地方に移住した若者たち(PDF形式:732KB

脱・都会! 地方に移住した若者たち
京都→山口県萩市
坂 悠太さんの場合
Part1
総務企画部 広報・情報システム室
TEL 082-224-5618
このコーナーでは、東京や大阪などの都会から、地方に移住し、充実した生活を送って
おられる方をご紹介します。
連載第4回は、京都から山口県萩市にUターンで帰ってこられ、400年の伝統を持つ
萩焼の宗家である「坂 高麗左衛門窯」の若き当主、坂悠太さんにお話を伺いました。
坂さんは、生まれは山口県美祢市美東町。萩焼の創始
者である「坂 高麗左衛門」の窯元の家系に生まれまし
た。
ご自身は、高校2年まで萩焼とは無縁の生活を送って
いましたが、伯父である十二世 高麗左衛門の急逝によ
り、母親とともに名門を引き継ぐ運命に。伝統を継承
すべく、京都で焼き物の勉強をして萩市に帰ってきた
ところ、さらに跡を継いだ母、十三世 高麗左衛門が2
014年に亡くなったことにより、26才の若さで窯
を引き継ぐことに。
今回はそんな坂さんの生い立ちや、京都へ行った経緯
についてご紹介します。
旧毛利藩 御抱窯「萩焼坂窯」とは
--まずは窯の由来について
萩焼は文禄・慶長の役の際、毛利輝元公によって連れ帰られた朝鮮の陶工 李勺光・李敬兄弟に
よって創始されました。関ヶ原の戦いの後、毛利公の萩入府の際に御用焼物所が設立された場所
が、この萩市松本です。坂助八と名を改めた李敬が、寛永二年(1624年)、初代藩主秀就
公より「高麗左衛門」に任じられ、坂窯は萩焼の窯元として約四百年続いています。
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生まれ育った美東町から萩へ
--坂さんの年齢とご出身は?
昭和63年生まれで、今、27才です。出身は山口
県美祢市美東町で、「秋吉台サファリランド」の近くです。
高校1年生まで住んでいましたが、伯父の十二世高麗
左衛門が亡くなった関係もあり、萩に移りました。萩へ引
っ越すこと自体は、そんなに大変ではありませんでした。
両親ともルーツが萩ですし、母の実家ですから、「おばあ
ちゃんち」という感じです。高校も美東町に高校がないの
で萩に通っていました。
--お母様は 十三世「坂 高麗左衛門」を襲名
私の母はもともと美術系の大学を卒業し、十二世の下で絵付のアシスタントをしていました。ですから、
技術的な意味でも十二世の仕事を引き継ぐことができるということ、十二世の妻である母の姉も先に
亡くなっていたこともあり、母が跡を継いだと思います。そこには、「途絶えさせない」という思いがあった
ということでしょうか。僕が母の代わりに伯父の十二世の跡継ぎになるという可能性もあったのですが、
僕が高校2年生の時に事故で急に無くなってしまったものですから。
--生まれた時から、継ぐことが決まっていた?
そのあたりは微妙ですが、伯父夫妻に子供がいなかったということもあり、選択肢には入っていたみた
いです。しかし、僕自身は、普通に美祢の美東町でわりとのびのびと育ちました。坂窯は当然母方の
実家ですし、母の職場でもあったわけですが、それ以上ではありませんでした。焼き物の仕事に興味
は全くなかったです。自分の周りにも、そういった分野に興味を持った人はいなかったように思います。
--小さいころから焼き物の技術を鍛えられているのかと思っていました。
もちろん、窯元の家に生まれ育ったとか、誰がどう見
ても跡とりという状況だったら、葛藤があるにせよ、家
のことを強く意識される場合が多いと思います。そこか
ら家の仕事に興味を持たれる方もいらっしゃるでしょう
し、中にはあえてそれを避けていかれる方もいらっしゃ
るでしょうが、僕の場合は焼き物をやらなきゃいけない
という意識をするということが、そこまでありませんでし
た。
そして、それは、いい面と悪い面があると思っています。いい意味では、プレッシャーにさらされて育たず
に済んだということもありますが、悪い面では、当然小さいころからそういった仕事に親しんでいたほうが、
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良いことがあったかもしれません。家業を幼い頃から近くで見ることは、技術的な面でも、心理的な意
味でも大きいのではと思います。
萩焼の世界に
--萩焼の世界に入ったのは?
