1 「完璧な充実」

 神の歴史−29 「完璧な充実」 2016.1.31
創世記 43:26-34、ヨハネ 20:19-23、ガラテヤ 3:26-29
2266 ヨセフが帰宅すると、一同は屋敷に持って来た贈り物を差し出して、地にひれ伏
してヨセフを拝した。2277 ヨセフは一同の安否を尋ねた後、言った。
「前に話していた、
年をとった父上は元気か。まだ生きておられるか。」2288「あなたさまの僕である父は元
気で、まだ生きております」と彼らは答え、ひざまずいて、ヨセフを拝した。 2299 ヨセフは同じ母から生まれた弟ベニヤミンをじっと見つめて、「前に話していた
末の弟はこれか」と尋ね、「わたしの子よ。神の恵みがお前にあるように」と言うと、
3300 ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになっ
たからである。ヨセフは奥の部屋に入�ると泣いた。 3311 やがて、顔を洗って出て来ると、ヨセフは平静を装い、「さあ、食事を出しなさ
い」と言いつけた。 3322 食事は、ヨセフにはヨセフの、兄弟たちには兄弟たちの、相伴
するエジプト人にはエジプト人のものと、別々に用意された。当時、エジプト人は、
ヘブライ人と共に食事をすることはできなかったからである。それはエジプト人のい
とうことであった。3333 兄弟たちは、いちばん上の兄から末の弟まで、ヨセフに向�かっ
て年齢順に座らされたので、驚いて互いに顔を見合わせた。3344 そして、ベニヤミンの
分はほかのだれの分より五倍も多かった。一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に祝宴
を楽しんだ。 Ⅰ. 過去の優勢
ただいまお読みした創世記43章には、異常に長引く飢饉のなかで、ヤコブの息子たちが再びエジプトに
食糧を買い出しに行くことが伝えられています。それは、近代演劇の「場」に相当する三場面に分かれて描
かれます。第一場面 (1−14) は、エジプトに再度食糧を買い出しに行くことを巡ってなされたヤコブと息子
たちの対話、第二場面 (15−25) は、エジプトにやってきたヤコブの息子たちとヨセフの執事との対話、そし
て第三場面 (26−34) は、ヤコブの息子たちとエジプトの宰相ヨセフ、およびヨセフに仕えるエジプト人を交
えた会食です。読者にとって魅力的なのは、各場面の会話が出来事の大いなる秘密に密着して進行していく
ことです。
ところで、この三つの場面には鍵となる人物がいます。それは、ヨセフと「同じ母から生まれた弟ベニヤ
ミン」です。第一回の食糧買い出しの時は、何か不幸があってはならないと、父ヤコブが手元に止めておい
た末の息子です。第一場面では、このベニヤミンの同行を巡って父ヤコブと息子たち、特にユダとの間で激
しい綱引きが行われます。また、第二場面では、ベニヤミンが一緒にいるのを見たヨセフは執事に、昼食を
一緒にするから家に案内し、準備するように言い、そして第三場面では、「ヨセフは…�…�弟懐かしさに、胸
が熱くなり、涙がこぼれそうに」なり、「奥の部屋に入�って泣いた」のです。
こうして20数年振りに、離れ離れになっていたヤコブの12人の息子たちが一堂に会したのです。もっ
ともそれを知っているのはヨセフだけですが。
しかもここにあるは、かつてヨセフをめぐる兄たちの不和_ 兄たちはヨセフを憎み、穏やかに話すことができ
なかった _ではなく、
「一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ」です。ここには詩人が歌う、
「兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(133) が支配しているのです。ヤコブの息子
たちはこの恵み、この喜びを知るのに、20年余もの長く辛い時を生きたのです。それぞれの場面で何があ
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ったのか、順を追って見たいと思います。
長引く飢饉で穀物を食べ尽くすと、ヤコブは息子たちに、もう一度エジプトに行って食糧を買って来るよ
うに命じます。しかしユダは、ベニヤミンが一緒でなければ、「あの人」の「顔を見ること」(宮廷用語、謁見
の許可) はできないと言います。
「読者は、ここに生じたジレンマを自分のものとして受け止めてみるべき」
であると言った人がいます。ジレンマとは、いわゆる「悪魔の選択」のことです。一方では飢饉が家族全員
の命を脅かし、他方では最愛の息子を失うかもしれないのです。ここでカードを引かねばならないのは父ヤ
コブです。
語り手は、この選択に転換をもたらしたのは、ベニヤミンの身の安全を厳かに保証するユダの決意であっ
