はじめ塾の過去・現在・未来 和田重宏 和田

 はじめ塾の過去・現在・未来
和田重宏
和田でございます。ただ今話をしてくれた母は、ずっと
父の話を聞かされていたせいか、つっかい棒がなくなった
ら急に多弁になりまして、これだけの長い時間喋るとはつ
いぞ思わなかったんですが、これも元気な証しで本当に嬉
しいことだと思っております。
父は皆様の前でお話をすることは結構していたのです
が、家族には全く話をしない人でして、特に過去について
は語らないという人生を貫いていました。
ですから僕達家族はそばで暮らしていながら、父が若い
時にどういう人の影響を受けて、どういう人と親交を持っ
て、今の考え方に至ったのかということは全く知りませ
ん。
今日は最終晩年の様子などのお話をさせて頂くことにな
ると思いますが、本当にある日突然、「もう話はしない。
もう何も書かない」と言ったら本当にその通りに何にもし
ませんでした。
これは本当に不思議なことでして、自分の意思がそうさ
せているのではないと思うんですが、そういう雰囲気で最
終晩年を送っておりました。
そんなことで、父の心を読むのは大変難しかったのです
が、幸いなことに親子ですので、子どもとしてこれだけは
確認しておきたいということで、話をさせてもらう機会が
ありました。
僕は7人兄弟の6番目の長男で、5人の姉達がいます
が、多分姉達は姉達で個々に父と話があったと思います。
でも共通のということは多分ないだろうと思います。僕も
父と個人的な話はしましたが、そのことを皆の前で伝える
ことはなく、全く個人的な関係でした。
その辺のところが今日お話しすることの意味なのかなと
思っております。
(1)今ここ、これ以上に大切なものはない レジメに色々な項目を挙げましたが、まず一番最初に、
「今ここ、これ以上に大切なものはない」という項目があ
ります。はじめ塾に縁のあった方々には見覚えのある掛け
軸だと思いますが、一心寮の床の間にも長く掛かっており
ました。これは昭和34年だったと思いますが、父達が小
田原に根を張ろうと思った時に、皆さんが建てて下さった
建物のお祝いに、はじめ塾の子ども達のために当時の国鉄
総裁の十河信二さんという東海道新幹線を作った方が書い
て下さいました。こういう書を見ながら暮らすことは、子
ども達にとってすごく影響があります。書に限らず絵な
ど、その人の魂がそのまま表れている作品に触れた時に、
その人の波動をそのまま受け取るということがあるそうで
すが、僕たちも「今ここ、これ以上に大切なものはない」
というこの書によって育てられたと思っています。父が座
っている背には、必ずこの掛け軸が掛かっておりました。
そしてその次に書いてあるのが、「乾坤つつみ得たり一
閑人」です。これは父が晩年、大変親しくさせていただい
た南足柄市にある大雄山最乗寺の山主様であった余語凹侍
翠巖老師が書いてくださいました。老師は友人として父の
葬儀を執り行って下さいまして、その時に頂いた言葉で
す。大変多忙な方でしたが、なんと前からはじめ塾にいら
して下さる予定になっていた日が父の葬式の日となりまし
た。父は5月15日に亡くなったのですが、まるで老師が
父のために予め空けておいて下さったようでした。お渡し
してあります「香語」に、この言葉のいわれについて紹介
させて頂いておりますので、後で読んでくださればと思い
ます。大変親しくして下さった老師が人生を全うした一人
の人間に送って下さった、まさに父の人間性そのものを表
している言葉だと思っております。父の69歳から79歳
の十年間が塾の継承期であり、僕が父から一番強く影響を
受けた時期です。
そして現在は、「常有是好夢」という掛け軸が1988
年(昭和63年)からはじめ塾の床の間に掛けられており
ます。これも余語老師の書です。大雄山に足を運ばれた方
はおわかりかと思いますが、本堂の正面の柱にこの言葉が
書かれています。現在の塾生たちはこの言葉をいつも見な
がら暮らしております。これは簡単に言うと、「好夢」と
はいい悪いの比較を超えた、すべて丸ごと好夢なんです
よ、いいことなんですよというような意味だそうです。そ
ういう一元の世界で暮らせたらいいなという思いで、この
「好夢」という言葉を大切にしております。
(2)一切の私物を持ち込んではいけない 今日のテーマは「はじめ塾の過去、現在、未来」となっ
ておりますが、今を語っても過去は含まれますし、過去を
語っても今と未来を語ることにもなりますから、僕はどこ
からお話させて頂いてもいいなと思いますので、はじめ塾
に入った時、塾を継承した時のことからお話をさせて頂き
