博士課程コースについて 寄稿 国家公務員と博士との間

人事院月報 平成26年8月号より
博士課程コースについて
人事院では、極めて高度の専門知識、技能を持つとともに、国際会議等で、諸外国の行政
官と同等レベルでの交渉を行い得る専門的職員層の確保を目的に、行政官国内研究員制度
の中に博士課程コースを新設し、平成20年度から平成23年度末までに国内の大学院の
博士課程へ17名の職員を派遣しております。
研究を修了した職員からの寄稿文をご紹介します。
寄稿
国家公務員と博士との間
一橋大学大学院法学研究科博士後期課程
平成20年度行政官国内研究員
OECD(経済協力開発機構)事務局に出向していたころ、周りの同僚はすべて博士号取
得者、仕事で関わる各国の教育省の担当者も博士号取得者にしばしば遭遇するという環境
でした。役所に就職した当時、修士課程修了で国家公務員になった私はマイノリティでした
が、国際機関やそれと関わる外国の行政機関の職員の間では、逆の意味でのマイノリティで
した。
国際機関や外国の行政機関と比べたときに、日本において国家公務員と博士との間にあ
るギャップが何であり、それは埋められるものなのか。今回、行政官国内研修員博士課程
コースの最初の研修員として、平成20年4月から、一橋大学大学院法学研究科博士後期課
程に派遣の機会をいただいて、博士論文を書いた中で、私なりに考えてみたことを3つの疑
問に即して書いてみたいと思います。
1.国家公務員が博士課程で勉強することにどんな意味があるのか?
そもそも国家公務員が博士課程に行って勉強することにどのような意味があるのでしょ
うか?
私は、博士論文ではフランスの国立大学の伝統的な法律上の議論と最近の大学改革につ
いて取り上げました(概要は、本稿末(注))。日本の国立大学法人制度を考える上でも参
考になるものと考えてテーマを選びましたが、かといって、歴史的な背景や状況の全く異な
るフランスのモデルが、日本の大学改革にそのまま役に立つ先例、というわけではなく、勉
強したことがすぐに仕事に役に立つというものではないと思います。むしろ、博士論文を書
く中で、膨大なフランス語の文献を遡って読んでいって、20世紀の初めに書かれたフラン
ス行政法の古典の記述の中に今のフランスや日本の大学改革にも通ずる行政組織の捉え方
の補助線を見つけたときにこう思いました。今年すぐに役に立つ文章は来年にはもう賞味
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期限を過ぎていて役には立たない。百年たって、たとえ異なる文化に属する人間が読んだと
して、それでも何かの役に立つ文章が本当に価値のある文章なんだろう。そうすると、研修
を終えてすぐに役に立つものを持ち帰るということでもないように思います。
試しに「学問のすすめ」を開いてみますと、「この雑沓混乱の最中に居て、よく東西の事物
を比較し、信ずべきを信じ、疑うべきを疑い、取るべきを取り、捨つべきを捨て、信疑取捨
その宜しきを得んとするはまた難きに非ずや。(このように雑然とした混乱の中にあって、
東西の事物をよく比較して、信ずべきことを信じ、疑うべきことを疑い、取るべきところを
取り、捨てるべきところを捨て、それをきちんと判断するというのは、なんとも難しいこと
である。)」「信疑の際につき必ず取捨の明なかるべからず。蓋し学問の要は、この明智を
明らかにするに在るものならん。」(信じる、疑うということについては、取捨選択のため
の判断力が必要なのだ。学問というのは、この判断力を確立するためにあるのではないだろ
うか。)」とあります(福沢諭吉「学問のすすめ」第15編。現代語訳は、齋藤孝訳『現代
語訳 学問のすすめ』ちくま新書による)。
雑然とした現実の中で、百年、とは言わないまでも、ある程度の期間に渡って批判に堪え得
るようなことを自分の価値基準に照らして判断するというプロセスを経験することが、博
士課程で勉強することの意味ではないでしょうか。欧米に進んだモデルがあって、それを勉
強して役所に持ち帰ればすぐに役に立つ、というのではなくて、今の自分を取り巻く環境を
離れて、こうした百年以上前のフランスの古典や判例(こうした資料を、日本の大学の図書
館で見つけて利用できるのも、国立大学の懐の深さです!)の世界まで出かけて行って、そ
こからまた今の自分を取り巻く環境を外側から見てみることで、別の視点が得られるとい
う非日常の経験を現代の日本に居ながらにしてできることが、博士課程に行くことで得ら
れる貴重な経験でしょう。こうした思考過程のトレーニングを受けたことが、仕事の中で、
これまでには意識していなかった課題を考えるとき、あるいは専門家の方々と議論をする
ときにも拠りどころになるような、「自分の中に一本の筋が通った」、という自信の源にな
るように思われます。
しかし、次の問題は、実務家である国家公務員がどのようにしてそのような思考過程を経
験することができるのだろうかということだろうと思います。
2.国家公務員がどのように博士課程で論文を書くのか?
