人に不当な賃銭を払わせないためで
ある。
街道は往来が非常に多く、いっぱい
の人だ。
セーリスとドン・ロドリゴに共通して
いるのは、東海道の道がよいこと、往来の
人が多いこと、一里塚がきちんと置かれて
いることなどでしょう。
▪ 朝鮮通信使の見た道
享保四年(一七一九)文人学者申維
(シンユハン)の『海游録』より
幾つかの街を通り抜けたのか知らな
いが、ただ一路平直にして、一かけら
の塵埃もなきを見る。
街衢(がいく)は四方に通じ、平直
なること弦の如し。
▪ オランダ・カピタン随行の外国人医
師たち
省略
▪ 幕末から明治の外国人の目に写った
道
幕末期の初代駐日イギリス公使オール
コック
国内を走る大君の道である東海道と
いう公道は、ヨーロッパの最も立派な
道と比較することができよう。日本の
道は、幅が広く平坦で、よく整備され、
十分に砕石を敷き固め、両側の堂々た
る樹木は焼きつくすような日射しから
日陰を与えており、その価値をいかに
評価しても評価しすぎることはない。
たしかに、街道はよく整備されていま
したが、ツンベルクやシーボルトが鋭く指
摘したように、馬車を用いないために、そ
の建設や維持が容易であった事実を見逃し
てはなりません。
明治に入って、明治十四年(一八八一)
に来日したイギリスの旅行家クロウは、次
のように指摘しています。
東海道は道の状態が非常に悪く、わ
だちや穴は荷車一台も飲み込みかねな
いほど大きい。それでも交通量は、馬、
人力による車両とも非常に多い。
(岡田章雄・武田万里子訳『クロウ日
本内陸紀行』)
ここでは、すでに走り始めた旅客用の
郵便馬車をはじめ、馬と人力による車両に
よって破壊され始めた街道の様子が描かれ
ています。
▪ 英国婦人の見た東北地方の道路
省略
▪ イサベラ・バードの道路感
新潟から米沢平野に入ったイサベラ・
バードは、三島県令の作った広々とした道
路を通って驚きを感じます。
すばらしい道を三日間旅して、六〇
マイル近くやってきた。幅広い道路に
は交通量も多く、富裕で文化的に見え
る。道路の修理は、漢字の入ったにぶ
い赤色の着物を着た囚人たちがやって
いた。山形の道路は広くて清潔である。
私たちは新しい道路に出た。馬車も
通れる広い道路で、これは日本にして
はすばらしい道路である。傾斜をうま
く緩やかにして築きあげ、旅行者が休
息するための丸太の腰掛も便利な間隔
で置いてある。この道路を作るために
発破をかけたり勾配をゆるやかにした
り、苦労の多い土木事業だったろうが、
それも長さ四マイルだけで、両端から
はあわれな馬道となっている。
12. シルクロードのもたらしたもの
シルクロードとローマの道。この二つ
の道は、その地球的規模といい、後世に残
した意義の深さといい、道路の歴史にとっ
て欠かすことのできない存在です。
現在の日本では、歴史的な東西幹線路
としてのシルクロードを、図1のようにほ
ぼ三つの道にわけています。
① もっとも古いといわれる北方の草原
地帯を通るステップ路
② 敦煌を通り、中央アジアのオアシス
地帯を行くオアシス路
③ 南方のインド洋、紅海などを経る海
上交易路
の三つです。
これらの道のうち、ここでは、②のオ
アシス路に注目することにしましょう。
シルクロードが「道の母」であるとす
れば、ローマの道は「道の父」といえるで
しょう。シルクロードは自然の道であり、
交易という人間社会の営みの広がりのため
に長い時間をかけてつくられたのにくらべ、
ローマの道は人工の道であり、社会の秩序
維持の手段として、王権による明確な意志
と技術の力によって組織的につくり上げら
れていったものでした。
▪ シルクロードとは何か
シルクロードとは、太古以来、アジア
とヨーロッパ、北アフリカを結んでいた東
西交通路の総称です。
▪ シルクロードの実態
シルクロードの出発点は、東方では古
代中国の都が置かれていた長安(現在の西
安)です。西の終点はやはりローマですが、
紀元三九五年のローマ帝国の東西分裂のの
ちは、東ローマ帝国の首都があったコンス
タンチノープル(現在のイスタンブール)
を終点とするのが一般です。長安とローマ
の間は、直線距離で約九千キロメートル、
実際の旅行路ではほぼ一万二〇〇〇キロメー
トルにもなります。
シルクロードとはオアシスをつないだ
道(ルート)です。
▪ シルクロードを最初に旅した張騫
