今年は終戦 年を迎え、各地で戦争と平和に関するイ 日深夜から 万 が低空から豊橋 千戸(全体の約 %)、被 時間の攻撃で市街地のほとんどを 日の未明にかけて、136機の米軍機B 豊川海軍工廠と被爆について 千 百名が働いており、その中には 千人の動員学 豊川海軍工廠は当時の宝飯郡豊川町、牛久保町、八幡村にまたがる約330ヘクタール 万 4 6 の敷地にあり、機銃、弾丸、信管などの製造を行っていた。 東洋一の規模といわれ、当時 6 宝飯郡)、豊橋中学校(時習館高校)、豊橋第二中 月 日午前 時 分、米軍のB 爆 学校(豊橋東高校)などからも多くの生徒が学徒 年 千 百人以上の人が亡くなった。 平和の像 (豊川公園) 徒がいた。豊橋からも多くの人が勤めており、前芝国民学校高等科(前芝中学校、当時は 5 13 29 戦闘機四五機が工廠を爆撃。 10 動員で働いていた。 昭和 撃機124機、P 7 51 8 分の間に3256発の爆弾が落とされ工廠は壊 滅。 ※上の絵画は豊川市桜ヶ丘ミュージアムより提供 ベントが催されています。しかし戦争を経験した世代の 方は年々少なくなっており、戦争の悲惨さ、平和の大切 さを次世代に継承していくことが大きな課題となってい ます。 年前、この日本で何があったのか。被害状況などの 戦争の「記録」を伝えることは比較的容易ですが、平和 の意味を考える上で伝えなければいけない戦争の 「記憶」 とよかわかい を経験したことがない人に伝えるのは難しいことです。 今回はこの東三河で起こった「豊橋空襲」と「豊川海 ぐんこうしょう 月 20 軍工 廠 被爆」の被災者の「記憶」の手記を掲載します。 年 豊橋空襲について 昭和 焼夷弾約 を爆撃した。 19 千発、九四六トンを投下し、およそ 万 5 一晩で豊橋は焼け野原となり死者624人、焼失家屋 破壊した。 29 70 6 1 災者は 万人に及んだ。さらに被災者収容施設から「赤痢」が発生し、385人の二次 戦災死者がでた。 70 20 7 20 2 5 平和の女神像(神明公園隣接地) 3 7 2 1 70 26 豊橋空襲 歳・植田町) 年 月より動員学徒とし 年、私は豊橋第二中学校の ( 【浦川俊夫さんの体験】 昭和 生でした。前年の 日の夜は工廠 歳) 工廠でも空襲にあい、そこでも九 死に一生を得ました。 【ある女性の体験】 ( 歳) の 当時、私は女学校の教師をして いた姉と女学校一年生( 日の夜、姉は豊川海軍 から帰ってきて、すでに寝ていました。 した。そのころは、空襲が来たら した。私は、妹と床に入っていま 工廠へ生徒と共に動員中で留守で 月 妹の三人で旭町に暮らしていまし 隣の家の人の「豊橋が燃えとる!」とい すぐ逃げ出せるように大事な物を た。 う声で起き、外に出ると駅の方が真っ赤 袋に入れて枕元に置き、洋服を着 月 て豊川海軍工廠で働き、豊川と植田を往 に燃えていました。すると隣の家の納屋 件の家が燃え、植田 さの大きなものでした。植田には何発も の人が逃げています。どこに行くのか分 妹と逃げました。市電通りに出ると大勢 で荷物を持ち、首から位牌をぶら下げて ろ!」と叫ぶ声で目が覚めました。急い 夜半過ぎに誰かの「空襲だ!早く逃げ をくれました。安 大豆の入ったご飯 さい」と言われて、 少し休んでゆきな まだ火の海だから メートルの長 4 ったので小池まで歩きました。市街地は うと思いましたが渥美線も止まってしま が明けてきました。朝になり工廠に行こ た。そうしている間に空襲も終わり、夜 る納屋はバケツリレーで必死に消しまし 引っ張って牛舎を倒しました。燃えてい ことになり、急いで柱を切り綱を掛け、 は牛舎があって燃え移る前に牛舎を壊す た荷物が重くなり、捨てました。その時は、 と言いました。途中、着替えなどが入っ れるか分からないから死ぬ覚悟で行くよ」 な かったことでしょう。妹に「いつ撃た す。機銃掃射をされれば、ひとたまりも 頭の上をサーと低空で通り過ぎて行きま た。逃げる最中、何度も米軍の飛行機が れ に あ わ せ、 市 電 通 り を 東 へ 逃 げ ま し か り ま せ ん で し た が、 私 た ち は 人 の 流 覚えていません。両親に早く会いたい、 の豊橋の街の中を歩いたはずですが何も の外れの実家まで歩きました。焼け野原 でいた家の周りはすべてなくなり、豊橋 来た姉の呼ぶ声で目が覚めました。住ん まい、翌朝迎えに の間にか眠ってし 心したのか、いつ できませんでした。 報の明け暮れで行けず、お礼を言う事が 岩寺に行こうとしましたが、毎日空襲警 後日、将校さんにお礼を言いたくて赤 それだけを思いながら歩きました。 何もなくなり、小池からすぐ目の前に豊 東雲を過ぎると畑と田んぼしかない一 芝 国 民 学 校から 人と共に工廠に動 員さ しお の ゆう き (塩野和彦さんの孫娘中学 年) 年 月、 高 等 科(今 の 中 学 年)だった祖父は、学校が授業停止にな 昭和 ゆう き その時の体験をお孫さんの裕貴さんが聞い 【戦争が残した傷跡】 塩野裕貴 てまとめた作文を紹介します。 本道でした。