日常の思考を離れてまた日常に戻ってくるという思考の過程は、わざわざ博士課程で勉
強しなくてもできないことではないと思います。ただし、博士課程でのトレーニングの場
合、思考方法の手助けをしてくれる、それぞれの学問分野で確立されている方法論―法律の
場合であれば、法令や判例を読み、その背景にある歴史や考え方を理解するといった作業―
があります。
それでも、大学でのアカデミックな議論から10年以上も離れていては、外国語で専門文
献を読むスキルも、背景としての判例や制度の知識も圧倒的に足りません。ここは、謙遜で
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は全くなく、例えば私のフランス語などは、OECD出向時にスーパーでの買い物やアパー
トの水漏れ処理など、日々のサバイバルで身につけた程度のものでしたので、辞書と文法書
を横に、人生で最もたくさんの外国語を必死で読んだ3年間でした。また、大学院での海外
派遣のプログラムを利用して、フランスの大学や政府機関を訪問し、専門家や職員と議論で
きたことは、大きな自信になりました。ただ、その中で、自分の進んでいる方向性が正しい
のかどうか、しばしば疑問に感じたことがありました。
その際に、博士課程が用意している仕掛けが、指導教官であり、研究室にいる仲間であり、
また、大学院に所属するからこそ門戸が開かれる、研究者とその卵で構成される大学外にも
広がるネットワークだと思います。大学院のゼミで判例の読み方から論文のまとめ方まで
指導を受けたこと、研究室での会話で議論をしたこと、他の大学のフランス行政法の先生方
からも、そもそものフランス語の専門文献の理解から膝詰めで教えていただいて、研究発表
の機会でもいろいろ指導をいただいたことが、道をそれかけている自分の誤りを修正し、自
信を持たせてくれる時間になりました。
大学院で、英語以外の語学のスキルや、海外も含めた制度・判例を調べ、理解し、表現す
ることなどの必要なスキルを、このように専門的なレベルで徹底して鍛えられたことは、業
務を行う中でも、これまでとは違う視点やソースから情報を仕入れたり、自分なりに加工し
たりするという点で、貴重なトレーニングの機会になりました。そして、それ以上に、こう
した研究者のネットワークには、大学院を修了した今でも時々入れていただいて、日常の思
考に凝り固まった頭をほぐすのに役立っています。職場以外で真剣に議論することのでき
る、人とのつながりの場ができたことが財産になっています。
ただし、最後の大きな問題は、多忙を極める国家公務員が、どのようにしてこうしたトレー
ニングの時間をつくれるのかということでしょう。
3.国家公務員が、どのように博士課程で勉強する時間をつくるのか
この博士課程コースの研修は、私の場合は1年間のフルタイムでの研究・単位取得と残り
2年間の仕事をしながらの論文執筆というスケジュールで、特に最後の2年間は、かなり大
変な期間になるだろうということはある程度予想はしていました。しかし、博士課程の2年
目、三年目は、高校実質無償化の法案作成、国会審議、法律施行までを担当し、佳境の時に
は年末年始返上、週末も職場で過ごし、予想を上回る濃密な体験をすることになりました。
家庭では、保育園に通う子どもが2人いて、日々の送り迎えや休日の相手など、時間がいく
らあっても足りません。普通に空気を読みながらやっていれば、「今日は大学に勉強しに行
く」とはなかなか言い出しにくかったと思います。
この中で3年間の研修を修了できたのは、職場の同僚・上司や家族の理解に支えられたとい
うことは言うまでもありません。言ってしまえば月並みな言葉になりますが、やはり、これ
なくしては、博士論文を書く時間をつくることはできなかったでしょう。
その中で、周りの人に対する感謝の気持ちを持ち続けることに加えて、私が心がけていたこ