ます。
生前の父を知っている方でしたらご記憶にあると思いま
すが、父は「はじめ塾は誰が引き継いでもいいんだ」と口
癖のように言っておりました。僕はその言葉の通り受けと
めていましたので、息子であっても自分がはじめ塾をやる
とは夢にも思っていませんでした。ところが教員をやって
いた時、はじめ塾に戻ってこないかということを言われま
した。僕はこの言葉に乗っかっていいものだろうか判断が
つかずに半年間大変迷いました。僕は自分では決められな
いほどの人生の岐路に立った時は、一番尊敬できて、信頼
できる人の言葉に従うことを肝に銘じておりましたので、
学生時代から出入りしていました父の友人の内山興正老師
の所に夫婦で行きました。そうしましたら老師は、「はじ
め塾に戻ったらいいだろう、その代わり作物を育てなさ
い」と言ってくれました。僕はこれを真に受けとめて百姓
をやるんですが、これも大変面白い経験でした。植物は人
間のようにしゃべりませんから、相手(植物)の状態を感
じなければなりません。手を施す時期を間違えればそれま
でで、言い訳はききません。小さなタネ一粒ひと粒にも生
命(いのち)が宿っていて、きちんと向き合えば必ず通じ
る、応えてくれることを知りました。この時から僕にとっ
てのはじめ塾は、小さい時から無意識に暮らしてきた所で
はなくなりました。それがはじめ塾との新たな出会い、一
歩になりました。
その時父からはじめ塾に戻るにあたって、「すでに持っ
ている所帯道具など、一切の私物は持ちこんではいけな
い」という条件が出されました。僕は3年前に結婚してい
て、家内ははじめ塾にまったく縁のない女性でしたが、僕
に騙されたというか、口車に乗っかって一緒になってしま
いました。友達が結婚式をしてくれて新居に着いた時に、
その目の前に現れた景色を見て、本当に不思議に思いまし
た。何を不思議に思ったのかと言いますと、僕が目に入る
ものすべてを指して、「これは誰のもの?」と訊くと、彼
女が「私たちの物ですよ」と言うんです。このことは自分
の物を持った経験のなかった僕にとっては本当に驚きであ
り、別世界にいきなり送られたような衝撃的な出来事でし
た。僕自身は自分の物は皆の物という暮らしを生まれなが
らにずっとしてきましたから、所有の世界は自分のものは
皆のものひとつだと思っていたわけなんです。そして皆も
そのように暮らしているんだろうと思ってたんですね。と
ころが自分だけの物があるという世界がいきなり出てきた
わけです。ただ僕は自分の物は皆の物であるという世界
が、自分の物は自分の物であるという世界よりも高等であ
るという比較の世界も持ち合わせていませんでしたから、
家内に「それはおかしいよ」と言うことも、夫婦でそこの
ところを論じ合うことも一切ありませんでした。逆に自分
だけの物がある世界を生まれて初めて知って、「すごい。
こんな世界があるんだ」としばらくその世界に酔いしれた
ぐらいでした。
そういう生活から3年経ったところで、父から戻ってこ
い、私物は一切持ちこまないでと言われたのです。この時
に家内は、「その方がずっと楽でいいわよね」と言いまし
た。ですから私物の持ちこみをしてはいけないということ
は、僕たち夫婦にとってはさしたる問題にはなりませんで
した。本当に茶碗にいたるまで一切放棄をして、身一つで
はじめ塾の中に入りました。
実は3年の間に二人でこの世界へ、自然に流れていって
いたんですね。毎日の生活による変化は、法に従うと言い
ますか、水が高い所から低い所に流れる道理、真理という
ものは説教などで伝えなければいけないものではなくて、
まともに生活さえしていれば自ずとそこへ調っていくもの
なんだということを、つくづく感じました。しかし完全に
彼女がその時点で無所有の世界になっていたとは到底思え
ませんでした。
何しろ彼女は金銭的に大がかりな取り引きをする不動産
屋で育ったのですから。でも名誉のために申し上げておき
ますが、その義父も数年前にこの世を去りましたが、我々
と一緒に意見交換をしながら実際に関わることによって、
物欲の世界から完全に脱却しておりました。
亡くなる時は、限りなく無一物の世界を生きていまし
た。僕の母の父、つまり僕の祖父も同じでした。祖父も一
代で財を成した人で、誰に聞いてもケチの代名詞と言われ
るような人でしたが、最終晩年は一心寮の畑に来て種を蒔
いてくれたり、向かいの山を見て本当に安らかな人生を送
ってくれました。完全に物欲というか所有から開放されて
いました。
そのことからも、法というものはあるんだなとつくづく
感じました。理屈ではない、ただそういう暮らしを共にす
