WIJC151122感謝祭「10人癒されたのでは」

2015 年 11 月 22 日
聖書:ルカによる福音書
聖書:ルカによる福音書 17 章 11-
11-19 節 タイトル:癒されたのは
タイトル:癒されたのは 10 人では?
序 論
●今週は、クリスマス、イースターと並んで、アメリカの
クリスマス、イースターと並んで、アメリカの最大行事
アメリカの最大行事の一つ
最大行事の一つ、
の一つ、「感謝祭」を祝
「感謝祭」を祝う週である。
●「感謝祭」
感謝祭」、即ち、「
、即ち、「Thanksgiving Day」
Day」の前後は、アメリカで最も人々が移動するとき、旅行者
の前後は、アメリカで最も人々が移動するとき、旅行者
が多いときと言われる。主には、家族に、友人たちに会い、共に楽しいときを過ごすためであるが、
が多いときと言われる。主には、家族に、友人たちに会い、共に楽しいときを過ごすためであるが、
その数は 4300 万人以上になると言われる
以上になると言われる。
と言われる。
●しかし、この米
しかし、この米国で「一体、この日が
国で「一体、この日がなぜ国民的な休日として祝
「一体、この日がなぜ国民的な休日として祝われるようになったのか」「なぜ『感
なぜ国民的な休日として祝われるようになったのか」「なぜ『感
謝祭』と呼ばれるのか」などということを考える人は、どんどん少なくなっているように
謝祭』と呼ばれるのか」などということを考える人は、どんどん少なくなっているように思われる。
どんどん少なくなっているように思われる。
●先日も「感謝祭」の日にアメリカの人々は何をするのかということを、短期の予定で日本から来ている
方に話していたら、「まるで日本のお盆みたいですね」と言われた。「親戚が、知り合いが、集まる
時」という意味でいうなら、正にそのとおりである。
●しかし、この「感謝祭」の
しかし、この「感謝祭」の最近の
この「感謝祭」の最近のもう一つのイメージは、
最近のもう一つのイメージは、「ショッピング・デー」としてのイメージ
もう一つのイメージは、「ショッピング・デー」としてのイメージ
である。即ち、
である。即ち、「サンクス・ギビング・デー」そのものの
「サンクス・ギビング・デー」そのもののことより
Friday」、更に
即ち、「サンクス・ギビング・デー」そのもののことより、その翌日の「
ことより、その翌日の「Black
、その翌日の「Black Friday」
は、「Grey
は、「Grey Thursday」と呼ばれる
Thursday」と呼ばれる、正にクリスマス(ホリデー)ショッピングの
」と呼ばれる、正にクリスマス(ホリデー)ショッピングの「始まり」
、正にクリスマス(ホリデー)ショッピングの「始まり」を告
「始まり」を告
げる「
げる「大安売り」
大安売り」、「大特売」
大特売」の方に人々の関心が移っているように見える。
●今や、米国の「感謝祭」は、その名前の意味するところを、
今や、米国の「感謝祭」は、その名前の意味するところを、遠い昔のこととして歴史の中に葬り去ら
遠い昔のこととして歴史の中に葬り去ら
れよとしていると言って
れよとしていると言っても過言ではない
も過言ではない。
。
と言っても過言ではない
●最近も、パリでのテロ事件への対応として「移民者」をどのように扱うかの問題に対して、オバマ大
統領は、米国
統領は、米国の歴史的な基本精神を「移民の国」として再強調した。
米国の歴史的な基本精神を「移民の国」として再強調した。確かにそ
の歴史的な基本精神を「移民の国」として再強調した。確かにそうである。
確かにそうである。
●しかし、この「
しかし、この「感謝祭」
感謝祭」を歴史的に見ると
祭」を歴史的に見るとき
を歴史的に見るとき、米国建国の精神の土台は、その「移民」の背後にある
その「移民」の背後にある
理由と目的の中にあること
理由と目的の中にあることをもっと強調しなければならない
をもっと強調しなければならない。
。
即ち、米国建国の精神的土台は、
即ち、米国建国の精神的土台は
、「移
の中にあることをもっと強調しなければならない
民」問題ではなく、ピルグリム(清教徒)を中心とする
民」問題ではなく、ピルグリム(清教徒)を中心とする人々の
ピルグリム(清教徒)を中心とする人々の「信仰的自由」への希求であった。
●さて、ここで
さて、ここでもう一度、簡単に
ここでもう一度、簡単に「感謝祭」の歴史的背景を復習したい。
(1)1620
(1)1620 年の秋、
の秋、102名ほどのピルグリム・ファーザーズと呼ばれ清教徒たちが
102名ほどのピルグリム・ファーザーズと呼ばれ清教徒たちが、
2名ほどのピルグリム・ファーザーズと呼ばれ清教徒たちが、信仰の自由を求
めて、英国からメイフラワー号に乗って 66 日間の厳しい航海の後、マサ
の後、マサチューセッツ州に到着。
(全長 30m 前後、幅 7-8m、180 トン?)
