DIGITAL News Letter 「insight 05」(PDF 3.8MB)

K's Point DIGITAL News Letter #05
発行日 2016 年 2 月 10 日
発行 NPO
K's Point
www.kspoint.com
617-0006 京都府向日市上植野町北小路 42-6
Email [email protected]
「テレビのヒト」
テレビのスイッチをいれて、これじゃない、これでもないとチャンネルを換える。
なによりも、テレビの中のヒトがつまらない。
笑ってもらおうと必死にふざけてみせるヒト。
こんなことが起きていると、驚くそぶりをみせながら、みなさん驚いて下さい
とさそってくるヒト。
カラダをくねくねして、プロにしては下手な歌をうたっているヒト。
「こんなうまいものはない」と、感動が顔に出ていない上に、月並みなコメン
トをするヒト。
有名人だけど気さくなんですよ、と自己評価している下品なだけのヒト。
こうした番組を通して見えるヒトの世間は、あほらしくて生きる価値はない、
とわたしはわたしに断言する。
テレビの世界には、金と等価の時間をくいつぶして生きる人間がうごめいてい
る。
番組という時間の箱には、生理的喜怒哀楽がわんさと詰め込まれているので、
感情の体操はのびのびできる。
笑い、泣く体験の運動である。
事件も災害も市場の変化も、テレビの好む生理的価値観でいじくり回されてい
るが、真実だけは欠けているから、すべてが軽薄にみえる。
美への感受性の希薄な人間と真実に関心のない人間が寄り合って、視聴者とい
う無気力な人間に、テレビは、無害にみえる有毒な麻酔ガスを発散しつづけて
いる。
都会を歩いていると、必然的に、人間の作ったものに取り囲まれる。
ヒトの欲望や希望や達成感が多様な物体として実を結んでいる光景に圧倒される。
人間の意欲があふれている世界。それが都会。
だから興奮する。だから、疲れもする。
物質に向かっていくエネルギーの充満した場を、ひとりで歩いていると、
自分に本気で関わる精神が存在しないことに気付き、淋しい。
森本 武(NPO K's Point 代表)
K's Point DIGITAL News Letter #05
K's Point
日 記
目次
伊藤 あゆみ
固定感のない場所
02 表紙エッセイ 「テレビのヒト」 森本 武
「固定感のない場所」 伊藤 あゆみ
04 K's Point 日記 05 イベント K 語・観察会 第 12 回『理解
京都編
(NPO K's Point 事務局長)
』
サークル活動やワークショップの場合、何度か通うと顔馴染みのひとが出てき
07 イベント K の生活塾 第 27 回『安上がりで高貴な暮らし』 て、だんだんとその場が自分の居場所のひとつに感じられるようになる。 「映画監督 白鳥哲さんとの対談」
09 対談 が、K's Point の集まりにおいては、その確かな「居場所感」は薄いように思う。
「映像作品に詩を提供しました」
10 協賛イベント 互いがよそよそしいというのとは違。皆がその場にしがみついて留まろうという
13 K の言葉
意識は弱い。だから、毎回あるいは長い期間参加しているひとでも、不思議と「い
つものメンバー」のような印象はつよくなく、逆に初めての参加者でも、そう気
恥ずかしい挨拶を交わさなくとも、自然と場に調和が生じている。 ここに来るときはいつも少しだけ緊張感があるんですよ、といつか参加者の誰
かが話してくれた。確かに、K's Point は精神的なリラックスや楽しみだけを追求
◉ 本文中では、クリシュナムルティのことを一部 K と表記しています。
する場所ではない。用意されたテーマについて皆が考え意見を言う、それはほか
の多くの研究会と変わらないが、「思考に依存しない生き方の探究」を目的とする
NPO
K's Point
mission
目 的
J. クリシュナムルティの思想研究をとおして、思考に依存しない生き方
の可能性をさぐり、人間のいだく不安の軽減、解消の実現をはかる。
より具体的には、
「今」という絶対的現在を曇りなく生きる知性の存
在を検証し、その成果を種々の活動、媒体をとおして広報する。
この場においては、それと同時に、かっちりと固まった自分の世界を疑う必要が
出てくる。その慎重な内面の検証作業ののちに放たれることばは、当人の思って
いる以上に皆の意識に響くものである。 だから、隣にすわっている人がどこに住んでいてどんな暮らしをしているのか
は知らなくても、発言を通してその底深い思いや疑問は理解できたという場合も
