20■5φ ノ No.381 愛知版 ︲ tF卜”ヽトーミこF山Ⅲ︱ ′デ仁いl ︲嗣 * 今 月 の花 スト ック ││ │メ 酒 店 経 営 の傍 ら ジ ャー ナ リ スト て いた大 国主大神 は、 ﹁ 国議 り﹂ に 第 十 弾 に お つき あ い 願 い た い の で で 届 く 立 派 な 官 を 造 って 頂 け れ ば 、 に 大 く 深 い柱 で、 千 本 が空 高 く ま ﹁我 が 住 処 を 、 皇 孫 の 住 処 の 様 応 じ る条 件 と し て、 あ る が 、 今 回 は 日本 に お け る 酒 の そ こ に 隠 れ て お り ま し ょ ぅ。 以 後 、 サ ノ オ の乱 暴 に怯 え て 天 岩 戸 に 隠 テ ラ スオ オ ミ カ ミ が 、 そ の弟 神 ス る こ と に し ま し ょう ﹂ と 述 べ、 無 駄 な 争 い を 避 け る大 め て頂 き、私 は天から国土を見守 ア マテ ラ スオ オ ミカ ミ に 国 土 を 治 れ 、 世 界 に は 昼 が な く な って し ま 近 年 実 際 に 、 こ の ﹁空 高 く ま で う 。 困 った 他 の神 々 は 、 天 岩 戸 の す る 。 そ し て 、 不 思 議 に 思 った ア 人 の 対 応 を 取 っ た ´と い う の で あ マテ ラ スオ オ ミカ ミが顔 を 出 し た 届 く立 派 な 宮 ﹂ の階 段 柱 の遺 構 と みら れ る物 が 、 出 雲 大 社 にお いて る。 と こ ろ を 、 一気 に 引 つ 張 り 出 し た 。 下 は 、 そ の 際 の ﹁慰 謝 料 ﹂ を 毎 年 発掘 され て いるが、今 でも今上陛 と し て ぃる 。 出 雲 大 社 に 奉 納 し て いる そ う で ぁ る の で あ る が 、従 来 か ら 国 を 治 め 主 大 神 に 、 日 本 の ﹁国 譲 り ﹂ を 追 か は 定 か で は な い が 、 日 本 の神 様 こ の よ う な 経 緯 が あ って が ど ぅ る。 こ の話 に引 き続 き、 スサ ノオ は け ん か 腰 で 、 出 雲 大 社 の祭 神 大 国 こ う し て 昼 が 戻 つた の で あ る 、 前 で酒 を飲 み、 ど んち ゃん騒 ぎ を ﹁ 古 事 記 ﹂ で は ″太 陽 神 で あ る ア マ 日本 に お け る 酒 の歴 史 は古 い。 歴 史 に つ い て の話 か ら 。 を 志 望 す る私 の、 最 近 思 う と こ ろ 日本と椰鮮 (愛 知版) 2015年 2月 (381)号 ___ は酒好きである。 、 社 は 、ウ ィ ス キ ー は 言 う に 及 ば ず 、ウ 、 フ イ ン 、 ビ ー ル プ ラ ンデ ー 。 そして、 オ ッカ ま で 造 っ て い る 同 社 の ﹁シ ン グ ル モ ル ト ウ ィ ス キ ﹁ウ ー 山 崎 シ ェリ l ヵ ス ク 2 0 1 3 ﹂ は イ ギ リ ス の著 名 な ガ ィド 本 ィ スキ ー バ イブ ル 2 0 1 5﹂ で世 。 界 最 高 のウ イ スキ ー に 選 凛 れ た 著 者 の ジ ム ・マ ー リ ー 氏 は ﹁ほ と ん ど 言 葉 に 出 来 な い 非 凡 さ ︺と 表 、 現。しかも、同書にお いては 本 に ラ ン ク イ ン出 来 な か った と い う 神社 に行けば、 日本酒が奉納さ れている。 と ころで、筆者は昨年末、老 母 て い る の で あ る。 て い る 。 こ ん な ﹃ハ ッ ピ ー な 国 ﹄ つ る 。 酒 を お いし く 飲 む 方 法 も 知 ら 取 り 入 れ 、 し か も それ が様 にな い い と 思 つた も の を素 直 に 外 国 か お い て 、 ﹁日 本 人 に は 屈 託 が な い 。 デ ン マン氏 が 、 最 近 刊 の週 刊 誌 に そ れ と 、 コラ ム ニスト のヤ ン ・ たも のは、 世界 レ ベル でも卓越 し る ﹁ 精 神 性 ﹂ や ﹁巧 み さ ﹂ と い っ こ の よ う な 日 本 人 の 酒 に ま つわ の であ る。 場 の ス コ ット ラ ン ド 産 が 上 位 5位 を伴 って伊勢神宮を参拝したとこ ろ、宇治橋 を渡 った直後 の参道脇 白鷹﹂ に、代 々の御料酒として ﹁ という銘柄 の薦被 り樽が大量 に奉 自 納されていた。そこで、 この ﹁ 鷹﹂ の小瓶を伊勢おはらい町 で購 入し、自宅で味わ ったが、 これが た いそぅ旨か ったのである。 その味わいは理屈を超えたも の であり、 っくづく、 日本人でよか ったと思わせるも のだ ったのであ 。 る。そして清 々しい思いにな った このことは、 日本 の神様 のみなら で あ る。 、 日本 だ けだ ろう ﹂ は、世界 でも 、 と 述 べて い る が 筆 者 も 全 く 同 感 ず 、実は国民全体が酒好きである ことを表しているのではないかと ろう か。 以上 読 者 の み な さ ん は 如何 お考 えだ 思う。 S﹂ その証拠に、筆者が好きな ﹁ 2月 (381)号 で鉤 は中韓 は押す と削ね 日本 は引きで ある。 中国の最 高級 の木材は「楠木」 、日本 には分布 しない。 な っ と 舞惨 ぬ tヨ 虫がつかな くて便すぎず、柔 らかすぎず宮殿建築用材 として使用 されて来たがだんだん少な くな り今は赤松 が使用 されて い る。韓国 では赤松であ る。 中国で も日 無畿磯 撥神 :こ 輔 燿:難 斬 ブト醸騨魃 本 で も生育す る本である力ヽ 韓国 の宮殿、寺院に使用 され最高の用材で あ る。 日本 は檜、台湾 には生育す る が中国や朝鮮 には分布 しない。棟梁たちはそれぞれ良 い材料 を探 し、何年 も乾燥 させ、丁寧に加工 して使用 踪 す る。 それぞれ に、思 い入れがあるようである。 三浦 雅 子 日中韓の寺院や宮殿など伝統の建築を修復 した り、 新築する棟梁の 「腕 と技」を見 る事の出来 る展覧会。 複雑で絢爛豪華な宮殿や寺院を本造で何百年、何千年 と経つ建築の修復は驚 くほど複雑でその仕事を行 う事 を出来 る大工になるのには長い訓練 と修行を積まなけ ればな らない。古代の最高級の建築の修復を手がけ現 在 も活躍 している、日中韓大工の棟梁の 「ものづ くり」 にかける情熱 と精神をうかがうことができる。 まず展示してある日中韓の本材で作成された本組み の模 型 に 目 を奪 わ れ る。紫 禁 城 大 和殿 の松 の 本 組 み、 繊 細 で複 雑、軒 下 に 華やか さが 感じられ、 これに彩色される。 韓国の救仁寺大祖師殿組物模型は木材は赤松、本朋l はほんの り赤 く、がっしりと太い本組みに蓮の花や唐 草の曲線の彫刻が美 しい。私はこの本組みが女性的で 好きだ。彩色などしな くても十分きれいであると思う のだが。 日本のものは薬師寺東院堂構造模型、これは吉野檜、 直線とがっしりとした曲線ヽ 白い無垢材の美しさ、柔 らかな感じがとてもいい。日本人 はこの清々しい美 し さが好まれる。 日中韓の本組みの驚 く事は、 これ らが 釘やボル ト、接着剤など使わないで、 い くつ もの部材 が人の手で丹念に加工 され正確に組み合わされてい る こと。 