(2)しかし、その年の
(2)しかし、その年の冬は、殊のほか厳しかった。気候の厳しさに加えて、食料不足も重なり、一年後
の秋には、生き残った人々は約半数の 50 数名だった。
(3)しかし、その
(3)しかし、その間、その地域のインディアンたち
アンたちが、
たちが、彼らを恐れながらも、移住者たちの惨状を見か
ねて、作物の作り方を教えるなど、様々な親
々な親切な助けをしたとのこと。
(4) ピルグリム・ファーザーズたちは、移住一周年を迎えた翌年の秋、
えた翌年の秋、様々な悲しみと
しみと苦渋の中にも、
一年間、神様に守られたこと、頂いた祝福を神
いた祝福を神様に感謝するときを計画した。
した。
(5)そのとき、その一年の
(5)そのとき、その一年の間、何くれとなく助けてくれたインディアンたちにも感謝を表すため、彼ら
をも招いて、ささやかながら精一
いて、ささやかながら精一杯の食事の席を設けて、彼らとともに祝ったのが、
らとともに祝ったのが、現在の「感
謝祭」
謝祭」の始まりだと言われている。
●私たちがアズベリー大学、アズベリー神学校というケンタッキーにある二つの学校での学びを終えて、
えて、
次の学びのために NJ のプリンストンに移っ
リンストンに移った。そこでの
た。そこでの最
最
初
の
「
感謝祭」
感謝祭
」
を
迎
えたとき、アズ
えたとき、
アズ
ベ
リ
に移った。そこでの
ー神学校時代同級であった NJ 出身のひとりの友人家族の家に招かれた。実は、彼は例の最初のピル
グリム・ファーザーズの中で
グリム・ファーザーズの中で生き残った 50 数名の内の一人を直系の先祖に持つ人であった。
つ人であった。
●食事のとき、その家の伝統だと言って、家長である彼が、木製の長細い小さなお皿をみなの前に
をみなの前に差し
出した。その中には
した。その中には、トウモロコシの粒がほんの少しあるだけであった。それは
けであった。それは、先
、先
それは 祖がアメリカに
渡って 1 年を経たときに「乏しい食糧」をもって最
をもって最初に祝ったあの
祝ったあの感謝祭の
あの感謝祭の出来事を思い出して、今
して、今
も続く、神様のご加護と祝福に、
と祝福に、個人として、家族として、改めて神様に感謝するためであった。
●こういう中で、
こういう中で、私たちは、クリスチャンとして、この「感謝祭」をどのように
ンとして、この「感謝祭」をどのように受け留め、どのように
過ごそうとしているのだろうか?
ろうか? ただ家族や友人で集まり、伝統的ター
統的ターキー・ディナーを食べて、
交わり、フットボールを見て終わるのだろうか?