るだけで、そういう世界に到達できるということを父の周
りで実感しました。
なぜ僕を父が呼び寄せたのかということは全く分かりま
せん。父は理由のない人でした。先程も野村邦男さんと話
をしていて、そういうことにBecauseという言葉がつく世界
は頭の世界だよねと、えらく納得していた次第ですが、父
には理由づけというものが一切ありませんでした。ただ単
にそれだけのことを言っただけでした。僕は命題を与えら
れてただひたすら悩んで、最終的には内山老師の、家に戻
りなさいという一言で決断をしたのです。
(3)「分かっていてもいい、絶対に口に出すな」
僕は終戦の年に生まれました。食糧難の一番ひどい時
でした。母が終戦間近に大変な大病を二度しまして、まと
もに生まれるかと皆が心配したそうです。僕は12ヶ月間
腹の中にいまして、過熟児として生まれました。僕の知っ
ている限り12ヶ月間腹の中にいたのは秀吉しかいないん
ですが、そういう変わった生まれ方をしております。その
時代に生まれ育った人は皆同じだったと思いますが、まと
もな醤油や調味料がなく、子どもたちの多くが腎臓を患い
ました。すでに成人になっている人達はおかしな物を多少
食べても体にさほどの影響はないのですが、これから体が
できる子どもや赤ん坊がそういうものを食べたらひとたま
りもないわけで、最初に犠牲になったのは子どもたちでし
た。僕も腎臓病を患って長期に学校を欠席することになり
ました。腎臓の働きが悪いわけですから体中むくんでしま
って、それこそ間違えれば死んでしまうというような状況
でした。この時の学校に行かなかったことが人間にとって
どういう意味を持つかということが、僕の現在の教育実践
の原点になっています。
僕が長期にわたり学校に行かなかった期間は、ちょうど
時間空間の概念が確立する時期、いわゆる脱皮の時期にぶ
つかりました。どんな生き物でも脱皮をする時は、いのち
があらわになって無防備で、危険な状態になります。トン
ボなどその時期にいじってしまったら、羽は縮んだままで
ちゃんとした立派な羽になりません。トンボとして持って
生まれた能力を充分活かしきれないままのトンボの人生を
歩むことになります。ですから人間にとって、その時期に
学校に行かなかったことはすごく幸せなことなんです。
でも今の子どもたちは、僕とは逆のことを経験していま
すね。脱皮の時期にいじくりまわされたらとんでもないこ
とになってしまうのに、小さい時から知識教育を過剰に受
けていて、非常に感覚が鈍ってしまっています。そういう
ことを僕は目の当たりにしています。それ故に僕はこの時
期の子どもたちを守ってあげなくてはならないと思ってい
ます。
そういう時期に幸いに父と母のもとで長期療養生活を送
ることができた結果何が起こったかと言いますと、ものが
見えてしまう、これが起こってしまったんですね。これは
多分どんな人にもある能力だと思うんですが、学校に行か
ないことによって感性が研ぎ澄まされて、何でも見えるよ
うになったんです。
例えばあの頃の大相撲は栃若時代でしたが、どっちが勝
つか決まり手までちゃんと当てられました。こんなことは
朝飯前でして、調子に乗ってあれはこうだよ、これはこう
だよと言っていた時に、父が本当に真剣な眼差しで「分か
っていてもいい、絶対に口に出すな」と言いました。これ
は僕にちゃんと向かい合って語りかけてくれた初めての言
葉でした。
でもその時の僕は自分だけが特別な何かを身に付けたの
ではなく、他の皆も同じだろうと思っていましたので、父
の言っていることの意味は分かりませんでした。しかし父
があまりにも強く言うものですから、その勢いに押され
て、僕はそれ以後一切そのような言動をすることをやめま
した。これが今の幸せを得ている原因だとも思っておりま
す。父が僕にそれだけ強くこの言葉を伝えたということ
は、本人にもそういう経験があったか、もしくはそういう
能力を持っていたのではということを推察するに余りある
出来事でした。
父の追悼集の中川さんの文に、学生時代に腹痛で七転八
倒している人に父が手を当てたらいっぺんに治ってしまっ
たことがあり、あいつにはそういう能力があるといううわ
さを聞いて友達が頼みに来たそうですが、二度とそういう
手出しはしなかった、ということが書かれてあります。学
校教育制度が確立し、知識偏重教育が行われている今で
は、先を読むことのできる修験者の後継者がいなくなった
と言われています。
このように先を読む能力を備え持った人、事象が生活文
化の中から消えてしまったのはとても残念なことです。こ