シルクロードの旅びととして、歴史の
ちょうけん
最初に登場するのは張騫です。
張騫の西域行を機に、東西の交易がは
なばなしく展開されるようになりました。
武帝は西方の名馬を求め、また玉や葡萄酒
その他の商品のほか、天文・暦学・幻術・
西域の植物(ぶどう・ごまなど)・音楽・
衣服など、さまざまな西方文化が伝来しま
した。張騫はまさにシルクロードを開いた
といえるでしょう。
▪ 絹と紙の西漸
シルクロードは西方からの一方的な物
資や文化の流入だけではありません。その
名から知られるように、絹は中国から西方
へもたらされたものです。絹は中国が原産
地です。
そのころ絹は一種の通貨の役割を果た
し、旅行者は多量の絹を運んだのでした。
絹ははじめ西域で珍重され、その後西
方のローマに及びました。「絹が金と同じ
重量で取引きされた」時代(三世紀)もあ
りました。
絹と並んで中国から西方へもたらされ
た重要な文化は紙と製紙法です。現在の紙
は、中国で後漢時代に蔡倫によって発明さ
れたものです。
▪ 西方文化の東漸
唐代は、漢代についでシルクロードに
よる東西文化交流がさかんだった時代です。
物質文化だけでなく、仏教をはじめと
する宗教の伝来̶東漸̶もあります。仏教
が中国に初めて伝えられたのは、ほぼ紀元
前後のことです。
中国に入った大乗仏教にはササン朝ペ
ルシャの国教であったゾロアスター教の影
響があり、その受け継がれたものの中に、
橋梁建設があったといわれます。
橋をつくるという行為も、またその技
術も、シルクロードを通して、東へ行った
り西へ行ったりしたのでしょう。シルクロー
ドこそ、まさに東西の文化交流の道であっ
たのです。
13. ローマの「道」はなぜ偉大か
▪ ローマの歴史と道
ローマは、紀元前八世紀に、ラテン人
が現在のローマ市の地に都市国家をつくっ
たのが初めです。
そのローマ市が、前五〇二年にはそれ
までの王制から共和制となって次第に力を
つけ、前二七二年にはイタリア半島を統一
しました。ローマ道がつくられ始めたの
は、その少し前からのことです。半島を征
服したローマは、その発展をさらに海外
に向け、やがて地中海の覇権をにぎり、
紀元前後の一世紀にはついに今日の西欧
地域のほとんど全部と、北アフリカから
小アジア、メソポタミアの地域にまで拡が
る大帝国を築き上げたのです。巨大になり
すぎた国土は、内部抗争と外部からの侵
入によって東と西の二つのローマ帝国に分
かれた後、紀元四七六年の西ローマ帝国の
滅亡によって、実質的にローマはその時代
を閉じたのです。
トラヤヌス帝(在位紀元九八̶̶一一
七年)の時代の道は、総延長二九万キロメー
トル、うち主要幹線道路は、少しあとの時
代の記録ですが、八万六〇〇〇キロメート
ルあったとのことです(図1)。
▪ ローマ道の意義
ローマ道の大きな特徴の一つは、それ
が国家のような大きな権力がその支配を固
め、さらにそれを伸ばそうとするとき必要
とされる交通・通信網の整備をしっかりし
た意思でつくっていったことです。
ローマ道が通ずべき交通の目的
第一 軍隊の移動
第二 政府役人の公用旅行
第三 生産物の輸送交流
第四 民間人の旅行
▪ 支配と栄誉の道
ダリウス一世(在位紀元前五二一̶̶
四八五年)、アレキサンドロス大王(在位
紀元前三三六̶̶三二三年)たちのやり方
を見ならい、これをさらに徹底し、組織化
しました。ローマ国家の初期に、すでに軍
団に先行して道を直す兵科がありました。
ローマ道として最初につくられたのは、
アッピア街道です。
二〇から二五メートル、その間は常に樹木
が伐採され、耕作も建築も許されませんで
した。草だけの両側には排水溝が掘られ、
道の中央には幅三メートルの石畳の車道が
あり、その両側に土の歩道がありました(図
3)。
そして、アッピア街道は、ひたすらまっ
すぐに、ほぼ一〇〇キロメートルほどもまっ
すぐ走り続けるのです。
▪ まっすぐな道
ローマ道の特徴的なことの一つに、「道
がまっすぐに引かれている」ということが
あります。そのためには盛土をしたり、
擁壁をつくったり、もちろん橋もあれば、
まれではありましたが、トンネルもつくら
れました。
谷を渡るときに、ローマ人はできるだ
け道を谷底に下ろして、また向こう側であ
げることをせず、多くのアーチから成る陸
橋をつくりました。
▪ ローマ道の技術
ローマ道の技術の秀れている点に道路
