アメリカ・ホテル発展史

アメリカ・ホテル発展史
アメリカ編
アメリカ・ホテル発展史
History of Hotels in USA
石井
昭夫
ISHII, Akio
1781年に作られた連合規約で「州の連合による独
はじめに
立国」という体裁は決まったが,実態は今日の国
連のようなもので,連邦政府は国民に直接課税す
ることができず,国内の商業を統制する権限もな
北アメリカ植民地は,無人に近い荒野にイギリ
く,外国も使節を送ってこなかった。中央の権限
ス人が移住することによって誕生し,大陸東部の
が弱体過ぎることは社会不安のもとであり,あら
河口を中心に発展した。19世紀初頭まで農業以外
ためて強力な中央政府を樹立すべく,
の産業はなく,イギリスをはじめとするヨーロッ
の議論の末,87年,フィラデルフィアで開催した
パ大陸との貿易が主たる富の源泉であった。現地
大陸会議において合衆国憲法が制定され,国家の
年がかり
住民を征服して支配するアジアの植民地と違って, 体制が決められた。初代大統領には独立戦争の英
アメリカ合衆国として独立するまでの13植民地は
雄ジョージ・ワシントン(1789年就任)が選ばれ,
イギリス人の移住地であり,移住者たちは大英帝
新しい連邦政府が作られた。独立戦争によってミ
国の一員であることに誇りをもっていた。それぞ
シシッピ川以東の領土を英国から取得したが,そ
れの植民地がイギリスの方を向いており,個々の
こはまだ人口希薄な原野に過ぎず,87年の土地条
植民地と英本国とのつながりは,植民地どうしの
例によって,人口が5,000人を超えればテリトリ
つながりよりも密であった。そのような植民地が
ー(準州)として住民の自治を認め,
結束して独立戦争に立ち上がったきっかけは,七
えれば13州と同格の州として合衆国に加盟するこ
年戦争(1756∼63年,アメリカ大陸ではフレン
とが認められた。13州以外の州はこのようにして
チ・インディアン戦争と呼ばれる)による財政窮
逐次合衆国に加盟していったのであった。
乏を補うため,英政府がアメリカ植民地に新税を
課そうとした政策であった。
自分たちを本国人と同じ権利をもつ同胞と考え
万人を超
1790年にワシントン大統領のもとで行われた最
初の国勢調査によれば,当時のアメリカ13州の総
人口は約390万人,うち白人が320万人であった。
ていた植民地側は,本国の一方的な押しつけに抵
都市と呼ばれるに値する都市は全部で
つ,
万
抗して立ちあがった。ばらばらだった13植民地が
2,000人のフィラデルフィア(首都)
,
大陸会議を結成し,対英独立戦争(1776∼83年)
人のニューヨーク,
を経て独立を勝ちとることができた。しかし,独
万6,000人のチャールストン,
立後のことを考えて始めた戦いではなく,戦争が
ティモアであった。大部分が農園または大農場か
終ると結束の理由を失って団結は緩くなり,独立
ら生活の資を得,小さな村に住み,交通・通信網
後のあり方をめぐって大いなる議論が起こった。
である道路も駅馬車も粗末で,ほとんどが孤立し
万3,000
万8,000人のボストン,
万3,000人のボル
145
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
た状態で暮らしていた。入植以前に道路はなかっ
ース,寝室,それに主人一家の私的な生活の場が
たから,河川が交通の中心であった。川で行けな
あり,わずかなスペースを適宜配分して臨機応変
いところから先に道路がつくられていくのだが,
な使い方をしていた。泊り客が多い時には,パブ
まだ陸路は未開発状態だった。
リックスペースの炉辺をも寝る場所に転用し,客
が多ければベッドをシェアさせるのが普通であっ
植民地時代のタバーン
た。さる旅行者の日記は「ベッドに入ってしばら
植民地時代のアメリカは,さまざまな移民の集
くすると,見知らぬ奴が部屋に入ってきて,服を
団が,空白地あるいは現地住民の存在を無視して
脱ぐと挨拶もなしにシーツの中にもぐりこんでき
住みつき,そうして出来上がった集落は閉鎖的で, た」と書いているし,別の例では,宿の亭主が酔
よそ者に対して警戒を怠らなかった。17世紀以降
っぱらってよろけ回り,自分の上に倒れこんでく
のイギリスの社会と文化が移植されていくのだが, るのではないかと心配で眠れなかったと書いてい
その重要要素の
つがパブリックハウスであった。 るから,こちらはパブリックスペースに寝かされ
サンドヴァル=シュトラウス「アメリカ・ホテ
ル史」
(Sandoval-Strausz, 2007)によれば,パブ
ていたのであろう。客が多いと
つベッドに他人
と同衾するのも普通のことであった。
リックハウスとは個人の住宅と対比して誰にでも
例えば,1851年刊行のハーマン・メルビル「白
開かれたスペースであることを意味し,アルコー
鯨」の冒頭で,語り手のイシュマエルが捕鯨船に
ル飲料を供し,旅人に宿を提供する施設の正式名
乗り込む目的で港町の宿スパウト・イン(潮吹
称であるという。タバーンと呼ばれたりインと呼
亭)に泊まり,食人種出身のクィークェグなる銛
ばれたり,時にはオーディナリと呼ばれたりもす
打ちと同じベッドに寝る場面が面白おかしく語ら
るが,おおむね同じようなもので,はっきりした
れる。その描写によれば,ベッドは銛打ちが
区別はない。各植民地の政府は,飲酒やギャンブ
寝られる広さがあると書かれているから,小さな
ルなど秩序を乱す恐れのある行動を制御しうる人
ベッドに見知らぬ者どうしが体をくっつけるよう
物にのみ酒類販売を認め,秩序維持を怠ると許可
に寝るのでないことは確かである。「白鯨」は19
を取り消すなり罰金を科すなどして,よそ者の受
世紀半ばの小説だから,相当長期にわたってこう
け入れと監視の責任をパブリックハウスに負わせ
いうインがあったとみてよいであろう。日本の昔
ていた。植民地政府にとって,タバーンは許可の
の旅館では,畳の部屋に別々に布団を敷いて他人
手数料と税金をもたらし,旅人に避難所を与える
が同室で寝るのが当たり前であったように,
人
人
公の義務を代行し,全体として秩序維持にも役立
室とはいかない以上,畳ではなくベッドに寝る
つという一石三鳥の存在であった。すべての町に
習慣の西洋人は,大きな部屋に大きなベッドを入
軒以上のパブリック・ハウスないしタバーンが
れて,一緒に寝るのは当然であったろう。
あった。後年1973年に行われたコロニアル・ウィ
こうした事情はヨーロッパでも同じであった。
リアムズバーグ財団の調査が,この時期のヴァー
私事ながら,1970年代のはじめにフランスの田舎
ジニア州のタバーンの室数は
∼10室であったこ
をドライブしたとき,街道の古めかしいオーベル
とを実証したが,近年の調査では,北部のマサチ
ジュ(イン)に泊まったことがある。バーで同僚
ューセッツやフィラデルフィアでも規模は同じで
と一杯やって入った部屋がまさに超大ダブルベッ
あったという。
ドが
タバーンの内部は厨房,バー,パブリックスペ
146
つ入った寝室であり,そうした昔の慣習を
垣間見た気がしたものである。
アメリカ・ホテル発展史
以 下,サ ン ド ヴァル=シュトラウス「アメリ
の
軒だけのインの汚なさが,人にも馬にも耐え
カ・ホテル史」と,岡本伸之「現代ホテル経営の
がたいほどだったので諦めて再び雨の中を出立し
基礎知識」のホテル史の記述を道案内に,アメリ
た,といった具合である。ワシントンのこの視察
カのホテル発展史を
の旅は,その後のアメリカのホテル改善に資する
ってみよう。
ところが大であった,と著者は書いている。
.タバーンからホテルへ:第一世代
のホテル
当時のアメリカ合衆国最良のパブリック・ハウ
スはフィラデルフィアの「シティ・タバーン」で,
間口50フィート(約15m)ほどの
ワシントン大統領の国内視察旅行
数およそ20室,建物の価値は
階建て,部屋
万5,000ドル程度
「アメリカ・ホテル史」は,1789年,大統領に
だったという。独立宣言後にフィラデルフィアが
選出されたばかりのジョージ・ワシントンが,少
首都になったのも,当時人口最大の都市であった
数の官僚と従僕だけを供に,全国の視察旅行に出
ことのほか,植民地時代末期の1772年に建設され
かけるところから始まっている。印象的な書き出
たこの「シティ・パブリックハウス」に各植民地
しである。ワシントンは,大統領になると同時に
代表を収容できたことが一因であると言われてい
各州の農業の実情を知り,出来たばかりの連邦国
る。連邦発足後に立派なホテルを新首都ワシント
家に対する各州・各地域の考えを聞いて連邦の基
ンに建てようとした理由も同じであった。
礎固めをするために,13州全部を視察することに
したのであった。宿泊施設が整備されていない当
失敗したユニオン・パブリック・ホテル
時のこととて,各地の有力者や友人知己が宿舎の
ホテルという言葉は,非常に大きく豪華な建物
提供を申し出たが,ワシントンは公正公平な政治
にしか使われなかったし,ヨーロッパでもまだ数
のために,少しでも依怙贔屓の印象を与えたくな
えるほどしかなかったから,19世紀初期のアメリ
いとの思いから,公的な宿(パブリック・ハウス
カで,ホテルはパブリック・ハウスとはまったく
やタバーン)のみ利用する決意を固め,すべての
別のものと思われていた。その意味でサンドヴァ
申し出を断った。彼はこの方針を貫き通すのだが, ル=シュトラウスは,アメリカ最初の近代的ホテ
北はニューハンプシャー州から南はジョージア州
ルはどれかという疑問に答えることから始めてい
まで2,000マイル(約3,200㎞)に及ぶ騎乗の旅は, る。最初の試みはワシントンに首都の移転が決ま
道路はどこも荒れて石ころだらけ,快適ならざる
り(1790年),商人であり保険業の創設者と言わ
宿に泊まる辛い日々であった。
れ る サ ミ ュ エ ル・ブ ロ ジ ェ ッ ト,Jr.(1757 ∼
彼はそれを日記に書きとめ,泊まった宿につい
て何がしかのコメントを綴っている。北へ向かう
旅では,今日の宿はよかったと書く日もたまには
1814)が創設を試みた「ユニオン・パブリック・
ホテル」であるとする。
ブロジェットは1784年と90年の
度ヨーロッパ
あったが,次第に不満がつのっていく。ひどい宿
に行き,ヨーロッパの建築学を学んできた。独立
だったと書くこともあれば,迎えてくれた人たち
戦争時にジョージ・ワシントンと親交をもち,
はよい人たちだったが,パブリック・ハウスの施
《事業の天才》と評価された彼は,93年新首都ワ
設は粗末すぎる,というような記述が続く。南へ
シントンの建築主任に任命された。大統領官邸
