冷戦終結とロシアの対欧州安全保障政策 ―ロシアは修正主義者なのか―

冷戦終結とロシアの対欧州安全保障政策
―ロシアは修正主義者なのか―
小 泉 直 美
防衛大学校紀要(社会科学分冊) 第111輯(27.9)別刷
冷戦終結とロシアの対欧州安全保障政策
―ロシアは修正主義者なのか―
小泉直美
はじめに
ロシアがウクライナのクリミアを編入(併合)し、さらにウクライナ東部の
親ロ派勢力に軍事的支援を与え、ロシアと欧米諸国との対立は決定的となった。
ロシアは冷戦終結以後、東西が積み上げてきた合意事項を踏みにじり、相互の
信頼関係を修復不可能なほど著しく損なったように見える。これはロシアの望
むところなのであろうか。ロシアはポスト冷戦体制に挑戦する修正主義者なの
であろうか。本稿はこの点を分析しようとするものである。
ロシアが修正主義者なのか、という点については 3 つの見方がある。第一は、
「ロシアの動きは膨張主義的であり、ロシアは修正主義者」だというものである。
これは欧米に一般的な見方であろう。2014 年 6 月、フランスのジャーナリス
トがプーチン大統領にインタビューしているが、その時の質問は以下のような
ものであった 1。
「ロシアの戦略は、対話か、膨張か、征服か」
「あなたはソ連解体を 20 世紀最大の地政学的悲劇といった。・・あなたが提案
するのは何か。ロシアのナショナリズムか、あるいは以前の国境をもつロシア
帝国の復元か」
同じような認識に立って、バード大学のウォルター・ミードは『フォーリン・
アフェアーズ』誌上で「2014 年、地政学がセンター・ステージに戻ってきた」
と言う。「中国、イラン、ロシアは冷戦の後にもたらされた地政学的合意
-1-
settlement を決して受け入れたことはなかった。彼らは次第にそれを力づく
で覆そうとするようになっている」と主張している 2。ミードによれば、冷戦
後に形成された合意(Post-Cold War settlement)とは、欧州においては、
ド イ ツ の 統 一、ソ 連 の 再 編、旧 ワ ル シ ャ ワ 条 約 機 構 諸 国 や バ ル ト 諸 国 を
NATO および EU に統合すること、であった 3。
これに対して、第二の見方は「ロシアは修正主義者ではない」と主張する。
同誌上でミードに反論したのは、プリンストン大学のジョン・アイケンベリー
である。ミードは米国の力や米国が築いてきたグローバルな秩序の力を過小評
価して、中ロの抵抗の意志を過大評価している。中ロは時に米国のリーダーシッ
プに憤慨するが、彼らは現存秩序に深く組み込まれ、その恩恵に浴しているた
め、それを壊すことは考えていない。彼らは修正主義者ではなく、せいぜいス
ポイラーである、と 4。
第三の見方はいわば「ロシアは修正主義者だが、膨張主義的ではない」とい
うものである。これはクレムリンに近いといわれるロシアの外交防衛政策評議
会議長のフョードル・ルキヤノフの主張である。ルキヤノフは、冷戦終結は東
西双方が対等であることを前提に、両システムの収斂としてもたらされるはず
だったが、ソ連は崩壊し、人類の普遍的価値や世界のルールを語る権利は勝者
の手に移った、とアイケンベリーらと同じ認識を示している 7。
それでも、冷戦終結後、ロシアはゴルバチョフの遺産(西側との建設的な関
係の維持)を守り譲歩し続けたが、キエフのヤヌコビッチ体制の内部崩壊とそ
の後の法的、政治的混乱がモスクワの例外的にタフな対応のきっかけとなった。
西側はウクライナが「レッドライン」であるだけではなく「二重線」、つまり、
我慢の限界であることに気づいていなかった、とする。
ロシア指導部は次のような結論に達したようだ、とルキヤノフは言う。現在
のコースにとどまるなら、衰退が差し迫っている。この状況を打破して、相手
に真剣に考えさせるか、でなければ何らかのカウンターバランスを作る、すな
わち非西側パートナーへ方向性を変えるか、である。ただし、だからと言って、
ロシアの目標が 1991 年に失った国家の復活にあるというわけではない。ロシ
-2-
アでは敗北した大国としての地位は広く受け入れられている、と 8。
要するに、ロシアは領土拡張や現秩序の破壊を狙っているわけではない。ミー
ドの言う「ポスト冷戦合意」の土台、すなわち自由民主主義や資本主義市場経
済というものを破壊しようとしているわけではないという点で、アイケンベリー
の主張と重なる。しかし、ロシアは単なるスポイラーではなく、ロシア抜きで
積み重ねられてきた「ポスト冷戦合意」のルールを変えたいと考えた。その意
味で修正主義者だということになる。ルキヤノフは「新世界秩序が形成されね
ばならない。1986 年それを言ったゴルバチョフからは何も出てこなかったが、
プーチンはもう一度トライするために分岐点に戻ろうとしている」と言う 9。
以上 3 者の主張を見てきたが、実際はどうなのであろうか。ロシアはポス
ト冷戦合意システムに挑戦する行動を起こした。何に不満を持ち、何を要求し
ているのだろうか。その破壊なのか、ただ不満を表明しただけなのか、あるい
は何らかの修正を要求しているのか。本稿はこの点を、ロシアの認識の変化を
たどることで考察することにしたい。
考察は冷戦終結時にさかのぼる。ロシアの不満は講和内容の変質に根ざして
いるからである。上記アイケンベリーは、ダニエル・デュードニーとの共著論
文で、「冷戦合意」(Cold War settlement)について興味深い論文を発表して
きた。「冷戦合意」は、ミードの言う「ポスト冷戦合意」とは異なり、冷戦を
終わらせるために米ロが達成した合意である。アイケンベリーは他の大戦争と
同様に、冷戦も単に終わったのではなく講和があったとする。そこで、ここで
は Cold War settlement を「冷戦講和」と訳すことにしたい 5。アイケンベリー
らによれば、それは核戦争への米ソ共通の脅威認識から、一連の軍備管理交渉
を通した東西の相互抑制によってもたらされた。しかし、冷戦終結後、一方の
当事者であるソ連が崩壊し、承継国のロシアも極端に国力を落としたために、
冷 戦 で は 「レ ー ガ ン が 力 に よ っ て 勝 利 し た」 と す る 説 (Reagan Victory
School)が主流となった。この結果、講和の内容は軽視され、以後、20 年間、
西側主導で国際秩序が形成されてきた。これにロシアは強い不満を持っている
というのである 6。 -3-
そこで以下では、「冷戦講和」の概念を使い、講和の中味、その後の講和の
行方(ロシアに残った不満)、ロシアの対抗策、という順で考察をしていくこ
とにする。その際、不満、不安を強めたロシアが権威主義体制を強化、ナショ
ナリズムを高め、寛容さを失っていく点にも留意したい。
1 「冷戦講和」
(1) ゴルバチョフ就任時の戦略状況
1985 年 3 月、ゴルバチョフが書記長に就任した時、米ソ関係は極度に悪化