展示には現在 も使われている大工道具があり、日中 韓 とも、墨壺、鈍 (カ ンナ)、 鋸 (ノ コ)、 撃 (ノ ミ)、 定規や曲線の型板など昔懐かしい、専門的な道具が並 べてあった。それぞれの国で独特の物差しや道具もあ るが、本造建築の共通する道具は形は微妙に違ってい てもよく似たものを使っていることである。そのなか 大工の頂点 は棟梁であ る。 日本 は宮大 工、数寄 屋大 工、町大 工な ど によって大工がいるが それの上 ― 下はない。中国は宮殿大 工が一番格が高 く寺院、一般 の住居 とピラミッ ト型 に階級があ り、韓国 もそれに近 い。今回会場で は、代 々の師匠か ら宮殿建築 を受 け継 いで来た紫禁城の棟梁 (大 木 匠師)の 李永革 (り 。え いか く)氏 、韓国は水原華城長安 門復元工 事をは じめ 数 々の宮殿 の工 事を行 ってきた棟梁 (大 木 匠)申 鷹秀 (シ ン・ ウ ンス )氏 、 日本では法隆寺修理 した 「日本 最後の宮大 工」 と呼ばれていた西岡常一棟梁 に弟子入 りし、西岡棟梁 と法輪寺二重塔、薬師寺金堂な どを再 建、その後、嶋工舎 を設立 し、 現在、宮大 工 として弟 子 を育てなが ら棟梁 として活躍 してい る小川三夫氏。 日中韓、三人の棟梁のその仕事ぶ りや伝統建築 の説明 が話され る映像作品を観 る事が出来 る。 また、小川棟梁 と鶴 工舎の大 工の人たちの宮大工 (堂 1儡 ‐ ‐ ‐ ‐ 1‐ 1鋏 ‐ ‐ 1魃1靱 ※写真はすべて竹中道具館開館 30周 年記念巡回展にて 宮大 工)の 独特 の建築方法、組物 の組み立て方、釦の 使 い方の実演、解説 を受 けた。生の小川棟梁の語 りは 静かで優 しい人柄 と言 う印象、伝統建築の素晴 らしさ を淡々 と話 された。その他会場では、 古式豊かな韓国 崇礼門の上梁 式 (柱 を建てて梁を乗せ る儀式)の 映像 や衣装 を観 る事が出来 る。 その他 にも西岡棟梁 と小川 棟梁 の間に交換 された手紙や日伝、 日中韓 の棟梁が引 いた設計図やメモ、伝統建築用語や説明、楠木・赤松・ 檜 の本材見本や 削 り見本 な どがあ り手で触れ る事がで きる。伝統建築 の とてつ もない技 を受 け継 ぎ数 々の仕 事を している中国 。韓国 の棟梁たち、その話 を生でぜ ひ とも聞きたか った。残念 で あ る。 2月 (31二 2015年 日本 と朝鮮 (愛 知版 ) Crる 北東 アジア課 スタ ツフ (奥 の 3人 )と 面談 「 支援す る会」 の面 々。 [1/16外 務省で] 挺身■問題 の ① タイミングの問題です。韓 国での勤労挺身隊 ハルモニらの提 起した訴訟が、曲がり角に来てい ます。また国民 ・市民注目のもと で、昨年 日韓 。日朝間での政府 間協議が相次ぎ、新たな進展が求 められている状況のなかで、その 直接 ・間接の当局担当者らが、今 回の面談に応じました。 ことばを慎重に選びながらも、 当方 への対応は、それらの経過と 教訓をにじませたものであ った、 と推察します。 具体的な問答の詳細は省略しま ∧ 日 韓 フF 政 府 外 交 V `三 ベ 学 二 ― もう 一つは国会議員分野での、 第二七日日韓 ・韓日議員連盟合同 総会共同声明 ︵ 二〇 一四 ・十 。二 五︶です。 どちらも、非政府外交の、新た な高みからの、歴史的な成果であ ② 本件の新たな進展を図る上 ③ 本件を解決する上での ﹁ 当 で、当方がふまえたのは、草の根 事者﹂ 的立場を 一層鮮明にさせて、 運動の成果のみならず、とりわけ 外務省側に問い、態度表明を求め 日韓関係の分野で進展する、非政 たことです。 府外交の貴重な成果の上に立 つこ 韓国光州での二次にわたる裁判 とでした。 状況に関しても、原告 ハルモニら その 一つは司法分野での、日弁 の厚生年金保険加入問題でも、そ 連と大韓弁協の共同宣言 ︵ 二〇 一 うでした。さらに人道 。人権に関 〇 ・十 一 丁 十 こ。 する国連の勧告問題等での、日本 政府 のあ いまいな態度に対し て は、その是正を繰り返し求め、閉 会時の挨拶でも言及しました。 ﹃ 当事者﹄と言えばもう 一つ。 時間の関係上、日朝関係の案件に ついては ﹁ 面談後の宿題﹂とせざ 、 り、こうした成果をふまえて 本 、 件を前進させることこそが ﹃日 、 韓国交五〇年﹄にふさわしい と の考えを深く訴えることができ た、と考えます。 の 轟 すが、当方側の準備した説明資料 と質問事項は別記の通りです。 間近に控えた通常国会では、関 連テーマの論戦が、注目されるこ とでしよう。 成 果 と ﹃ 日 画 し い m に ふ 前 を 交 W 年 さ わ 造 韓 ﹄ L 、 午前は F印川での金曜行動﹂ 午後は ﹁ 霞ヶ関での外務省面談﹂ このパターンがここのところ数ヶ 月おきに設定される。今回の ﹁ 面 談﹂は次の諸点で際立 っていたこ とを、記したいと思います。 草 の 根 る を え ま せ ん でし た が、 日朝 関係 の 悪 化 の 現 状 と そ の改 善 に つい て、 R女 史 ︵ 在 日 ︶ が 、 自 ら の家 、 裕 一課 長 補 佐 ら 三 氏 ︻当 方 側 ︼ 高 、 愛 知 ・沢 ご 共 同 代 表 ︶ 寺 尾 橋 ︵ ︻資 料 ︼ ○ 日 弁 連 と 大 韓 弁 協 の 共 同 宣 言 〇 第 二 七 回 日 韓 ・韓 日 議 員 連盟 合 同総会 共 同 声 明〇 日韓 8 ぶ L “︶ ハイ レ ベ ル 経 済 協 議 ︵ 被 告 三 菱 の誠 実 さ を 欠 く 問 題 の背 '(ム lt 族 関 係 に か か わ る数 枚 の 写 真 を 使 で の元徴 用 工 の個 人 請 求権 問 題 、 愛 ︵ 埼 玉 ・ズ ご 共 同 代 表 ︶ 松 井 ︵ 、 、 、 京 ︶ 東 知 ︶ 小 野 ︵東 京 ︶ 李 ︵ 、 本件連絡係 岐 阜 ︶、 小 出 ︵ 杉下 ︵ 追加 ︶訴訟 次 ︵ 一一 韓 国光 州高 等 法 院 ︶ 〇 一次 訴 訟 ︵ 〇 厚 生年 金 保険 加 入問 題 にから ︵ 韓 国 光 州 地 方 法 院 ︶ に関 し て に 関 し て 〇 愛 知 ・沢 ご 総 務 ︶ ︵2 ︶ 面 談 の 事 項 十 年 ﹂。 主 な 趣 旨 ”両 国 の 歩 み 寄 む 、 三菱 重 工と政 府 の対 応 に つい ① ﹃日 韓 ﹄ 関 連 ∼ ﹁日 韓 国 交 五 り に向 け た 、 劇 的 な プ ラ ン と 外 交 ― ところ:ウ イルあいち 特 別会 議室 ′ ●●x`a椰 時 13:30∼ 16:00 、 当 方 側 か ら の主 な 質 問 = 〇 て 講演会と企 画発表会 イ を期 待 す る ! “ って 、 印 象 深 く 語 り ま し た 。 議企● 0ど あわなn ア 、 当 方 側 か ら の 説 明 =私 た ち が 注 目す る動 き に つい て ● ) とき:2015年 5月 17日 (日 ︵ 1︶日時、参加者他 ①面談 の日時と場所上 一 〇 一五 年 一月十六日 午後二時半︲ 東京霞ヶ関・ 外務省会議室 ②面談参加者= ︻ 外務省側︼ア ジア大洋州局北東アジア課の中井 _____」 │ 螢研究者 幸 史織 さん ,日漱 Ю InO OQ更 ○ 熙 叡 HHX日 ) 2015年 381)号 2月 〔 (愛 知版 日本と朝鮮 5 景 に 政 府 のガ イ ド ラ イ ン が あ る 、 と の 見 方 が あ る が ′如 何 ? ○ 被 告 三菱 と は ど ん な 方 法 で連 絡 を 取 ・ 他。 