の旅はもっとひどく,ノースカロライナでのある
(ホワイトハウス)と国会議事堂はすでに建築中
一日は,雨に降られて投宿しようと立ち寄った町
であったから,次に必要なのは新首都にふさわし
147
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
い《パブリック・ハウス》の建設であるとして彼
トンもここに泊まっているし,市のリーダーたる
が提案したのが「ユニオン・パブリック・ホテ
企業家たち自身が頻繁に会議を開く由緒ある場所
ル」であった。しかし,連邦政府に新しい大型公
でもあったからである。その疑問は秋に氷解した。
共事業に充てる予算がないことはわかっており,
グループがその跡地にシティ・ホテルを建設する
彼はこれまでの自身の資金調達の経験から,
《ナ
計画を発表し,そのデザインを公募したからであ
ショナル・ロトリー(全国宝くじ)
》の販売によ
る。
って建設資金を調達する計画を立てた。政府の承
ブロードウェイに面する側が幅80フィート,テ
認を得て「連邦新首都建設のためのロトリー」を
ンプル通り側は120フィートの
販売し,全国の新聞その他の媒体に広告を出して
出来上がり,内部にはさまざまな機能をもつスペ
資金を募った。
ースが設けられた。
し,
枚
ドルで総額50万枚を売り出
万ドル相当のホテルを建設する予定であっ
階と
階建ての建物が
階にはロビー,宴会
場,バー,店舗,事務所などがならび,
階に合
た。結果はブロジェットの資金管理に問題があり, 計137の寝室が設けられた。これが当時のニュー
工期が遅れて資金不足に陥り,ブロジェットのホ
ヨーク最大の建物となり,市最大の教会の尖塔部
テル建設構想は頓挫した。しかし,建物自体は立
分を除けは高さも最高となった。建築費の10万ド
派に出来上がり,その頃には公務員や議員のため
ルはウォール街に新しく建てられたニューヨーク
の宿舎も出来上がっていてホテルの需要は少ない
株式取引所に次ぐ最高額で,ニューヨークに存在
とみられ,結局連邦政府が買い上げて郵便局と特
するビルディングはまだこの
許局の事務所に転用した。ちなみに,ホテルの目
シティ・ホテルは,開業以来40年間にわたってニ
的で建てられたこの建物の設計者は,ホワイトハ
ューヨーク最大のパブリック・ハウスとなり,訪
ウスの設計者ジェームズ・ホーバンであり,これ
問客の宿泊とパワーエリートたちのビジネス・ミ
が新首都においてホワイトハウスと議事堂に比肩
ーティングの場所兼社交の場であり続けたのであ
しうる唯一の建造物であった。
った。
ブロジェットのホテル・プロジェクトはかくし
つだけであった。
ユニオン・パブリック・ホテルとシティ・ホテ
て失敗に終わったが,全国に呼びかけたホテル建
ルという上の
設計画は多くの企業家に刺激を与え,これ以後主
る影響を与えた。ホテルが都市の重要な顔と考え
要都市に大型ホテル建設の機運が盛り上がる。新
られるようになったのである。しかし,いくつも
興国の大都市にとって,ホテルは欠かせないイン
の都市が同様の試みをした結果,高額な建築費を
フラの
集めることが困難であること,公的空間としての
つという認識が広がっていくのである。
つの事例は,他の大都市に大いな
巨大ホテルは,それなりの立地と条件が整ってい
ニューヨークのシティ・ホテル
なければ成立しえないことを証明しただけで終わ
1793年春,ブロジェットのロトリーの募集広告
っている。記録が残っている
番目のホテル企画
が出て間もないころ,ニューヨークの大企業家た
は,当時全米第
ちがグループを結成し,同市で一番大きく立派な
イランド州都)で,やはりロトリーの販売による
シティ・タバーンを6,000ポンドで買い上げ,こ
建築が計画された。ニューポート市は独立以前に
れを解体した。当時これは奇妙な行動に見えた。
は対英貿易の重要港として栄えたが,独立戦争で
シティ・タバーンはニューヨーク市が賓客を迎え
貿易は断絶し,戦後は対英貿易の特権を失ったう
る際の接遇の場であり,ラファイエットやワシン
え,大嵐で港湾部が破壊されてしまった。1795年,
148
位のニューポート市(ロードア
アメリカ・ホテル発展史
主だった貿易商らによる「ニューポート市港湾再
的に使用される部屋の数は全部で200室におよび,
建とホテル建築のためのロトリー販売」が許可さ
合衆国最大のビルディングとなった。ニューヨー
れた。建築費2.5万ドルの予定で,ロトリーの販
クのシティ・ホテル同様,ここも有名人たちの溜
売総額は25万ドルであった。この販売総額は当時
まり場であり,社交場であり,ビジネストークの
行われていた通常のロトリーの10倍の規模である。 場であった。金融センターでもあって,多くの金
結局建築工事は遅れ,当たりくじの所有者に賞金
融業者,保険業者などがこの建物に事務所を構え
は支払われたが,ホテルはできなかった。
た。その後もホテルはいくつか建てられたが,こ
番目のホテル構想は,ともに建築家
のボストンの巨象に及ぶものはなかった。
「ボス
からの提案であった。1796年,ブロジェットのロ
トン・エクスチェンジ・コーヒーハウス&ホテ
トリーの
年後,同じボストンでチャールズ・ブ
ル」は開業以来繁栄を続けたが,サンドヴァル=
ルフィンチ(1763∼1844,米国初の職業建築士と
シュトラウスの言葉を借りれば,ギリシャ神話の
いわれ,のちに国会議事堂の改築を担当する)が
傲慢の女神ヒュブリスの罪に問われたのか,18年,
ホテル建設を目的とするロトリーの許可を得て新
屋根裏に火災が起きた時,高過ぎるゆえに届く梯
聞等で募集したが,資金集めは成功しなかった。
子がなく,焼け落ちてしまった。わずか12年ほど
次いで翌97年,同じくアメリカの初期の建築を代
の輝かしき存在で終わったのであった。
番目と
表するベンジャミン・ラトローブ(1764∼1822)
が全米11位の都市リッチモンドでホテルと劇場を
第一世代のホテルの特徴
一体化し,さらにさまざまな施設を併設する大型
サンドヴァル=シュトラウスは,ここまでの第
複合施設の建設を計画したが,先行
例と同じく, 一世代のホテルの特徴を経済,文化,政治の
分
立派な設計図を残したのみで日の目をみなかった。 野と関連させて説明している。概要は以下のとお
りである。
ボストン・エクスチェンジ・コーヒーハウス&
ホテル
経済との関わり
年連続で宿泊施設を含む公的な建造物(パブ
第
は,新しい経済との関わりである。ホテル
リック・ハウス)の建設案は企画倒れに終わった。 はタバーンとは異質の存在であり,建造に巨費が
後世から見れば,時期尚早ということになるであ
かかり,それ自体が大なるベンチャー・ビジネス
ろう。少なくとも1806年に,ボストンの有力商人
であった。投資家は当然投資の見返りを求めるか
や金融業者らが勢ぞろいして「ボストン・エクス
ら,彼らはホテルを採算が取れる事業と見ていた
チェンジ・コーヒーハウス&ホテル」を建設する
と考えてよい。この時期のアメリカの企業家は,
まではそのように見えた。ボストンのこの建物は, ほとんど例外なく海外貿易で産をなした人々であ
当時としては常識はずれの巨大な建造物であった。 る。サミュエル・ブロジェット,Jr. は東インド
階建てで地下室もあり,建坪約1,650㎡,幅は
40m あり,玄関口をイオニア式列柱
貿易で財産を作り,彼の保険会社は海運保険が主
本が囲ん
体であった。ニューヨークのシティ・ホテルを生
階まで吹き抜けのバルコニー
んだグループは,全国最大のニューヨーク港湾を
付大広間が作られ,上方にフロアからの高さが
利用する商人グループと,彼らの契約や法律事務
25m もあるドーム屋根が乗せられた。当時のお
を扱う法曹家たちの結合であった。ニューポート
金で50万ドルもかけた豪壮な建造物で,多様な目
市のホテル・プロジェクトも,ボストンのエクス
でいた。内部には
149
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
チェンジ・コーヒーハウス&ホテルの推進者も同
業一本やりの国に新しい繁栄の方向を示そうとし
様である。彼らは例外なくアメリカ,ヨーロッパ, たのであった。
東アジアをめぐる国際資本の体現者であった。21
世紀の現在からみれば何の不思議もないことだが,
社会と文化との関わり
1790年代のアメリカ国民の90%以上がプランテー
第
は,この時代の社会と文化との関わりであ
ションや自営農業,牧畜で生計を得ており,国際
る。外観が海洋交易や大陸間貿易の象徴であった
貿易で巨富を得るのはほんの一握りの存在でしか
とすれば,内部はホテルが建てられた社会の人間
なかった。彼らは,商業というビジネスが人と物
関係や文化を反映していた。ヨーロッパでは貴族
の輸送力やそのシステムに依存することをわきま
をはじめとするエリート階層の特権が次第に浸食
えている人たちであった。彼ら自身もその父祖も, される時代に入っており,それぞれのステータス
道路や橋,水運,通信などのインフラの改善に投
を住宅,衣装,銀器類,装飾,行動様式など,目
資してきた人々だったのである。
に見える外観によって表現する傾向が顕著になっ
第一世代のホテルの場合,経済の観点で見るに
てきていた。もともとアメリカのエリート層の生
しても,ホテルの機能だけを見たのでは重要な視
活はロンドンの貴族生活の植民地版であり,その
点を失なう。この時期のホテルは,ビジネス機会
傾向がパブリック・ハウスのあり方にも影響して
であるだけでなく,建築の造形や装飾によって商
いた。ゆえにホテル内部の設備や装飾は,アメリ
業のステータスを高めるという目的をもっていた。 カのエリート層がマナーや生活用品などに求める
外観自体が農業を脱して商工業を発展させていく
エレガンスにマッチしたものとなった。彼らは自
国の未来の象徴と考えられていたからである。彼
分のステータスを誇示すると同時に,相手のそれ
らが拠点とするホテルは,当時の
つの政治勢力, をも承認する必要があり,それには自分を見せ,
過度の商業化は健全な農業社会を破壊するという
他者を見る適当な場がなくてはならなかった。ア
リ パ ブ リ カ ン
ジェファソン派共和主義者と,商業の活性化なく
メリカの場合,ホテルはまさにその場として作ら
して国の将来はないとするハミルトン派
れた。ドレスアップして登場し,品のいい立ち居
フ ェ デ ラ リ ス ト
連邦主義者との戦いの場でもあった。失敗したユ
振る舞いとウィットに富んだ会話を楽しむ宮廷風
ニオン・パブリック・ホテルやニューポートほか
の環境を,彼らはゼロから作り出さなければなら