していたが、就任と同時に開始された軍備管理交渉が、唯一対決回避のための
か細い希望の光であった。まず 70 年代のデタントが新冷戦によって取って代
わられる様を整理しておこう。
冷戦期欧州の東西戦力バランスは、通常戦力、短中距離核戦力、戦略核戦力
からなっていた。大前提として通常戦力においては、東側、ワルシャワ条約機
構 ( 以下 WP と記す ) 側が NATO 側に対して大幅な優位を持っていた、とい
うことがある。これに対抗するために、NATO は柔軟反応戦略を採用し、短、
中距離核戦力で優位を保ち東側を抑止する。これが敗れた場合も米本土の戦略
核がソ連を抑止する、とされていた。しかし、ソ連は 1960 年代、70 年代を
通じて、戦略核兵器の増強を行い、60 年代末に運搬手段で、また 70 年代末に
至って核弾頭において対米パリティを達成した。こうなると、ますます欧州に
配備した米国の中距離核戦力の抑止力が重要になった。
ところが、1977 年ごろ、ソ連はこれまで欧州向けに配備していた中距離核
SS4、SS5 が老朽化したため、これに代え、SS20 の配備を開始した。これが
対立再燃のきっかけであった。旧式に比べてはるかに高い性能を持つ SS20 の
大量配備で西欧諸国は西の対ソ抑止力が消失することを恐れたのである。
1979 年 12 月の NATO 首脳会議で、いわゆる「二重決議」が採択された。こ
れは、ソ連の SS20 配備に対抗して、米国の新型 INF(パーシングⅡ型と地上
配備の巡航ミサイル GLCM)の西欧配備を行うが、同時に、これを梃子に
SS20 配備撤回を目指す交渉を開始するというものである。
-4-
こうして新冷戦と言われる状況が現出していた。米国レーガン政権は 1983 年、
戦略防衛構想 (SDI) を発表し、「力による平和」でソ連に対抗しようとしてい
た。西側でも反核運動が拡大していたが、ソ連側でも米国の核先制攻撃を極度
に恐れる緊張した空気があった。この中で、中距離核、戦略核、SDI を包括
する米ソの軍備管理交渉が開始されようとしていたのである。以下、交渉を媒
介として、冷戦が終結していく過程を見てみよう。
(2) INF(中距離核戦力全廃)条約調印
1985 年 3 月、くしくもゴルバチョフがソ連共産党書記長の座に就任した翌日、
米ソ包括軍備管理交渉が開始された。ただし包括交渉と呼ばれたが、ソ連は 3
交渉をリンクしたものとしたが、米国は独立した 3 交渉を同時並行的に行う
ものとして譲らなかった。ロシアが3交渉のリンケージにこだわったのは、第
1 に、70 年代に合意した米ソ戦略核の均衡は、防衛兵器を著しく制約した上
で(ABM 条約)、攻撃兵器のパリティを保つ、といういわゆる相互確証破壊
(MAD)概念を基礎においていたからである。防衛兵器と攻撃兵器はリンクさ
れねばならなかった。また、第 2 に、欧州に配備された米国の INF はソ連中
心部を攻撃することが可能であり、戦略核と同様の危険性を持つため、英仏保
有の核兵器とともに、他の2交渉と同時に話し合われるべきだと考えたのであ
る。
中でもゴルバチョフは SDI の開発・配備反対に強く拘泥した。ソ連専門家
たちは、SDI は、技術的にみて米国が主張するような機能を果たしえないと
助言したが、ゴルバチョフは他の 2 交渉とのリンケージを強く主張し続けた。
これがむしろ交渉を遅らせたとも言える 10。しかし、1986 年 10 月のレイキャ
ビク会談の決裂後、1987 年に入り、ソ連は INF 交渉を優先させることを決断
した。ゴルバチョフはむしろそうすることで交渉全般にはずみをつけようとし
たのだった 11。
1987 年 12 月、INF 条約が調印された。その内容は、米国が新たに配備し
たパーシングⅡ型と GLCM を全部撤去する代わりに、ソ連が配備した新型の
-5-
SS20 を全廃する、という、当初の米側の提案(ゼロ・オプション案)通りになっ
た。英仏の核は条約外となったのである。さらにソ連は欧州配備だけではなく、
アジアに配備する SS20 も廃棄(グローバル・ゼロ)、また短距離核の一部を
も含めるとする案(ダブル・ゼロ)にも応じた。結果として、廃棄したミサイ
ルの数は米国が 846 基、ソ連が 1,846 基となり、ソ連の方が大きな譲歩をし
ていた。
(3)START(戦略兵器削減条約)調印
START 交渉における米国の目標は、ソ連の MIRV(個別誘導複数目標弾頭)
化 ICBM の制限であった。70 年代の SALT(戦略兵器制限条約)交渉において、
弾頭数と運搬手段の基機数に対する制限のみを合意目標とした結果、ソ連が
MIRV 化 ICBM の大増産を行うこととなり、米国側には危機感が広がったの
である。ソ連の大型ミサイルは液体燃料の固定式が主流で相手の攻撃には脆弱
である。したがって、米国は、ソ連がこれを生き残り(第二撃)用ではなく、
先制攻撃用兵器として大規模配備を進めているのではないかとの疑念を深めた
のであった。
他方、ソ連が MIRV 化 ICBM の増産を急いだ理由は、おそらく対米パリティ
の確立を急いだためと考えられる。ミサイル 1 基に 10 個の弾頭を積めるとな
れば、配備できる弾頭数を短期間に増やすことが可能であったからである。ま
た、同ミサイルの脆弱性については、ソ連も認識していたが、より脆弱性の低
い移動式ミサイルを開発するのに失敗していたといわれる 12。ソ連が鉄道移動
式の ICBM を配備したのは 1986 年のことである。
START 条約 (1991 年 7 月調印 ) では、米ソそれぞれが配備できる核弾頭数
を半減して 6,000 発にすると同時に、ソ連の配備できる重 ICBM (SS18 が相
当する)を半減することが決められた。その大枠を、ソ連は上記レイキャビク
会談(86 年 10 月)の段階で応じている。ただし、START 交渉と SDI 交渉の
切り離しを決断するのは、米国政権がブッシュ(父)大統領に代わった後、
89 年 9 月のことである。このころには、SDI 予算の減額が決められていたこ
-6-
とが背景にあった。
こうして、配備弾頭数の半減のみならず、米国の懸念していた重 ICBM を
半減することをソ連は受け入れたのであるが、さらに、エリツィン政権に入っ
た 1993 年 1 月、START Ⅱ(配備弾頭数をそれぞれ 3000 発とする)の調印
を通して、ソ連は MIRV 化 ICBM の全廃に応じたのである。これもまた、ソ
連側の大きな譲歩であった。
(4) CFE(欧州通常戦力)条約調印
INF 条約調印 1 年後の 1988 年 12 月、ゴルバチョフは国連で演説をし、新
世界秩序の創設を訴えた。この中で、ソ連が一方的に 50 万人の兵力を削減す
ることを発表した。これまで戦力データを公表することもなかったソ連が、冒