って い る の か , 。 ② ﹃日 朝 ﹄ 関 連 で 主 な 趣 旨 = 日 朝 間 協 議 で の飛 躍 的 な 進 展 を 期 待する 、 ア 当 方 側 か ら の 説 明 =〇 在 日 、 朝 鮮 人 家 族 か ら み る ´不 安 と 期 待 往 来 制 限 の実 情 〇 日朝 間 の通信 ・ ︵ 付、関連資料 ︶ 、 当 方 側 から の主 な質 問 ︵ 文 イ 書 質 問 も あ り ︶ =〇 ﹁制 裁 措 置 ﹂ 部 分 解 除 を 含 む ︶ の見 通 し 解除 ︵ は ? 〇 日 本 人 埋 葬 地 へ の基 参 と 、政府 事業 と し 遺 骨 収 容 に つい て て実 施 す る具 体 的 予 定 は な い の か ? ○ 今 年 は 広 島 ・長 崎 へ原 爆 。 が 落 と され てから 七 十 年 にな る 、 ﹁朝 鮮 被 爆 者 協 会 ﹂ 副 昨年十月 ト文 淑 さん は、 予定 され て 会 長 のキ 。 い た 日 本 人 訪 朝 団 と の会 合 に出 て 、在朝被 。在 爆 者 の健 康 状 態 は 極 め て 悪 い 来 る こと が 出 来 な い な ど 朝 被 爆 者 へ の実 態 調 査 ・援 護 措 置 。 を 実 施 す る 計 画 は な い か ? 他 ︻一月 二 一日 のスタ ッフ会 議 報 告 に少 し 手 を 加 え ま した ⋮小 出 裕 ︼ 日本と朝鮮_1撃 知版) 2015年 2月 (381)号 _ 由緒地を駆ける 日韓高機生交流 習 しながら旺盛 に巡 回し た。事 前 の テ ー マ学 習 は も と よ り 、 名 古 屋 に 関 す る ネ ット 情 報 の収 集 や 仲 間 と の意 見 交 換 も 怠 り な く 、 終 始 活 動 的 。 受 け 入 れ 側 も 大 い に参 考 に な った よ う だ 。お 世 話 さ れ た 方 々 、 ご 苦 労 様 でし た 。説明は村 問 ︵ 名南ふれあい病院︶ 9 ③三菱重 工名古屋 松さん。く 2 航空宇宙 システム製作所/大江 工 場区域内にある三菱 ﹃ 殉職碑﹄訪 9 ④東春 間。 説明は高橋さん。く 2 朝鮮初級学校訪問。く8⑤在日 コ リアンの歴史と現状に ついての学 馘│ ︻写 真 ︼ ① い こ い の マダ ン で 在 日 習。講師は金 スネさん。く8⑥覚 王山 日泰寺 ﹁ 寃死同胞慰霊碑﹂訪 間。説明は小出。い ゝo 『 決定通知書』 祓雹鶉靱 日本年金機構から届いた コ リ ア ン 一世 、 二 世 と の 交 流 。 ︻ゝ o② 東 南 海 地 震 犠 牲 者 追 悼 記 念 碑 訪 評 答 韓国光州 のハルモニらの縁で始 ま った、名古屋=光州高校生交流。 光州からは ﹁ 選抜された﹂高校生 ﹁ 八人と引率者 二人 ︵ 市民の会﹂関 。 係者︶ 一月二九日から二月 一日ま で名古屋を中心に、日本 の高校生 との交流や日韓 。 日朝の由緒地を学 灯甍 ﹃一九九円﹄問題 、新たに浮上 覇邸 ﹁ 一 日韓 の外交懸案 に﹂ の ,額 ぉ せ 壺 "ら 軋 ル モニととも にす る市民 の会 ︵ 光 壼一 州ご 一 月二五日、記者会見を開 き 一 あされて言葉 に詰まる﹂と批 判した。︻ 八買参照︼ 省は日本年金機構を通じ、 一人当 たり 一九九円を支払 った。 韓日 の市民団体 ﹁ 勤労挺身隊 ハ で働 いた元朝鮮女子勤労挺身隊 の 韓国人女性 二人が、日本政府 に厚 生年金脱退手当金 の支払 いを求め たことに対し、このほど厚生労働 第 二次世界大戦中 に三菱重 工業 の軍需工場 ︵ 名古屋∼富山大門︶ て、 韓 国 政 府 に対 し解 決 に向 け た 解 明 と 補 償 問 題 に も つな が る も の 制 動 員 の事 実 と 個 人 の賠 償 請 求 権 給 額 九 九 円 ︶と 今 回 の 支 給 に よ り 、 の正当 な 汗 の対 価 だ ﹂ と 主 張。 そ の 上 で 、 ﹁日 本 政 府 は 貨 幣 価 値 の 変 ︵ 支 で あ り 、 日本 と の外 交 懸 案 だ と し 問 題 は ﹃徴 用 工 ﹄ 等 の 動 員 事 実 の 指摘。さらに厚生年金脱退手当金 が有 効 であ る こと が確 認 さ れ た と これ ま で 日 本 政 府 が 日韓 請 求 権 協 定 を 回実 に し て、 否定 し て い た 強 同 市 民 の 会 は 、 二〇 〇 九 年 まま適 用し た﹂と強く非難 し た。 化 を 無 視 し 、 解 放 当 時 の額 を そ の 同市民の会は、 ﹁ 厚生年金 退 脱 手当金は賃金に相当するもので ︵ 植 政 府 レ ベ ル の対 応 を求 め た 。 級﹂=二〇〇円 ︻ 表X︼を適用し、平 均標準報酬日額=圏需甲一 ・ 8日=ρ28 円と計其 ③ ︵ 保険加入期間格付けによる︶日数 とは、旧厚生年金法 コで∞栄ノ三 別表 第四﹂による日数の一 筆Cで、本件の場 合、十二月 2 和お パマ´ 8 9 と認定 数=三十里 されていることから、冒] になる。 ④ 堕 銀 粛 得学 塾象 じ =o鴫 以上から、厚生年金保険脱退手当金 =ρQ89円X鰊︼︸Φ円=一 鰊当﹃ 註︼ア、彼女らの名古屋三菱勤務の ︻ 開始は昭利19年6月であるが、厚生 年金保険の始まりは女性の場合、昭和 19年10月であるため、昭和19年 6月∼9月の4ヶ月はカウントされて いない。 イ、昭利19年12月7日、東南海 地震で亡くなった呉吉愛さんの場合、 保険加入期間が昭和19年10月∼1 報 酬 月 額 に つ い て は 、 三菱 重 工が デ 1 1 月 の 二 ヶ 月 。 脱 退 手 当 金 支 給 資 格 6 夕 を 示 さ な い こと か ら 、 旧 厚 生 年 金 保 月 以 上 を 満 た さ な い こと か ら 、 今 回 脱 ありながら、2009年11月、梁錦 徳さんらには ﹃ 99円﹄とはじき、今 回と異なる額とな った理由について。 担当者 ︵ 日本年金機構・ 愛知事務セン ター ・記録審査グループ︶の説明は、 以下のとおり。 ﹁ 2010年社会保険庁の解体←日本 ■ 薔 構 設 善絞 〓 記 暫 日筐 奮する 盪 颯 雇 堡 墜 屈 △ 簡 墨 軍 出雷 による申出による本人情報が、合理的 であれば、できるだけ優先されるよう になった。 先回 ︿ 2009年 の﹀、熱田社会保 険事務所宛の提出書類では、勤務期間 は、1944年6月∼1945年8月 30日。よ って保険加入期間格付けに よる︶日数=15日。 今回の申出書 ︵ 2014年5月9日 受付︶によれば、三菱重工業∽道徳工 場/大門工場の勤務期間は、1944 ・ 6・ 1∼1945 olO ・20であり、 瑠倦漆塚百加入菌餡国 は1944・ 10 ∼1945 ・9で ﹃ 12月﹄。