のホテル計画も含め,巨大な石造ホテルを作るこ
なかったのである。
とによって,商人らは議論を有利に展開しようと
した。巨大ホテルはそれ自体が注目を集めると同
女性の利用客とホテルの客層分離戦略
時に,高層階の窓からは,港にどの国のどの会社
もう
つホテルとタバーンの決定的な違いがあ
の貿易船が入港してくるかが見えるようになって
る。タバーンは本質的に男性オンリーの場であっ
いた。その存在自体が彼らの理念の伝達方法の
た。タバーンは,男性客が飲酒しながら親睦を深
つだったのである。つづめていえば,初期の巨大
め,相互にステータスを確認し合う場であって,
ホテル建設の目的は,
)旅するエリートたちに
男性客にサービスする女性はいても,女性の客は
安眠とリフレッシュの場を確保することによって
いなかった。男性客の付添でたまたま女性が中に
貿易を促進し,
入ると,男性客の視線を浴びて不快な思いをさせ
)大建築(ビルディング)を作
ることによって周辺の不動産価値を高め,
)目
られる。そういう思いをした女性たちの証言が沢
に見える豪華な建造物をつくることによって,農
山残されている。第一世代のホテルは最初から上
150
アメリカ・ホテル発展史
層階級の女性客を歓迎し,タバーンとの違いを明
がタバーンに集まったし,タバーンの客たちは植
確に示している。女性たちもホテルで開催される
民地総督のやることが気に入らなければ,いつで
さまざまな行事に参加し,ホテル側は女性客が男
も抵抗の気勢を上げてきた。そうした行動や慣習
性たちの目に晒されて不快な思いをしないよう配
が独立運動に結びつき,独立宣言に先立つ10年間,
慮し,他方で,その場に不適当なステータスの人
タバーンはイギリス王権に対する抵抗運動の拠点
物が入り込まない工夫がなされるようになる。
として機能してきたのであった。独立宣言後の
アメリカのタバーンはもともとさまざまな出自
1780年代も引き続きタバーン・ミーティングは生
の人々のたまり場で,親方も見習いも,役人も労
き続け,外国からのニュースがあれば集まって議
働者も同席して飲んでいて,それなりに相手の立
論し,市の行政官を選挙し,政治的主張の演説を
場を尊重する雰囲気ができていた。しかし,独立
行う場であり続けた。パブリック・ハウスないし
戦争以来の平等思想の普及によって,自分の身分
タバーンと政治は切っても切れぬ関係にあったの
を意識する上流層と上流層を妬みがちな下層階級
である。
との関係がぎくしゃくする傾向が生まれていた。
アメリカの大都市がかつて存在したことのない
重要人物らしき人の上から目線の冗談や思いやり
巨大ホテルを建て始めた時,建設者たちの念頭に
の発言が以前のようには容認されなくなり,些細
は,ホテルを政治の中心地とする気持ちがあった。
なことで劣等感からけんか腰の反抗を見せたり,
植民地時代には少数の親しい者たちだけの意見交
下手をすると拳骨をふるうなどの修羅場が起こり
換で物事を決めることができたが,彼ら自身が独
やすくなっていたという。
立共和国の行政官や議員となって政治を行う立場
ホテルの空間は,タバーンがはらむ独特の緊張
になると,個人の行動や見栄え,説得力や反論の
感を《排他と分離》という戦略によって緩和する
仕方などが大衆に見られ,吟味され,支援を得る
工夫がなされていた。すなわち,ホテル内の雰囲
ために必要な能力であることを認識する。
気やエレガントな装飾は,それにふさわしい服装
1780年代から90年代にかけて,初代ワシントン
とマナーを身に着けた人のみ受け入れることを暗
政権のハミルトン財務大臣のフェデラリストとジ
示し,社会的な軋轢は空間を分けることによって
ェファソン外務大臣のリパブリカンの間に深刻な
解消した。このことは寝室も同じであった。タバ
党派争いが生じていた。駐仏公使としてパリに滞
ーンでは寝室部分が公共部分と明確に区分されて
在し,フランス革命勃発の瞬間を体験したジェフ
いないことが多く,区分されていても同じ部屋,
ァソンは,フランス革命政権に同情的で共和派を
あるいは同じベッドを他人と共有することが当然
形成したのに対し,エリート層を背景にもつハミ
視されていたが,ホテルではそうした慣習を排除
ルトンは連邦派の代表であった。ホテル創建者た
した。ホテルでは,身分やステータスを見かけや
ちはほぼすべてフェデラリスト(連邦派)であり,
物理的な隔壁で区別するだけでなく,政治的な主
新しい政治のための空間を創造する必要があると
張を異にするグループをも隔離することができた。 考えた。リパブリカン(共和派)は連邦派の貴族
植民地時代には,ヨーロッパの都市のように人が
的秘密政治を批判して街頭示威行動などを行い,
集まれる公共的な場所がなかったから,政治が問
連邦派はそうした大衆の扇動を危険な行き方とみ
題になると人々はタバーンに集まって議論するの
て対立した。それゆえ,ニューヨークのシティ・
が常であった。ニューイングランドでは,飲酒を
ホテル建設には,政治の議論を街頭で行うのでは
制限しようとする宗教家や行政官に反対する勢力
なく,立派なパブリック・ハウス(ホテル)を建
151
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
て,ふさわしい環境で行いたいというフェデラリ
のであった。ワシントンの日記は,タバーンの実
スト側の期待が込められていた。ボストンのエク
情に不満を述べる一方で,時には一時的にパブリ
スチェンジ・コーヒーハウス&ホテルの建設にも
ック・ハウスにしつらえられた有力者の邸宅に迎
同じような事情が絡んでいたのであった。
えられたことを本人も理解していたことを示して
いる。公的なディナーやレセプションでも,各地
で同じような配慮が示された。大統領を迎えるに
ホテルは迎賓館
る
ふさわしい施設も食器などの備品もない市町村の
蒸気船もなかった。ヨーロッパにも大型都市ホテ
戸惑いや苦悩を示す資料が沢山残っている。直接
ルがなかった時代に,どうして独立したばかりの
大統領に粗末な歓迎しかできなかったことを詫び
弱小農業国だったアメリカに突然大ホテルが誕生
た手紙もあるし,他のコミュニティと歓迎ぶりを
したのか。長年パブリック・ハウスやタバーンで
比較され,それによって大統領への忠誠心を判断
事が足りてきたアメリカの大都市(といってもせ
されたりすることへの不安さえ示されている。
18世紀末といえば鉄道はまだないし,川を
万人ほどの人口)に,なぜホテルが
長い歴史と伝統のあるヨーロッパと違い,アメ
次々に建てられることになったのか。サンドヴァ
リカには公的目的に使用される公共建造物自体が
ル=シュトラウスは,その理由として,アメリカ
ほとんどなかった。それゆえ,多くの都市で賓客
合衆国の独立と選挙による大統領選出,新首都の
の宿泊,エリート層の社交,ビジネス・ミーティ
建設,連邦行政官の誕生と活動など,アメリカ人
ングの場所を提供する多目的公共建造物の必要性
であるという国民意識の芽生えと政治地理の再構
が痛感されたのであった。1800年までにポトマッ
成という時代背景を上げ,ホテルもまたその一環
ク川の無人の原野に連邦首都を新設すると決まっ
として誕生したのだと主張する。
た時,連邦市(ワシントンの死後ワシントン市と
いぜい
∼
人
命名)に最初のホテル建設が計画されたのもその
の生身の人間に国を代表させるという仕組みをア
必要性からであった。当然それは国を代表するに
メリカは誕生させた。ワシントン大統領が特定の
足る立派なものでなくてはならなかったし,その
人物や特定の勢力に偏る印象を与えないよう,あ
発想は当時の州都であったニューヨーク(ニュー
えて公的な施設のみを使って視察の旅に出たこと
ヨーク州)
,ニューポート(ロードアイランド州)
,
は先述した。独立戦争の英雄だった大統領は,行
ボストン(マサチューセッツ州),リッチモンド
ばらばらだった植民地が結束して独立し,
く先々の市や町の住民に熱狂的に迎えられた。歓
(ヴァージニア州)に
,
,
,
番目のホテ
迎のバナーの掲出はもちろん,行列行進や歓迎デ
ルが実際に,あるいは建設のためのプロジェクト
ィナー,お祭り騒ぎすらあった。しかし,ヨーロ
が誕生した背景でもあった。
ッパの市や町のように,賓客を迎える伝統もその
第一世代のホテルは,建造物の巨大さと立派さ
ための迎賓館に相当する城館や領主の別荘のよう
によって共和国が備えるべき宿泊施設のあるべき
な施設はなかったから,大統領が私人の家に泊ま
姿を示したという意味で後に残した影響は大きか
ることを謝絶したとき,迎える側は大いに苦心し
ったが,すでに見てきたとおり
た。大統領が既存の公的施設に宿泊したという事
せず,事業としては失敗であった。1789年にワシ
実は,当時のパブリック・ハウスやタバーンが重
ントン大統領が巡回旅行に出かけて以来,迎賓館
要人物のための宿泊はもちろん,歓迎の集いの場
的な施設が必要と認められはしたものの,旅客移
としてもふさわしくないことを白日の下に晒した
動はまだごくわずかだった。第二世代のホテルが
152
つを除いて実現
アメリカ・ホテル発展史
登場するのは,ナポレオン戦争(1799∼1815年)
インフラの整備と連動した。農民は余剰の生産物
と米英戦争(1812∼15年)を経て,アメリカがア
を販売したいし,工業者も製品の販売に輸送が欠
パラチア山脈以西や五大湖方面に向かって開発の
かせない。これまでのアメリカは大西洋岸に流れ
動きを始めてからのことになる。領土が拡大し,
出す川を
フルトンの蒸気船発明によって川の
航が可能に
格的な内陸開拓はセントローレンス川,ミシシッ
なり,運河の建設,道路や橋の建設が進み,鉄道
ピ川,オハイオ川流域だけの交易にとどまってい
が登場する頃になると,ホテルが採算の取れる事
た。北方の川は冬期には凍結して水運は途絶する
業になってくる。アメリカでは,国土開発と経済
し,川の流れから遠いところへは陸上を畜力と人
の発展は,まず交通・通信網の整備から始められ
力で運ばなければならなかった。それ以上に,川
なければならなかったのである。
の輸送は下りはよくても,上りは岸辺で船を引い
れる範囲の内陸に物資を運んだが,本
て上がるか陸路を畜力と人力で運ぶしかなかった
.第二世代のホテル(1815∼40年)
から,大変な労力とコストがかかった。誰であれ,
輸送手段を新開発する者は巨万の富を保証され,
他方,新設コミュニティは物資の集結と配送の拠
1812年に米英の対立が戦争に発展したことによ
点になりさえすれば繁栄が約束される状況にあっ
って,第一次のホテル建築時代は終わりを告げた。
た。ゆえに,平和が戻った1815年を境に交通革命