の舗装があります。その特徴は次の五項
目にまとめられます。
この道は、最初からローマ道の意思を
示すかのように立派なものでした。全幅が
① 例えば、沼地では杭格子の上に載せ
るというように、状況に合わせて道路
の基礎をつくること。
② 上に行くに従って使う石を小さくし、
切石、 瓦、ブロック、砂利で丈夫な
きっちりした荷重支持層をつくること。
後に皇帝アウグトゥスによって創設された
ものです。
▪ 旅の便利を考えたローマ道
③ 粘土あるいは石灰モルタルを使って
たくさんの石を接ぎ合わせ、かなり水
を防げる均質のコンクリート舗装をつ
くること。
ローマの道の建設上の配慮に、旅行者
のための施設がありました。その典型的な
例がマイルストーンです。
ローマの道は、その建設技術と維持管
理システムの両面にわたって、今日の高速
道路システムの基本をなしているばかりで
なく、今の技術や社会水準から見ても少
しも 色のないものだとさえいえるもの
です。ローマの道こそ、人間の英知の所産
として、人類すべてが誇りとするに足るも
のだといえるでしょう。
④ 主要交通路をしっかりと舗装するこ
と。
⑤ これらの方法を、広大なローマ帝国
の全域で、原則として同じように徹底
して実行すること。
▪ ローマの駅伝制度
駅伝制度は、古代の支配者が道をつくっ
たときに、必ず設けた制度です。
ローマの駅伝制度はクルスス・プブリ
クス(Cursus Publicus:公用旅行)と呼
ばれ、エジプトのそれに範をとって紀元前
14. 古代中国の道
中国五千年の歴史といわれるように、
中国の歴史は長く、また早くから文化が進
んでいたので、日本はその歴史の中で大き
な影響を受けました。特に七∼九世紀、隋
と唐の時代がその最盛期といってよいでしょ
う。
▪ 車は草からヒント
紀元前二六〇〇年ころには、黄帝の伝
説に車の制作についての話があります。
ひ ほう
つく
飛 の転ずるを見て、車を為るを知る
(『淮南子・説山訓』)
飛 とは、菊科の植物で、根にくらべ
て頭が大きいので、枯れると根が切れて風
に吹かれてころころ転がって行きます。そ
れを見て車をつくることを思いついたとい
うのです。中国では、ほぼ四〇〇〇年前か
ら意図的に道路がつくられ、車が使われて
いたのです。
周の道路は砥石のように平らで、矢の
柄のように直線だ。実際に道路はまっすぐ
だったのです。
▪ 秦は馳道を天下につくる
紀元前二二一年、中国を統一した秦の
始皇帝は、道路を整備することにも熱心で
した。国土を統一するには交通通信の確保
は不可欠です。また、いざというときに軍
隊を急速に移動させねばなりません。それ
には道路の整備が必要です。それだけでな
く、始皇帝自身が全国を五回にわたって巡
遊しました。そのための道路を「馳道」と
いいました。馳道と呼ばれたのは、馬車が
高速で通行することのできる道であったか
らです。道の幅は七〇メートル近い幅にな
ります。
馳道は、全国におよそ一万二四〇〇キ
ロメートルもつくられました(図2)。
▪ 周道は砥のごとし
周というのは、紀元前一〇〇〇年頃か
ら三〇〇年ほど栄えた王朝です。
といし
周道は砥のごとく
其の直きこと矢の如し(『詩経』)
▪ 軍事用の大道路「直道」
馳道とは別に辺境の異民族の侵攻に備
えるため新しい軍事用の大道路も建設しま
した。これを「直道」といいます。その長
さは、ほぼ七五〇キロメートルでした。
▪ 発見された幅一六〇メートルの直道
全長七〇〇キロメートル以上のこのよ
うな大道路が、いまから二〇〇〇年以上も
前に実際にあったのです。辺境の敵を攻撃
するために一度の大軍を送るのには、実際
に一〇〇メートル以上の幅が必要だと考え
られていたのでしょう。万里の長城とい
い、直道といい、古代中国の皇帝のやるこ
とは、現代人の想像を超越するものといえ
るでしょう。
▪ 長安への道
長安に最初に都が置かれたのは周の時
代のことですが、もっとも栄えたのは唐の
時代です。
この長安の都から、全国へ七本の幹線
道路が通じていました。これらの道は「官
べんすい
路」と呼ばれ、特に重要な洛陽を経て 水
(現在の開封)へ至る道は、特に「大路」
と呼ばれました。およそ二万六〇〇〇キロ
メートルの幹線道路があったことになり
ます。
▪ 孫文の描いた近代中国の道路網
孫文は、一九二〇年三月、上海の雑誌
に発表された『地方自治開始実行法』と