たと記します。ユダは、やや世俗化された形で自己呪詛、つまりベニヤミンを連れて帰れなかった場合、生
涯その罪を負い続けると断言したのです。ユダのこの提言には、高潔で感銘深いものがあります。こうした
英雄的生き方は、古今東西で語り伝えられています。
実は同じ趣旨のことをルベンも、第一回の買い出しから帰ってきたときに言っています。「もしも、お父
さんのところへベニヤミンを連れて帰らないようなことがあれば、わたしの二人の息子を殺してもかまいま
せん」と。つまりルベンは、ベニヤミンを連れ帰らなかったときは、自分も父ヤコブと同じ子供を失う悲し
みを負うと言ったのです。しかし、ヤコブはその提言をはねつけたのです。「いや、この子だけは、お前た
ちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか!」
このヤコブの言葉から分かることは、ヤコブがベニヤミンのエジプト下りを頑なに拒否したのは、ヨセフ
の一件が尾をひいていたからです。心理学者はそれを「過去の優勢」と言います。過去に囚われている間、
人間は現実に直面し、これに対処し、未来を切り開くことはできないのです。このヤコブの袋小路に転換を
もたらしたのがユダであり、ユダと思いを一つにする息子たちであり、そして何より食糧危機でした。
語り手はこの後、ベニヤミンの同行を認めたヤコブの決断をこれ以上にない言葉で描きます。「では、弟
を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、
もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねば
ならないのなら、失ってもよい!」
かつてヤコブは、ヨセフを失い、今度はベニヤミンを失うかもしれないことを、「悲嘆のうちに陰府に下
る」ことであると言いました。そのヤコブが今、家族が生き延びるためなら、子供を失ってもよい、悲嘆の
うちに陰府に下ってもよいと言ったのです。語り手は、このヤコブの言葉に、この会話に密着して進行する
「出来事の大いなる秘密」を込めたのです。人は誰でも、誰かの犠牲の上にその存在が保たれているのです。
Ⅱ. 不安と平安
こうしてヤコブの息子たちは父の指図通り、ベニヤミンと贈り物、そして二倍の銀を携えて再びエジプト
の地に足を踏み入れたのです。そして、「一行がヨセフの前に進み出ると、ヨセフはベニヤミンが一緒なの
を見て、自分の家を任せている執事」に、この人たちと昼食をするから屋敷に案内し、食事の準備をするよ
うに命じるのです。
屋敷に向かう途上で交わされた執事と兄たちの会話を伝える第二段落(15−25)は、ヨセフ物語のなかでも、
語りの技法の巧みさを示す、特に美しく雄弁な例であると評されています。この段落は、17節と24節で
繰り返される、
「執事は…�…�一同をヨセフの屋敷へ連れて行った」で〈囲い込み〉、その前後に歓迎の昼食会
の準備を記します。会話の軸になっているのは、執事に対する兄たちの「食糧を買うために来た」だけであ
るという身の証しの繰り返しです。
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ここでヤコブの息子たちは、見慣れぬ高貴な環境の中に放り込まれて、場になじめず、いじけてしまった
小人物といった趣で描かれます。パレスチナの羊飼いたちが、当時の世界帝国エジプトの宰相の屋敷に招き
入れられたのです。この意表を突いた招待に彼らは戸惑い、不安を抱きます。彼らは最初の出会いで、あれ
ほど冷淡な仕打ちを受けたのです。その上、自分たちの全くあずかり知らない銀についての奇妙な一件が、
その不安を一層かきたてます。
異国の宮廷でどんな悪巧みが仕掛けられているのか? 兄たちは、どこからか衛兵が飛び出して来て、自
分たちを「転がし回る」のではないか、と不安にかられ、執事にこう言ったのです。「ああ、御主人様。実
は、わたしどもは前に一度、食糧を買うためにここへ来たことがございます。ところが、帰りに宿で袋を開
けてみると、一人一人の袋の口のところにそれぞれ自分の銀が入�っておりました。しかも、銀の重さは元の
ままでした。それで、それをお返ししなければ、と持って参りました。もちろん、食糧を買うための銀は、
別に用意してきております。一体誰がわたしどもの袋に銀を入�れたのか分かりません。」兄たちの饒舌な弁
明は、心情の絵画であると言った人がいます。つまり、この場面で語り手にとって重要なのは、兄たちの内
面の不安を明るみに出すことなのです。
不安を吐露する兄たちに語られた執事の答えは、善意に満ちたものであり、「この場面の名人芸の中でも