米英戦争は対外貿易を途絶させ,多くの商人たち
が始まるのである。
を破産させた。アメリカ人の多数派はホテルおよ
まずは道路交通の改善である。州の認可を受け
びその利用者層に対して批判的,敵対的でさえあ
た企業が有料道路(ターンパイク)を競って建設
り,ホテルの将来に明るい展望が見えなかったか
し,1830年までに数千マイルの舗装道路ができあ
らである。
がった。次が川を結ぶ運河や新水路の建設による
水運ネットワークの整備であり,転機は蒸気船の
交通革命と内陸開発
開発であった。1810年代にアメリカで誕生した蒸
米英戦争はアメリカにとって大きな転機になっ
気船は,上下両方向の水上運送を可能にし,輸送
た。1814年12月に講和条約が結ばれ,15年からア
力を激増させ,結果として運送コストをドラステ
メリカの新時代が始まる。独立国家であることを
ィックに引き下げて経済を活性化させた。第
再確認してナショナリズムが高揚し,対英貿易が
鉄道である。鉄道はどこにでも敷設でき,シーズ
途絶したことによって国内に必需品を生産する工
ンを問わず24時間使用できるから,アメリカの経
業が誕生し,肥沃で豊かな農業を約束する内陸部
済地図に一大変化をもたらした。既得権をもつ開
の土地を求めて西へ向かう開拓移住が始まった。
発への敵対勢力は存在せず,労働力は常に不足し
フロンティアが西部へ広がり,次々と新しい州が
ていたから,機械化と合理化は必然の方向であり,
成立する。インディアナ州(1816年)
,ミシシッ
ひたすら歓迎された。
が
ピ州(1817年)
,イリノイ州(1818年)
,アラバマ
物が動くためには人が動かなければならない。
州(1819年)
,ミズーリ州(1821年)と急速であ
物を扱うのは人であり,輸送する手段を動かすの
った。国内商業も急速に発展して物流が活発化し, も人だからである。既存の町の存在しないところ
海外貿易も復活した。
経済成長はアメリカにおいてはとくに交通運輸
へ開発の足が向かうのだから,当然そうした人々
の宿泊や飲食・休憩の場所が新たに確保されなけ
153
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
ればならない。かくして,ホテルの建設はコミュ
かった。1819年にはさらに小さな町セントルイス
ニティ経済の発展に直接リンクしていたから,ア
に西部最初のホテルが建てられる。地方の企業家
メリカでは交通とともにホテルは公共事業の一環
名が建てたミズーリ・ホテルがそれで,これは
と見做されたのであった。
階建ての石造建築であった。同じ年,コネチカ
ット州ハートフォードの町の中央に多目的ホール,
食堂,読書室などを併設したホテルができている。
大衆に依拠する第二世代ホテル
ホテルの存在がコミュニティにとって必要であ
ホテル経営を志す者たちが米英戦争終結後の10
ることは,第一世代のホテル誕生によって理解さ
年ほどの間,大型ホテル投資をためらったのには,
れ,承認された。米英戦争終結後,すぐにいくつ
もっともな理由があった。まず,第一世代のホテ
かのホテル建設の試みがなされたあと,1820年代
ルの失敗は広く認識されており,それらの失敗事
に入るとホテル建設ブームが訪れて,およそ10間
例が多大の労働力,資本,経営コストを要するホ
続く。この時代のホテルは,大胆な投資家と有能
テル・プロジェクトに二の足を踏ませていた。他
な技術者や職人,デザイナーなどの力を結集して
方,成功した既存ホテルの華やかな存在は,新た
建造され,しかも,第一世代のホテルと違って大
な投資に向かわせる勇気をくじくものであった。
衆的な存在になっていく。大勢の庶民がホテル内
ニューヨークのシティ・ホテルは大盛況だったし,
のロビーやパーラー,店舗や事務所や図書館を利
ボストンのエクスチェンジ・コーヒーハウス&ホ
用し,真にシビックセンターの様相を呈するよう
テルも,10年間はボストンの商業と社会に君臨し
になる。アメリカ人はこぞって昔のタバーンの価
ていて,これらに対抗しうるホテルを作ることは
値ある後継者を作り出そうとしているように見え
至難であった。それに,マクロ経済学的に見ても,
た。これが第二世代のホテルの特徴である。
1808年のイギリスによる貿易規制導入から後の15
第一世代のホテルがエリートだけの集会場であ
り,宿泊施設であったのに対し,この時期に登場
年間ほどは,アメリカ経済の投資環境はかなり悪
かったのである。
してくるホテルはコミュニティ全体のための存在
であり,エリート向けの施設という性格は薄めら
輸送革命と第二次ホテル建設ブーム
れていく。ホテルは庶民の殿堂でもあるという姿
ホテルの機能に対する高い評価にもかかわらず
に変わったのである。アメリカの総人口は1800年
積極投資が行われなかったという事実は,ホテル
に524万人だったが,1820年には964万人に増え,
の実験段階は過ぎたものの,まだ見習い期間とで
1850年には2300万人へと50年間で
もいうべき試練の変遷期にあったことを示してい
倍以上に急増
る。あるいは,宿泊施設が交通網の発展状況を反
する。
ただし,第二世代のホテルの展開は1820年代初
映していたともいえる。すなわち,交通革命は始
めまでは数も少なく,第一世代に比べるとはるか
まったものの,勢いがつくにはもう少し時間が必
に質素なものばかりであった。たとえば,1816年
要だったのである。
にリッチモンドに建てられたユニオン・ホテルは
ターンパイクであれ,運河,蒸気船,あるいは
南部初のホテルとして慣習に従って州都に建てら
ホテルであれ,インフラ開発への熱意は,国内開
れたが,リッチモンドの人口はやっと
発の投資が生きるという明確な合図を待っていた。
万人に届
く程度で,同州内の繁栄する港町ならその
∼
倍の人口を有していたから大したホテルは作れな
154
そして,その合図はそう長く待つまでもなかった。
ホテルは不可欠だがホテル建設投資はリスクが大
アメリカ・ホテル発展史
きいというそれまでの意識が,間もなくホテルを
年大型ホテルを完成させている。
持たないことはそれ以上のリスクであるという観
第一が1826年開業のボルティモアのシティ・ホ
念に切り換わっていく。1820年代半ばには,都市
テルで,これがエリー運河開通後に建設された最
にとってホテルは繁栄のための不可欠な要素とい
初のホテルである。翌28年には,ボルティモアか
う認識に変化していた。開発途上の大陸では,ホ
らオハイオ川沿いの未定の《どこか》を終着点と
テルの存在と質が町や市のロケーションの良否を
する鉄道建設工事が始まり,30年に23㎞先のエリ
示す指標と考えられるに至ったのである。公益を
コット・ミルズまで開通した。これがアメリカ初
重視するなら良いホテルをもたなければならない, の蒸気機関車牽引の鉄道であった(馬が牽く軌道
良いホテルがある町は繁栄する町,というわけで
はかなり前から存在していた)
。ボルティモアの
ある。無から有を生じるアメリカの都市ならでは
シティ・ホテルとボルティモア&オハイオ鉄道は
の意識構造である。
ボルティモア市の二大公共事業であり,投資家た
ちも単なる利益追求ではなく,ボルティモアの繁
エリー運河の開通
栄が脅かされることがないよう資金を投ずるとい
意識変化をもたらしたきっかけは,1825年のエ
う気概も含んでいた。市の衰退を防ぐには,ライ
リー運河の開通であった。17年に始められたこの
バル都市に負けないホテルをもつ必要があるとい
壮大なインフラ整備事業は,長年のアメリカ国民
う思いは一致していた。かくして激化する都市間
の期待を背負って掘削され,ついにハドソン川の
競争が第二次ホテル建設ブームに火をつけたので
支流モホーク川からエリー湖の東端バファローま
あった。
で水運でつなぐことに成功した。全長584㎞,幅
ボルティモアのシティ・ホテルはワンブロック
12m,深さ1.2m,高低差を移動するための閘門
全体を占める
が83か所も設けられた。25年10月25日の開通式に
開業した。応接スペースやダイニングルーム,ボ
は,時のニューヨーク州知事デウィット・クリン
ールルームはもとより,店舗やランチルーム,理
トン以下のお偉方がバファローで乗船し,10日間
髪店,バーなどに加え,寝室200室が設けられた。
かけてニューヨーク港まで下り,10万人の歓呼を
内部は絨毯や装飾用壁掛けで飾られ,外観はガス
受けながらマンハッタン通りを行進した。エリー
灯の照明によって遠くから見分けることができた。
運河は大西洋岸と五大湖地方からオハイオ川流域
さるニューヨーカーからの手紙に,ボルティモア
にかけての地域を水運で連結することによって,
のシティ・ホテルに勝る建物は今のニューヨーク
東部と中西部間の輸送コストを10分の
にはないが,間もなくニューヨークにも比肩する
に引き下
階建ての大型ホテルで,1826年に
げた。広大な地域を農地に換え,移住地を拡大し, ホテルができるだろうと書いている。
ニューヨーク市の後背地の大開発を促し,アメリ
しかし,ボルティモアに続いたのはニューヨー
カの経済地図を塗りかることが予想された。一方
クではなく,首都ワシントンであった。ワシント
で,このことは他の東部の主要都市の危機感を生
ン D. C. のナショナル・ホテルは,ボルティモア
んだ。各都市が将来の繁栄の道を狭められること
のシティ・ホテルが開業する前に着工されていて,
を怖れ,アパラチア山脈の西へ向かう川・道路・
1827年に完成した。一見してボルティモアのホテ
鉄道建設に大型投資を競い,ホテルに対しても積
ルとよく似ている。このことはすでにホテルとい
極的な投資が行われるようになった。事実26年か
う建築物がどのようなものであるかというコンセ
ら29年にかけて,東部の政治経済の中心都市が毎
ンサスが出来上がっている感じを受ける。
階建
155
ホスピタリティ・マネジメント
てで
Vol. 6 No. 1
2015年
月
ブロック全体を占め,シングルとツウィン
かかるようにした。無料の石鹸を提供し,ベルボ
の寝室が合計130室,居住用のユニットが若干数,
ーイを配置したのもこのホテルが最初とされる。
宴会場が12室のほか,さまざまな用途に使える数
建築費50万ドルをかけ,ドーリア式列柱を玄関に
多くの会議室があった。ボルティモアとワシント
配した豪壮な建築で,完成するや世の絶賛を受け,
ンに大型ホテルが出来たことは,新聞紙上で大々
アメリカの高級ホテルのモデルとなった。設計者
的に報じられ,首都対大経済都市という性格も踏
のイザイア・ロジャース(1800∼69)は,この後
まえて比較の議論が活発に行われた。すでにホテ