ある。その人の感じている「ほんとう」を自分の追求物とするとき、そこには表
1. 本会は、一定の目的をもった慈善事業を営む資源を確保するため、営利
事業にも節度をもって取り組む。
2. 目的の実現と手段は直結しているので、手段としての営利事業の取り
組みにおいても、常に目的の範囲を逸脱しないよう細心の注意を払う。
3. 組織的成熟にむけて短中期的に構想するが、長期の見通しはもたない。
面的な情報交換を超えた、意識の中での共同作業が生じているように思う。 ここまで書いて気がついたけれど、K's Point という自己探究の場は、現実的に
存在しているという実感以上に、皆の意識の中に存在しているのではないだろう
か。だから、イベントが終わったあとも長々と居残らず、さらりと解散できる。
04
[イベント]
「計り知れないものを理解するには、共に別の世界に分け入っていくことにな
K 語・観察会
自日常のことばとして「理解」という語は、なんとも穏や
りますので、まずこの世界を理解しなければなりません。われわれが生きる、
かな意味をもつ。健全な脳が正常な仕事をしているかぎり、
われわれ自身が生みだした世界です。野望や貪欲、羨み、憎しみ、分裂、恐怖、
大方の疑問は「理解」に至るようにおもえる。
性欲のうずまく世界。われわれは、その一部になっています。」
第 12 回
「理解しているけれど、どうもしっくりこない。
」煮え切ら
理解|京都編|
ない「理解」の用例だが、K における「理解」は、ほとん
どこれとは別のことばのように厳しい。また、思考水準の
To understand the immeasurable, which is to enter into a different world
納得とは隔絶した質を求める。K の「理解」を体得すれば、
「理解」においてすべての葛藤が消
altogether, we must understand this world in which we live, this world which we have
created and of which we are a part-the world of ambition, greed, envy, hatred, the world of
滅し、不安が解消されそうだ。
「理解」は強力な解毒薬であり、狭量な分別に対する爆弾である。
separation, fear and lust.
J. Krishnamurti
Hamburg, Germany, 1956
2015 年 3 月 28 日/京都嵯峨芸術大学 第 1 ゼミ室/総参加人数 12 名
「自己についての基本的な理解は、知識や経験の積み重ねからえられるものでは
ありません。知識や経験は、記憶の産物でしかないからです。瞬間々々に自己
の理解はおこなわれています。自己についての知識を蓄積しているだけなら、
その知識自体が理解の発展をさまたげてしまいます。蓄積された知識や経験は
中心をうみだし、そこから思考が焦点を結び、動かない存在になるからです。
」
自分の真ん中に、司令塔として存在する頭脳。頭脳は、経験や学習で得た記
憶を原動力にして、私たちの考えを運転する。だから、判断材料になる経験や
知識を多く持つひとは、幅広く現象に対応できる能力が高く、有能な人間に分
類される。
けれど、クリシュナムルティ(以下 K)は、この自らが生み出した「中心」
がある限り、自己の理解が進むことはないと言う。
その部分から、K の言う自己とは、誕生してから今日までの記憶で構成され
た「わたし」を指すのではないことがわかる。あたまに溜め込んだ蓄積物の全
てを捨て去ったあとに残された存在を示しているのだ。
「頭脳が完全に停止したとき、おそらく、計り知れないものがやってきます。
(一部省略)」
と、K は言うが、「計り知れないもの」について言及することはなかった。そ
こにあてがわれる具体的な言葉に、私たちの頭脳はすぐに反応して、イメージ
づくりを開始するからだ。
知識で曇って見えなくなっている、ありのままの生命。それを、魂と名付け
るひとも、愛と呼ぶひとも、光と感じるひともあるかもしれないけれど、名称
やとらえ方は重要ではない。
いま自分が見ている世界は、自分以外の誰かが勝手につくり上げたものでは
ない。自分自身の意識が投影されたものである。だから、意識の「中心」が静
まれば、自分が見ている世界にも静寂が訪れる。
ただ自分の中心性にジッと意識の視線を注ぎ、その様をありありと見つめる。
カチカチに固まっていた「中心」