着いた場所は多米の赤岩寺 豊川海軍工廠 焼け残った壁に真っ赤になった骨が張り れました。そして 月 日の爆撃で 人が 10 犠牲になり、 和彦さんは重傷を負いました。 8 34 ※このページの写真は豊橋市中央図書館より提供 1 3 東 京 都 大田区 在 住の塩 野 和 彦さんは前 付いている光景が今でも瞼に焼き付いて でした。お寺には兵隊たちが駐屯してお 人だけ で い る の が 可 哀 想 に 見 え た の か、「街 は 3 7 せきがん じ います。駅舎も燃えて飯田線も動いてお り、 そ の 中 の 将 校 さ ん が、 娘 か月もしないうちに豊川海軍 2 まぶた らず、また植田まで歩いて帰りました。 それから 20 しののめ もったいないとか全く思いませんでした。 東雲通り。止まったままの市電が見える。 ただ、死にたくない、その一心でした。 札木町付近。残っている建物は電話局(現・NTT) 川が見えました。黒く焦げた死体がたく 2 さん転がっており、吹き飛ばされたのか、 の焼夷弾が落ちて 燃えている納屋と自分の家の門の間に 札木町付近。遠くに見えるのは「額ビル」 (現・カリオンビル) 駅の近くの育清院の本堂も燃えました。 を襲った焼夷弾とは違い に焼夷弾が落ちて、あっという間に火の 復する毎日でした。 91 13 2 83 19 たまま寝ていました。 19 9 6 海となりました。落ちた焼夷弾は市街地 6 20 2 4 特集 すが、両脇側を弾丸が通っていくのが分 ます。機銃掃射です。祖父は伏せたので 同級生 人中 たので助かったのだと思ったそうです。 人行方不明。その行方不 り、豊川海軍工廠へ学徒動員されました。 明 人の中で唯一助かったのが祖父だっ か、西門から海軍工廠の外に出ました。 まってしまったり、爆弾の破片などを受 近くにありましたが、崩れた防空壕で埋 あの空襲で入った防空壕は海軍工廠の たのです。 門を出た辺りの、背がやっと立つ水路に けて何千人も亡くなってしまったそうで そして、走って逃げているうちに何と かり、とても怖かったそうです。 祖父は明かりを採るためにガラス張りに された信管工場で、出た鉄のくずを大八 飛び込みました。用水路には水が流れて 車で運ぶ仕事をしていました。 いるはずだというのに、それは赤色に染 す。祖父のいとこであり、祖母の叔母は、 時頃、工場の の防空壕へ入ったらすぐ爆弾が落ちまし その亡くなった人を乗せたリヤカーを見 手の甲と右のひたいに当たりました。倒 が落ち、そのはぜた爆弾の破片が祖父の 逃げました。その時でした。近くに爆弾 学校に運ばれ、応急手当てを受けました。 れました。緊急救護室である国府高等女 運んでもらい、トラックの下の段に積ま ったそうですが、トラックが来て担架で その後どれくらいたったか記憶はなか たところで 近くまで来 れて前芝の なった頃退院し、母のリヤカーに乗せら 祖父はあの大怪我が治り、外が静かに がやって来ました。急いで近く た。工場のガラスが防空壕の中まで入っ まり血が流れているのでした。それでも たそうです。上にはむしろをかぶせてい れた祖父を見て、徳夫さんは「かこちゃ 麻酔なしで左手を縫われたそうで意識が ラジオ放送 上にB てきたので、防空壕から出てみんな散り 祖父は水路にすくみ、やっと空襲警報が ん。かこちゃん」と何回も呼んだのです 朦朧としていたため、痛さは覚えていな らしている足も見えたそうです。 が、反応がないのでこれ以上立ち止まっ いが、当時を思い出すと身の毛がよだつ もうろう 徳夫さんが「かこちゃんは死んでしま が流れまし す。 月 た。終戦で と祖父は語ってくれました。 家では祖父のお骨を拾う準備をしていた 海軍は工廠の中に入らせてくれません 日でした。 でした。家族は村会議員だった人に許可 「やっと終 そうですが、その時祖父は生きていたの 日後、 をもらって祖父の遺体を探しに行ったが、 学校から連絡があり、祖父が国府高等女 祖父はホッ わった」と 見つかりませんでした。しかし、 学校に収容されていることがやっと分か です。 としたそう るのが何となく聞こえ、何とか立ち上が あ の 時、 「か こ ちゃん」 と 呼 ば れ て い です。 15 った」と言って場所を伝えてくれました。 ていると危険だと思い、逃げたそうです。 たが、それがひらひらしていて、ぶらぶ 解除され用水路から出たのです。 日午前 11 散りに逃げ出してしまいました。その中 月 32 で、祖父は友達の杉浦徳夫さんと二人で 同じ年の 11 8 り頭を左手で、右手で左手を押さえて、 3 徳夫さんが来て「やい」と呼んでくれ 5 10 りました。 かんさい き ※【十三歳のあなたへ 一九四五・八・七「豊川海軍工廠」の悲劇】牧平興治・編より抜粋 このページの絵画、 写真は豊川市桜ヶ丘ミュージアムより提供 7 血だらけになりながら走って逃げました。 空襲後の豊川海軍工廠(正門付近) 8 だが、艦載機が機関銃で狙って撃ってき 破壊された工場 29
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