珠玉の部分である」と言われています。「御安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたち
の神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入�れてくださったのでしょう。あなたたちの銀は、このわたし
が確かに受け取ったのですから。」
この執事の答えは、隠された二重の意味において、ヨセフ物語全体の最も内奥の秘密に触れています。す
なわち、神の隠れた導きです。そこには、密かに神の御手が働いているのです。執事が口にした、「あなた
がたの神、あなたがたの父の神」がおかれた〈隠れた〉宝という言葉は、ヨセフ物語を貫く深い意味に触れ
るのです。
こう言って執事は相手を安心させ、動揺している者たちから恐怖の対象を逸らしたのです。それによって
不安の中にいたヤコブの息子たちに語られた第二の言葉、「安心しなさい」が生き生きと伝わってきます。
この言葉シャーロームは「平和」と訳されますが、命に満ち溢れ、はちきれるばかりの充実性をさす言葉で
す。少しの欠陥もない完璧な状態がシャーロームなのです。この言葉は、この後、第三場面のヨセフと兄た
ちとの会話 (27、28) で二度繰り返されます。「前に話していた、年をとった父上は元気か。…�…�元気です」
の「元気」(「無事」協会訳) と訳されているのがシャーロームです。
こうして第二場面は、兄たちの恐れ・不安と、執事が語るシャーローム(平和)、そのしるしとして獄に
捕らえられていたシメオンの釈放とが対照的に置かれるのです。こうしてヤコブの12人の息子たちが一つ
のテーブルに着いて食事を共にする場面が整うのです。そして読者は、これらの前置きの後で、まさに手に
汗を握るようにして、ヨセフと兄たちの新たな出会いを待ち受けるのです。第三場面では、今やヨセフ自身
が関心の的となります。
Ⅲ. 喜びの饗宴
語り手は、ヨセフが公務を終えて帰宅してから、酒を酌み交わす打ち解けた饗宴に至るまで、一瞬たりと
もヨセフから目を離しません。ちなみに、43章のクライマックスであるこの部分は、42章の最初の出会
いと、44章の三回目の出会いの中間にあるものとして眺めた場合にのみ、そしてまた、そこでの一つ一つ
の文を、一つ一つの動作の意味を、より大きな出来事の連関性の中で聞いた場合にのみ、正しく理解できる
と言った人がいます。どういうことかと言えば、この第三場面は、「一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に
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酒宴を楽しんだ」と結ばれていますが、「兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び!」を
心底味わっているのは、ヨセフただ一人だけであるということです。兄たちの誰一人として、備えられたご
馳走を心底楽しんでいる者など一人もいないのです。そもそも兄たちは食べ物が喉を通ったのでしょうか。
もしこの出会いを支配している言葉が、ヨセフと兄たちとの間で二度言及された「平和 (シャーローム)」で
あるとすれば、それによって語り手は、その語によって意味されるものが数えきれないほど多くの可能性を
含み、決して一般的な概念として確定され得ないこと、つまり、それが生み出されてきた状況の中でのみ、
真の意味を持ち得ることを明らかにしているのです。言い換えますと、平和を一つの状態として描くことは
不可能なのです。
ここで平和として意味されているのは、決して、すべての者が同じように扱われることを要求しないので
す。語り手は、ヨセフのベニヤミンへの挨拶、「わたしの子よ。神の恵みがお前にあるように」を、意図的
に他の兄弟たちへの挨拶と区別して、特別の祝福として描いているのです。しかもこの祝福が何を意味して
いたかは語られずに、ただ、ヨセフが「弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうにな」り、「奥の部
屋に入�(り)泣いた」と語られるにすぎないのです。ついでに言えば、ベニヤミンの前に配られた料理は、
他の兄弟たちの五倍です。ベニヤミンに対するヨセフの祝福は、人の欲、肉の欲 (ヨハネ 1:13) に止まってい
るかのようです。この限界が、この祝宴全体を覆っているのです。
弟懐かしさに泣いたヨセフが顔を洗い、平静を装って出てきて、「さあ、食事を出しなさい」と言って、
食事の場面が始まります。しかし、この食卓には独特な仕方で、祝宴の喜びと、まだ到来していない何物か
を暗示する奇妙な出来事が結び付いているのです。「食事は、ヨセフにはヨセフの、兄弟たちには兄弟たち