いう提言の中で、道路の修築に関して、道
路は幹線と支線の二種類とし、幹線は往
復各二台が走れるような幅を持ち、支線
は往復二台がすれ違いできるようにする
と、その構造規模まで示しています。
彼は、かねてから近代文明社会の建設
には交通の発達が不可欠だと考え、この
時期に早くも自動車の効用に着目し、自
動車が活用できるような近代的道路の建
設の必要性を説いたのでした。
15. アメリカン・ハイウェイ
全長およそ七万キロメートル、全米に
網の目のように張り巡らされたインタース
テーと・ハイウェイ。世界一の規模をもち、
自動車の国アメリカを象徴するような、こ
の素晴らしい高速道路網を持つこの国の道
路の歴史も、まだたかだか二百年前に始まっ
たに過ぎません。
▪ ブーンの開拓道路
独立前の植民地時代、交通路は極めて
貧弱で、東部の沿岸水域やそこから奥へ入
る湾や水道を利用する航路が一番の幹線交
通路でした。
一七七五年、開拓の先駆者として有名
なダニエル・ブーン(Daniel Boone)が、
今日のケンタッキー州にあるカンバーラン
ド渓谷を抜ける「荒野の道」を切り開きま
した(図1)。それは今日から見れば「け
もの道」程度のものだったにせよ、深い山
中に三〇〇キロメートル以上にもわたって
道を開き、その後も一〇〇年ほどは当初の
まま利用されたという、みごとなものだっ
たのです。
また定期の駅馬車が、一七五〇年にフィ
ラデルフィアからニューヨークまで延長一
四五キロメートルの道路で運行されるよう
になりました。駅馬車や郵便は、道路の発
達をうながす重要な要因でした。
▪ 最初のターンパイク時代
独立して経済活動が活発になり出すと、
道路交通が急速にふえ、地方自治体の能力
では道路の維持に手が らなくなり、州政
府の援助を求める声が高まりました。しか
し、州も多くの負債をかかえて財政的に苦
しんでいたので、民間資金を導入して道路
整備を促進するターンパイク(有料道路)
方式の採用となったのです。十九世紀は、
アメリカの最初のターンパイク時代といっ
てよいでしょう。
このターンパイクは、道路技術の面でア
メリカの道路の歴史に貢献しています。そ
の技術は、十八世紀後期のフランスのト
レサゲ(Trésaguet)や、十九世紀初期の
イギリスのマカダム(McAdam)が開発
したものを取り入れたものです。
▪ ナショナル・ロードの試み
省略
▪ 自動車時代の夜明け
農村では道路は不可欠でした。一八九
〇年ごろには「道路をよくする運動」が全
国的にひろがりました。
月に戦争が終わった後もトラック輸送が急
激に進展しました。それは長距離幹線道路
の整備の必要性を浮き彫りにするものでし
た。
▪ 全国的道路網の展開
一八八〇年代にドイツで発明されたガ
ソリン自動車は、アメリカでも急速に普及
しました。一九〇〇年にはアメリカ合衆国
の自動車の総数は約八〇〇〇台でしたが、
一九〇五年には七万八〇〇〇台となりまし
た。一九一五年には登録台数は二三三万台
にも達し、それが田舎の道路を埃を巻き上
げながら走るようにもなったのです。
その間、道路は量的にも質的にも大き
な飛躍を遂げました。一九一四年には、ア
メリカの道路総延長は三九三万キロメート
ルに達しましたが、それでも瀝青やマカダ
ムやコンクリート表層のあるのは五万キロ
メートルに過ぎませんでした。
▪ 郵便道路と連邦補助道路法
アメリカの道路改良を促した一つの動
機に農村郵便がありました。
「一九一六年連邦補助道路法」の制定
で、農村郵便道路の改良のために五年間に
総額七五〇〇万ドルの支出が認められまし
た。
アメリカは一九一七年四月に第一次世
界大戦に参戦しました。そのための輸送需
要の急増をきっかけとして、翌一八年十一
「一九二一年連邦補助道路法」が議会
を通過し、連邦補助を全国的道路体系に集
中する方向がこれで固まりました。同時に、
連邦が直接管理する道路網という、一部で
要望されていた考え方は否定されたのでし
た。この方針は現在に至るまで踏襲されて
います。
▪ 近代的道路設計の実践者たち
自動車交通の増大は大都市では交通の
渋滞を招き、また交通事故も急増しました。
重量トラックの出現で、舗装はつぎつぎと
破壊されて行きました。そのため道路工学
の本格的な研究が必要となり、多くの優れ
た技術者が輩出しました。
路線選定では、ウーハム(Charlse M.
