平成27年度「東京都指定有形文化財の指定等について(答申)」の概要

別 紙
1
新たに指定するもの
も く ぞ う ふ ど う み ょ う お う りゅうぞう
○
木 造 不動明 王 立像
【種
別】
1軀
有形文化財(彫刻)
え みょうじ
【所有者】
宗教法人
恵 明寺
【所在地】
恵明寺(葛飾区亀有三丁目 32 番 25 号)
しゅ み だ ん
ず
し
本像は恵明寺の本尊として本堂内 須 弥壇 の 厨子 に
安置されている。
ち さ ん は
こ さ つ
恵明寺は香取山明王院と号する真言宗 智山派 の 古刹
で、創建は寺の過去帳によれば弘安元年(1278)
、
『新編
武蔵風土記稿』巻 23 亀有村恵明寺の条によると建治2
年(1276)という。本尊不動明王像は、『新編武蔵風土記
こ う ぎょう
かくばん
稿』には 興 教 大師(覚鑁 、1095-1143)の作と伝えら
つまび
れるが、その伝来は 詳 らかではない。
昭和 53 年2月、葛飾区指定有形文化財。平成 21 年3
月に完了した修理によって、それまで像表面を被ってい
すす
はな
た黒色の 煤 等が除去され、朱や群青等による彩色に 花
からくさも ん
ひしもん
唐草 文 や 菱 文 の切金で装飾されている、いわゆる
さいしき し た じ そうきりか ね
彩色 下地 総切 金 文様の美しい表面仕上げが現れた。
かんにゅう
また、両眼の瞳に鉱物質の異材を外側から 嵌入 (は
め込む。)する技法も特異であるが、通常は金属で別に
ようらく
作り取り付けられることが多い 瓔珞 (装身具)を、切
金を用いて表現していることも珍しい。
本文化財は、優美に整った像容や特殊な技法、繊細華
麗な装飾から平安時代後期、11 世紀最末から 12 世紀前
半頃にかけて、いわゆる院政期の京都あるいはその周辺
における製作と判断される。また院あるいは中央貴族が
関係した、並々ならぬ由緒を持つものと想像される美作
である。日本彫刻史上に重要な意義を持つ作例といえ、
歴史的・文化的意義を有するとともに、学術上・芸術上
の価値が極めて高い。
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おくさわじんじゃ
○
だいじゃ
ね
ぎょう じ
奥沢神社の大蛇お練り 行 事
【種
別】
無形民俗文化財(風俗慣習)
【保持団体】
奥沢神社氏子中
【伝 承 地】
世田谷区奥沢地区
奥沢神社の大蛇お練り行事は、世田谷区奥沢地区の鎮守・奥沢神社の祭礼にて、
わら
藁縄を編んで作った大蛇が町内を巡行し、厄除けを祈願する行事である。毎年9月
第2土曜日に、氏子に担がれた藁製の大蛇が奥沢神社を出発し、半日かけて氏子町
内を練り歩くもので、厄除けの大蛇として地域に親しまれている。
奥沢地区は世田谷区の東南端に位置する住宅街である。鎮守の奥沢神社は、明治
42年(1909)に八幡神社と子安稲荷神社が合祀された際に奥沢神社と改称されたも
のである。
大蛇お練り行事の由来は、口伝によれば以下のとおりである。江戸時代、奥沢に
はちまんおおかみ
疫病が流行した際、名主の夢枕に八幡大神が現れ「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村
内を巡行させよ」とのお告げがあった。そこで藁蛇を巡行させると疫病が治ったの
で、村人はその藁蛇を神社の鳥居に掲げたという。
藁蛇の長さは5間(約9メートル)、胴の直径約25センチメートル、重さ約150
キログラムで、祭りの1週前に約40人が一日がかりで作り上げる。お練りは、朝10
時に氏子が拝殿から大蛇を担ぎ出し、境内を廻ってから鳥居をくぐり、奥沢地区を
巡行する。掛け声は「ワッショイ」で、左右に波打つように激しく大蛇を動かしな
は
がら担ぎ、蛇が這う様子を表す。大蛇の脇では、沿道の見物客や氏子に疫病除けの
藁が配布される。正午過ぎに神社に戻り、拝殿に大蛇が安置される。
厄除け等の祈願のために藁縄で編んだ蛇を祀る行事は都内に数例残っている
が、その蛇を担いで氏子域を巡行する形態を維持しているのは都内では当地のみ
であり、都民の生活文化の特色を示すものとして重要である。
町内巡行
鳥居に巻かれた前年の大蛇をくぐり出御
※本件については、保持団体への取材は御遠慮ください。
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だいきょうじ すいけいえん
○
題経寺 邃渓園
【種
別】
名勝
【所有者】
宗教法人題経寺
【所在地】
葛飾区柴又七丁目 1751 番 1 のうち、実測 2113.30 平方メートル
だいきゃくでん
邃渓園は、葛飾区柴又に所在する帝釈天で知られる題経寺の 大客殿 に付属する庭
園である。昭和4年(1929)、大客殿の竣工に合わせ作庭を開始し、手を加えながら
作庭を続け、昭和 40 年(1965)にほぼ現在の形を成した。
ち せん
邃渓園は、大客殿北側に南面した 池 泉 を中心とする庭園である。庭左手奥に築山
やまふところ