は、水に放りこまれた角砂糖の
ように、どんどん小さく溶けて、
やがて完全に姿を失う。
それが、死である。肉体の死
ではなく、意識の中心の死。意
識は、その死によって存在が消
滅するのではない。中心を失っ
たその視点は全存在にとけ込み、
偏在化する。自分の意識が、「ぜ
んぶ」と化すのである。
頭 脳 の 方 は と い う と、 当 然、
恐 怖 感 の 発 生 と い う か た ち で、
抵 抗 を み せ る。 そ の 恐 怖 感 は、
あなたの中心が残っているとい
05
う、のろしである。
06
[イベント]
貧乏暮らしを楽しむひとの中には、自己の尊厳を
第 27 回
安上がりで
高貴な暮らし
「磨く」という行為にも、完成までの道のりが存在するという点で、すでに時
かなぐり捨てて、卑屈な精神に甘んじるひともい
間の経過が含まれている。美徳、つまり自分のなかに宿る、人間にそなわった本
るようです。
来的な善性は、考えによって純度が増すものではないという。
安価な暮らしが貧相な暮らしでしかないなら、気
がめいります。
そうではなくて、全存在に死になさい、つまり徹底的に捨て去りなさいといっ
今回のテーマの鍵は「高貴」にあります。暮らし
ている。段階的にではなく、一気に。そこに、時間の経過はまったく含まれてい
を高貴に保ちつつも、安上がりにすごせないもの
ない。
「全存在」とは、これまでの経験をもとにつくり上げた、自分が考えの中
でしょうか。
に持っている世界。過去や未来といった時間の流れをとらえられるのは、この考
2016 年 1 月 16 日/京都嵯峨芸術大学 第 2 ゼミ室/総参加人数 17 名
日常より少し高い位置にあって、静かに気品を放つ。その自立しきった様はど
こか美しく、有限の世界から解放されているような、他を寄せつけない威厳さえ
感じる。
「高貴」のイメージは、そんなふうにあるが、その高貴さを目標にして考え方
やふるまいを変えようとすると、そのことに気を取られて、当の高貴さは遠ざかっ
ていく。
「習慣はセルフコントロールの必要を軽減する」とアメリカの女性作家、グレッ
チェン・ルービンは著書『BetterThanBefore』の中で言っている。今より良い
行動や考え方を習慣化していけば、おのずと人生全体の質も向上していくという。
それとは対照的なのが、クリシュナムルティのことばである。とある講話で、
人生にどんな意味があるのか、という疑問についてのやりとりが続いたあと、彼
はこう言った。
えの世界だけである。考えによって純度が増したように見えるものは、時間とと
もに朽ち果てていく。
いま、自分が取り組んでいる出来事だけに、一心に向きあっているひとは美し
い。ほかの誰かの考えや、自分の記憶に依ることなく、今だけに身を捧げている。
その瞬間は、徹底的に自分の「好き」にのめり込んでいるから、自分だけを尊重
しているけれど、とことん自己を追求した先には、自分の内に広がる世界も徹底
的に尊重していることになる。
茶を淹れるという行為を通して追求したのは千利休だけれど、我々の日常全て
の場面でもその精神は体現できるのであって、資産がたくさんあるとか、育った
環境の影響は一切関係ない。むしろ貧しいなかで高貴であるほうが、その輝きは
際立って感じられるかもしれない。
ところで、
「安上がり」の話しが出ていませんね。そんな言葉が参加者から聞
こえた。
「全存在に死ぬのです。徐々に、ではなく、一気に、です。やってみる、闘い抜
どうすれば金銭的に安上がりな暮らしができるかについては、具体的に話し合
くなんていうのはだめです。そこには理想や手続きがあるからです。いつになる
われることはなかった。けれど、もし先に書いた、時間を介さない瞬間を実感で
ともいえないまま、美徳を養うことで自己改善していくというのは駄目です。磨
きたとすれば、お金問題からは、完全に解放されることになるはずだ。
かれてしまったときには、美徳は美徳でなくなります。
」
Die to the whole of our existence, not little by little, but totally! It's the petty mind that
tries, that struggles, that has ideals and systems, that's everlastingly improving itself by
cultivating virtues. Virtue ceases to be virtuous when it's cultivated.