頭に指摘した「通常戦力における東側の圧倒的優位」に対応し始めたのである。
当時、ソ連ではいまだゴルバチョフの権力絶頂期であった 13。絶頂期ゆえに、
一方的削減を発表できたともいえた。
しかし、西側ではこれがソ連の本気度を占う一つの契機となった。翌 1989
年 3 月より、欧州全体の通常戦力を削減する交渉(CFE)が開始されたので
ある。CFE は 1990 年 11 月 19 日に調印された。東西両ブロックの通常戦力
の均衡を図り、かつそのレベルを低下させるというものであった。しかし、す
でに 89 年の東欧革命、同年 11 月のベルリンの壁崩壊によって、東西の対立
は崩れていた。CFE は、調印時に早くも、ソ連側には後の不平等感、不満の
種を宿していたことになる。
中でもドイツの再統一は、ソ連にとって予想外の速さで実現した。ベルリン
の壁崩壊後一年にも満たない 1990 年 10 月 3 日に統一の手続きは正式に完了
した。その 3 か月前、7 月に、コール大統領が訪ソし、ソ連との最終合意に至っ
た。この時、ドイツは正式文書で、再統一後も「旧東独領には核・外国軍隊を
常設的に配備することはしない」との誓約を行った。他方、NATO の東方拡
大については、ベーカー米国務長官をはじめ、英仏伊首脳が「それはありえな
い」と口々に述べたが、これは口約束にしか過ぎなかった 14。
-7-
以上のように、冷戦の講和は軍備管理交渉を通じて再構築された東西の軍事
力バランスをバックボーンとしていた。それは実質的には、史上類を見ないソ
連の一方的な戦略的後退であり、それができたのも交渉を通してソ連と米欧諸
国との相互信頼が確立されたからである。
ただし相互信頼のきっかけを作ったのはゴルバチョフの方であり、ソ連側の
大幅譲歩案が提示されたのは 1986 年 10 月から 88 年 12 月という早い段階で
あった。確かに、ゴルバチョフはソ連経済の成長鈍化を見てその建て直しのた
めにペレストロイカを開始するが、この時点では経済はまだ破たんしていたと
は言えず、なおかつ米国の SDI 構想につられはしたものの、野放図な軍拡競
争に応じていたわけでもなかった 15。むしろ、ゴルバチョフの権力絶頂期にあ
り、その下で譲歩案が出されたのである。
また、ゴルバチョフのそもそもの主張は「欧州共通の家」を構築することで
あった。欧州での戦争は「共通の家」を壊すだけである。しかし、家はロシア
語ではдом である。これは集合住宅であり、一つ一つの部屋は鍵がかけられ、
中では好きなイデオロギーを信奉していて構わない。相互の政治方針は尊重さ
れるはずであった。
しかるに、冷戦終結後まもなくして、ロシアはもはや対等の協議国ではなく、
支援し、教え導く対象とみなされるようになった。ソ連は混乱の果てに崩壊し
た。新生ロシアは西側の仲間入りをすべく体制変革を急いだが、これがまたロ
シアの体力を落とすことになったのである。こうした主体間の関係の変化の結
果、冷戦講和の内容は変更を加えられていく。次にその過程を、通常戦力バラ
ンス、戦略核バランス、米国による民主化支援策という観点から見てみたい。
2 その後の「冷戦講和」の行方とロシアの不満 (1)通常戦力バランス:NATO 拡大と CFE 条約
冷戦後の最も目立った動きが NATO の東方拡大であった。エリツィン政権
内の政治対立やその結果として起こった流血事件(1993 年の 10 月騒乱)、チェ
-8-
チェン分離主義への軍事的弾圧が中東欧諸国の不安を呼び、同諸国は NATO
加盟を希求するようになった。当初 NATO の主要加盟国は拡大に消極的であっ
たが、1996 年 10 月、クリントン米国大統領が国内政治的判断から拡大の早
期実現を決め、ポーランド、ハンガリー、チェコの加盟(第 1 次拡大)が現
実のものとなった。
当時、ロシアにはこれに反対する力はなく、1996 年 1 月に就任したプリマ
コフ外相は、拡大の見返りを求める条件闘争に徹した。その結果が、拡大を実
質的に決めた 1997 年 7 月のマドリード NATO 首脳会議での NATO ロシア最
終文書であった。それによって、今後 NATO とロシアの定期協議の場(常設
合同評議会)が作られ、「新規加盟国には核兵器は置かない」との約束がロシ
アに与えられた。しかし、通常戦力についてはあいまいだった。NATO は当面、
集団防衛等のミッションの遂行を「大規模な戦力をさらに常駐させる」よりも、
相互運用性や統合等を図ることで実現する、とされた 16。「大規模な」がどの
程度の規模を指すのかも不明であった。
こうなると東西ブロック別に配備可能兵器の上限を定めた CFE 条約は無意
味化したように思われた。これまでにも CFE 条約の下で、ロシアの不満を和
らげる措置は取られてきた。しかし、根本的な改訂が必要であった。この
CFE 改 定 交 渉 は 1997 年 1 月 か ら 開 始 さ れ、99 年 11 月、イ ス タ ン ブ ー ル
OSCE (欧州安全保障協力会議)首脳会議でようやく CFE 適合条約が調印さ
れた。この内容は従来の東西両ブロックごとの保有制限を、国別・領域別保有
制限に変更するというものである。
ところがイスタンブール宣言には、ロシアとグルジア、モルドワの間で決め
られた、駐留ロシア軍撤退の合意が記された。米国と NATO 加盟国は、この
合意は CFE 適合条約の批准の条件になるとして、ロシアがこの義務を果たさ
ない以上、批准はしないとの立場をとっている。この結果、CFE 適合条約は
現 在 で も 発 効 し て い な い。そ の た め、当 初 の CFE 条 約 に 未 加 盟 で、後 に
NATO 加盟国になったバルト諸国のような国に対する規制はないことになる。
その後も NATO の東方拡大は続いた。第 2 次拡大には残りの旧 WP 諸国に
-9-
加え、旧ソ連のバルト 3 国と旧ユーゴスラビアのスロベニア(計 7 か国)が
含まれていた。しかし、就任 1 年後のプーチン大統領は表立った反対の意向
を示さなかった。おそらく、プラグマティストのプーチンにとって、反対する
にはいまだ力不足との認識であったのであろう。しかし、9.11 同時多発テロ
事件以後、テロ発生の原因を民主主義の欠如と見て民主化支援を強めるブッシュ
政権は、さらに次の加盟候補国として、旧ソ連のウクライナ、グルジアに焦点
を定め、積極的に支援したのである。この点は後述する。
(2)戦略核バランス:ミサイル防衛と精密誘導兵器
米ロの戦略バランスに関しても、START Ⅰ、Ⅱ条約が調印されたころから、
その後の状況は大きく変わった。START 条約は 1972 年に調印した ABM 条
約以来、戦略防衛戦力(弾道ミサイル防衛)を強く抑制した上で戦略攻撃戦力
の均衡を図るという、戦略的安定に対する共通認識の上に成立していた。しか