よって、 ︵ 体標那△期間格付けによる︶曰数を、 △ フ 回は ﹃ 30日﹄としたことから、′ 脱 退手当金算出の相運が生まれ為 二年 以 上 三年 未 満 一年 以 上 二年 未 満 被 保 険 タ リ シ期 間 棘 劃範﹃ 険 法 で定 め ら れ た の当 時 ︵ 昭 和 二p ρ 一 退一 す当 金 支 給 手 続 き を 断 念 し て い る。 ∼墜 ・ρ 俊 ︶ の ﹁ 標 準 報 酬 等 級 第 2 0 ウ 、 本 件 と 同 様 の名 古 屋 三菱 勤 務 で 轟Xl 【 民地支配から の︶解放当時にきち んと支給されるべきだ つた被害者 厚生労働省は こんな計算で 9 ︵ 9 円 ︶ は じ く ︲ ① 厚 生 年 金 保 険 脱 退 手 当 金 =平 均 標 準 報 酬 日 額 × ︿保 険 加 入 期 間 の格 付 け 表 ︻衣Y︼ に よ る﹀ 日 数I墨額 半均 標 準 報 酬 日 額 は、報 酬 月 額 合U ②一 ■3 0 ︵ 日 ︶ で計 算 す る が 、 彼 女 ら の EttY】 (381)号 日本 と朝鮮 (愛 知版 )2015年 2月 _ でみじ め な仕 打 ち をす る のか。 , 厚生年金脱退手当は賃金 L同じ しただ け で、 日本 人 の場合 も例外 日本 政府 は規定 に基づ いて支給 規 定 通 り に 従 った だ け ? 話 になるか! 時 の額 面価 そ のままと いう のが、 変 化 を初 めから無視 し て、解放 当 では足りず 、 そ の間 の貨幣価値 の ころが七〇年余 りも遅滞 さ せた の き 被 害 者 の 正 当 な 汗 の 代 価 だ 。 と よう に、解 放当時当然支給 す る べ 1` 0■ 光復癖 〓 7 強制労働の血の涙が 9 たった9 ︲ 円なのか︰ 制労働をさせただけでは足りない のか。もう九十 に手が届く被害者 のハルモニたちに対して、 ここま 、シム ・ソ 情けなくて開 いた口が塞がらな 在林、 一九二〇年生れ︶ い。 六年前、厚生年金脱退手当て ネ ︵ 沈善 、 愛 一 九 二 〇 年生れ︶、ヤ 金として九九円を出したことがあ ン ・ヨンス︵ 梁栄沫、 一九 二九年生 るが、光復七〇年を迎える今 回は まれ︶ハルモニの厚生年金脱退手当 金、各 一九九円︵ その倍の 一九九円というのだ。 韓国ウオンで約 一、 八五〇ウ オン︶ を代理人口座を通じ 日帝 による強制占領期 の 一九 四 て支給した。 四年五月頃、三菱重 工業名古屋航 侮辱の中でもこんな侮辱はない。 空機製作所 に動員された勤労挺身 小学校在学中や、卒業したてで物 隊被害者と遺族計 四人が三菱重 丁 心も つかな い十代 の幼 い少女たち に、勉強も教えてくれ、良 い学校 にも行かせてあげ ると編して、強 業を相手に二〇 一四年二月二七日、 光州地方法院 に二次損害賠償請求 訴訟を起 こした中で、日本厚生労 働省傘下 の日本年金機構は去 る二 金 月四日、原告 のキム 。ジ ェリム︵ 4需 なく全く同じように適用している と強弁する。 一言で加害国の立場 にあ った日本国民と、 日帝 の苛酷 な植 民支配を受けた韓国強制動員 被害者 の境遇を全く無視した処置 だ。 なければ、誰が敢えて七〇年余り も過ぎた後に脱退手当を請求する のか! 恥知らずに規定を言及して 考えてもみろ。 死地で命拾 いし て戻 った植民地強制動員被害者で 哲 錫 ∬穆 滉 有 亀亀 蹴 曇 彗 翼 呉 原告の強制労働事実を、ただの 一 度も認めない状況だ った。今回の 脱退手当金支給は、被害者が三菱 重工業で働いていた事実を、日本 政府が客観的に裏付ける証拠とい う点から、訴訟に決定的な証拠を 確保したことになるからだ。 にもかかわらず今回の厚生年金 確認は、その歴史的な意味が小さ 三菱重工業が今まで訴訟 くない。 強 制 動 員事 実 、 日本 政 府 が 確認 いるが、事実 は自分たち の恥ず か しい歴史を必死にな って覆 い隠 そ うという拙劣な作戦に過ぎない。 11、 8 (381)号 2月 2015年 日本 と朝鮮 (愛 知版 ) 個 人 請 求 権有 効 実 証 的事 例 言で、韓日両国政権 の野合的な性 格 に過ぎない 一九六五年 の韓日請 求権協定を理由に、被害者個人 の 請求権 まで剥奪させることはでき ず、当然賠償しなければならない ということだ。 )20i5年 しかし日本政府は、韓国の司法 府 の決定があたかも民族感情 に便 乗した判決として、絶えず中傷を 試 みてきた。だ が、日本政府自身 が今回 一九九円を支給することに よ って、韓国司法府 の判決が決し て民族感情 に便乗した判決ではな く、極めて正当な決定であ ったこ とを、日本政府自らが確認させて くれているためだ。 残念なのはわが韓国政府の態度 だ。私たちは先立 って二〇〇九年、 九九円波紋当時、繰り返しわが国 政府に、積極的な対処を注文して きた。 厚生年金は単純に勤労挺身 隊で動員されたハルモニたち何人 韓 国政府 が ﹁ 第 二 の九 九 円﹂を自 ら招 いた なら、なぜ敢えて厚生年金を支給 しなければならないのか。 五年 の韓 日請求権協定で被害者 の 全ての権利問題が終わ っていたの に未練を捨てられないでいる。 し かし、これは単純明快だ。 逆説的 にもし、彼らの希望通りに 一九六 院破棄差戻し審以降 韓国の司法 残念な ことに日本政府と戦犯企 府は個人請求権と関連して毅然と 業は今も、韓 日請求権協定が自身 した立場を明らかにしている。 一 を保護してくれる防護壁かのよう も っと重要なことは厚生年金脱 退手当金 一九九円の支給を通じて、 日本政府の立場がより 一層苦しい 状況に置かれることにな ったこと だ。二〇 一二年五月二四目の大法 、 2月 (381 (愛 知版 日本 と か問題でなく、労務者として連行 された七〇∼八〇 万人皆 に該当す る問題であり、政府次元 の対応が な い時には、九九円裁判が憂慮さ れるという警告であ った。 その憂 慮が現実にな ったのだ。 一言で厚生年金脱退手当て金 一 九九円は、第 二の九九円侮辱事件 ︶ム だ︻ ロ わせて今回の事態は弁解 の 余地なく、度重なる警告にも手を こまねいていたわが国政府が、自 ら招来したものである。 緊急 な外交 懸案 、政 府 次 元 で対策 を立 てろ ︰ これだけでない。 最近の政府の 立場を見ると、知 って知らぬ振り をする態度だけ取っている。 司法 府の賠償判決に喜ぶどころか、﹁ 私 人の間の訴訟に対して、政府が立 場を表明するのは適切でない﹂と、 逆に被害者の気勢を抜く役割をし ているからだ。 こうな って見ると、最近の韓日 関係は泥棒が却 ってムチを持 って いるようなものだ。 日本政府や戦 犯企業 が賠償判 決 が続く場合 、韓 日経 済 交 流 に悪 影 響 を 及ぼ す と 、 逆 にご り 押 し し て脅 し を か け て い る か ら だ 。 こ れ は い った い 何 た る ザ マな の か 一 強 調す るが厚生年 金問題は単純 な 笑 い 話 や ハプ ニ ン グ で な く 、 何 よ り 緊 急 に 扱 う べき 韓 日 間 の外 交 懸 案 と い う 点 を 、 い ま 一度 確 認 さ せ た 事 件 だ 。 し た が つ て 政 府 は 、 今 回 の 一九 九 円 事 態 を 通 じ て 現 在 膠 着 状 態 に あ る 、 日帝 強 制 動 員 問 題 を 解 決 す る新 し い分 岐 点 に し な け れ ば な ら な い 。 