1
●「感謝の大切さ」について、聖書は、今日の
さ」について、聖書は、今日の交読文(Call to Worship)で読んだ詩篇 136 篇も、その
典型的一例であるが、いたるところで、繰り返し強く主張している。
●新約聖書の第一テサロニケ 5 章 18 節も、「感謝」に関しての有名なもうひとつの箇所である。
である。即ち、
「すべてのことについて感謝しなさい」
てのことについて感謝しなさい」である
感謝しなさい」である。
である。聖書は、その後で、す
聖書は、その後で、すぐに続けて言う。「これが、
キリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられることです」と
んでおられることです」と。
●しかり、「
しかり、「感謝」
感謝」する人生こそが、神様が私たちに望んでおられる人生である。「
である。「感謝」
感謝」する人こそ、
神様が求めておられるクリスチャン像である。
●感謝は人生に力を与える。悲しみに慰めと希望を与える、感謝は人生に潤いと輝きと魅力を与える。
●今日、ご一緒にもう一度皆さまと、この「感謝」について考え、み言
さまと、この「感謝」について考え、み言葉からメッセージを頂きたい。
きたい。
●今日の聖書の箇所は、ルカによる福音書
は、ルカによる福音書 17 章に記されている「10
されている「10 人の重い皮膚病(古い訳では、「ら
では、「ら
い病」、最近の新改訳では、ツァラアト、今で言う「
アト、今で言う「ハンセン氏病」に当たるかもしれない)にかかっ
ていた人々が癒された
ていた人々が癒された出来事」
来事」から、この「感謝」のことについて、神様からメッセージを頂きたい。
本
論
Ⅰ.この出来事から学ぶ第一のメッセージは「私たちは皆全員、神様に感謝する理由を持っている」と言う事実で
ある。換言するなら、皆が感謝するべきであり、感謝しなくて良い人、感謝のない人はいないということである。
十人
A. イエス様は17節で明確に言われた。「
いやされたのではないか?」と。この点で、英語 NIV はもっと
ALL
”
1.イエス様がここで「10
ここで「10 人」と言われたとき、
人」と言われたとき、それは「全員」を意味していた。
2.なぜなら、イエス様は、10人全員を、この難病、重病から、見事に癒し、救いだされたか
されたか
らである
らである(
ある(14, 15, 17)
17)。
3.一人だけではない。イエス様は、そのお力によって 10 人全員を癒し、祝福されたのである。
を癒し、祝福されたのである。
4.即ち、10
即ち、10 人全員が、神様に、イエス様に「感謝」を捧げる理由を持っていたのである
っていたのである。
のである。
5.だからこそ、イエス様は、一人
は、一人だけでなく、10
けでなく、10 人全員が、感謝を捧げるためにイ
げるためにイエス様の
ところに戻ってくることを期待されたのである。
6.しかし、実際に戻って来たのは、一人だけだった。後の 9 人は、イエス様に感謝を捧げるた
めに戻っては来なかったのである。
1.まず、私たちも、
たちも、みな全員、このハンセン氏病にかかっていた 10 人の人々に勝るとも劣ら
ない素晴らしい祝福
らしい祝福を
祝福を、しかも一杯、神様から頂いてきたことを
いてきたことを認識したい。
(1)神
1)神様の祝福は、
の祝福は、第一に、私たちのごく
たちのごく普通の、日
の、日常生活、通常の生活、当たり前の生活
の中に溢れていることを
れていることを認識したい。
したい。
●多くの人々が、「私は、特に感謝するようなことを、神様から何もして頂いていない」
と言わんばかりに、感謝の少ない、否、むしろ不平に満ちた人生を歩んでいる。
●なぜか? 毎日の通常の生活を、当たり前、当然のこととしか感じていないからである。
●しかし、ほとんどの人のほとんどの人
しかし、ほとんどの人のほとんどの人生は、monotonous で、dru
で、drud
drudgery である。平
凡で、何の変哲もない、退屈とさえ感じる生活の繰り返しかもしれない。
●人生の幸福とは、そのような
は、そのような monotonous で、dru
で、drud
drudgery な人生をどのように生きる
かである。言い
である。言い換えるなら、人生の幸福のカギ、幸せと不幸せの分岐点は:
—特別なことがあったときだけ、興奮
—特別なことがあったときだけ、興奮して喜び、感謝する人か、
—それとも、当たり前のこと、普通のことに、感動と感謝を覚えられる人かである。
●日本にいるときは見向きもしなかった「演歌」なるものを私に米国で初めて紹介してく
ださった日本人牧師がいる。その一つが、
がいる。その一つが、五木ひろしの「川は流れる橋の下」であった。
彼は冗談のように言った。「この
のように言った。「この歌を聞くたびに思うが、川が橋の下を流れるのは当た
り前じゃないです
ないですか、
ですか、何で、
か、何で、そんなことを今更
何で、そんなことを今更、わ
そんなことを今更、わざわざ歌わなくてもと」。
わなくてもと」。
●冗談とは知りつつも、そのときは
とは知りつつも、そのときは、
のときは、私もそうだなと思った。しかし
なと思った。しかし、
。しかし、失礼ながら今は
ながら今は逆
に、「人生の豊かさや新発見というものは、むしろ、しばしばそんな日
しろ、しばしばそんな日頃当たり前だと
思っている出来事の中から生まれるのだ」と思っている
」と思っている。
っている。
ハッキリしている。”Were not
ten cleansed?