し、冷戦後、米国には新たな脅威であるテロリズムへの不安が生まれていた。
2001 年 1 月に就任したブッシュ政権はミサイル防衛を開発・配備することを
課題とし、ABM 条約から脱退する意思を表明したのである。
同年 9 月の 9.11 米国同時多発テロ事件でアフガニスタンへの攻撃を考えて
いたブッシュ大統領に対し、プーチンはいち早く電話をかけ、対米支援を申し
出た。これにより米ロの関係は改善され、それまでの対立事項(ABM 条約、
NATO 拡大)での歩み寄りが期待された。しかし結局、米国は 01 年 12 月、
ABM 条約からの離脱を表明し、半年後の 02 年 6 月、正式に脱退した。米国
は 04 年アラスカに米国全体を防護する予定のミサイル防衛システムを初めて
配備した。その後、07 年 1 月には、米本土を守るミサイル防衛システムを欧
州に配備するためポーランドとチェコとの間で交渉を開始した。
プーチンの対米支援に対する見返りとして、戦略核戦力の配備削減を定めた
モスクワ条約(2002 年 5 月調印)、ロシアと NATO がより実質的な安全保障
討議をする場としての NATO- ロシア評議会 (NRC) の創設、ロシアの G7 参
加への承認(G8 とする)がもたらされた。しかし、ロシアからすればいずれ
-10-
も実質的な相互信頼の証とは言えなかった。むしろ、01 年のアフガニスタン
攻撃や 03 年のイラク戦争開始によって、米国のユニラテラリズムへの懸念が
増大した。同時に、イラク戦争は米国の精密誘導兵器の進展を目の当たりにす
る機会となった。こうした通常戦力もまた戦略的安定を損なうものだ、という
認識をロシアは深めていくことになる。 ブッシュ政権に代わったオバマ政権は核軍縮に力を入れ、ロシアの懸念を払
しょくし、対話を通した関係の改善を考えた。リセット政策である。この結果、
2010 年 4 月、オバマ、メドベージェフ両大統領の下で、新 START 条約が調
印された。これは 09 年 12 月に期限切れを迎えた START Ⅰの後継条約で、
ロシアにとっては検証可能な米ロ軍備管理レジームを再構築するものであるは
ずだった。
しかし、新 START 条約にも不満が残った。第 1 に、ロシアはミサイル防衛
への何らかの規制を要求し続けたが、米国にはそのつもりはなく、新条約はわ
ずかに前文が、戦略攻撃兵器と戦略防衛兵器の「両者には関連性がある」と触
れるにとどまった。第 2 に、新条約は配備できる核弾頭数と運搬手段の上限
を決めているだけで、核弾頭はもとより運搬手段の廃棄も義務付けていない。
運搬手段の生産が追い付かないロシアに比べて、米国は近代的なそれを一時非
配備に回しているだけだという不平等感が残った。さらに第 3 に、米国は通
常弾頭を戦略核運搬手段で運用する「通常兵器による迅速なグローバル打撃」
(CGPS) の開発を考えているが、これをロシアは極めて危険なものと考えて
いる。
(3)米国による民主化支援と国連軽視
以上、NATO は東方拡大し、対米戦略核バランスはロシアに不利に傾きつ
つある。そうした中で、ロシアが一貫して脅威と考えてきたことは、米国の「民
主化」支援策である。ロシアは冷戦終結後、米国や同盟国が自分たちの価値観
を世界に拡大するために、国連安保理決議を経ない国際法違反の武力行使を行っ
てきたと考えている。プーチンはクリミア編入を決めた日の演説で以下のよう
-11-
に言っている。
「彼らはまるで自分が正しいと思って行動している。そこここで、
主権国家に対して力を行使し、『我々につかない者は我々に敵対する者』とい
う原則で連合を作る。侵略に合法性を与えるために、国際組織から必要な決議
を得ようとするが、何らかの原因でこれが得られない場合には、まったく安保
理であれ、国連全体であれ無視をする」17。
ポスト冷戦期、その最初の事案が NATO によるボスニア空爆であった(1995
年)。ロシアは空爆に反対したが、国内の混乱期でもあり行動に出ることはなかっ
た。しかし、1999 年 3 月、コソボ紛争において、国連の委任をとることなく、
すなわち常任理事国であるロシアの反対を無視して NATO がユーゴ空爆に踏
み切った時には、ロシアは強い抗議行動を行った。
2003 年、イラク戦争の時には、ロシアは独仏と連携して米国の動きをけん
制した。このため、米国はイラク空爆のための安保理決議を採択させたかった
が、その見通しがつかず、新たな決議を得ることなく空爆に踏み切った。しか
し 5 月には早くも「大規模戦闘終結宣言」が出され、フセイン政権は崩壊した。
開戦後は、ロシアも米国との関係改善に動いたが、米国のユニラテラリズムの
前に、独仏との連携努力は徒労に終わったことになる。
また、2003 年末、グルジアの大統領選挙から始まった旧ソ連内の「カラー
革命」や 2010 年末からの「アラブの春」に関しても、プーチンはこれらをリ
ベラリズム拡大を目ざす米国によって操られ、利用されたものと考えている。
「こ
の事態が起こった諸国の人々が専制体制、貧困、展望の欠如によって疲れ果て
ていることはよくわかる。しかしこれらの感情はただシニカルに利用されたの
だ。これらの諸国には彼らの生活、伝統、文化の様式に全く対応していない規
範が押しつけられた。結果として民主主義や自由の代わりに、ケーオス、暴力
18
の激発、クーデターの列。
『アラブの春』は『アラブの冬』に入れ替わった」
。
2011 年 3 月、リビアの内戦の中で、国民保護の観点から飛行禁止区域設定
のための国連安保理決議案が採択にかけられた。メドベージェフ大統領の下、
ロシアは異例のことに棄権に回り、同決議案は採択された。しかし、この決議
によって、米 NATO は空爆を実施、一転、反政府側が有利となり、8 月、カ
-12-
ダフィ政権は倒れた。カダフィ自身は 10 月に殺害されている。これを見て当
時首相であったプーチンは、外交問題が大統領の専管事項であるにもかかわら
ず、「安保理決議が与えているのは一国による航空攻撃から市民を守る権利に
過ぎない。NATO が最後まで戦う、とはどういう意味なのか理解に苦しむ」19
と不快感をあらわにした。この直後、プーチンは翌年の大統領選挙に出馬する
ことを表明している。
以上、一連の事態を通して、ロシアに大きな不満が蓄積していったことがわ
かる。当初低姿勢に徹したロシアも国力を上げ、次第に態度を変えていく。次
に、ロシアがどのような対抗策を講じてきたかを見てみたい。
3 ロシアの対抗策
(1)権威主義体制の強化
不満の蓄積の結果、ロシアがどのような対抗策をとったかということ以前に、
まず注目しなければならないのは、ロシアの認識に起こった変化である。冷戦
終結時、世紀の戦略的撤退を行ったにもかかわらず、冷戦講和での合意事項は
守られなかった。2000 年代に向けて国民の間には反米感情が広がった 20。