ホテル設計の第一人者と言われる人気建築家とな
ル競争が再燃したといってよい状況になっていた
り,36年開業のニューヨーク初の豪華ホテルとさ
のである。
れるアスター・ハウスの設計も担当した。
そこへ,ペンシルヴァニア州都フィラデルフィ
上述のとおり,トレモント・ハウスは第二世代
アのユナイテッド・ステーツ・ホテルが加わる。
ホテルの
フィラデルフィアも学校や邸宅を転用したそれま
の記録が多いこと,1895年まで営業を継続したこ
でのホテルでは満足できなくなって,新ホテル建
となどから,初の近代ホテルという栄誉を受けた
設に踏み切ったのであった。1828年に
のであろう。ちなみに,海野弘「アール・デコの
階建ての
つなのだが,こうした事情で文献など
ホテルがチェスナット通りに誕生した。このホテ
時代」第
章の中の「ホテル」の項では,このト
ルの規模については記録が残っていないが,正面
レモント・ハウスが世界最初の近代ホテルである
ファサードだけで65の窓があることから,寝室は
と書かれ,それまでのインなどとの違いを説明し,
100室から200室の間であろうと「ホテル史」の著
興味深い考察が述べられている。
者は推定する。このホテルでは,ペンシルバニ
ア・セントラル鉄道の申し出により,鉄道線路が
交通機関発達との連動
ホテル沿いに作られ,直接物資をホテルに運び込
ここまで見てきたように,アメリカではホテル
めるようになっていた。ホテルと鉄道が同時期に
はコミュニティの顔たる公的施設とみなされ,経
計画されたことは,都市の富の維持と後背地の開
済のあり方,言い換えれば人やモノの移動と連動
発を促進するための共同体意識が働いたのであろ
して発展してきた。最初は大西洋岸沿いの大都市
う。
や政治の中心都市につくられ,蒸気船による河川
交通の発展によって,北西部の内陸都市にもつく
トレモント・ホテル
られていった。
ボストンのトレモント・ハウス(ホテル)は,
1810年にミシシッピ川河口のニューオーリンズ
最近までアメリカ初の近代ホテルと紹介されるこ
からセントルイスまで,675マイル(1,013㎞)の
とが多かった。実際は,1825年に市の最富裕者グ
道程を行こうとすれば,船で
ループがホテル建設目的の公的組織を設立し,企
を馬で行くにせよ
画自体は早かったのだが,諸種の事情で着工が遅
に泊まりながらの旅であった。それが30年になる
れ,ボルティモアとワシントンに先を越された。
と蒸気船による
これでプレッシャーを受け,28年に着工し29年に
旅に短縮された。しかも船中泊ができることから,
開業した。
階建てで,寝室が170室,アメリカ
途中の宿泊施設も不可欠ではなくなり,沿岸の町
では最初に屋内に排水設備を設置して水道水を供
にとって,魅力的なホテルをもつかどうかが繁栄
給し,レセプション・ホールを設け,客室に鍵が
のカギとなった。第一世代のホテルも都市の繁栄
156
航するにせよ陸上
カ月かかり,途中のタバーン
航が可能になり,わずか数日の
アメリカ・ホテル発展史
のカギという認識では同じであるが,根本的な違
コマーシャル・ホテル
いは,第二世代の場合,ホテルが経営的に成り立
迎賓館として扱われた豪華ホテルに次ぐのが,
つようになったことである。30年に初の鉄道が生
コマーシャル・ホテルである。アメリカ固有の呼
まれ,瞬く間にネットワークが出来上がると,30
称であるが,コマーシャル・ホテルは1820年代に
年代を通じ,運河,ターンパイク,蒸気船,そし
現れる。流通機構が未整備だったこの時期のアメ
て鉄道による内陸交通が急速に整備されていく。
リカでは,企業幹部のビジネスマンだけでなく,
「アメリカ・ホテル史」によると,1840年現在
セールスマンと呼ばれる営業と販売を行う人たち
における人口40位までの都市のホテルの詳細な調
や,町の商店経営者たちが取引のために頻繁にビ
査が行われている。同書はその概要を紹介すると
ジネス目的の旅行をした。60年には,すでにセー
ともに,40都市の名前と最初にホテルが建設され
ルスマンだけで
た年を記載した地図を掲載している。当然大西洋
になると,その数は20万人を超えていたという。
岸の都市に集中しているが,内陸部では五大湖周
「ア メ リ カ・ホ テ ル 史」は こ の 頃 の コ マ ー シ ャ
辺 の ピ ッ ツ バ ー グ(1832 年)
,バ ッ フ ァ ロ ー
ル・ホテルの広告キャッチフレーズを紹介してい
(1836年),デトロイト(1836年)
,ミシシッピ川
るが,中には,ビジネスマン,セールスマンの求
沿いではセントルイス(1819年)
,河口のニュー
めるものを熟知する支配人の経営であることを強
オーリンズ(1831年)などが挙げられている。第
調 す る あ ま り,一 般 客 に つ い て は 最 後 に 一 行
二世代のホテルは,第一世代のホテルとちがって
「……一般のお客様も歓迎です」と付け足すだけ,
利用者はエリート層ばかりではなく,誰でも利用
できる公的施設であり,大都市であるほど多数の
大型ホテルが建設されるようになっていった。
万人が常時旅行しており,83年
といった事例さえあった。
セールスマンの求める基礎的条件とは,
「低廉
な価格と仕事ができる環境(サンプル・ルームが
あること)
」であった。1820年代,30年代の高級
.独立100周年記念「フィラデルフィ
ア万国博覧会(1876年)」まで
ホテルが
泊
ドル,週単位で
∼10ドルであっ
たのに対し,コマーシャル・ホテルはその半額で
宿を提供し,彼らの販売する商品見本(サンプ
1840年代と50年代はホテル建設ラッシュの時代
ル)を展示するスペースを提供した。コマーシャ
であった。ホテルの存在はすでに日常の風景にな
ル・ホテルは常にサンプル・ルームの存在を強調
り,個別のホテルの名を挙げてホテル史を語る時
し,
「適したサンプル・ルームをお約束します」
代は終わった。この時期のホテルについて,サン
とか,「当市第一のサンプル・ルームです」など
ドヴァル=シュトラウスは,ホテルの種類,立地,
と強調し,事実大都市のコマーシャル・ホテルに
用途などによる
は10室以上,ときには100室以上もサンプル展示
つの分類を採り入れ,ホテルを
システムとして論じている。①豪華ホテル,②コ
用の部屋を有するホテルさえあったという。
マーシャル・ホテル,③中級ホテル,④マージナ
豪華ホテルやコマーシャル・ホテル以外に,移
ル・ホテル(大部屋重ね棚ベッド式)
,⑤リゾー
民が押し寄せた時代のアメリカでは,これらに泊
レイルロード
トホテル,⑥ 鉄 道 ホテル,⑦セツルメント・ホ
まれない人々のために,③と④に分類される安価
テルである。ざっと見てみよう。
なホテルや大部屋に重ねベッドという安宿も東部
にはたくさんつくられたが,これらの安価な都市
型宿泊施設については省略する。
157
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
もつくられていった。
リゾートホテル
これまで挙げてきたのはいずれも都市ホテルで
裕福なアメリカ人たちは自分たちのアイデンテ
あるが,大都市から離れた自然環境に立地するい
ィティを自然美に求め,さまざまな景勝地を観光
わゆるリゾートホテルも早くからつくられていた。 目的で訪れるようになる。第
代大統領トマス・
立地の環境は海辺だったり,山岳地だったり,田
ジェファソン(在職1801∼09年)は,早くも1802
園地帯だったりしたが,初期には都市に付属する
年,ヴァージニアの奇観 Natural Bridge《自然の
施設として大都市在住の富裕層が利用した。奴隷
橋》を人々が観光できるよう,この地にホテルを
を所有する農園主,巨額の収入のある貿易商など, 建てるよう提案し,ここを「最も神秘な自然の造
時間も金も自由になる人たちが利用する別荘型の
形」と呼んでいたという。ヨーロッパのグランド
施設としてつくられたのであった。ゆえに彼らの
ツアーの対象が歴史と文化の探訪であったのに対
休養と健康保持のために,都市から
日程度で行
し,歴史的遺産のないアメリカは,ツアーの対象
ける範囲の温泉地や,空気がきれいで景観も美し
を自然美の探訪に置き換えたのである。この傾向
いところが選ばれた。アメリカのホテル第一世代
は,作家や芸術家が商工業化の進む都会の喧騒の
がシティ・タバーンの後継施設であったとすれば, 外の豊かな自然生活を描写する作品を生み出すこ
初期のリゾートホテルはヨーロッパの貴族階級が
とによって,一段と促進される。最もアメリカら
親しんだ温泉地や海浜などの保健・療養と社交目
しい景勝の地にはホテルが出来て当たり前とされ
的の施設の後継者であったといえるだろう。たと
る時代になったのである。24年にリゾートホテル
えば,ボストン近郊のニュートン・スプリングズ, の好立地とされたキャッツキル山岳地にキャッツ
フィラデルフィア近郊のイエロー・スプリングズ
キル・マウンテン・ハウスが建てられ,30年には
とブリストル・スプリングズなどが初期のリゾー
ナイアガラの滝周辺にホテルが林立した。同じこ
トホテルとして知られる。ヨーロッパ移民の上層
ろ,ニューイングランド地方にも数十軒のリゾー
階級人士は,18世紀半ば以降に発展したヨーロッ
トホテルがあり,とくに海岸沿いとニューハンプ
パの温泉地を知っており,アメリカでも病気治療
シャー州のホワイト山地に多かった。
や保養目的の滞在に適する場所に高級宿泊施設を
ヨーロッパ同様に,療養目的の滞在はまもなく
求めたのであった。最初はごく小規模の施設だっ
社交目的に取って代わられる。都市ホテルの滞在
たが,19世紀に入って数年後には大型施設もつく
日数が平均
られるようになる。ニューヨーク州のボールスト
テルではシーズン通しの客が多く,予約も週単位
ン・スパのサンスーシ・ホテルはその種の最初の
が普通で,月単位のことも稀ではなかった。富裕
もので,1806年に建設され,100室を有する施設
な家庭は夏中リゾートで過ごし,主人のみウィー
であった。他の温泉地もすぐに追随し,10年代に
クデーに働きに戻るというパターンが生まれた。
は,コネチカット州のスタフォード温泉,ニュー
泊り客たちの有り余る自由時間を埋めるために,
ヨーク州のサラトガ温泉,ヴァージニア温泉など
リゾートホテル側はコンサートや講演会,遊歩道
に立派なホテルが建設された。さらにその後の数
の散策,野外遊び,読書会,室内ゲーム,仮面舞
十年間に,温泉地のほかに海岸,山岳地など空気
踏会などなど,ありとあらゆるレジャー活動を工
泊程度であるのに対し,リゾートホ
のきれいな環境に多くのホテルが建てられていく。 夫してリゾート滞在を盛り上げた。当然若い男女