そ の 初 の 出 だ し がまさに、 一九 九 円 事 態 に 対 す る 政 府 次 元 の対処 であ る。 国 家 の存 在 理 由 が ど こ に あ る か 、 再 び 尋 ね な ければ な らな い のか ? 被 害 者 は 一日 一日 が 老 い 衰 え て 行 く のに、 光 復 七〇 年 で も 足 りず 、 何 時 ま で さ ら に待 た ね ば な ら な い のか ! 二 〇 一五 年 二 月 二 五 日 ︵ 事 務 局轟 目光 州 ︶ 動 労 挺 身 臓 離 ハ ル モ ニと 共 に す る 市 民 の会 ︻李 洋 秀 ・訳 ︼ (38i) 2月 韓島碁歩肇手壼釜要墨爾垂U 庁 ︵ 教 育 委 員 会 ︶ か ら の支 援 が な 回目 を迎 えたわけだ。光州市教育 に 友 情 を 培 って き た 。 で 、 も う 五 韓 。日 平 和 の 価 値 を 実 現 す る た め 教 育 庁 の支 援 も あ る の で、 当 然 光 州 市 所 在 の高 等 学 校 の学 生 が 優 先 的 に選 ば れ た 。 多 く の学 生 が 日 本 人 学 生 と の交 流 に参 加 し た い と いう希 望 を出 し た と ころ、 面 接 を 通 じ て選 ば れ た 学 生 は十 八 人 。 そ れ に 歴 史 意 識 の強 い京 畿 道 の高 校 生 二 人 が 加 わ った 。 ︵市 役 所 ︶ 前 か ら 仁 川 金正勲 た ち に ﹁安 重 根 に 影 響 を 受 け た 日 院 近 く の 会 館 で 韓 。日 交 流 参 加 者 二時 半 か ら 名 古 屋 名 南 ふ れ あ い病 感 が 湧 い て く る ︵八 月 七 日 、 午 後 れ る だ ろ う と 思 う と 、 若 干 の緊 張 自 分 の果 た す 役 割 が た し か 与 え ら にし ても ︵ 通 訳 の先 生 も い た の で ︶ ほ か の 二 人 の 先 生 に甘 え る こ と に行 く のは初 め て の こと だ 。 は いえ、 高 校 生 た ち を連 れ て日本 学生 たち を引率し た経 験があ ると の 語 学 研 修 プ ログ ラ ム が あ り 、 大 は い ら れ な か った 。 一昔 前 、 大 学 っけ 、 私 は 重 い責 任 感 を 感 じ ず に 人を見送 り に来 た学父 見たち を見 率 の 先 生 四 人 と 光 州 の高 校 生 十 八 に 待 機 し て い た バ ス。 そ し て 、 引 国 際 空 港 に 向 か つて 出 発 す る た め 光州市庁 ← ︿ ︰ 韓 ・日作家紹介 の視点より︲ ︵二 〇 一四 年 ︶ 八 月 七 第 五回目 の ﹁ 韓 ・目 青 少 年 平 和 交 流 ﹂ に参 加 、名 古 屋 に 足 を 運 ん だ のは昨年 日 ∼ 十 日 の こ と だ つた 。 編 成 の難 し さ を 抱 え て い る に も 関 わ ら ず 、 韓 。日 青 少 年 交 流 に 毎 年 け れ ば で き な か った だ ろ う 。 予 算 受 け た 元朝 鮮 女 子勤 労 挺 身 隊 の少 大 き な 金額 を 支援 す る光 州 市 教 育 一九 九 八 年 、 戦 争 時 代 に 被 害 を ︵現 お ば あ さ ん ︶ の 支 援 活 ﹁ 名 古 屋 三 菱 ・朝 鮮 女 子 勤 労 女たち 動 を 目 的 に 結 成 さ れ た 日 本 の市 民 団体 挺 身 隊 訴 訟 を 支 援 す る 会 ﹂ が 二〇 一〇 年 、 韓 国 の 市 民 団 体 ﹁ 勤労挺 身 隊 ハ ル モ ニと 共 に す る 市 民 の会 ﹂ ﹁ 韓 。日 青 少 年 平 和 交 流 ﹂ は 始 ︵二 〇 〇 九 年 結 成 ︶ に 韓 国 の 青 少 年 た ち を招 聘 、 交 流 し た いと 提 案 し ま った 。 そ の後 、 光 州 と 名 古 屋 の青 少 年 た ち は 、相 互 に訪 間 を行 いな が ら た。 庁 に感 謝 の気 持 ち を抱 かざ る を え な い。 本 当 に 心 か ら あ り が た か つ 版)2015年 ハングル版『 アプジのくに』 くカンヤンスン訳〉表紙 韓 。日の未来を担う青少年たち は、過去の歴史を直視、その土台 の上に立 って韓 。日友好増進をは かる努力が切実だと思います。︵ 略︶ ﹁ 韓 。日青少年平和交流﹂はその ような意味を実践に活かすよい機 会となるでしよう。日本の作家帯 木蓬生は、コ 一 たびの海峡﹄︵一四 回吉川英治文学新人賞に輝いた作 品︶を通じて若い青年に ﹁ 不幸な 料集に載 せたいので文章を送れ 一 といわれ、 ﹁ みなさんが、まさに平 和 のメ ッセンジ ヤーです﹂と いう 題で次のように述 べたことがある。 私は出発前、 こちら の市民団体 事務局長に ﹁ 韓 。日青少年交流資 本人たち﹂と いうテー マで講演す 。 ることにな っていた︶ リイイ Llギ 刊 11可 判 ] さ れ 一緒 に 働 い て い た が 帰 国 せ ず 日 本 に定 着 し た 同 僚 の徐 鎮 徹 か ら 、 四七年 ぶ 一通 の 手 紙 を も ら っ て 、 歴史を繰り返さないためにも 海 峡 を挟む 二つの民族 の優しい懸け し た 。 河 時 根 が 日本 に 入 る た め に ャーです。 ﹁二〇 一四年 韓 。日 青少年交流資料集﹂五 ベージに収 釜 山 か ら 船 に 乗 って海 峡 を 渡 る 理 由 は 、 戦 争 時 代 あ ら ゆ る方 法 で韓 国人労働者 を苦しめ た山本 二次 が N市 長 選 挙 で 四選 目 を 狙 う 目的 下 に 、 市 の南 側 に あ るボ タ 山 や そ の 、 周 り の廃 鉱 跡 を 壊 し 企 業 を 誘 致 て た 歴 史 小 説 の執 筆 に も 心 血 を 注 。 いだ つも り だ った の で は な い か ︵い わ ば 韓 。日 の 架 け が、 何 よ り作 者 が 主 人 公 を 通 じ て 自 分 の血肉 橋 の子 ︶ を 分 け た息 子 に言 い残 し た 遺 言 に 注 目 せぎ る を え な い。 韓 o日 の 未 来 を 担 う 青 年 に 対 す る メ ッセ ー ジ と し て 受 け 取 ら れ る か ら だ。 ﹁生 者 が 死 者 の 遺 志 に 思 い を 馳 、 せ て い る限 り 歴 史 は 歪 ま な い﹂ 真 の 意 味 で の 韓 。日 友 好 は こ う し よ う と す る か ら であ る。 し か し 、 そ のポ タ 山 に は 太 平 洋 し たも のではな いか。過去 は いく 、 海 峡 を渡 って 自 分 と 日本 人 女 性 に辛 い思 いを率 直 に教 訓 と し て受 な 過 去 を 三度 と 繰 り 返 さ な い よ う も 忘 れ ら れ る わ け で も な い。 不 幸 の でも な く 、 いく ら 消 そ う と し て ら 歪 曲 し よ う と し ても 美 化 さ れ る 、重 労働 戦 争 の時 に強 制 徴 用 さ れ に 苦 し め ら れ 犠 牲 と な った 被 害 者 と の 間 に生 ま れ た 子 、 時 郎 の協 力 た ち の墓 と 位 牌 が あ る 。 