れは学校教育の功罪のうちの罪の方だろうと思いますが、
病気をしたことによって人間には元々そういう能力がある
ことがわかりました。
また僕はその間まったく勉強をしていませんでした。な
のに5年生になって学校に行くと、何にも勉強していない
のに学校で教える知識を簡単に身につけていきました。こ
れは不思議なものです。この経験によって、子どもに遮二
無二勉強をさせたらよい成績が取れるなんていうのは全く
の嘘で、もう少し違うやり方や関わり方によって、その人
の持っている能力が開発されていくことを知りました。
(4)手放してくれたのが親の愛
もう一つ、僕と父は感覚的に似ているものがありまし
て、父がハッと思うと同時に僕も同じことを思うんです。
こういうことを言うと誤解を招くかもしれませんが、僕は
今流で言うADHD的傾向を持っていて、衝動的に父と閃くん
です。似過ぎているから父から嫌われたと思うんですが、
実は塾の子ども達の中にそういう傾向を持つ子が何人もい
ます。その子達は人間づきあいは下手ですが、成績はとて
もよくてやたら才能を発揮するんですね。
要するに父とは似すぎていてソリが合わないという関係
で暮らしていました。そして16歳の時に、父の友達であ
る内山老師の所へ追い出されたんです。「ひと夏行って来
い」と言われまして、大きな荷物を持って友人と二人で京
都に行き、安泰寺にたどり着いて暮らしてみたら、そこは
極楽のような所でした。内山老師という方はあわてん坊で
おっちょこちょいな人で、僕とすごく合ったんです。ひと
つ言うとピンと響き合うというようなことで、ものすごく
居心地のよさを感じました。このことも僕が今、寄宿生活
塾をやっている原点の一つでもあります。親子だからとい
って必ずしも一緒に暮らすことが幸せではないケースがあ
ります。今は少子化で子どもの数が少なくなりましたが、
僕のように7人も兄弟がいると親には好き嫌いに強弱があ
って序列があることがわかります。多分5人以上の兄弟の
ある人だったら今の僕の話に、共感してくれると思いま
す。兄弟がたくさんいれば、そのことがその人の生きる知
恵になるんですけれども、今のように一人っ子か二人兄弟
くらいですと、親は観念的に子どもはかわいいと言い、こ
れだけでおさめていますね。これは不幸なことですね。一
人っ子だって親子で馬の合わないのなんていうケースはい
くらでもあります。その時に親が手放してくれることが、
子どもにとってどれだけ幸せなことか。父が僕を自分の手
元から安泰寺に手放してくれたことに、僕はとても感謝し
ております。八正道の中の一番は「正師を得る」となって
いますが、若者がこの人が自分の正しい師匠かどうかなど
ということは分かるわけがありません。僕もその頃はただ
気の合うおじさんというぐらいで、そこの生活を楽しんで
いました。でも自分が40歳、45歳になった時に、自分
の考えを整理してみましたら、なんのことはない16,7
歳の時に影響を受けたその人の言葉を自分なりに構築して
言い換えたに過ぎないことがわかりました。その時初め
て、内山老師が自分の人生に大きな影響を与えてくれた人
であり、この人が自分の人生の師だったのかな、と思いま
した。そういう出会いを16歳の時にさせてもらいまし
た。
(5)人格を丸ごと認める
男の子は中学2,3年生になりますと体力的にも、様々
な面で力をつけてきます。そうすると乳を与え、オムツを
替えて育ててくれた母親に対して、威張り散らすというよ
うな態度に出ることがあります。母親のいる前では言いに
くいのですが、僕も生意気盛りでしたので、母親を馬鹿に
するようなことを口走ったんだろう思います。その時に父
が血相を変えて、僕に殴りかかってきました。父に「何々
をしたいんですが」と言うと、必ず「好きなようにしなさ
い。」としか言わない父が、僕の母親に対する言動に本気
で怒ってきました。普段穏やかな人でしたから余計に怖か
ったことを覚えています。このことも、僕と塾の子ども達
との関わりの原点になっていることです。誰とでもお互い
にその人の存在を丸ごとキチンと認め合って暮らしていこ
うという姿勢です。大人から子どもに対しても、子どもか
ら大人に対しても、全く同じ関係でそういうことを気にし
ながら関わっていかなければいけないということです。今
はよく幼稚園児ぐらいの小さな子どもが母親に対して暴言
を吐いたり、乱暴な行動をしたりしています。それは子ど
もと言えども許されないことです。
この出来事は父が、相手の人格を丸ごと認めていくん
だ、お互いに尊重し合っていくんだということを身をもっ
て教えてくれた出来事でした。後から聞いてみると、僕の