B.私たちはどうであろうか?
2
(もっとも原語では、ALL はないが)
●「リンゴの実が木から落ちる」と言う現象は、誰もが当たり前のこととして特に
たり前のこととして特に気に留
めはしない。しかし、J.ニュートンは、
ートンは、そこに目を留め、特
め、特別な関心を持った。それ
った。それ
が、「万有引力」という偉大な科学的発見を生み出したのである。
●重度の身障者として口で詩と絵を描かれる星野富弘
星野富弘の詩に、「
に、「・・・・」
・・・・」というのがあ
というのがあ
る。詩人とは、私たちが当たり前だと思っている、当たり前の出来事や、事象に、その
背後にある深くて広い真理を感じ、感動し、興奮し、それを
し、それを伝えてくれる人である。
●それは、私たちクリスチャンもまた同じである。クリス
である。クリスチャン生涯の豊かさ、輝きは、
毎日の普通の生活に起こっている当たり前の出来事の一つ一つを、
来事の一つ一つを、当たり前のことと
たり前のこととせ
ず、その一つ一つに感動し、感謝する
その一つ一つに感動し、感謝する生涯の中にある。
の中にある。
●それは、「今生きている」、「生かされている」ということ自体への感謝である。
●聖書は言う。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何
ひとつ忘れるな」(詩篇 103:2)。
103:2)。「何一つ」である、即ち、大きいこと
:2)。「何一つ」である、即ち、大きいことだけでな
く、小さいことも、うっかり忘れてしまいそうなことも、何一つ忘れないで感謝し、主
をたたえることである。
(2)第二に、神様の祝福は、私たちの人生の「危機的」なときにも、しばしば
的」なときにも、しばしば顕される
される。
●この10人の重い皮膚病を患っていた人々が経験したことはまさにそれであった。重い
病という通常ではない問題を抱え、彼らはその中で、奇跡的とも言うべき神様の祝福を
経験したのである。
●先の詩篇 103 篇 3-4 節を見ると、そこにもそのことが記されている。
●そこには、この詩篇の作者が、神様から、病のときにいやして頂き、いのちの危険や人
生のピンチから救ってもらったことなどが記されており、彼はそれを感謝し、主をたた
えている。
●私自身のことを言わせて頂くなら、私も病気からの癒しを
からの癒しを経験させて頂いた。7
いた。7 年ほど
も前になるが、不整脈の診断を受け、最
け、最終検査の結果心臓にステントとペースメーカー
のようなものを入れることになった。しかし、
れることになった。しかし、手術の日、全身麻酔
全身麻酔までかけたその直後
に、それらの必要がないという決断が緊急にくだされた
されただけでなく、その後
けでなく、その後の
、その後の検査にお
いても、
いても、実際の体の兆候でも、一
でも、一切不整脈の問題は
の問題は消えてしまった。癒されたのである。
●経済的な経験でも、米国
も、米国での
米国での留学生時代であったが、月の生活費
生活費が家族 4 人で$500
であったとき、フー
であったとき、フード・スタンプにお世話になった時代、健康保険が学生保険
学生保険で掛け金
が少ない一方、カバーがほとんどなかった
少ない一方、カバーがほとんどなかった時
時
代
、そんな中で、
子供
が
2 時間で 4 回も
い一方、カバーがほとんどなかった