の、相伴するエジプト人にはエジプト人のものと、別々に用意された。当時、エジプト人は、ヘブライ人と
共に食事をすることはできなかったからである。それはエジプト人のいとうことであった」と説明されるの
です。
エジプト人は、ヨセフがヘブライ人であることを知っています。しかもエジプトを飢饉から救った恩人と
して、ヨセフはエジプトの宰相に任じられ、オンの祭司ポティ・フェラの娘と結婚し、エジプトの宮廷に受
け入れられたのです。この微妙な位置関係が、「食事は、ヨセフにはヨセフの、兄弟たちには兄弟たちの、
相伴するエジプト人にはエジプト人のものと、別々に用意された」で表現されたのです。しかも語り手はわ
ざわざ、「当時、エジプト人は、ヘブライ人と共に食事をすることはできなかったからである。それはエジ
プト人のいとうことであった」と付記したのです。
改めて言うまでもなく、人類はこの民族に流れる血の隔たりで苦しみ抜いて来たし、今も苦しんでいるの
です。語り手が第三場面で描くヨセフと兄弟たち、そしてエジプト人たちの饗宴には、限界と密かな不安が
依然として残されているのです。喜ばしい祝宴は、まだ暫定的なものに止まっているのです。
この暫定的なものに止まっている祝宴に、真のシャーローム(平和)をもたらすために、神は独り子イエ
スを世に遣わし、十字架に犠牲とされたのです。この十字架のキリストによって、人と人、民族と民族、国
と国とを隔てる「敵意という隔ての壁」が取り壊された (エフェソ 2:14 以下) のです。それをもっとも象徴的
に描いたのがヨハネ福音書です。ヨハネはそれを次のように描きます。「その日、すなわち週の初めの日の
夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て!真
ん中に立ち、
『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ!」ここに、詩人が歌った「兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんと
いう喜び!」が成就したのです。
十字架の聖痕が生々しく刻まれた復活者イエスの体を見る、手で触れ、舌で味わう聖餐体験だけが、「血
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によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」
(ヨハネ 1:13)
神の家族を形成するのです。
パウロはこの信仰の神秘を次のように語りました。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに
結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あな
たがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです!」
このキリスト・イエスにおける一つを、誰の目にも見える仕方で表現するのが主の晩餐なのです。「主の
晩餐なくして生きながらえることができない」のはアビシネの殉教者だけではないのです。主の晩餐なくし
て1日たりとも、いや1時間たりともこの生活を続けることができないのはマザー・テレサだけではないの
です。虚無に服した被造物は神の子たちの出現を待ち望んでいるのです。教会が聖餐共同体にならなければ、
世界に将来も希望もないのです。世界の真の平和、完璧な充実は、聖餐共同体にあるのです。
フォーサイスの言葉が心に迫ります。「もしキリスト教が、まじめな生活、立派な生き方、価値のある親
切、誉れある事業、熱心な慈善、公共の正義などを意味するならば、それは充分真理であろう。しかし、
〔残
念ながら〕これらすべての素晴らしく価値ある事柄は、神との人格的交わりの欠如と関連しているのである。
すなわち、それらはキリストが強調された人格的信仰、イエス・キリストにおいて神を人格的に経験すると
いう意味での個人的な悔い改めを欠いており、また永遠の命としての、キリストにおける個人的平安を欠い
ていることと深く関連しているのである。もしキリスト教が本物ならば、神との人格的交わりこそ、神が第
一にわたしたちに望み課するものとして示すであろう。」
私たちは、
「神が第一にわたしたちに望み課するもの」、真の平和、完璧な充実、聖餐共同体を形成するた
めに、神の憐れみによって召されたのです。主イエスは言われます。「恐れるな、小さき群れよ。御国を下
さることはあなたがたの父の御心なのである」(ルカ 12:32)。だから、主の晩餐を楽しもう!
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