真田氏と上田城の歴史 真田氏 信綱 真田氏は上田市の北東、旧真田町に本拠をもつ一小土豪でしたが、戦国時代末の幸隆の ときに、信濃へ進出してきた武田信玄に仕えて頭角を現しました。武田氏の配下として、 こうづけ あがつま 真田氏は幸隆・昌幸の2代で真田の地から峠を越えた上野国(群馬県)の吾妻郡から沼田(利根 郡)にかけて勢力を築いたのです。そして、天正10年 (1582) の武田・織田両氏の相次ぐ滅亡によ る混乱の中で真田昌幸は、周辺の上杉・北条・徳川という強豪のはざまにあって目覚ましい働き をみせ、その勢力をさらに拡大し、天正11年には上田築城にとりかかり、上田盆地を中心とする ちいさがた 小 県 郡一帯をもその支配下におさめました。こうして成立した真田領は石高は10万石たらずです が、上信の2国にまたがり、上田沼田間だけでも約100㎞もあるという広大なものでした。 上田城と真田氏の名は、天正13年 (1585) と慶長5年 (1600) の2度にわたる徳川の大軍の攻撃を 2 代 40 年間 昌輝 幸隆 ① ただ 信尹 幸村 (信繁) 大助 天正11年 (1583)○ 真田昌幸、上田築城開始。 〃 13年(1585)○ 第 1 次上田合戦(神川合戦) 。真田勢、 7 千人余の徳川軍を撃退。 慶長 5 年(1600)○ 第 2 次上田合戦。西軍に属し上田に籠 城した昌幸幸村父子、中山道を西上中 の徳川秀忠軍(3万8千人)を退ける。 信之、上田城主となる。上田 6 万 5 千 石、沼田 3 万石 計 9 万 5 千石。 ○ して見栄えのする城ではありません。しかし戦いに備 ○ ひらじろ 昌幸・幸村父子は高野山に流される。 真田幸村(信繁)画像 〃 19年(1614)○ 幸村、大坂城へ入り真田丸を築き活躍。 世城郭としての平城でありながら、2度もの実戦の経 元和元年(1615)○ 幸村、大坂夏の陣で奮戦の後、戦死。 験があって、しかも小よく大を制したこの上田城のよ 〃 8年 (1622)○ 信之、松代(長野市)へ移封となる。 うな戦歴をもつ城は、全国でもほかに例はありません。 真田幸村 真田氏としては、昌幸の次男であった幸村 仙石氏 が有名です。幸村は慶長5年の上田籠城戦(関ヶ原合 戦の一環)後、天下を取った徳川家康によって父昌幸 ② 昌幸 信之…松代へ移封 退けたことで、知られることとなりました。上田城跡は天守閣もありませんし、石垣も少なく決 えるだけではなく、領国統治の中心としても築かれた近 }長篠合戦で戦死 本丸東虎口の櫓門(復元)と南北櫓(県宝) とともに高野山に流されました。そして、その山麓の 3 代 85 年間 ② ① 秀久 忠政 政俊 忠俊 ③ 政明…出石へ移封 政勝…矢沢 (上田市) 2000石 元和 8 年 (1622)○ 忠政、 小諸より入封。 6 万石。 く ど やま 九度山で長く暮らした後、豊臣秀頼に招かれ、大坂 寛永 3 年 (1626)○ 忠政、上田城復興工事に着手。 冬・夏の両陣において、またも徳川勢を相手に大活躍 寛文 9 年 (1669)○ 分知により上田藩領 5 万 8 千石となる。 うち じ しました。幸村はここで討死にしましたが名を後世に あきら 宝永 3 年 (1706)○ 政 明、 但馬国出石(兵庫県) へ移封 。 残すことになりました。 仙石忠政画像 松平氏 仙石氏 上田城は関ヶ原の合戦直後いったん破却され せんごく ましたが、真田氏の後上田城主となった仙石氏により 7 代 166 年間 忠国 忠昭 ① 寛永 3 年(1626)からの工事で再建されました。 現存す 松平 (藤井) 利長 信一 信吉 忠晴 忠周 やぐら る南・北・西 櫓(長野県宝)は、 この時のものです。 ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ 忠愛 忠順 忠済 忠学 忠優(忠固) 忠礼 ちか (兵庫県)より入封。 5 万 8 千 宝永3年(1706)○ 忠周、出石 石。忠周は老 中も勤める。 松平氏 上田城主は宝永3年 (1706) に仙石氏から松平 氏に替りましたが、この松平氏の上田在城は明治維新 享保15年(1730)○ 分知により上田藩領 5 万 3 千石となる。 にまで及びました。松平氏は三河在住時代からの徳川 宝暦11年(1761)○ 大百姓一揆(宝暦上田騒動)起こる。 家の分流の一つ藤井松平氏で、初めて上田藩主となっ ただちか ます 嘉永元年(1848)○ 忠優、老中になる。 開港問題等に活躍。 ただます た忠周と幕末期の藩主忠優(忠固)の2人は幕府の老中 を勤めています。 西櫓(県宝) 尼ヶ淵跡より 明治4年(1871)○ 廃藩置県 織田信長所用韋胴服(重文) 松平信一が信長より拝領
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