Urpham)が一九二〇年に発表した「産業
道路は直線道路が最も合理的である」との
見解が、そののち半世紀のアメリカの道路
工学を支配しました。
道路の安全性の観点からは、公共道路
局のバーネット(Joseph Barnett)が一
九三五年に「想定設計速度」の概念を提唱
しました。これは好ましい運転速度に応じ
たバランスの良い曲率半径、視距、縦断勾
配、片勾配などの幾何学的設計値を採用す
るもので、同じ頃ドイツでもアウトバーン
の設計にこの概念が採用されています。
アメリカの道路技術は、こうして一九
二〇年から三〇年代にかけて、理論の上で
も実際面でも急速に進歩して行きました。
終戦の一年前の一九四四年、戦後ハイ
ウェイ法案ともいうべき連邦補助道路法案
が成立し、連邦補助道路を州際道路、一級
道路、二級道路にわけることとなりました。
こうして承認された州際道路網、すなわち
インターステート・ハイウェイ・システム
の総延長は六万四〇〇〇キロメートルでし
た。これはまた国防道路でもありました。
▪ 高速道路の誕生
▪ インタステート・ハイウェイ
近代的ハイウェイとして、有料道路の建
設に着手したのはペンシルバニア州でした。
州議会の承認によって始められた延長二七
五キロメートルのペンシルバニア・ターン
パイクは、連邦事業省からの雇用促進のた
めの交付金も得て、一九四〇年十月一日に
開通しました(図3)。
戦後、アメリカ東部の諸州では、ペン
シルバニア・ターンパイクの成功に刺激さ
れて、つぎつぎと有料高速道路を誕生させ
てゆきました。
インターステート・ハイウェイ計画はそ
ののち拡大し、一九八七年には六万七〇〇
〇キロメートルが完成しています。ちなみ
に、アメリカの高速道路全体は八万二〇
〇〇キロメートルほどあります。
▪ 荒廃から再生へ
ドイツとアメリカで開発された最新技
術を組み込んだこのハイウェイは、世界一
安全なハイウェイと称賛され、それ以後の
インターステート・ハイウェイのお手本と
なりました。
しかし、アメリカのハイウェイは、決
してバラ色の道だけを走っているわけでは
ありません。一九七〇年代になると、全
米の至る所で道路の痛みが目立つように
なりました。維持管理に手が回らなくなっ
たのです。
八〇年代に入って、ようやく改善の動
きが出てきました。道路財政収入も上向き、
「荒廃から再生へ」の努力が実を結びつつ
あります。しかしアメリカは、少し手を緩
めたら大事に至るという、維持管理の大切
さを、世界に教えてくれたのです。
16. ドイツ・アウトバーン
一九三三年九月二十三日、ドイツのラ
イヒスアウトバーンの最初の建設が開始さ
れました。
ヒトラーは、一九三三年一月三十日政
権を獲得すると、わずか旬日後の二月十一
日にはライヒスアウトバーン(帝国自動車
国道)の建設計画着手を声明し、それから
わずか半年あまりの後に起工式を行うに至っ
たのです。ヨーロッパを制覇する野望を抱
いていたヒトラーは、その成功のために自
動車道路の建設が不可避であることを深く
認識しており、かつそれを敢然と実施した
のでした。
▪ アウトバーンの初め
自動車国道は、ドイツでの民間の自動
車道路建設に対する積年の努力がその下敷
きになっているのです。
第一次世界大戦に敗れたドイツでは、
自動車の台数的普及こそ戦勝国のイギリス、
フランスに後れを取ったものの、自動車の
性能を有効に生かすための専用道路の構想
とその実現では、むしろこれらの国の先を
進んでいました。
後に世界の高速道路の技術をリードす
るアウトバーンの歴史は、ベルリンの
ア ブ ス
AVUS(自動車交通実験道路)に始まりま
す。
▪ トット道路総監の登場
ヒトラーは、自動車道路の建設を進め
るにあたって、フリッツ・トット博士
(Dr. Fritz Todt)をドイツ道路総監に起
用しました。一九三三年六月のことです。
彼は一九四二年二月、飛行機事故で殉
職するまで、「アウトバーンの父」と呼ば
れたように、ナチス政権下のアウトバーン
の計画から建設までのすべての責任を負っ