河 時 根 は 栞 差葉益♀交 壺葉童 〓軍 を 得 る。 そ し て市 長 選 挙 の公 開 討 、 日本 が 戦 争 や って い た の で あ り 争 時 代 、 帯 木 の父 は 香 港 で 憲 兵 を ら い思 いを経 験 し た 人 であ る。 戦 実 は言 木 自 身 が 父 親 の過去 に つ し て いた と 思 わ れ る。 の 海 峡 ﹄ で そ の真 意 を 的 確 に 提 示 たび あ る に 違 い な い。 作 家 は 、 コ 一 来 に 向 か って い く の が 真 の友 好 で け 止 め な が ら 手 を携 え て と も に未 論 会 で山 本 の過 去 を 暴 く こと に よ 活 か し 強 制 徴 用 の問 題 に 焦 点 を当 や 医 療 対 話 な ど を 通 じ て の経 験 を 表 し な が ら 、韓 国 人 被 害 者 の証 言 を素材 にし た作 品 や心理小説を発 、 言 木 は精 神 科 医者 で 病 院 生 活 復 讐 す る。 を 消 そ う と す る 山 本 に打 撃 を 与 え って、 ボ タ 山 を 壊 し て 加 害 の歴 史 三たび 思い出せば帯木蓬生は ﹃ の海峡﹄で、戦前日本に強制徴用 録︶ り に海 峡 を 渡 る 河時 根 を 主 人 公 と 橋 にな って欲し いのです﹂と強調 勤労挺身隊の懸案もそ しました。 ︵ うですが︶その不幸を繰り返さな いために教訓として受け入れ、韓 o日未来を開 こうというメ ッセー ジこそ真理ではな いでしょうか。 韓 ・目青少年平和交流に参加す る うした韓 ・日友好精 皆さん︱ プ一 神 のもとに心 の門を開き日本 の青 少年たちと交流しましょう。 みな さんが、まさに平和 のメ ッセンジ (381 _2月 日本と朝鮮 (愛 知版)2015年 に負けると彼の父は戦犯として日 本の警察に逮捕されたからだ。帯 木は、父は国の命令で香港に送り 込まれ、﹁ スパイの役割を担わされ ました。民間人を取り調べ、対象 には英国人も含まれた。戦争です 略︶ から暴力もあったでしょう。︵ その行為が戦後になると犯罪とさ れた﹂亀朝日新聞﹄二〇 一四年八 戦争を想像する﹂とい 月六日付、﹁ うインタービ ュー︶と証言してい る。 帯木は家族 のことな のにその過 去を決し て隠 そうともしなければ 消そうともしない。むし ろ、真正 面 から社会的 メ ッセージとして 一 般 の人 々に堂 々と発信しているわ けだ。父親 のことを知 る人から直 逃亡﹄と 接そういう話を聞いて、﹃ いう作品の執筆にも至 ったらしい。 だから ﹃三たび の海峡﹄でも作家 としての良心が韓国人徴用者 に目 を向けさせ、﹁ 自らの歴史を、どう とらえ直すか﹂と、内部 のほうに 省察 の目を投げかけていたとも い えよう。 韓国人徴用者 の問題が公 の場で 捉えられる雰囲気 ではない日本 で 乞桐 いた。昼食後 の懇談会 の時間には あ の時代、三菱重 工名古屋航空機 製作所 。道徳 工場で働 いていた村 松寿人様 からの体験談が披露され た。 一 東南海地震と三菱に動員され た勤労挺身隊の話﹂という内容で、 重 い空気 に包まれた会場 の雰囲気 だ ったが、歴史 の片鱗に触れ る話 であるだけにみんな真剣に聞いて 記念碑は 一九 八八年、道徳 工場 跡地を受け継 いだ日清紡構内に立 てられたが、 二〇 一二年医療法人 名南会 が移設受け入れを許諾した 空機道徳 工場倒壊による︶犠牲者 五七名の名前が刻まれていた。 花した。そ の記念碑には 一九 四四 年十 二月七日に発生した東南海地 震でなくな った ︵ 旧三菱名古 屋航 されている ﹁ 東南海地震被害者追 悼記念碑﹂ にそれぞれ拝礼し、献 その後、参加者たちは ﹁ 名南ふ れあい病院﹂構内北側花壇に設置 いる。 これ こそ生きた教育になる だ ろう。通訳を挟んでの講演だ っ たとはいえ、韓国では到底聞けな い大事な話だ つたに間違いな い。 笙 ¥誌 占 /ゝ ならな笙 0 '‐ が望 石 iEが てに間国 韓弁 12 『季撃」こ唇″晏自磐暴堰基讐‡ 電麦 ぶ源讐壼亀膏 詈曇 顔 好 ぃ よ 日 ι で し、+ 予 ら 「 百総主中 華 ガ ぶ争暴8:会_Pの 尾績菫曼E轟 ゎ 否 響メ芳具輝 ス 舞F 残 さ 1タ 古見 つこ 拿 だ 膏 甲 当 2月 〔381}号 2015年 日本 と朝鮮 (愛 知版) _ らしい。 ﹁ 悲しみを繰り返さぬよう 。記念碑に書か ここに真実を刻む﹂ れた語句から辛 い歴史を風化させ ることなく、戦争 の悲惨さや人間 の真実 をそのまま伝えようとする 素晴らし い精神が窺えた。日本 の 良心は生きているのだ。 普李 李 ‡ 尊 ‡ ‡ ‡ ‡ ‡ 私が並 々ならぬ衝撃を受けた の はその翌日 ︵ 八日︶のことだ った。 八日の午前、私たちは半 田市に位 置す る中島飛行場跡地 の見学など に出掛けたのだが、移動中 のバ ス のなかの出来事だ っただ ろうか。 主催側が高校生たちに配 った印刷 物に日本の童話作家新美南吉の ﹁ ア ブジ の国﹂と いう作品が ハングル に訳されて入 っていたからだ。 ﹁ アブジ の国﹂は、愛知県半田 、 市 の市民団体 ﹁ 半田空襲と戦争を 記録する会﹂︵ 佐藤明夫代表︶によ って最近発掘された作品。 これは 半田市で生まれ育 った南吉 の体験 ︵ 履物店を運営した母と、出稼ぎ に来た朝鮮人家族と の交流⋮佐藤 氏分析︶に基いて書かれたもので、 主催側としては南吉 の反戦平和の 精神を受け継ぐ目的だけではなく、 韓 。日交流にも意義あるも のとし て判断し、小冊子 ︵ 翻訳は朝鮮学 校 の教員カ ンヤ ンスンによる︶に まとめて半 田市を訪れる皆様 に宣 伝しているらしか つた。 告白す ると、その瞬間私 は、 日 ご ろ南吉 に ついて関心を持 ってお らず、非常 に恥ず かし い気持ちだ った ことを思い出す。私 は大学院 時代からむしろ宮沢賢治に ついて 接す る機会が多く、うち の大学 の 日本文化講読 の時間でも ﹃ 銀河鉄 道 の夜﹄など の作品を取り上げ る ことはあ った。しかし、植民地時 代にも国境と身分を越えて真 の交 流を求めていく韓 。日庶民 の姿を 描 いた南吉とその作品に ついては 無知だ った。それで非常に恥と思 った。 同時に松 田解子と花岡事件に つ いて聞いた瞬間 ︵ =﹃ 地底の人々﹄ における韓 。日労働者連帯 の姿に 接した瞬間︶ のような強烈な刺激 に駆られた。 ﹃お父さん﹄はあちらの言葉 で何 百う? て一 そう言 って、下駄屋 の小母さんが たずねました。 , ﹁ アブジ﹂ ﹃ お母さん﹄は? ﹁ おんまあ﹂ ﹁ おんまあ?﹂ ﹁ ん、おんま﹂ 貧アプジ の国﹂ の 場面し 朝鮮人 への偏見が強 たしかに ﹁ か った戦前、在日朝鮮人が主人公 認め、まるで他人 の国であるかの 国 ﹂ だ け で は な い ︵コ ﹂ん 狐 ﹂ な ど 、 ﹁ア ブ ジ の も っと 驚 い た こ と に ︵後 に 一張 紅 倫 ﹂ に 改 。 ﹁張 紅 いう名 が頭に浮かぶ。