この家に来てからも普通に高校生をしていました。ただ美術系の大学には行かないといけない、という
流れにはなり、美術系の陶芸専攻のある大学を選ぶことになりました。結局跡取り息子として周囲か
ら期待されたわけですが、自分の意思としては、歴史というか、そういうものを支える当事者になれる
のだったら面白いと思いました。
私は、昔からとても歴史という分野に興味があり、歴史に興味がある以上、江戸時代から仕事を続
けてきた家を放り投げるということは、とても矛盾することだと考えました。
--そして、京都の大学に進むことに。なぜ京都を選ばれたのですか?
関東より地理的に近いということと、姉が京都に進学した関係から何度か足を運んでおり、心理的に
近さがありました。加えて、焼き物やお茶関係の方は京都に
多いですから、その関連でご縁のある方がわりと固まっておら
れて、いろいろ教えてもらえたり、いざというとき助けてもらえる
という期待もあったかもしれません。また、自分は美術系の学
校を受験することを決めたのが遅く、またその素養も無かった
ので、それでもなんとか入れる大学を選んだ、という側面もあ
ります。
--芸術関係の方が多い?
特にお茶関係ですと、当然京都がメッカになるので、やはりそ
の周りにお茶に関する工芸や技術が固まっています。お茶に
関する道具を作っている家なので、お茶にまつわるものを沢
山見られるという意味でも、京都というのはすごく面白い場所
だったなと思います。
京都での焼き物修行
--京都では、どのようなことを学ばれましたか?
僕が入学したのは、京都造形芸術大学の美術工芸学科陶芸コースというところです。いわゆる皆さ
んが想像されるような陶芸ではなくて、もちろん器を作る方もいましたが、オブジェというか、用途性の
ない焼き物を作る方も多かったです。極端なものをいえば、焼くという行為すら省いた、陶芸という分
野の境界線を探るような仕事をされている方もいらっしゃいました。
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--いわゆる現代美術ですか。今の伝統的なことは真逆のようなことをされていた。
ところがそれらがまったく対立しているとかそうわけではなく、別に何をやってもいい。そういうのが見えた
のは面白かったです。僕はその中で迷っていたような気がします。どこに進んだらいいのか、すごく面食
らいました。
--卒業後は?
大学に4年間行ったのですが、その後、京都府立陶工高等技術専門校、俗に言う訓練校に進学
しました。おおまかにいうと焼物屋さんの職業訓練
施設です。ロクロの技術や絵付けのコースがあるの
ですが、僕はロクロの技術を 1 年間勉強しました。
その後、今度は京都市産業技術研究所、伝統
産業の技能者育成コースに進みました。いわゆる
試験場※と呼ばれる場所で、焼物に使うための原
料を、科学的に分析、研究することができる施設
です。京都内外を問わずいろんな方が来ていて、
同級生に別の萩焼の人もいました。つまり最初に
4年大学にいてプラス1年あとプラス2年、合計
7年京都にいたことになりますね。
「伝統産業技術後継者育成研修」
(地独)京都市産業技術研究所 HP より
※試験場:(地独)京都市産業技術研究所は、京都市の設立した公設試(公設試験研究機関)であるが、前身の一つが「京都市
工業試験場」であるためか、陶芸をしている方々で「試験場」が通称として使われている。
このコーナー、これまでIターンの方が3人続きましたが、今回の坂悠太さんは京都か
らUターンとなります。その事情を聞けば聞くほど、背景にある「坂 高麗左衛門窯」
という歴史の重みを感じざるを得ませんが、それを、歴史を支える当事者になれるチャ
ンスと、プラスに捉えることができる柔軟な考え方に驚かされました。
次号は、京都からの帰郷、そして窯を伝承してゆくことについて語って頂きます。お楽
しみに。
◆萩市観光協会「ぶらり萩あるき」 ウェブサイト(坂 高麗左衛門窯の紹介ページがあります)
http://www.hagishi.com/
◆京都府立陶工高等技術専門校 ウェブサイト
http://www.pref.kyoto.jp/tokgs/
◆地方独立行政法人京都市産業技術研究所 ウェブサイト
http://tc-kyoto.or.jp/
経済産業省 中国経済産業局 広報誌
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