てその仕事に没頭したのでした。日本の最
初の高速道路である名神高速道路の技術指
導をしたクサヘル・ドルシュ氏(Xaver
Dorsch)は、トット氏の愛弟子でした。
▪ ライヒスアウトバーンの組織と理念
ヒトラーは、道路建設と管理のすべて
の権限を国家の下に置き、道路総監がこれ
を管轄するようにしたのでした。そして、
自動車道路も国道として、帝国自動車国道
(ライヒスアウトバーン)と称したのでし
た。
企画設計は民間組織の手で行って、こ
れを道路総監のもとに提出し、総監が最終
決定をして、建設は自動車国道営団「ライ
ヒスアウトバーン」の手で実施されました。
その財源は国庫から支出され、その基礎は
ガソリン税にありました。
一九三四年には、トット総監は全長六
九〇〇キロメートルにわたる全ドイツのア
ウトバーン基本計画を決定しました。戦争
の準備で労働者が招集されたりしてペース
が落ち、第二次大戦の終わり(実際の工事
は一九四一年)までに三八七〇キロメート
ルの完成に止まりました。
ヒトラーがアウトバーンの建設に全力を
あげたのは、単に道路そのものをつくるこ
とだけに目的があったのではなく、ワイマー
ル共和国時代の経済の破綻から生じた、当
時六五〇万人にのぼるといわれたドイツ国
内の失業者の救済にも大きな意味がありま
し
た。
▪ ライヒスアウトバーンの技術
アウトバーンの設計基準は、一九三七
年三月に決定されています。設計速度は平
地部一六〇キロメートル、丘陵部一四〇キ
ロメートル、山地部一二〇キロメートルと
し、平面曲線半径、縦断曲線半径、縦断勾
配、片勾配、視距などは、現在の幾何構造
基準の決定方式と同じく、自動車の走行力
学的関係から導き出された諸数値を採用し
ています。
ライヒスアウトバーンの幅員構成は、
片側二車線(幅員七・五メートル)で、各
側一メートルの舗装路肩があり、幅四メー
トルの中央分離帯をもつ分離構造で、総幅
員二四メートルでした(図3)。
一九九〇年に統合される以前の東ドイ
ツの地域のアウトバーンには、まだ戦前の
幅員構成のままの箇所も残っています(図
4)。
インターチェンジやジャンクション、
あるいは休憩施設の計画や設計も、ライヒ
スアウトバーンの技術の素晴らしさを証明
するものの一つです。
▪ 芸術・文化としてのアウトバーン
ライヒスアウトバーンの技術の特色の
一つに風致設計があります。「工事の時も
交通の際にも美しい道路」をモットーに、
風致に配慮した設計と工事に努力が払われ
ました。
ドイツでは橋は単なる構造物ではなく、
人間精神の一つの表現と見なされており、
それがこのアウトバーンに象徴的に表れた
といってよいでしょう(図7)。
▪ 戦後の連邦アウトバーン
第二次世界大戦で再び一敗地にまみれ、
東西分割の憂き目にあったドイツも、西ド
イツでは日本と並んで急速な復興を遂げま
した。その原動力の一つにヒトラーの残し
た遺産のアウトバーンがありました。
連邦アウトバーンの特色や課題の第一
は、新しいアウトバーンの建設の際の環境
と景観へのいっそうの配慮です。これは日
本の高速道路への影響が大きかったことか
らも、私たちとして見逃せない問題です。
ライヒスアウトバーンの時代から、風
景との調和は主要なデザイン・コンセプト
でしたが、戦後はそれがより改善、進歩し
た形で推進されています。その推進者はハ
ンス・ローレンツ博士(Dr. Hans
Lorenz)であり、それを日本にもたらし
たのが、彼の同僚であったクサヘル・ドル
シュ氏です。
戦前と比較して特に進歩したのは、ク
ロソイドの使い方と立体的な線形設計です。
これら一連の手法は、盟友ドルシュ氏
が交通省技監を退官して世界銀行の推薦に
よって日本の名神・東名高速道路の技術指
導をした時、日本の技術者によって受け継
がれました。少なくとも高速道路の線形設
計に関する限り、日本のそれはドイツの技
術にその原点を持っているといってよいで
しょう。
▪ 拡幅工事の推進
戦後の西ドイツのアウトバーンの能力
