COLUMN COLUMN ◆連載ー Vol.10 執筆者プロフィール 現代建築 ヤブニラミ 千葉大学建築学科卒業、 『住宅 特集』『新建築』編集長 を 経 て 中谷 正人(なかたに・まさと) 1948 神 奈 川 生 ま れ。1971 年 1994 年 か ら フ リ ー 編 集 者。 1999 年∼ 2014 年千葉大学客 中谷 正人(建築ジャーナリスト) 員教授。木の建築フォラム理事、 日本建築学会建築文化事業委員 会幹事 モダニズム 建築 の 揺籃期 その 2 もともと文字 を 持 たなかったフィンランドだったが 、民間伝 承 としての 神話 や 民話 が 口承伝説 として 生 き 残っていた 。 と 北欧 の 目覚 め ナショナル・ロマンチシズム ころが 、 キリスト教 が 広 まるにしたがって 内容 がだんだんと変 産業革命以来、第一次世界大戦前後 の 混乱時期 に 至 るま 容してきた 。 18 世紀 にエリアス・リョンルートという文学者 が で 、 さまざまな 展開 が あったの は 中央 ヨーロッパだけではな 国内 を 歩 き 回って 伝承 を 採譜、 キリスト 教 の 影響 で あろう部 かった 。 北欧 ではナショナル・ロマンティシズムが 興り、既存 分 を 極力排除して 、 つまりオリジナ ルに 近 い 形 でまとめた の の 建築様式 に 大 きな 揺 さぶりをかけた 。 が 国民的民族叙事詩といわれる『 カレワラ 』であった 。 さまざまな 情報 は 密度 の 濃 いところから 薄 い ほうへと流 れ 『 カレワラ 』の 刊行 がロシアの 圧政とともに 民族意識 に 火 を る。 時 には 暴力 を 伴うから 侵略ともいえるものだが 、 そ の 伝 つけ 、第一次世界大戦 の 終結 を 待 たずに 1917 年、 フィンラ 達構造 はおそらくローマ 時代 から 変 わらない 。 建築文化 につ ンドは 独立 を 果 た す 。 そう、来年 はフィンランド 建国 100 周 左上/ エリエル・サーリネン設計 のヘルシンキ 中央駅。農夫 は 正面入り口 の 両側に立っている 中上/シリアラインとバイキングラインが 巨大 な 壁となって 立 ちふさがる 右上/ サーリネンが 設計したポホヨラビル 。 カレワラに登場 する動物 たちが 各所に散りばめられている 左下/運河越しに見る、 おなじみのストックホルム 市庁舎 のアングル 中下/列柱とアーチ 、上に向 かってブレイクダウンしていく窓割りがリズミカル 右下/議場 の 天井。 これこそナショナル・ロマンティシズム 。 バイキングたちはこのような 船底 の 下 で 、次 に 狙う獲物 を 話し合っていたのだろうか 。 いても 同様 のことが 言 える。 常 に 中央ヨーロッパから 周縁国 年 にあたる。 余談 だが 、フィンランドと私 のつながりが 深くな ックホルムを 往復 するシリアラインとヴァイキングラインのふ スウェーデン バイキングの 記憶 で ある 北欧 へ 流 れるの だが 、 とくに 北欧 はドイツからの 流 れ った の は 、 たまたま 建国 75 周年 の 年 にフィンランドを 訪 れ 、 たつの 巨大 なフェリーが 、日中 はヘ ルシンキ 湾 の 東西 に 碇泊 スウェー デンにおけるこの 時代 の 代表作 はラグ ナ ル・エス が 強 いように 見 えるのは 、当時 の 国際勢力 の 状況 を 映してい そこで 多くの 建築家 をはじめとする 人々 と 知りってからで あ し、海 からの 眺 めを 阻害しているのだ 。 トベリ設計 による「 ストックホルム 市庁舎」 ( 1923 )だろう。 レ るのだろう。 り、 そろそろ 25 年 も 経過したことになる。 な お 、 この 時代 のフィンランドで 、現代建築 とは 言 えな い ンガを 積 んだ 外観 は 重厚 で 、連続 アーチや 列柱と回廊 などは ドイツからデンマーク、 スウェーデンそしてノルウェイ 、最 ちなみに、独立時に英雄 が 4 人 いた。 