兄弟は皆、1回ずつ父からこのことについて怒られていた
ようです。父の生きる方針としてここのところは外さない
で、どこかでやらなくてはいけないと思っていたのではな
いでしょうか。意識的なのか、偶然なのかわかりません
が、兄弟全員にこういう場面があったということは、父が
いつも相手の人格を認めるということに気を使ってくれて
いたことだと思います。
(6)昭和53年2月13日 この日は僕がはじめ塾を、これでいいんだ、このやり方
でいいんだというふうに納得した日です。僕は常々母親似
の性格でありたいと思っていました。というのは父親は重
症の神経症で、ともかく生きづらく、それも家族を巻き込
んでしんどい暮らしをしている姿を身近で見ていて、父と
は180度違う楽天的な母の性格でありたいと、無理に思
うようにしておりました。ですから子どもの頃、「どちら
似ですか?」と聞かれると、「母似です。」と迷いなく言
っておりました。父のような何でも深刻に受けとめるよう
な性格にはなりたくないなと思っておりました。ところが
はじめ塾に戻ってから、一番恐れていた不眠症に陥りまし
た。父のそういう影響がちゃんと自分にもあるということ
に気がつきました。それから3年の間は人知れず苦しみま
した。家内は子育てと塾の学習会もあるし、預かっている
寮生達の面倒も見なければならない、という大変な重労働
をしているわけですから、夜眠ることができないことの道
連れにすることはできないわけです。ですから寝たふりを
して、「誠心誠意、真心を尽くして誠実に生きる」という
ことを、声に出さないで繰り返し唱えておりました。どん
なに遅く寝ても午前2時には目が覚めてしまいますので、
2時から皆が起きる6時までの間はその呪文を唱えており
ました。幸いなことに重症の神経症の父を持っていたお陰
で、不眠症で自分がどうにかなってしまうことはない、と
いうことは知っていたので、深刻な不安には陥りませんで
した。眠らなくてもいいんだ、どこかで休みを取っている
んだろうと、これはもしかすると母から受け継いだいい面
なのかもしれませんが、そういう思いでおりまして、眠れ
ないことが悩みになることはありませんでした。ただただ
呪文を唱えて3年間暮らしていました。そして昭和53年
の2月13日の朝が、そういう不眠症の苦しみの状態から
スパッと抜けた瞬間でした。今でもあれは何だったんだろ
うと不思議に思うのですが、自分の心の中で呪文を唱えて
いたものが言葉になって出たその瞬間、苦しみから解放さ
れました。これがまた思ってもみなかった言葉でした。誠
心誠意、真心を尽くして誠実に生きるということを繰り返
し言っていたはずなのに、「南無阿弥陀仏」という言葉が
出たんです。これは本当に不思議な出来事でした。その日
の午前中、父と義理の兄の増田正雄の3人でいましたの
で、このことを話しましたら、父はただ「分かっていた」
とだけ言いました。自分にとっては歓喜して飛び上がるほ
どの出来事だったのに、父はいつも冷静に淡々と「分かっ
ていた」と言うだけで、実に張り合いのない対応でした。
その頃僕はまだ、座禅に対してとらわれのようなものを
持っていましたから、早速これが本物なのかどうか、その
日から全真堂に入って一週間座り込みました。これは後か
ら考えてみれば間違いでした。こんなことはすべきことで
はなく、これはそこの世界に出たらそのままその世界で受
け止めていけばいいことでした。でも一度そういう世界を
見た人間の強さというか、これは本当に有難いことだなと
思いますが、その日からものの見方が180度変わりまし
た。今まで色々なことをもったいぶって偉そうに論じてい
たことが、全く何の大変なことでもなく、すんなりと受け
止めることができました。例えば、自己実現するというこ
とで、自我という自分の殻を取り払っていくことに一生懸
命取り組んでいた時期がありました。しかし少しでもその
殻を取り払って広い世界に行こうと努めるのですが、また
次の殻が出てくるということの繰り返しでした。ところが
殻というものはもともとない、なかったんだ。それを自分
の妄想でそういうものを構築してきていた、ということを
すんなり受け入れることができたということです。こうい
うことで昭和53年の2月13日というのは僕にとって記
念すべき日なのです。
(7)人生の充電期
僕は若い時にはいろいろな所へ訪ねて行っては、いろん
な人に会っていろんな出会いをたくさんしてきました。父
について日本中回っていましたから、そこで必然的に出会
うことも大変多かったんです。