増強は、古い路線の路肩を広げることをは
じめ、交通容量の足りない部分は六車線ま
たは八車線に拡幅することが計画にしたがっ
て実施されています。
ドイツ連邦アウトバーンの今後の課題
には、統一ドイツとなって引き継いだ旧東
ドイツの、ほとんどがまだ戦前の状態のま
まに残されている老朽化した舗装や橋梁の
補修、改良の問題が加わることでしょう。
17. 一里塚とマイル・ストーン
▪ ローマ道のマイル・ストーン
道路に沿って一定の距離を行くごとに
置かれた道しるべ、それがマイルストーン
です。ローマ道のマイルストーンは、一マ
イルごとに置かれた石の円柱です。
▪ 中国の一里塚
日本の一里塚の起源は中国にあります。
▪ 日本の一里塚
日本では室町時代の末期、天文九年(一
五四〇)に、時の将軍足利義晴が諸国に
仰せつけて、四〇理を一町とし、里堠の
上に松とひさぎ(榎と同じ)を植えさせ
たと、『信長記』にあるのが一番早い記
録です。
制度的に確かに実施されたのは、織田
信長が天下を取ってからで、『江源武鑑』
によると、信長は天正十九年(一五五〇)
十二月五日、諸国の守護に命じて、四〇
里を一里と定めて、大塚をつくるよう仰せ
下しています。
一里塚は徳川が関東に移ってから本格
化しました。
徳川の一里塚は、慶長九年(一六〇四)
に徳川家康が右大将である一子秀忠をして
行わしめた諸街道の整備の際、並木として
松や杉を植えさせたのと共に築造されま
した。
ヨーロッパ大陸でも、フランスでは革
命前に里程標がよく用いられるようになり、
やがてメートル制度の採用でキロポストに
代わって行きました。
▪ 余の木
榎が全国各地に存在し、成長が早くか
つ良く繁茂し、根が深く広がって塚が崩れ
ないという、この樹種の特性が認められた
ということでしょう。
▪ 旅の目安とやすらぎ
江戸時代の一里塚は、お江戸日本橋を
起点として里程が計算されました。これは
慶長九年に定められています。
一里塚はたくさんの効用を持っていま
した。元標の日本橋からの距離が記されて
いて、旅人が自分の旅の進行を知るための
目安になったほか、夏は旅人に緑陰を貸し、
安らぎを与えました。
一里塚はまた、人夫や馬を借りるのに、
里程を知り、駄賃を定める目安となってい
ました。
一里塚の構造は、秀忠の布令で定めら
れています。まず道幅を五間(九メートル)
とし、その両側に五間四方の小山形の塚を
作り、その上に植樹をしました。
▪ 道標と守護神
江戸時代の街道の道標は、多く二つの
道の分岐点すなわち追分に設けられました。
「右東海道、左中山道」のようにその行く
先を彫りつけた石柱や野面石または金灯篭
が置かれました。道標はかなり多く保護さ
れ、現存しています。
また道路標識とはいえませんが、路傍
に設けられた石地蔵や道祖神、馬頭観音な
どは、交通者の往来の安全を守る守護神と
して祭られていました。
▪ 新しい装い
自動車交通時代になって、一里塚の新
しい装いが登場しています。建設省が昭和
六十三年度(一九八八)から推進している
「みどりの一里塚」構想です。高速道路に
は、パーキングエリアのような休憩施設が
一定区間ごとに設けられていますが、一般
道路ではこうした自動車運転者や旅行者の
憩いや安らぎのための施設が整っていると
はいえないのが実情です。
そこで、特定のルートを選んで、休憩ス
ペースを整備したり、分岐点に分かりやす
いランドマークとしての高木植栽や道路標
識などを計画的に設置しようというもので
す。
その一つ、石川県の能登半島を一周す
る一連の道路では、「ポケットパーク」を
設けて、昔の一里塚にちなんだ榎の大木を
植えるなど、工夫を凝らしています。
18. 並木と緑陰
普照とは、奈良東大寺の僧で、聖武天
皇の御代、天平五年(七三三)第九次遣唐
船で派遣されて彼の地に留学し、やがて大
みょう寺の僧鑑真の渡海に従って、苦難の
末帰国した人です。普照は日本の街路並木
の創始者として記憶されています。
▪ 並木の初め
奈良時代の天平宝字三年(七五九)に、
普照法師の奏請に基づいて、七道駅路の路