ひきつけを起こし、入院することになり、お金のことが心配で、お医者さんに心
者さんに心配され
ながらも、二日で子供を中途退院させたり、それでも借金を暫く抱えることになったと
き、また子供に誕生日やクリスマスのプレゼントを買うお金がなかったとき
がなかったとき、・・・
とき、・・・な
、・・・な
どなど、様々なところを通った。皆さまの中にも同様な経験を通られた方もあられると
思うが、
思うが、神様は、そのような
は、そのような危機の中、いつも助けてくださって、ここまで来ることが
できた。それは、主が主ご自身の方法で、考えられないような祝福与えてくださった一
さった一
つ一つ、奇跡の道であった。
●主は、人間的にどうにもならないような
的にどうにもならないような状況の中で、奇跡的祝福と勝利を与えてくださ
る。その例には枚挙にいとまがない。
●レーナ・マリアさんもその一人である。日本でもよく知られている人物である。1991
である。1991
年にテレビ朝日の「ニュース・ステーション」で
ース・ステーション」で全国に紹介され、199
され、1998 年の長野冬季
長野冬季
パラリンピックの開会式で歌声を披露した。彼女は生まれながら両腕がなく、左足の長
さが右足の半分しかないという原因不
原因不明の障害を抱える人生であった。その中で、信仰
をもって一生懸命生
懸命生きて来た人であったが、決してすべてが順調であった訳ではない。
燃え尽き症候群の苦しみも、10
しみも、10 年の結婚生活
結婚生活の後、離婚という悲しみと痛みも経験し
た。しかし、その中で、彼女は言う。「もし
は言う。「もし私が障害をもって生まれていなかったら、
今のような私にはならなかったでしょう。そうすれば、今味わっているほどワクワクす
るような人生は送れなかったに違いないと思うのです」と。
3
●私たちは、このような
たちは、このような危機的祝福を受けて来た。それを、「喉元(のどもと)
のどもと)過ぎれば熱
さを忘れる」式に、忘れてはならない。詩篇 103 篇の作者のように感謝をし、主をほ
めたたえる者でありたい。
(3)私たちは、更にこれらの
たちは、更にこれらの肉体的、物質的、精神的、地上的救いと祝福に加えて、
●彼らの病が象徴する「罪」からの救いと言う祝福を神様から頂いた。
●それを詩篇103篇の作者も3節で「主はあなたのすべての咎(とが)
とが)を赦し」と記す。
●即ち、それは、
即ち、それは、魂の救い、良心の咎めからの救い、永遠の命への救い、即ち、神様の子
としてどんなときでも地上であれ、天であれ永遠に神と共に生きる救いを意味していた。
●これこそがイエス様の命と交換に、神様が私たちのために備えられた救いの究極である。
(4)あの
(4)あのハンセン氏病とも言える「重い皮膚病」で苦しんでいた 10 人の人達は、今
は、今学んで
来たような意味で、紛れもなく、明らかに主の祝福、
らかに主の祝福、病のいやしを経験したのであった。
2.にも関わらず、主に感謝し、崇めるために戻ったのは、10
ったのは、10 人の内1人だけであった。9人
は主に感謝し、崇めるために主の下に来ようとはしなかった。あなたは、
に来ようとはしなかった。あなたは、私たちは、どっち
たちは、どっち
であろうか? あの1人の人のように
の人のように感謝するのか
感謝するのか?
?
それとも
9
人の人たちのようなのか?