と滝を設け、 山 懐 を表現している。その滝は細流となり、庭の右手へ向かうにつれ
ち てい
大きな流れとなり、池に至る構成となっている。岬や中島を設けるなど 池 汀 (池の
た き いしぐみ
ゆうすい
ほとり)は複雑である。庭園の 滝 石組 を据えた山懐の風情が 幽邃 で、物静かであ
ることから、「邃渓園」と名付けられた。
かさ
庭園手前の芝庭を 嵩 上げし、あるいは護岸石組の据え方など趣向を凝らし、庭園
を更に大きく見せるような工夫が様々随所に施された造りとなっている。
昭和 59 年(1984)、庭の外周に回廊が設けられ、様々な視点で楽しむことのでき
る庭園となった。
東京都内に所在する寺院の多くは関東大震災や第二次世界大戦により被災したり
移転したりしており、付属する寺院庭園においても、その際改変されたものが多い。
そうした中で邃渓園は、都内における寺院庭園として秀逸で、戦前から作庭を開始し、
大規模改変のない庭園として、芸術的・学術的価値が高く、貴重である。
大客殿から見る庭園全景
築山と滝石組
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ず い りゅう
○
瑞 龍 のマツ
【種
別】
1本
天然記念物(植物)
【所有者】
宗教法人題経寺
【所在地】
葛飾区柴又七丁目 1751 番 1
瑞龍のマツは、「帝釈天」の名で知られる葛飾区柴又の経栄山題経寺の帝釈堂前面
に生育するクロマツである。
マツは高さ約 10.0 メートル、枝張は東西約 16.6 メートル、南北約 19.3 メートル、
目通り幹周 1.8 メートルで、上方にまっすぐ伸びる幹と3方に長く伸びた大枝から成
ひさし
る大木である。特に南のものは帝釈堂の 庇 の前に、西のものは石畳に沿うように伸
び、帝釈堂と一体となった景観をなしている。その生き生きとした姿は、頭を空に向
け、尾を西に伸ばして天に昇る「龍」のようである。
にちえい
縁起によると題経寺の創建は寛永6年(1629)で、開基の 日栄 上人が柴又に寄っ
た際、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いている(「御神水」)のを見つけ、
この地に庵を設けたことがその始まりとされている。この日栄上人が見たマツが瑞龍
のマツとされており、『新編武蔵風土記稿』に描かれるなど、古くから帝釈天題経寺
を象徴するマツとして知られている。
今日では、2月の節分後、根元に溝を掘り、一升瓶で 100 本を超える日本酒を流し
込む「松の御神酒あげ」という行事が行われているなど、瑞龍のマツが寺や地域の人々
から大切にされている。
瑞龍のマツは枝ぶりが大きく見事で、昇龍のごとく生育するクロマツで、
「御神水」
とともにこの地に帝釈天題経寺が創建されることとなった由緒あるマツで、帝釈堂正
面と一体となった景観を成す名木である。東京都を代表する名木、巨樹の一つとして
重要である。
瑞龍のマツ
©帝釈天題経寺編集部
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瑞龍のマツ(遠景)
©帝釈天題経寺編集部
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既に指定しているものに追加して指定するもの
きゅう た
○
ま ぐん い
な むら な ぬしいしかわ け もん じ ょ
旧 多摩郡伊奈村名主石川家文書
【種
別】
【所有者】
331 点
有形文化財(古文書)
個人
石川家文書は、旧多摩郡伊奈村の村役人を務めた石川家に伝来し、江戸時代か
ら明治中期に至る伊奈村及び周辺村落の歴史的動向を知ることができる史料群
である。昭和60年(1985)に、3,278点が東京都有形文化財(古文書)に指定さ
れた。
伊奈村は現在のあきる野市中央部に位置し、中世以来、秋川流域村落の中心と
して栄えてきた。石川氏は近世以前より当地に居住し、代々伊奈村の名主を勤め
こうや
た。近世後期には、酒造業・紺屋 ・醤油醸造業を営んでいた。
平成26年度、昭和60年の指定時に対象に含まれていなかった古文書が多数ある
ことが判明し、その後の調査で、近世伊奈村の入会地や漆年貢に関する古文書や、
酒造業や土地売買の証文といった石川家の経営に関する史料を中心に、331点が
むらかた
確認された。追加して指定するこれらの史料には、村方 に関する基本史料や、石
川家の経営に直接関係する史料が含まれている。近世初頭から明治期に至る多摩
地域、特に秋川流域村落の歴史を理解する上で、既指定分と合わせて、極めて重
要な史料群である。これらを追加して指定することで、「旧多摩郡伊奈村名主石
川家文書」は合計3,609点となる。
武蔵国多摩郡網代村郷村高反別其外取調
帳・御除地書上帳・田畑其他段別取調野帳
伊奈村絵図
※本件については、所有者への取材は御遠慮ください。
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