その後、プーチンの下でロシア人は自尊心を回復しつつあった。そこに起き
たのが、カラー革命である。2003 年からはじまるカラー革命以降、その陰に
は西側の意図的な扇動があるとする「陰謀論」が政権の側から多く語られるよ
うになった。10 − 11 年の「アラブの春」や、11 年 12 月のロシア下院選挙後
に起きた大衆運動の高揚に呼応して、この傾向は一段と高まったのが観察され
ている 21。
陰謀論と同時に、国内では政治活動や報道の規制が強まった。2006 年 1 月、
「社会団体法」や「非営利団体法」の修正案が発効した。修正内容は、外国の
NGO を含む社会団体や非営利団体の登録手続きの厳正化や登録拒否の根拠の
明示などを含んでいた。これは外国の NGO の活動に警戒心を覚えたロシアが
対応に動いたものと考えられている。その後、2011 年の下院選挙後の 12 年 7
-13-
月には、「外国からの資金を得て政治活動を行う非営利団体に対する規制」の
強化が法制化されている。これら団体の登録手続きが煩瑣となり、会計監査が
義務付けられたのである。外国からの干渉に対する警戒心が一段と強まってい
ることが見て取れる。さらに 2012 年以降、反政府的活動への規制も強められ
ている。また、12 年 11 月にはインターネットへの規制が導入されたことが報
じられている。
同時に、ロシアではナショナリズムが強まり、プーチンもそれを意図的に鼓
舞することによって、国内の結束を固めようとしてきた。2013 年のプーチン
による大統領教書では伝統的価値が強調された 22。また、14 年以降のウクラ
イナ危機では「ノボロシア(新ロシア)」という言葉が広く認識されている。
この言葉は 18 世紀にロシア帝国が征服した黒海北岸地域、現在の南部ウクラ
イナを指す歴史的な地域名である。後述するように、東部ウクライナの 2 州(ド
ンバス)は独立を宣言した後、合併し「ノボロシア」共和国連邦の創設を宣言
している。その含意するところには「ロシアに加わるべき約束された土地」、
「ロ
シア自身の変革への期待」の双方があるといわれる 23。ロシア国内にはこうし
た意図からウクライナの親ロ派勢力への肩入れを強く訴える勢力がプーチン政
権内でも力を増しているのである 24。
このように、ロシアの側に次第に寛容さが失われ、それがまた西側の警戒感
をあおるという、相互不信の連鎖を生む土壌が生まれていると言える。
(2)ミュンヘン演説と軍改革
再びロシアの外交行動に目を戻したい。プーチンが初めて米国批判を行った
のは 2007 年 2 月、ミュンヘンの安全保障国際会議の壇上であった 25。プーチ
ンは演説で米国のユニラテラリズムを公然と批判した。米国のユニラテラリズ
ムの結果、国際政治における「限度のない軍事力の過剰使用」が行われ、しか
もそれが国連の委任を回避した形で行われるため国際法の基本原則がますます
軽視されていると主張した。また、軍備管理体制が規律性を失っているとして、
種々の例を挙げている。中でもミサイル防衛システムの欧州配備の動きに関し
-14-
ては、ロシアは不安を感じざるをせざるを得ないと述べ、また CFE 条約に関
しても、CFE 適合条約が発効しない中で、米国は「柔軟前線基地」26 をロシア
国境にまで伸ばし、ドイツ再統一時の約束が全く守られていないと述べた。
行動面でも、2007 年 7 月、ロシアは NATO 諸国が 3 か月以内に CFE 適合
条約の批准をしなければ、条約履行を停止すると発表し、結局、同年 12 月そ
れを実行に移してしまった。
プーチンはミュンヘンでの演説を一つの覚悟をもって行ったように見える。
経済成長を背とした自信の裏付けもあったのであろう。同会議とほぼ時を同じ
くして、生粋のシビリアンを国防相に任命して、停滞していた軍改革の加速化
に当たらせたのである。改革の要点はこれまでの大規模戦争対応型の師団ベー
スの軍隊を、機動力、戦闘力、自立性を高めた旅団ベースの常時即応戦力へと
転換しようとするものであった。要するに、現実に使える軍隊にするというこ
とである。実際、改革は次に述べるグルジア戦争で拍車がかけられ、その成果
はウクライナ危機で十二分に示されることになる。
同時に、装備の近代化にも力が入れられていった。2010 年末に承認された
「2011 年から 2020 年までの国家装備計画 (GPV-2020)」では 23 兆ルーブル
の支出が計画され、計画終了年までに全ロシア軍の装備の 70% を近代化する
ことが目標とされた。
国家装備計画の重点項目の一つは戦略抑止力の拡充である。プーチンは
2012 年初め、大統領選挙に向けた論文の中で次のように述べている。「世界経
済、その他の大変動が起こっている条件の下では、常に自己の問題を他者の犠
牲の上に、『力による圧力』をかけることによって解決しようという誘惑が起
こる」。「したがって我々はどのような条件下でも戦略的抑止の能力を拒否すべ
きではないし、むしろそれを強化するつもりだ。実際、戦略的抑止力は 90 年
代の難しい時期に、我々が国家主権を維持することを助けてくれた。率直に言っ
て、この時期それ以外の重みのある物質的な手段は我々にはなかったのだ」27。
(3)グルジア戦争と二分離主義地域の「独立」
-15-
NATO の東方拡大やカラー革命への反発についてはすでに述べた。2008 年
8 月のグルジア戦争はその延長線上にあるが、ロシアはこれまでとは明確に異
なる対応をした。
それより前、2008 年 2 月にコソボが独立宣言を行い、欧米主要国がその国
家承認をしていた。コソボでは、1990 年代末、セルビアがコソボの多数派住
民であるアルバニア系住民の抹殺ないし、国外追放という強硬規範違反を犯し、
救済の可能性がないとされる中、アルバニア系住民の意思で独立が目指された。
前述の 99 年の NATO 空爆後、欧州社会は NATO の平和維持部隊 KFOR を派
遣、長期にわたって国連の暫定行政下に置かれたコソボの自立を支援した。そ
の結果としての独立であった。しかし、実際には、コソボ内では逆にアルバニ
ア系住民のセルビア少数民族に対する国外追放などの人権侵害が行われていた
ことも知られている。ロシアはセルビアの意図を無視してコソボの独立を承認
した西側の行為を、国際法違反と見たのである。
同時期、ブッシュ政権は、グルジアとウクライナの NATO 加盟を強く支援
した。2008 年 4 月、ブカレストでの NATO 首脳会議で、グルジア、ウクライ
ナ両国について加盟行動プログラム(MAP)参加資格の有無を検討すること
になった。参加資格は実質上、NATO 加盟候補国の地位付与と同じであった。
プーチンは、これに反対する意向をブッシュに明確にしていた 28。結局、同首
脳会議では、独仏が反対に回り、同事案の検討は同年 12 月の外相会議に持ち
越されることになった。