ヨーロッパの文化遺産に匹敵するアメリカの魅力
の交際も活発で,リゾートホテルは結婚市場にお
は自然景観であるという認識が生まれ,景勝地に
ける重要な出会いの場と機会を提供し,年ごろの
158
アメリカ・ホテル発展史
息子,娘をもつ親たちは当然この場を大切にした。 既存の集落に鉄道ホテルが設置され,そこが都市
最初のボールストンでさえ100室を超える規模
へと発展していったのである。前者はメリーラン
であったが,その後はその数倍の規模に大型化し
ド州カンバーランドであり,後者はヴァージニア
ていく。田舎は土地が安いから高層化することな
州のホイーリングとマーティンスバーグであった。
く,周辺の環境に溶け込む工夫がなされ,ネオク
最後のセツルメント・ホテルは,新しい町が誕
ラシック様式の,内装も豪華ホテルに劣らず華麗
生し,あるいは既存の集落が急速な発展を始める
なものに進化していく。「アメリカ・ホテル史」
ような場合につくられるホテルである。簡単に建
には,リゾートホテルの魅力的な外観と周囲の景
てることができ,料金も安く設定される。町が大
観の図がふんだんに掲載されていて,見るだけで
きく発展すれば,より大規模なホテルに建て替え
アメリカ人富裕層のリゾート滞在が想像されて楽
ることを前提とする,いわば使い捨てのようなホ
しい。
テルとして始まる。木造,ピッチを塗った屋根,
白塗りの壁面,そして各階の二面,ときには三面
鉄道ホテルとセツルメント・ホテル
にバルコニーをめぐらす。西部劇映画に頻繁に登
最後の
つのホテルはアメリカならではのホテ
場するタイプのホテルである。建築材も手に入り
ルである。無人の西部へ向かって鉄道が伸びて行
やすくコストが安いものを使い,本格的専門家が
くとき,問題になるのが機関車と鉄道のメンテナ
いなくても作れるよう定型化した建物になってい
ンスである。機関車は大変手のかかる精妙な存在
る。西部はこのようにして町づくりが行われ,発
で,常時の手入れが必要である。燃料を補給しな
展していった。
ければ動かないから,燃料保存の倉庫を適当な場
所に配置することが不可欠である。万一軌道上で
大陸横断鉄道
列車が立ち往生すれば万事休す,故障車両を撤去
ここで,西部開拓に向かうアメリカの国土開発
するまで鉄道は全線にわたって使用不能になる。
のエネルギーを象徴する大陸横断鉄道について触
言い換えれば,手の届くところに常時支援の手が
れておこう。東海岸を起点に内陸の開発に向おう
用意されていなければならない。そして施設には
とするとき,鍵となるのが鉄道の敷設であった。
技術者やマンパワーがシフト制をとって待機して
鉄道はアパラチア山脈を越えて西へ向かってどん
いなければならない。周囲に町も村もないとなれ
どん作られていき,鉄道誕生10年後の1840年にお
ば,彼らの寝食や息抜きの場所も必要である。と
け る ア メ リ カ の 鉄 道 の 総 延 長 は 2,300 マ イ ル
いうわけで,鉄道の沿線に沿ってホテルが作られ
(3,600㎞)に達していた。早くもアサ・ホイット
ることになる。ヨーロッパと違い,アメリカでは
ニー(1797∼1872)という企業家が大陸横断鉄道
既存の都市に向かって鉄路が延びるのではなく,
の必要性を認識し,45年に想定ルートに沿って詳
何もない平原や山岳地に敷設されていくのだから, 細な調査を行い,その結果を46年に下院議会に提
延びて行く先にロジスティクスを期待することが
出している。
できない。たまたま選ばれた路線の沿線が新開発
ホイットニーは1830年に貿易商としてイギリス
地になっていくだけだからである。ゆえに,民間
に渡り,創設間もないリバプール∼マンチェスタ
のボルティモア&オハイオ鉄道が敷かれたときも, ー鉄道に乗って鉄道の将来性を見通した。次いで
官営のノースカロライナ鉄道がスタートしたとき
中国に旅してアメリカの太平洋岸との関係の深ま
も,ともに分岐点にはホテル建設の必要性を認め, りを想定し,大陸横断鉄道の実現を志したのであ
159
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
った。だが,46年といえば,カリフォルニアがア
将来の可能性を知識として共有するようになり,
メリカ領土になる前であり,サンフランシスコの
平和到来以後,彼らの知識と能力がフルに活用さ
金鉱発見もまだ
れた。一言でいえば,南北戦争はアメリカ人の旅
年先の話しである。しかも46年
にはアメリカ・メキシコ戦争が勃発しているから, についての観念を変えたのであった。
時期尚早と退けられたのもやむを得なかった。大
陸横断鉄道はその後紆余曲折したあと,62年
このことは,地域ごとの存在でしかなかったホ
月, テル産業が,全米規模のホテル・リストが作成さ
リンカーン大統領が「太平洋鉄道法」に署名して
れるという形で普遍的な存在となった。それまで
建設が決まり,西はカリフォルニア州サクラメン
都市別のホテル・リストしかなかったのに,1870
トからセントラル・パシフィック鉄道が,東はネ
年代に入ると,いくつもの出版社が突然全米のホ
ブラスカ州オマハを起点にユニオン・パシフィッ
テ ル・リ ス ト の 刊 行 を 始 め た。72 年 の Boyd s
ク鉄道が線路の建設を始め,どちらがどれだけの
Hotel directory and Tourists Guide であり,74年
線路を敷くかを競うかたちでスタートした。69年
の Satia s Hotel List Guide で あ り,75 年 の
月19日,ユタ準州のプロモントリー・サミット
Gazlay s United states Hotel guide などである。
で両鉄道が合体して横断鉄道が完成した。その報
たとえばボイズのホテル・リストは持ち運び便利
はアメリカ中を歓喜で湧き立たせたという。鉄道
なポケットサイズだが,各市町村の名前と人口,
は人を運び,人が町をつくり,アメリカは西へ向
鉄道駅,近隣の町からの距離などのあとに,ホテ
かって大きく発展していく。そして奇しくもスエ
ル名・室料金・ミールプランが記されている。全
ズ運河開通とほぼ同時期に完成した快挙でもあっ
国版ホテルガイドと鉄道案内を併用すれば,全国
た。当然ながら,この鉄道の完成は東部から西部
どこへでも行ける時代になったのである。
への旅行を大きく促進し,その結果ホテルも関連
サービスも急速に発展していった。
フィラデルフィア万国博覧会
旅の促進の意味で南北戦争に匹敵するインパク
南北戦争の影響
トを与えたのが,1876年に開催された独立宣言
人の移動という面で巨大なインパクトを与えた
100周年を祝うフィラデルフィア万国博覧会であ
つが南北戦争であった。国中の人々を戦
った。この博覧会はアメリカはじまって以来の大
線に動員したから,通常なら遠くへ行くことのな
文化イベントであり,建国以来ここまで到達した
い農民も職人も,奴隷でさえも駆り出され,ヴァ
という姿を,自国民と世界に知らしめる画期的な
ージニアへ,ジョージアへ,ルイジアナへ,テネ
イベントであった。
事件の
シーへ,名前しか知らなかった国内各地へ徒歩で,
1851年にロンドンで初の万国博覧会が開催され
馬車で,汽車で,あるいは船で《旅》をした。こ
てからも,アメリカはこの時まで本格的に参加し
の体験は国民の視野を広げ,彼らの地平を広げた
たことがなかった。76年に独立宣言100周年を祝
のであった。平和が訪れてからも,戦争体験者の
う万国博覧会を開催することを決めたとき,組織
組織が多数つくられ,一生に一度の戦争体験を平
委員会は73年のウィーン万博に視察団を送って詳
時の旅に置き換え,戦跡を訪れたり記念行事を行
細を調査し,過去最大の観客を集めたウィーン博
ったりしてこの体験を活かしていった。それだけ
に比肩する万国博とする決意のもとに準備を進め
でなく,戦争で千人万人の大量移動を組織した経
てきた。会場は当時アメリカ最大の公園フェアモ
験者は,道路・鉄道・水運などの輸送路の状況や
ント・パーク(2,470エーカー)とし,ここに巨
160
アメリカ・ホテル発展史
大なパヴィリオンを林立させた。この特大イベン
家族が登場している。これは万国博の記録によっ
トには膨大な数の参観客が集まることが予想され
ても裏付けられる。フィラデルフィア万博では
たから,何よりも宿泊対策を講じなければならな
504人の迷子が係員のもとに連れてこられ,幸い
かった。かくて万博開始日にフィラデルフィアは
全員無事に親もとに引き取られたという記録があ
50室以上のホテルを51軒も有したが,そのうち
るという。こうなるとホテルも変わらざるを得な
件のホテルは会場のフェアモント・パークに隣接
い。80年前にホテルという施設が初登場したとき,
する場所に設けられた。中でもグランド・エクス
女性客も利用したが,子供の姿を見ることはほと
ポジション・ホテルは1,325室を有して当時世界
んどなかった。フィラデルフィア万博に多数の家
最大を誇り,万博主会場から徒歩
分の立地をア
族客が登場したことは,アメリカにも新しい時
つのトランス・コンチネンタ
代=観光の時代が到来したことを告げる狼煙であ
ピールした。もう
ル・ホテルは,万博会場正面入り口前という好立
地を謳い,
カ月間の会期中に
万2,000名の宿
った。
観光は急速に発展を始める。東西南北どこへで
泊客を泊めたと発表した。しかし,これら巨大ホ
も人が行くようになり,ホテル建設も商業,農業,
テ ル も,3,500 人 収 容 の グ ロ ー ブ・ホ テ ル や,
工業,鉱業など産業関連の需要に対応してきたの
5,000室を誇るアトラス・ホテルに比べれば,収
に加え,新たに観光立地が大きな要素として登場
容力に関する限り影が薄かった。もっとも,あと
してきたのである。
の
件は仮設で,万国博のパヴィリオン同様,終
了後には撤去される運命にあったのだが。
フィラデルフィア博覧会は空前の大成功であっ
.フィラデルフィア万国博以後
た。初日だけで18万7,000人が入場し,最盛期に
は
日25万人が訪れたという。当時のアメリカ合
「アメリカ・ホテル史」によれば,全米のホテ
衆国の総人口は5,000万人未満であったにもかか
ル業者総数は,1870年に
わらず,160日の会期中に,実に延べ1,000万人も
年には
万2,453に増え,以降,90年
の観客が入場した。ニューヨークをはじめとする
1900年
万4,931,10年には
近隣諸都市のホテル経営者たちも,万博客の誘引
ている。小規模ホテルの急増が中心ではあるが,
に励んだことは言うまでもない。フィラデルフィ