僕が35歳の2月3日に、神戸大学にいらした伊藤隆二
先生の心理学の研究室を訪ねました。その時先生は、「僕
はちょうど45歳になったんだけど、35歳から45歳に
かけては何でもできる時なんですよね。でもその時に僕は
放電をしてしまったんだ、これが悔やまれる。35歳から
45歳にかけては充電すべき時なんだよ。」というような
お話をしてくれました。僕は先生のその言葉にピンと反応
しまして、これからの10年間は一歩も外に出ないで、ひ
たすら自分の目の前の教育実践に精を出そう、自分の井戸
を掘ろうと、覚悟を決めました。以後10年間、僕は一歩
も外へは出ませんでした。塾生とその親たちと向かい合っ
て一緒に過ごしていたんですが、今思えばこの10年間は
とても重要な時期だったと思います。あの時にそれまでと
同じように、フラフラとあっちこっちと訪ね歩「ていたら、
多分今のはじめ塾の姿はなかっただろうと思います。そし
て不思議なことに、一歩も出なかったのに、そこで出会っ
ていく人達がいたんです。これは、本当の意味で地下水脈
によって繋がっている人達で、そういう人たちと出会えた
時というのは、これは無常の喜びでした。地表面を流れて
いる上っ面の付き合いではなく、こちらが一言言えば、相
手がそうだよねと感じ取ってくれる、懐かしく感じられる
ような出会いばかりでした。そういう人達との出会いによ
ってはじめ塾という教育の場、生活の場が作られていきま
した。
(8)一心寮市間道場からはじめ塾市間寮へ
次に、なぜ一心寮市間道場がはじめ塾の生活の拠点にな
っていったのかということのいきさつをお話させて頂きま
す。父は69歳の時(1976年)に僕にポツリと「こう
いう仕事に定年はないと思っていたけれど、あるんだね」
としみじみと言いました。それで「どういうことですか」
と訊ねてみましたら、「小さい子ども達の声が煩わしく聞
こえる」と言うのです。僕はその言葉を聞いた時に、とて
も申し訳ないことをしていると思いました。なぜなら僕は
自分の所に集ってきている子ども達を父に会わせたいとい
う思いで、高杉の一心寮に子ども達を連れていき、合宿を
し、父の話を聞き、正座をさせてもらうという関係を僕自
身も楽しんでしていたからです。ところが子ども達の声、
特にあの甲高い声には非常に辛いものがあると言うもので
すから、これは申し訳ないことをしたと思いました。
当時、合宿では高杉と市間の両方を使っていました。上
にははじめ塾一心寮、下には一心寮市間道場という看板が
掛けられていて、共にはじめ塾の合宿所でありました。そ
ういう状況の中で父がそう言ったものですから、それ以
後、子ども達の生活の拠点は市間に移しました。その後長
い間、市間で合宿をしている子ども達は朝に晩に父の所へ
行って、話を聞き、正座をし、市間と高杉の間を一日の間
に何度も往復をしておりました。それが一心寮市間寮の実
質的なスタートであります。
父が亡くなる1993年まで、一心寮は続いておりまし
た。父は「塾というのは一代限りのものだ。看板は引き継
いでも中身は絶対に引き継いではいけない。真似をしては
いけない」と口癖のように言っておりましたので、父が亡
くなった時に、一心寮という名称を使うのはよそう、一心
寮は父そのものなんだということで、その時から、一心寮
を高杉のくだかけ生活舎と市間のはじめ塾市間寮の二つの
独立したものに分けました。
(9)夢のあるイメージを持ち続ける
市間寮にいらしたことのある方はおわかりかと思います
が、市間寮は常に工事中です。僕は教育活動は常にクリエ
イティブな活動が柱になっていなければならない、教育で
一番大切なのは夢のあるイメージを常に持ち続けることだ
と思っております。子ども達がひまわりの種を蒔く時に
は、彼らは太陽のさんさんと降り注ぐ中で咲いている大輪
のひまわりをイメージしているんですね。ですから種を蒔
くことも喜びであり、水をやって育てることも喜びである
んだろうと思うんです。そういうことから僕の所では常に
何かを創っています。左官屋さんの指導で泥団子や日干し
レンガを作り、そして子ども達の小ちゃな手、大人の大き
な手で作られたデコボコの泥団子が壁に並べられた泥壁や
土間を1年かかって創りました。今年の夏は子ども達と数
人のお父さん達で作陶小屋を2ヶ月で完成させました。子
ども達は炎天下の中、3日間でなんと8トンのコンクリー
トを運んだり、持っている力を全部発揮しながら、家作り
に精を出しました。
(10)能力開発のキメ手
僕の教育活動の最大の目的は、子どもの持っている能力
を充分に開発するということです。子ども達の能力がどう
