1.日芯はかつて「戦争」をした。 分権」であった、「藩政」が、改められ

牽和濁信
擾加商壊れ爺の轟く代表:埋 昭雄)046−245−7503
2015
1.日芯はかつて「戦争」をした。
歴史の重み、もしくは「慣性の法則」といったも
のがあるのではないか。その国のあり方、人々の
生き方は、「変えようとしない限り、変わらない」。
あの、「明治雑新」とは、それまでいわば「地方
分権」であった、「藩政」が、改められ「中央集
権」として、初めて「国家」が意識された時代で
もある。しかし、それは「宙国強兵」「殖産興業」
という理念に貫かれ、実態は日本近海に押し寄
せてきた、ロシアをはじめ欧米諸外国への抵現と
しての武力国家の形成であったのである。
その日本近代化政策は、様々な園内的な歪
を伴いつつ、地租改正、徴兵制、教育の義務な
ど、近代化への国家政策が、団塊の生活を犠
牲にしながら実施されたものであった。
「昏国強兵」の成果は、早速日清戦争として
衰薗化する‘ 、朝鮮半島の領有をめぐって、治国
との間は戦争が始まる。欧米との対立に歯が立
たなかった我が国は、アジアへの侵略に足場を
求めたのでぬる。1息94年(明治27年)のことで
あった。その後の日本は、台湾征討戦争、日露
戦争(1904年・明治37年)、日韓併合(191
0年)、鱒一次世界大戦参戦(1914年)、対
肇二十mか粂要求(1915年)、シベリア出兵
(1918年)、満州事変(1931年)、虚溝橋事
件(1937年)、第二次世界大戦(1941年)、
と続き、敗戦(1945年)までの50年間、戦争
に醐ナ暮れたのである。
まで継続されたのである。いわゆるドイツバルメン
に集結したカトリック・プロテスタントの牧師・神父
およそ2000人余畑が、蜜藩の菩薬を拠り所
に、戦争に・ナチスに反対をしたのである。彼ら
は、ドイツ告白教会をその集合体として名乗った
のである。「汝、人を殺すな」そして、「汝の隣人
を愛せよ」とは、モーセの十戒であり、キリストの
中心的命題でもある。そこに向かっての「改
心」。
人を殺しても、自分さえ生き延びれば良いという
「罪」。ドイツの「戦後」は、そこからの「訣別」で
あった。訣別は、謝罪と新しい歩みとをもたらし
た。「荒野の40年」(ヴァイツゼッガー)ばかりで
はなく、プラント酋相のワルシャワゲットーの記念
碑での謝罪。「謝罪」は決して恥でも不名誉でも
ない。心からの謝罪こそは、両国を繋ぐ櫓になる
のだという確信をも呼び起こしたのである。
3、「戦争法」のあとに煎るもの
_国民の多くの「農薬」噛期尚早」上土j 江こ
理解されていか、」という世論預盃の結果を無
祝して、「国際車和支援法」は成立した。日本
国遵法9条や前文、そして憲法学者を始め、多
くの学者・研究者、民衆が声を上げる中、それ
に逆らって、戦争のできる法律が成立した。
これにはいくつもの問題点が包含されている。
2、この歴史からの脱却
朝鮮半島をめぐっての、日清・日露戦争は、
やがて日英の条約をテコに、第一次世界大戦
への介入、そしてロシア革命への妨害としてシベ
リア出兵を生む。満州撃変は軍部「関東軍」が
起こしたものとして、圏陳連盟は日本を非難した
が、配本は国欝連盟を脱退、日中金歯戦争に
至る慮溝橋での軍事衝突へと英人する。
ここで当時の新聞を紐解くことはしないが、ほ
とんどの新聞は好戦的記事で埋め尽くされ、アジ
ア諸国を見下げるものが多かった。
今もこのものの考え方が−一向に変わっていないの
ではないか。かつての同盟国、ドイツはヒトラー政
まず、あの委員会の採決の有効性である。議尊
録や委員長宣言などどこにも、採決された根拠
がないという、実感無税の「採決」。第二に上智
大学の中野晃一氏が拇撼するとおり「民意」に
背いた議会内だけの「採決」という無法ぶりであ
る。この問題の所在は、国民主権主義から説明
されるべ忠であろう。主権とは「その園の政治を」
左右する最終的権利」であり、それが「国民に
存する」と憲法は規定する。「民意」は、正確に
実施された「也翰調査」や、「デモ」、「請願行
動」などに表される。決して「選挙」万能ではな
い。ルソーもその著「社会契約論」で言っている
ように「主権者は選挙の時だけ主権者で、めとは
奴隷である」。さらに「政治と手を結ぶことは、惑
魔と手を結ぶことになる」とマックスウエーバーは
権下でも抵睨輩動は各地に存在したが、栄樹
運動や白バラ学生選動などは壊滅の凄さ目を
言った(「職業としての政治」)。権力を手にした
瞬間に人は選魔に心を売り渡す。だから、国民
主権でか)、国民はその政治を注親し、「暴走」
見た。しかし、牧師たちによる反ナチ運動は戦後
を食い止めなかればなら軌いのである。だから、選
輸1−
挙万能ではない。選挙を通じて主権者園勘は政
濃されなかったことである。そして、第二に戦争を
治を委寵しているに過ぎないのでぬる。間接民主
最大の「罪」とする倫理・宗教・教義がカを持ち
側とは、民恵を主権者に「代理」して、行使・反
得なかったことが挙げられる。アジア2000万人
に及ぶと言われる殺裁。このことへの「罪」邁織
が徹底的に空転した。つまり、私どもの歴史は、
映させるのか、代議士の役割ということである。
4、−倣誰のための立法?