この間巨大ホテルも増えている。1880年代に鉄筋
ア博は入場者数が記録破りであっただけでなく,
コンクリートによってビルの高層化が可能になり,
国内旅行熱を呼び起こす特大のイベントとなった。
ホテルも高層化へ向かう。あらゆる種類の宿泊施
敢えて比肩しうるものを挙げれば,無理に駆り出
設が増える中で,特筆すべきなのが超豪華ホテル
された南北戦争しかないというほどのものであっ
の登場である。アメリカ経済の繁栄は富の偏在を
た。
許し,贅沢の限りを尽くしても有り余る富をもつ
万6,394だったが,80
万4,076,
万4,504へと増加し
フィラデルフィア万博は,かくしてアメリカ人
人たちの数が増え,対応して彼らをターゲットと
の国内旅行市場創出の一大転機となったのだが,
する超デラックス・ホテルが登場した。その最初
量的な飛躍だけでなく,家族旅行という新しいマ
の例がウォルドルフ・アストリア・ホテルといっ
ーケットを誕生させた。それまで都市の群衆の図
ていいであろう。
といえば男だけと相場が決まっていたのだが,万
国博の写真やイラストには沢山の女性と子供連れ
161
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
アメリカのグランドホテル:ウォルドルフ・ア
代のさ中ではあったが,700万ドルの再建資金を
ストリア
集め,31年に新しい場所で開業した。第二次世界
ドイツ系大富豪アスター家の御曹司ウィリア
大戦後の49年10月,ホテル王といわれたコンラッ
ム・ウォルドルフ・アスターは1890年に亡父の財
ド・ヒルトンがこのホテルの経営権を取得し,ペ
産を相続した。93年に旧邸宅を取り壊し,その跡
ン・セントラル鉄道から土地も取得して,今では
に当時としては最高層の13階建てのウォルドル
ヒルトン・チェーンの旗艦ホテルとなっている。
フ・ホテルを建設した。次いで97年,隣接する土
地に従兄弟のジョン・ジェイコブ・アスター四世
スタットラーによるホテル経営の刷新
(1864∼1912)が16階建てのアストリア・ホテル
われわれがよく知る今日の同型同設備の部屋が
を建設し,両者がおよそ30メートルの大理石床の
多数並ぶ高層の,機能的でリーズナブルな価格の
屋根つき通路でつながれ,ウォルドルフ・アスト
ホテルはアメリカで始まった。それまでのホテル
リア・ホテルとして新発足した。この通路はピー
は豪華な富裕階層向きのホテルか,快適とはいえ
コック・アレーと呼ばれ,ニューヨークの上流人
ない庶民のための小ホテルのどちらかで,中間の
士の人気を呼んで,ここを歩くことが
ホテルが不足していた。室内にトイレがなく,快
つのファ
万人も
適な空間とは言えないホテルが多かった。アメリ
の人々が着飾ってピーコック・アレーを訪れたと
カでは19世紀末期から製造業が大発展するが,流
伝えられている。創業当初からその豪華さと巨大
通機構が確立しているヨーロッパ諸国と違って,
さで注目を集めたウォルドルフ・アストリアであ
卸売や仲買などの商業機構の発達が遅れていた。
ったが,ニューヨーク市の中心がアップタウンに
西部には未開拓の土地が無制限に広がっており,
移るにつれて,ホテルのなじみ客もジョン・ジェ
海外市場の開拓に向かうより,巨大な国内市場の
イコブ・アスター四世(タイタニックの事故で死
開拓を競った。それゆえ,製造業もサービス業も,
亡)が建てたセント・レジース(1904年開業)や
新しいセールスのネットワークを築かねばならな
ザ・プラザ(1907年開業)などへ移り,人気が低
かった。マーケティング技術が発展し,個人や小
下して赤字経営に落ち込んでしまう。さらに,
売業への営業販売はセールマンによって行われて
ッションといわれるほどであった。
日
1919年に発効した禁酒法が追い打ちをかけ,29年, いた。セールスマンたちは商品や商品見本を携え
ついにウォルドルフ・アストリアは取り壊され,
て始終旅をしたが,そうしたセールスマンたちを
その跡地にエンパイア・ステート・ビルディング
ターゲットする安価で快適なホテルがアメリカで
が建てられた。しかし,取り壊し決定の直後から
はとくに必要とされていた。
「ウォルドルフ・アストリアのないニューヨーク
これに正面から対応したのがエルスワース・ス
は無意味だ」と支援の声が上がり,ニューヨーク
タットラー(1963∼28)である。スタットラーは
の顔として一時代を風靡したホテルの再建のため
1863年,貧しい牧師の家庭に生まれ,オハイオ川
に,鉄道会社や金融会社など21社が委員会をつく
沿いの都市ホイーリングで育った。13歳で同市の
って再建に乗り出した。前の場所より15ブロック
マクリュア・ホテルのベルボーイの職につく。ま
ほど北のパークアヴェニューとレキシントン・ア
もなくボーイ長,夜間のフロント,昼間のフロン
ヴェニューにまたがるワン・ブロック(ペン・セ
トへと昇格していき,この間にホテルという施設
ントラル鉄道の所有地)が用意された。世相は29
の機能やビジネスのあり方について学んだ。ビジ
年10月24日の「暗黒の木曜日」に始まる大恐慌時
ネスマンとしての経歴はマクリュア・ホテルのビ
162
アメリカ・ホテル発展史
リアード室とチケット・オフィスの経営を任され
電話,防火扉,カギ穴付きドアの把手,ドアの内
て成功したのを皮切りに,ホイーリングでボーリ
側に室内灯スイッチ,バスルーム内の大型ミラー,
ング場,ランチ食堂などの経営へと幅を広げ,バ
大型の戸棚(開けると電灯がつく),冷水専用蛇
ッファローで500席のレストランを開業するまで
口,無料の新聞配達などなど,今日のホテルのス
になった。
タンダードになっているこれらのサービスは,す
べてスタットラーの新案であった。
彼のホテル経営者としての名を高めたのは,
つの博覧会での仮設ホテルの経営であった。まず,
1901年開催のバッファロー米州博覧会で,2,000
近代的ホテルチェーンの誕生
室の仮設ホテルの経営を受託した。博覧会自体は
彼はそれまでの高級ホテルのように富裕階級を
天候不順に災いされたうえ,会場内の音楽堂で時
ターゲットとせず,一般市民とくに商用・ビジネ
のマッキンレー大統領が暗殺されるという不運な
ス旅行者をターゲットとして,低廉な価格で質の
事件が重なって,財政的には失敗に終わったが,
よいサービスを提供した。バッファロー・ホテル
スタットラーが経営したホテルは黒字で終わらせ
は大成功し,その後のコマーシャル・ホテルのモ
ることができた。次いで04年のルイジアナ買収
デルとなった。また,同質のホテルをクリーブラ
100周年を祝うセントルイス世界博でバッファロ
ンド(1912年),デトロイト(1915年),セントル
ーを上回る規模の大仮設ホテルを建設から請け負
イス(1917年),ニューヨーク(1919年)に建設
って好評を博し,大きな利益をもたらした。
つ
し,1923年にはバファローに新ホテルをつくり
の成功が金融界の注目を集め,自前のホテル建設
(旧ホテルは売却)
,そして最後のボストン(1927
の資金を得る道が開けたのであった。彼はマーケ
年)まで,
都市にそれぞれ1,000室を越える大
ティングや広告の重要性を学び,フレデリック・
型ホテルを建設した。1928年に亡くなるまでに合
テーラー(1856∼1915)らによって生まれたばか
計7,250室を所有し経営したが,スタットラーの
りの科学的管理法や経営学を学んでいった。
死後も未亡人を社長に頂いて隆盛を極め,29年以
降の大恐慌期にも,85%のホテルが倒産する中で,
スタットラー・チェーンのみが繁栄を持続した。
ドル半でバス付の部屋を
自分のバッファロー・スタットラー・ホテル
スタットラーはT型フォードを生産したヘンリ
(300室)を開業したのは1908年である。安価で清
ー・フォードの規格化と大量生産による質の高い
ドル半でバス
商品の供給というコンセプトを受け継ぎ,テーラ
付の部屋を(A room and a bath for a dollar and a
ーの経営学とマネジメントの思想をホテル経営に
half)”をキャッチフレーズに,ホテル経営を簡
持ち込み,チェーン化を図って成功したのだが,
素化した。すべてを標準化(規格化)し,科学的
その範囲はアメリカ国内のみの展開であった。第
計数管理による効率的経営手法を持ち込むことに
二次大戦後の1954年,スタットラー・チェーンは
よってコストを抑え,安価で質の良いサービスを
コンラッド・ヒルトンに全チェーンホテルを売却
提供した。建物の構造,客室と客席の設計,調理
して使命を終えた。
潔で効率的なホテルを目指し,
“
場の設計,使用する什器備品,従業員の組織と仕
事の内容などすべてにわたって簡素化し,原価管
世界に進出するアメリカのホテル
理その他の経営システムの導入によってホテル経
1920年代にホテル建築ブームが起こって多数の
営を一新した。全客室の標準装備はバスルーム,
ホテルが誕生したが,29年に始まる大恐慌でホテ
163
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
ルの業績は急速に悪化した。これで立ち行かなく
にスターウッドに買収され,スターウッド・ホテ
なった中小のホテルを買収して巨大ホテル・チェ
ルズ&リゾーツ所属のブランドとなった。
ーンを構築していったのが,シェラトン・チェー
ンを生んだアーネスト・ヘンダーソン(1897∼
ヒルトン・チェーン
1967)と,ヒルトン・チェーンを生んだコンラッ
コンラッド・ヒルトンは,第一次世界大戦に従
ド・ヒルトン(1887∼1979)である。スタットラ
軍してヨーロッパで過ごした後,1919年石油ブー
ーのように自らホテルを建設するのではなく,両
ムに沸くテキサス州にやって来た。銀行を買収し
者とも金融業者として,不動産業者として,大恐
て銀行家になろうと志すが,手ごろな買い物がみ
慌時代に経営が悪化したホテルを次々買収し,チ
つからず,たまたま40室のホテル・モウブレを買
ェーン化することによって実績を上げていった。
収したことがきっかけでホテル経営者を目指すこ
とになった。25年にはダラス・ヒルトン,27年に
シェラトン・チェーン
アビリーン・ヒルトン,28年にワコ・ヒルトン,
アーネスト・ヘンダーソンは,ハーバード大学
30年にはエルパソ・ヒルトンと矢継ぎ早にテキサ
のクラスメイトのロバート・ムーアと共同で,第
ス州内にチェーンホテルを展開する。ところが,
一次世界大戦従軍兵のボーナスを利用して不動産
大恐慌期に彼自身破産状態に陥ってほとんどのホ
業を始め,経営困難な中小ホテルを買い,1939年
テルを失って苦境に立ち,