側の両側に果樹を植えるための布令が、太
政官符として発せられています。日本の道
路植樹の初めての記録です。
中国の道路植樹の歴史は、きわめて古
いものです。唐の時代には、十分な歴を持っ
た路傍植樹が、城内や郊外の道路に施され
ていたのです。
▪ 明日香・奈良の都の街路樹
普照は唐都のこのような実情をよく見
ていたのです。日本では、駅路を庸調の品
を背負って旅する百姓の苦労は大変なもの
でした。日本の道路並木は、僧侶の慈悲心
から創始されたものでした。
駅路の並木が普照の創始にかかるもの
としても、それまで日本に街路樹がなかっ
たわけではありません。藤原宮の時代(七
〇〇年頃)にすでにあったことが、万葉集
の歌から知られています。
▪ 平安から近世の並木
都が平安京に移った後も、橘、柳、槐
などが街路樹として植えられていたことが、
やはり万葉集の歌や律詩、催馬楽などに見
られます。
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、鎌倉と
京都を結ぶ東海道が最も重要な道となりま
した。仁治元年(一二四〇)、時の執権北
条泰時は道の係りの者に命じて、三河国本
野ケ原(現豊川市)の東海道筋に柳を植え
ました。
近世に入って、織田信長は天正三年(一
五七五)、東海、東山両道の道橋を修築す
るとともに、路の両側に松・柳を植えさせ
ました。同十三年(一五八五)には、上杉
謙信が領内大小の道路際に松・柏・榎・漆
などを並木として植えさせています。
慶長六年(一六〇一)には、前田利家
が加賀国内に並松を植え、同年加藤清正も
熊本城建築と同時に肥後の大津街道に杉並
木を植えました。その制札には、
「一枝をきらば一指を斬るべし。一株
を伐らば一首を馘るべし」
と記してあり、抜き身の槍を持った家
臣が監視に当たったと言われています。
▪ 重視された徳川幕府と並木
徳川家康が征夷大将軍となった翌年、
慶長九年(一六〇四)にその子秀忠は諸街
道の大改修を行い、一里塚を築くとともに
並木を植えさせ、以来幕末まで補植保護政
策が続きました。
奥州街道に並木の欠けている場所があっ
たので、それを補植させるための通達を出
し、必要な費用は幕府が出すといっていま
す。
▪ 明治からの路傍植栽政策
明治時代に入っても、街道の並木を大
切にする考え方は踏襲されました。しかし、
道路交通の主役が自動車に取って代わられ
るようになってから、次第に道路の植樹は
影が薄くなっていきます。
▪ 等閑視された戦後の街路樹政策
昭和三十三年(一九五八)にふたたび
道路構造令が政令として定められたとき、
そこには並木を積極的に設ける趣旨はまっ
たく見当たりませんでした。
つまり並木は街路においてももはや必
要規定ではなく、やりたい場合にやっても
よい、といった程度の扱いを受けたのでし
た。これは昔の並木が徒歩による旅行者の
便利のために植えられていたのに、もはや
道路からはそのような旅行者が姿を消して
いたことが基本的な理由でしょうが、戦後
の一連の復興政策が、量的拡大に関心が傾
き、質の改善には手が回らなかったことも
一つの理由だったでしょう。しかし、その
つけを支払わねばならないときがきました。
▪ 並木の復権
昭和三十年代に起こった郊外紛争はや
がて道路建設などの公共事業にも及び、生
活環境改善の重要性が認識されるようにな
り、道路のつくり方にも、歩行者や自転車
利用者などの自動車以外の道路利用者や、
また道路沿線の近隣生活者に対する配慮が
必要となりました。昭和五十七年(一九八
二)の道路構造令改正では、これらの点が
大幅に改められまし設けても良い。
第四種第一級の道路(都市内の幹線道
路)には植樹帯を設けなければならないと
規定され、街路だけでなくその他の道路で
も植樹帯を設けてもよいこととなりまし
た。
一時は道路から見捨てられたような存
在となった並木も、こうして立派に復権し、
市民に憩いと安らぎを与える大事な道路施
設として活躍の場を与えられるようになっ
たのです。