やったら開発されるのかと言いますと、持っている力を出
し切ること、これしかないですね。小賢しい大脳の判断で
は、手を抜いて楽をした方が得であるかのような錯覚をし
ます。父は「ケチな根性はいけない」と言っておりまし
た。これがはじめ塾の三つの鍵の一つ目です。僕はこのこ
とを「自分の能力を開発したかったら、持っている力を全
部出し切ろう」と言っています。人工的な道具類にはすべ
て時間や回数という寿命がありますし、使えば使うほどそ
の能力は落ちます。でも生き物は違いますよね。生き物は
使えば使うほど能力が開発されていきます。例えば脚力を
鍛えたければ、たくさん走り込んで能力を開発していくよ
うに、ありとあらゆる能力開発に対して言えるわけです。
学校教育がこういう点で転換してくれたら、とてもいい結
果を生むのにと思うのですが、残念なことに教育現場で
は、すべて小賢しい大脳の働きによって、少しでもサボっ
た方が得というような間違った考え方を植え付けられてい
ます。はじめ塾では徹底的に力を出し切って、遊びにも何
をするにも力を出し切ることを実践しております。
(11)大脳の蓋がとれた状態
実際にこのことが現れたことがあります。僕はこれを
「大脳の蓋が取れた」という表現で書いていますが、5年
前の暮れの餅つきの時の火事騒ぎで起こりました。はじめ
塾では毎年暮れの28日に餅つきをしていまして、大体い
つも35臼ぐらいつくんです。その日も大きい人達は朝か
ら餅をつく人、お米をふかす人がそれぞれに自分達の仕事
に専念して一生懸命やっていました。市間寮の裏にはニッ
キの木があって、もちつきを手伝わないでニッキを取りに
行った子どもが、屋根から火が吹いているのを見つけまし
た。その時は70人程餅つきに来ていたんですが、子ども
が「火事だ」と叫んだその瞬間から、全員が一斉に消火活
動に入ったんです。その見事さというのは凄かったです。
「君はどこのポジションで、何をして」と指示している人
は1人もいないのに、それぞれが自分の能力に応じたポジ
ションで消火活動をしていたんです。幸いなことに、火を
消し止めることができましたが、後になっていろいろ聞い
てみると、それぞれが自分のできるところで力いっぱい力
を出し切っていたんですね。よく火事場の馬鹿力と言われ
ますけれど、まさにこのことが「大脳の蓋が取れた状態」
と云うんだと思いました。「もう一つの人間観」の中に大
脳の限界を悟った人間は、非常に活発に大脳が働くと書い
てありますが、僕たちはこのことを火事を通して体得する
ことができました。生活の中での子ども達の役割ってある
んですね。遊んでいてくれなかったら市間寮は丸焼けでし
た。子どもたちが裏でサボって遊んでいたからこそ大事に
至らないで済んだんです。こういうことは理屈では合わな
いことです。こういうものをすべて丸ごと利用していかな
ければ、バランスの取れた暮らしにはなっていかないとい
うことです。
(12)不求(もとめず)
父は皆さんに色紙をたくさん書いていましたが、僕には
書いてくれたのはたった一枚だけでした。それは「不求」
(もとめず)という色紙です。実は父の人生、生きざま
は、まさにこの「不求」でした。父は自分に出来ることを
人に頼むことは一切ありませんでした。能動的に社会に働
きかけるということもしませんでした。これはネホサの活
動を通して野村さんもよく知っていることだと思います
が、相手に何かを期待する、見返りを求める、こういうこ
とは一度としてしたことはありませんでした。新聞が読み
たくなったら、自分が出来る状況であったら、100パー
セント自分で新聞を取りにいきました。父は「ひかり」と
いう煙草を吸っていましたが、煙草も絶対に自分で買いに
行きました。自分が出来るのに人を使うことはしないとい
うことを僕に教えてくれたのがこの色紙です。これは子ど
もと大人の間に信頼関係を作っていくのに絶対に必要なこ
とで、教育実践の原理原則です。大人は変な教育意識を持
って子どもにお手伝いをさせてみたり、こういうことを今
のうちに教えておかなければいけないからさせておきまし
ょうというようなことをしますが、父は絶対にしなかった
ですね。父が亡くなった直後に、僕が父について「何もし
ない教育」というものを書きましたが、その中に余語老師
が「和田先生は何もしないのに子ども達が変わっていく教
育をしている稀有な人だ」と語っている箇所があります。
余語老師は父をよく見ていた人だと思います。「不求」。
今、常に自分に当てはめて、戒めとしてポケットに入れて
この言葉を持ち歩いています。この色紙一枚だけを僕に残