にはボストンに
人として生き残った。そこから再起してまもなく
の
件のホテルを所有していた。そ
つがシェラトン・ホテルであった。このホテ
残りの
件だけのホテル支配
件のチェーンホテルの支配権を取り戻し,
ルの屋上には《シェラトン・ホテル》という巨大
第二次世界大戦終結前後に有名ホテルを次々に買
なネオンサインの看板がかかっており,これを撤
収していく。45年に3,000室を有するシカゴのス
去すると莫大な金がかかることからそのままにし, チーブンス・ホテル(後のコンラッド・ヒルト
名前と書体が気に入ったこともあって,自分たち
ン)とパーマーハウス・ホテルを買収し,46年に
が作ろうとしているホテルチェーンの名称に採用
ヒルトン・ホテル・コーポレーションを設立して
した。その後東海岸一帯に急速にチェーンホテル
株式を上場し,49年にはウォルドルフ・アストリ
を拡大し,高級路線をとって,45年にはホテル企
ア・ホテルを買収してホテル経営者としての名を
業として初めてニューヨーク株式市場に上場した。 高めた。この年ヒルトンは,海外ホテル第
49年にはカナダの
つのホテル・チェーンを買収
号と
してプエルトリコのサンファンにカリブ・ヒルト
月にテルアビブに北
ンを開業したが,これは初の経営委託によるホテ
米以外で初のチェーンホテルを開業すると,急速
ル展開であった。この時ヒルトンはプエルトリコ
に国際ネットワークを広げていった。ヘンダーソ
開発公社との契約で,土地と建設費を公社が負担
ンが67年に亡くなった時,154件ものホテルを所
し,ヒルトンの名前で経営し,委託料を収受した。
有していた。彼は不動産を見る目は確かで,業績
プエルトリコ側ではヒルトンに有利過ぎる契約だ
の悪いホテルを買収しては経営を立て直していっ
と担当者が非難されたというが,カリブ・ヒルト
たが,スタットラーや後述のヒルトンのようなホ
ンができたおかげでアメリカ人観光客が続々やっ
テル経営の改革者ではなかった。彼の死後,68年
てきて,このプロジェクトは双方に大いなるプラ
に多国籍企業 ITT がチェーンを買収し,ITT シ
スをもたらした。
して国際展開を始め,61年
ェラトンとなった。98年にはウェスティンととも
164
ヒルトンは,戦後の欧州復興計画(マーシャ
アメリカ・ホテル発展史
ル・プラン)によるアメリカ人の訪欧旅行促進政
同様にユナイテッド航空がウェスタン・インター
策の追い風を受けて,続々とヨーロッパをはじめ
ナショナルホテルズ(海外と国内)を,アメリカ
とする海外にチェーンホテルを展開する一方,国
ン航空がアメリカーナ・ホテルズを買収するなど,
内では1954年にスタットラー・チェーンを買収し
航空機時代の新しい展開を見せた。
て名実ともに世界第一を誇るホテル・チェーンを
つくり上げた。日本には東京オリンピックが開催
される前年の63年,東急電鉄からの受託によって
結びに代えて:ホリデーインと
モーテルの近代化
東京ヒルトンを開業した。
なお,コンラッド・ヒルトンはシェラトンのヘ
アメリカ式マーケティングの勝利の一例として,
ンダーソンと違って,ホテル経営にいくつもの新
もう
機軸をもたらした。ヒルトンの功績とされている
テル産業に革新の風を吹き込んだホリディ・イン
のは,上述のマネジメント契約方式の開始と国際
である。ホリディ・インは第二次大戦後の1952年
チェーンの展開のほか,ホテル・スペースの有効
の創業であるが,アメリカのように国土が広大で,
利用が功績として挙げられる。ヒルトンは国内外
ヨーロッパほど鉄道ネットワーク密度がない国で
の多くのホテルを買収によって獲得したが,無駄
は,自動車が発展し,長距離のドライブ旅行が否
なスペースが多いことに気づき,
《金鉱を掘り当
応なしに大衆化した。10年代まで,自動車旅行者
てる》digging for gold を合言葉に,ショッピン
は夜間には車を停めて車中で寝るか,道路わきに
グ・アーケードをホテル内に作り,有名レストラ
持参のテントを張って寝ていたという。20年代半
ンにテナント出店させてホテル内の食堂を専門店
ばになると,車旅行者の宿泊用に簡易なモーテル
化したことも,ヒルトンが最初に導入したやり方
(モーター・ホテルないしモータリスト・ホテル
であった。
つ採り上げたいのがモーテルの分野からホ
の合成語)ができはじめる。33年から弁護士ペリ
ー・メイスンシリーズを書き始めた人気推理小説
航空会社のホテル業への進出
作家 E. S. ガードナーの作品に頻繁に出てくるよ
第二次世界大戦が終結すると,航空機時代の到
うに,パーキング場から直接入室する客室が並び,
来である。航空会社は就航する目的地に高級ホテ
管理人のいる事務所でチェックインして鍵をもら
ルがないと乗客を獲得するのに不都合があり,そ
うと,あとはセルフサービスで荷物は自分で部屋
れゆえホテルを所有することが航空会社の戦略と
に運び込む。間の壁は薄くて隣の人の声が聞こえ
して有効であった。世界最大の国際線航空会社で
てしまうようなものが多かった。
あったパン・アメリカン航空がホテル業への進出
の先鞭をつけた。1946年
月にブラジルのベレン
こうしたアメリカ独特のモーテルを近代化して
ホテル産業に新風を吹き込んだのがホリディ・イ
に自社便の乗客やクルーのためのホテルを建設し, ンの創業者ケモンズ・ウィルソン(1913∼2003)
これがインターコンチネンタル・ホテルズの始ま
である。スタットラー,ヘンダーソン,ヒルトン
りとなった。以後就航地を増やすにつれて,買収
と続いたホテルチェーンの創立者は,いずれもビ
や自社建設などで次つぎに外国にチェーンホテル
ジネス客を主たるターゲットとする都市ホテル中
を増やしていく。同じくアメリカの国際線航空会
心に展開したが,いずれも庶民の家族旅行者には
社のトランスワールド航空(TWA)もホテル業
高過ぎたし,使いにくかった。ミシシッピ川沿い
に進出し,67年にヒルトンの海外部門を買収した。 のメンフィス市に住んでいたウィルソンは1951年
165
ホスピタリティ・マネジメント
Vol. 6 No. 1
2015年
月
妻子を連れてワシントン D. C. までのドライブ旅
ひったくるように取り上げてチップを強要する
行に出かける。1,200㎞を超える長旅で,宿泊は
のが不愉快だったから,そういうサービスは廃
途中に点在する都市ホテルと街道沿いのモーテル
止してセルフサービスにする。ホテルやモーテ
を利用しながら行った。ウィルソンが家族旅行を
ルにエアコンがないことにも不満を感じたので,
した当時のモーテルは,施設,サービス,料金な
空調設備を標準装備化した。スタットラーが史
どいずれもひどい状態であった。そこでウィルソ
上初めて電話を各部屋の標準装備にしたように,
ンは,自分がやればもっと便利,もっと快適,も
ウィルソンはカラーテレビを各部屋に設置し,
っとサービスがよく,しかも料金はもっと安くで
スタットラーが冷水供給装置を付けたが,ウィ
きると考え,帰宅するとすぐに新しいモーテルの
ルソンは製氷機をつけてアイスキューブを無料
構想を練った。最初から全国チェーンを展開する
で提供した。当時モーテルには満足できるレス
計画で,52年に最初のホリディ・インをメンフィ
トランはなかったし,ホテルのダイニングルー
スに建てると,同じ年メンフィス市内に一度に
ムは金に糸目をつけない社用族向けで料金が高
件の建設を始め,その後一気に増やしていき,最
く,子供は歓迎されない雰囲気であった。よっ
盛期にはフランチャイズ方式で
てホリディ・インでは家族で楽しめるレストラ
日
件の割合で
ンを必ず設置し,各種飲み物などの自動販売機
チェーンホテルを増やしていった。
ちなみにホリディ・インという名称は,ビン
も設置した。その他,プールを標準装備とし,
グ・クロスビーとフレッド・アステア主演のミュ
ベビーシッター・サービスを取り入れ,連れて
ージカル映画「Holiday Inn」
(1942年)
(日本で
行く犬のための犬小屋まで装備した。
は「スイング・ホテル」のタイトルで紹介され
フリーウェイのネットワークが整備される1960
た)に出てくる《休日だけオープンする劇場》の
年代後半には,旧式の道路わきのモーテルは衰退
名前で,この映画でビング・クロスビーが歌った
の方向に向かう。ホリディ・インも当初は車旅行
「ホワイト・クリスマス」が史上最大と言われる
に便利な道路沿いに立地したが,やがて都市の周
ほど大ヒットし,当時も人気ソングとして歌われ
辺部,そして大都市の中心部へも同じコンセプト
続けていた。そこで建築家が気まぐれに最初のモ
で進出していった。68年には1,000件,室数合計
ーテルをこの名で呼んだのが大ホテルチェーンの
12万5,000室を超える急成長ぶりを示し,78年に
名称に採用されるきっかけであったと紹介されて
は全世界に1,713件のチェーンホテルを擁し,年
いる。
間の客室収入17億ドル,飲食収入
ホリディ・イン独特のコンセプトを,岡本伸之
「現代ホテル経営の基礎理論」の記述を借りて紹
ている。これはヒルトンの
倍に当たり,早くも
世界最大のホテルチェーンになっていた。
筆者は1982∼87年,小学生の
介すると次のとおりである。
……ウィルソンはワシントンへ旅行して,当
億ドルに達し
にスイスで
人の子供と一緒
年を過ごしたが,ヨーロッパを家族
時のホテルもモーテルも家族旅行者にとって非
でドライブ旅行する際,ホリディ・インのあると
常に高くついたし,サービスもひどかった。
ころでは必ずホリディ・インを利用した。通常の
室10ドルの部屋に入って,幼い子供まで
ホテルではツインルームに
人
台の補助ベッドが入
ドルの追加を払わされたという。ゆえにホリデ
れられず,
ィ・インは,12歳以下の子供は無料にする。ホ
ィ・インではゆったりしたセミダブル・ベッドが
テルでは到着するとベルボーイが軽い荷物まで
166
台あって,
室を使用させられたのに,ホリデ
室で充分泊まれたからである。パ
アメリカ・ホテル発展史
ーキングは当然自由に使え,プールが必ずあるの
で子供が喜んだし,レストランも気兼ねなく利用
できて有難かった。
その後のアメリカのホテルチェーンは栄枯盛衰
と吸収合併による変化が多く,広範な国際化の波
の中でフォローするのも容易でないほど激しい変
動を続けている。
主要参考文献
Sandoval-Strausz A. K.(2007)
(
「ア メ リ カ・ホ テ ル 史」
),Yale University
Books。
岡本伸之(1979)『現代ホテル経営の基礎理論』柴田書店。
(石井昭夫
観光研究者,元立教大学・帝京大学観光
学科教授)
167