J. Krishnamurti
Commentaries On Living Third Series , Krishnamurti Foundation India, 1960
07
08
[対談]
[協賛イベント]
映像作品に詩を提供しました
映画監督 白鳥哲さんとの対談
マチデコ・インターナショナル 2015
2015 年 9 月 6 日に、映画監督の白鳥哲さんと、K's Point の森本代表との対
2015 年 10 月 3 日に、京都市内で、2011 年より続いている一夜限りの現代
談が実現しました。
アートの祭典『ニュイ ・ ブランシュ KYOTO パリ白夜祭への架け橋 —現代アー
白鳥さんは、映画『不食の時代』や、『祈り』の製作をとおして人類の真の
トと過ごす夜—』が開催されました。
在りようを問い続けている映画監督であり、また、俳優や声優としても活動し、
その一環として、京都国際マンガミュージアムの壁面が映像作品(プロジェ
役者を目指す若手の育成も努めています。
クションマッピング)で飾られるイベント「マチデコ・インターナショナ
白鳥さんは数年前、脳腫瘍で生命の危機にさらされるという経験をしました
ル 2015」に、美術家で、K's Point 会員でもある江村耕市氏が「江村耕市+
が、医学的な手術は行わず、人間が、いかに自ら築き上げた強大な「概念」の
emuralabo」として映像作品を出品され、去年に引き続き、今年も K's Point
なかに捕われているか、という事実への気づきをきっかけに、病を克服するに
代表の森本武氏が、詩人アナーキー・タケとして作品に詩を提供しました。
至りました。
2つに分かれた壁面に、江村家の双子の子供たちがはしゃぐ日常のシーンと、
理解が生じたときに意識内で起こる劇的変化は、物理的な現象を一瞬で変え
目の覚めるような鮮やかな色の世界の中で過ごすひとりの女性が映し出されま
るだけの威力をもっている。その点において両者の認識は完全に一致しました。
す。意図のない日常と、意図して造られた世界。それが、観るものに心地よい
短い時間でしたが、会話がはじまるなり、直ちに言葉を超えた交流は深まり、
混乱を生じさせます。そこに、自分の奥にしまい込んでいた「ほんとう」の部
静かな熱気が周囲にも感じられる場となりました。
分に大声で語りかけてくるアナーキー・タケの言葉が重なって、観賞後は、妙
な頭脳の爽快感のようなものが残っていました。
白鳥哲さんと森本代表
09
『江村耕市 emuralabo20150918 嘘をつくのは、とにかく、やめよう』
10
映像作品に詩を提供しました
マチデコ・インターナショナル 2015
『嘘をつくのは、とにかく、やめよう』 アナーキー・タケ , 2015
「生活=働く=金」
好き。
あんたが、この公式の上にのっかってるのなら、好きが出てこない。
あの人が。
生きてるつもりが死んでいる。
あの場所が。
好きに働けば金など忘れてるさ。
あの歌。たまらなく好き。
金がなくても、生活はここにある。
好きに、生きよう。
イヤなことに隠れて、好きが見えない。
好きを探し出せ。
好きと正義を混ぜこぜにするな。
ためらわずセックスしたら、愛がついてくる。
そのときどきに正直に好きなものを食っていたら元気にすごせる。
好きを、ためらうな。
我慢ばかりでウンザリってぼやくな。
本当に好きなことを知っているかい。
好きに罪はない。
好きなだけでは・・・。いけない?
「好きだけでは駄目」は、ゴマカシの論理だ。
論理は、常に、現実を知らない。
欲しいが勝つと嘘の好きになるから、よくよく注意だ!
嘘をつくのは、とにかく、やめよう。
あんたが、相当バカで、まるで特徴のない人間であることを恥ずかしがらず
認めようじゃないか。
サングラスにマスク、ヘッドホンつけて生きるのは嘘つきだ。
隠すだけの価値が、あんたの中に在るとおもっているのか。
愛の歌など歌うより、野良猫でもなでてやろうじゃないの。
「生活=働く=金」
しみだらけの皮膚をさらして、黄色い歯をおもいっきり出して高らかに笑お
こんな公式は論理の無知。
うじゃないの。
無知から嘘も出る。
家にもどったら直ちに素っ裸になって、あほらしい布切れの牢獄から自分を
論理のひとは、嘘が多い。
解放してやろうじゃないの。
嘘は、好きを追い出す。
好きでもないのに「やりがいがある」なんて嘘をつく。
子供が好きなら、自分でつくらなくても、世話役になればいい。
金が好きなら、逃さないように上等な財布をみつけろ。
怠惰が好きなら、働き者のパートナーに甘えろ。
人殺しが好きなら軍隊に入れ。
11
衣服は社会の掟。
衣服は日本政府。
衣服は嘘のあんたの作業着。
衣服は、恥のかけない弱虫の保護膜。
今日を好き放題の始まりの日にしようじゃないの。
12
愛は、明らかに感情的なものではありません。感情的であるもの、情緒的である
Obviously love is not sentiment. To be sentimental, to be emotional, is not love,
ものは愛ではないのです。感情や情緒は、単なる刺激に対する反応だからです。
because sentimentality and emotion are mere sensations. A religious person
イエスやクリシュナ、あるいは自分のグルーや誰かに涙を流すのは、単に感情的、
who weeps about Jesus or Krishna, about his guru and somebody else is merely
情緒的になっているだけです。
sentimental, emotional.
ひとは刺激に対する反応にふけるのですが、それは思考の一部です。思考は愛で
He is indulging in sensation, which is a process of thought, and thought is not
はありません。
love.
思考は、刺激の反応の結果ですから、感情的なひとや情緒的なひとは、愛を知る
Thought is the result of sensation, so the person who is sentimental, who is
ことは出来ません。
emotional, cannot possibly know love.
J .クリシュナムルティ
The First and Last Freedom, HarperOne, 1975
J. Krishnamurti
photo 杉山裕康