してくれたので、より一層この言葉の持つ重みが伝わって
くる思いがしています。 つけ足しでもう一つ、僕が教員
になって初出勤の朝、父が珍しく玄関から僕を追いかけて
来て、「これを電車の中で読みなさい」と、1枚の紙切れ
を渡してくれました。いつも原稿を書く太い万年筆で、お
世辞にも上手だとはいえない字で「はなむけ」と書いてあ
りました。そして3つのことが書かれていました。1番目
に「謙虚であれ」。2番目に「卑屈になるな」。3番目に
「努力」。僕は電車の中でこれを見て、これはまさに自分
にぴったりの言葉だなと思いました。父は「ケチな根性は
いけない。イヤなことは避けないで。ヨイことはする。」
という3つの鍵をいつも言っていましたが、これは父が自
分自身に言い聞かせていた言葉だろうと思いました。言葉
というのは、一人ひとりのものだということをもらった
「はなむけ」や「不求」という言葉から知ることができま
した。父は「人を一度に大量に網で救うことはできない。
一人ひとりの関わりを大事にしなければ」ということをし
ょっちゅう言っておりました。その父に教えてもらったこ
とを僕は今でも忠実に実践していこうと思っております。
父が亡くなって10年経ちますが、真理といいますか、そ
ういうものはいつの時代にも不変だな、それを求めて精進
していくことが残された人間の務めだな、とそんなふうに
思っております。そろそろ持ち時間がまいりました。長時
間ご静聴ありがとうございました。
素直になれた
マーク・ドウソン(談)
僕は市間寮に家族に連れられてきた時が「はじめ塾」
との最初の出会いでした。その時は旅行で来たと信じてい
たし、市間寮は民宿だと思っていたんですよ。でもフロン
トとか売店とかないことに半日くらいして気付いて、周り
の人に聞いてやっと少し状況がつかめました。その後、中
学の三年間は土日の合宿にたまに関わる程度で、そうして
いるうちに、父の仕事の関係でイギリスに行くことになり
ました。僕はイギリスはそんなに日本と変わらないかなと
思っていたんですけれど、イギリスはまったく自分と合い
ませんでした。そこで日本が好きだというのもあって、自
分が日本に帰るかどうかいろいろ親と話し合った結果、
「はじめ塾」に行くなら日本に帰ってもいいということに
なったんです。実は、僕はそれだけはいやだと思っていた
んです。でも半年考えて、ある日突然、塾で暮らしてみる
のもいいかなと思って、飛び込む気持ちで「はじめ塾」に
行くことを決めました。その頃の塾のイメージは、市間寮
にいた生徒から「厳しくてなかなか外出ができない」とい
うふうに聞いていたんで、塀に囲まれていて恐いところだ
と思っていました。でも実際はそんなことは全然なくて、
みんなすごく優しくて、高校時代は充実した三年間を送れ
たと思います。
その時一番何を学んだか、はっきり言ってみろと言われ
ても、難しくて言えないんですが、当たり前のことが当た
り前にできるようになったかなと思います。僕は塾に来た
ての時、嬉しいことや楽しいことがあっても素直に喜べな
かったんですよ。周りの人が楽しそうにやっていても、何
が楽しいのかわからなくて、自分がそれをどう表現してい
いのかわかりませんでした。でも卒業するころになって、
嬉しいことはほんとに素直に喜べるようになったことが自
分の中で変わったことだと思います。
今は大学生になって町田で一人暮らしをして、それでア
ルバイトをしているんですが、そこで働くことで、初めて
塾のすごさというのを感じました。例えば最初の一週間は
研修だったんですが、すぐに接客や電話の対応ができるん
で、上の人がものすごくびっくりしていました。普通の子
が半年くらいかかるんだそうです。それと、お客さんに気
配りができて、かつ自分達の仲間にも気配りができること
にも驚いたそうです。自分としては何か特別にしているつ
もりではなくて、塾の生活で当たり前にしていたことをた
だやっていただけなのですが、実はそれは本当はすごく難
しいことだったということがわかりました。いつのまにか
気がつかないうちに主人公意識が自分のものになってい
て、それがアルバイト先では評価されて、今では百五十人
くらいの店を二人で任せられるくらいになっています。
一応大学生なので勉強しなきゃいけないんだけれど、こ
ういうことを経験する時期もあっていいかなと、勝手に自
分に言い聞かせていますが、とにかく今は自分の中では充
実しています。二年生、三年生になってもこんなことばっ
かりはしていられないと思うので、ちゃんと卒業して、仕
事に就いて塾に貢献できるように、これからは勉強にも力
を入れたいと思います。