しかし、ロシアは静観してはいなかった。グルジアとロシアの国境での小競
り合いはすでに 2006 年に一つのピークを迎えていた。それ以前から、ロシア
はグルジア内 2 分離主義地域(アプハジアと南オセチア)にロシアのパスポー
トを配るなどの「ロシア化工作」を実施していたが、これ以後、この動きを強
化し、またアプハジアには鉄道改修部隊と称して軍部隊の送り込みを行ってい
た。
初めに手を出したのはグルジア大統領サーカシュビリであった。2008 年 8
月 8 日の 0 時近く、戦闘が開始された。それまでの準備の結果、ロシアは迅
-16-
速に部隊を送り、南オセチア「侵攻」のグルジア軍を撃退し、さらにグルジア
領内に軍を進めた。グルジア北部の軍事施設を破壊して、再発の防止策を打っ
た。8 月 16 日、ロシアはサルコジ仏大統領の仲介で、和平 6 原則に調印し、
部隊の撤退を約束したが、完全な撤退を実行し始めたのは 9 月 8 日の事である。
さらに、その間、8 月 26 日、ロシアは両地域の独立を正式に承認した。その
上 で 9 月 17 日、両 国 と 友 好 協 力 相 互 援 助 条 約 を 締 結 し、両 地 域 に 正 規 軍
3800 人を配備することを決めている。
以上のように、グルジアに関しては、ロシアは明確にその NATO 加盟に同
意しないことを表明し、なおかつ、分離 2 地域については「不測の事態」に
備えていた。そして、いざその事態が起こるとこれまでとは異なる踏み込んだ
行動に出た。ここにあるのは、そちらがコソボでやるなら、こちらも同じこと
をやってどこが悪いという不寛容な論理である。その後、再編され、新たな装
備で補強された南方軍管区の各基地と 2 「共和国」との連携が図られ、「効果
的なグルジア抑止態勢」が取られている、と報じられている 29。
(4)ウクライナ政変とクリミアおよび東部ウクライナ(ドンバス)
次にウクライナの場合はどうであろうか。グルジアでは「予防工作」はして
いたとはいえ、あくまでも手を出したのはグルジア側として、ロシアは戦争初
期には「正当防衛」を主張することができた。しかし、ウクライナの場合、ク
リミアがウクライナ政府からの攻撃の危険にさらされていたわけでもなく、行
動を起こしたのもロシア側である 30。正当化の余地はない。ではなぜ、行動を
起こしたのか。
キエフでは、2014 年 2 月 18 日から 21 日にかけて、デモ隊が集まる独立広
場で警官隊との間に衝突が起こり、これが双方に 80 人以上の死亡者が出る凄
惨な流血事態となった。しかし、21 日、ドイツ、フランス、ポーランド 3 国
外相の仲介で、ヤヌコビッチ政権と反政府側の間には合意が成立していた。そ
の場にはプーチンの代理人として、人権コミッショナーのウラジーミル・ルキー
ンも立ち会った。合意の内容は、議会および大統領選挙の早期実施と、2004
-17-
年憲法の復活というもので、反政府側の要求どおりであった。にもかかわらず、
その翌日、にわかに反政府派の行動は過激化し、ヤヌコビッチが出奔して政権
は崩壊した。その上に、西側各国は即、新政府を承認した。これまで述べてき
た思考の枠組みから、ロシアがこれを西側の意図的な政権転覆の動きと見たと
しても不思議ではない。
クリミア編入 ( 併合 ) は、キエフでの「非合法」な政権交代が良しとされる
ならば、法的手続きよりも先手を打つ必要があると考えた結果とも推測できる。
反ロシア的なキエフの政権は EU、NATO 加盟を主張している。ウクライナの
完全な「喪失」は、ロシアにとってはまさしく「二重のレッドライン」であっ
たのであろう。プーチンはクリミア編入について、次のように述べている。
「ロ
シアはすでに後退できない崖っぷちにいた。もしばねが限界まで押し付けられ
れば、いつか強く跳ね返ってくる。このことを常に忘れるべきではない 31」。
すべてが即興的反応というわけではない。ロシアはクリミアでもやはり「ロ
シア化工作」を 2006 年から開始し、それは 08 年のグルジア戦争後、さらに
強化されていた 32。しかし、だからと言ってクリミアも計画的併合であったと
いうには無理がある。ロシアは西側の投資を呼び込んで近代化を進めていると
ころであり、軍改革も道半ばである。西とのもめごとは避けたかったはずであ
る。疑心暗鬼に陥ったロシアの予防策であり、これ以上の譲歩は絶対にしない
という自己主張であったと考える方が自然である。
それではドンバスでの、ロシアの行動をどう判断したらよいのだろうか。キ
エフ中央政府と親ロ派勢力との軍事紛争において、ロシアは当事者ではないと
言いながら、親ロ派勢力に資金や兵力を提供し続けている。しかし、ドンバス
の親ロ派勢力はロシアの傀儡勢力ではなく、むしろロシアの制止を振り切って
動いている。2014 年 4 月、キエフ政府が反政府勢力に対する「対テロ作戦」
を開始し、内戦状態になった。5 月 25 日にウクライナの大統領選挙が行われ
ることになったが、親ロ派勢力も 5 月初めに独立を問う住民投票を計画した。
しかし、プーチンはその直前に住民投票の延期を呼び掛け 33、選出されるウク
ライナ大統領とは対話をする姿勢を示していた 34。同時にウクライナ国境のロ
-18-
シア軍の一部も後退させていた。ところが、住民投票は実施され、翌日、ドネ
ツク人民共和国とルガンスク人民共和国は独立を宣言する。さらに両者は大統
領選挙前日に合併して「ノボロシア」人民共和国連邦形成を宣言している。こ
の後、内戦は泥沼状態となるが、もはやロシアもここから手を引くわけにはい
かなくなったと言える 35。当初、ロシアが望んでいたのは、親ロ派勢力の主張
が中央に反映されるようなウクライナの連邦化であったが、それ以上ではなかっ
た。
ドンバスでの戦闘が断続的に続く中、ウクライナを挟んで米国 NATO とロ
シアは、互いの部隊の「前進配備」 36 を強めている。ここでは不信が不信を呼
び、双方が完全な安全保障ジレンマに陥っている状態が見て取れるのである。
結論
ロシアはポスト冷戦体制に対する「修正主義者」なのであろうか。まず冒頭
で述べたように、ロシアにとって「冷戦講和」と「ポスト冷戦合意」とは異な
るということを確認する必要がある。冷戦講和は米ソが共通利害に基づいて確
立したものであるが、その後形成されたポスト冷戦合意は、西が一方的にルー
ルを押し付けたとロシアは考えている。ロシアの不満は、冷戦講和で確立した
軍事バランスが、ポスト冷戦合意の下、徐々に崩されていくことであった。し
かし、それだけではない。民主化を推進するために軍事力による他国の体制転
換をも容認する、あるいはカラー革命のように、大衆を「誘導」することによっ
て政権転覆を支援する「西側の政策」に強い脅威を感じているのだ 37。ロシア
は西側が国際法を無視して主権を侵害していると考え、その矛先がロシア自身
