百万石の大名行列 - 北國総合研究所

 北國総研の自主研究 ﹁百万石の大
名行列﹂ は、金沢ケーブルテレビネッ
第 回は、群馬県高崎市から一
旦、中山道を外れて、加賀藩の分
市を訪ねました。七日市藩は前田
家である七日市藩領があった富岡
利家の5男利孝が、大坂の陣で武
回から最 終 回の第
回 までに従い進めました。 研 究 班は
トの番 組の第
1月に金沢の北國下街道を出発して、
となった富山藩や大聖寺藩とは少
ため、領地を分け与えられて支藩
が自分の力で勝ち取った藩である
特任教授は、
﹁七日市藩は、利孝
た藩です。東四柳史明金沢学院大
功を挙げて、徳川秀忠から拝領し
上 州、武州を経てようやく江戸に到
着しました。 街 道の宿 場 跡では加 賀
藩の置 き 土 産 を 数々取 材 することが
でき、沿線地域に経済的、文化的な
し性格が異なっている﹂と指摘し
ていました。廃藩置県まで国替え
も領地を減らされることもなく続
き、明治になってからは七日市藩
代利昭の4男利為が本家に養子
に入るなど、あらためて本家との
絆を深めています。この利為は、
前田家伝来の収集品の保存に力を
注ぎ、
﹁前田育徳会﹂を設立した
人として知られています。
屋敷跡は富岡高校
七日市藩に城はなく、藩主の屋
敷であった陣屋の跡は現在、富岡
高校の敷地になっています。富岡
高校では現存する黒門と正殿を拝
見させてもらいました。正殿に入
日曜日 午後1時∼
ると正面に﹁梅鉢紋﹂が見えます
(デジタル009chほか)
「ときめきQハイビジョン」
足 跡 を 残したことを あらためて実 感
倉賀野を経て埼玉県の本庄に入り
土・日曜日 午前11時∼、午後5時∼、同9時∼
しました。3月に開業 する北陸新幹
いころ金沢から津田吉之助が視察
ました。本庄では、参勤交代の詳
北國総研の自主研究「百万石の大名行列」は毎
週土・日曜日、放送している45分の教養番組です。
加賀藩・歴史文化護持協力会が協賛しています。
年から
ぼ重なる1642
︵寛永 ︶
百万石の大名行列
線とほぼ同じルートをたどる、120
が、本家の﹁剣梅鉢﹂とは違い、
に訪れて技術を学んだ史料が残っ
細を記録した思いがけない宿帳に
12
金沢ケーブルテレビネット
里480キロの旅を締めくくります。
﹁寄せ梅鉢﹂と言うそうです。こ
ていると話してくれました。
交代が制度化されていた時期とほ
田村本陣が記録した宿帳で、参勤
出合うことができました。本庄宿
のほか高校に隣接した蛇宮神社を
夕食は焼き鮎や長いも
この後、研究班は中山道に戻り、
「北國新聞ニュース・プラス」(地デジ9chほか)
﹁ 長いも ﹂
﹁ やきどう
の 食 事 は﹁ 焼 き 鮎 ﹂
に藩主が宿泊した時
72︵明和9︶年7月
お り。 例 え ば、 1 7
どが細かく書かれて
宿 賃、藩 主 の 食 事 な
帳には行列の人数や
出 版 し て い ま す。宿
長は自費で翻刻版を
お り、長 谷 川 勇 元 館
館で大切に保管して
本庄市歴史民俗資料
残 っ て い た の で す。
名 様 御 休 泊 帳 ﹂が
2 2 0 年 間 の﹁ 御 大
1863︵文 久 3︶年までの、約
19
訪れ、藩主から寄進された神輿を
確認したほか、富岡市立美術博物
館で保管している貴重な利孝の
﹁ 鯰 尾 の 冑 ﹂を 特 別
に見せてもらいました。
富岡市に来たという
ので研究班は、世界文
化遺産に登録された
﹁旧富岡製糸場﹂にも
足を運びました。赤レ
ンガ造りのハイカラな
倉庫群が、近代化する
明治の息吹を感じさせ
てくれました。場内を
案内してくれた同製糸
場総合研究センターの
腰塚徳司さんは、金沢
製糸場との関係も紹介
10
越中、越後、信州からは中山道に入り、
10
世界遺産に登録された富岡製糸場
24
25
12
富岡高校の門となっている七日市藩陣屋の黒門=群馬県富岡市
百万石の大名行列
加賀藩上屋敷跡の東大・赤門前で百万石の大名行列を振り返る研究員
=東京・本郷
してくれ、創業間もな
前田利孝が大坂の陣で使ったと伝わる鯰尾の冑