ひとりは 当然 のことな のだが 、記しておきたいことがある。独立したとはいうものの 、 様式的 では あるが 、全体 として の 外観 の 装飾 はシンプ ルで 、 後 にフィンランドというルートが 想定 される。 あるいはポーラ がら 軍人 のマンネルヘイム 将軍 である。 ところが 残 る 3 人 は、 カレリア 地方 は 戻らな かったため(今 でもロシア 領 で ある )、 むしろボリュームの 変化 が 特徴 であろう。 ンド、 バルト三国経由 も 考 えられるが 、 いずれにしても 、フィ 音楽家 のジャン・シベリウス、画家 のカッレン・カッレラ、 そし カレリア 地方 の 多くの 人々 が ヘ ルシンキ へ 引 き 揚 げてきた 。 インテリアも 簡素 さがあるように 感じるが 、どうやら議場 へ ンランドは 中央ヨーロッパから見 れば 最果 ての 地 にあたる。 て建築家 のエリエル・サーリネン。軍人以外はすべて文化人で そ れ 以前 からヘ ルシンキ の 都市化 は 始 まって おり、 1920 年 の 導入部 として 考慮 されて いるように 思 える。 な んといって デンマーク、 スウェーデン 、ノルウェイのスカンディナヴィ ある。 ここにフィンランド国民 の 人間性を窺うことができよう。 ころの 人口約 20 万人 に 対して 、すでに 1 万人分 の 住宅 が 不足 も 圧巻 は 議場 は 船底天井 で 、赤く塗られた 架構体 がさまざま ア 3 国 が 中央 ヨー ロッパを 向 い て いるように 思 えるの は 、 い お そらく、『 カレワラ 』の 英雄 も そうだが 好戦的 ではなく、 していた 。 そこで 第一次大戦後 の 応急仮設住宅として 建設 さ な 模様 で 装飾 されている。 ず れも 王制 をいまだに 保持して いるからで あろう。 ところが むしろ自然とともに 生 きる 知恵と知識 を 尊 ぶ 人 たちだったし、 れたのがカピュラの 住宅群 である。 もともとバイキングだった先祖 たちは、秘密保持 のために伏 フィンランドとアイスランドはどこの 国 をも 振り向 かず 、唯我 今 でもそのように 思う。 標 準 家 族 4 人 で 4 世 帯 が ひとつ の 住 棟 に 入 る 規 模 が 基 準 せた船 の 中で会議を開 いたという。 その 伝統がここに再現され 独尊的 に自分 たちの 暮らしを 守っていた 。 そ ん な 彼らが 、ヨーロッパからの 建築技術 とデザインの 上 で 、 6 人 の 大工 が 4 週間 で 1 軒 を 建 てられる 構法 が 採用 され ていた。 そう、議場にはまさに船底天井が相応しいのである。 に 、彼ら固有 のストーリーを 加 えるようになったのは 自然 の 成 た 。 各住戸 にはキッチンもトイレも 浴室 もなく、 そ れらは 住 かつてはノー ベ ル 賞 の 授賞式 が 開 かれた「黄金 の 間」は 眩 フィンランド カレワラが 呼 び 起 こした 民族意識 り行 きだったのだろう。 これが 19 世紀後半 の 動 きであった 。 棟 に 囲 まれた 中庭 に 共同 の 施設として 用意 された 。 い ばかりの 金 の モ ザイクタイ ルが 張り巡らされている。 これ 北欧 の 文化 は 、 もちろん 固有 のものがしっかりとあったが 、 「 バ ルト 海 の 白 い 乙女」の 呼 び 名 を 持 つ ヘ ルシンキ 。 ここ 1950 年代 に 入って 建 て 替 えの 必要性 が 出 てきたが 保存運 もバイキングが 荒稼 ぎしてきたことの 反映 だろうか 。 キリスト 教 の 布教 とともに 変質して いった の は 世界共通。 キ は 18 世紀 に 実施 されたドイツ 人、 エンゲ ル の 都市計画 を 基 動 が 起こり、フィンランドで 初 めての 伝統建築物として 保存対 い ずれにしても 、私 には 気 がつかなかった 数多くの 引用 あ リスト教徒 は 未開 で 野蛮 な 原住民 を 開化して 、本来 の 人間的 盤 としている。 