に向けられるかもしれないことを懸念している。
不満、不安を持つロシアはルキヤノフの言うように、ポスト冷戦合意のルー
ルの修正を要求している、と言える。脅威認識を高めたロシアは、グルジアと
ウクライナで、寛容さを失い強硬手段に出た。それは現状の破壊の試みではな
いが、単なる不満の表明でもない。「新世界秩序」の構築といった高邁なもの
ではないにせよ、少なくともこれ以上の軍事バランスの劣化や「内政干渉」を
-19-
峻拒する強い意思表明であったと考えられる。
確かにロシアにはポスト冷戦合意のルールを修正する力はなく、ルキヤノフ
の言うロシアの試みが失敗する可能性はむしろ高い。しかし、国際社会にとっ
て重要なのはロシアの意志の強さである。安全保障の面で追い詰められれば、
ロシアは政治、経済的コストを顧みず強く反発する傾向がある。そして、これ
がまた西側の離反と対決姿勢を生んでいくのである。まさしく、ソ連の大胆な
行動から信頼が信頼を生んでいった冷戦講和と真逆の動きである。その間、国
際社会は米ロ協力という軍拡や、WMD 拡散、テロの拡大を抑える一つの重要
なすべを失うということになる。冷戦講和を導いた先人の知恵が今再び求めら
れているのだと思われる。
注
“Vladimir Putin’s interview with Radio Europe 1 and TF1 TV channel ,”
President of Russia, June 4, 2014, http://eng.kremlin.ru/transcripts/22441.
2
Walter Russell Mead, “The Return of Geopolitics,” Foreign Affairs ,Vol.93, Issue 3,
May 2014.
3
Ibid. ちなみにポスト冷戦合意は、中東では「米国と同盟するスンニ・パワー(サ
ウジアラビア、湾岸諸国、エジプト、トルコ)の支配と、イラン、イラクのダブル
封じ込め」を、またアジアでは、「米国による圧倒的支配を意味し、それは日本、韓
国、オーストラリア、インドネシア、その他の同盟国との一連の安保関係に組み込
まれたもの」としている。
4
G. John Ikenberry, “The Illusion of Geopolitics; the Enduring Power of the
Liberal Order,” Foreign Affairs, Vol.93, Issue 3, May 2014; G. John Ikenberry ,
After Victory , Prinston University Press, Prinston, May 2001.
5
Fyodor Lukyanov, “Perestroika - 2014,” Gazeta.ru. , March 16, 2014. 英 語 版 は 若
干 表 現 が 異 な る が、以 下 の 通 り。Fyodor Lukyanov, “Why Moscow is being so
decisive over Ukraine,” Russia Beyond The Headlines, March 21, 2014,
http://rbth.co.uk/opinion/2014/03/21/why_moscow_is_being_so_decisive_over_
ukraine_35273.htm. これはプーチン自身の説でもある。プーチンは繰り返し、「冷
戦は、講和条約調印なしに終結したため、勝者を任じる米国が、従来の国際秩序維
持のメカニズムを軽視し、世界を勝手に作り換えようとしている」との主旨の発言
を し て い る。”Meeting of the valdai International Discussion Club,” October 24,
2014,
http://en.kremlin.ru/events/president/news/46860.
6
Fyodor Lukyanov, “Perestroika – 2014.”
1
-20-
Ibid.
本稿でいう「講和」 settlement とは戦争の交戦国間が戦争を終結させ、平和を回復
するための合意、という意味である。
9
Daniel Deudney and G. John Ikenberry, “The Unravelling of the Cold War
Settlement,” Survival, December 2009-January 2010. 著者たちは米国はリベラリ
ズム拡大という大戦略のためにも、冷戦講和の論理に戻るべきだと主張している。
関連して、リアリストの立場から、冷戦後のロシアの安全保障上の懸念とウクライ
ナ 危 機 を 論 じ た 論 考 と し て は、以 下 を 参 照。Dimitri K. Simes, "How Obama Is
Driving Russia and China Together," The National Interest ; July-Augut 2014;
John J. Mearsheimer, “Why the Ukraine Crisis Is the West’s Fault,” Foreign
Affairs, Vol. 93, Issue 5, Sept/Oct. 2014.
10
Pavel Podvig, “Shooting down the Star Wars myth,” Bulletin of the Atmic
Scientists, April 2, 2013, http://thebulletin.org/shooting-down-star-wars-myth.
11
ゴルバチョフの決断の背景にはヤコブレフ書記のメモがあったとされる。このメモ
でヤコブレフは、INF と SDI を切り離すことで、むしろ交渉を遅らせているのは米
国の方だということを白日の下にさらすことで交渉を促進できると進言した。
Alexander Yokovlev, Memorandum for Gorbachev, “To the Analysis of the Fact of
the Visit of Prominent American Political Leaders to the USSR (Kissinger,
Vance, Kirkpatrick, Brown, and others), circa December 1986 [Excerpt]”, The
National Security Archive, George Washington University, October 26, 2005,
http://www2.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB168/yakovlev03.pdf.