国民の多くが、疑義を表明している、危険な
法律をなぜこれほどまでもしやかりさになって成立
させたのか。国会内だけが特別な)りアーで囲ま
れた異常な場と化してしまった感がある。国会前
見事にこの「現代史」が披け落ちているのであ
る。ドイツは徹底軸こドイツ人の幸で「過去」を掘
り下げ、検注した。しかし、我が国は東京裁判と
いう抜け道だらけの裁判において、しっかりと戦犯
は裁かれなかったし、同時に、国民の手でアジア
・太平洋戦争の検証、を行ってこなかったのであ
集会のみならず、全国に広がった「戦争法反
対」デモ。総理自らも、「国民に理解が得られて
る。そして今、検証しなかったことを良いことに「璃
いない」という法案をどうして無理矢理通過させた
のか。既に、今年の初めに総理はアメリカで明確
に言明していたのでぬる。「今年の夏までには工
かった」と言い始めて久しいのである。そこには、ド
さらに、自衛隊幹部も同様にアメリカで「集団的
自衛権容認」を述べていたという。
これはどういうことなのか。日本の総理や自衛
隊幹部は、日本国民の信託により、田本国民の
ために「代理」しているに過ぎない。ところが、日
本国民のためではなく、アメリカのある部分のため
に、代理しているということは、明確に田本国民
への常信行為である。さらに、、日本の自衛隊が
地球の襲側まで派兵される。アメリカのために「派
兵」となれば、二重・三割こ、国民の信託を欺い
たことになる。
これから、丁寧に説明して理解を求める、と常
套句を述べる。しかし、既に「駆けつけ聾護」は
来春から始動すると言っている。轍ナつけ欝護が
いかに危ないか、かつて人斑となったことのある南
適薬種子氏はその行為を極めて問題視する。ア
フガニスタンの擾師中村氏も、「自衛隊の派兵
はかえって倍額を損ねる」と言っているそこに生
ずる新たな緊張関係・敵対心こそが極めて危険
だといっているのである。ならば、何のためなのか。
全く不要な立法を、暗闘を割いて強紬こ進めた
安倍政権とはなんなのか。を、その民主主義の
原点から問い直す必婆があるのではないか。
5、歴史に学ばず「反省なき」国展
ドイツの戦前■ 戦中と一線画する「戦後精神」
を先に略解した。新たなる歴史は、新たなる思考
から始まっている。我が国は、その「新たなる思
考」が開始され得なかったのではないか。新たな
る思考が酸成されない中で、戦前回帰が「復
権」したというべきかも知れない。その大きな原因
に、陸続きの国ではなく、従って、隣国に犯した
寮虐殺はなかった」「従軍慰安婦問題などはな
イツにおいて作用した「罪の建議」、「汝、殺すな
かれ」という十戒の教えや、同時に「汝の隣人を
愛しなさい」というギ)ストの京菜すら存在しなかっ
たのである。「歴史に学ぶ」とは、ただ闇雲に「過
去」を陳列しその是非を輸ずることではない。そ
うではなく、どんな補償連戦のもとに、歴史を見
過すか、横溢,するのかという謙遜なのである。ま
ず、価値観の大きな変転こそが、重要なのであ
る。闇単に言えば、「どう新しく生きていくべきなの
か」。そのことが「過去」を照射する。少なくともド
イツの戦後史は、そこに大きな変換点を持ってい
ると言えるであろう。
8、去りめかぬ「過去」
「過去」は、十分に現代に克服されてこそ、そ
の意味を持ちうる。歴史との対話ば常に不可欠
である。まして、対外関係を考えるとき、相手国と
我が国の閲に「過去」がどのように関わっている
のか。極めて現代的な課題としてのしかかってく
る。とすれば、そうした遇執こしっかりと向かい合
わなぐ引ま、相手国とのまともな会話は生まれえな
いであろう。さもなければどこか空疎な、浮つい
た、その場しのぎの空々しい対応しか生まないで
あろう。葵適に向き合う過去。そしてその補償を
行う中での今があり得るのではないか。ドイツは
「謝罪した」。フランス、ポーランドなど近隣諸国
に謝罪し、ユダヤ人に今も戦後補償を行ってい
る。我々が、同様に「過去」と向き合った時に、
どんな行為がなしうるであろうか。私たちは、まず、
そうした「過去」への「入門」を試みている。明治
維新とはなんだったのか。そして今回の学習は、
その後の50年戦争を紐解く。
く今日の集会のご霜的>
戦争犯罪を多くの国民が現懇・確報できなかっ
たこと。同時に戦地からの帰選者が、国内でそ
日時言2015年10月 24日(土)
の体験を藷ることを口止めされたということ。その
場所:厚木南公民館
ため「戦時体験」が、翰蟻の場に余すことなく披
テキスト:「日清龍露戦争をどう見るか,j
13;15∼