第23号 デジタル・ネイティブと国語力

デジタル・ネイティブと国語力
私たちの目の前にいる子どもたちのことを“デジタル・
a
ネイティブ”と呼ぶらしい。
敗戦の後、瓦礫の山から立ち上がり、わずか5~60年
で世界をリードする情報化の先進社会にまで変身させた日
本。携帯電話が普及率80%を超えたのは平成12年。一
昔前には、その姿さえ見ることのなかったパソコンやイン
ターネットは、平成14年に国民の80%にまで普及した
のである。
計算してみると、その頃に産まれた子どもは今年15歳
である。つまり、義務教育を担っている私たちが対象にし
ている子ども達は全て、生まれながらにしてパソコンや携
帯電話、インターネットの世界で生活してきたといえるのである。
一方、その子たちを教育している保護者や先生方はどうであろうか。国産第 1 号の白黒テレビ
が発売されたのは昭和28年1月。カラーテレビが国民の90%まで普及したのが昭和50年。
その時代を生きてきたのが、私たち大人の世代である。
この先、情報の世界がどういう姿に変身し続けていくのか想像もつかないが、少なくても、今、
私たちの世代がこうした世界に生きてきた子ども達と対峙する時には、私たちの経験と違う世界
を子ども達が生きてきたという視点を忘れてはならない。もう少し大袈裟に言えば、私たちの目
の前にいる子ども達は、私たちの持つ経験だけでは測ることの出来ない思考形態、価値観を持っ
ている私達とは違った人間なのである。
現在、双方向のデジタルテレビが開発され普及し始めているが、テレビを例に世代間の違いを
考えてみよう。
人はテレビの画面に反応する。しかし、その視聴者に対してテレビが反応するということはな
い。つまり、テレビ普及時代を生きてきた私たちは、一方通行の特徴を持つ環境の中でメディア
からの情報の一部を生活に組み入れてきた世代とも言える。
一方、デジタル・ネイティブの子どもたちは、双方向の環境、しかも、相手に関係なく会話を
投げかけることの出来る環境の中で生活してきたと言える。
一般的に、昭和60年を”情報教育元年”と位置づけているが、毎日の生活の中にあるメディ
アと人との関係によって、人間の価値観や思考が大きく影響されているという視点を持っておく
ことが重要であろう。
平成22年10月、文科省は新指導要領に対応させるために”教育の情報化に関する手引き”
を作成し、全国に発信した。今後の情報教育、教科指導におけるICT活用や教員の指導力向上、
校務の情報化や情報モラル教育のあり方、ICT環境整備等、情報社会の進展に沿う形で、情報
教育の充実を図ろうとしたのである。
しかし一方で、国語、日本語教育の重要性を訴え続けている文化庁は、
”国語”という永遠に変
化し続ける生き物が、私たちのアイデンティティの確立に極めて重要であるところから、幼少期
から”読み・書き・話す”活動を徹底させることの動きを強めている。
確かに、デジタル社会における教育のあり方を考えると、この世界は、私たちを取り巻く環境
がスピーディーに変わり続けるという特質があり、人間の営みにとって大切な“創造力”が入り
込む余地がなくなるという欠点を持っているといえる。
生命を維持している呼吸と同じ様に、子ども達との人間関係の中で営まれる授業を進めていく
時に大切にしなければならないものに、
“間”というものがある。子ども達の思考を深めるために
は、デジタル社会にはない“間”がとても必要になるわけである。
さらに、全国的に“読書離れ”が叫ばれる中、河内長野の子ども達の読書活動は盛んに行われ
ているが、この世界も、情報の流れの外に位置し、知識や感性を豊かに膨らませるアナログの世
界なのである。
日本語能力が完全に身についていない子どもにパソコンを使わせることに、皮肉にも、同じ大
臣の下で牽制を加えているのである。確かに、情報教育、特に“ICT活用”と“国語力向上”
との間で、真剣な議論が必要な時期に入っていると言える。
現在の日本社会は、戦後教育の成果として多様な価値観が混在している。そうした中、充実し
た人生を送るためには、その関係において“快適なキョリ感”を保って生きていくことが必要と
なる。
一昔前、自分を押し殺して他の価値観を受け入れようとすることを美徳とした日本人特有の和
の精神を象徴する“協調性”
。しかし、現在、この姿勢だけで未来のグローバル化した社会を生き
ていけないのかもしれない。つまり、これからの社会で求められる資質は、
“協調性”とともに“社
会性”であり、さらに、自らの思いをそれぞれの言葉で説明する“表現力”であろう。
こうした社会背景を考えれば、“ICT教育”か“国語力向上”かと言った二者選択の議論では
なく、“情報活用”と“読み・書き・話す活動”を、いかにバランスよく互いを補完させながら組
み立てていくかが重要になるであろう。
つまり、外部からの情報の中で必要なものを、個人のレベルで正確に取り出し、記録し、そし
て、その情報に自分の考えを投影して解釈を加え、評価する。さらに、自分のまな板で料理した
情報を、他者との討論等によって一層精査を行い、深めていくという一連の言語活動を重視し、
その思考の流れの折々に、適宜、ICTを活用することが必要であると思う。
ICT等、情報交換の手段の多様化は、前述したように、人間の思考形態に大きく影響を与え
るものである。この警鐘を踏まえて、私たちは、公教育を早急に組織化、系統化しなければなら
ない。さもなければ、感覚的に物事を判断、評価する、いわゆる“感覚人間”を大量に社会に排
出してしまうことになる。
技術開発の中で生み出された“IT”が、いつしか“ICT”と言う呼称に変わった意義を、
この時代を担う私たちは考えなければならない。
文字と文字、行と行、行間や字間に影を潜めている豊かさを子ども達の意識の上に顕在化させ
ていく国語教育。その質を一層高めるツールとして、先進技術を使いこなす力量を私たちは高め
ていかなければならない時期である。