12
Nikolai Sokov, Russian Strategic Modernization: The Past and Future, Rowman
& Littlefield Publishers, INC., 2000, p.37
13
ゴルバチョフの政治権力は、1989 年以降、国内消費「市場」の混乱と、新議会の開
設によって、低下していくことになる。
14
エフゲーニー・プリマコフ著、鈴木康雄訳『クレムリンの 5000 日』、NTT 出版、
2002 年。
15
David E. Hoffman, The Dead Hand, Anchor Books, New York, 2009, pp.367-368.
ソ連の SDI に対する対応策には 2 通りあった。SDI と同じ様なものを作る「対称対
応」的なものと、攻撃兵器の強化等で SDI を無力化しようとする相対的に安価な「非
対称対応」である。ホフマンによれば、どちらをとっても、軍拡競争に陥る危険があっ
た。しかし、ホフマンは当時の軍需開発担当者の残した文書(カターエフ文書)を使っ
てゴルバチョフがどちらに対しても抑制的であったと主張している。
16
Founding Act on Mutual Relations, Cooperation and Security Between NATO
and The Russian Federation, May 27, 1997, http://www.nato-russia-council.info/
media/59451/1997_nato_russia_founding_act.pdf.
17
“Address by President of the Russian Federation,” President of Russia, March 18,
2014, http://eng.kremlin.ru/transcripts/6889.
18
Ibid.
19
これは 2011 年 8 月 1 日、セリゲル湖で開催された青年組織「ナーシ」のキャンプ
を訪問し、その際、屋外で行われたミーティングでの発言である。“Prime Minister
Vladimir Putin visits booths and speaks with participants at the Seliger-2011
International Youth Forum,” Archive of the Official Site of the 2008-2012 Prime
Minister of the Russian Federation Vladimir Putin, August 1, 2011, http://
archive.premier.gov.ru/eng/events/news/16079/
7
8
-21-
Eduard Ponarin, “Russia’s Elite: What They Think of the United States and
Why,” PONARS Eurasia Policy Memo , No.273, August 2013.
21
Serghei Golunov, “ The ‘Hidden Hand’ of External Enemies, the Use of Conspiracy
Theories By Putin’s Regime,” PONARS Eurasia Policy Memo , No192, June 2012.
22
“Presidential Address to the Federal assembly,” December 12, 2013, http://
en.kremlin.ru/events/president/news/19825.
23
Marlene Laruell, “ Novorossiya: A Launching Pad for Russian Nationalists,”
PONARS Eurasia Policy Memo , No.357, September 2014.
24
このノボロシアを支持する者には諸派あるが、そのうち最も目立つ存在がアレクサ
ンドル・プロハーノフと彼の愛国的なシンクタンクであるイズボルスキー・クラブ
である。これはドンバスの親ロシア派と強いコネクションを持っている。他方、プー
チン政権で最もナショナリズムを強調する発言を続けているのが、2011 年 12 月に
軍需産業担当の副首相に任命されたドミトリー・ロゴージンであるが、彼はこのイ
ズ ボ ル ス キ ー・ ク ラ ブ の 創 立 メ ン バ ー の 一 人 と 言 わ れ て い る。Marius
Laurinavicius, “Dmitry Rogozin’s clan:Visionaries and executors behind
aggression towards Ukraine,” DELFI Zinios,
http://en.delfi.lt/archive/print.php?id=65585356 参照。
25
“Speech and the Following Discussion at the Munich Conference on Security
Policy,” President of Russia, February 10, 2007, http://eng.kremlin.ru/
transcripts/8498
26
柔軟前線基地とは、米国がルーマニアとブルガリアとの間で、それぞれ、2005 年、
06 年から進めていた小規模の米軍部隊の派遣、訓練、共同演習のプログラムのこと
を指していると思われる。
27
Article by Prime Minister Vladimir Putin in Rossiiskaya Gazeta,” Archive of the
Official Site of the 2008-2012 Prime Minister of the Russian Federation Vladimir
Putin, February 20, 2012, http://archive.premier.gov.ru/eng/events/news/18185/
28
“Press Conference following Russian-U.S. Talks ,” President of Russia, April 6,
2008, http://eng.kremlin.ru/transcripts/9515
29
Anton Lavrov,”Post-war Deployment of Russian Forces in Abkhazia and South
Ossetia, “ Ruslan Pukhov ed., the Tanks of August, CAST, Moscow, 2010.
30
クリミア「編入」1 年後の 2015 年 3 月 16 日に放送されたドキュメント・フィルム「ク
リミア、祖国への道」中でプーチンはインタビューに答えて、クリミア「編入」の
動きを始めたのは、ウクライナ政変後、ビクトル・ヤヌコヴィッチ元大統領救出作
戦 を 終 え て す ぐ の こ と で あ っ た と 告 白 し た。Stanislav Mnin, “ Putin postavil
pered Zapadom vopros o doverii,” Nezavisimaya Gazeta, March 17, 2015.
31
“Address by President of the Russian Federation,” President of Russia, March 18,
2014, http://eng.kremlin.ru/transcripts/6889
32
Lada L. Roslysky, “Russia’s smart power in Crimea: sowing the seeds of trust”
Southeast European and Black Sea Studies, Vol. 11, No.3, 2011.
33
“Press statements and replies to journalists’ questions,” May 7,2014,
http://en.kremlin.ru/events/president/transcripts/20973
34
“St Petersburg International Economic Forum,” May 23, 2014,
http://en.kremlin.ru/events/president/news/21080
35
以下を参照。松里公孝「史上最大の非承認国家は生き残るか-『ドネツク人民共和国』」
『 kotoba 』 第 8 号、2015; Mikhail Barabanov, “Testing a ‘New Look’: Ukrainian
20
-22-
36
37
Conflict and Military Reform in Russia, “ Russia in Global Affairs , No.4, 2014,
http://eng.globalaffairs.ru/number/Testing-a-New-Look-17213
2014 年 9 月に英国ウェールズで開催された NATO 首脳会議決議で、NATO は即応
性行動計画 (NATO Readiness Action Plan) を採択した。迅速に配備可能な初動対
処部隊を新設するほか、ポーランドやバルト諸国のような東部加盟国に NATO の司
令部を常設し、装備の集積、部隊の派遣、演習の実施を想定している。他方、ロシ
アも西方軍管区の強化を図るほか、抜き打ち演習と称して、ウクライナ国境地帯へ
の部隊配備を行っている。さらにアプハジア軍との統合も進めている。
この点は 2014 年 12 月に承認された新軍事ドクトリンに新たに付加されている。
” Vo e n n a y a D o k t r i n a R o s s i i s k o i F e d e r a t s i i , ” h t t p : / / w w w. s c r f . g o v. r u /
documents/18/129.html
-23-