国家主義を 個人﹂と い 念頭におくときには ﹁ う概念はなくなるとい って、戦争 の弊害とその矛盾を漱石ほど強調 した作家はいないからだ。 と ころが、南吉も国家と戦争が 強調される時代 に、 いかに生きる かを悩む、あるいはま ったく異な る地位と環境に生きる人間同士が 交流すると いうような人間像を描 く ことによ って、平和と人間性 の 問題を問い続けているわけである。 南吉 にも個 の運命が抹殺される戦 争 の時代をいかに乗り越え るか、 という深刻な苦悩が少なからず存 在していたに違いない。 ひろ っ 一九二五年に書かれた ﹁ たラ ッパ﹂にも、 ラッパを拾 った ラ ッパ 貧乏な若者 が戦争 に出て ︵ 少 佐 は 無 事 に 帰 国 し 会 社 の重 役 にな り 、 偶 然 に会 社 に 物 売 り に来 、手柄を立てようとすると を吹き︶ を つけ る と 思 い 込 ん だ 中 国 人 の子 知 る ふ り を し た ら 少 佐 の名 前 に 傷 は 、 恩 返 し を し よ う と す る少 佐 に 知 ら な い ふ り を し て去 って い く と い う 、 ヒ ュー マ ニ ズ ム が 濃 く 漂 う れ る 個 の運 命 に つ い て鋭 い メ スを 作 品 であ る。 国家 や戦 争 に翻 弄 さ 、 夏 目漱 石 と 入れた作家 を思うと の後から今まで新美南吉翻訳に取 。 り掛か っている︶ ころ、道 で出会 ったある老人に助 言を聞いて平和主義者 に変貌して いく姿が生き生きと描かれている。 私は探してきた作家や求めてきた 視点を見 つけ出したような興奮感 そ を味わわずにはいられなか った ︵ 、 た そ の中 国 人 の 子 に 再 会 す る が り広 げ ら れ る 代 と 背 景 を越 え た 人間 的 交 流 が 繰 、 生 死 の境 を さ ま よ う と こ ろ 中 国 、時 人 の親 子 に助 け ら れ る と い う 偵 察 し て いた少 佐 が井 戸 に落 ち て 、 争 の時 に 日本 軍 露 戦 日 倫﹂では 、 と し て 満 州 に渡 り 戦 場 の様 子 を 一九 二 九 年 に 書 か れ た 作 品 。 ︵ そ れ に 目 を 通 し た のは帰 国 後 ︶ 優 れ た童 話 も あ る こと に気 付 いた 題 ご や ﹁ひ ろ っ た ラ ッ パ ﹂ と い う 佐と支那人 少 には交流 と平和精神 を思わ せる ﹁ 。 げ な い にし ても︶ た と えば は大 いに知 ら れ て いる ので取 り 上 、南吉 アブジの国﹂と使い分け ように、﹁ ているのはどうしてだろうか。 志ん﹂ 南吉は、履物店 の継母 ﹁ が足袋を買 いにきた朝鮮 の女 の子 に優しく声 をかける場面を目撃し たはずだ。 日本帝国主義 による朝 鮮語抹殺と創氏改名 の政策が本格 的に根 を降ろす前 の時期だ ったと しても、日本国内 で暮らす朝鮮 の が南吉に注がれたのは いうまでも ない。 新聞 二〇 一四年八 十七日付︶ 女 の子に朝鮮語で何と いうかと声 月 ﹄ 、﹁ お母 おんま ︵ アブジ﹂ といえども、 ﹁ アブジの国﹂が書か をかけ、 ﹁ れた時は 一九二〇年である。植民 さんご と繰り返すように進める場 地朝鮮から出稼ぎ に来た朝鮮人労 面はあまりにも印象的だ。 働者 の子に ﹁ 国﹂を与える作家 の 佐藤明夫氏 の講演を 主催側は ︵ 視点をどう理解してよいだろうか。 、﹁ 太平洋戦争末期 の半田 含めて︶ 日 アブジ ︵ つまり南吉は、あえて ﹁ と朝鮮人 と いうテー マのもとに ﹂ 本語ではお父さん︶の国﹂と いう 中島飛行機半田製作 学生たちに ﹁ 題目を つけたが、そもそも当時日 、〓 鮮人労働 本 の属国だ った朝鮮を他国とし て 所とは﹂ 任意渡航﹂朝 強制連行朝鮮人青年 者と中島 、 ﹁ ﹂ 日朝青年 の交流と と空襲被害﹂、 ﹁ 帰国﹂など の内容も伝えようとし ただ ろう。けれども、 そのなかみ とは別に新しい発掘 の資料 にイン パクトを感じたためか、私 の関心 となる文学作品は珍し い﹂ 亀中日 (381)号 2月 日本と朝鮮 (愛 知販) 2015年 __J3 ξ:lit l ‘” …・ ■二 tiミ く・ Ⅲ朝鮮王朝の対 日外交 ・ 金 宗 鎮 ・¨ ¨ ¨ 一 ¨ ¨ ¨ ・ 一 ・ ・ , ・ , JI ●:.Ⅲ ・ (381)号 2月 2015年 日本 と朝鮮 (愛 知版 ) ★ 日本 で は 語 られな い、朝鮮史 か ら視 る日・ 朝関係 ★ 朝鮮 王朝と日本の貿易 ︵一︶ 朝 鮮 の 対 明 交 易 一三 九 二 ∼ 一五 九 二 朝鮮の前半期貿易は初期に両国 間の葛藤があり、十五世紀四〇年 代に入 って、平和的にすすめられ た。 初期 に明は朝鮮 に馬、牛、金、 銀 の輸出を強く求めた。約六〇年 間に馬と牛、七三、六〇〇匹が明 に輸出された。 Q朝鮮商業史し 輸入品は稲と木綿である。貿易は 使臣 の往来を通じた使行貿易であ った。 皇帝 すなわち冬至使、聖節使 ︵ 、千秋使 ︵ 皇太子誕生日︶ 誕生日︶ え る ﹁太 平 館 ﹂ に お い て 貿 易 を 行 った 。 明 と の貿 易 は 十 六 世 紀 に 入 り 、 遣 明 使 に商 人 た ち を 参 加 さ せ て私 貿 易 を は って ん さ せ た 。 商 業 資 本 が公 貿 易 に 加 わ る私 貿 易 は新 た な 変 化 であ った 。 そ れ は 次 第 に公 貿 私 貿 易 は密 貿 易 を盛 ん にし た 。 易 を 圧 倒 し て い った 。 ︵ 通 訳 ︶ 。医 員 た ち で あ った 。 遣 明 使 に お け る 私 貿 易 の担 い 手 は 訳官 訳 官 。医 員 た ち は 中 人 階 層 の 者 科 挙 の試 験 に は 両 班 の文 班 と 武 で 、 両 班 の 下 に あ った 。 班 の試 験 の他 に は 中 人 の技 術 官 た ち の試 験 が あ った 。 そ の試 験 に 合 格 し た 訳 官 た ち は 、 外 交 官 僚 の役 割 を果 たし て いた。 彼 等 は 両 班 た ち よ り も 低 い身 分 で あ った が 、 貿 易 に よ って 両 班 た ち よ り も 多 く の財 貨 を 得 る こ と が い た 。 彼 等 は し ば しば 朝 鮮 の辺 境 による三大貿易である。貿易 の形 式 は朝鮮から の礼物、明からの答 礼である。 十五世紀 四〇年代から朝鮮 の朝 貢品は布、人参、皮製品、文房具、 明 高級紙、海東青 ︵ 鷹︶ であり´ からの回賜品は絹織物、磁器、薬 材、書籍であ った。 れ を 抑 え つ け た が 、 一方 で 帰 化 を を侵 した ので、朝鮮 は軍事 力 でそ な く 朝 鮮 の国 境 の内 外 に散 在 し て 女 真 は 統 一国 家 を 形 成 す る こ と 朝 鮮 は 女 真 と の 交 易 も 行 った 。 出来 た。 回賜品以外にも明使は大量の商 品を持ち込み、ソウルの明使を迎 奨励し、来貢す る酋長には官職を あたえ、俸禄を支給した。そして、 進上と回賜の交易を行 った。 ソウルには ﹁ 北平館﹂を置き、 国境 の鏡城と慶源に貿易所を設置 し て、 一般交易 の道を開いた。