北國総研のふるさと講座
参勤交代220年間の宿帳を確認する研究員=埼玉県本庄市
北國総研自主研究
百万石の大名行列
ました。中山道をたどりながら熊
化を後世に伝えたいというデパー
建っていました。地元の歴史や文
に﹁中山道﹂の碑が建物の両側に
えられて、びっくりしました。八
ました。
谷の商店街まで来たとき、道が途
ト側の意向で、デパートの通路を
交代の様子をこんなに長い間書き
切れ、目の前にデパートが建って
中山道として開放しているそうで
ふ﹂を用意し、殿さまから﹁白銀
いたので戸惑いましたが、郷土史
す。加藤さんの案内で歩いてみま
があるとは、なんとも不思
議な感じがしました。こん
な風景に出合ったら加賀の
殿さまもさぞ腰を抜かすこ
とでしょう。
鴻巣の寺に剣梅鉢
加藤さんからは、熊谷市
吹上で、宝暦年間︵1751
年∼1764年︶に起きた面
白いエピソードが聞けまし
が、狭い街道の
た。加賀藩の行列と八王子
千人同心
通行をめぐって一触即発に
なったのですが、近くの東
曜寺の住職が機転を利かせ
て﹁ お茶の用意ができまし
た ﹂と 加 賀 藩 の 行 列 を 境 内
に招き入れ、道を空けさせ
縁を深めていったのです。
使用を許し、定宿として
変感謝した前田家が紋の
の佐藤直哉さんが、宿場の周囲を
ていた1861
︵文久元︶
年の街並
宿場のジオラマがあり、にぎわっ
ました。蕨市歴史民俗資料館には、
たため、大事には至らなか
桶川では、埼玉県で唯
一現存する本陣屋敷に足
堀のように用水を巡らしていたこ
ように寝床をつり上
敷き、ハンモックの
にと畳の下に真綿を
敵に狙われないよう
いました。床下から
元の人々に命じて何とか静かにさ
うるさかったので、家来たちは地
泊まった際、カエルがたいそう、
れました。加賀の殿さまが宿場に
加賀藩ゆかりの逸話も聞かせてく
たと説明してくれました。また、
みが再現されていました。学芸員
を運び、皇女 和 宮が泊
とや、用水には刎橋が架かってい
寺紋に剣梅鉢を許された法要寺=埼玉県鴻巣市
木橋百貨店の出入口に行くと確か
家の加藤勉さんから、中山道はこ
留めてある史料ははじめて見た。
勝 願寺という別の寺に宿泊する
したが、土産物売り場の横に街道
枚が支払われた﹂などと書かれ
ったそうです。
﹁下馬しなかった﹂ため、寺側が
大変貴重なものです﹂と驚いてい
鴻巣では、加賀藩から﹁ 梅鉢
紋﹂を許された真言宗・法要寺を
﹁無礼だ﹂と立腹し、宿泊を拒否
のデパートの中を通っていると教
第 回は、深谷からスタートし、
熊谷、 鴻 巣、桶川、大宮を巡り
ていました。東四柳教授も﹁参勤
訪ね、小寺秀仁住職から加賀藩と
したそうです。その時、宿泊場所
予定だったのですが、うっかり
の関わりを聞くことができました。
がなく困っていた加賀藩に支援の
まった部屋を見せてもら
げていたそうです。
せたそうです。ところが一人のい
たずら者が、カエルを1匹、殿様
次 が 蕨 で す。旧 蕨
らいました。浦和の
の方々に案内しても
うので浦和ガイド会
れて残っているとい
宿本陣の門が移築さ
市からです。旧浦和
最終回の 回は浦
和、現在のさいたま
敬の心を抱いていた現れではない
人々が加賀の殿さまに親しみと尊
は定かではありませんが、蕨の
ったという話でした。真偽のほど
ことだ﹂と言い、誰もとがめなか
況を察して、
﹁これはまた風流な
きた殿さまは家来の慌てぶりで状
と右往左往したのですが、起きて
で、家来たちは﹁これは一大事﹂
が寝ている庭に放ってしまいまし
宿の街道筋にある商
でしょうか。
蕨に残る
カエルの逸話
店街は整備されてい
た。カエルが大声で鳴き出したの
て、今も宿場の街並
蕨を出て戸田の渡し︵現在の荒
川︶を越えると、いよいよ加賀藩
みを大切に守ってい
12
手を差し伸べたのが法要寺で、大
11
江戸の防衛や日光の
警備などを行い、八王
子周辺に居住した幕府
に直属する郷士集団。
26
27
宿場の様子を詳細に再現した蕨宿のジオラマ
︵1648∼1652年︶