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ととしては、研修は、国費で支えられていて、国家公務員としての職務だ、博士号を取得し
てくることがこの3年間での自分のミッションだ、という原則論を繰り返し言い続け、そし
て自分に意識させ続けたことがあります。このことは、口に出して言っていただけでなく、
小細工として、例えば大学に行くときは、常にスーツを着て、普段の仕事に行っているのと
同じ雰囲気をかもし出し、自分に対しても仕事に行くのと同じ感覚(あるいは、ミッション
を果たすことができるかどうかの責任が、組織ではなく、主に自分に帰するという点では、
普段の仕事以上の緊張感とも言えます。)を課していました。こうした雰囲気作りの積み重
ねが、単に空気を読まない人、となってしまうのではなくて、まぁ、仕事でそこまでやって
るのならしょうがないか、という空気を職場や家庭でもつくることに結果的に役立ったの
ではないかと思っています。
博士課程は修了しましたが、先日も、研究会で報告をする機会をいただきました。日々の
仕事の中で直面する課題や考えていることを問題意識とした報告でしたが、そうしたこと
がらも、新鮮に受け止めていただきました。仕事の中で所与のものとしている課題が、役所
から一歩外に出ると必ずしも当然のことではないわけであり、それを研究者の批評にも堪
え得る形で説明し、同じ土俵で議論できるようになることは、公務員の役割としても必要な
ことではないかと思います。研究者のネットワークに入れていただき、専門的なスキルを鍛
えられ、思考過程のトレーニングをしたことが、国内外の研究者・専門家と議論をするとき
にも、自分のよりどころになってくると思います。
最後に、ここまで書いてみまして、国家公務員と博士との間のギャップは、やはり小さく
はないな、と改めて認識しました。国家公務員が、博士課程のトレーニングの価値について
理解を求め、トレーニングをこなし、時間をつくる、というのは、それほど簡単なものでは
ないと思います。他方で、3年間を振り返ってみれば、やりよう、気持ちの持ちようによっ
ては、決して埋められないものではないとも実感しました。おそらくは福沢諭吉の時代より
もさらに複雑な行政の現実における判断力のトレーニングの必要性と、社会科学系の博士
課程も思考のトレーニングの場所としての位置づけを得ていくようになる中で、両者の
ギャップはもっと小さくなり得ると思います。そして、より高度なスキルを求める海外の公
的部門の雇用や、知識労働者のトレーニングの場所として世界中から若者を集める海外の
大学院の状況からすれば、日本でも、もっと両者が近づいていくことができればよいと思い
ます。
(注)フランスでも大学の自主性を高め、大学が市場でもリソースを獲得することが可能に
なる一方で、大学のガバナンスの確立に対する関心が強くなっています。大学の役割に対す
る社会の期待がかつてなく高まっていること、その活動を支えるリソースの獲得について、
国家に加えて市場も一定の役割を果たすようになっていることを背景に、大学が、学生や社
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会の期待にいかに応えられるかが正面から問われるようになっています。このことと、伝統
的な「教授団の独立」を中心に発展してきた自治的な大学法人組織の在り方とをどのように
結びつけるのかという課題が、最近のフランスの大学改革をめぐる法律の議論の根底にあ
り、日本の国立大学法人制度の在り方を考える上でも、視点として参考になります。(「フ
ランスの国立大学の法的地位と近年の改革」自治研究第88巻第8号以下」に掲載予定)。
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