交 易品は女真から馬と毛皮、朝鮮か らは金銀、芋布、麻布、農具、米、 豆、塩などであ った。 女真人は朝鮮との貿易を通じて 経済的な利を得、技術文化的にも 影響を受けた。 鉄、鉄器 の輸 入によ って女真 の 矢じりは骨から鉄にかえられ、彼 等 の武器 の性能を高めるようにな る。 一方朝鮮は咸鏡道地方 において 商業が発展するようにな った。 朝鮮 の四代王世宗によ つて領土 として拡張されたこの地方に 安定 ″ がもたらされた。 明の事大字小秩序にお いて、朝 鮮 はその序列にお いて最上位に位 置づけられた。 他の国々が二年 一貢、三年 一貢、 五年∼十年 一貢な のに、朝鮮は別 格 の 一年二貢 ︵ 四貢︶ の朝貢であ った。 EU 1444嘔 日本 と朝鮮 (愛 知版 )2015年 2月 (381)号 』 】から 浸画0朝 鮮の歴史 鷺認 霧違』 議畠鎌醤 響露庁展 :型 (昌 引 2星 缶 1443嘔 12 留 )研 │ 二 E101 塾 吾詈 スト く喜 瓢型 詈〉01 〈 喜理型呂〉 8 詈スI墨 壁E留 21フ ト ユ}彎 習留しIE} せ X4に 1無 合 し│● I 〈喜 留碧署 )3 41■ 劇1刈 ユ 早41暑 贅 l 鋏≧ 甚暑 む 暑 天1皇 刈 」二 企 但 包塾 q舎 フ│三 塁 利 0「 讐キ 七 」 ■ LO を似 01暫 阜 呈 重}型 │ =♀ 千1吾 ユ 慰至量 留 し CI ● 2013年 より2次 にわたり愛知朝鮮中高級学校の学生 卒業生が自ら 原告となり朝鮮高校に通う生徒たちに就学支援金が支給されないこと へ の違憲性 違法性を訴えて、国家に賠償を求める裁判 (朝 鮮高校生 就学支援金不支給違憲国家賠償請求訴訟)を 起こしています。 ξ 篇 狙醜 蝙 廷 傍聴を希望される方の抽選を行いますのて 下記時間までに 必ず名古屋地方裁判所正面玄関前辺りにお集まり下さい 永年 の中国と の外交関係、安全保 障上 の重要国であり、か つ明と朝 彎型川 魁 (替 ●I習 彗瞥 )(85週 )= l● フ 人│らキ =,01 1433嘔 を想ヨ 飲合 しlEI =到 1431嘔 αl [ 、天文と数学書 ﹃ 方﹄ 七政算﹄等の 出版と世界最初 の測雨器の発明等 々、民族的文化 の発展をもたらし た。 “ 鮮王朝 はその国家理念を朱子学と していたと ころから、価値観を共 1天 │三 2? あわせて民族文字 ﹃ 訓民正音﹄︵ の ちに ハングルと呼ばれる︶ の創制 にみえる文化的民族主義 の発露 が 増1天 卜 三 ある。 [」 朝貢による平和、交隣 による平 子冒 1479フ 詈 釧 飲 こド 芦フ19卜 和 の秩序 の中、朝鮮王朝はその国 力を充実させた。 g=喬 有す る国家相互 の外交であ った。 │ i笙 L:案 資 四書五経﹄﹃ 朝鮮国王世宗は、﹃ 治通鑑﹄を金属活字によ って出版 し、 これを普及した。朝鮮王朝は 朱子学 の冬至としては、その合理 農業 の 主義によ って、文化 ・学問・ 発展 ょ促進す ることになる。農業 、医薬書 ﹃ 郷薬集成 農事直説﹄ 書 ﹃ 剰 89三 1441日 α,瞥 鬱 i: 香♀ フ1留 し1二 l擦 ∫ :::駐 亀 ぽ すべ ての子どもには 学びへの権利があります ! 霞潜L駐 翻 _52‐ 94071 ■9 いま面白い市民運動の情報誌 ● な く す 会 通 信 ︿陽五七﹀ ︻ 発 行 =在日外国人 の年金差別をなく す会 一一 〇 一五 。一。三〇︼ ○愛知県交渉報告 ︵ 二〇 一四・ 八・ 三二﹀県側 =健康福祉総務課 。障 害福祉課 。高齢福祉課。なくす会 側 =鄭 スコンら九入。愛知県での 外国人無年金問題についての要望。 提出= ﹃ 在 日外国人無年金者 に対 す る特別給付金 の新設及び増額 に ついての要望書﹄ 〇 ︻ 寄稿︼ 日本 の繁栄は何によ っ てもたらされたのか 。 ︰上飯田 信 〇霞裁判に勝利 ・ ︰大西 豊 ほか トトリ︶通信 ︹ ● 工三司 ︵ 朝鮮学 校にも差別な<高校無償化を求め るネ ットワーク愛知 ・会報︺第十 一石3 発行 =同会、編集 =∪SM 二〇 一五年 一月十五日︼ ○ ︻ 名古屋地裁 ・朝鮮高校生就学 支援金違憲国家賠償請求裁判意見 陳述︼ ▽第8回口頭弁論/ 一一 〇 一四 ・ 七 ・二九 ・ ︲ 認螢苗番号九番﹂ ▽第9回口頭弁論/ 一一 〇 一四 ・ 十 ・七 ・ ︰﹁ 原告番号十番﹂ ○第9回口頭弁論のご報告 ⋮表明玉 ︵ 弁護団事務局長︶ ○ ︻ 突撃 インタピ ュl③︼桂純士 ○ ︻ リレー エッセー︼命 の根 っこ を守る権利 ・ ︰佐 々木陽子 〇他地域での無償化裁判 の状況 ⋮村上 敏 ︵ 民族教育 の未来を 考える 。ネ ットワーク広島︶ ○朝鮮高校無償化ネ ット ︿ 無償化 デー﹀報告 ほか ◆ 内容 2015年 2月 (381)号 (愛 知版) 〇データ ﹃ 平成 二五年度 ︵ 愛知県 下︶市町村単独事業 外国人手当等 支給状況調 べ﹄ 〇合同会社 ﹁ スヨンの輪﹂設立 ● あ る す の会 ニ ュー ス ︵ 一δ 一五■ ・一〇 発行日滞日アジ ア人 労働者と共に生きる会・ 事務局=名 古屋市中村区那古野︶ ○ある中国人家族との交流 ⋮大西 豊 日本と朝鮮 「勤 労 挺 身 隊 ハ ルモニ と共 にする市 民 の会 」 と の 学 習・ 交 流 会 の お 知 ら せ : ① 光 州 高 等 法院 (高 等 裁 判 所 )の 10月 判 決 が 、 昨年 未 だ に 出 て い ませ ん 。 に は 出 され る 見 込 み で した が 、 ② 司 法 に も大 き な影 響 を与 え て ぃ るで あ ろ パ う ク クネ 政 権 下 で 、 韓 国 の政 治 状 況 は ど うな っ て い る か 。 上 記 2点 に つ い て 光 州 に 拠 点 を お く 「勤 労 挺 身 隊 ハ ル モ ニ と 共 に す る 市 民 の 会 」 の 弁 護 士 、 代 表 か ら報 告 を うけ 、 今 後 の 運 動 の 方 向性 につ い て討 論 します 。 ◆ 日日 寺 ● 表 工 =三鴻 雅 子 ◆場所 3月 7日 国鉄 会館 (土 )開 7階 場 13:Oo 開 会 13:30∼ 閉 会 17:30 :桜 。梅 の 間 (42名 ) 中 村 区 椿 HI1 20_15 噺 幹 線 日 か 25徒 歩 3分 ) 地 図 は ネ ッ トで 簡 単 に 検 索 で き ま す 。 ・ ◆参加 者 ・ 韓 国 「市 民 の 会 」 か ら 李 國彦 :李 尚 (常 任 共 同 代 表 )、 甲 (弁 護 士 金 正 勲 )、 金 正 熙 (共 同 代 表 〈電 話 〉 o52-452-0618 (弁 護 士 )、 金 善浩 (顧 問 )、 ) ・「 名 古 屋 訴 訟 弁 護 団 」 か ら :内 河 恵 一 、 長 谷 川 ― 裕 、 高 木 輝 雄 、 (岩 月 浩 二 ) ・ 「 名 古 屋 支 援 会 」 か ら :ス タ ッフ 、会 員 ◆ 通 訳 :李 在 錆 (Yi Jae Yong)さ ん 名 古 屋 大 学 文 学 研 究 科 日本 語 学 博 士 課 程 緩鉾 姜 1 0 薔日 2 , I驚ダ恣蠍謝勲 彙 督 郵饒動爾顧畷鶴
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