慶安年間
の 参 勤 交 代 で、 加 賀 藩 は 当 初、
現存する桶川宿の本陣=埼玉県桶川市
デパートを横切る「中山道」
【八王子千人同心】
10
デパートの中にある中山道を歩く研究員=埼玉県熊谷市
百万石の大名行列
下屋敷があった板橋です。横山方
ったようです。中屋敷は、隠居し
リラックスする、癒しの場でもあ
た藩主や側室らが暮した屋敷です。
子石川郷土史学会幹事も﹁ここま
で来て感無量です﹂と長旅を振り
返りました。
主が日ごろ居住した所ですが、板
っていました。本郷の上屋敷は藩
れたお稲荷さんを見てきました。
を訪ね、加賀藩下屋敷から移築さ
板橋では名前の由来となった街
道筋の 石 神井川に架かる﹁ 橋 ﹂
う学校もあります。
江戸に到着した時は藩主もほっ
としたようで。 代藩主の治脩は
屋敷の門は﹁追分門﹂と言われ、
す。参勤交代の際に使われていた
上屋敷跡、現在の東大でゴールで
ました。研究班も、最後は本郷の
大名行列は下屋敷で衣服を整え、
隊列を組み直して上屋敷に向かい
つに行くことも大切な役目でした。
参勤交代は、屋敷に入って終わ
りではなく、後日、将軍にあいさ
い﹂と語っています。
もでなかった嬉しさはこの上もな
列が滞らず、下々に至るまで病人
﹁龍に雲を得たる心地がする﹂と
中山道と本郷通りが交わっている
江戸城跡すなわち皇居にも足を運
龍に雲を得たる心地
場所で、東大農学部の門の近くで
びましたが、石垣のスケールの大
第 回は、 月に金沢駅で開か
れた﹁巴錦﹂の菊花展の様子を紹
資源として期待を寄せていました。
ました。
残しておくべきだ﹂と語ってくれ
を加賀藩研究の貴重な史料として
な旅だった﹂と話し、
﹁この記録
起こすことができ、とても有意義
線に残した加賀さまの足跡を掘り
ものはなかったのではないか。沿
石の大名行列をここまで研究した
え、研究班の東四柳教授は﹁百万
最後は、有名な東大の赤門前で
締めくくりです。番組の収録を終
大名行列の史料
も立派なものでした。
綱紀時代に加賀藩が築いた天守台
威を感じさせてくれました。5代
きさに圧倒され、徳川将軍家の権
日記に書いています。そして﹁行
した。
や新幹線駅舎の﹁探検ツアー﹂を
紹介しました。夜には、金沢城公
園の城壁を斬新な光のアートで照
らすプロジェクションマッピング
が行われました。参加者は、歴史
と現代が調和する金沢の魅力を実
綱紀時代に加賀藩が築いた江戸城の天守台
地名に加賀、金沢
橋の下屋敷は別邸的な要素があり、
また、板橋には加賀藩にちなんで
加賀藩は江戸に板橋の下屋敷、
駒込の中屋敷、本郷の上屋敷を持
参勤交代で江戸に着いた際に衣服
加賀公園、加賀1丁目、2丁目と
歳﹂
田中会長は、東京でのイベント
などで金沢をアピールして、開業
気運を盛り上げたいと気合を込め
ていました。
金沢城に光のアートを描いたプロジェクションマッピング
を整えたり、 万坪という広大な
参勤交代が屋敷に入った追分門があった付近=東大
北陸新幹線を題材にした加賀万歳を披露する田中会長
(右)
金沢の魅力﹁輝き、輝け﹂
加賀藩下屋敷があった板橋の地名に由来する橋=東京都板橋区
11
まることを願っていました。
は、菊を縁に人と人との交流も深
保存会の皆さんは、新幹線開業後
鮮やかな大輪を運んでくれました。
られ、長野県から2つの保存会が
藩主が命名した殿さま菊として知
介しました。参勤交代を機に加賀
11
いう地名が残り、金沢小学校とい
参勤交代の門は「追分門」
感し、新幹線開業後の新たな観光
12
敷地で鴨狩りをするなど、藩主が
北陸新幹線金沢開業が迫り、各
方面で歓迎ムードが高まっていま
す。
﹁百万石の大名行列﹂第 回で
は、加賀万歳保存会の田中久雄会
だ万歳を披露する様子を報じまし
長が沿線の名所や名物を織り込ん
10
28
29
た。
11
第 回では、 月 日に金沢市
内で行われたカウントダウン宣言
10
21
﹁広がる世界、石川県。金沢こ
こは未来都市。輝き輝け、加賀万
11
新幹線は、いま
金沢駅を彩った
「巴錦」の菊花展