ように感謝するのか
Ⅱ.この出来事から学ぶ第二のメッセージは、「感謝」と「喜び」の違いに関してである。
A. 今も学んだように、10人全員が、神様の祝福を受けて、ハンセン氏病にも匹敵すると思われる大病(特に
当時は尚のこと)からの完全ないやしを経験したのである。
1.換言するなら10人全員が神に感謝し、崇めたたえるべき十分な理由を持っていたのである。
2.しかし、それを実際にしたのはたった一人であり、後の9人はそれをしなかったのである。
人はそれをしなかったのである。
1.ここで確実なことは、いやしを
なことは、いやしを経験した「
した「10 人」全員が、その病からのいやし、大病から救
われたことで「
われたことで「大喜び」したことである。彼らが全員「喜んだ」ことは確実、明瞭である。
2.即ち喜んだのは10人全員であった。しかし
であった。しかし16節が記しているように、神を
しているように、神を崇めつつ戻っ
て来て「イ
て来て「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のは、その内のたった1人だけであった。
3.聖書は、この違いを明確に強調している。
(1)17-19節を見て頂きたい。「9人はどこにいるのか?」と言うイエス様の言葉には、
怒りとも、失望とも、嘆息・慨嘆とも言える嘆きが明らかである。
(2)即ち
(2)即ち明らかなことは、イエス様は彼らが「
らが「喜んだ」だけでは満足されなかったのである。
(3)言い
(3)言い換えるなら、「彼らが喜んでいるなら、それで良いよ。何もわざわざ私のところに
戻って来て、お礼など言わなくても良いよ」とは言われなかったの
いよ」とは言われなかったのである。
(4)明確に、イエス様は、ここで、10人全員に、そして、私たちに、神
たちに、神様から頂いた救い
を、祝福を「喜ぶ」だけでなく、「感謝する」ことを
けでなく、「感謝する」ことを求めておられるのである。
(5)「
5)「喜び」と「感謝」は違う。
●喜びは、自己の内で始まり自己の中で、単に
の中で、単に「
、単に「嬉しい」という感情を持つだけで終わ
れる。「自己完結」できるのである。即ち、
」できるのである。即ち、喜びは自動詞である。
●感謝は、確かに喜びから始まる。しかしそこで終わらない。漢字でも、喜びと「感」
じたことを「言(
たことを「言(葉)」で「射る」と書くように、誰かに向かって、どこかに向かって、
弓で矢を射るように、その喜びを「ありがとう」の気持ちをもって表すことである。
●英語で GIVE THAN
HANKS と言うように、「
と言うように、「感謝」
感謝」は本来「意味」的には「
は本来「意味」的には「他動詞」な
のであり、必ず、神に対して、人に対してというが
、神に対して、人に対してというが「対象」が必要である。
●そして、それは、単に感
そして、それは、単に感じるだけ、思うだけでなく、あの一人のサマリ
けでなく、あの一人のサマリヤ人が、わざ
わざイエス様のところに戻って来て、ひれ伏し礼拝したように、実際に、私たちの言
たちの言
葉や行動で
や行動で表さなければならない。それが感謝である。
B. このことが意味することは何か?
結
論
●メッセージを締めくくりたい。今日、
めくくりたい。今日、私たちは全員、例外なく、あの
なく、あの重い皮膚病を患わっていた10
人全員のように、神
のように、神様から素晴らしい救いと祝福を頂いていることを認識したい。
4
●しかし、あなたは、それをあの
しかし、あなたは、それをあの9人のように、自分の中で「喜ぶ」こと「
」こと「嬉しい」こととして終わら
せてしまうのか、それとも、
てしまうのか、それとも、あの一人のサマリ
あの一人のサマリ
ヤ
人のように「感謝
人のように「
感謝」
それとも、
感謝」として表すのか?
●イエス様は、今日も、あの一人のサマリヤ人が現れることを期待しておられる。あの9人が「感謝」
するために戻ってくることを待っておられる。
●最後に以前も引用した例話で締めくくりたい:榊原寛先生の本に紹介されている例話である。昔、
300 両という大金を持って木曽街道を旅している一人の商人がいた。寂しい道にさしかかったとき、
いきなり山賊に襲われた。この旅人は「
われた。この旅人は「金は奪われても、命あっての物種だ」と観念して、300
して、300 両そ
っくり差し出す覚悟した。ところが丁度そこに
度そこに、
こに、ひとりの侍が通りかかり、山賊を追い払ってくれた。
ってくれた。
命はもちろん 300 両も難を逃れたのである
れたのである。
のである。彼は本当に嬉しかった。そして、
しかった。そして、その
た。そして、その侍に 300 両全部
をお礼に上げても
に上げても良いと思いながらふもとの宿屋にやってきた。二人はそれぞれの部屋に通されたが、
商人は部屋に入りほっとした瞬間、「何も、全部あげることはないな」と思った。「100
あげることはないな」と思った。「100 両ぐらいでも
いいじゃないか」。やがて彼は「50 両ぐらいでもいいじゃないか」と思い、それももったいなくなり、
ないか」と思い、それももったいなくなり、
「せっかく苦労してためた金じゃないか。上げることはない」とまで思い始めた。そして
ないか。上げることはない」とまで思い始めた。そして遂には翌
には翌朝早
く侍がまだ寝ているうちに、そっと起きて一両も置かず、礼も言わずに出立してしまったという。
●「喜び」を感じたら、そこで終わらせず、「感謝」と言う実行に移したい。
5