「榎本武揚について(略歴)」

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資料1
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「榎本武揚について(略歴)」
1836(天保7)年 旗本武規の二男として生まれる。幼名釜次郎
(父は福山の庄屋。江戸で学び伊能忠敬の弟子となり、旗本榎本家の娘と結婚)
1847(弘化4)年 昌平黌(昌平坂学問所)入学。(大鳥圭介とはここで会う。)
他に江川英龍から蘭学を、ジョン万次郎から英語を学ぶ(18歳の頃)。
1854(元治元)年 函館奉行掘利熙(としひろ)の従者として蝦夷・樺太探検
1857(安政4)年 長崎海軍伝習所に入り蘭学・国際情勢・航海術などを学ぶ。
ここで勝海舟と会う。
1858(安政5)年 江戸の海軍操練所教授となる。23歳。
1862(文久2)年 オランダ留学。カッテンディ―ケ海軍大佐の世話になる。
国際法・軍事知識・造船技術・船舶知識・航海術などを学ぶ。
1866(慶応2)年 5年の留学を終え、開陽丸で帰国。
1868(慶応4)年 鳥羽伏見の戦い。海軍副総裁となる。江戸城開城。
徳川慶喜が開陽丸で大坂脱出。榎本は富士丸で江戸に戻る。
その後、幕府艦隊を率いて江戸を脱出。
土方歳三ら2500名余で五稜郭占領。
「蝦夷共和国」を設立、入札により総裁に就任。
1869(明治2)年 凾館戦争終結。切腹しようとしたが止められ降伏・投獄。
戦争中、留学時代自身が書写・脚注した『万国海律全書』を黒田了介に託す。
福沢諭吉が、「この本を翻訳出来るのは榎本の他になし」と、助命を求める。
1872(明治5)年 新政府に登用される。
1874(明治7)年 海軍中将。中露特命全権公使に。
1875(明治8)年 「千島・樺太交換条約」の締結に尽力する。
1882(明治13)年 海軍卿に。
1887(明治20)年 初代伊藤博文内閣で逓信大臣に。
1888(明治21)年 二代黒田清隆内閣で逓信大臣に。電気学会初代会長に。
1889(明治22)年 三代山県有朋内閣で文部大臣に。
1890(明治23)年 子爵に。
1891(明治24)年 四代松方正義内閣で外務大臣に。
育英黌農業科(現在の東京農業大学)設立。
1894(明治27)年 五代第二次伊藤内閣で農商務大臣に。日清戦争始まる。
1896(明治29)年 六代第二次松方内閣で農商務大臣に。
1997(明治30)年 足尾鉱毒事件を私人として視察。予防工事命令を出す。
“足尾鉱毒を知らずにいたことの責任を取って”(引責)辞任。
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資料2
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「榎本武揚の人物評価」
「なによりも彼らは、心の底から航海術に熟達したがっていた。そして、優れ
た資質を持つ生徒も大勢いた。榎本釜次郎などは、先祖は江戸において重い役
割を演じていた家柄なのに、二年ものあいだ、一介の火夫、鍛冶工、機関部員
として、黙々と働き続けた。これは当人の勝れた品性と、絶大なる熱心さを物
語るものであるが、この純真で快活な青年を一目見れば、誰でも彼の素晴らし
さが理解できることと思う。」
(『長崎海軍伝習所の日々』ヴィレム・カッテンディ―ケ)
蝦夷共和国の設立に関して、列強の関係者から「事実上の政権(オ―ソリティ
ー・デ・ファクト)」という覚書を得る。
一般大衆の評価は「明治最良の官僚」。
「江戸城が無血開城された後も降参せず、必負必死の忠勇で函館に籠り、最後
まで戦った天晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府も罪を憎
んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談である。勝敗は兵家の常
云々」
(『瘠我慢の説』福沢諭吉)
「『海律全書』はわが国にとってとても重要な本である。正しく訳せるのは講義
を聴いた本人以外にいない」
(福沢諭吉)
榎本武揚の名言
「学びてのち足らざるを知る」
「振り返ってみて五稜郭の時の苦労を思えば、外務大臣の仕事など、どれほど
のものでもない」
「人為の階級こそ差はあれども、その教育に対するに至りては同じく共に責
任を負ふものなり。同じ釜の飯を食ふものなり。」