そ の 中心部 に 立 つ「 ヘ ルシンキ 中央駅」を 設 象となった 。 そのため、現在 でも 内部 の 改造 は 自由 だが 外観 るいはメタファーが 各所 に 散りばめられていることだろう。 そ な 暮らしへと導く使命 を 神 から 与 えられている。 そ ん な 大義 計したエリエ ル・サ ーリネンは 正面 ファサ ードに 4 人 の 農夫 を の 変更 は 一切認 められない 。 外壁 の 装飾 などは 板 でつくられ れをひとつ ひとつ 探し 出 す の も 、建築 を 見 る 楽しみ で ある。 名分 から多くの 宣教師 が 世界中 に 足 を 運 んだ 。 そして 宣教師 置 い た 。 また 、市内 の 建物 にはフィンランドで 見 かけるさま ているのだが 、建築博物館 に 図面 が 保管してあって 忠実 に 復 スウェーデンの 歴史 や 民俗 に 関して 知識 の 少 なさが 残念 でな の 後 から貿易商人と軍隊 も 付 いてきた 。 ざまな 動物 があしらわれている。 いずれも『 カレワラ 』に 登場 元 されている。 また 、 かならず 大工 が 住人となっており、まる らない 。 フィンランドも 同様 で 、 13 世紀前半 にスウェーデンの 侵略 する主人公 や 脇役 たちである。 でかつての 宮大工 のように、カピュラの 住宅 のメンテナンスを スウェーデンの 建築 を 語 るので あ れば 、本来 はここでグン とともにキリスト教 が 入ってきた 。それまではトナカイを 追 い 、 ヘ ルシンキは 、 もともと海 からアプロー チする 都市 で あっ 引 き 受 けている。 往時 の 住環境 がそのまま 残 されていて 今 で ナー・アスプルンドに 触 れないわけにはいかない 。代表作 の「 ス サウナに 入って 自由 に 暮らしていた 人 たちが 、 ある 意味 では た 。 船 でヘ ルシンキに 向 かうと、白亜 の 大聖堂と煉瓦積 みの も 入居希望者 は 多く、 そのほとんどが 文化人 であるという。 トックホルム 市立図書館」( 1928 )は 現在 に 至 るも 、図書館 初 めてひとまとまりの 民族、国として 扱 われるようになったの ロシア 正教会 の 対比 がヘ ルシンキ のシンボルとして 、 そして あえてこれを 記したのは 、応急住宅といえ 保存対象となる を 設計 する建築家 にとってはプロトタイプとなっているようだ である。 ランドマークとして 際立っている。 このふたつのランドマーク ほどにクォリティの 高 いものであったという事実 である。 東北 し、中 に 入 れば 本 に 囲 まれる 至福感 を 濃密 に 感じさせ てくれ その 後、 1809 年 に 起こったスウェーデン・ロシア 戦争 の 結 が 見 えなくならないように 、 ヘ ルシンキ 市 の 都市計画局 は 建 の 大震災後 に 供給 された 仮設住宅 は 、 い ず れ 伝統建造物群 るからだ 。しかし残念 ながら、私 のはナショナルロマンティシ 果 スウェーデンが 敗 れ 、 フィンランドがロシアに 割譲 されてし 築物 に 規制 をかけていた 。 ところが 、この 風景 への 視線 を 遮 に 指定 されるのだろうか 。 ズムの 香 を 嗅ぐことはできなかった 。 滞在 できた 時間 が 足り まう。 ロマノフ 王朝 の 財政難 とともにやがて 搾取 が 厳しくな る巨大 なモノが 出現し、私 が 訪 れた 当時 の 都市計画局長、 パ アルヴァ・アアルトやマッティ・サナクセンアホなどの現代建築 なかったからだと 言 い 訳 をしても 、誰 も 聞 い てはくれな い だ ってくると、 のんびりしていられなくなった 。 ーヴォ・ペ ルッキオを 悩 ませていた 。 そう、 ヘ ルシンキとスト やタピオラ計画などについては、いずれ改めて触れたいと思う。 ろうな 。(続く) 40 41
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